Mahāyānottaratantraparicaya: Sanskrit Fragments from a Newly Available Ratnagotravibhāga...

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印度學佛敎學硏究第 62 巻第 2 号 平成 26 年 3 月 (152) ─ 913 ─ はじめに 『宝性論』 (本偈・釈偈・散文注の合本)に対する梵文で残された注釈は目下2 点が知られているすなわちヴァイローチャナラクシタ(11 世紀頃)MahA- yAnottaratantraTippaNI サッジャナ (11 世紀頃) MahAyAnottaratantraZAstropadeZa とであるが 1) このたびさらにもう 1 点の注釈の存在(未完本)が新たに確認 されたそれはプロトシャーラダー文字で記された一連の写本断片集において他の諸作品の間に紛れ込んでいた写本の由来 まず当該の『宝性論』注を収めていた梵文写本について梗概を示しておきたい 2) 当写本は10 数点の作品を収録する集成本であるがその全体はいまだ得られ ていないかつて筆者はIsIAO の写真版を用いてその中の 9 葉を紹介したこと があるがKano 2008) その後同じ写本に属するさらに別の貝葉の存在が学竹(中国蔵学研究中心) 葉少勇(北京大学)との共同研究を通じて新たに判明し 現在までに確認されたものを総合すると都合 87 葉にのぼる貝葉素材 (54.5 ×5.3 cmに記されたプロトシャーラダー書体という際立った外形的特徴をもつ この写本は書体および収録作品の作者(サッジャナマハージャナ)にもとづき12 世紀頃カシュミール出身者たちによって筆記されたものと予想される(書体 は同一だが筆跡は複数あり) 当地で植生する樺皮を用いずそこに育たない貝葉 を素材に用いた理由が未詳であるため書写地は確定できないが 3) その後の写本 の伝播過程はおよそ以下のように考えられるまず写本は 13 世紀頃チベット人に所有されていたことが知られるそのこ とは写本冒頭葉に綴られるチベット語の偈頌から確認できる偈頌は9 音節 4 句の 3 偈からなり第 1 偈にはこの写本が dpyal ston の家系から輩出した人物 加 納 和 雄 MahAyAnottaratantraparicaya ──カシュミール由来の新出の『宝性論』注梵文断片──

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印度學佛敎學硏究第 62 巻第 2号 平成 26 年 3 月(152)

─ 913 ─

はじめに

『宝性論』(本偈・釈偈・散文注の合本)に対する梵文で残された注釈は,目下,2点が知られている.すなわち,ヴァイローチャナラクシタ(11 世紀頃)作 MahA­yAnottaratantraTippaNIと,サッジャナ(11 世紀頃)作 MahAyAnottaratantraZAstropadeZa

とであるが1),このたび,さらにもう 1 点の注釈の存在(未完本)が新たに確認された.それはプロトシャーラダー文字で記された一連の写本断片集において,他の諸作品の間に紛れ込んでいた.

写本の由来

まず当該の『宝性論』注を収めていた梵文写本について梗概を示しておきたい2).当写本は,10 数点の作品を収録する集成本であるが,その全体はいまだ得られていない.かつて筆者は,IsIAOの写真版を用いてその中の 9 葉を紹介したことがあるが(Kano 2008),その後,同じ写本に属するさらに別の貝葉の存在が,李学竹(中国蔵学研究中心),葉少勇(北京大学)との共同研究を通じて新たに判明した.現在までに確認されたものを総合すると,都合 87 葉にのぼる.貝葉素材(54.5×5.3 cm)に記されたプロトシャーラダー書体という,際立った外形的特徴をもつこの写本は,書体および収録作品の作者(サッジャナ,マハージャナ)にもとづき,12 世紀頃,カシュミール出身者たちによって筆記されたものと予想される(書体は同一だが筆跡は複数あり).当地で植生する樺皮を用いず,そこに育たない貝葉を素材に用いた理由が未詳であるため書写地は確定できないが3),その後の写本の伝播過程はおよそ以下のように考えられる.まず写本は 13 世紀頃,チベット人に所有されていたことが知られる.そのこ

