Title 後期マムルーク朝有力官僚の実像 - researchmap

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Title 後期マムルーク朝有力官僚の実像 : ザイン・アッ = ディーン・イブン・ムズヒルの家系と経歴 Author 太田(塚田), 絵里奈(Ota(Tsukada), Erina) Publisher 三田史学会 Jtitle 史学 (The historical science). Vol.83, No.2/3 (2014. 7) ,p.37(163)- 81(207) Abstract Genre Journal Article URL http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-20140700 -0037 Powered by TCPDF (www.tcpdf.org)

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Title 後期マムルーク朝有力官僚の実像 : ザイン・アッ = ディーン・イブン・ムズヒルの家系と経歴Author 太田(塚田), 絵里奈(Ota(Tsukada), Erina)

Publisher 三田史学会Jtitle 史学 (The historical science). Vol.83, No.2/3 (2014. 7) ,p.37(163)- 81(207)

AbstractGenre Journal ArticleURL http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-20140700

-0037

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後期マムルーク朝有力官僚の実像

││ザイン・アッ�ディーン・イブン・ムズヒルの家系と経歴││

太田(塚田)絵里奈

Ⅰ�はじめに

マムルーク朝体制下で「官庁職(al-w

aza’ifal-

dıwaniyya

)」と呼ばれた行政に携わる諸職の担い手は、

近年の研究では「官僚(bureaucrat)」と総称されるこ

とが多い。「剣の人(arbab

al-suyuf

)」「筆の人(arbab

al-aqlam

)」という呼称で示される軍人と非軍人の区分

とは異なり、大カーディーを筆頭とする「宗教職(al-

waza’if

al-dıniyya

)」と同様、「官庁職」には軍人と文民

のいずれかに限定される職位とともに、その双方が就任

し得た職位が包含される(1)。

マムルーク朝期の行政機構や官僚制をめぐっては、ペ

トリー(2)、マルテル�トゥミアン(3)によって、優れた総合的

研究がなされている。ペトリーはカイロの「文民エリー

ト(civilian

elite (4))」に着目し、中央政府の「官庁職」並

びに「宗教職」に就任した人々の出身地や居住パターン、

要職への就任傾向を統計的に分析した。マルテル�トゥ

ミアンは官僚名家の系譜とその構成員の経歴から、各職

掌の概要、諸職の就任状況、婚姻等に基づく各名家間の

関係を明らかにし、一五世紀マムルーク朝における文民

官僚の全体像の提示を試みた。

また、それぞれ若干時代は異なるものの、ハーッス庁

・・

(私財庁、dıw

anal-khass

)についてはリトル(5)、ザヒーラ

庁(dıw

anal-dhakhıra

)、ムフラド庁(独立官庁、dıw

an

al-mufrad

)については五十嵐大介(6)、ワズィール庁(dıw

an

al-wizara

)及びワズィール職についてはアブドゥッラー

ズィク(7)と湯川武(8)によりディーワーンの成立過程や職務、

各長官の経歴等が詳論されており、マムルーク朝諸官庁

後期マムルーク朝有力官僚の実像

三七(一六三)

の構造については次第に明らかとなりつつある。

他方、官僚個人に関しては、中央のディーワーンに勤

務した官僚についても、アミールの「ハウスホールド」

を構成した官僚についても、その実態は十分に理解され

ておらず、マムルーク朝時代のコプト教徒官僚を論じた

リチャーズは、官僚像の総合的解明に向け、年代記や伝

記集に基づいたキャリア研究の重要性を指摘している(9)。

軍人のキャリア研究としては、すでにモーテル(10)、バーキ

ー(11)、長谷部史彦(12)、五十嵐大介(13)らによって高位マムルーク

の生涯の再構成を通じた同時代社会像が提示されており、

「文民エリート」研究においても同様の手法を取り入れ

る必要があろう。後期マムルーク朝のダマスクスにおけ

る官僚制度を概観したウィンターは、当時の政治におけ

る流動性や個人性を考慮すれば、地位やその職の機能が

いかなるものであったかという以上に、個人と権力との

関係が大きな意味を持ち得たと述べている(14)。官僚組織や

各職掌に関する議論が充実しつつある現在、文民官僚個

人の経歴や人間関係を精査し、同時代の社会に定位して

いく作業が求められよう(15)。

本研究では後期マムルーク朝で活躍した文民官僚、ザ

イン・アッ�ディーン・アブー・バクル・イブン・ムズ

ヒルZayn

al-Dın

Abu

Bakr

ibnM

uhamm

adibn

Muzhir

al-Qahirıal-D

imashqıal-A

nsarıal-Shafi‘ı

(八三一〜八九

三/一四二八〜一四八八年)に着目する。ムズヒル家は

四世代にわたり有力書記を輩出したシャーフィイー派の

官僚名家であった。ザイン・アッ�ディーン自身はエジ

プトのナーズィル・アル�イスタブル(スルターン厩舎

監督官、nazir

al-istabl

)、ナーズィル・アル�ジャイシ

ュ(軍務庁長官、nazir

al-jaysh

)など国家の要職を歴任

し、父親と同様に書記官僚の頂点に位置するカーティ

ブ・アッ�スィッル(文書庁長官、katib

al-sirr

)に登用

された後は九、四九六日間(16)という類を見ない程の長期に

わたり同職を保持した人物であった(17)。

カーティブ・アッ�スィッルは「文書庁長官」や「秘

書長」などと訳し得るが、その職掌は極めて多岐にわた

っていた(18)。その職務としてまず、公文書、とりわけスル

ターンの勅書や外交文書などの重要文書の起草、作成を

担い、書記たちを統括することが挙げられる。また、諸

外国への書簡の送付と駅伝制の監督も重要な任務であっ

たが、このことは当職の担い手が国家機密に深く関与す

ることを意味していた(19)。

ザイン・アッ�ディーンの活躍したイーナール期(一

第八三巻

第二・三号

三八(一六四)

四五三〜一四六一年)からカーイトバーイ期(一四六八

〜一四九六年)にかけての時代は、オスマン朝をはじめ

とする周辺諸国に対する戦費の増大によって国庫が逼迫

し、官職の任免をめぐっては贈収賄が横行し、国庫補填

のための財産没収が慣例化していた(20)。そのような状況下

で初めて中央の官職に就いた八五七/一四五三年以降、

歿するまでの三五年間で六名のスルターンに仕え、とり

わけ長期政権を築いたカーイトバーイの側近として王国

の運営を担ったザイン・アッ�ディーンは、稀有な例で

あったといえる。

ザイン・アッ�ディーンが二六年間にわたって統括し

た文書庁における書記職は他の官庁職に比して高度に専

門化されていた。先行研究は文書庁発行の文書に依拠し

たものと、文書庁に勤務した書記及び彼らの手になる行

政マニュアルに関する研究に分類される(21)。後者では『バ

イバルス伝Sırat

al-

Sultanal-M

alikal-

ZahirB

aybars』

など三名のスルターンの伝記を著したイブン・アブド・

アッ�ザーヒルM

uhyıal-Dın

‘Abdullah

ibn‘A

bdal-Zahir

(六二〇〜六九二/一二二三〜一二九二年)、あるいは公

文書作成技術(kitabat

al-insha’

)を記したイブン・ファ

ドルッラーShihab

al-Dın

Ahm

adibn

FadlAllah

al-‘Um

arı

(七〇〇〜七四九/一三〇一〜一三四九年)、ヌワイリー

Shihabal-D

ınA

hmad

al-Nuw

ayrı

(六七七〜七三三/一

二七九〜一三三三年)、カルカシャンディーShihab

al-

Dın

Ahm

adal-Q

alqashandı

(八二一/一四一八年歿)の

三者がよく知られているが(22)、マムルーク朝期の書記研究

は総じてこの「書記(官僚)の教養(adab

al-katib

)」と

呼ばれる文学ジャンルに属する行政指南書を残した人々

に集中しており、ザイン・アッ�ディーンのような著述

活動を行なわなかった書記に対しては十分な注意が払わ

れてこなかった。

一五世紀後半のマムルーク朝において書記の第一人者

として名高い人物のライフヒストリーと人物像を明らか

にし、彼の生涯を通じて垣間見える同時代の諸問題を照

射すること、そしてなぜザイン・アッ�ディーンが長期

間にわたり要職を保持できたのかを検討することは、官

僚及び書記研究のみならず、当該期の社会や政治を考え

る上での有効な視座をも提供し得るのではないかと思わ

れる。

ザイン・アッ�ディーン及びムズヒル家に関しては、

前掲のマルテル�トゥミアンによる研究のなかで、官僚

名家の一家系としてムズヒル家に属する人々の経歴が主

後期マムルーク朝有力官僚の実像

三九(一六五)

に年代記、伝記集史料に依拠して全般的に記述されてい

るものの、個々の事件や人物の内面に踏み込んだ研究で

はないうえ、史料の引用、人物、年代の比定などに誤り

が散見される(23)。ザイン・アッ�ディーンがカイロに建設

したムズヒリーヤ学院al-M

uzhiriyya

をイスラーム建築

学の視点から分析したリズクの研究では、冒頭でザイ

ン・アッ�ディーンの経歴が簡略に述べられているもの

の、部分的言及にとどまっている(24)。

当時要職への登用は基本的に何よりも推薦が有効なた

め、個人的資質のみならず、政府内での人脈や強固な

「ハウスホールド」、とりわけ経済力が重要であった(25)。そ

のため本稿はシリアの地方名家であったムズヒル家がい

かにしてカイロに進出し、蓄財と同族登用によって地歩

を固めたかを時系列的に提示することから始める。ムズ

ヒル家はザイン・アッ�ディーンを含めダマスクス、カ

イロで六名のカーティブ・アッ�スィッルを誕生させて

おり、特に父バドル・アッ�ディーンのカーティブ・ア

ッ�スィッル就任に至るまでの経緯に関しては史料から

詳細な言及が得られることから、彼らの経歴を精査する

ことで垣間見える当該時期のカーティブ・アッ�スィッ

ルの職掌や叙任をめぐる諸状況についても併せて検討す

る。その上で、カーティブ・アッ�スィッル就任までの

ザイン・アッ�ディーンの経歴を詳らかにし、具体的な

考察を加えることにしたい。

Ⅱ�ムズヒル家の概要

1�シリアの地方名家として

それではまず史料中にムズヒル家の構成員として言及

される人物を整理していこう。付録の系図に示されると

おり、ムズヒル家には同一のラカブとイスムで知られる

人物が複数存在するため、本稿では「祖父」、「父」、「息

子」など、ザイン・アッ�ディーンとの関係を明記する

ことで区別する。

ムズヒル家に属する人々のなかで最も古い記述が得ら

れる人物は、実はザイン・アッ�ディーンの直系ではな

い。六二八/一二三〇―三一年にナーブルスで誕生した

とされる、シャラフ・アッ�ディーン・ヤアクーブSharaf

al-Dın

Ya‘qub

ibnM

ajdal-D

ınM

uzaffaribn

Ahm

ad

が管

見の限り最も早く史料で確認され、個人の特定が可能な

人物である(26)。彼は地方における文民行政官として出世、

社会的成功を収め、六八二/一二八三年にシリアのナー

ズィル職(nazar

al-Sham

)に就任し(27)、七一四/一三一

第八三巻

第二・三号

四〇(一六六)

四年にアレッポで歿した(28)際には、同地のナーズィルであ

ったことが確認される(29)。そして、その兄弟としてバール

バックでカーティブ(書記、katib

)、続いてナーズィル

を務めたファフル・アッ�ディーン・アフマドFakhr

al-Dın

Ahm

ad(七〇三/一三〇三―〇四年歿)がいる(30)。

この二人に関し、大部な名士伝記集で知られるサハーウ

ィーSham

sal-D

ınM

uhamm

adal-Sakhaw

ı

(八三〇〜九

〇二/一四二七〜一四九七年)はザイン・アッ�ディー

ンから直接得た情報に基づき「父方のおじの一族(m

in

banı‘amm

i-him

)」と位置づけており(31)、傍系の一族であ

ったことが示されている。ハラム文書no.501

(七八

四/一三八二年付)には「ナーブルスのムズヒル家」に

属する人物が遺産相続をめぐって証言したことが記され

ており(32)、この人物も前述のファフル・アッ�ディーンや

シャラフ・アッ�ディーンに連なる位置付けにあるとみ

てよいかもしれない。

ここで注目に値するのは、彼らがナーブルスに出自を

持つと伝えられる点である。先行研究ではムズヒル家は

ダマスクスの名家という理解が大勢を占めているが(33)、ザ

イン・アッ�ディーンの父バドル・アッ�ディーンがナ

ーブルスでの居住歴がないにもかかわらず「ナーブルス

ィーal-N

abulsı

」というニスバでも言及されることは注

意を要する(34)。また、詳しくは後述するが、ザイン・ア

ッ�ディーンがナーズィル・アル�ジャイシュ職就任の

際、ナーブルスで彼のダワーダール(官房長、daw

a-

dar

)を務めていた人物を通じて莫大な資金を用立てた

という記述も存在する(35)。ムズヒル家がザイン・アッ�デ

ィーンの時代になってもナーブルスに一族の拠点を有し、

相当額の資産を管理していたことは確かであり、一族が

ダマスクスに活躍の場を移す以前にナーブルスに拠点を

置いていた可能性は排除し得ないのである。

サハーウィーの記述に従えば、上記のファフル・ア

ッ�ディーン、シャラフ・アッ�ディーン以外にも、

「ムズヒル」の家名を持つ人物として、イブン・アラビ

ー論争で証言を行なったとされるイマード・アッ�ディ

ーン‘Im

adal-D

ın (36)、シハーブ・アッ�ディーン・アフマ

ド・イブン・ムハンマド・イブン・アブー・アル�ファ

ラジュShihab

al-Dın

Ahm

adibn

Muham

mad

ibnA

bual-

Faraj

という人物が存在するが、後者のニスバはイスラ

ーム初期の英雄的指揮官ハーリド・イブン・アル�ワリ

ードK

halidibn

al-Walıd

(六四一年頃歿)と同じマフズ

ーミー家al-M

akhzumı

に由来するものであり、アンサ

後期マムルーク朝有力官僚の実像

四一(一六七)

ーリーであるムズヒル家との関係は明らかでない(37)。それ

とは別に、ビカーイーB

urhanal-D

ınIbrahım

al-Biqa‘ı

(八八五/一四八〇年歿)の名士伝記集にはシハーブ・

アッ�ディーン・ムハンマド・イブン・ムズヒルShihab

al-Dın

Abu

Bakr

Muham

mad

ibn‘U

thman

ibnM

uzhir

る名前が見出される(38)。この人物はアンサーリーとされて

いるものの、それ以上の情報は得られず、現段階では彼

の系図上の位置は不明である。

ザイン・アッ�ディーンの直系親族として最も古い言

及が得られるのは高祖父のシハーブ・アッ�ディーン・

アブー・アブドゥッラー・ムハンマドShihab

al-Dın

Abu

‘Abdullah

Muham

mad

(六九〇/一二九一年歿)である。

彼はシャーフィイー派イマームの一人でクルアーン読誦

者の名士(a‘yan

al-qurra’

