八百板季穂博士論文 10228

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発展途上国における都市遺産観光開発に関する研究 A Study of Urban Heritage Tourism Development in Developing Countries 2011 年 3 月 八百板 季穂 Kiho Yaoita

Transcript of 八百板季穂博士論文 10228

発展途上国における都市遺産観光開発に関する研究

A Study of Urban Heritage Tourism Development

in Developing Countries

2011 年 3 月八百板 季穂 Kiho Yaoita

i

要 旨

発展途上国における都市遺産観光開発に関する研究 A Study of Urban Heritage Tourism Development in Developing Countries

八百板 季穂 YAOITA Kiho

本研究は、発展途上国に存する都市遺産を資源とした観光開発地域を対象とし、その開発が地域住民の十分な関与なきまま推進されることに起因する文化遺産の消失および地域住民に対する不利益を問題とする。本研究ではそのような観光開発を「人間不在の観光開発」と呼び、その解決を上位目標とした。そして、その負の影響を回避するためには、観光開発によって損なわれてはならない都市遺産の本質的な価値の把握が必要であるという立場から、具体的な事例地を対象にして、地域住民の生活の遺産的価値を、歴史的建造物群とともに都市遺産の総合的価値として把握すること、また把握された総合的価値の保全状況および観光開発の状況を分析し、課題を抽出することで上記の上位目標に対するその成果を検証し、さらに対象地における都市遺産の総合的価値を保全するための指針を示すことを目的とした。 また本研究は、対象地である南太平洋の発展途上国であるフィジー諸島共和国の旧首都レブカにおいて、筆者が参画した 2006 年から 2010 年までの 5 年間、8 次、638 人日(内筆者調査日数 306 日)を投下した調査のなかから、論旨に必要な部分をまとめたものである。 研究の方法は、次の通りである。対象地として、主に旧イギリス領時代からの歴史的建造物群の歴史的価値が評価され、その世界遺産登録を目指ざすフィジー諸島共和国旧首都レブカを対象地として選定した。また分析を進めるにあたり、日本で 1970 年代から住民運動として始まり、やがて文化財保護制度と共同する仕組みとして発展し、地域住民が住み続けながら地域の遺産を継承することによって達成される地域振興の手法として確立したいわゆる「町並み保存運動」の思想や技術を応用した。 本論文の構成は、次の通りである。第 1章「研究の枠組み」において都市遺産の価値に関する国際的な議論について把握するために、1931 年のアテネ憲章から、ベニス憲章、バラ憲章、奈良ドキュメント、無形遺産保護条約、イスタンブール宣言その他の国際憲章や提言から遺産概念の拡がりについて分析した。そして、国際的な議論における最先端の遺産概念として、「大和宣言」や「リビングヘリテージ」概念に見られる、有

ii

形文化遺産と無形文化遺産の相互依存性を踏まえた価値把握とそのマネジメントが挙げられることを明らかにした。また、都市遺産観光開発の先進事例地として中国雲南省麗江における行政主導の観光開発とアメリカ合衆国ハワイ州ラハイナにおける民間主導の観光開発の事例を取り上げ、「人間不在の観光開発」における観光開発の経緯とその結果を分析することで、研究の枠組みを示した。次に第 2章において、日本の町並み調査を通して発展を見た「都市史調査」の手法を応用し、対象地における都市空間および都市景観の価値、すなわち有形文化遺産としての都市遺産の価値を明らかにした。その上で、第 3章では、日本の住宅計画分野において発展を見た「住み方調査」の手法を応用し、地域住民の生活と上記有形文化遺産との関係性およびそこに読み取れる無形文化遺産としての価値について分析し、把握されたすべての価値の関係性を考察することにより、都市遺産としての総合的価値を明らかにした。第 4章では、以上で明らかにした都市遺産の総合的価値について、その保全状況を分析するとともにその価値を顕在化させ、保全しつつ地域の発展に貢献し得るような観光開発のあり方を探求するという視点からその現状を分析し、課題を明らかにした。さらに結章では、日本の先進事例地の成果を参照しつつ対象地における遺産保全と観光開発に対する指針を提示した。 本研究から得られた成果は、次の通りである。まず対象地レブカの都市遺産の総合的価値を明確化することができた。そして、それは以下のように説明される。レブカの近代都市空間は、先住集落期の空間構成を継承しつつ形成されたものである。その空間を、文化的、民族的、宗教的に多様な人々が住み続けながら利用してきたことにより、それらの人々の個人的な記憶や、家族や民族集団に代表されるような集団内で共有される記憶の中に、有形文化遺産である都市空間と無形文化遺産である住民生活との関係性に関する情報が蓄積されてきた。そして、その蓄積を通して現在の都市空間は地域住民の感性とつながり続け、意味をもたらし続けているといえる。すなわち、レブカの都市遺産としての本質的価値とは、歴史的建造物群の意匠や材料といった物的側面に関する真正性の評価に加え、文化多様性のなかで展開される伝統、家族単位で利用する建築空間から公共的な都市空間にまで継承される用途や機能、使い続けてきたことによって醸成された有形及び無形文化遺産に対する精神と感性から真正性を評価できる点にあるといえる。そしてこのことは遺産の完全性の説明によって証明されなくてはならない。レブカが有する都市遺産の総合的価値について、その完全性を構成する諸要素とは、先住集落期の空間構成を継承しつつも、フィジー・ラッシュ期及び首都期にかけて 20 年に満たない短期間に急速に成立し、コプラ貿易期を経て形成されてきた都市の空間構成及び建造物が 100 年以上の年月を経てもなお軽微な修理のみで利用可能な良質な建築のストック、初期入植者の子孫だけでなくその後都市に移住してきた人々の民族多様性、ま

