Tibet in the Age of the Mongols: The Role of the Jamci and Travel between Tibet and China Proper

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Title モンゴル時代におけるチベット・漢地間の交通と站赤 Author(s) 山本, 明志 Citation 東洋史研究 (2008), 67(2): 255-280 Issue Date 2008-09 URL http://hdl.handle.net/2433/147173 Right Type Journal Article Textversion publisher KURENAI : Kyoto University Research Information Repository Kyoto University

Transcript of Tibet in the Age of the Mongols: The Role of the Jamci and Travel between Tibet and China Proper

Title モンゴル時代におけるチベット・漢地間の交通と站赤

Author(s) 山本, 明志

Citation 東洋史研究 (2008), 67(2): 255-280

Issue Date 2008-09

URL http://hdl.handle.net/2433/147173

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

KURENAI : Kyoto University Research Information Repository

Kyoto University

モンゴル時代におけるチベツ

-漠地聞の交通と姑亦

第一章チベット併の往来

第二節年聞の往来規模

第二章チベットへの物資輸送

第一節チベァト倫の鋪馬による物資輸送

第二節車輔・船によるチベットへの輸送

第三節モンゴル皇族によるチベットへの布施の輸送をめぐって

95

モンゴル帝国がその領域をユーラシア大陸全土に唐げていく中、チベットもその軍事力に抗うことはできな

かった。太宗オゴデイの次子コデンの軍が二二二九

1四

O年にチベットに侵攻し、この時酷からモンゴルとチベットとの

世紀

直接的な関係が始まる[岡同一九六二]。世組クピライの時代になると、大元ウルス(元朝)は一二六四年に線制院(一二八

255

八年に宣政院と改稽)を創設してチベットに関わる業務を捨首させる一方、

チベット本土にも烏思戒納里速古魯孫等三路宣

256

慰使司都一冗帥府などの出先機関を設置する。先行研究ではこのような行政機構に闘わる制度面から、大一冗ウルスの封チベ

ット政策が検討されてきた[張一九九八など]。しかし、チベットに閲わる大元ウルスの官街が貰際に果たした役割などに

ついては史料の絶封量が少なく、分析には自ずと限界がある。この時代におけるチベットの賦況を解明するには、新たな

手法を模索する必要があるだろう。

一方で、

チベット借パクパが大元ウルスにおいて園師、後に帝師となったことなど、

モンゴル時代にチベット悌教が歴

チベット悌数サキャ抵の憎が帝師位

代カアンに隼崇された事賓はよく知られている。順帝トゴンテムルが北蹄するまで、

を継承していったことについては稲葉正就の詳細な研究があり[稲葉一九六五]、乙坂智子は帝師の位置づけを中華王朝と

しての元朝の釘外政策の枠組みから分析している[乙坂会九八九など]。特にクビライ時代以降、

カアンの近遣には絶えず

チベット借たちが侍っていた。そして、石漬裕美子が指摘するとおり、

カアンの居所たる大都にはチベット式の備塔が建

96

てられ[石演二OO二]、

チベット悌教による法舎が奉行されていたのである[石漬一九九四/石漬二OO一]0

歴代カアンとチベット偶数との闘わりが深いという事賓は、今奉げた先行研究などによって強調されてきたが、帝師以

外のチベット借に日を向けてみると、彼らの大元ウルス内における活動については、

ほとんど検討されていない。大元ウ

ルス中植において活躍したチベット僧としては、まず帝師がおり、ここに研究が集中するのは嘗然ではある。しかし、

アンの庇護のもとでチベット偶数による法舎を大々的に行う際、それを帝師一人の力で取り仕切ることはできたであろう

か。もちろん、そこに帝師以外の多くのチベット借の存在を想定するべきであるが、残念ながらチベットからカアンのも

とにやってきた帝師以外の僧侶の姿を見出せる記事は、首該時代の基本史料である

『元史』にはほとんどない。

ところが幸いにも『永楽大典』巻一九四一六一九四二六「結」(以下『拙赤』

一九、『謄姑」

一二と表記する)には、

帝師以外のチベット借に関わる記述が比較的豊富に蔑されている。乙坂はこの史料群を利用しているものの、元朝の封チ

ベット政策に言及する際に取り上げるのみであり、その詳細まで検討したわけではない

[乙坂一九八九、三六頁/乙坂一九

九O、五八|五九頁]。この史料群は、現在はその大半が失われているモンゴル時代の政書「経世大典」

の拍赤門だけでな

く、『六保政類」『大徳典章」『成憲綱要」といった首該時代の諸史料からも、

モンゴル帝園の謄惇システムたる描赤(ジ

ヤムチ)に闘わる公文書を牧集しており、非常に有用であることは夙に知られていた。ところが、これを用いて結赤シス

(2)

テム白樫を検討した先行研究は今に至るも多くはない。モンゴル時代における交通史研究にとって第一級の史料群ではあ

るものの、まだ全面的に利用されているとは言い難いのである。

本稿はモンゴル時代において、帝師以外のチベット僧が果たした役割を解明することを目指し、この

『、氷山栄大典』所収

の姑赤関係の史料群を積極的に利用することにする。これにより、従来明らかにされてこなかったチベット・漢地聞にお

チベット償の往来と物資の輸送の具盟像を示し、首該時代のチベットの朕況を理解する上での一助としたい。なお

本稿では、大元ウルス内におけるモンゴリアと宣政院管轄領域以外を、便宜的に「漠地」と稀する。

ける、

佐田川一立早

チベット借の往来

97

チベット僧たちがカアンやモンゴル皇族の隼崇を受けて間歩していたであろうことは、

(3)

すでに多くの研究者によって想定されている。仁宗アユルパルワダ時代(一三一一二三一O年)に鄭介夫は唐代における

もつ

(4)

舎昌の麿仰の例を引きつつ「先ず西番の大師の京都に留まる者を将て、植を以て敦く遣り、悉く固に還らしむべし」と上

モンゴル時代の大都において、

奏している。「西番」

の語はこの時代、基本的にチベットを指す

[pgrz戸官出色。この護言は、大都にいるチベッ

ト惜の数が問題覗されるほど多かったことを想起させるものである。では大都にやって来るチベット借たちは、どれ程多

かったのであろうか。本章では大都を含む漢地とチベットとの聞における、帝師以外のチベット信の往来の規模について

検討する。

257

258

第一節

一集圏の規模

まず、

チベット・大都聞を往来するチベット僧の一グループの規模について検討してみよう。『姑赤」六には、次のよ

うな記述がある。

[A]延祐三(一三一六)年正月十四日

(

-

J

)

ワンチエンタクジャンベル

(6)

都功徳使輩異乞刺思拍班奏して聖旨を奉じたるに、

チュ

lロ(7)

ノナムギェルソェン(日)ドカム

(9)

「棚思羅師父・門徒の峻南監裁は、乃木甘思の地に回らんと欲す。

(日)

本船旧は毎年三十の衆を率い、股の矯に好事を起建具迭すること一月。其れ省部をして酪酌せしめ、鋪馬を麿副し以て

カアンがくだされた

行かしむべし」と。兵部議し得たるに、索むる所の鋪馬は、別に欽賓の御賓の〔捺された〕聖旨無し。都省に

(日)

具呈して給降す。

98

本案件の内容は次のとおりである。官一政院とともに偽教関係業務を管轄する都功徳使司のリンチエンタクジヤンベルが、

時のカアン仁宗アユルパルワダに上奏し、次のような聖旨を得る。チベット僧チュ

lロとソナムギエルツエンは、三十人

の僧侶を引き連れて毎年一ヶ月間、カアンのために悌事を行いにやってくる。いま彼らがドカムに蹄還するに際し、中主目

(ロ)

省と、中央で拙赤を管理する兵部はチュ

lロ一行に鋪馬を支給するように、と。兵部はこれを、つけて検討し、鋪馬を支給

(日)

するのに必要な御賓の捺された鋪馬聖旨の能分が兵部には無いとする。その上で、兵部は中書省に上申し、

一行に鋪馬聖

旨が支給されることになった。

通常、使臣が鋪馬聖旨を得るには、まず中書省に護給を申請し、兵部(ある時期は通政院)が検討した上で出張誼明書で

ある別里寄を作成する必要があった。さらに翰林院が別里寄に基づいてパクパ丈字で鋪馬聖旨を書寓し、ようやく使臣に

護給されることになる[山崎一九五四、四三七四三八貝/黛二OO六、二一二二二四頁っただし特定の官街は、自身の官街

が抵遣する使臣のための鋪馬聖旨を何通か保有していた[黛二OO六、二一二頁]。兵部が「御賓の聖旨無し」と言うのは、

首時兵部が保有している鋪馬聖旨に徐分が無かったことを音惇ゆする。

一方

[A]の上奏者は悌教関係業務を捨首する都功

徳使司の官員であり、問題のチベット借たちに便宜を固ろうとして上奏しているのである。最終的に兵部が上申書を中書

省に迭り、このチベット僧たちに鋪馬聖旨が護給されることになるのだが、このことは史料

[A]に後績する次の案件か

らも判明する。

[B]延祐二一(一一一一一六)年四月十二日

ベルギウ

lセ

(

)