)として位置づけられている(39)。

六九〇年のラジャブ月/一二九一年六―七月に亡くなっ

た(40)。その息子、すなわちザイン・アッ�ディーンにとっ

ての曽祖父はアフマドという名であったが、詳しい経歴

は分かっていない。彼にはシャムス・アッ�ディーン・

ムハンマドSham

sal-D

ınM

uhamm

ad

(七八一/一三八

〇年歿)とバドル・アッ�ディーン・ムハンマドB

adr

al-Dın

Muham

mad

(七九三/一三九一年歿)という二

人の息子がおり、バドル・アッ�ディーンがザイン・ア

ッ�ディーンの祖父にあたる。シャムス・アッ�ディー

ンはダマスクスのムワッキウ(書記、m

uwaqqi‘

(41))の一

人で、ワキール・バイト・アル�マール(国庫代理人、

wakılbayt

al-mal

)を務めていた(42)。

祖父バドル・アッ�ディーンはダマスクスのカーティ

ブ・アッ�スィッルを二度務めた人物で、シャーミー

ヤ・バッラーニーヤ学院al-Sham

iyyaal-B

arraniyya

で教

鞭も執った(43)。興味深いのは、七八四年ズー・アル�カア

ダ月/一三八三年一―二月に彼が再びダマスクスのカー

ティブ・アッ�スィッルに任命された際の記述である。

それによれば、当初前任者のイブン・アッ�シャヒード

Fathal-D

ınM

uhamm

adibn

al-Shahıd

(七九三/一三九

一年歿)に代わり、カーティブ・アッ�スィッルにはイ

ブン・ミンハールZayn

al-Dın

‘Um

aribn

Minhal

(七九

〇/一三八八年歿)が就任していたものの、任命に際し

て課された金額が支払えず、代わって祖父バドル・ア

ッ�ディーンが就任したとされる(44)。この段階ですでにム

ズヒル家が潤沢な資産を保有していたことは注目に値し

よう。

七九三/一三九一年に祖父バドル・アッ�ディーンが

第八三巻

第二・三号

四二(一六八)

歿したことを受け、彼の遺児たちがエルサレムのシャー

フィイー派カーディーであったハズラジーSharaf

al-Dın

‘Isaal-K

hazrajı

(七九七/一三九五年歿)のもとで遺産

の売却許可を求める内容の法廷文書(七九三年ズー・ア

ル�カアダ月一一日/一三九一年一〇月一〇日付)が残

されている。それによれば、遺児たちは祖父バドル・ア

ッ�ディーンの遺産のうち、四人の少女奴隷(jaw

ar

と一人のマムルーク、騾馬を養うだけの経済的余裕がな

いため、それらの売却を希望した。動産を売却すること

・・

が残された子供たちの利益(m

aslaha

)に適うという六

名の証人による証言を根拠とし、ハズラジーは売却を許

可する旨の判断を下している(45)。

祖父バドル・アッ�ディーンの遺児には、少なくとも

ザイン・アッ�ディーンの父であるバドル・アッ�ディ

ーン・ムハンマドと一人の娘がいた。祖父バドル・ア

ッ�ディーンが死亡した際、父バドル・アッ�ディーン

は僅か七歳であり、おじにあたるシャムス・アッ�ディ

ーンもすでに死亡していることから、上記の文書が示す

とおり、彼の遺児たちは一時的にせよ経済的に困窮した

可能性もある。父バドル・アッ�ディーンの姉/妹は後

にダマスクスのカーティブ・アッ�スィッルに就任する

ムフィー・アッ�ディーン・アフマド・アル�マダニー

Muhyıal-D

ınA

hmad

al-Madanı

(八二〇/一四一七年

歿)と結婚しており、彼が幼少のバドル・アッ�ディー

ンの養育を担ったと伝えられる(46)。

初等教育を終えた父バドル・アッ�ディーンは、マダ

ニーのもと、ダマスクスの文書庁でムワッキウを務める

こととなった(47)。ここでバドル・アッ�ディーンにとって

幸運だったのは、当時ダマスクス総督の地位にあった後

のスルターン、ムアイヤド・シャイフ(在位一四一二

〜一四二一年)の知遇を得たことであった(48)。そしてスル

ターン・ファラジュが殺害された後、遠征軍とともにカ

イロに出発するシャイフに随行し、シャイフがスルター

ンに即位すると同時にナーズィル・アル�イスタブルに

抜擢されたのである(49)。

2�中央の官職への進出

上述のとおり、シリアの地方名家であったムズヒル家

は父バドル・アッ�ディーンの時代からカイロに進出す

ることとなったが、ダマスクスにも一族の拠点を維持し、

特に官職の任免において影響力を行使し続けたことがう

かがわれる。例えば、ダマスクスのムワッキウで父バド

後期マムルーク朝有力官僚の実像

四三(一六九)

ル・アッ�ディーンの代理を務めたイブン・アフタキー

ンTajal-D

ın‘A

bdal-W

ahhabibn

Aftakın

(八三六/一四

三三年歿)は、八三六年サファル月/一四三二年九―一

〇月、ダマスクスのカーティブ・アッ�スィッルに就任

している(50)。また、マムルーク朝末期シリアのウラマー名

家・フルフール家のシハーブ・アッ�ディーンShihab

al-Dın

Ahm

adibn

al-Furfur

(九一一/一五〇五年歿)は

父シャラフ・アッ�ディーンSharaf

al-Dın

Mahm

ud

(八七一/一四六七年歿)とともにダマスクスでザイ

ン・アッ�ディーンに仕え(51)、親子二代にわたるムズヒル

家との親交と三〇、〇〇〇ディーナールという巨額の賄

賂によって、ダマスクスの大カーディー職を手にした。

後にスルターン側近となったザイン・アッ�ディーンは

要職の任命に際して独立した権限を行使するようになり、

三浦によればダマスクスのカーディーは通常彼の事務所

に勤務した者のなかから選出されたという(52)。

ところで、シャイフとともにダマスクスからカイロに

移住した人々のなかには、前述のマダニー、後にカーテ

ィブ・アッ�スィッルに任命されるアラム・アッ�ディ

ーン・イブン・アル�クワイズ‘A

lamal-D

ınD

a‘udibn

al-Kuw

ayz

(八二六/一四二二年歿)とナースィル・ア

ッ�ディーン・アル�バーリズィーN

asiral-D

ınM

uham-

mad

al-Barizı

(七六九〜八二三/一三六八〜一四二〇

年(53))、ナーズィル・アル�ジャイシュを務めることにな

るザイン・アッ�ディーン・アブドゥル�バースィト

Zaynal-D

ın‘A

bdal-B

asit

(八五四/一四五〇年歿)の姿

もあった(54)。シャイフはダマスクス総督時代からの側近を

カイロでも重用したのである。スルターンたちはカイロ

に権力基盤を持たないシリア出身者を好んでカーティ

ブ・アッ�スィッルに登用したとペトリーは述べている(55)。

この「ダマスクスからの移住組」は幼少のザイン・ア

ッ�ディーンの後見人を務め、彼の初期のキャリアにお

いて重要な役割を果たすことになる。

カイロでの父バドル・アッ�ディーンは当初ナースィ

ル・アッ�ディーン・アル�バーリズィーのもとでダス

トの書記(m

uwaqqi‘al-dast

)を務めた(56)。八二三年シャ

ウワール月/一四二〇年一〇月にはバーリズィーの息子

カマール・アッ�ディーンK

amalal-D

ınM

uhamm

ad(七九六〜八五六/一三九四〜一四五二年)がカーティ

ブ・アッ�スィッルに就任したが、当時カマール・ア

ッ�ディーンはおよそ二七歳と若年で、バドル・アッ�

ディーンが彼の副カーティブ・アッ�スィッルとして実

第八三巻

第二・三号

四四(一七〇)

務を取り仕切った(57)。その後前述のイブン・アル�クワイ

ズ、カラキーJam

alal-Dın

Yusuf

al-Karakı

(八五六/一

四五二年歿)、ハラウィーSham

sal-D

ınM

uhamm

adal-

Haraw

ı(七六七〜八二九/一三六五―六六〜一四二六

年)、ナジュム・アッ�ディーン・ウマル・イブン・ア

ル�ヒッジーN

ajmal-D

ın‘U

mar

ibnal-H

ijjı

(八三〇/

一四二七年歿)が相次いでカーティブ・アッ�スィッル

に就任する間、バドル・アッ�ディーンは継続して副官

を務めている。

諸史料の記述を総合すると、この間、実質的なカーテ

ィブ・アッ�スィッルの職責を担っていたのがバドル・

アッ�ディーンであったことは明らかである。この時期

のカーティブ・アッ�スィッルに関する諸情報は、同職

の職掌と行政上の位置付け、そしてバドル・アッ�ディ

ーンが「カーティブ・アッ�スィッルの代理人(khalıfat

katibal-sirr

(58))」と呼ばれた要因を具体的に検討する上で

重要であるため、ここで少し詳しく見ておこう。

八二四年ムハッラム月/一四二一年二月、傀儡のスル

・・

ターンを擁立した大アミールのタタルT

atar

(八二四/

一四二一年歿)によってイブン・アル�クワイズがカー

ティブ・アッ�スィッルに任命されたが、これについて

マクリーズィーは「弓が射手ではない者に与えられ、諸

事がそれに相応しくない者に委ねられた」と評している(59)。

この言及について、同じく歴史家のイブン・タグリー・

ビルディーJam

alal-Dın

Yusuf

ibnT

aghrıBirdı

(八一三

〜八七四/一四一〇〜一四七〇年)は、カーティブ・ア

ッ�スィッルという重責を担う者は、法学、文法、詩、

韻文、公文書及び書簡作成術を自在に操り、歴史や先人

たちの行動に関する広範な知識に精通する必要があるこ

とを示唆したものと解説を加えている(60)。この記述はカー

ティブ・アッ�スィッルの必須教養をよく表わしている

と同時に、不適格者の就任を痛烈に批判していると解釈

できる。

続いて八二六年シャウワール月一〇日/一四二三年九

月一五日にはカラキーがイブン・アル�クワイズに代わ

ってエジプトのカーティブ・アッ�スィッルに任命され

た。彼の父はカラクのキリスト教徒で、イブン・アル�

クワイズの父とともにイスラームに改宗した。シャイフ

の時代、イブン・アル�クワイズが彼にトリポリのナー

ズィル・アル�ジャイシュ職を斡旋したことを契機に裕

福となり、イブン・アル�クワイズの死後、巨額の賄賂

によってカーティブ・アッ�スィッル職を手にしたが(61)、

後期マムルーク朝有力官僚の実像

四五(一七一)

イブン・タグリー・ビルディーは彼の任命を以下のよう

に批判している。

この無知な者をこのような高位に登用したことは、

アシュラフ王﹇バルスバーイ、在位一四二二〜一四

三八年﹈の誤りの一つである。もしアシュラフ王が

賢明で分別があったなら、遠方の統治者から優美で

雄弁な散文や詩を織り交ぜた書簡を受け取った際に

は、自身のカーティブ・アッ�スィッルにそれを凌

駕するような、少なくともそれに匹敵するような返

答を起草させんと欲するだろうし…﹇中略﹈…この地

位に就いた者﹇カラキー﹈の欠点に気づき、彼の統

治における欠陥や弱点が露見しないよう、即座に彼

を解任して有能な者を任命するだろう。諺にあると

おり、王の明敏さと偉大さとは、書簡、使節、贈答

品という三要素から推し量られるのだから。これこ

そが誇り高く野心的な諸王の道なのだ。だがそれと

反対の者は、賄賂さえ渡せば瓜畑の見張りだろうと、

誰だろうと登用してしまう。…﹇中略﹈…人々は富を

蓄積することに奔走した。というのも、彼らは知識

ではなく、﹇賄賂を﹈与えることに優れた者こそが

地位を得られることを知っていたからである(62)。

この記述からまず読み取れるのは、王権を諸外国に知

らしめる上で、詩や韻文を駆使した技巧的な書簡を作成

できる有能なカーティブ・アッ�スィッルを登用するこ

とは不可欠であったという点である。カーティブ・ア

ッ�スィッルは外交上も非常に重要な役割を担っていた

といえよう。だが実際には能力よりも賄賂や高額の叙任

料の支払いによって地位を獲得する例が相次いだため、

副官に書記としての技術に長じた人物を任命することで、

実務能力の欠如を補っていたと考えられる(63)。カラキーの

後に就任したハラウィーにしても、書簡や訴状を読み上

げることができず、御前会議に出席はするものの、実際

の読み上げを行なっていたのは副官のバドル・アッ�デ

ィーンであった(64)。

ハラウィーに続いてカーティブ・アッ�スィッルに就

任したナジュム・アッ�ディーン・イブン・アル�ヒッ

ジーは法学に通じ、すでにハマー、トリポリ、ダマスク

スでカーディーを歴任していた(65)。だが、ダマスクスにお

いてバドル・アッ�ディーンとの関係が良好であったと

はみえない。イブン・アル�ヒッジーに敵意を抱いたダ

マスクス総督のタンバク・ミークT

anbak‘A

la’ıMıq

(八

二六/一四二三年歿)が、アラム・アッ�ディーン・イ

第八三巻

第二・三号

四六(一七二)

ブン・アル�クワイズ、アブドゥル�バースィト、バド

ル・アッ�ディーンらに対し、イブン・アル�ヒッジー

は彼らをシャイフ期に出世した成り上がり者と見下して

いると発言し、双方の阻隔を計った結果、八二六年ラジ

ャブ月/一四二三年六月にイブン・アル�ヒッジーはダ

マスクスの大カーディーを解任されたと伝えられる(66)。

イブン・アル�ヒッジーは叙任に際してスルターンか

ら一〇、〇〇〇ディーナールの支払いを課されており、

在任期間中、すでに王室宝物庫(al-khizana

al-sharıfa

に五、〇〇〇ディーナールを収めていたが、スルターン

は残る額の支払いを要求した。イブン・アル�ヒッジー

は毎年一、五〇〇ディーナールを支払うことで合意して

いるとして、さらに他のアミールらに対する支払いも含

めた金額の明細を作成したものの受け入れられず(67)、投獄

された(68)。

八二八年ジュマーダー・アル�アーヒラ月/一四二五

年五月、ついに父バドル・アッ�ディーンはカーティ

ブ・アッ�スィッルに就任した(69)。イブン・アル�ヒッジ

ーが任命の対価として課された巨額の支払いをめぐって

失脚していることから、父バドル・アッ�ディーンも叙

任や職の維持に相当な金額を要し、投資金額の回収を急

いだことは想像に難くない。イブン・ハジャル・アル�ア

スカラーニーShihab

al-Dın

Ahm

adibn

Hajar

al-‘Asqalanı

(七七三〜八五二/一三七二〜一四四九年)によれば、

父バドル・アッ�ディーンは非常に雄弁で、現世の諸事

に通じていたものの、来世の諸事に関する知識は持ち合

わせておらず、彼の最も大きな関心事とは蓄財であり、

在任中に約二〇〇、〇〇〇ディーナールを手にしたという(70)。

またマクリーズィーもバドル・アッ�ディーンが醜悪な

方法で蓄財をし、吝嗇で、理性と伝統の諸学問(al-‘ulum

al-‘aqliyyaw

a’l-naqliyya

)からはほど遠い人物であると記

述している(71)。他方、サハーウィーの伝記記述では、彼が

ウラマーと親交を結び、聖者に篤い崇敬(i‘tiqad

)を寄

せる敬虔な人物として描かれている。彼は同時代の聖者

で説教師としても名高いアフマド・アッ�ザーヒドShi-

habal-D

ınA

hmad

ibnM

uhamm

adal-Zahid (

72)(八一九/一

・・

四一六年歿)に対し、格別の配慮(ikhtisas

)を与えて

いたという(73)。

バドル・アッ�ディーンは権勢を極めたものの、八三

二年ラビーウ・アル�アーヒラ月の初旬/一四二九年一

月、扁桃炎を発症し、吐血するようになった。複数の医

者が付き添って治療と投薬を行なったが鼻血が止まらず、

後期マムルーク朝有力官僚の実像

四七(一七三)