iii

たそれらの多様な民族的背景を有する人々が、歴史的建造物の形状は維持する一方で自文化を適応させるような利用形態をとり、機能を固定するのではなく空間と時間に合わせて多様で自由度の高い用途で利用するという利用形態、歴史的建造物群が現在の住民のものとして利用され続けているという状態、またそのようにして日々の暮らしの一部である歴史的建造物群について、地域住民自身が変遷や過去の利用形態について物語ることができる記憶のストックであるといえる。 次に本研究では、都市の住民構成の変遷を明らかにしたことにより、先住民族を含む過去の都市遺産の管理主体を明らかにした。対象地の文化遺産を多様な視点と価値観から把握し、さらにそれを来訪者へ説明するためには、現在の住民以外にも過去の管理主体や文化の表現主体を明確化することが必要である。よって、対象地における文化遺産保全や観光開発への参加が必要とされる現在の住民以外の人々を特定することができたことも本研究の成果であるといえる。 また、対象地の地域住民は都市遺産の所有者かつ利用者として遺産の管理主体である一方で、地域文化および民族に固有な文化の表現主体でもあることから、都市遺産観光開発における観光資源である都市遺産の管理主体であると同時に、その観光資源を生み出す主体でもあることが導かれた。対象地のように地域住民が遺産の所有者であり文化の表現主体である事例において、最先端の国際的な議論の対象でもある有形文化遺産と無形文化遺産の一体的な価値把握に基づく都市遺産保全を目指すならば、遺産保全ならびに観光開発の主体が地域住民でなくてはならないことを示した。よって、「人間不在の観光開発」に対する本研究の成果は、地域住民の存在なくしては成立しない都市遺産の総合的価値を明確化することにより、人間の存在を遺産価値のなかに位置づけた点にあるといえる。都市遺産の総合的価値を観光資源とするためには、観光開発主体にとっても地域住民の存在が不可欠であり、その侵害は観光資源の価値を損なうことにつながるために避けなくてはならないということを裏付ける結果を導くことができた。 さらに本研究は、これまで日本における町並み保全運動が実践しつつも理論化できなかった有形文化遺産と無形文化遺産の総合的価値把握について、事例研究によって実証したものであり、この点も本研究の成果であるといえる。 そして、文化遺産保全分野における国際的な議論に対し、住民が住み続けながら有形文化遺産と無形文化遺産を一体的に保全していくという日本の町並み保存運動の経験と、有形文化遺産と無形文化遺産の相互依存性を踏まえ、それらを一体的な価値として把握するという国際社会が求める遺産概念とに架け橋を渡すことのできる、実践に裏付けられた理論と手法を提示できた点も成果であるといえる。