とは写本冒頭葉に綴られるチベット語の偈頌から確認できる.偈頌は,9 音節 4句の 3 偈からなり,第 1 偈には,この写本が dpyal stonの家系から輩出した人物

加 納 和 雄

MahAyAnottaratantraparicaya──カシュミール由来の新出の『宝性論』注梵文断片──

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の所有物である旨が記される4).dPyal家は,dPyal Chos kyi bzang po(?–1217/29)

はじめ多くのサンスクリット学者を輩出した家系であるため,一人の所有者を確定することは困難であるが,およそ 13 世紀頃にはチベットの寺院に保管されていたと考えてよいだろう5).その後,この経帙に含まれていた貝葉は,順不同でばらばらに,およそ三つの

束に分けられて別々の場所に保管されることになる.ひとつの束はシャル・リプク(41 葉),もうひとつはポタラ宮(46 葉),その他の束の行方は不明である.分蔵に至った経緯は未詳であるが,その年代は,梵文写本の蒐集に深く関与した人物を手掛かりに考えると,シャル・リプクへの移送時期が,プトゥン(1290–1364)の時代もしくはチューキョンサンポ(1441–1527)の時代とみられ,ポタラ宮へは,ダライラマ五世(1617–1682)の時代とみて大過はないだろう.本来は一つの経帙に納まっていた貝葉の束が,無作為に振り分けられてシャ

ル・リプクとポタラ宮とに分蔵されるというこの同じ事象は,じつは Abhidharma­samuccayaと AbhidharmadIpavRttiの場合にも当てはまる.前者は,11 枚がシャル・リプク旧蔵,17 枚がポタラ宮蔵,16 枚が未発見,そして後者は,63 枚がシャル・リプク旧蔵,64 枚がポタラ宮蔵,24 枚が未発見である.しかもこれら 2 つの写本および当該の集成本が,ポタラ宮の目録において同じ整理番号に含められている点を併せて考慮すると,かつてはひとまとまりのセットとして同じ場所に保管されていたと予想される6).さて,当該の集成本に話を戻すと,シャル・リプク旧蔵の束 41 葉は,1960 年

前後にはラサに移送された後に北京の民族文化宮図書館に保管され,1990 年代には再びラサに返還された.現存する写真版は,1930 年代にツッチによってシャル・リプクで撮影された 9 葉(現,IsIAO蔵)と北京移管後に民族文化宮図書館で撮影された 41 葉(北京大学がコピーを保管)とがある.いっぽうポタラ宮蔵の束はそのまま同じ場所に保管され,1987 年に中国蔵学研究中心によって 46 葉が撮影された.

同じ写本に含まれる作品

この「集成本」に含まれる作品は,目下,下記の 11 点が比定されており,そのほとんどは新出の作品(従来存在が知られていなかったもの,あるいは梵文原典が散逸したと思われてきたもの)である.各作品の詳細は Ye & Li & Kano 2013 を参照されたい7).

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作品名 葉番号 確認葉数① ZAntarakSita作 BodhisattvasaMvaraviM­

ZikAvRtti1, 2 2

② AmRtAkara作 CatuHstavasamAsArtha (1), 2(完本) 2③ MadhyamakAloka注 1, 2, 3, (4), (5) 5④ SUtrAlaMkAraparicaya 2 ?, (3 ?), (4 ?), 5, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 14, x 12⑤ Sajjana作 SUtrAlaMkArapiNDArtha 1, 4 2⑥ MahAjana 作 SUtrAlaMkArAdhikArasaM­

gati(1) (完本) 1

⑦ MahAyAnottaratantraparicaya 1, 3 ?, (4), (5), x, y, 6, 7, 9, 14, z 11⑧ NAmasaGgIti注 (2), (3), (4), (5), (6) 5⑨ AjAtaZatrukaukRtyavinodanA抜粋 2, 3 2⑩ Pratibandhasiddhiparicaya x 1⑪ Sajjana 作 MahAyAnottaratantraZAstro­

padeZa1 (完本) 1

葉番号:太字=中国蔵学研究中心[CTRC]蔵写真版,下線=IsIAO蔵写真版,それ以外=北京民族文化宮[CEL]旧蔵本のマイクロ.括弧内は葉番号が表記されないが内容から予想されるもの.x, y, z=葉番号不明のもの.