様々な合併症を併発して同年ジュマーダー・アル�アー

ヒラ月の下旬/一四二九年三―四月、およそ五〇歳で死

亡し、自らが建設したサフラー地区の墓に埋葬された(74)。

彼の壮絶な臨終の様子から、毒殺を疑う声もあった(75)。

バドル・アッ�ディーンには少なくとも三人の息子と

一人の娘がおり、彼の財産のうち、エジプト及びシリア

に購入した不動産はその子孫に残された(76)。八三二年ラジ

ャブ月/一四二九年四月、年長のジャラール・アッ�デ

ィーン・ムハンマドJalalal-D

ınM

uhamm

ad

(八一四

〜八三三/一四一一―一二〜一四三〇年)、すなわちザ

イン・アッ�ディーンの異母兄がカーティブ・アッ�ス

ィッル職を世襲し、父親のラカブであるバドル・アッ�

ディーンを名乗った(77)。ジャラール・アッ�ディーンは秀

才の誉れ高く、当代きっての美男子と謳われ(78)、その高貴

な出自と併せて世間の耳目を集めた。イブン・ハジャル

は彼へのイジャーザに「栄光が芽吹くのはすべて良い土

地である(kullm

akanyunbit

al-‘izztayyib (

79))」と記し、彼

の資質と家柄双方に賛辞を送っている(80)。しかし、カーテ

ィブ・アッ�スィッル就任当時の彼は二〇歳に満たない

若者だったため、文書庁のムワッキウとして豊富な実務

経験を持つシャラフ・アッ�ディーン・イブン・アル�

アシュカルSharaf

al-Dın

Abu

Bakr

ibnal-A

shqar

(八四

四/一四四一年歿)が副官に任命された(81)。

ジャラール・アッ�ディーンはカーティブ・アッ�ス

ィッル就任の際、スルターン・バルスバーイによって父

の遺産から九〇、〇〇〇ディーナールとも一〇〇、〇〇〇

ディーナールともいわれる叙任料を要求され(82)、「商業用

の品々(bada’i‘li’l-m

atjar

)、蔵書、衣服、馬、駱駝、奴

隷(raqıq

)の売却に着手し(83)」、課せられた金額を捻出し

た。この売却資産の内訳は、当時のムズヒル家が商業に

携わっていた可能性を示唆している。リチャーズはマム

ルーク朝期に国際商業を展開した「商人カーティブ」の

具体例を挙げ、職の維持やスルターンからの資金提供の

要請に応じるため、マムルークのみならず官僚の間でも

商業に従事する傾向が確認されることを指摘している(84)。

イブン・アル�ヒッジーがカーティブ・アッ�スィッル

就任時に課せられた一〇、〇〇〇ディーナールを支払え

ずに解任された経緯を考慮すると、その一〇倍にあたる

叙任料がいかに高額であったかは明らかであるが(85)、ムズ

ヒル家がそれに応じられるだけの資産を父バドル・ア

ッ�ディーンの代に蓄えていた証左ともいえる。

だが、多額の資金提供も功を奏さず、就任から僅か一

第八三巻

第二・三号

四八(一七四)

五五日後の八三二年ズー・アル�ヒッジャ月一五日/一

四二九年九月一四日、ジャラール・アッ�ディーンはカ

ーティブ・アッ�スィッルを解任されてしまう(86)。翌日バ

ルスバーイの息子であるナースィル・アッ�ディーン

・N

asiral-D

ınM

uhamm

ad

(八三三/一四三〇年歿)のム

ワッキウに任命されるが(87)、ペストに罹患し、八三三年ラ

ジャブ月/一四三〇年四月に死亡した(88)。

もう一人の異母兄、シハーブ・アッ�ディーン・アフ

マドShihab

al-Dın

Ahm

adは、八二〇/一四一七―一八

年頃に生まれ、シャラフ・アッ�ディーン・アル�マラ

ーギーSharaf

al-Dın

Muham

mad

al-Maraghı

(七七四

〜八五九/一三七二―七三〜一四五四年)らの講義に出

席し、メッカ、エルサレムなどで学問に専心していたが、

官職に就任したという記述は得られない。むしろサハー

ウィーの記述には、「相応な職を提示されても、就任を

拒んだ」とある(89)。八五三年ラビーウ・アル�アウワル

月/一四四九年五月に同じくペストによって亡くなった(90)。

3�小結

以上を総合すると、ムズヒル家はナーブルスとダマス

クスを中心とするシリア地方でアンサーリー出身の名家

として認知されており、地方行政官や知識人を輩出して

いたが、ザイン・アッ�ディーンの祖父バドル・アッ�

ディーンの代までに一定の資産を形成し、ダマスクスで

二度もカーティブ・アッ�スィッル職を獲得するに至っ

た。彼が早世したため、父バドル・アッ�ディーンは義

兄であるマダニーの庇護のもとで初等教育と書記として

の専門的教養を修得したと考えられる。そしてダマスク

スの文書庁で書記を務めていた際、ダマスクス総督であ

ったシャイフの知遇を得、シャイフがスルターンに就任

したことで中央の要職に登用された。父バドル・アッ�

ディーンは長期間にわたり文書庁の業務を実質的に統括

していた有能な書記であったが、カーティブ・アッ�ス

ィッル就任後は権勢を振るい、二〇〇、〇〇〇ディーナ

ールとも伝えられる莫大な資産を形成して息子にカーテ

ィブ・アッ�スィッル職を継がせることに成功した。そ

の際、叙任料として遺産の約半分を失ったが、遺児たち

が非常に恵まれた生活環境にあったことは、後述するザ

イン・アッ�ディーンの幼少期の記述からも明らかであ

る。バ

ドル・アッ�ディーンの三人の息子のうち二人が若

年で死亡したことにより、残るザイン・アッ�ディーン

後期マムルーク朝有力官僚の実像

四九(一七五)

はムズヒル家の家族戦略上非常に重要な立場に立たされ

た。彼がいかにして官僚としてのキャリアを積み重ねて

いったかは、次章で詳しく検討しよう。

Ⅲ�ザイン・アッ�ディーンの経歴

1�生い立ちと教育

ザイン・アッ�ディーンは八三一年ラジャブ月/一四

二八年四―五月にカイロで誕生した(91)。イスムはムハンマ

ドであるが、一般的にはアブー・バクルというクンヤで

知られている。史料中ではしばしばラカブである「ザイ

ン・アッ�ディーン」の短縮形「ザイニーal-Zaynı

」と

して言及されているが、「タキー・アッ�ディーンT

aqıy

al-Dın

」のラカブ、もしくはその双方で言及する史料も

存在する(92)。母親はアミール・ハーッジュ・イブン・ア

ル�バイサリーの娘ハディージャK

hadıjaibna

Am

ır

Hajjibn

al-Baysarı

(八七八/一四七四年歿)で、夫であ

るバドル・アッ�ディーンの死後、アラム・アッ�ディ

ーン・アル�ブルキーニー‘A

lamal-D

ınSalih

al-Bulqını

(七九一〜八六八/一三八九〜一四六四年)と再婚した(93)。

詳しくは後述するが、母ハディージャと義父ブルキーニ

ーは、孤児となったザイン・アッ�ディーンが官職を獲

得する上で重要な役割を果たしている。

孤児とはいえ、父バドル・アッ�ディーンの遺産を背

景にムズヒル家の兄弟は恵まれた環境で養育され、彼ら

のために多数の学者が招聘された。ザイン・アッ�ディ

ーンはクルアーンのほか、ナワウィーM

uhyıal-Dın

Ya-

hyaal-N

awaw

ı

(六三一〜六七六/一二三三〜一二七七

年)のシャーフィイー派法学書『ミンハージュal-

Minhaj

』、イブン・マーリクJam

alal-Dın

Muham

mad

ibn

Malik

(六七二/一二七四年歿)の文法書『アルフィー

ヤal-Alfiyya

』などの基礎教養となる著名なテクストを

暗誦し、当代一流の学者のもとで初等教育を受けた(94)。

バドル・アッ�ディーンの遺児たちが研鑽を積む上で

有利な状況にあったことは、八三六年ラジャブ月/一四

三三年二―三月、ヒジャーズの著名なハディース学者で

あるナジュム・アッ�ディーン・イブン・ファフドN

ajm

al-Dın

‘Um

aribn

Fahdal-H

ashimıal-M

akkı

(八一二〜八

八五/一四〇九〜一四八〇年)が彼らのためにイジャー

ザ発給の要請(istid‘a’

)を行ない、それに応じてエジプ

ト、シリア、ヒジャーズ、その他の地域のウラマーが夥

しい数の名目的イジャーザを与えたことに表われている。

サハーウィーはその主だった人物として五六人のウラマ

第八三巻

第二・三号

五〇(一七六)

ーの名を挙げている(95)。内訳はメッカから八名、エルサレ

ムから六名、カイロを除くエジプトから二名、カイロか

ら一八名、ダマスクス及びサーリヒーヤから九名、ミッ

ザから一名、アレッポから六名、ハマーから一名、バー

ルバックから三名、ダマンフールから一名、ラムラから

一名であり、トリポリ、ホムス、ガザ、その他の地域の

ウラマーからもイジャーザを獲得した。バーキーはこの

ような実際の子弟関係を伴わないイジャーザが発給され

た背景について、幼児の学問キャリア形成と将来的な名

声の獲得を念頭に置いた、親族による配慮があったこと

を指摘している(96)。

初等教育を修めたザイン・アッ�ディーンはバーリズ

ィー家の子弟とともに、父の代から親交の深かった同家

のカマール・アッ�ディーン、アブドゥル�バースィト、

ジャマール・アッ�ディーン・イブン・カーティブ・ジ

ャカムJam

alal-Dın

Yusuf

ibnK

atibJakam

(八六二/一

四五八年歿)ら有力官僚による庇護のもと高等教育を受

け(97)、サハーウィーの言葉を借りれば、「聡明さと理解の

速さで広く知られるようになった(98)」。法学(al-fiqh

)に

ついてはシャナシーSham

sal-D

ınM

uhamm

adal-

Shanashı

(七七八〜八七三/一三七六―七七〜一四六八

年)、義父でシャーフィイー派大カーディーのアラム・

アッ�ディーン・アル�ブルキーニーに師事し、教授

(tadrıs

)と法勧告書作成(ifta’

)のイジャーザを獲得し

た。ザイン・アッ�ディーンはブルキーニーのもとで複

数のファトワーを実際に作成している。この経験は後に

エジプトのシャーフィイー派大カーディーが空席となっ

た際、その職責を彼が代行したことに生かされた(99)。文法

学者のウッバディーShihab

al-Dın

Ahm

adal-U

bbadı

(八

六〇/一四五六年歿)のもとではアラビア語学を修めた

ほか、シャイフ・マドヤン・アル�アシュムーニーShaykh

Madyan

al-Him

yarıal-Maghribıal-A

shmunı

(八六二/一

四五八年歿)と親交を持ち、彼からズィクルの手ほどき

を受けている(100)。

諸学問のなかでもザイン・アッ�ディーンはとりわけ

ハディース学に傾倒し、「四〇人のシャイフから四〇の

町で四〇の教友に由来する四〇の著作から四〇章を学ん

だ(101)」と言われた。彼のハディース学に対する高い関心は、

カーティブ・アッ�スィッルに就任した後もラマダーン

月にハディースの朗読集会を主催し、息子たちが彼自身

からハディースを学んでいた事実からも読み取れる(102)。

幼少から青年期にかけ、ザイン・アッ�ディーンは著

後期マムルーク朝有力官僚の実像

五一(一七七)

名なウラマーとの親交を深めたが(103)、とりわけ彼が学恩を

受けたのは「カリーミーal-K

arımı

」の通称で知られる

シャムス・アッ�ディーン・アッ�サマルカンディー

Shams

al-Dın

Muham

mad

ibnFadl

Allah

al-Samarqandı

(七七三頃〜八六一/一三七一―七二〜一四五六年)で

ある(104)。彼はホラズム出身で、特にクルアーン注釈学(taf-

・sır

)と神学理論(usulal-dın

)に秀で、当時の大学者の

なかでも傑出した人物として知られた(105)。八五二/一四四

八年、巡礼でカイロを訪れた際、ザイン・アッ�ディー

ンは彼の講義に出席し、イジャーザを得ている。

上述の諸学問と教養は、ザイン・アッ�ディーンにす

でに備わっていた「寛大さと素性の良さ、そしてトルコ

人たちとの交流に不可欠な言語への精通に付加された」

とサハーウィーは述べている(106)。ザイン・アッ�ディーン

がトルコ語に堪能であったことは、アラビア語教育を受

けた後も軍隊内ではトルコ語話者であり続けた軍事的エ

リート層との円滑な意思疎通を意識した結果であること

は言うまでもない(107)。

2�官職への登用

ザイン・アッ�ディーンは中央政府で諸職を歴任する

ことになるが、その就任と解任の時期をめぐっては、一

部に史料間の異同がみられる。具体的な就任時期につい

て史料別に整理したのが、付表の「ザイン・アッ�ディ

ーンの経歴」である。

(1)母親の影響力

ザイン・アッ�ディーンが最初に就任した官職はナー

ズィル・アル�イスタブル職で、八五七年ラジャブ月/

一四五三年七月のことであった(108)。ブルハーン・アッ�デ

ィーン・イブン・アッ�ダイリーB

urhanal-D

ınIbrahım

Ibnal-D

ayrı

(八七六/一四七一年歿)に代わって就任

しており、当時彼は二五歳であった。八六二/一四五七

―五八年まで務めたと考えられる(109)。

続いて八六〇年ズー・アル�ヒッジャ月(もしくはズ

ー・アル�カアダ月/一四五六年一〇―一一月)にはイ

ブン・アスィールN

asiral-D

ınM

uhamm

adIbn

Asıl

(八

八一/一四七六年歿)に代わってエジプトのナーズィ

ル・アル�ジャワーリー(人頭税監督官、nazir

al-

jawalı

)に就任し(110)、八六二年ズー・アル�ヒッジャ月二

七日/一四五八年一一月四日、シリアのナーズィル・ア

ル�ジャワーリー職の兼任が提示された。これはズー・

第八三巻

第二・三号

五二(一七八)

アル�ヒッジャ月一八日にナーズィル・アル�ハーッス

兼ナーズィル・アル�ジャイシュのイブン・カーティ

ブ・ジャカムが死亡したことを受けたもので、その職務

を補佐するためザイン・アッ�ディーンはダマスクス行

きを命じられたが、同日中に任命を撤回されている(111)。

この一見不可解なシリアのナーズィル・アル�ジャワ

ーリーへの任命について、ビカーイーが興味深い記述を

残している。ビカーイーによれば、彼の任命は母親ハデ

ィージャが後宮で奔走した結果であり、それが明るみに

出たのはまさに彼にヒルア(名誉の衣、khil‘a

)が授与

された瞬間であったが、人々はイーナールに任命を思い

留まらせた。その結果、ヒルアは授与されたものの、ザ

イン・アッ�ディーンは体面を繕うためにカイロ城に留

まり、周囲には職を辞退させてほしいと懇願した結果、

任命を免れたと話したという(112)。

ここで注目されるのは、ザイン・アッ�ディーンの官

職獲得において、母親が際立った存在感を発揮している

点である。この時期、イーナールの正妻(khaw

andal-

・・

kubra

)であったザイナブZaynab

ibnaH

asanibn

Khass

Bak

(八八四/一四七九―八〇年歿)は、「彼女の影響

力と権威に対するスルターンの敬意、恭順という意味で、

歴代スルターンの妻たちのなかでも傑出した存在であっ

た(113)」と評されるほど国政や人事に積極的に介入し、彼女

の専横を黙認するイーナール自身の悪評にも�がってい

たが(114)、ザイン・アッ�ディーンの母ハディージャはザイ

ナブからの厚い信頼を利用し、彼女を介してスルターン

に影響力を及ぼしていたと伝えられる(115)。

このことは八六三年ラジャブ月/一四五九年五月八日、

ナーズィル・アル�ジャイシュのシャラフ・アッ�ディ

ーン・アル�アンサーリーSharaf

al-Dın

Musa

al-Ansarı

(八八一/一四七六年歿)が解任された経緯からもうか

がえる(116)。史料記述によれば、当時ザイン・アッ�ディー

ンはエジプトのナーズィル・アル�ジャワーリーであっ

たが、アンサーリーと対立したナーズィル・アル�ハー

ッスのザイン・アッ�ディーン・イブン・アル�クワイ

ズZaynal-D

ın‘A

bdal-R

ahman

(八〇五〜八七七/一四

〇二―〇三〜一四七三年)とカーティブ・アッ�スィッ

ルのムヒッブ・アッ�ディーン・イブン・アッ�シフナ

Muhibb

al-Dın

Muham

mad

ibnal-Shihna

(八九〇/一四

八五年歿)に唆され、ナーズィル・アル�ジャイシュの

職を欲するようになった。そこでザイン・アッ�ディー

ンの母親はザイナブに対し、アンサーリーがスルターン

後期マムルーク朝有力官僚の実像

五三(一七九)