目 次

序章1. 問題の所在 1

2. 研究の目的 3

3. 対象地の選定と概要 4

4. 論文の構成 8

5. 研究の位置づけ 9

6. 研究の方法 11

第 1章 研究の枠組み 19

1-1 はじめに 19

1-2 文化遺産観光に関する議論 20

 1-2-1 文化遺産観光の対象 20

 1-2-2 文化遺産観光と負の影響 21

 1-2-3 文化遺産観光と途上国における地域開発 24

1-3 都市遺産の価値に関する議論 28

 1-3-1 議論の背景 28

 1-3-2 初期の国際憲章における遺産価値 28

 1-3-3 キト規範における遺産価値 31

 1-3-4  世界遺産条約における遺産価値 33

 1-3-5 バラ憲章及びケベック憲章における遺産価値 36

 1-3-6 グローバルストラテジーにおける遺産価値 38

 1-3-7 奈良ドキュメントにおける遺産価値 39

 1-3-8 無形遺産保護条約における遺産価値 43

 1-3-9 有形文化遺産及び無形文化遺産の総合的価値に関する議論 45

1-4 先行事例から得られる視座 50

 1-4-1 行政主導の観光開発:中国雲南省麗江 50

 1-4-2 民間主導の観光開発:アメリカ合衆国ハワイ州ラハイナ 53

1-5 小結:「人間不在の観光開発」の克服に向けて 58

 1-5-1 人間不在の観光開発 58

 1-5-2 人間不在の観光開発の克服に向けて 60

第 2章 レブカにおける都市空間の形成 632-1 はじめに 63

2-2 黎明期 65

2-3 発展期 67

 2-3-1 布教活動のはじまり 67

 2-3-2 フィジー・ラッシュ 69

 2-3-3 ザコンバウ政権及びイギリス領フィジー諸島政府の成立 71

2-4 成熟期 74

 2-4-1 コプラ貿易の隆盛 74

 2-4-2 コプラ貿易期の終焉から現在 76

2-5 小結 77

第 3章 都市遺産レブカの総合的価値 873-1 はじめに 87

3-2 居住者の変遷 89

 3-2-1 民族構成の変遷 89

 3-2-2 遺産を支える住民の現在 91

3-3  都市空間の利用形態 94

 3-3-1 空間利用の概況 94

 3-3-2 建築用途 96

3-4  公共空間の利用形態 99

 3-4-1 道路 99

 3-4-2 緑地及び公園 100

 3-4-3 埠頭及び桟橋 101

3-5  建築の利用形態 103

 3-5-1 公共的建築 103

 3-5-2 店舗建築 108

 3-5-3 倉庫建築 115

 3-5-4 住宅建築 116

3-6 都市空間の利用と記憶 120

3-7 小結:都市遺産の総合的価値 123

第 4章 都市遺産観光開発の現状と課題 1594-1 はじめに 159

4-2 世界遺産登録と観光開発の取り組み 161

 4-2-1 これまでの取り組み 161

 4-2-2 取り組みにおける課題 167

4-3 都市遺産保全の現状 170

 4-3-1 制度の整備状況 170

 4-3-2 遺産保全の現状 172

 4-3-3 遺産保全の課題 184

4-4 観光開発の現状 186

 4-4-1 遺産に関する社会的認知度の向上 186

 4-4-2 遺産と観光の多面的な関係のマネジメント 188

 4-4-3 訪問者にとって価値ある経験を保障する 189

 4-4-4 ホストコミュニティと先住民の関与 190

 4-4-5 地域住民の利益 191

 4-4-6 責任あるプロモーションプログラム 192

 4-4-7 観光開発の課題 193

4-5  都市遺産保全と観光開発に関する住民意識 194

 4-5-1 住民意識 194

 4-5-2 住民意識にみる遺産保全と観光開発の課題 196

4-6 小結 197

結章 2031.  発展途上国における都市遺産観光開発に対する新たな成果 203

2.  対象地における都市遺産観光開発に対する指針 211

3.  今後の課題 224

序 章

1

序章

1. 問題の所在

本研究は、発展途上国(以下、「途上国」)に存する都市遺産を資源とした観光開発地域

を対象とし、その開発が地域住民の十分な関与なきまま推進されることに起因する、文化

遺産の消失及び地域住民に対する不利益を問題とする。

多くの途上国では、その外貨獲得手段を観光に求めている。産業開発から取り残された

国々には、固有の文化や自然が豊かに継承されており、それら既存の資源をいかした開発

は新たな巨額の投資を必要とせず、途上国にとって取り組みやすいためである。なかでも

都市遺産をいかした観光開発には、歴史都市あるいは世界遺産というブランド名の獲得に

より観光客の増加が期待できる点、地域社会と密接な関係にあり、誇りの醸成やアイデン

ティティの再認識につながる点、経済的利益が期待できる点、観光インフラ施設の整備が

地域住民の生活基盤の向上にもつながる点などの利点があり、各国政府や自治体、そして

各地域の住民もその成功に向け、努力を重ねている。

しかし、こうした観光開発はプラスの効果だけを地域に与え得る訳ではない。観光開発

の過程で地域住民の存在や意思が軽視され、外部資本による利潤追求型の開発が進められ

た結果、地域住民の生活が侵害される事例や、地域住民の生活の場そのものが奪われる、

いわば「人間不在の観光開発」と指摘できる事例が報告されている。その例としては、先

住民族の生活を中心とする伝統文化が外部資本による観光開発の資源とされたことによ

り、地域住民の生活の侵害や伝統文化の表現形態や意味の変化が起こった事例や、同じく

外部資本が自然環境を資源とした観光開発を展開したことよる、伝統的な生業が営まれて