本稿で扱うのは⑦である.それに関連するものは,④⑤⑥⑪である.④⑤⑥は『大乗荘厳経論』への注,⑦⑪は『宝性論』への注であるが,いずれも梵本のみが現存し,漢訳も蔵訳もない.このうち⑤⑥は奥書が得られるため作者名が知られる.⑤の作者サッジャナは,カシュミールで 11 世紀後半頃に活躍した人物であり,⑥の作者マハージャナはその息子である8).いっぽう④⑦は奥書が得られておらず,作者は不明である.

Mahayanottaratantraparicaya

本作品は未知の『宝性論』注である.現在のところ 11 葉のみが回収されており,総分量は不明である.各葉の注釈範囲は,およそ次のとおりである.『宝性論』I.1–2,I.3,I.4,I.5–9,I.10–12,I.12–19,I.23–28,I.28–29,I.37–47,I.79–97,I.134–152.ただし写真版は判読困難な箇所が散在するため,より綿密な調査を要する.本書の奥書は未発見であるため題名を知る直接の手がかりはない.しかし間接

的な手がかりとして,写本左欄外に記される“MahA Pari”という題目の略称が注目される.これが MahAyAnottaratantraparicayaという題名の略称を示している点は,葉少勇がいち早く指摘している.そしてこのことは,同断片集に紛れ込む

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SUtrAlaMkAraparicayaおよび Pratibandhasiddhiparicayaという作品名との共通性によっても支持される.

注釈の体裁

本書は,『宝性論』の偈頌の全体を引用して,そこに独自の散文注を施してゆくスタイルをとる.このため,『宝性論』の偈頌がそのまま回収でき,その異読を拾うことが可能である.それは,『宝性論』本文の改訂に際して有益な資料となる.この注釈のスタイルは,同一帙に含まれる④ SUtrAlaMkAraparicayaおよび⑩

Pratibandhasiddhiparicayaと符合する.そして作品題目に paricayaを附す点,注釈スタイルが一致する点,同一の経帙に含まれる点,これらを勘案するに,④⑦⑩の作者は同一,乃至,同じ伝統に属す人物による著作と考えて差支えないであろう.

著者について

さて本書が,SUtrAlaMkAraparicayaおよび Pratibandhasiddhiparicayaと同一著者であるという推定が可能であるならば,その人物は誰なのであろうか.残念ながら,上記三書はともに断片が知られるのみであるため,著者名を明示するような記述はみつかっていない.唯一,時代を限定する手がかりは,Pratibandhasiddhi­paricayaが注釈対象とする Pratibandhasiddhiの著者 ZaGkaranandanaの年代(11 世紀頃)である9).しかしさらに手掛かりを探ってゆくと,下記のような興味深い記述に行き当た

る(下記 MahAyAnottaratantraparicayaからの抜粋・翻刻は暫定版であり,角括弧内は不鮮

明な文字を示す).