の私財を横領したと讒言をした。それを鵜呑みにしたイ

ーナールはアンサーリーを逮捕し、続いてアンサーリー

に渡った金額と横領の事実を精査するため、ハーズィン

ダール(金庫長、khazindar

)のもとで拘留し、財産没

収と罰金が科された。だがその後の裁判において、アン

サーリーによる横領を示す証拠は発見されなかった(117)。

この史料記述が正しければ、アンサーリーは無実であ

ったものの、ハディージャの計略によってナーズィル・

アル�ジャイシュ職を解任されたことになる。だが、後

任には巨額の叙任料を支払ったブルハーン・アッ�ディ

ーン・イブン・アッ�ダイリーが就任したため(118)、ザイ

ン・アッ�ディーン母子の思惑どおりには運ばなかった

が、直後の同月二三日/一四五九年五月二六日、ワキー

ル・バイト・アル�マールとサイード・アッ�スアダー

修道場の管財人(nazir

khanqahSa‘ıd

al-Su‘ada’)の地位

を獲得している。また具体的な時期は特定できないが、

この頃ナーズィル・アッ�ザヒーラ(ザヒーラ監督官、

naziral-dhakhıra

)、義父のブルキーニーが務めていたシ

ャリーフィーヤ学院の管財人(nazir

al-Sharıfiyya

)にも

就任したとみられる。サハーウィーは、「彼は教授(m

u-

darris

)としての﹇学識の﹈確かさからその職を託され、

職務は困難を極めたが、彼の振るう手腕はすべて賞賛さ

れた」と記している(119)。

ワキール・バイト・アル�マールについては、唯一就

任時期に言及しているサハーウィーに従えば前述のとお

り八六三年ラジャブ月二三日であり(120)、八六四年ズー・ア

ル�カアダ月一八日/一四六〇月九月四日以降の記述に

離職に関する言及があるが(121)、諸史料によれば、八六三年

ラマダーン月一五日/一四五九年七月一六日にはすでに

アブー・アル�ハイル・アン�ナッハースA

bual-K

hayr

・・

Muham

mad

al-Nahhas

(八一五〜八六四/一四一二〜一

四五九年)がナーズィル・アッ�ザヒーラ及びワキー

ル・バイト・アル�マールに就任しており(122)、サハーウィ

ーの示す時期には再考の余地がある。

サハーウィーによれば、ザイン・アッ�ディーンは自

らワキール・バイト・アル�マールの職を退いている。

ハーッスバクの娘、すなわちイーナールの妻ザイナブを

ハッド刑に処することを求められた際、ザイナブの母親

に対する厚遇と、かつて彼自身とも接点があったことに

恩義を感じていたため同意しかね、辞職を選んだという。

ザイナブの罪状に具体的言及はないが、八六五年シャウ

ワール月/一四九一年七―八月、新スルターン・フシュ

第八三巻

第二・三号

五四(一八〇)

カダム(在位一四六一〜一四六七年)によってザイナブ

が財産を没収されている点(123)、ワキール・バイト・アル�

マールという職掌から判断すると、イーナール治世にお

ける彼女の不正蓄財に関する裁定を求められた可能性が

指摘されよう。またザイナブに対する「恩義」とは、具

体的には前述のナーズィル・アル�ジャイシュ職獲得に

際しての助力を指しているとみられる。サハーウィーは

彼の判断を非常に好意的に捉え、地位を失った人々への

配慮を忘れず自ら職を辞するという選択は、ザイン・ア

ッ�ディーンの指導者としての素質を表わしていると理

解している(124)。

(2)ナーズィル・アル�ジャイシュ職をめぐって

八六四年シャアバーン月/一四六〇年六月、ザイン・

アッ�ディーンはナーズィル・アル�ジャイシュ職への

就任を果たしたが、八六五年ズー・アル�カアダ月/一

四六一年八月には前述のナジュム・アッ�ディーン・ウ

マルの孫にあたるナジュム・アッ�ディーン・ヤフヤ

ー・イブン・アル�ヒッジーN

ajmal-D

ınY

ahyaibn

al-

Hijjı

(八三八〜八八八/一四三五〜一四八三年)に職を

譲ることとなった(125)。最も詳細な言及を残しているビカー

イーの年代記を参照しつつ、その経緯を再構成していく

ことにしよう(126)。

ビカーイーによれば、若きザイン・アッ�ディーンに

とって重要な転機となったのは、イーナールの治世が終

焉を迎えたことであった。イーナールの妻ザイナブを介

して後宮で影響力を行使していたザイン・アッ�ディー

ンにとっては、母親と義父のブルキーニーを除き有力な

支援者を失うことを意味した。また八六五年ラジャブ

月/一四六一年五月、義父ブルキーニーがナイル河沿い

の自邸の増築を計画したが、隣のザイン・アッ�ディー

ン・アル�バーリズィーZayn

al-Dın

‘Abd

al-Rahım

al-

Barizı

(八一八〜八七四/一四一五〜一四六九年)邸の

通風を遮断するとして訴訟となり、バーリズィーの姻戚

のアミール・アズバクA

zbakal-Zahirı

(九〇四/一四九

九年歿)とブルキーニー、ザイン・アッ�ディーンが対

立する事件も生じた(127)。そしてイーナールとザイナブの息

子アフマド(在位一四六一年)が廃位され、同年シャウ

ワール月/一四六一年七月にブルキーニーが大カーディ

ーを解任されたことで(128)、ザイン・アッ�ディーンはさら

に影響力を失ったとビカーイーは続けている(129)。

ナーズィル・アル�ジャイシュ在任中のザイン・ア

後期マムルーク朝有力官僚の実像

五五(一八一)

ッ�ディーンは、ワズィールに対して毎日七〇ディーナ

ールを支払う規定になっており、その資金繰りのため、

彼のダワーダールに命じてナーブルスから六、〇〇〇デ

ィーナールにも及ぶ資産の移送を手配していた(130)。多くの

史料が伝えるように、彼の就任期間が八六四年シャアバ

ーン月一七日/一四六〇年六月七日から八六五年ズー・

アル�カアダ月三日/一四六一年八月一〇日までとすれ

ば、約三〇、〇〇〇ディーナールをナーズィル・アル�

ジャイシュ職の維持に費やした計算になる。そのため彼

の財力は衰え、精神的にも疲弊した結果、辞職を申し出

たという。

後任として白羽の矢が立ったのは、アブドゥル�バー

スィトの息子であるザイン・アッ�ディーン・アブー・

バクルZayn

al-Dın

Abu

Bakr

(八二四〜八八六/一四二

一〜一四八一年)であり、対価としてスルターン・フシ

ュカダムに対する三、〇〇〇ディーナールの支払いが提

示された。だがイブン・アブドゥル�バースィトはこれ

を拒否し、辞退することを条件に一、〇〇〇ディーナー

ルの支払いを約束した。スルターンは再度イブン・アブ

ドゥル�バースィトに就任を迫ったが、曖昧な返答の後、

拒絶を続けたため、スルターンは「このように﹇返答

を﹈覆すことは認められない。就任して三、〇〇〇ディ

ーナールを支払うか、辞退しても義務として三、〇〇〇

ディーナールを支払え」と怒りを表した。そこで同席し

ていた数人のアミールが、叙任料の支払い能力を根拠に

ヤフヤー・イブン・アル�ヒッジーの任命を提案した結

果、ズー・アル�カアダ月三日、彼にヒルアが授与され

ることとなった。

イブン・アル�ヒッジーは支援に対する謝意を表すた

め、大ダワーダールのジャーニバクJanibak

al-Zahirı

(131)

(八六七/一四六三年歿)の邸宅を訪れたが、そこには

当時のカーティブ・アッ�スィッル・イブン・アッ�シ

フナとザイン・アッ�ディーンが座していた。そこで彼

は意図的にザイン・アッ�ディーンの側から入室し、不

遜な態度で彼とジャーニバクの間に割って入ったため、

大柄で知られるイブン・アル�ヒッジーはザイン・ア

ッ�ディーンの上に腰掛けてしまうところであった。

ザイン・アッ�ディーンはイブン・アル�ヒッジーの

姉/妹のズバイダZubayda

と結婚し、少なくとも二人

の息子をもうけているほか、八五〇/一四四六―四七年

の巡礼では彼女も随伴させ、手厚く面倒を見ていたこと

が伝えられる(132)。だが先に述べたとおり、父の代の記述か

第八三巻

第二・三号

五六(一八二)

らもイブン・アル�ヒッジー家とムズヒル家の関係は決

して友好的ではなく、要職をめぐってしばしば争ってい

たことがうかがえる。

ザイン・アッ�ディーンもイブン・アル�ヒッジーに

席を譲らなかったため、見かねたイブン・アッ�シフナ

がザイン・アッ�ディーンを自らの傍らに座らせた。そ

の後ワズィールが受け取っている賄賂に話が及んだ際、

ザイン・アッ�ディーンは「ワズィールへの金がなけれ

ば、人々は各々の結果に至ることはなかったものを」、

すなわち、ワズィールに対する支払いがなければ、自分

が職を去ることもイブン・アル�ヒッジーが代わりに就

任することもなかったという趣旨の発言をした。

この一連の記述からは、ナーズィル・アル�ジャイシ

ュ職への叙任と職の維持に課せられる具体的な金額の情

報が得られる。一五世紀、スルターンや政府高官に対し、

最も高額な叙任料を支払い得る候補者が官職に任命され

たことは、ウィンター、モーテルによっても指摘されて

いる(133)。それに加え、イブン・アル�ヒッジーの祖父ナジ

ュム・アッ�ディーンがカーティブ・アッ�スィッルを

解任された経緯からも明らかなように、仮にスルターン

から提示された叙任料を支払い得たとしても、職を長期

的に維持するには有力アミールやワズィールらに対して

就任日数に応じたさらなる資金の供出が求められるため、

ザイン・アッ�ディーンはそれを捻出できず、職を放棄

せざるを得なかったことがわかる。さらに、任免を逃れ

るために一定金額の支払いを課せられたという点にも、

十分な注意を払っておく必要があるだろう。

ナーズィル・アル�ジャイシュ以外の要職への任命に

際しても、ザイン・アッ�ディーンは職位に準じた叙任

料を支払っていたと考えられるが、それゆえに実力を伴

わない任命であったと結論付けるのは性急であろう。先

のイブン・タグリー・ビルディーの言及どおり、要職の

任免をめぐる金銭の授受が常態化していたことに鑑みれ

ば、上納金としての叙任料の支払いなしに高位官職を獲

得することは、実質的にはほぼ不可能であったといえる(134)。

ザイン・アッ�ディーンはナーズィル・アル�ジャワ

ーリー職を八六四年シャアバーン月一九日/一四六〇年

六月九日まで務め、代わってイブン・アスィールが復職

したが、特に「知識人や高徳な人々」は両者の力量の差

異をすでに理解していたといわれる(135)。また、ナーズィ

ル・アル�ジャイシュ職を退いた後も、スルターンは彼

が普段どおり業務に従事することを求め、彼に敬意を表

後期マムルーク朝有力官僚の実像

五七(一八三)

し、その職に関連する諸事についてスルターンとともに

決裁し、発言権を保持することを許可するなど(136)、行政官

としてのザイン・アッ�ディーンに対する評価は、カー

ティブ・アッ�スィッル就任以前にある程度確立してい

たと考えられる。

(3)カーティブ・アッ�スィッルへ

八六六年サファル月/一四六一年一一月、イブン・ア

ル�ヒッジーに代わり、ザイン・アッ�ディーンは再び

ナーズィル・アル�ジャイシュに就任した。その年のズ

ー・アル�カアダ月/一四六二年七―八月、予期せぬ好

機が訪れた。当時のカーティブ・アッ�スィッル・ブル

ハーン・アッ�ディーン・イブン・アッ�ダイリーが、

就任後ひと月を待たずに罷免されたのである。その経緯

について、史料記述をまとめれば以下のようになる(137)。

ズー・アル�カアダ月四日の土曜日/七月三一日、ス

ルターン・フシュカダムの養女バイフーンB

aykhun (138)が

死亡すると、イブン・アッ�ダイリーは「最も知識ある

人々の言説には、土曜日に死亡した者の家人は葬儀に参

列してはならないとある。さもなければその家で重要な

人物が二人、後を追うことになる」と述べた。この発言

はスルターンと彼の妻であるハーワンド・シャクルバー

イShakrbay

(八七〇/一四六五―六六年歿)を示して

いると解釈され、立腹したスルターンは急遽彼を罷免し

た。その後カーティブ・アッ�スィッルの地位は数日間

空席であったが、ヌール・アッ�ディーン・イブン・ア

ル�アンバービー(またはインバービー)N

ural-D

ın‘A

ibnal-A

nbabı

がその職務を代行した。ムワッキウ・ア

ッ�ダストを務めていたイブン・アル�アンバービーは

イブン・アッ�ダイリーが罷免される以前のシャウワー

ル月二四日/七月二二日に副カーティブ・アッ�スィッ

ルに就任し(139)、イブン・タグリー・ビルディーによって

「弓がその射手に、筆が﹇材料となる葦を﹈削る者に与

えられた」と評されるほどの有能な書記で(140)、八八二/一

四七七年に死亡するまでザイン・アッ�ディーンの片腕

を務めた人物である。

ズー・アル�カアダ月二〇日/八月一六日、三四歳の

ザイン・アッ�ディーンはカーティブ・アッ�スィッル

への就任要請を受け入れた(141)。以後彼が八九三年ラマダー

ン月/一四八八月八月に死亡するまでの二六年間にわた

り、文書庁の最高責任者として国家運営に深く関与する

ことになる(142)。

第八三巻

第二・三号

五八(一八四)

Ⅳ�結び

シリアの地方名家であったムズヒル家が中央で有力官

僚を送り出すようになった最大の転機は、シャイフ期、

父バドル・アッ�ディーンが活動拠点をカイロに移した

ことに求められよう。だが、莫大な父の遺産を以ってし

ても異母兄ジャラール・アッ�ディーンが短期間でカー

ティブ・アッ�スィッルを解任された点、あるいは父バ

ドル・アッ�ディーンの時代に複数のカーティブ・ア

ッ�スィッルが高額な賄賂にも関わらず短期間での交代

を余儀なくされた事実に鑑みれば、内政、外交の両側面

において王朝の要たる職に適性を欠いた就任者は容易に

地位を維持し得なかったようである。他方、ザイン・ア

ッ�ディーンが当時の慣行であった要職への就任と維持

に関する金銭の支払い義務から逃れられず、未練を残し

つつも職を手放さざるを得ない事態に追い込まれた経緯

は先に述べたとおりである。当該時期の官職の維持にお

いて実務能力と経済力の双方が不可欠であったことは、

祖父、父、異母兄、そしてザイン・アッ�ディーンに至

るムズヒル家のプロフィールからも裏付けられる。

カーティブ・アッ�スィッル就任以前のザイン・ア

ッ�ディーンの経歴についてまず指摘されるのは、彼自

身が官僚名家に生まれた利点を最大限に活用し得たとい

う点である。父バドル・アッ�ディーンの代までにムズ

ヒル家は官僚名家としての名声を確立し、父のカーティ

ブ・アッ�スィッル就任期には要職を獲得するに足る相

当額の資産を形成した。リチャーズによれば、同族登用

を前提としない場合、官僚としてのキャリアはアミール

のハウスホールドにおける書記から始まり、競合の上ス

ルターンへの推薦を経てはじめて中央官庁への出仕が可

能となった。また書記としての技術は血縁者のもとで見

習いや代理として実務経験を積む過程で修得されるもの

であり、一族のネットワークの上に成り立っていたとも

述べている(143)。無論、有力官僚が必ずしも名家出身者とは

限らないが、父と兄が相次いでカイロのカーティブ・ア

ッ�スィッルに就任し、自身もナーズィル・アル�イス

タブルからキャリアを開始することが可能であったザイ

ン・アッ�ディーンは、官職の獲得において圧倒的に有

利な立場にあったことは確かである。それに加え、父の

時代から続くバーリズィー家、アブドゥル�バースィト

らシリア出身の有力官僚との人脈も重要であった。父は

ザイン・アッ�ディーンが一歳を迎える前に他界したが、

後期マムルーク朝有力官僚の実像

五九(一八五)