きた場所の収奪や聖地として先住民族に意味をもたらしてきた場所の侵害が起こった事例

などが挙げられる。前述の都市遺産をいかした観光開発事例では、都市の歴史的建造物や

それらが創り出す景観の価値が評価されてきたため、外部資本にとってはそれらの「ハコ」

の価値さえ保たれていればよく、その「ハコ」の中で展開されるアクティビティについて

は、より高収益を上げうるものという視点でのみ決められる。無形文化の要素が取り入れ

られる場合であっても、付加価値によって利潤を高めるための選択に過ぎず、本来の都市

遺産の構成要素であるはずの住民生活から生み出される「モノ」や「コト」は、利潤を生

2

まない不要物として排除されてきたのである。

こうした事態を、国際的な議論が放置してきた訳ではない。観光分野からは United

Nations World Tourism Organization ( 以 下、UNWTO) が、 文 化 遺 産 保 全 分 野 か ら は

International Council on Monuments and Sites(以下、ICOMOS)らが国際会議における議論を

重ねながら、国際憲章や宣言文を採択してきた。また、UNESCO世界遺産では、登録申

請時に観光マネジメント計画の策定を義務づけている。いずれも、文化遺産の保全と観光

開発、訪問者と地域住民、または観光関連業者と地域住民の関係の良好なバランスを維持

することを提言するものである。しかしこれらの議論はあくまで専門家や政府レベルに対

する啓発活動であり、現実の経済原理に基づき行動する開発主体に制限を加える力はな

く、各国の制度整備に頼る他はない。

観光開発の負の影響を回避するためには、観光開発によって損なわれてはならない都市

遺産の本質的な価値の把握が必要であると考えられる。まず、その価値を把握し、地域住

民やその他の関係者の間で共有することによってはじめて、その保全対策についても検討

することが可能になるためである。

都市遺産の価値について、観光開発分野では厳密な定義はなされていないが、地域住民

の生活も観光の対象とされそこに価値を見いだしている。一方、文化遺産保全分野の国際

的な議論においては事情が異なる。文化遺産保全分野では、1930年代より現在まで文化

遺産概念が拡大されてきた。当初はエジプトのピラミッドやローマ遺跡群に代表されるよ

うな記念物や遺跡がその対象であったが、次第にその対象は民家や建造物群、文化的景観、

水中遺産というように拡大されてきた。また、有形の文化遺産と無形の文化遺産の相互依

存性にも言及がなされるようになってきた。しかし、都市遺産の価値把握についてみると、

歴史的建造物群の価値把握手法は確立されているものの、それと一体となって存在する地

域住民の生活を都市遺産の構成要素として価値づける手法は確立されていないことも問題

である。

3

2. 研究の目的

本研究は、前項で述べた「人間不在の観光開発」のうち都市遺産を資源とする観光開発

における問題解決を上位目標とし、具体的な事例地を対象に地域住民の生活を歴史的建築

物群とともに都市遺産の総合的価値として把握すること、対象地における総合的価値の保

全状況及び観光開発の状況を分析し、課題を抽出することで上記の上位目標に対するその

成果を検証し、さらに対象地における都市遺産の総合的価値を保全するための指針を示す

ことを目的とする。

本研究が目指すのは、都市遺産観光開発を通して地域の発展を希求する住民が、自らが

継承する遺産の価値を知り、その価値を高めつつ継承していくための課題を再認識するこ

と、そしてその課題解決のための指針を示し、地域住民全体、フィジー政府及び国際支援

団体がその指針をともに理解することで、今後の行動計画策定時に視点を共有できるよう

になることである。また、研究対象地は旧イギリス領植民都市であるが、本研究で試みる

都市遺産の総合的価値の評価とは、その時代の建造物群を再評価することで欧米諸国によ

る支配を肯定しようとするものでは決してない。既に述べたように、遺産保全による発展

を目指すという明確な方針を有する地域における住民の遺産保全活動を理論的に支援する

ことを企図するものである。

4

3. 対象地の選定と概要

(1) 選定

対象地は、①発展途上国であること、②地域住民の生活の場である歴史的建造物群を有

すること、③世界遺産登録による急激な観光開発が危惧されること、④アジア以外の地

区であることを条件に選定した。なお、発展途上国であるかどうかの判断は、国連開発

計画 United Nations Development Programmeの人間開発報告書において、中人間開発 medium

human development及び低人間開発 low human developmentに位置づけられる国であるかどう

かで判断した。また、アジア地区以外という条件は、これまでの日本の文化遺産国際協力

の実績がアジア地区に偏重する傾向にあるためである。

以上の条件に該当する地域として、フィジー諸島共和国(以下、「フィジー国」)旧首

都レブカを選定した。フィジー国は人間開発報告書 2005年版において中人間開発に位置

づけられており、ランクキングでは 177カ国中の 92位である (United Nations Development

Programme 2005:p.308)。レブカは、旧イギリス領時代の最初の首都に選定された都市であり、

都市の歴史の証拠である歴史的建造物群を有する。また、これらの歴史的建造物群の歴史

的価値に基づき世界遺産の国内暫定リストに掲載されている。そして、フィジー国は国際

協力機構(JICA)の区分では大洋州に属し、アジア地区には含まれない。