[抜粋① 6v5–7]:yatra prakRtistha(6v6)gotravivRtyA dharmakAyo buddharatne saMkalitaH

puNyasambhArasambharaNAtmakasamudAnItagotraprasUtau sambhoganirmANakAyau

krameNa dharmasaMgharatnayoH pAramArthikatayA saMkalitau || ity ayam atra bhAvArthaH ||

tad asmadguravahtato dhatvartham asritya cintabhavanayor viset || (→ MUU 7cd)

tathagatasya garbhatvat satvarthasya jinasrayat || (→ MUU 8ab)

tathagato va yadgarbhas tat (→ MUU 8c)10)

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ratnatrayaM yad AZritya tat trikAyena piNDitam (N.e. in MUU)

dhatos ca tathataklistaparatantraviviktata | (→ MUU 9cd)

tanmatram prakrtisthas ca samanitas ca na(v7)mavat (→ MUU 10ab)

bodhir guna dharmakayad anyonyanatirekinahgambhiraudariki casya desana kila karanam || (→ MUU 11)

iti | tad ayam atra saMkalito ’rthaH |

[抜粋② 7v2]:svabhavadivyavadhina pindartham yad vibhaktavan || (→ MUU 25cd)

udAharaNabhedena kramasyAsya saMvedakaH (N.e. in MUU)

tatra pindarthanirdesah prak cintavatarasrayahsvabhavader ato vyaktibhavyatvasyanuvartika | (→ MUU 26)

pindarthasyaiva nirdeso yah pascad upamakramatheyam prapyam svabhavader bhavanayas sasamsatiti || (→ MUU 27)

[抜粋③ 7r3–4]:yac ca parArthasvarUpam ity adhigamadharmakAya eveti ZAstraZarIravya­

vasthopavarNitadRZA pratyeyam || yad asmadguravahtrikayam dharmakayam ca trir asambhrtasambhrtau |

parasparena saksac ca sahakarinam asritah || (→ MUU 14)

tathataprakrtavasthasamanitatrigotrakaheti trikayim ca phalam dharmakayatrayim ca sah || (→ MUU 15)

trikAyIpratilambho hy atrAcalAditraye buddharatnAdikramAt pUrvavat | buddhabhUmau ca

[pari .i c.].. 11)[dharmakAyatrayapratilambho] (7r4) bodhiguNakarmayogAd veditavyaH |

yadvA svArthApekSayA trikAyI | parArthAnusAreNa ca hetuphalabhedAd dharmakAyatrayI

veditavyA ||

このなかで抜粋①と抜粋③の太字の箇所にみられる,asmadguravaH「我々の師は」という表現ならびにそれに続くシュローカ調の偈頌が,ひときわ目を引く.じつは,これらの偈頌は本稿冒頭で示した 2 点の『宝性論』注のうちのひとつ,サッジャナ作 MahAyAnottaratantraZAstropadeZa(略称 MUU)からの引用である.上記抜粋において丸括弧内に示した番号は,同作品の偈番号を示している.サッジャナは,ロデンシェーラプ(1059–1109 頃)のカシュミール滞在中(1076–

1092 頃)に『宝性論』をチベット語に共訳しているため,11 世紀後半に活躍した人物と考えられる.そして当該写本は,上述の冒頭葉のメモ書きから 13 世紀頃にはチベットに渡っていたとみられる.そのため,サッジャナを「我々の師」と

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呼ぶ本書の著者は,およそ 11 世紀後半~12 世紀頃に活躍した人物となる.サッジャナの活動地と写本の書体を考慮すると,著作地はカシュミールであろう.なお上記の引用はMUUに一部対応しない偈(上記抜粋の丸括弧内に n.e.と記した

偈頌)を含むことから,当時,MUUのテクストが定まっていなかったことを示唆する.