(

)

丞相阿散・平章李道復・冗伯都刺等奏すらく、「班吉斡節見講主の下の三丹講主は疾有れば、旨を奉じて

(

)

1ロ

輩直一乞刺思師父と同に西番に回還せしむ。三丹及び其の徒は共に四人なれば鋪馬四匹を起こす。又た捌思羅師父・徒

弟の唆南監戴等六人に馬六匹を起こせり。都省の見存の鋪馬聖旨は敷かず。若し此の借に興、つれば、亦た拘牧し難

チベットにもどるそう

し。合に西番の回借〔についての規定〕を定擬すること無かるべけんや。今翰林院は酪酌して〔護給数を〕揮節す

(口)

るも、〔三丹一行のために〕聖旨を語寓して之に輿う」と。旨を奉じて准されたり。都省は欽依して施行す。

カアンのご命令でリンチエンタクと一緒

99

丞相阿散らが次のように上奏する。チベット僧サムテンが病気であるために、

にチベットに蹄らせることになった。サムテン一行は四人なので、鋪馬四匹を支給することにする。しかし以前にチュ

l

ロと弟子のソナムギェルツェン一行六人に鋪馬六匹を支給している。中書省が保有している鋪馬聖旨の数はそのため足り

ない。さらに、もしサムテンたちに中書省保有の鋪馬聖旨を支給してしまえば、彼らから鋪馬聖旨を回牧するのが困難で

ある。チベットへ踊る借に鋪馬聖旨を支給する上での規定を定めるべきである。翰林院には状況を勘案して鋪馬聖旨の護

給数を調整させるが、

サムテン一行に封しては、パクパ字の鋪馬聖旨を翰林院に翻謹書寓させて支給することにする、と。

(凶)

この上奏は聖旨を得て許可された。中書省はこの決定をつつしんで履行する。以上が本案件の概要である。

チュ

lロ

まず、「棚思羅師父・徒弟の唆南監戒等六人に馬六匹を起こせり」と言っていることから、史料

[A]のチュ

1ロと弟

259

子のソナムギエルツェンが時還する際、その一行が六人であったことが判明する。

[A]では、毎年三十人の借がカアン

260

のもとに来ているとあるが、漠地・チベット聞を三十人全員で移動しているかどうかはわからない。しかし

[B]を参照

すれば、

チベットへの時路においては六人のグループであることは明白である。おそらく往路においても集圏で移動して

いたのであろう。また、この史料

[B]で主たる話題となっているサムテンの一行は、

チベットに戻る際、四人のグル

1

プであったことも判明する。

また

『拍赤』六には、

二件注目すべき記事がある。

一件は延一晴元(一三会四)年のものである。

[C

ニ延茄元(二三四)年十月二十七日タ

クパベル(川口)

是の日、中書省又た奏すらく、「西番信の乞刺思八班等六人は、元と鋪馬十一匹を起して都に赴けり。今回還せんと

(初)

欲し、止だ三人有るのみなれども、復た元来の馬数を索むo

(後掲

[C

二]に績く)

0

チベット信のタクパベル一行六名は、鋪馬十一匹を利用して大都にやってきた。いま、

チベットへ戻るに際し、三名の

みが踊るが、来たときと同じく十一匹の鋪馬の利用を要求してきた、と中主日省が上奏している。ここからは、

チベット借

100

タクパベルの一行が、大都へ向かうときは六人であり、チベットに戻る際は三人であったことがわかる。また、彼らは集

圏で移動するが、同行者の一部は大都に留まったままでもかまわなかったことも讃みとれる。

ギャワサンボ(引)

もう一件は延祐四(一三一七)年九月の案件で、同年閏正月二十五日に「西番の大師加瓦載卜等七人」が、また二月一

(

)

日に「西番の信短木察包干不花八恰失等二十一人」が拍赤で拍官たちを鞭で打った事件に言及している。

以上から、

チベット・大都聞を往来するチベット借の一グループの規模として、三人・四人・六人・七人・二十一人と

いう例を示すことができた。あるいは

[A]から三十人のグループも想定できるかもしれない。いずれにしても車濁で往

来している例はなく、数人から数十人まで、

一グループの構成人数にはある程度の幅があった黙が指摘できる。

また

[A]からは、

カアンのために悌事を行うことを目的の一つとして、

チベット借たちが大都へ赴いていたことも判

る。この事賓も注目に値する。漢地へ赴くチベット借は、

カアンのために悌事を行うものであろうという推測は従来もな

されてきたであろうが、史料

[A]はその史料的根擦となるものである。さらに、ここで奉げた史料にみえるチベット借

の名前は歴代帝師のいずれの名とも一致せず、中でも

[A]のチユ

1ロとソナムギエルツェンは帝師の本擦地がある中央

チベット西部(ツアン)ではなく、ドカムへ蹄ることからも、彼らが帝師以外のチベット僧であるのは確貰である。これ

らは、帝師以外のチベット僧の大元ウルス内での行動をとらえた史料としても評債できるのである。

年聞の往来規模

次に、

チベット借のチベット・漢地聞における、年間の往来規模について検討してみたい。まず次の

『結赤』五の記事

を見てみよう。

[D

二大徳十(ヲ

5六)年五月十日

通政院使察乃言えらく、「迩西の結赤は便ならず。大怯九年より十年正月に至るに、西番の節績して差来せる西信は

(お)

八百五十徐人にして、計るに鋪馬一千五百四十七疋に釆れり。甚だ頻数に至る。(後掲

[D

二]に績く)

0

101

この史料では、チベット借の往来頻度が具瞳的な数値を伴って一不されている。賓は各描赤では、利用者の姓名・利用鋪

馬数・利用許可誼護給官街・行き先・出張目的などをチェックして書類を作成し、三カ月ごとに地方の線管府を通じて中

央に報告する義務があった。

[E]至元七(一二七O)年二月

一、奮例に照依し、経過せる使臣は、各位下の姓名、井びに鋪馬の数日、賓撃したるは日疋れ何れの官司の起馬の

蒙古字の剖子なるか、某庭従り某庭に前往するか、幹地附するは是れ何れの公事なるかを開具す。各拍は季毎に冊

(

)

を造り、総管府に申報し、次月初十日以裏を過ぎずして部に申せ。

261

つまり史料

[D|一]に現れる数字は地方の姑赤が冊子にまとめ、この時期の中央における姑赤管理街円である通政

262

(お)

院にもたらされたものと考えられる。数字は端数まで記されており、信頼性は高い。また

[E]がヨ一口うように一季(一一一ケ

月)ごとに利用状況がまとめられ、翌月上旬までに報告することが義務附けられていた貼を考慮すれば、

D

「大穂九年より十年正月に至る」と言っているのは、大油田十年正月を含むのではなく、大徳九年いっぱいの四季十二ヶ月

分を指すものと思われる。ここから大徳九年の十二ヶ月間で、結赤を利用したチベット僧は八百五十人あまり、利用した

措赤設置の鋪馬が千五百四十七顕であったことが判明する。

つまり一月あたり平均して、約七十人のチベット僧が、約百

二十八頭の鋪馬を利用したことになる。なお、千五百四十七頭の鋪馬に八百五十人のチベット借が全員騎乗したとしても、

空馬が七百四十七頭も出る。この問題については第二章で検討する。

さらに『元史』にもチベット借の往来頻度を示す史料が蔑されている。

[F]泰定一一(一一一一一一五)年、西墓御史李昌言えらく、「嘗て平涼府・静・合

7定西等州を経るに、西番信の金字国

(

)

符を侃び、道途に絡鐸し、騎を馳せること百を累ね、惇舎は容るるに能わざるに至れば、則ち館を民舎に依り、因り

て男子を迫逐し、女婦を好汚するを見たり。奉元の一路は、正月白り七月に至るに、往返する者百八十五次にして、

(幻)