(2) 概要

フィジー諸島共和国は、日本から南へ約 7,000kmの南太平洋の中のメラネシア南東端

に位置し、西経 /東経 180度、南緯 18度を中心に 330余りの島から成る島嶼国家である。

総面積は約 1万 8千平方キロメートルで、日本の四国とほぼ同じ大きさである。島々は火

山島と珊瑚礁島に分類されるが、その内の火山島が多く、平野が少ないことと、それらを

取り巻く珊瑚礁が特徴である。

気候は雨期(12~ 4月)と乾期(5~ 11月)に分かれているが、貿易風の影響で極端

に雨が多くなることはない。月平均気温は 23~ 28℃、日中の平均気温は 28~ 32℃、湿

度は 80%前後と年間を通じて安定している。雨期には台風が発生することもある。

主島は首都スバ Suvaを南東端に、ナンディなどのリゾート観光地域や砂糖の積み出し

港であるラウトカを西岸に持つビチレブ島 Vitilevu Islandである。

5

フィジーは更に北部地区、西部地区、中央地区、東部地区の 4つの地区 Divisionに分け

られ、その下に 15の州 Provinceがある。レブカタウンは、ロマイビチ州の中にあるオバ

ラウ島を更に 4つの地区に分割した内のレブカ地区 Levuka Districtに位置する、ロマイビ

チ県の中心地である(図 1~ 5参照)。

フィジーに東南アジアの島々から人間が移住してきたのが紀元前 1300年頃とされる。

フィジーについての最初の記録は、1643年、大航海時代のオランダ人アベル・タスマン

Abel Tasmanによるものである。その後、ジェームス・クック James Cookやウィリアム・

ブライWilliam Blighなど著名な探検家たちがフィジーについての記録を残している。本格

的な入植は 19世紀初めに始まり、その後 1860~ 70年代、アメリカ合衆国の南北戦争の

影響で砂糖や綿花の需要が高まり、プランテーションの開発のために多くの白人が移住

した。1874年にはイギリスに割譲される。レブカはこの時首都に制定されるが、8年後の

1882年、首都は現在の首都スバへ遷都した。その後 100年に渉りイギリスによる統治が

続くが、1970年に独立を果たし、英連邦の 30番目の加盟国となる。この間、プランテーショ

ン労働者として多数のインド人が移住し、契約期限終了後も彼らの多くはフィジー国内に

留まったため、インド系フィジー人の人口における割合は 40%近くと非常に高い。しか

しながら、土地所有などのフィジー系の既得権は守られたため、次第に経済の実権を握る

ようになっていったインド系フィジー人との間に軋轢が生じることとなった。1999年に、

初めてインド系フィジー人の首相が誕生するが、2000年、それに反対する武装グループ

による国会占拠事件が発生、2001年に総選挙を経てフィジー系ガラセが首相に就任する。

そして 2006年 12月、再びバイニマラマ国軍司令官による無血クーデターが起こり、2007

年 1月、バイニマラマ司令官が暫定首相に就任、暫定内閣が発足し、現在に至る。

観光、砂糖製造、衣料品製造が三大産業であり、主要貿易相手国は、輸出がオーストラ

リア、アメリカ合衆国、イギリス、輸入がオーストラリア、シンガポール、ニュージーラ

ンドである。

フィジー国内の主な観光形態は、いわゆる 3S(sea-sun-sand)によるリゾート観光である。

リゾート地区は、主に本島の西側に位置するナンディやヤサワ諸島において開発されてい

る。偏西風の影響により、西部は東部と比較して雨が少なく、リゾート開発に適している

ためである。国内最大の国際空港が首都のスバに近いナウソリ空港ではなくナンディ空港

であることも、それらの地区において観光開発が展開されていることを示している。フィ

ジー政府観光局は、"Fiji Me"のキャッチコピーとともに、珊瑚礁が生み出す自然景観や海

6

177°E16°S

17°S

18°S

19°S

16°S

17°S

18°S

19°S

178°E 179°E 180°E 179°W

177°E 178°E 179°E 180°E 179°W

東部地区

北部地区

西部地区

中央地区

バヌアレブ島

ビチレブ島ラウトカ

ナンディ

シンガトカナブアスバ

レブカ

ランバサ

ブライ水道 タベウニ島

コロ海

オバラウ島

ヤサワ諸島

N0 10050

km

N0 1 2 3 4 5

主なビレッジ

600(m)海面

山頂+標高(m)環礁川もしくはクリーク

レブカ・ビレッジレブカ・タウンレブカ地区

カルデラ外縁部

ブレタ空港

178"50'E

178"50'E

17"40'S

523

622580 ラカレカ環礁

オバラウ島

モツリキ島

レブカ

ラカレカ環礁

コロ海

A B B

西A

断面(A-B)

凡例

km

N0 1 2 3 4 5

km

図 1 フィジー諸島共和国   (出典:軸丸雅訓 2005: p.6, 著者加筆)

図 2 オバラウ島とレブカタウン   (出典:軸丸雅訓 2005: p.26, 著者加筆)

洋環境をいかしたリゾートホテル開発や各種アクティビティの提供、またオプショナルツ

アーとして集落におけるエコツーリズムを展開してきた。2010年に入り、ようやく同局

ホームページ内で歴史都市としてレブカが紹介されるようになったが、それ以前は同ホー

ムページ内で歴史的な文化遺産を資源とする観光関連情報は提供されていなかった。

7

図 3 レブカタウン、ビーチストリート   (筆者撮影:2008 年)

図 4 ロイヤルホテル正面から臨む朝日   (筆者撮影:2007 年)

図 5 丘陵地からの眺望     (筆者撮影:2009 年)