おわりに

本稿では,カシュミール仏教徒の手になり,かつて dpyal家に所蔵され,その後シャル・リプクとポタラ宮に分蔵された,「集成本」写本について報告した.また,その写本は元々,Abhidharmasamuccayaと AbhidharmadIpavRttiの写本と同じ場所に所蔵されていた可能性を指摘した.そしてこの「集成本」の中から,MahAyAnottaratantraparicayaが新たに確認され,それはカシュミールにおいて 11世紀後半~12 世紀頃に著作されたものであることを明らかにした.カシュミールは,東インドと並んでインド仏教終焉期における仏教教団最後の

拠点のひとつであった.その教学伝統は人的交流を通じて,チベット仏教に受容され,その後の展開の礎となった.これまでカシュミールの如来蔵,唯識の伝統は,チベット語で残された,いわば二次資料を通じて接近するほかに術がなかったが,このたび確認しえた MahAyAnottaratantraparicaya,およびその他のカシュミール撰述の唯識注釈書は,それを知るうえで一次資料としての価値をもつ.今後は,本稿で報告した資料の翻刻,校訂,訳注を,順次発表してゆきたい.――――――――――――――――1) 両書の校訂本は下記所収.拙稿,rNgog Blo ldan shes rab’s Summary of the Ratnagotravi­

bhAga: The First Tibetan Commentary on a Crucial Source for the Buddha-nature Doctrine, Hamburg University(博士号学位請求論文), 2006. Sajjanaの著作については高崎 1975,加納 2006 を参照.

2) 詳細は Ye, Li and Kano 2013 参照.3) カシュミール出身のシャーキャシュリーバドラのような人物が東インドで書写した可能性も考えられる(苫米地等流氏のご指摘による).

4) dpyal ston gdung rabs gser gyi phreng ba la || rim par byon pa’i mkhas grub ded dpon gyis || rgya gar kha spu can gyi pusta kaM || ngo mtshar rnam mang spungs pa’i lhun po che || . . . Cf. Ye, Li and Kano 2013:31–32, 46 n. 3.

5) dPyal家に縁の深い Thar pa glingなどが当初の所蔵寺院とみられる.なお dPyalの家系史類として Padma rdo rjeおよび Shes rab ral griによる著作が存在する.

6) 伝播の過程については,決定できない点もある.元の所蔵場所から,シャル・リプ

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クを経て一部がポタラ宮に移送されたのか,あるいは元の所蔵場所から,直接に両寺院へと分蔵されたのかについては,現時点では不明である.

7) 比定は,③④⑤⑥が葉,①②⑧⑨⑩が加納,④⑦が葉・李・加納による.⑪および②の第 2 葉目は,かつてツッチが写真(もしくは現物)を所有していたもので,ツッチおよび高崎(1975)が個別に紹介しているが,本来は同一経帙に属していたと考えられる.

8) サッジャナとマハージャナについては加納 2006 を参照.9) Kano 2008:383–384 参照.10) 当該偈は d句の途中で切れている.MUU 8d (tathatArthAnuvRttitaH)に対応する句は見出せない.

11) 5 文字分判読困難.

〈参考文献一覧〉加納和雄 2006:「サッジャナ著『究竟論提要』─著者および梵文写本について─」,『密教文化研究所紀要』19, 28–51 頁.

Kano, Kazuo 2008:“A Preliminary Report on Newly Identified Text Fragments in ZAradA Script from Źwa lu Monastery in the Tucci Collection.” In Francesco Sferra (ed.), Manuscripta Buddhica, Vol. I: Sanskrit Texts from Giuseppe Tucci’s Collection, Part I. Roma:IsIAO, 2008, pp. 381–400.

高崎直道 1975:「宝性論の註釈 MahAyA nottaratantraZAstropadeZaの写本」,『印度学仏教学研究』23-2, 52–59 頁.

Ye Shaoyong, Li Xuezhu, and Kano Kazuo 2013:“Further Folios from the Set of Miscellaneous Texts in ZAradA Palm-leaves from Zha lu Ri phug:A Preliminary Report Based on Photographs Preserved in the CTRC, CEL and IsIAO.” China Tibetology 20, pp. 30–47.

(平成 25 年度科学研究費補助金「チベット伝来梵文仏典写本を用いたインド・チベット文化交渉史の総合的解明」[若手 B・23720030]による研究成果)

〈キーワード〉 MahAyAnottaratantraparicaya,『宝性論』,カシュミール,サッジャナ(高野山大学准教授)