馬を用うるは八百四十徐匹に至る。之を諸王・行省の使に較ぶれば、十に多きこと六七なり。(後略)」。

102

これは、泰定帝イスンテムルの時代に、限西行御史蓋から中央に報告されたものである。この記事はチベット借の姑赤

利用の頻繁さを一志すものとして、胡其徳・松田孝一がすでに取り上げている[胡一九七八、

頁]。これによれば、陳西の奉一冗路では、泰定二年正月から六月いっぱいの竿年の聞に、チベット借が百八十五回結赤を

一四O頁/松田二000、

利用し

八百四十頭あまりの鋪馬を使用していた。「往返すること百八十五次」という表現は、

チベット方面から来るも

のとチベット方面へ戻るものとの両方を合わせ、さらに人数ではなくチベット僧のグループの数を示したものであろう。

一グループの構成人数は前節の検討のとおり幾分幅があるので、

[F]から往来したチベット信の人数を正確に割り出す

ことはできないが、彼らが利用した鋪馬の数は一月あたり約百四十頭、

一年に換算すると約千六百八十頭となる。

一方

[D|

ニで見た大億九年の例では「西香の節績して差来せる西借は八百五十鈴人」と表現されていた。これがチ

ベット方面からやってきたものと、

チベット方面へ蹄るものとの雨方を示していると断定する根擦は無いが、

[E]に見

える各結赤におけるチェック瞳制を勘案しても、片方だけをあえて取り上げて中央に報告するのは不自然だろう。これも

[F]と同じく、往復雨方の教を示しているものと考えたい。

[D

ニでは、

一年あたり約八百五十人のチベット信が

千五百四十七頭の鋪馬を利用していた。人数については比較できないが、利用鋪馬数に闘しては

[F]とおおよそ近似し

た数値を得ることができる。もちろん時期によって往来規模の愛動はあったであろうが、これらはチベット借のチベッ

ト・大都聞における往来朕況を考える上で、極めて貴重なデ

lタである。

では西蓋御史の李昌が「之を諸王・行省の使

に較ぶれば、十に多きこと六七なり」と遮べている。このように拍赤を利用したチベット借の往来が同時代人から非常に

土品れん、

D

では遇政院使の察乃が「甚だ頻数に至る」と言い、

[F]

頻繁なものと認識されていた事賓も注目すべきである。官街が祇遣する一般の使臣の往来が頻繁であることも、時には問

(お)

題とされた。しかし、拍赤利用数の多さを問題とする

(羽)

いのである。

『措赤」に記される案件は、

チベット借に関わるものが匡倒的に多

103

本章で検討した事例は、

いずれも帝師以外のチベット借の漢地・チベット聞の往来状況を示すものである。チベット信

の往来の頻繁さは在地の姑赤においては問題覗されるが、「カアンのために備事を行う」という建前をもって、相首数の

チベット借たちがこの拍赤システムを利用し、

チベット・漢地聞を往来していたのである。

社弟二土早

チベットへの物資輸迭

『姑赤』に記されるチベット借に闘わる記述は、桔赤システム運営上、何らかの問題が起きた「非常の際」に現れるも

263

のである。その問題とは、

一つは第一章で見た、チベット借の結赤の利用頻度の高さであった。しかし、看過できない問

264

題がもう一つチベット借によって引き起こされている。それは、鋪馬に積載される荷物の重量の問題である。本章では

『拍赤』

の記事に基づき、

チベットへの物資の輸迭について考察を行う。

第一節

チベット償の鋪馬による物資輸迭

まず次の

『措赤」四の記事を検討してみよう。

[G]大徳元(一二九七)年四月

(

)

太原路脱脱禾孫言えらく、「本路の拍赤は、東は員定に接し、南は平陽に至る四達の路なり。(中略)比年鋪馬は

ウラ

lチ(訂)

損艶し、姑戸は困窮す。其れ西番の僧使は、施駄すること重きは二三百斤、軽きも百五十斤を下らず。又た冗刺赤

は、馬後に物を附し、常に馳膝を行、っ。今後乞うらくは脱脱禾孫及び拍官の量定に従り、馬毎に百斤を載することを

104

許し、急務に非ざれば馳走するを得ざらしめんことを。庶い望むらくは桔赤の少しく匙らんことを」と。都省擬を準

(

)

す。遍く合層に行りて、上に依りて施行す。

ここでは、鋪馬に積載するチベット借の荷物が、重い場合は二百l三百斤、軽くても百五十斤以上であること、馬夫た

るウラlチが荷物を載せたまま鋪馬を疾走させることが問題として取り上げられている。その上で鋪馬の最大積載量を百

(お)

斤とし、緊急事態以外は鋪馬を疾駆させないことが太原路のトトカスンによって提案され、許可されている。鋪馬が死亡

すれば、姑戸が新たに鋪馬を補充せねばならず、その負携は結戸に重くのしかかってくる。また拍戸が疲弊し、鋪馬・騨

(M仕)

拍の管理がおろそかになれば、拍赤システム白煙の崩壊につながる。これは拍赤管理者側にとってはゆゆしき問題である。

ここで注目すべきは、

チベット憎たちが重量のある何らかの物品を鋪馬で運んでいる事賓である。これに関連して、次

に第一章でとりあげた史料

[C

ニの後績部分を見てみよう。

とりしまる

[C

一一]兵部は止だ八匹を給するのみなれば、臨駄すること過重。行きて添州に至れば、監察の劾する所と矯り、

駄毎に斤一百七十を稽る。事刑部に下せば「詞伏もて擬すらくは杖六十七』と」と。宣政院官俺普上に一一一日いて日わ

く、「是の借遠来し、将てする所の嚢棄は、乃ち上の賜う所の物なり。此を以て過重なれば、請うらくは鋪馬三匹を

増し、速やかに回去せしめんことを」と。旨を奉じて準されたり。又た奏すらく、「西番の借入の駄子の定制に、「一

百斤の上なれば、負載せしむる勿れ』とあり。今駄する所は制に過ぎ、多く鋪馬を索むること三匹、罪は六十七に

古る。臣等おもえらく、借入は権に克罪を擬するも、多く鋪馬を索むるは、復た給すべからず。若し御賜の物有れば、

則ち騨停に従り、駄毎に一百斤を過ぎざらしめ、其の徐の鵠腫の貨は、官力を以って行るべからず」と。上日く「可

(お)

なり」と。

先に奉、げた

[C|一]には、六人のチベット憎が十一頭の鋪馬を利用して大都にやってきて、そのうち三人が大都に留

まり、残りの三人がチベットに戻る際、来た時と同じ十一頭の鋪馬の利用を求めたことが記されていた。これに績く

[C

(初)

一己を見てみると、この時期拍赤を管轄していた兵部は三人のチベット借に封して八頭の鋪馬利用を許可するが、大都

のすぐ南の添州で、

一頭あたり百七十斤の荷物を積載していることが護畳する。八頭中、三頭にはチベット借が騎干来して

105

いるだろうから、残りの五頭にそれぞれ百七十斤の荷物が載せられていたのであろう。荷物の合計は八百五十斤であると

考えられる。その後、

一度は宣政院の俺普の提案により、このチベット借たちが首初求めていた十一頭になるように、鋪

馬三頭が迫加支給されることになった。その際、

[G]の規定の通り一頭あたり百斤の荷物を載せるとすると、積載可能

な鋪馬は八頭であるから、合計八百斤しか載せられない。残りの五十斤は、大都に留まる一一一人に託したのかもしれないが、

この一行が八百l八百五十斤の荷物をチベットに持ち蹄ろうとしていたことは明らかである。しかし最終的には、この庭

(訂)

分は中書省によって覆され、鋪馬三匹の増給は却下された。

では、史料

[G]

[C

一一]

でチベット借たちがチベットへ運ぼうとしていた物は一睡何であったのか。

[C

一一]には、

265

鋪馬への過積載の規程遠反を犯したチベット借たちに封し、「(荷物の)ふくろの中身は、

カアンからの賜り物である」と

266

いう俺普の詩護が見える。また、後半部の中書省の上奏においても、「カアンからの賜り物は描赤を利用して輪迭してよ

いが、鋪馬二唄あたり百斤までとする」とされている。

つまり彼らが輸迭しようとしていた物は、「ヵアンからの下賜

口問」であったのである。彼らが僧侶である勤、前章の検討で判明したように大都にやってくるチベット僧たちがカアンの

ために併事を行っていた黙を考慮すれば、これはチベット借たちがカアンのために行った備事に封する「布施」であると

考えるのが安首であろう。このことは、次節で提示する史料

[H]によっても傍註される。さらに、後宇部の中書省の上

奏中には、「その他の贈り物の貨物は公的手段で輸送させるべきではない」という表現があり、

チベット憎たちは漢地を

カアン以外から贈られた物品も拍赤で運ぼうとしていたことがうかがわれる。

では名前が特記されない「西番の借使」が、

[C

一一]では「西番惜の乞刺思八班等六人」のうちの三人が、

鋪馬に物品・布施を積載してチベットへ向かっている。これらも漢地における帝師以外のチベット信の活動の例であるこ

去るにあたり、

また

[G]