8

4. 論文の構成

まず、都市遺産をいかした観光開発に関する国際的な議論を把握する。そのために、文

化遺産観光に関する議論を UNWTO及び国連における会議の内容や採択された憲章から把

握、分析する。次に、都市遺産の価値評価に関する議論を把握する。そのため、ICOMOS

が採択した憲章や宣言文の内容を把握、分析する。また、都市遺産観光開発の先進事例地

における観光開発の経緯とその結果を分析する。第 1章では以上の内容を整理し、研究の

枠組みを提示する。

次に第 2章において、対象地における都市空間及び都市景観の価値、すなわち有形文化

遺産としての都市遺産の価値を明らかにする。ここでは、都市の歴史的建造物群を文化遺

産として価値づけるためにこれまでも用いられてきた手法により、都市の形成過程を明ら

かにし、対象地において現存する歴史的建造物群の価値を明らかにする。

その上で、第 3章では、地域住民の生活と有形文化遺産との関係性及び、そこに読み取

れる無形文化遺産としての都市遺産の価値について分析し、把握されたすべての価値につ

いて総合的に考察することにより、対象地における都市遺産の総合的価値を明らかにす

る。住民の生活と有形文化遺産の関係については、まず歴史的建造物群に居住する住民の

歴史的背景及び属性を分析し、次にそれらの住民による歴史的建造物の利用形態を把握

し、それらの結果と第 2章における結果を合わせて考察することにより、都市遺産の総合

的価値を明らかにする。

第 4章では、これまでに明らかにした都市遺産の総合的価値についてその保全状況を分

析するとともに、その価値を顕在化させ保全しつつ地域の発展に貢献し得るような観光開

発という視点からその現状を分析し、課題を明らかにする。

以上の結果から、本研究から得られた発展途上国における都市遺産観光開発に対する新

たな成果について明らかにする。また、対象地における都市遺産観光開発に対する指針を

提示する。

9

5. 研究の位置づけ

本研究は、Valene L. Smith編集 Hosts and Guests: The Anthropology of Tourism(1989)にお

いて問題が提起され 1、それに対して抽出された観光が地域住民の文化や生活に与え得る

負のインパクトの回避という課題に対し、破壊されてはならない本質的な価値を把握し、

予測される観光のインパクトを考慮した保全施策を検討するというアプローチから解決へ

つながる成果を得ることを試みるものである。

文化遺産を資源とする観光開発に関する議論及び文化遺産の価値把握に関する議論につ

いては、国際的な議論を展開してきた UNWTOや ICOMOSを中心とし、会議の報告書や

採択された憲章及び宣言を分析することによって把握する。これらの議論の分析結果は本

研究に理論的枠組みを与えるものとして、第 1章で論述するため、ここではおもに、対象

地であるフィジー国及びレブカに関する既往研究について整理する。

ここでは、対象地であるフィジー国及びレブカに関する既往研究について整理する。

フィジー国内の文化遺産、自然遺産及び観光に関する研究は、南太平洋大学を中心に行

われている他、諸外国では主にイギリス及びアメリカにおいて研究蓄積が存在する。それ

らの研究蓄積には、植生や動物、海洋生物などの自然資源に関する生物学分野における研

究(Smith 1991, Gorman 1975など)の他、フィジーに最初に住み着いたラピタ人の居住地

や土器などに関する考古学分野における研究(Nunn 2009など)、また先住民集落の生業や

資源の利用に関する民俗学分野、人類学分野における研究蓄積(Thompson 1938, Tomlinson

2004など)などが残される。さらに、経済学分野において観光がもたらす経済的影響に

ついて分析されている(Narayan, et al. 2010など)。また、エコツーリズムに関連して、先

住民集落の住民と土地との精神的なつながりを分析した研究(Bricker 2005)や実践に基づ

く成果を検証した研究成果(真板 , 海津 2001)が蓄積されている。

レブカに関する研究については、まず歴史書として 15世紀のフィジーの発見から 1874

年のイギリス譲渡までの為政者の歴史をまとめたもの(Derrick 1946) と、19 世紀初頭から

同じく譲渡までの移民の歴史がまとめられたもの(Young 1984) が挙げられる。また、考

古学分野では旧イギリス領時代初期の行政庁舎に関して考察されている(Chatan 2003) 他、

地中の陶器及びガラス片の発掘調査から当時の物質文化について考察が加えられている

(Burley 2003)。その他、建築学分野では、3軒の住宅の実測調査からそれぞれの家屋に社

10

会階級の異なる居住者が住み、その階級差が規模や立地に反映されていることが指摘され

ている(Pursur 2003)。

そして、世界遺産登録申請のための調査報告書として、遺産マネジメントの現状分析

と提言(第 1 部) と重要な建造物リスト(第 2 部) で構成される通称 Hubbard Report(以

下、HR) が挙げられる(HJM Consultants PTY LTD 1994)。また、類似する旧植民都市遺産

について遺産の残存度を文献及びインターネット上の情報に基づき比較した Comparative

Analysis of Levuka, FijiIslands(Smith 2006) では、現地踏査には依らないものの、レブカが

19 世紀における植民地化の初期段階を示す唯一の遺産として位置づけられている。

さらに、九州大学による一連の研究(軸丸・西山 2005, 八百板・窪崎・西山 2007, 村上

ら 2007, 成田 2008等)が、歴史や現況景観の構成、建築各論について分析しているのみ

である。いずれも時代や調査対象物件を特定した断片的な調査にとどまっており、レブカ

の空間及び景観の形成と変遷を明らかにし、その特性を論じるには至っていない。

観光学分野の研究としては、Harrison(2004) による歴史と観光推進団体の形成過程を概

観した Levuka, Fiji Tourism, UNESCO and the World Heritage Listがあり、欧米人によって形成

されたレブカという町をフィジー国で最初の世界遺産にすることへの疑問が投げかけられ

ると共に、意思決定に島民全体や国民全体の意思が反映されてこなかった点が指摘されて

いる。また、Fisher(2000)では、観光客の購買行動が、地域住民の物に対する価値観を

変化させ、観光客と同様の購買行動をとるようになるかを検証した研究も存在する。な

お、検証の結果、決定はより経験に基づいており、観光客の購買行動との顕著な関連は見

られなかったとされる。さらに、UNESCO Local Effort in Asia and Pacific (LEAP)プロジェク

トの対象地としてレブカが選ばれた際の調査報告書 A Case Study on Levuka Fiji Islands(The