彼らが後見人となり、幼少時より充実した教育環境に身

を置くことが可能となったのである。

その後兄たちが早世したことでムズヒル家としての支

援が得られないなか、彼が官職を獲得する上で見逃せな

いのは、実母ハディージャの役割であろう。彼女を厚遇

したハーワンド・ザイナブは野心的な人物で、政治と人

事に介入して国家の諸事を操るほどの権力を振るった。

この二人が若きザイン・アッ�ディーンが官職を獲得す

る上で少なからず影響を及ぼしたことは、彼がワキール

職を辞することで寡婦となったザイナブに対して一方な

らぬ配慮を示したことからも判明する。同様に母親の再

婚相手であるブルキーニーが壮年期のザイン・アッ�デ

ィーンにとって大きな後ろ盾となっていた点は、ブルキ

ーニーの大カーディー解任によりザイン・アッ�ディー

ンが影響力を失ったという記述からも明らかである。若

き日のザイン・アッ�ディーンは父の築いた遺産と官僚

名家との人脈に加え、母親の後宮における影響力、義父

ブルキーニーの存在を背景にキャリアを重ねたといえよ

う。当

該時期のカーティブ・アッ�スィッルの職掌につい

ては本稿でも何度か言及したが、実際にザイン・アッ�

ディーンの担った業務はさらに多岐にわたっていた。カ

ーティブ・アッ�スィッル就任後の彼のキャリアについ

ては、稿を改めて詳細に検討することにしたい。

註(1)「官庁職」と「宗教職」の区分については、Joseph

H.

Escovitz,

“Vocational

Patternsof

theScribes

ofthe

Mam

-luk

Chancery”,

Arabica,

23/1,1976,

pp.54

�55

及びM

i-chael

Winter,

“The

Civil

Bureaucracy

ofD

amascus

inthe

LateM

amluk

Period”,

inV

ostok,vostokovedy,

vostokove-denie/A

sianand

African

Studiesin

Saint-Petersburg,Saint-

Petersburg:Izd-vo

S.-Peterburgskogo

universiteta,2004,

p.49

を参照した。本稿では便宜的に「官僚」という言葉

を用いるが、「剣の人」と「筆の人」、あるいは「官庁

職」と「宗教職」という区分を前提とするものではない。

一五世紀末にダマスクスで文民としてキャリアを重ねた

「通訳者」ティムルブガーT

imurbugha

al-Tarjm

an

は、こ

のような枠組みを超えた官僚の好例である(W

inter,“The

CivilB

ureaucracyof

Dam

ascus”,pp.64

�65

)。

(2)

Carl

F.

Petry,T

heC

ivilianE

liteof

Cairo

inthe

LaterM

iddleA

ges,Princeton:Princeton

University

Press,1981.(3)

Bernadette

Martel-T

houmian,

Lescivils

etl’adm

inistra-tion

dansl’état

militaire

mam

luk

(IXe/X

Ve

Siécle

),Da-

mascus

:InstituteFrançais

deD

amas,1992.

(4)ペトリーは「文民エリート」について、「伝記作者た

第八三巻

第二・三号

六〇(一八六)

ちからは名士として認知されているものの、単にウラマ

ーとも分類できない非軍人」と定義している(Petry,T

heC

ivilianE

liteofC

airo,p.4

)。

・・

(5)

Donald

P.

Little,“N

oteson

theE

arlyN

azaral-K

hass”,in

Thom

asPhilipp

andU

lrichH

aarmann

(eds.

),The

Mam

luksin

Egyptian

Politicsand

Society,C

ambridge

:C

ambridge

University

Press,1998,pp.235

�253.

(6)五十嵐大介「ザヒーラ考―後期マムルーク朝のスルタ

ーン財政―」『アジア・アフリカ言語文化研究』七三号

(二〇〇七年)、一二九―一五七頁及び「後期マムルーク

朝におけるムフラド庁の設立と展開―制度的変化から見

るマムルーク体制の変容―」『史学雑誌』一一三/一一号

(二〇〇四年)、一―三六頁。

(7)

Ahm

ad‘A

bdal-R

aziq,“Le

viziratet

lesvizirs

d’Égypte

autem

psdes

Mam

luks”,Annales

islamologiques,

16,1980,

pp.183

�239.

(8)湯川武「マムルーク時代初期のワジール制」『イスラ

ム世界』一六号(一九七九年)、一七―三二頁。一三世紀

マムルーク朝のワズィールは、官僚機構の長であると同

時に私的なスルターンの「家産官僚」でもあった(二六

頁)。

(9)

Donald

S.

Richards,

“The

Coptic

Bureaucracy

underthe

Mam

luks”,in

Colloque

internationalsur

l’histoiredu

Caire,

27m

ars-

5avril

1969,C

airo:W

izaratal-T

haqafa,1972,p.373.

(10)

Richard

T.M

ortel,“Grand

“Daw

adar”and

Governor

of

Jedda:

The

Career

ofthe

FifteenthC

enturyM

amluk

Magnate �G

anibakal-Zahirı”,A

rabica,43/3,1996,pp.

437

456.

(11)

JonathanB

erkey,““Silver

Threads

among

theC

oal”:

AW

ell-Educated

Mam

lukof

theN

inth/FifteenthC

entury”,Studia

Islamica,73,1991,pp.109

�125.

(12)長谷部史彦「ヤルブガー・アッ�サーリミー―後期マ

ムルーク朝ウスターダールの生涯(一)」『慶應義塾大学

言語文化研究所紀要』三三号(二〇〇一年)、一四七―一

五九頁及び「同(二)」『慶應義塾大学言語文化研究所紀

要』三五号(二〇〇三年)、一三三―一四五頁。

(13)五十嵐大介「あるマムルーク軍人の生涯と寄進―キジ

ュマースの事例に見るワクフの多面的機能―」『史学雑

誌』一二〇/三号(二〇一一年)、三九―六五頁。

(14)

Winter,“T

heC

ivilBureaucracy

ofD

amascus”,p.50.

(15)管見の限り、このような問題関心で文民官僚個人のラ

イフヒストリーを描いた研究は、カラーウーン期(一二

七九〜一二九〇年)の書記シャーフィウShafi‘ibn

‘Alıal-

‘Asqalanı

(六四九〜七三〇/一二五一―五二〜一三三〇

年)を取り上げたPeter

M.

Holt,

“AC

hanceryC

lerkin

Medieval

Egypt”,

The

English

Historical

Review

,101/400,

1986,pp.671

�679

のみであり、後期マムルーク朝におい

ては欠落している。

(16)

Martel-T

houmian

,Les

civilset

l’administration,

pp.

451�454の後期マムルーク朝におけるカーティブ・ア

ッ�スィッル就任者の一覧に基づき、延べ三七名の合計

後期マムルーク朝有力官僚の実像

六一(一八七)

在任日数(四八、三九四日)から平均在任日数を算出する

と一、三〇七・九日となる。ザイン・アッ�ディーンの在

任日数は、次に長いカマール・アッ�ディーン・ムハン

マド・アル�バーリズィーの三度にわたる就任を合計し

た六、一七一日を大きく引き離している。

(17)ザイン・アッ�ディーンの経歴については、特にal-

・Sakhaw

ı,al-D

aw’al-Lam

i‘li-Ahl

al-Qarn

al-Tasi‘,

12vols.,

Beirut

:Dar

Maktabat

al-Hayah

,

﹇196

�﹈(originallypub-

lishedin

Cairo

:Maktabat

al-Qudsı,

1934

�1936

)﹇以下

Daw

と略記﹈,vol.11,p.

88

�89,idem

.,al-D

hayl‘ala

Raf‘

al-

Israw

Bughyat

al-‘Ulam

a’w

a’l-Ruw

ah,C

airo:al-H

ay’a

al-Misriyya

al-‘Am

ma

li’l-Kitab,

2000

﹇以下D

haylR

af’

略記﹈,pp.469

�488

に詳細な言及がみられる。

(18)イスラーム諸王朝における文書庁の歴史と位置付けに

ついてはイマームッディーンが概要を示している(S.M

.Im

amuddin,“D

ıwan

al-Insha

(Chancery

inLater

Medieval

Egypt

),(with

SpecialReference

toLater

Fatimid,A

yyubidand

Mam

lukD

ecreesD

ated528

�894H

./1134

�1489A

.C

.

)”,Journal

ofthe

PakistanH

istoricalSociety,

28,1980,

pp.63

�77

)。カラーウーン期にカーティブ・アッ�スィ

ッル職が設置される以前は、ダワーダールがスルターン

と文書庁を取り次いでいた(H

olt,“AC

hanceryC

lerkin

MedievalE

gypt”,pp.671

�672

)。

(19)後期マムルーク朝のカーティブ・アッ�スィッルに関

しては、G

astonW

iet,“Lessecrétaires

dela

chancellerie

(kuttabel-sirr

)enÉ

gyptesous

lesM

amlouks

Circassiens

784

�922/1382

�1517”,M

élangesR

enéB

asset,1,

Paris:E

.Leroux,1923,pp.271

�314

、文書庁の担当業務及びカーテ

ィブ・アッ�スィッルの職能は、M

artel-Thoum

ian,Lesci-

vilset

l’administration,pp.40

�47

にまとめられている。

Escovitz,“V

ocationalPatterns”,pp.42

�62

はヒジュラ暦八

世紀の名士伝記集からカーティブ・アッ�スィッル及び

カーティブの事例を網羅的に収集し、同族登用の有無、

修得した学問分野、他の官職への就任状況などを分析し

ているが、エジプトと地方都市のカーティブ・アッ�ス

ィッルを同列に扱うなど、分析手法については再考すべ

き点も多い。

(20)当該時期の売官問題についてはB

ernadetteM

artel-T

houmian,

“The

Saleof

Office

andIts

Econom

icC

onse-quences

duringthe

Rule

ofthe

LastC

ircassians

(872

922/1468

�1516

)”,M

amluk

StudiesR

eview,

9/2,2005,

pp.49

�83;

Toru

Miura

,“A

dministrative

Netw

orksin

theM

amluk

Period:T

axation,LegalE

xecution,and

Bribery”,

inT

sugitakaSato

(ed.

),Islamic

Urbanism

inH

uman

His-

tory:Political

Power

andSocial

Netw

orks,London

:Kegan

PaulInternational,1997,pp.39

�76

で詳述されている。

(21)前者としては、布告文の書式に着目したニールセン、

マクリーズィーT

aqıal-Dın

Ahm

adal-M

aqrızı

(七六六

〜八四五/一三六四〜一四四二年)の手稿から文書の再

構成を試みたボダン、スルターン・ガウリー(在位一五

〇一〜一五一六年)とフィレンツェ共和国間で締結され

た安全通行書を分析したワンズブローの研究が代表例で

第八三巻

第二・三号

六二(一八八)

あろう(Jørgen

S.N

ielsen,“A

Note

onthe

Origin

ofthe

Turra

inE

arlyM

amluk

Chancery

Practice”,Der

Islam,

57,1980,

pp.288

�292;Frédéric

Bauden

,“T

heR

ecoveryof

Mam

lukC

hanceryD

ocuments

inan

Unsuspected

Place”,in

MichaelW

interand

Am

aliaLevanoni

(eds.

),The

Mam

-luks

inE

gyptianand

SyrianPolitics

andSociety,

Leiden:

Brill,

2004,pp

.59

�76;

JohnW

ansbrough,

“The

Safe-C

onductin

Muslim

Chancery

Practice”,

Bulletin

ofthe

SchoolofO

rientaland

African

Studies,34/1,1971,

pp.20

35

)。聖カテリーナ修道院文書はこれまでもスターンらに

よって活用されてきたが(Sam

uelM.Stern,“Petitions

fromthe

Mam

lukPeriod

(Notes

onthe

Mam

lukD

ocu-m

entsfrom

Sinai

)”,B

ulletinof

theSchool

ofO

rientaland

African

Studies,29/2,1966,pp.233�276)、近年松田俊道、

リチャーズによる研究が相次いで刊行されている(松田

俊道『聖カテリーナ修道院文書の歴史的研究』中央大学

出版部、二〇一〇年及びD

onaldS.R

ichards,Mam

lukA

d-m

inistrativeD

ocuments

fromSt

Catherine’s

Monastery,

Leuven:Peeters,2011

)。

(22)イブン・ファドルッラーの行政指南書『高貴なる用語

の解説al-T

a‘rıfbi’l-

・・

Mustalah

al-Sharıf

』は、谷口淳一ら

により詳細な解説が付された平明な日本語に訳されてい

る(谷口淳一編「アフマド・イブン・ファドル・アッラ

ー・ウマリー著『高貴なる用語の解説』訳注(一)」『史

窓』六七号(二〇一〇年)、二七―六五頁、「同(二)」

『史窓』六八号(二〇一一年)、五一―九四頁、「同(三)」

『史窓』六九号(二〇一二年)、一九―五三頁、「同(四)」

『史窓』七〇号(二〇一三年)、三一―四九頁)。また氏は

『高貴なる用語の解説』及びイブン・ナーズィル・アル�

ジャイシュ‘A

bdal-R

ahman

ibnN

aziral-Jaysh

(七八六/

一三八四年歿)著『高貴なる用語の解説指南K

itabT

ath-qıfal-T

a‘rıfbi’l-

・・

Mustalah

al-Sharıf

』に依拠し、一四世紀

マムルーク朝政府のキリスト教諸国観を提示している

(谷口淳一「マムルーク朝行政用語・範例集に見えるキリ

スト教諸国」『ヨーロッパ文化史研究』一〇号(二〇〇九

年)、三一―五一頁)。ヌワイリーとその著書『学芸の究

極の目的N

ihayatal-A

rabfı

Funun

al-Adab

』に関する管

見の限り最も詳細な研究はE

liasI.M

uhanna,Encyclopae-

dismin

theM

amluk

Period:T

heC

omposition

ofShihab

al-D

ınal-N

uwayrı’s

(d.1333

)Nihayat

al-Arab

fıF

ununal-

Adab,

Ph.

D.

dissertation,H

arvardU

niversity,2012

であ

る。カルカシャンディー及び著書『文書作成における夜

盲の黎明

Subhal-A

‘shafı

・Sina‘atal-Insha’

』については

すでに豊富な研究蓄積がある。例えばC

liffordE

.Bos-

worth

,“A

“Maqam

a”on

Secretaryship:al-Q

alqashandı’sal-K

awakib

al-Durriyya

fi’l-Manaqib

al-Badriyya

”,B

ulletinof

theSchool

ofO

rientaland

African

Studies,27/2,

1964,pp.

291

�298;M

aaikevan

Berkel,

“The

Attitude

towards

Know

ledgein

Mam

lukE

gypt:Organisation

andStructure

ofthe

Subhal-A

‘shaby

al-Qalqashandı

(1355

�1418

)”,in

PeterB

inkley

(ed.