とが指摘できる。彼ら個々人のチベットへの物品・布施の輪迭は、描赤で提供される鋪馬の背に載せて行われるものであ

、hwv

った。拍赤を利用しないチベット僧の往来状況については知る手立てがほとんど無しカ首該時代に拍赤システムが存

106

在・整備されていた賦況をたくみに利用していたチベット信もまた、多く存在したのである。

第二節

車輔・船によるチベットへの輪迭

個々のチベット借が鋪馬の背に物品を積載してチベットへ持ち踊った事例は前節で検討したとおりであるが、鋪馬に載

せられる量には限界がある。だが鋪馬以外の輪迭形態もあった。

一つは車輔による輸送である。『拍赤』四には、

チベツ

トへ運ばれる物品についての次のような記事がある。

[H]大徳五(一三O二年十一月

保定路定興騨言えらく、「本姑の見設の車は一十五輔にして、輪流遁運し、曾て少しも休まず。(中略)首拍略ぼ奉

ぐるに、

モンゴルこうぞく

八月二日より二十三日に至るに、御位下の来使、及び茶忽員妃子位下ありて、鈴車の層付するは一百鈴輔

内において民車四十四輔を韓雇せり。〔定興騨は〕通負せる紗錠あれども、

卒に措く所無し。

又た西香に布

を過ぎ、

施を迭るに車を回すこと七十五輔ありて制州より績運する有り。門しかし今一]方に西骨に布施を迭れる車五十鈴輔を

封州

U刷出川副即ち今〔七十五師分の布施の輪迭に封して車輔を〕庭付せんとするも〔定興騨の車輔は〕敷かず。徒

に快事するのみに非ずして、誠に結戸逃亡し、騨運〔制度そのもの〕を廉廃せんことを恐る。事を匝慮せられんこと

を乞う」と。(後(恥一。

{疋興騨は本来十五輔しか車輔を保有していないが、モンゴル皇族の物資輸送などのために多くの車が必要になる場合は、

民聞から車を有償で借り上げて輪迭をしていた。本丈中には四十四輔を借りて百輔分あまりの輪迭を行ったことが記され

るが、それでも定興騒が利用できる車輔は合計五十九輔しかなく、百輔あまりの輸送を行うには、四十一輔以上は同じ車

107

を二回使わないと運びきれない。この状況が「輪流遁運」という語で端的に表されている。すなわち、保有車輔以上の輪

迭を行う際には、民間の車を借り上げたうえ、次の際までピストン輸送をしていたのである。

この史料では、特に傍線部の箇所を取り上げたい。ここでは、添州の姑赤から定興騨にチベット方面への七十五輔分の

布施が迭られてきたが、ちょうどチベット方面へ五十細分の布施を次の拍赤へと送り届けたところであったため、封鷹が

困難である拭況が述べられている。まず、明白に「チベットへ布施を輸送すること」が記されている賠に注目すべきであ

る。また、一体州は定興の北隣の拍赤であり、

チベットへ運ぶ布施が大都方面から迭られてきたのは間違いない。さらに元

来十五輔しか車輔を備えていない姑赤にとって、合計百二十五輔分の輸送は、通常想定されている輪迭能力の八倍強の業

(判)

務であったと考えられる。それゆえ、このチベットへの布施の輪迭は相首大量であったものと判断できる。このような大

量の布施は、大都方面から運ばれてきたことからも、

カアンをはじめとするモンゴル皇族が贈ったものと考えられる。

267

さて、第一章で引用した史料

[D|

ニの後牛部分には次のような記述が績く。

268

[D

一己縞かに照すらく、大都より衛輝に至る二十二描は、若し此等回程の西借を将て、水騨に従りて以て衛輝に

達せしめ、人は則ち馬に換え、物は則ち車に行り、本院の官に従りて、更に相い提調して起護せしめ、脱脱禾孫は至

る所に静験すれば、鋪馬を減省せしめ、措戸の少しく匙るに庶幾からん。又た拍車の毎輔の載物は一千斤、馬の負い

たるは百斤を過、ぎざらしめん。(後略)」

0

〔五月〕十四日、察乃の陳奏する所を以て聖旨を準されたり。遍く合属に行

(社)

りて上に依りて施行す。

ここでは大都からチベットへ向かう路線のうち、衛輝までは水騨、すなわち船を使ってチベット僧・物資を移動させる

ことが提案され、裁可を得ている。ただし衡輝以西については、

チベット借は鋪馬を利用し、輪迭物については車輔を利

用することになる。ここからは、大徳十年五月以降、

(必)

とがわかる。これが鋪馬以外を利用してチベットへ物品を輸送する際の二つ日の形態である。

一定の匝聞はチベットへ運ぶ貨物は船で輸送されることになったこ

は明白であるが、

[H] のような大量の布施の輸迭がどれくらいの頻度で行われていたのかは、事例が少ないため不明で

108

車輔・船を利用した輪迭は、前節で検討した個々のチベット借による鋪馬での輸送と比べて、その量が格段に多いこと

ある。それぞれの事例になんらかの名目||例えばチベットにおいて大規模な法舎を開催するのにあわせての布施の輸送

ーーがあったのかもしれないが、推測の域を出ない。また、車輔・船を利用するのは、

モンゴル皇族が主瞳となって大量

の布施の輸送を行う場合である、とも一概には言えない。

[D

一一]

のように、個々のチベット僧がチベットへ一民る際に

も、車輔・船を利用して物品を輪迭することが想定されているからである。

クピライ時代後期頃から重量のあるものは車師で、後には船で輪持活

(必)

することが奨闘され、各地の車・船は順次整備されていったことが指摘できる。しかし、地形的な制約から鋪馬で輪迭せ

(

廿

)

ざるを得ない地域もあった。また、車運に比べて輸送コストが低い船運の方がより推奨されるようにもなるが、スピード

(一心)

の面で船運は車運に劣ることがある。もちろん車に比べれば、鋪馬の方が断然速い。輪迭を行う側からすれば、速度の問

一方、拍赤システム白樫の展開の過程からいえば、

題などを考えると、鋪馬↓車輔↓船の順に輸没一方法の選揮の優先度は低くなるであろうが、拍赤を管理する行政側からす

れば、望ましい輸送手段の優先順位は逆になる。

つまり、政府によって車・船の整備が進められでも、布施などを輪迭するチベット借にとっては、鋪馬を利用した輸送

に比べて、車運・船運を選揮するメリットは必ずしも多いわけではなかったものと思われる。ここまで奉げてきた史料を

もう一度見直せば、

[G]大徳元(一二九七)年・

[C]延祐元(二三四)年は鋪馬で、

[H]大健五(二二O一)年は車輔

で布施がチベットへ輸送されていた。

[H]は輸迭主樫がチベット借ではなかった可能性があり、なおかつあまりにも輸

迭量が多かったため、車運が選躍されたのかもしれない。しかし、車・船での輸送が奨勘されている朕況下で、

[G]

[C]の事例のように鋪馬で輸迭が行われ、同時に過積載の問題が生じたのは、輸送主瞳であるチベット借が、そのデメ

リットを勘案して車輔・船の利用を嫌った可能性が指摘できる。

第三節

モンゴル皇族によるチベットへの布施の輸送をめぐって

109

前節で取り上げた史料

[H]の検討の中でも言及したが、この時代、大量の布施を出すことができるのはカアンをはじ

めとするモンゴル皇族以外考えられない。周知の通り、すべてのモンゴル皇族が大都にいるわけではない。多くの諸王は

自身の本棟地にいるわけだが、諸王たちの布施の輪、迭に閲して、『結赤』二に次のような規定が見える。

[I]至元十六ご二七九)年五月二十日

一つ一言えらく、民戸及び諸王の布施の物は、鋪馬を給して行る者有り。今議したるに諸王の布施は、鋪馬を起こす

(幻)