Local Case Study Team 2000)では、レブカの文化遺産観光の 2000年当時の状況について整

理されており、観光インフラ施設の整備状況、観光客の数と類型、歴史的建造物の修理な

ど既往のプロジェクトを表すリストと遺産の管理状況、解説と展示に関する概況を分析し

ている。

既往研究における遺産の価値評価は、個々の建築や工作物に関する歴史的な価値分析を

主な内容とするもの、また現地調査に基づかない文献の整理による比較分析を内容とする

ものであり、本研究が目的とする都市遺産の総合的な価値把握は行われていない。

上記既往研究における遺産の価値評価は、個々の建築や工作物に関する歴史的な価値分

析を主な内容としており、また現地調査に基づかない文献の整理による比較分析を内容と

11

するため、本研究が目的とする都市遺産の総合的な価値把握には至っていない。

遺産保全の視点では、法制度整備の必要性や遺産アドバイザーの養成、建築物のセッ

トバックや規模の維持に関してこれまでの報告書(HJM Consultants PTY LTD 1994, Takano

1994等)においても言及されているが、主要なステークホルダーの活動分析に基づく課

題の抽出や都市形成の履歴に基づいた景観形成への提言はなされていない。さらに観光開

発に関しては、観光インフラ施設の整備に関する現状分析や、解説に関する提言が部分的

には行われているものの、無形文化遺産の脆弱性を前提とした対策への言及がなく、現状

分析からの課題を解決するための体系立った指針は示されていない。

これに対し本研究では、都市遺産の有形文化遺産としての価値を、歴史的価値を有する

個々の建造物の集合体としてではなく、都市空間形成の結果として表出した都市景観の全

貌として明らかにし、さらにそれと一体となって存在する無形文化遺産と統合した総合的

価値として示した上で、その価値を顕在化させより高めるための遺産保全と観光開発の課

題を抽出し、課題解決に向けた指針を示す点が新しいと言える。

6. 研究の方法

本研究では、都市遺産の総合的価値把握の方法及び価値保全の指針を導く際の指標とし

て、日本で 1970年代から住民運動として始まり、やがて文化財保護制度と共同する仕組

みとして発展し、地域住民が住み続けながら地域の遺産を継承することによって達成され

る地域振興の手法として確立したいわゆる「町並み保存運動」の思想や技術を応用した。

その代表的手法と言える伝統的建造物群(以下、「伝建」)保存地区制度は、建造物群とそ

の一体的な環境を面として価値付け、地域住民が住み続けながら保全していく手法であ

る。1960年代の高度経済成長期、多くの都市開発事業がその物的な発展と引き替えに公

害問題や都市の個性の喪失といった課題を生み出した一方で、大規模な投資による再生を

試みるのではなく、地域に既に備わっている資源をいかした開発が各地で展開された。そ

の代表的なものが、1960年代終わり頃から歴史的な町並みをいかしたまちづくりを展開

してきた町並み保存運動である。町並み保存運動は、大・中都市で「開発か保存か」とい

う議論がおこる一方でその開発からも取り残されていった地方都市において、地域住民自

らが地域の個性である町並みという遺産の価値に気づき、自らが住み続けながらそれをま

もり、観光開発を通した地域振興を試みた結果広まった運動である。

12

町並み保存運動では、町並みが有する価値をまもり継承するという目的に加え、当初よ

り観光開発による経済振興もその主な目的としてきた。そうした地区において、観光は有

効な経済振興手段であると同時に、地域住民の生活や資源の価値そのものに致命的な負の

影響を与え得るため、地域の資源や住民生活の脆弱性を前提とした遺産及び観光のマネジ

メントが求められる。都市遺産の保全には、遺産を保護する法律と制度、価値を明らかに

するための調査、所有者や管理者による日常的な管理、修理費用の確保、修理・修景 2事

業の実施、観光客への価値説明(インタープリテーション)、住民生活をまもるための観

光のコントロールなど、さまざまな要素が含まれ、日本の事例地においてもそれらに対す

る取り組みが行われてきたのである。

具体的には、第 2章において都市形成の過程を明らかにする都市史調査の手法を用いた。

日本の町並み保存運動は、地域住民が地域の発展を目的として起こしてきたものであるた

め、住民が住み続けながら、自分たちの遺産として伝建という有形文化遺産を保全してい

くことが前提である。そのため、地域住民の生活から生み出される、有形文化遺産と一体

となって展開される無形文化遺産に関しても継承される場合が多い。しかし、このように

有形文化遺産と無形文化遺産が一体となって継承されてきたものの、その価値把握につい

ては有形文化遺産を中心とし、生活から生み出される無形文化遺産については、当然存続

されるということを前提としてきたため、有形文化遺産と無形文化遺産の総合的価値把握

については理論化されてこなかった。これに対し第 3章では、住居学分野において発展を

見た「住み方調査」の手法を用い、対象地における都市遺産の総合的価値把握を実証的に

試みる。さらに、第 4章で抽出された遺産保全及び観光開発の課題に対し、結章では日本

における先進事例地の成果を参照しつつ指針を提示する。

なお、本研究は、筆者が参画した 2006年から 2010年までの 5年間、8次にわたる、638

人日(内筆者調査日数 306日)を投下した調査のなかから、論旨に必要な部分をまとめた

ものである(表 1参照)。また、調査図面については、調査団の人員が作成したものに加

筆を加えながら研究を進めた。以下に具体的な実地調査の内容を示す。

1) 第 1 次調査

ユネスコアジア太平洋文化センター(以下、ACCU)の大学生交流事業の一環で、Fiji

Institute of Technology及び Femmus School of Hospitalityの学生ら 4名を交えて調査を行った。

13

調査項目は、建築履歴調査、景観要素分布把握調査、立面 3Dモデリングのための立面実

測調査及び 3Dモデルによる復原、住民意識把握のためのアンケート調査及びヒアリング

調査である。調査期間は 2006年 9月 11日~ 2006年 9月 25日。調査資金は、ACCUユネ

スコ青年交流信託基金による。この内、筆者は住民意識把握調査を担当した。また、建築

実測調査による図面のうち店舗兼住宅建築 3棟と住宅建築 2棟の平面図を第 3章の「住み

方調査」時に使用し、利用形態調査を行った。

2) 第 2 次調査

世界遺産登録に関するステークホルダーの現状把握のため、単独で渡航し、フィジー文

化遺産局、レブカタウンカウンシル、レブカヘリテージコミティのレブカ住民メンバー、

レブカツーリズムアソシエーションにヒアリング調査を行うとともに、資料収集を行っ

た。調査期間は 2007年 3月 22日~ 2007年 3月 30日。調査資金は、平成 19年度前掲科

研費「歴史的港湾都市における持続可能な文化遺産マネジメントとツーリズム開発に関す