),Pre-Modern

Encyclopaedic

Texts,

Pro-ceedings

ofthe

SecondC

OM

ER

SC

ongress,G

roningen,1

�4

後期マムルーク朝有力官僚の実像

六三(一八九)

July1996,

Leiden:

Brill,

1997,pp

.159

�168;

idem.,

“AW

ell-Mannered

Man

ofLetters

ora

Cunning

Account-

ant:Al-Q

alqashandıand

theH

istoricalPosition

ofthe

Ka-

tib”,A

l-Masaq,

13,2001,

pp.87

�96;M

uhsinJ.

al-Musaw

i,“V

indicatinga

Professionor

aPersonal

Career?

:A

l-Q

alqashandı’sM

aqamah

inC

ontext”,M

amluk

StudiesR

e-view

,7/1,2003,pp.111

�135.

(23)

Martel-T

houmian

,Les

civilset

l’administration,

pp.

267

�281.

例えば八八六年ラジャブ月/一四八一年八―九

月にザイン・アッ�ディーンがカーティブ・アッ�スィ

ッルを解任された事実を息子バドル・アッ�ディーンが

解任されたと誤認し(二七一頁)、八九一年ラビーウ・ア

ル�アウワル月/一四八六年三―四月にカーイトバーイ

が落馬した際、無事を知らせる布告をザイン・アッ�デ

ィーンではなくバドル・アッ�ディーンが起草したとす

る(四一頁)など、両者はしばしば混同されている。

(24)

‘Asim

M.

Rizq

,D

irasatfı’l-‘Im

araal-Islam

iyya:

Majm

u‘at

IbnM

uzhiral-M

i‘mariyya

bi’l-Qahira

884H

./1479.

M.,

Cairo

:Wizarat

al-Thaqafa

(al-Majlis

al-U‘la

li’l-A

thar

),1995,pp.23

�41.

このマドラサはM

me

R.L.D

evon-shire,

“Abu

Bekr

ibnM

uzhiret

sam

osquéeau

Caire”,

Mélanges

Maspero,3,C

airo:Institut

françaisd’archéologie

orientaledu

Caire

,1940,

pp.

25

�31;

Doris

Behrens-

Abouseif,

Islamic

Architecture

inC

airo:

An

Introduction,C

airo:T

heA

merican

University

inC

airoPress,

1989,pp.

148

�149;idem

.,C

airoofthe

Mam

luks:AH

istoryof

theA

r-

chitectureand

ItsC

ulture,Cairo

:The

Am

ericanU

niversityin

Cairo

Press,2007,pp.284

�286

においても内部装飾や

構造の史的価値が評価されている。なお、ザイン・ア

ッ�ディーンはエルサレムにもマドラサを建設しており、

その構造的特徴や機能はハラム文書やオスマン朝時代の

法廷台帳に依拠したバーゴインによって紹介されている

(Michael

H.

Burgoyne,

Mam

lukJerusalem

:An

Architec-

turalStudy,

London:B

ritishSchool

ofA

rchaeologyin

Je-rusalem

,1987,pp.579

�588

)。

(25)

Richards,“T

heC

opticB

ureaucracy”,pp.

373

�374.

「ハ

ウスホールド」という意味では、ジャクマク期(一四三

八〜一四五三年)に銅細工職人から有力官僚に出世した

ナッハースZayn

al-Dın

Abu

al-Khayr

Muham

mad

al-

・・

Nahhas

(八一五〜八六四/一四一二〜一四五九年、後

述)は稀有な例であったともいえるが、彼も政府内の人

脈と巨額の賄賂により官職を手にしたことには変わりな

い(R

ichardT

.Mortel,“T

heD

eclineof

Mam

lukC

ivilB

u-reaucracy

inthe

FifteenthC

entury:T

heC

areerof

Abu

l-

・・

Khayr

al-Nahhas”,Journal

ofIslamic

Studies,6/2,1995,pp.

173

�188

)。

(26)

al-Maqrızı,

Kitab

al-Sulukli-M

a‘rifat

Duw

alal-M

uluk,12

vols.,C

airo:D

aral-K

utubw

a’l-Watha’iq

al-Qaw

miyya

bi’l-Qahira,2006

�2007

﹇以下Suluk

と略記﹈,vol.2

�1,p.

141.Ibnal-Suqa‘ı,T

alıK

itabW

afayatal-A

‘yan,D

amascus

:Institut

Françaisde

Dam

as,1974

﹇以下T

alıK

itab

と略

記﹈,p.177には、ナーブルスで生まれ育ったとある。

第八三巻

第二・三号

六四(一九〇)

(27)

Suluk,vol.1

�3,p.715.

この地方における「ナーズィ

ル職」について、エスコヴィッツは「その都市の官僚機

構、特に財政に責任を負う首席官僚」と定義している

(Escovitz,“V

ocationalPatterns”,p.53,note1

)。

(28)

IbnK

athır,al-B

idayaw

a’l-Nihaya

fıT

a’rıkh,14

vols.,

・C

airo:M

atba‘atal-Sa‘ada,

1932

�1939,vol.

14,p.

72;Ibn

Hajar

al-‘Asqalanı,

al-Durar

al-Kam

inafı

A‘yan

al-Mi’a

al-T

hamina,

4vols.,

Beirut

:Dar

al-Kutub

al-‘Ilmiyya,

1997

﹇以下D

urar

と略記﹈,vol.4,p.269

;IbnT

aghrıBirdı,al-

Manhal

al-

Safıw

a’l-Mustaw

fıba‘d

al-Wafı,

13vols.,

Cairo

:D

aral-K

utubw

a’l-Watha’iq

al-Qaw

miyya

bi’l-Qahira,

2008

2009

﹇以下M

anhal

と略記﹈,vol.12,p.146

;IbnT

aghrıB

irdı,al-N

ujumal-Zahira

fıM

uluk

Misr

wa’l-Q

ahira,16

vols.,C

airo:D

aral-K

utubw

a’l-Watha’iq

al-Qaw

miyya

bi’l-Q

ahira,2005

�2006

﹇以下N

ujum

と略記﹈,vol.9,p.227

;

Suluk,vol.

2

�1,p.

141;Ibn

Habıb

,T

adhkiratal-N

abıhfı

Ayyam

al-

Mansur

wa

Banı-hi,

3vols,

Cairo

:al-Hay’a

al-

Misriyya

al-‘Am

ma

li’l-Kitab,

1976

�1986,vol.

2,p.

62;T

alıK

itab,p.177.

(29)

Nujum

,vol.9,p.227.

(30)

Durar,vol.1,p.186

;Talı

Kitab,pp.36

�37.

サハーウ

ィーは彼のニスバを「シハーブ・アッ�ディーンShihab

al-Dın

」としている(D

haylR

af‘,p.472

)。

(31)

Dhayl

Raf‘,p.472.

(32)

Burgoyne,M

amluk

Jerusalem,

p.579.

Donald

P.

Little,A

Catalogue

ofthe

Islamic

Docum

entsfrom

al-

Haram

aš-

Šarıfin

Jerusalem,

Beirut

:Orient-Institut

derD

eutschenM

orgenländischenG

esellschaft,1984,p.314

によれば、

この文書は七八四年シャアバーン月一五日/一三八二年

一〇月二四日付でシハーブ・アッ�ディーン・アフマ

ド・アン�ナーブルスィーShihab

al-Dın

Ahm

adal-

Nabulsı

が彼のために巡礼を行なったシハーブ・アッ�

ディーン・アフマド・イブン・ムハンマドShihab

al-Dın

Ahm

adibn

Muham

mad

なる人物に六五〇ディルハムの

遺産を残すことを証言する内容であった。

(33)マルテル�トゥミアンもムズヒル家はダマスクス出身

と断定している(M

artel-Thoum

ian,Lescivils

etl’adm

inis-tration,p.321

)。

(34)例えばN

ujum,vol.15,p.155

など。

(35)

al-Biqa‘ı,

Izharal-

‘Asr

li-Asrar

Ahl

al-

‘Asr

:Ta’rıkh

al-B

iqa‘ı,3vols.,R

iyadh,1992

�1993

﹇以下・

Izhar

と略記﹈,vol.

3,p.343.

(36)原文では「七四年、異端者イブン・アラビーの信奉者

について証言を行なった」とある(D

haylR

af‘,p.472

)。

東長靖『イスラームとスーフィズム�神秘主義・聖者信

仰・道徳』名古屋大学出版会(二〇一三年)、二〇五頁に

よれば、イブン・アラビー、イブン・アル�ファーリド

をめぐる論争は八七五/一四七〇―七一年、八七七/一

四七二―七三年、八八八/一四八三―八四年に生じてい

る。なおザイン・アッ�ディーン自身もこの論争に深く

関与し、八七七年ズー・アル�ヒッジャ月/一四七三年

四―五月には異端宣告されたビカーイーの助命に尽力し

後期マムルーク朝有力官僚の実像

六五(一九一)

た(Ibn

Iyas,Bada’i‘al-Zuhur

fıW

aqa’i‘al-Duhur,

6vols.,

Cairo

:Dar

al-Kutub

wa’l-W

atha’iqal-Q

awm

iyyabi’l-Q

ahira,2008

﹇以下B

ada’i‘

と略記﹈,vol.3,p.89

)。ザイン・ア

ッ�ディーンとイブン・アル�ファーリド論争について

は次稿以降で論じる。

(37)

Dhayl

Raf‘,pp.472

�473.

(38)

al-Biqa‘ı,

‘Inwan

al-Zaman

bi-Tarajim

al-Shuyukhw

a’l-A

qran,C

airo:

Dar

al-Kutub

wa’l-W

atha’iqal-Q

awm

iyyabi’l-Q

ahira,2001

�,vol.5

(2009

),pp.149

�150.

(39)

Dhayl

Raf‘,p.470.

(40)

Nujum

,vol.8,p.33.

(41)文書庁の書記は「ダスト(「高さのある台」の意)の

書記(kuttab

al-dast

)」と「ダルジュ(「巻物」)の書記

(kuttabal-darj

)」に分かれ、「ダストの書記」が上位に位

置する。史料中「ムワッキウ」と言及されるのはこの

「ダストの書記」であった。それぞれの詳しい職掌につい

ては、E

scovitz,“V

ocationalPatterns

”,p

.55,

Martel-

Thoum

ian,

Lescivils

etl’adm

inistration,pp

.44

�45,al-

Musaw

i,“Vindicating

aProfession”,p.120

を見よ。

(42)

Bada’i‘,vol.1

�2,p.253;D

haylR

af‘,p.

471;Ibn

Hajar

al-‘Asqalanı,

Inba’al-G

humr

bi-Abna’

al-‘Um

r,B

eirut:Dar

al-Kutub

al-‘Ilmiyya,

9vols.,

1967

�1976

﹇以下Inba’

と略

記﹈,vol.1,p.320

;Nujum

,vol.11,p.202;Suluk,vol.

3

�1,p.

376;al-Sakhaw

ı,W

ajızal-K

alamfı

al-Dhayl

‘alaD

uwal

al-Islam,4

vols.,Beirut:M

u’assasatal-R

isala,1995

﹇以下

Wajız

と略記﹈,vol.1,p.246.Suluk

によれば、享年約四

〇歳であった。

(43)一度目のカーティブ・アッ�スィッル就任は七七七年

ズー・アル�カアダ月/一三七六年四―五月(Inba’,vol.

1,p

.156

;al-Malatı,

Nayl

al-Am

alfı

Dhayl

al-Duw

al,9

vols.,B

eirutand

Sayda:al-M

aktabaal-‘A

sriyya,2002

﹇以

下Nayl

と略記﹈,vol.

2,p.

106;Suluk,

vol.3

�1,p.

257

であり、Suluk,vol.3

�1,p.349

によれば解任は七八〇年

の末/一三七九年三月頃である。二度目の就任は七八

四/一三八三年であり、B

ada’i‘,vol.1

�2,p.324;Ibn

al-

Sayrafı,Nuzhat

al-Nufus

wa’l-A

bdanfı

Taw

arıkhal-Zam

an,4

vols.,C

airo:D

aral-K

utubw

a’l-Watha’iq

al-Qaw

miyya

bi’l-Qahira,2010

﹇以下N

uzha

と略記﹈,vol.1,p.53

及び

Suluk,vol.3

�2,p.481

に従えば、ズー・アル�カアダ

月/一三八三年一月である。N

ujum,vol.11,p.229

によ

れば、シャウワール月二九日/一月四日にギザへ狩りに

向かったスルターンがカイロ城に帰還後任命されたとい

う。Inba’,vol.2,pp.90

�91

のみ、他史料とは異なる時期

(同年ラビーウ・アッ�サーニー月/一三八二年六―七

月)を提示している。解任時期についてはいずれの史料

にも言及がないため、死亡時まで同職を保持した可能性

もある。

(44)

Inba’,vol.2,pp.90

�91.(45)・

Haram

649.D

onaldP

.Little

,“

Tw

oFourteenth-

Century

Court

Records

fromJerusalem

concerningthe

Disposition

ofSlaves

byM

inors”,Arabica

,29/1,

1982,pp.

18

�28において、当文書の校訂及び分析がなされている。

第八三巻

第二・三号

六六(一九二)

(46)

Inba’,vol.8,p.190.

(47)

Daw

’,vol.9,p.39.(48)

Inba’,vol.8,p.190;N

ujum,vol.15,p.155.

(49)

Nujum

,vol.15,p.155.

(50)

Inba’,vol.8,p.272.・

(51)

Daw

’,vol.10,p.137

によれば、シハーブ・アッ�デ

ィーンとシャラフ・アッ�ディーンはザイン・アッ�デ

ィーンとともに巡礼も行なっている。

(52)ダマスクスにおけるフルフール家とムズヒル家の関係

については、三浦徹「マムルーク朝末期の都市社会―ダ

マスクスを中心に―」『史学雑誌』九八/一号(一九八九

年)五頁及び同著者による“U

rbanSociety

inD

amascus

asthe

Mam

lukE

raW

asE

nding”,

Mam

lukStudies

Review

,10/1,2006,p.161

に依拠した。

(53)クワイズ家はカラクとショーバック、バーリズィー家

はハマー出身の地方名家であったが、ムズヒル家と同様

にダマスクス総督のシャイフによって登用され、カイロ

に移住した(M

artel-Thoum

ian,Lescivils

etl’adm

inistration,p.239,258

)。

(54)

Nujum

,vol.15,p.552.

(55)

Petry,The

Civilian

Elite

ofCairo,p.207.

(56)

Inba’,vol.8,p.190.

(57)

Bada’i‘,

vol.2,

p.56

;Nayl,

vol.4,

p.69

;Nujum

,vol.

14,p.104;Suluk,vol.4

�1,p.540.

「副官(na’ib

)」は原則

としてカーティブ・アッ�スィッルの職務の補佐する臨

時職で、状況に応じて任命されたと考えられる(E

scovitz,

“VocationalPatterns”,p.49,note

2

)。

(58)

Inba’,vol.8,p.68.

(59)

Suluk,vol.4

�2,p.568.

(60)

Nujum

,vol.14,pp.174

�175.

イブン・タグリー・ビル

ディーはその根拠として、バルクークの治世(七九二

〜八〇一/一三九〇〜一三九九年)、カーティブ・アッ�

スィッルを務めていたバドル・アッ�ディーン・イブ

ン・ファドルッラーB

adral-D

ınM

uhamm

adibn

FadlAl-

lah

(七九六/一三九四年歿)がペルシアから届いた書簡

を理解できなかったため、スルターンはアラビア語、ペ

ルシア語、トルコ語に通じたシャイフーニーヤ修道場al-

Shaykhuniyya

のスーフィー・クルスターニーB

adral-D

ın

Mahm

udal-K

ulustanı

(八〇一/一三九九年歿)を呼び、

その内容を解読させ、後に彼がカーティブ・アッ�スィ

ッルに任命された例を挙げている。イブン・タグリー・

ビルディーによれば、分別ある人々はイブン・アル�ク

ワイズの任命を憂いた。彼が壇上でタタルに陳情書を朗

読した際、イブン・ジャンマーズIbn

Jamm

az

の名を

「イブン・アル�ヒマールIbn

al-Him

ar

」、すなわち「驢

馬の息子」と読み間違え、�笑を浴びたという。

(61)

Nujum

,vol.14,p.255.