を許し、其の絵の借入は、給騨を得る母れ。

つまり諸王が拍赤を利用して布施を送ることは、公的に認められていたのである。後半部分で「その他の僧侶は、描赤

269

を利用してはならない」と言っているのは、布施を運ぶ際に同行する可能性がある僧侶を念頭においた規定であろう。こ

270

こでは鋪馬を利用した布施の輪迭が想定されているが、前節で述べたとおり、

クピライ時代後期頃からは、車輔・船を利

用した物資輸送が推奨されている。この案件は、政府が輪迭手段を鋪馬から車・船へ轄換させる以前のものといえよう。

さて史料

[I]は、合計十五の同時に出された係書一の一つである。その他の候書一の中には、チベットへ向かう使者につ

(

)

(

)

いての規定や、チベットと深い関わりを持つコデン家のジピクテムル王の使者についての規定が記されている。

[I]白

[I]を含む一連の係書一は、直接的にはジビクテムル王がチベ

瞳は布施の輪迭先を具瞳的に遮べているわけではないが、

ットへ迭る布施や使者を想定しているものである可能性は高い。カアンのために悌事を行うチベット借がいるのと同様に、

諸王のために悌事を行うチベット僧がいたことも十分に考えられる。

諸王・尉馬などがチベットへ頻繁に使者を抵遣していることを示す記事は

『姑赤』中にいくつかある。例えば大徳十

(二二O六)年の案件では「諸王・鮒馬は上命を奉ずるに非ざれば、西番に清一使するを得る母れ」という聖旨が引用され、

その上でまだ彼らのチベット方面への遣使が多いことが遮べられる。また、延祐一一(一二二五)年の案件では、中書右丞(

孔)

相のテムデルたちが、諸王・公主・鮒馬がチベットへしきりに使者を抵遣するので、拍赤が疲弊していると上奏している。

(臼)

さらに、天暦二(一三二九)年の案件でも、諸王・尉馬などがチベットへ使者を抵遣することが多い賦況が述べられる。

円U

モンゴル時代において諸王がチベットへ頻繁に使者を迭っていたことは、以上の例から明らかである。ただし、その遣

使の目的について明確に述べる史料は、管見の限り見出せない。しかし、史料

[I]で諸王が布施を鋪馬で運んでよいと

されていることと、諸王がチベットへ頻繁に使者を祇遣している事賓とをあわせて考えるならば、諸王が主瞳となり、結

赤を利用してチベットへ布施を運び込んでいたことは、十分に推測できる。

姑赤というモンゴル帝国の公的交通システムを利用した、布施をはじめとする物品のチベットへの輸送がこの時代に行

われていたこと、そしてそれが拍赤管理の現場においては史料上に残るほど厄介な問題として認識されていたことは、以

上の検討から明らかである。

さて、第一章で史料

[D]を引用した際、チベット憎が一年間で利用した鋪馬のうち、空馬が七百四十七頭もいること

になると指摘したが、本章の考察をふまえるならば、少なくとも大都からチベットへ戻る際、チベット僧が騎乗していな

い鋪馬の背には布施などの物品が積載されていたと考えてよかろう。結赤を利用したチベット僧の人数に比べて鋪馬の数

が二倍近くもあった理由は、このような輪迭を考慮に入れると説明がつく。

個々のチベット借たちの往来によって、あるいはモンゴル皇族が主瞳となって、大量の布施がこの時代にチベットへ流

れ込んでいた。この現象白煙は、

おそらくこれまでも、ある程度は想定されていたことかもしれない。しかし、その具樫

像は明らかにされていなかった。最後に特に次の二貼を強調しておきたい。

一つは、帝帥以外の多くのチベット借たちの

往来がチベットへの布施の流入の背景にあったこと。もう一つはカアンのみならず、諸王も自身の本擦地などからチベツ

トへ姑赤システムを利用して布施を輸送していた可能性があること。これらは従来史料を奉げて貰誼・検討されていなか

った酷であるが、この時代のチベット・漠地間交通の具瞳像を描く上では、快くことのできない重要な要素であると思わ

れる。

本稿ではモンゴル時代において、結赤を利用してチベット・漢地聞を往来するチベット借の一グループの構成人数、年

聞の往来規模、拍赤に設置される鋪馬・車柄・船を利用したチベットへの布施・物品の輪、乏の具盟像を明らかにしてきた。

そして、

カアンをはじめとするモンゴル皇族のための備事、その結果としての布施の獲得、チベットへの布施の輸送とい

う事象の背景には、帝師以外の数多くのチベット借の活動が存在していたことを指摘した。これはモンゴル時代における

チベット借の活動の一面として注目に値する。

271

さて、本稿で明らかにしてきたチベット借のチベット・漢地聞の往来からは、

モンゴル時代にチベットが悌数を「輪

272

出」し、

モンゴル皇族が布施を「支梯う」という構固が出現することが容易に看取されるだろう。チベットはインド世界

から悌殺を向学んでいた「偶数輸入園」から「併敬輸出園」

へと、

モンゴル時代に轄換したといえる。そしてモンゴルが北

蹄したあとも、

チベット借たちは明・清といった漢地に基盤を置く政権のもとに赴き績ける[乙坂一九九八、四九八六、

九五一四八頁/石漬二OO一、三二一コヱハ一頁など]

0

つまり「悌数輸出国」としてのチベットの歴史的役割は、明・清時

代になっても饗わらなかったと考えられる。すなわち「悌数」を武器としてチベットが漢地世界から財を手に入れる構造

は、モンゴル時代にその足場が固められたといえる。このように考えると、

期であったことに疑いの絵地はないだろう。

チベットの封外闘係史上、

モンゴル時代が劃

従来この「備事」と「布施」を介した、チベットと大元ウルスを含む漢地政権との闘係については、特に「布施」の動

きについて具睦像が明らかにされたことはなかった。本稿はチベット・漢地聞の交通の様相を解明する中から、この闘係

(日)

を理解する上で明確な根擦を提示したものといえる。

しかしながら、本稿第一章で多少は言及したが、

チベット僧たちはどのような手段で拍赤利用許可誼を入手し、拍赤を

つム

利用できたのか。また、本来情報・命令の迅速で正確な惇達を目指した拍赤システムにおいて、物資輸、迭はどのような位

置付けであったのか。姑赤制度白瞳の研究の深化もこの先必要である。同時に、最後に示した「備事と布施を介したチベ

チベット枇舎にどのような影響を輿えたのか、という問題も残されている。これらの賄

ットと漢地政権との閲係性」は、

については、今後の検討課題としたい。

文献目録(引用の際は初出年を奉げ、頁教は再録された著書の頁教によった0)

安部健夫一九ゴ二「元史刑法志と『元律』との闘係に就いて」『東方皐報(京都)』二o

(

再録一安部一九七二、

頁)。

二五三二七六

石漬裕美子

石漬裕美子

石演裕美子

乙坂智子

乙坂智子

乙坂智子

273

一九七二「元代史の研究」創文枇。

一九九四「パクパの悌教思想に基づくフピライの主権像について」『日本西蔵皐合々報』四

O、一二五四四頁。

二OO一『チベット悌救世界の歴史的研究』東方書庖。

二OO二「パクパの著作に見るフピライ政権初期の燕京地域の朕況について」『史滴』二四、二四九二二六頁(逆

頁)。

一九六五「元の帝師に関する研究||系統と年次を中心として||」『大谷大学研究年報』一七、七九一五六頁。

一九六二「蒙古史料に見える初期の蒙裁関係」『東方皐』二三、九五一

O八頁。

一九八六「リゴンパの乱とサキヤパ政権||一川代チベット関係史の一断面||」『悌救史研究』二九二、五九八

二頁。

一九八九「サキヤパの権力構造||チベットに針する元朝の支配力の一計債をめぐって||」『史峯』一一一、一二四八

百ハ0

一九九

O「元朝チベット政策の始動と印刷究遷||関係樹立にいたる背景を中心として||」『史境」二

O、四九|六五

百九

一九九八『蟹夷の王、胡褐の借||元・明代皇帝権力は朝鮮・チベットからの入朝者に何を託したか||』平成

八・九・一

0年度科学研究費補助金報告書。

一九四二「元の功徳使司に就いて」『支那悌数史息子』六|二o

(

再録一野上一九七八、一二九|一四一頁)

0

一九七八『元史調停老停の研究』朋友書応。

一九

O九「蒙古田畔惇考」『東洋協合同調査部向学術報告』一o

(

再録一羽同一九五七、一一一一一頁)

0

一九三

O『元朝騨惇雑考』(東洋文庫叢刊「、水楽大血ハ』本『経世大典』姑赤門複製本附録)

0

(

再録一羽同一九五七、一二

一一一一四頁)。

一九五七『初日博士史皐論文集歴史篇』東洋史研究舎。

二OO六「元代の命令文書の開讃使臣についてーーその人的構成と巡照ルlトを中心に||」『東方向学』

O六頁。

二000「中園交通史||元時代の交通と南北物流||」松岡孝一

五ー一五七頁。

(編)『東アジア経済史の諸問題」阿件壮、

「程復心『四主豆草園』山版始末孜||大元ウルス治下における江南文人の保奉||」『内陸アジア一一一日語の研

究』一六o

(再録・宮二

OO六、三二六三七九頁)

0

二OO六『モンゴル時代の出版文化』名古屋大皐出版舎。

二OO四「高麗における元の苅赤||ル

lトの比定を中心に||」『史淵』一四一、七九二六頁。

一九五四「別里寄文字孜||元典章研究の一的||」『東方自学報(京都)』二四、三九七四四二頁。

二OO五「(書評)

H

F

E円『

05-F昌?pqaNHNきミミ忠二出S向。~haNgrト2

Fロ¥切

O印門

opNCE」『内陸アジア言

訴の研究』二

O、今一二二二二五頁。

二OO六「元朝斡脱政策に見る交易活動と宗教活動の諸相||附「元典章』斡脱関連係文語注||」『九州大事二十

一世紀COEプログラム(人文科挙)東アジアと日本||交流と愛容』三、一一一一一一一頁。

OO六『蒙元際結交通研究』山昆漏出版社。

胡其徳一九七八『元代騨遜制度研究』園立墓湾師範大島了歴史研究所碩士論文。

OO六『元史研究』一帽建人民出版世。

張雲一九九八『元代吐蕃地方行政樫制研究』中園枇合同科卒山版刷。

明門戸口

roa回目匂∞一{叶

H『主同

HZH口

J

へ戸山口

(urHロmH』

crロロ「山口問

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He(め門日)叫の

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d口HぐOH出HFU1H)円。印mr官官

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o-rHEEH)EFUEHdhH8222(UPENS門町、弘司足shop忌町、

22》言自室九H4・nhbb込芸人向、戸当見出『注目

274

O O

山山森宮

本崎平

明雅紀

志忠彦子

四日市康博

キ+-

同吉岡(

1)

本稿では、現在の中華人民共和国西戴自治匿のみならず、

青海省、甘霜省、四川省凶部なども含め、モンゴル時代に

おいて宣政院が管轄する領域をチベットと稀する。

(2)

これまでに拍赤システムの解明を試みた古典的業績とし

て、羽田会九

O九、初同一九三

Oがあり、欧米では

2FE宮

52を奉げることができる。しかしながらその

後、これを承けた研究はわずかである。そうした中にあっ

114

て、松田二

000はこれまでのモンゴル時代の交通史研究

をまとめ、さらに江南からモンゴリアへの穀物輸送に闘し

て新知見を示している。また、森平二

OO四は高麗におけ

る苅赤ルlトの綿密な比定を行っている。いずれも描赤研

究において、注目すべき成果である。さらに松出二

OO六

は開語使臣の姑赤利用についても検討しており、近年姑亦

は再び注目を集めていると言えよう。なお、黛二

OO六は

275

結赤に関わる専著として注目すべきものであり、また劉二

00六、一六七一七

O頁は、中園における首該時代の交

通研究の的確な整理を行っており、有用である。ただし現

段階において苅赤研究は、その制度面の詳細や特定地域内

の路線・際結の沿革の分析に重執が置かれ、本稿で扱うよ

うな「チベット漠地」聞といった遠隔地域聞の交通の問

題については、ほとんど検討されてはいない。

(3)

宮二

OO一、三七七三七八白丹、註一一一一は、『席代名

臣奏議』所牧の鄭介夫の上奏文は成宗期のものではなく、

仁宗時代のものであると考誼する。これに従う。

(4)『歴代名臣奏議』巻六八/『一冗代奏議集録」ド(漸江古

籍出版壮、一一五百九)。先将西番大師留京都者、以種敦遣、

悉令還図。

(5)都功徳使司の官員。都功徳使司は備教関係の官街で、至

元十七(一二八O)年に初めて設置された。その沿革につ

いては、野上一九四二/張一九九八、七回|八一頁参照。

(6)

張一九九八、七九八

O頁には都功徳使司の官員の名が

列挙されているが、この人物は紋落している。この人名は

チベット語で解揮するならば、リンチエンタクジヤンベル

(回国各3mgm回

rz口問εと)と復元できるであろうが、

断定はできない。以下同様にチベット語推定復元が可能な

場合は、綴り字轄寓を註において示す。

(7)

この名は、チュ

lペルロドゥ

l((UFSL官-zcmg切

)

といった人名をの『EECと省略したものと思われる。

(8)

ソナムギエルツェン(切田口ιEE印門間可

mLHHErs)0

(9)

ドカム

(zr525)o現在の青海省から四川省昌都附

近を指す。

(日)「好事」については、ここでは「悌事」と解穫した。直

誇樫で圭目かれた『姑赤』九(東洋文庫影印本[以下同じで

四I右左)所収『元朝典章』「姑戸不便」には、至元十

六(一二七九)年五月二十日の聖旨の候格の一件に、「『大

王毎好事底勾首寓着裏的[上]頭、所用底物取去阿、鋪馬

裏行有。宏生般省着行』座這奏有。諸王行也者、商量了

也」陵道奏阿、「那般者」座遁聖旨了也。(「『大王〔諸王〕

たちが好事のことや寓経することのため、使用する物品を

取り運ぶのに、鋪馬で行くものがあります。このようなも

のはやめさせてはいかがでしょうか』と〔塔察児が〕上奏

してきています。諸王たちは〔鋪馬で〕行かせましょう、

と〔この問題について〕議論いたしました」と〔中書省の

お歴々がカアンに〕上奏したところ、「そのようにせよ」

と聖旨があったo)

というものがある。これに到臆する

『経世大典」苅赤門の記事は『描赤』一一(十一丁右)至元

十六年五月二十日にあり、「諸王作悌事・寓経等、取運物

色。合無減省給騨。今議並依己行」とある。前者の「好

事」の語は、後者の「備事」に釣廃している。なお「起

建」は何らかの設備を整えることであるので、「起建具

迭」とは道場などを建てて、備事を執り行ったことを一百う

ものであろ、つ。

(日)「姑赤』六(八丁右)

0

(

延祐)一二年正月十四日、都功徳

使輩箕乞刺思姑班奏奉聖旨、「捌思羅師父・門徒峻南監蔵

276

者、欲回采甘思之地。本併毎年率三十衆、位同朕起建具迭好

事一月。其令省部副酌、雁副鋪馬以行」o

兵部議得、所索

鋪馬、別無欽賛御賓聖旨。具呈都省給降。

(ロ)

[

A

]

の案件が出された首時、中央における結赤管理機

闘は兵部であった。姑赤管理街門の愛逗については羽田一

九O九、二一ーー一三頁/羽出一九三

O、五二|五九頁参照。

(日)苅赤の利用、すなわち宿舎・食糧・鋪馬の支給を許可す

る詮明書として、鋪馬聖旨・鋪馬令旨・鋪馬剤子があり、

設給主慨によって名栴は異なる。この詮明書と地位・資格

を明示する牌[後掲註(お)参照]などを提示することで、

はじめて姑赤を利用できた[羽田一九O九、一四頁/松田

二000、一回

O頁]o

また、鋪馬聖旨は御賓が捺されて

いるので御賓聖旨とも呼ばれる[黛二

OO六、一一一一頁]

0

(M)ペルギウlセル(ロ司己mヨィιNOH)0

(日)サムテン(出回日Bmgロ)。

(時)リンチエンタク(何百円}見出問

E四回)

0

(げ)『姑赤』六(八丁右)。(延祐三年)四月十二日、丞相阿

散・平章李這復・冗伯都刺生寸奏、「班吉斡節児議主之下三

丹議主有疾、奉己円令同輩員乞刺思師父回選西番。三丹及其

徒共四人起鋪馬四匹。又朔思羅師父・徒弟唆南監裁等六人

起馬六匹。都省見存鋪馬聖己円不敷。H

右輿此館、亦難拘牧。

合無定擬西番回倍。今翰林院副酌捧節、語馬聖旨輿之」

0

奉旨准。都省欽依施行。

(時)黛二

OO六、二二五頁、註一は本案件を引き、使者が翰

林院からではなく、直接中書省から鋪馬聖旨を受け取るこ

ともできたという。チユ

1ロ一行が中書省保有の鋪馬聖旨

を典えられたことから、このように遁べたのであろう。ま

た同書二二二頁では、同じく本案件を引き、チベットに戻

る信には諸王・尉馬などと同様に、中書省を経ずに翰林院

から直接鋪馬聖旨を護給される、と解轄している。本案件

はチベット倫に釣し、中室田省保有の鋪馬聖旨を支給すると

いう方法をやめ、翰林院が検討した上で護給するという方

法に一本化した規定として理解するのが安蛍だろう。一般

の使臣は中書省・兵部などの検討を経た上でベルケが作成

され、翰林院から鋪馬聖己円が愛給されるということは、本

文で述べたとおりである。チベァト信の場合、中書省での

検討を必要としなかったのであれば、この結は通常の使臣

よりも鋪馬聖己円護給におけるチェックが緩められていると

言える。これはチベット憎の結赤利用における優遇措置と

して見ることができよう。

(刊日)タクパベル

(ogm臼七日仏間}印]