彼の経歴については、Suluk,

vol.4

�2,p.643

を見よ。

(62)

Nujum

,vol.14,pp.256

�257.(63)

Mortel,“T

heD

eclineof

Mam

lukC

ivilBureaucracy”,p.

174は当時の状況について、能力を問わずスルターンや

政府高官に最も高額な金額を支払った者が官職を獲得し、

後期マムルーク朝有力官僚の実像

六七(一九三)

就任者は支払った金額を早急に回収しようとしたために

さらなる腐敗が進んだと総括している。

(64)

Suluk,vol.4

�2,p.665.

他方、イブン・タグリー・ビ

ルディーはハラウィーに対して好意的な記述を寄せてい

る。それによれば彼はヘラート出身で学問の諸分野に通

じていたが、彼のペルシア的背景がアラブの人々に受け

入れられず、能力を過小評価されたという。また彼には

言語障害があり、流暢に言葉を発せなかったと伝えられ

ることから、それゆえにバドル・アッ�ディーンが彼に

代わって読み上げを行なっていたとも考えられる(N

ujum,

vol.15,p.136

)。

(65)

Daw

’,vol.6,p.78.

(66)

Suluk,vol.4

�2,p.637.

(67)それによれば彼がカーティブ・アッ�スィッルに任命

されて以降一二、〇〇〇ディーナールの支払いを課されて

おり、そのうち宝物庫に対する支払いは五、〇〇〇ディー

ナール、「某人物」に二、〇〇〇ディーナール、アミール

らに四、〇〇〇ディーナールを支払うことになっており、

その四、〇〇〇ディーナールの内訳が記されていた。スル

ターンは「某人物」がダワーダールのジャーニバクJani-

bakal-A

shrafı

(八三一/一四二八年歿)を指すと理解し

た。金銭の授受をめぐるジャーニバクとイブン・アル�

ヒッジーとの中傷の応酬は、スルターンの怒りを招いた

(Nujum

,vol.14,pp.273

�274

)。

(68)イブン・アル�ヒッジーの解任をめぐっては、彼とア

ブドゥル�バースィトとの対立が背景にあったとされる。

ナーズィル・アル�ジャイシュのアブドゥル�バースィ

トがダマスクス総督のアミール・スードゥーンSudun

min

‘Abd

al-Rahm

an

(八四一/一四三八年歿)を招集した際、

イブン・アル�ヒッジーは自らを差し置いて書簡を送付

したアブドゥル�バースィトを侮辱した(N

ujum,vol.14,

p.274

)。八三〇年ズー・アル�カアダ月/一四二七年八

月にイブン・アル�ヒッジーが暗殺された際、アブドゥ

ル�バースィトはその首謀者とされた。アブドゥル�バ

ースィトとバドル・アッ�ディーンは親しい関係にあり

(Durar

al-‘Uqud,vol.3,p.443

)、八二六/一四二二―二

三年にアブドゥル�バースィトが巡礼した際には、バド

ル・アッ�ディーンがナーズィル・アル�ジャイシュ職

の代理を務めている(Inba’,vol.8,p.190

)。

(69)

Bada’i‘,

vol.2,

p.97

;Daw

’,vol.

9,p.

40;al-M

aqrızı,D

uraral-‘U

qudal-F

arıdafı

Tarajim

al-A‘yan

al-Mufıda,

4vols.,B

eirut:Dar

al-Gharb

al-Islamı,2002

﹇以下D

uraral-

‘Uqud

と略記﹈,vol.3,p.443

;al-Suyutı,

Husn

al-

・・

Muhadara

fıA

khbar

Misr

wa’l-Q

ahira,2

vols.,B

eirut:D

aral-K

utubal-‘Ilm

iyya,1997

﹇以下・

Husn

と略記﹈,vol.2,p.210

;Inba’,vol.

8,pp.

68

�69;N

ayl,vol.

4,p.

172;N

ujum,

vol.14,

p.274

;Nuzha,vol.3,p.68

;Suluk,vol.4

�2,p.686.

(70)

IbnH

ajaral-‘A

sqalanı,D

haylal-D

uraral-K

amina

fıA

‘yanal-M

i’aal-T

asi‘a,B

eirut:D

aral-K

utubal-‘Ilm

iyya,1998

﹇以下D

haylD

urar

と略記﹈,p.251

;Inba’,vol.8,pp.190

�191.

(71)

Durar

al-‘Uqud,vol.3,p.443.

第八三巻

第二・三号

六八(一九四)

(72)アフマド・アッ�ザーヒドはスーフィー聖者で、幅広

いムスリムから崇敬を受けたほか、特に女性を対象とし

たワアズの実践で知られる(D

aw’,vol.2,pp.111

�113

)。

(73)父バドル・アッ�ディーンは禁欲聖者として崇敬を集

めたアブドゥッラー・アル�マヌーフィー‘A

bdullahal-

Manufı

(七四九/一三四八年歿)の墓に隣接して自らの

墓を建設した(D

aw’,vol.9,p.40

)。マルテル�トゥミア

ンは当時の官僚が聖者の墓の付近に自らの墓を建設する

傾向があったことを指摘している(M

artel-Thoum

ian,Lescivils

etl’adm

inistration,p.403

)。・

(74)

Bada’i‘,

vol.2,

pp.123

�124;D

aw’,

vol.9,

p.40

;Dhayl

Raf‘,

p.471

;Durar

al-‘Uqud,

vol.3,

p.443

;Inba’,vol.

8,pp.

190

�192;N

ayl,vol.

4,p.

252;N

ujum,

vol.7,

p.342,

vol.15,p.155;N

uzha,vol.3,pp.172�173

;Suluk,vol.

4

�2,p.814

;Wajız,vol.2,pp.505

�506.

死亡日について、Inba’

は二二日、Durar

al-‘Uqud

は二六日、Nujum

,N

uzha,Suluk

は二七日としている。

(75)

Dhayl

Durar,pp.250

�251;Inba’,vol.8,p.191.

(76)

Dhayl

Durar,p.251

;Inba’,vol.8,p.191.

彼が購入し

た不動産の一つに、ワズィールのイブン・アル�ハイサ

ムTajal-D

ın‘A

bdal-R

azzaqibn

al-Haysam

(八三四/一

四三一年歿)邸がある。前述のイブン・アル�クワイズ

がこの「湖畔の屋敷」を接収して取り壊し、新たな屋敷

を建設したことから所有権をめぐる紛争が起こったが、

イブン・アル�ハイサムの所有権は認められず、最終的

にバドル・アッ�ディーンの手に渡った(Inba’,vol.8,p.

20

)。後に彼によって売却されていることから、ザイン・

アッ�ディーンがラトリー湖畔に所有していた邸宅とは

異なる。ザイン・アッ�ディーンの時代、ムズヒル家は

カイロ市内に三軒の邸宅を所有していたが、そのうちブ

ーラークのムズヒル邸は父バドル・アッ�ディーンの時

代に購入されたと推定される。M

artel-Thoum

ian,Lescivils

etl’adm

inistration,p.281

にはブーラークのムズヒル邸は

八六二/一四五八年の火災で焼失したと記されているが、

八八六年サファル月/一四八一年四月、ブーラークの屋

敷でザイン・アッ�ディーンの使用人が死亡したとの記

事(D

aw’,vol.10,p.122

)、八九一年シャウワール月/一・

四八六年九―一〇月にはムフタスィブ(市場監督官、m

uh-tasib

)を務めていた息子バドル・アッ�ディーンの有す

るブーラークの屋敷が襲撃されたとの記述が存在するこ

とから、その後再建されたと考えられる(B

ada’i‘,vol.3,p.233

;Nayl,vol.8,p.43

;Wajız,vol.3,p.971

)。

(77)

Martel-T

houmian,

Lescivils

etl’adm

inistration,p.

270

はジャラール・アッ�ディーンを「カイロ出身」と断定

している。幼少期をカイロで過ごしたことは確かだが、

父バドル・アッ�ディーンがカイロに移住した時期を考

慮すると、ダマスクスで誕生した直後に一家でカイロに

移動した可能性も否定できない。

(78)

Nujum

,vol.15,p.168.(79)これはアッバース朝時代の大詩人ムタナッビーal-

Mutanabbı

(三〇三〜三五四/九一五〜九六五年)に帰

せられるカスィーダ『あなたへの思いを打ち消そうとも

後期マムルーク朝有力官僚の実像

六九(一九五)

思いが勝る(ughalib

fıkaal-shaw

qw

a’l-shawq

aghlab

)』

の一節を引用したものである。

(80)

Dhayl

Raf‘,p.471.

(81)

Daw

’,vol.9,p.197;D

haylR

af‘,p.472;

Husn

,vol.2,

p.210

;Inba’,vol.8,p.170

;Nayl,

vol.4,

p.253

;Nujum

,vol.

7,p.342,vol.14,p.326;Suluk,vol.4

�2,p.800.

イブン・

アル�アシュカルはこの後にカーティブ・アッ�スィッ

ル位への就任を提案されるが、辞退している。イブン・

アル�アシュカルの経歴については、D

aw’,vol.11,pp.

33

�34;Suluk,vol.4

�3,pp.1234

�1235

を参照せよ。なお

Bada’i‘,vol.2,p.124

によればジャラール・アッ�ディー

ンのカーティブ・アッ�スィッル位就任は八三二年ジュ

マーダー・アル�アーヒラ月/一四二九年三―四月で、

翌ラジャブ月/四―五月に副カーティブとしてイブン・

アル�アシュカルが任命された。

(82)

Suluk,vol.4

�2,p.800

では九〇、〇〇〇ディーナール、

Bada’i‘,vol.2,p.124

;Inba’,vol.8,p.192

ではその額一〇

〇、〇〇〇ディーナールと伝えられる。

(83)

Suluk,vol.4

�2,p.800.

(84)

Richards,“T

heC

opticB

ureaucracy”,pp.375

�376.

(85)

Martel-T

houmian,Les

civilset

l’administration,p.

88

は、後期マムルーク朝にカーティブ・アッ�スィッルを

務めた人物に就任の際要求された金額がまとめられてい

る。具体的金額に言及があるなかで最も高額なのはこの

ジャラール・アッ�ディーンで、次いでイブン・グラー

ブSa‘dal-D

ınIbrahım

ibnG

hurab

(八〇八/一四五六年

歿)が六〇、〇〇〇ディーナール、上述のイブン・アル�・

ヒッジー、イブン・アッ�サッファーフShihab

al-Dın

Ah-

mad

ibnal-Saffah

(八三五/一四三二年歿)、イブン・カ

ーティブ・アル�マナーフK

arımal-D

ın‘A

bdal-K

arımibn

Katib

al-Manakh

(八五二/一四四八年歿)が一〇、〇〇

〇ディーナールと続く。また、このリストには掲載され

ていないが、カマール・アッ�ディーン・アル�バーリ

ズィーがカーティブ・アッ�スィッルに就任した際には

四〇、〇〇〇ディーナールをスルターンに支払っている

(Martel-T

houmian,Les

civilset

l’administration,p.258

)。

(86)

Nujum

,vol.

14,p.

334;N

uzha,vol.

3,p.

167;Suluk,

vol.4

�2,p.810.Bada’i‘,vol.2,p.126

では同年ズー・ア

ル�カアダ月とされる。なおInba’,vol.8,p.204

では、

ジャラール・アッ�ディーンの死後、八三三年ラマダー

ン月一八日/一四三〇年六月一〇日に上述のイブン・ア

ッ�サッファーフが就任するまでカーティブ・アッ�ス

ィッルは空席であり、イブン・アル�アシュカルが代行

したとある。

(87)

Nujum

,vol.14,p.334;Suluk,vol.4

�2,p.810.

(88)死亡日については、D

aw’,vol.9,p.197

ではラジャブ

月一〇日、Inba’,vol.8,pp.220

�221;N

uzha,vol.3,p.213

(原文は二六日と読めるが、脚注によれば校訂者が一六日

に訂正したとある),N

ujum,vol.15,p.168

;Suluk,vol.4

2,p.848

では二六日とされる。Bada’i‘,vol.2,p.133

;Nayl,

vol.4,p.281;W

ajız,vol.2,p.509

ではラジャブ月とのみ

記されている。

第八三巻

第二・三号

七〇(一九六)

(89)

Daw

’,vol.2,p.171;D

haylR

af‘,p.472.

(90)

Daw

’,vol.

2,p.

171;Ibn

Taghrı

Birdı,

Haw

adithal-

Duhur

fıM

adaal-A

yyamw

a’l-Shuhur,2

vols,B

eirut:

‘Alam

al-Kutub,1990,vol.1,p.238.

なお、B

ada’i‘,vol.2,p.

274;N

ayl,vol.5,p.284;W

ajız,vol.2,p.638

では彼の死

亡はラビーウ・アル�アウワル月とのみ記され、D

haylR

af‘,p.472では同月一三日とされている。

(91)

Bada’i‘,vol.3,p.255

;Daw

’,vol.

11,p.

88;D

haylR

af‘,

p.473

;IbnT

ulun,M

ut‘atal-A

dhhanm

inal-T

amattu

‘bi’l-

Iqranbayna

Tarajim

al-Shuyukhw

a’l-Aqran,

2vols,

Bei-

rut:Dar

Sadir,1999,

vol.1,

p.233.

またN

ayl,vol.

8,p.

120

における彼の死亡記事からも八三一年の生まれであ

ることが確認される。

(92)

Bada’i‘

及び・

Izhar

においては「ザイン・アッ�ディ

ーン」として言及されるが、「タキー・アッ�ディーン」

の使用も数例確認される(例えば、B

ada’i‘,vol.3,p.223,・

Izhar,

vol.2,

p.401

)。・

Husn

,p.

211;al-Suyutı,

Na

zmal-

‘Iqyanfı

A‘yan

al-A‘yan

,C

airo:M

aktabatal-T

haqafaal-

Dıniyya,2000,p.97

では「タキー・アッ�ディーン」と

して言及される。

(93)

Daw

’,vol.12,p.25.

ウラマー名家としてのブルキーニ

ー家は、Petry,T

heC

ivilianE

liteofC

airo,pp.232

�240

び伊藤隆郎「一四世紀末―一六世紀初頭エジプトの大カ

ーディーとその有力家系」『史林』七九/三号(一九九六

年)、三三一―三四二頁で詳細に論じられている。

(94)

Dhayl

Raf‘,pp.473

�474.

カルカシャンディーは書記の

教養について、(一)クルアーンとそれに付随する諸学

(解釈学、ハディース学等)、(二)統治論、(三)古今の

アラブ詩及び格言、(四)雄弁家による弁論及び優美な書

簡、(五)歴史、(六)文法及び修辞学、(七)書道や書簡

の構成等、書記に特化された諸技術の計七分野を基礎と

すると定義している(B

osworth,“A

“Maqam

a”on

Secre-taryship”,p.296

)。書記の習得すべき各学問分野の主要

テクストについては、G

astonW

iet,“Lesclassiques

duscribe

egyptienau

XV

esiècle”,

StudiaIslam

ica,18,

1963,pp.41

�80

を参照せよ。

(95)

Dhayl

Raf‘,pp.474

�476.

(96)

JonathanP.B

erkey,“Al-Subkıand

His

Wom

en”,M

am-

lukStudies

Review

,14,2010,pp.15

�16.