)

0

(初)「姑赤』六(五丁右)。(延祐元年十月二十七日)是日、

中書省又奏、「西香借乞刺思八班等六人、一川起鋪馬十一匹

赴都。今欲回還、止有三人、復索一花来馬数。

(幻)ギヤワサンポ(月間可出寸白寸N出口問唱。)

0

(勾)「姑赤』六(十丁右)o

延一両四年九月。

(お)「坊赤』五(五丁右)。(大徳十年)五月十日、通政院使

察乃言、「迩西姑赤不便。自大徳九年至十年正月、西番節

績差来西借入百五十鈴人、計乗鋪馬一千五再四十七疋。至

甚頻数。

ρhυ

277

(μ)

『姑赤』二(三丁左)。一、照依奮例、経過使臣、開具

各位下姓名、井鋪馬数日、費撃是何官司起馬蒙士円字削子、

従某庭前往某慮、幹排是何公事。各苅毎季法冊、申報総管

府、不遇次月初十日以裏申部。なお羽田一九

O九、一五頁

は『大元聖政園朝典章』三十六、兵部巻三、結亦、立姑赤

候格を引則するが、「姑赤』二のこの文章のほうがやや詳

1)

い。

(お)前掲註(ロ)参照。

(お)結赤利用特権を一不すメダル扶の身分誼。固牌とも稽す。

羽田一九三

O、九一一一四頁/黛二

OO六、一九六二

O八頁参照。黛も指摘するが、固符/岡牌の現物は西成自

治匝夕、ンルンポ寺に現存し、これは本史料が言、つような

「余字」である。西寂自治匝棺案館(編)『西戴歴史槍案

蒼粋』文物出版壮、一九九五年、国版七参照。

(幻)『一万史』巻二

O二、緯老惇(中華書局、四五二二頁)

0

泰定二年、西蓋御史李昌一一一白、「営日経卒涼府・静・曾・定西

等州、見西番街旧侃金字国符、絡緯蓮途、馳騎累百、惇会白至

不能容、則伎館民舎、因泊一逐男子、好汚女婦。奉元一路、

自正月至七月、往返者育八十五次、用馬至人工円四十鈴匹。

較之諸王・行省之使、十多六七o

(後略)」

0

(お)『苅赤』二、至元十三年七月(八J左九丁右)など。

(鈎)もちろんこれは、ヵアンをはじめとするモンゴル皇族の

帝師とチベット悌教に封する隼崇を背景とするものである。

苅赤利用においてチベット信は、特権的利則者として捉え

ることができるであろう。チベット併はカアンをはじめと

するモンゴル皇族、ひいては園家のために備事を行ってい

る。それゆえ、チベット借も「公」のために働いていると

も言える。しかし、その位相は一般の官街で働く官員たち

とは異なり、よりカアンの心理的・物理的に近い所に位置

していると考えられる。モンゴル皇族の資金提供を、つけて

活動するオルトク商人も、官位を持たないけれども、チベ

ット信と同様に特権を享受して姑赤利用をしていた[四日

市二

OO六、二一頁]o

この貼で、チベット借とオルトク

商人は同様の位相にあったと理解することもできよう。

卜トカスン

(初)脱脱禾孫は、重要な地貼の結赤に置かれた官員であり、

結赤利用者の規定違反を取り締まった。初同一九三

O、七

。|七一一良/松田二

000、一四O頁参照。

ウラ

1チ

(況)冗刺赤は鋪馬をひいて次の姑赤へ引、会する馬夫。初同一

九三

O、六八|七

O頁参照。

(お)「姑赤』四(十一丁左十二丁右)o

大徳元年四月、太

原路腕脱禾孫ニ一日、「本路苅赤、東接員定、南至卒陽、四達

之路o

(

中略)比年鋪馬損発、姑戸困窮。其西番信使、騎

駄重者二三百斤、軽者不下百五十斤。又一ん刺赤、馬後附物、

常行馳駿。今後乞従脱脱禾孫及布一目量定、毎馬許載百斤、

非急務不得馳走。庶望姑赤少珪」。都省準擬。遁行合属、

依上施行。

(お)「鋪馬一頭あたりの積載量は百斤まで」という規定は、

管見の限りこの大徳元年の記事が初出である。なお、「便

覧風の法典」と安部健夫によって評債されている『成憲綱

要』[安部一九二二、二七四百八、註六]では、鋪馬の積載

278

重量を百斤までとする規定が大徳十年の通政院の呈文の中

に見出される(『騨結』一[五J右

左]

)

0

(引出)史料

[G]が書かれた成宗テムルの大徳一冗(一二九七)

年頃のチベットは、百十元二十九(一二九二)年に中山人チベ

ットで勃愛した大戦乱「デイクンパの乱」が終息しており

[乙坂一九八六、六一頁]、政治的には安定期に入ってい

る。また、『一花史』成宗本紀の大徳元年の記事中には、チ

ベット内部のドメ

lの十三拍・ドカムの十九姑に針する援

助の記事が見えるが(『元史』成宗本紀二、大徳元年六月

丙辰の僚、十月戊午の候。乙坂一九九

O、五八頁)、これ

はチベット信のチベット・渓地聞の往来が増えたため、チ

ベット在地の結赤も疲弊したという事賓が背景にあるだろ

う。『描赤」中において、大徳年間のチベット僧に関わる

案件は比較的多く(本稿中で取り上げる

[D][G][H]

も大徳年間の案件である)、この時期のチベット・漢地聞

の交通は活溌であったと見られる。

(お)前掲註(釦)参照。兵部止給八匹、施駄過重。行至添州、

一局監察所劾、毎駄稽斤一百七十。事ド刑部『詞伏擬杖六十

七』」o

宣政院官俺普一一百子上目、「是倫遠来、所持嚢墓菜、乃

上所賜物也。以此過重、請増鋪馬三匹、迷令回去」o

奉旨

準。又奏、西番信人駄子定制、「一百斤之上、勿令負載』

0

今所駄遇制、多索鋪馬三川。罪蛍六十七。臣位一寸以魚崎旧人権

擬克罪、多索鋪馬、不可復給。若有御賜之物、則従騨停、

毎駄不過一百斤、其鈴飯睦之貨、不得以官力行」o

上日

「可」o

なお「西番偉人駄子定制」は具程的には、史料

[G]そのものを指すであろう。

(お)前掲註(ロ)参照。

(幻)史料

[C

一一]は仁宗アユルパルワダの延祐一川(一一一一一

四)年のものである。中央チベットでは、江南に流されて

いたパクパのオイであるサンポペルがサキヤに婦還し、サ

キヤ寺の座主に就いてすでに八年が経過している[乙坂一

九八九、三

O頁]o

この時期もチベット本土の政治情勢は

安定している。また、延楠元年には、チベット在地の姑赤

が疲弊したため、政府によって援助がなされる記事が『拍

赤』六(二丁左三丁右)延茄元年四月一一一日の案件に見え

る(『元史」巻二五、仁宗本紀二、延柿元年四月丁亥の係、

乙坂一九九

O、五八頁も参照)。さらに史料

[C

一己の

直後に記される『姑赤』六(五丁右)、延結元年十月ロル月

の案件には、チベット憎の苅赤利用が多く、漢地の保定・

中(出)[山]・員定などの苅戸が消耗していること、トト

カスンに過積載を最しく取り締まらせることが述べられて

いる。前掲註(弘)では大徳年間のチベット借に闘わる記事

が「姑赤』に多く見られると指摘したが、延一桁年間も同様

に多く見られる時期である(本稿中では

[A][B][C]

が延一両年間のものである)o

蛍該時期のチベット・漢地聞

の往来が活設であったことが背景にあろう。

(お)チベット信たちは描赤設置の鋪馬だけを利用して往来し

ていたわけではない。『結亦』四(十六丁左十七丁右)