(97)

Dhayl

Raf‘,p.474,477.

ザイン・アッ�ディーンはカ

マール・アッ�ディーンの孫娘ズバイダと、イブン・カ

ーティブ・ジャカムの娘ハディージャ(八九二/一四八

七年歿)と結婚し、それぞれ姻戚関係にあった(D

aw’,vol.

12,p.32,37

)。このズバイダが後述するナジュム・ア

ッ�ディーン・ヤフヤー・イブン・アル�ヒッジーの同

母姉/妹にあたる。

(98)

Dhayl

Raf‘,p.477.

(99)八七一年ジュマーダー・アル�ウーラー月中旬/一四

六六年一二月、バドル・アッ�ディーン・ムハンマド・

イブン・アル�ブルキーニー(八九〇/一四八五年歿)

がエジプトのシャーフィイー派大カーディー職を解かれ

た際、次のカーディーが任命されるまでの間、スルター

後期マムルーク朝有力官僚の実像

七一(一九七)

ンの命によりザイン・アッ�ディーンが法判断を下し、

法に関する意見書(m

akatıb

)を出した(B

ada’i‘,vol.2,p.445

)。

(100)

Dhayl

Raf‘,pp.476

�477.

(101)

Dhayl

Raf‘,p.485.

(102)

Nayl,vol.8,p.201.

(103)

Dhayl

Raf‘,pp.473

�477

にはザイン・アッ�ディーン

の師事した師が列挙されている。ザイン・アッ�ディー

ンの学習過程と書記の教育については、個々人の経歴と

彼自身との関係を踏まえ、稿を改めて詳論する。

(104)

Daw

’,vol.11,p.88;D

haylR

af‘,p.476.

(105)

Daw

’,vol.8,p.279;N

ayl,vol.6,p.27;W

ajız,vol.2,p.707.

(106)

Dhayl

Raf‘,p.477.

(107)

Ulrich

Haarm

ann,“A

rabicin

Speech,

Turkish

inLine-

age:M

amluks

andT

heirSons

inthe

IntellectualLife

ofFourteenth-C

enturyE

gyptand

Syria”,Journal

ofSem

iticStudies,33,1988,p.84.

(108)

Bada’i‘,vol.

2,p.

314;D

haylR

af‘,p.

479;N

ayl,vol.

5,p.403.

(109)

Wajız,vol.2,p.713.

なおD

haylR

af‘,p.480

において

は八六四年ズー・アル�カアダ月一八日/一四六〇年九

月四日にナーズィル・アル�イスタブル職を辞任したこ

とを示唆する記述があるが、W

ajız

にみられる前後の就

任者の情報を総合すると、八六二年頃が妥当と考えられ

る。

(110)

Nayl,vol.5,p.466

によれば、ザイン・アッ�ディー

ンのエジプトのナーズィル・アル�ジャワーリー就任は

八六〇年ズー・アル�ヒッジャ月/一四五六年一〇―一

一月であり、B

ada’i‘,vol.2,p.335

では同年ズー・アル�

カアダ月/一〇月とされる。D

haylR

af‘,p.479

では八六

二年のズー・アル�ヒッジャ月九日/一四五八年一〇月

一七日となっているが、「アル�ジャマーリー・ブン・カ

ーティブ・ジャカムが亡くなったため」とあることから、

シリアのナーズィル・アル�ジャワーリー就任と混同し

ている可能性が高い。なお、M

artel-Thoum

ian,Lescivils

etl’adm

inistration,p.271

は八六〇年のズー・アル�ヒッ

ジャ月九日/一四五六年一一月八日としている。

(111)

Izhar,vol.2,p.401;N

ujum,vol.16,p.127.

(112)

Izhar,vol.2,p.401.

(113)

Daw

’,vol.12,p.45.

(114)

Nujum

,vol.16,p.159.

彼女の生涯についてはK

athrynJohnson

,“R

oyalPilgrim

s:M

amluk

Accounts

ofthe

Pil-grim

agesto

Mecca

ofthe

Khaw

andal-K

ubra

(SeniorW

ifeof

theSultan

)”,Studia

Islamica,

91,2000,

pp.114

�119

詳述されている。

(115)

Daw

’,vol.12,p.25;

Izhar,vol.3,p.52.

(116)

Bada’i‘,vol.2,p.352

;

Izhar,vol.3,pp.51

�52.(117)またザイナブは本件をアンサーリーの妻であるジャル

バーシュの娘ザイナブZaynab

ibnaJarbash

al-Karım

ıQ

ashuq(八六四/一四六〇年歿)に対する意趣返しとし

て行なったという。彼女はジャクマクの妻であった当時、

第八三巻

第二・三号

七二(一九八)

イーナールの妻ザイナブを執拗に苦しめていた(・

Izhar,vol.3,p.52

)。またB

ada’i‘,vol.2,p.353

もアンサーリー

逮捕の理由を彼がジャルバーシュの娘と再婚したことに

求めており、イーナールの妻ザイナブはハディージャの

訴えを契機にジャクマク時代の禍根を晴らす意図もあっ

たと考えられる。

(118)

Nujum

,vol.16,p.129.

(119)

Dhayl

Raf‘,p.482.

(120)

Dhayl

Raf‘,p.479.

(121)

Dhayl

Raf‘,p.480.

(122)

Bada’i‘,

vol.2,

p.354

;Nayl,

vol.6,

p.62

;Nujum

,vol.

16,p.132.

(123)

Bada’i‘,

vol.2,

p.383.

また、B

ada’i‘,vol.

3,p.

157

おける彼女の死亡記事にも、フシュカダムから複数回の

財産没収を受けたとある。

(124)

Dhayl

Raf‘,p.480.

(125)

Bada’i‘,vol.2,p.385

;Dhayl

Raf‘,p.480

;・

Izhar,vol.3,

p.344;N

ayl,vol.6,p.123;N

ujum,vol.16,p.261.

なお、

ヤフヤー・イブン・アル�ヒッジーのラカブについて、

イブン・イヤースのみ「シャラフ・アッ�ディーンal-

Sharafı

」としている。

(126)

Izhar,vol.3,pp.343

�345.

(127)

Izhar,vol.3,pp.252

�253.

校訂では「ヤズバク・ア

ッ�ザーヒリーY

azbakal-Zahirı

」とある。アズバクは元

バルスバーイのマムルークであったが、その後ジャクマ

クの手に渡ったため、「ザーヒリー」と「アシュラフィ

ー」両方のニスバを取り、ジャクマクとナースィル・ア

ッ�ディーン・アル�バーリズィーの娘ムグルM

ughul

(八〇三〜八七六/一四〇一〜一四七二年)との間に誕生

した娘ハディージャ(八六七/一四六三年歿)と八五

四/一四五〇年に結婚した(N

ujum,vol.15,p.406,408

)。

(128)

Bada’i‘,vol.2,pp.383

�384.

(129)

Izhar,vol.3,p.343.

(130)

Izhar,vol.3,pp.343

�344.

(131)彼の生涯についてはM

ortel,“Grand

“Daw

adar”and

Governor

ofJedda”

で詳細に明かされている。

(132)

Dhayl

Raf‘,p.484.

(133)

Mortel,“T

heD

eclineof

Mam

lukC

ivilBureaucracy”,p.

174;W

inter,“The

CivilB

ureaucracyof

Dam

ascus”,p.52.

(134)五十嵐によれば、官職任免時に一定額を徴収する売官

と財産没収は、倫理的な腐敗や恣意的な賦課というより、

任官希望者すべてに要求される上納金としての性格を帯

びた(五十嵐大介『中世イスラーム国家の財政と寄進│

後期マムルーク朝の研究│』刀水書房(二〇一一年)、一

三六頁)。

(135)

Dhayl

Raf‘,p.480.

(136)

Dhayl

Raf‘,p.480.

(137)

Nayl,vol.6,p.148.

(138)

Nayl,vol.6,p.147

によれば、彼女はアミール・アブ

ラク・アル�ジャカミーA

brakal-Jakam

ı

(八四〇/一四

三六年頃歿)とシャクルバーイの娘であり、スルターン

の養女となり、ザイン・アッ�ディーン・アブドゥッラ

後期マムルーク朝有力官僚の実像

七三(一九九)

ヒーム・アル�アイニーZayn

al-Dın

‘Abd

al-Rahım

al-‘A

ynı

(八六四/一四六〇年歿)と結婚した。

(139)

Bada’i‘,vol.2,p.397.

(140)

Nujum

,vol.16,p.271.

(141)

Bada’i‘,vol.2,p.399

;Daw

’,vol.11,p.89

;Dhayl

Raf‘,

p.481

;・

Husn,

vol.2,

p.211

;Nayl,

vol.6,

p.148

;Nujum

,vol.16,p.272.

(142)ザイン・アッ�ディーンのカーティブ・アッ�スィッ

ル就任について、サハーウィーは「大体において彼の家

系とイブン・ファドルッラー家の間に生じたことは似通

っていた」と評している。サハーウィーはムフィー・ア

ッ�ディーン・イブン・ファドルッラーM

uhyıal-Dın

Ya-

hyaibn

FadlAllah

(六四五〜七三八/一二四七〜一三三

七年)がカーティブ・アッ�スィッルを務めた際、息子

のアラー・アッ�ディーン・アリーal-‘A

la’‘Alı

(七一二

〜七六九/一三一二〜一三六八年)が副官を務め、後に

三〇年以上にわたりカーティブ・アッ�スィッルを務め

た点、『高貴なる用語の解説』の著者として名高いシハー

ブ・アッ�ディーン・アフマドも同じくカーティブ・ア

ッ�スィッルに就任した点を挙げ、書記官僚名家として

の両家を対比させている(D

haylR

af‘,p.481

)。

(143)

Richards,“T

heC

opticB

ureaucracy”,pp.373

�374.

第八三巻

第二・三号

七四(二〇〇)

後期マムルーク朝有力官僚の実像

七五(二〇一)

ディーンの経歴

Wajız

時期不明3:1042

8622:713

時期不明3:1042

時期不明3:1042

時期不明3:1042

Nujum

862. DhH. 2716:127

862. DhH. 2716:127(即日撤回)

864. SB. 1716:148

865. DhQ. 316:261

866. SF. 216:265

Nayl

857. RJ5:403

860. DhH5:466

864. DhQ6:89

864. SB4

6:85

865. DhQ6:123

866. SF6:134

・Izhar

862. DhH. 272:401

862. DhH. 272:401(即日辞退)

865. DhQ. 33:344

Dhayl Raf ‘

857. RJ. 11p. 479

864. DhQ. 18p. 480

862. DhH. 91

p. 479

864. SB. 19p. 480

863. RJ. 23以降p. 480

863. RJ. 23p. 479

864. DhQ. 18p. 480

時期不明p. 482

863. RJ. 232

p. 479

864. DhQ. 18p. 480

863. RJ. 23以降p. 480

864. SB. 17p. 480

865. DhQ. 3p. 480

866. SF. 2p. 480

第八三巻

第二・三号

七六(二〇二)

ザイン・アッ�

・Daw’

時期不明11:88

時期不明11:88

時期不明11:88

時期不明11:88

時期不明11:88

時期不明11:8889

Bada’i‘

857. RJ2:314

860. DhQ2:335

864. DhQ2:362

865. MH3

2:363

865. DhQ2:385

866. SF2:390

史 料

役 職

ナーズィル・アル�イスタブル

ナーズィル・アル�ジャワーリー(エジプト)

ナーズィル・アル�ジャワーリー(シリア)

ナーズィル・サイード・アッ�スアダー(サイード・アッ�スアダー修道院管財人)

ナーズィル・シャリーフィーヤ(シャリーフィーヤ学院管財人)

ワキール・バイト・アル�マール

ナーズィル・アッ�ザヒーラ

ナーズィル・アル�ジャイシュ

後期マムルーク朝有力官僚の実像

七七(二〇三)

ャ月 9日とあるが、p. 484では 861年(原文では 871年と誤記)の巡礼時ナーズィル・アル�イスタブルとエジプトる。‘Inwan においても、861年ラビーウ・アッ�サーニー月の段階でザイン・アッ�ディーンが「ナーズィル・アル�ジャワーリーに任命された時期と混同している可能性が高く、正しくは 860年の末と考えられる。ー・アル�ハイル・アン�ナッハースが就任しており(Bada’i‘, vol. 2, p. 354, Nayl , vol. 6, p. 62, Nujum , vol. 16, p.

年 10月としている。わって」と記述されていることから、エジプトのナーズィル・アル�ジャイシュの誤りであると考えられる。

ル�アウワル:RA、第 4月 ラビーウ・アッ�サーニー:RTh、第 5月 ジュマーダー・アル�ウーラー:JU、第 6ラマダーン:RM、第 10月 シャウワール:SW、第 11月 ズー・アル�カアダ:DhQ、第 12月 ズー・アル�ヒ

8663:1042

866. DhQ. 2016:272

866. DhQ. 2016:272

866. DhQ6:148

866. DhQ. 206:148

866. DhQ. 20p. 480

866. DhQ. 20p. 480

第八三巻

第二・三号

七八(二〇四)

1 Dhayl Raf ‘, p. 479にはエジプトのナーズィル・アル�ジャワーリー就任は 862年ズー・アル�ヒッジのナーズィル・アル�ジャワーリーであったとされ、同史料内においても就任年代にずれが生じていル�イスタブル兼ジャワーリー」とある(vol. 4, p. 11)。サハーウィーはシリアのナーズィル・ア

2 863年ラマダーン月にはワキール・バイト・アル�マール職とナーズィル・アッ�ザヒーラにアブ132)、サハーウィーの示す就任時期には再考の余地がある。

3 第一回目のナーズィル・アル�ジャイシュ就任時期について、Bada’i ‘のみ 865年ムハッラム月/14604 原文には「ダマスクスのナーズィル・アル�ジャイシュ」とあるが、「イブン・アッ�ダイリーに代凡例ヒジュラ暦各月の略称:第 1月 ムハッラム:MH、第 2月 サファル:SF、第 3月 ラビーウ・ア月 ジュマーダー・アル�アーヒラ:JA、第 7月 ラジャブ:RJ、第 8月 シャアバーン:SB、第 9月ッジャ:DhH

866. DhQ11:89

866. DhQ2:399

866. DhQ2:399

就カーティブ・アッ�スィッル

(~893. RMに死亡するまで保持)後期マムルーク朝有力官僚の実像

七九(二〇五)

ハディージャ(878/1474年歿)

アミール・ハーッジュ・イブン・アル�バイサリー

アラム・アッ�ディーン・サーリフ・アル�ブルキーニー(791~868/1389~1464年)

ザイン・アッ�ディーンアブー・バクル

(831~893/1428~1488年)

〈凡例〉・系図中の生没年はヒジュラ暦/西暦の順に示した。・女性は名前に下線を付した。・婚姻関係は二重線( )で示した。

【ナーブルスのムズヒル家】

アフマド

マジュド・アッ�ディーンムザッファル

ファフル・アッ�ディーンアフマド

(703/130304年歿)

シャラフ・アッ�ディーンヤアクーブ

(628/123031~714/1314年)

第八三巻

第二・三号

八〇(二〇六)

[ムズヒル家系図]

ウスマーン

アブドゥルハーリク

シハーブ・アッ�ディーンムハンマド(690/1291年歿)

アフマド

シャムス・アッ�ディーンムハンマド

(781/1380年歿)

バドル・アッ�ディーンムハンマド

(793/1391年歿)

ムフィー・アッ�ディーンアフマド・アル�マダニー(820/1417年歿)

娘 バドル・アッ�ディーンムハンマド

(786~832/138485~1429年)

ジャラール・アッ�ディーンムハンマド

(814~833/141112~1430年)

娘イブン・サラーム

シハーブ・アッ�ディーンアフマド

(820~853/141718~1449年)

後期マムルーク朝有力官僚の実像

八一(二〇七)