には次のような記事がある。「(大徳六年正月)二十二日、

通政院使察乃等奏、『諸使及西番借入、所遇措赤、就乗鋪

。。

279

馬、復将常行(巳)[己]馬、需求努粟。合無禁止」o

聖旨

『勿典之。可也』o

省院欽依、移苔行省施行」

0

「巳」字は

「己」に校訂して解皿押した。また、「常行」の語は、「常行

己馬」で「私馬」を指すものであろう。これは、チベァト

信たちが鋪馬に乗っている上、向分の馬も引き連れて移動

している明詮である。彼らは各姑赤で自分の馬の餌をも要

求しているように、機舎さえあればチベット信たちは姑赤

の提供するサービスを最大限受けることを目論んでいた。

この記事は節略された形で『成憲綱要』「長行馬」大徳六

年正月二十三日の係(『騨結』一、二十四丁右)にも見え

る。

(ぬ)『姑赤』四(十五丁左)。(大徳五年)十一月、保定路定

阻ハ躍言、「本拙見設車一十五柄、輪流遮達、不曾少休。(中

略)醤拍略琴、八月二日至二十三日、御位下来使、及茶忽

同県妃子位下、紗車摩付過一百絵柄、於内再雇民車四十図柄。

遁負紗錠、卒無所措。又有西香迭布施回車七十五柄添州績

運。方去西番塗布施車五十徐摘。即今庭付不敷。非徒快事、

誠恐姑戸逃亡、陪照廃騨運。乞匡庭事」0

(

後略)。

(羽)なお、車鞠によるチベットへの布施の輪、乏に関して、松

同二

000、一四一頁は「大都から奉元(l長安)までに

設立された車結は、チベット悌教の憎の物資輸送用であ

る」というが、この事賓を明示する史料は管見の限り見蛍

たらない。問題の垣間における車地設置については、『姑

赤』四(十七丁右十八丁右)、大徳六年正月の案件参照。

(剖)前掲註(お)参照。縞照、大都百七衛輝二十二祐、若将此等

回程西借、従水騨以遠街輝、人則換馬、物則行車、従本院

官、更相提調起務、脱腕禾孫所至時間験、庶幾減省鋪馬、苅

戸少魁。又拍車毎柄載物一千斤、馬負不遇百斤o

(

後略)」

0

十四日、以察乃陳奏準型己円。遁行合属、依上施行。

(必)この規定は「成憲綱要」「西信船馬」(『騨拍』一、二十

二丁左)大徳十年五月の僚にも節略された形で牧録される。

(必)「姑赤』二(十四丁左)、至元十八(一二入会)年九月

の案件からは、東平路在城姑の鋪馬が、重量のある荷物を

輸送することで頻繁に損傷し、それゆえ官物は船・車で輪

迭する方式に切りかえられたことがわかる。また『結赤』

一一一(十二丁左)、至一川二十六(一二八九)年七月十二日の

案件では水姑の整備について述べられているが、臨清に設

置されていた拍車を廃止し、拍車を負捨していた拙戸を船

戸に愛更させている記事がある。

(叫)「姑赤』四(九丁有)、歪元三十(一二九三)年是年の

案件には物資輸送について、「今後合無白初起程、如遇水

路、従舟起運、呆値陸程隆這、以馬接運、及至平川、復以

車力済之」という表現があり、地理欣況に幅応じた船・馬・

車の使い分けについて述べられる。

(必)「姑赤』四(六丁右)、豆元二十九(一二九二)年九月

の案件では、懐孟路から衛州まで、朝廷に運ぶべき重量の

ある物資を船で輸迭すれば、毎年八百飴錠を節約できると

されている。つまり、河の流れに沿った輸迭が可能な場合、

船と車とを比べると、車の方がコストがかかるのである。

また、『姑赤』四(十七丁左)、大徳六(二二

O二)年正月

280

の案件では、街州から朝廷まで「金銀賓貨紗白巾、及び急需

の物」は車輔によって輸送し、その他の重量があって、ゆ

っくり運んでも問題の無いものは船で輸送すべきことが遮

べられる。船運では河の流れに逆らえば速度が出ないこと

は明白である。その場合、車の方が船よりも速く輸送でき

るといえる。なお「金銀賓貨紗吊」が車で運ぶべきだとさ

れたのは、「速く運ぶべきもの」と考えられたこともある

だろうが、これらが高債なものであることを勘案すると、

船の方が安全面でリスクが高いと考えられていたのかもし

れない。

(必)車運に関連して『政憲綱要』「西信船馬」には、荷物を

鋪馬三頭以上に載せることになれば、鋪馬ではなく車鞠を

利用すべきとする大徳七(二二

O一二)年の規定が見える

(『騨姑』一、二十二丁左/黛二

OO六、二四二頁てある

いは、賓際にはチベット備が主髄となったチベットへの車

輔による輸迭も頻繁に行われていたが、それによる問題が

あまり愛生しなかったため、史料に時四らなかったことも考

えられる。しかし、鋪馬への過積載問題が愛生し積けた理

由を考えるには、速度などの車運の持つ問題鮪に注目する

必要があるだろう。

(幻)『苅赤』二(十

I左|十一丁右)

0

一言、民戸及諸王布

施之物、有給鋪馬行者。今議諸王布施、許起鋪馬、其徐情

人、母得給騨。

(必)『苅赤』二(十一丁右)今言、土鉢地差去使臣、除元米

鋪馬定数外、復将大王・岡師鋪馬文書物件以行。臣等議得、

元来鋪馬文書己上、不令増給。なお「土鉢」はチベットを

指す。

(必)「姑赤』一一(十丁左)。一二日、只必銭木児王位下使臣、

己給鋪馬抵慮外、其長行馬匹、復索努粟一伯頓等物。今後似

此者、勿得支奥。なお、この規定、及び前掲註(幻)・(必)

で引用した規定は、前掲註(日)で引用した規定と同時に出

されたものである。

(叩)「姑赤』五(四丁左五丁右)。大徳十年正月三十H。

(日)「姑赤』六(六丁右)o

延祐二年二月二十四日。

(臼)『苅赤』六(十六丁右)o

天暦二年十一月二十七日。

(臼)布施の輸迭とは別の面からも、チベット惜の往来を評債

することができる。山本二

OO五、二二

O

二二三頁で指

摘したように、大元ウルスの歴史を記した『イェケリトプ

チアン』なる書物はチベァトにもたらされ、チベット語史

料におけるモンゴルの王統に閲する記述の典擦になった。

この時代のチベット借の往来は、漠地で編纂された書物の

チベットへの惇播にも寄興したと考えられる。

120

TIBET IN THE AGE OF THE MONGOLS: THE ROLE OF THE JAMe]AND TRAVEL BETWEEN TIBET AND CHINA PROPER

YAMAMOTO Meishi

In order to understand society in Mongol times, clarifying the situation in Tibet

and the role of Tibetan monks is a critical issue. Most previous studies of this

period have focused on government organizations concerned with Tibet, such as

the Department for Buddhist and Tibetan Affairs 'g Ifj( ~1C, and the Imperial Pre­

ceptor *am. This article adopts an innovative point of view, using the study of

travel in an effort to focus on Tibet in this period and actual activities of Tibetan

monks. There are many records related to Tibet monks in a group of documents

concerning the famci, post station system during the Mongol period that are in­

cluded in Yongle dadian 7k~*~. These records have not been used sufficiently

in the past, but on the basis of a thorough analysis of these records, this article

examines the travel of Tibetan monks between Tibet and China proper, and

addresses the activities of Tibetan monks, other than the Imperial Preceptor, dur­

ing this period.

First, in regard to the travel of Tibetan monks between Tibet and China prop­

er, I concretely clarify the scope of one such group in terms of number of mem­

bers and number of annual trips, and prove that contemporary people were con­

scious of the frequency of the trips. Next, I examined the shipment of Tibetan

goods that employed the post horses, vehicles, and boats set up in the ]amci sys­

tem and prove that the most of the goods were offering. The vast amount of

offering proffered to Tibetan Buddhists by the Mongol royal house had been esti­

mated to a certain extent, but the argument has seldom been based on clear fac­

tual evidence from original sources. By focusing on these shipments, this article

makes clear aspects of the flow of offerings from China proper into Tibet.

Buddhism had been brought to the ruling class in China proper from Tibet, and

as a result the foundation for the structure of the flow of wealth into the Tibetan

sphere in the form of offerings was readied in the Mongol period. Although this

fact had generally been hypothesized, there had been little recognition of the role

of offerings. By focusing on the communication between Tibet and China proper

during this period, this article has pointed out the basic evidence needed for an

understanding of its composition.

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