る研究」(基盤 B海外 代表 西山徳明)による。

3) 第 3 次調査

ユネスコ世界遺産センター所長とその視察団のレブカ訪問に合わせて渡航し、レブカ

の世界遺産登録可能性に対する世界遺産センターの意見把握調査を行った。調査期間は

2007年 7月 5日~ 2007年 7月 13日。調査資金は、平成 19年度前掲科研費による。

4) 第 4 次調査

都市史調査のための史資料収集及びヒアリング調査、建築履歴調査を行った。この内、

筆者は都市史調査を担当しつつ、建築履歴調査メンバーとして調査を実施した。また、防

災施設の現状を把握するために、消防署長へのヒアリング調査を行いつつ、資料を収集し

た。さらに、フィジー世界遺産委員会に出席し、議論の内容から進捗状況を把握した。調

査期間は 2007年 7月 20日~ 2007年 8月 28日。調査資金は、平成 19年度前掲科研費による。

建築実測調査による図面のうち、店舗兼住宅建築 4棟と住宅建築 10棟の平面図を第 3章

の「住み方調査」時に使用し、利用形態調査を行った。

14

5) 第 5 次調査

海外専門家支援団体としての九州大学の協力可能性を把握するため、フィジー文化遺産

局及びレブカタウンカウンシル、レブカヘリテージコミティのレブカ住民メンバー、レブ

カツーリズムアソシエーションに対するヒアリング調査を行った。調査期間は 2008年 5

月 15日~ 2008年 6月 3日。調査資金は、平成 20年度前掲科研費による。

6) 第 6 次調査

都市史調査のための史資料収集及びヒアリング調査、建築履歴調査を行った。この内、

筆者は都市史調査を担当しつつ、建築履歴調査メンバーとして調査を実施した。調査期

間は 2008年 7月 29日~ 2008年 8月 22日。調査資金は、平成 20年度前掲科研費による。

建築実測調査による図面のうち住宅建築 3棟の平面図を第 3章の「住み方調査」時に使用

し、利用形態調査を行った。

7) 第 7 次調査

実測調査による建築図面を使用し、空間の利用形態を家具の種別や配置とヒアリング調

査によって把握する「住み方調査」を行った。また、観光開発の現況を把握するために、

ナショナルトラストフィジー及びホテル、レストラン経営者へのヒアリング調査を行っ

た。調査期間は 2009年 8月 15日~ 2010年 1月 2日。調査資金は、平成 21年度前掲科研

費による。

8) 第 8 次調査

実測調査による建築図面を使用し、空間の利用形態を家具の種別や配置とヒアリング調

査によって把握する「住み方調査」を行った。調査期間は 2010年 2月 4日~ 2010年 3月

19日。調査資金は、平成 21年度前掲科研費による。

なお、情報を補完するため、上記以外にも必要に応じて当該団体あるいは個人に対する

ヒアリング調査を行いつつ、遺産保全や観光開発に関する会議に参加し、住民の意向や世

界遺産登録作業の進捗状況を把握した(表 2参照)。

15

【フィジー調査日程】

出発日 帰国日

1 2006.9.11 2006.9.25 15 12

西山徳明(九州大学教授)福島綾子(九州大学助手)成田聖(九州大学博士課程)八百板季穂(九州大学修士課程)村上佳代(九州大学修士課程)岡田雄輝(九州大学修士課程)横井秀樹(九州大学修士課程)成末晋吾(九州大学修士課程)増原実樹(九州大学芸術工学部)加藤祥子(九州大学芸術工学部)江幅友美(九州大学芸術工学部)中島理求(九州大学芸術工学部)

180 180 15

ACCU ユネスコ青年交流信託基金事業 大学生交流プログラム

2 2007.3.22 2007.3.30 9 1 八百板季穂(九州大学修士課程) 9 9 9

3 2007.7.5 2007.7.13 9 2 花岡拓郎(九州大学博士課程)八百板季穂(九州大学修士課程)

18 18 9

2007.7.20 2007.8.28 41 1 八百板季穂(九州大学修士課程) 41 41

2007.7.24 2007.8.10 18 4

成田聖(九州大学博士課程)麻生美希(九州大学博士課程)成末晋吾(九州大学修士課程)松本将一郎(九州大学修士課程)

72 0

2007.7.31 2007.8.11 12 2 西山徳明(九州大学教授)江面嗣人(岡山理科大学教授)

24 0

2008.5.15 2008.6.3 20 1 八百板季穂(九州大学博士課程) 20 202008.5.18 2008.5.23 6 1 西山徳明教授(九州大学教授) 6 02008.7.29 2008.8.22 25 1 八百板季穂(九州大学博士課程) 25 252008.7.29 2008.8.20 23 1 窪崎喜方(九州大学博士課程) 23 0

2008.8.5 2008.8.15 11 2 江面先生(岡山理科大学教授)松本将一郎(九州大学修士課程)

22 0

2009.8.15 2010.1.2 141 1 八百板季穂(九州大学博士課程) 141 1412009.9.6 2009.9.16 11 1 西山徳明教授(九州大学教授) 11 0

8 2010.2.4 2010.3.19 46 1 八百板季穂(九州大学博士課程) 46 46 46【合計】 638 638 306

70

152

4

5

6

7

予算

平成19-22年度科研費「歴史的港湾都市における持続可能な遺産マネジメントとツーリズム開発に関する研究」(基盤B海外 代表 西山徳明)

調査次数

日程 日数 人数 人員 人・日調査全体人・日

八百板調査日数

137

26

表 1 調査日程表

16

表 2 会議における発表等活動記録

17

表 2. 会議における発表等活動記録(前頁に続く)

18

1) 観光開発の社会的・文化的インパクトに関しては、1970年代より主に文化人類学者によって展開されてきた(山

村,2006,p.27)。初めて公の場で研究テーマとして取り上げられ、その議論の内容がまとめられたものが Hosts

and Guests: The Anthropology of Tourismであるとされる(山下,1996,p.6)。同書の出版以降もそれに続く多くの

研究において取り上げられてきたテーマである。

2) 修景とは、「伝統的建造物以外の建造物の新築や改築に対して、伝統的建造物以外の建造物の新築や改修に対し

て、伝統的建造物群に備わる空間的特性を維持したうえで、景観的特性を損なわない行為またはこれを回復も

しくは向上させる行為のいずれかを施すこと」。(文化庁文化財部 2010)

第 1章

研究の枠組み

19

第 1 章 研究の枠組み

1-1 はじめに

本研究で取り上げる都市遺産観光開発は、都市遺産の保全を目的とする文化遺産保全と

観光を通した地域開発を目的とする観光開発という大きく2つの分野に関連する。そこで

本章では、それらの分野における国際的な議論の分析から最先端の議論における課題を把

握し、さらに先行事例に対する分析を加えて考察し、本研究の枠組みを得ることを目的と

する。

第 1節では、文化遺産観光開発に関する国際的な議論を整理する。まず、UNWTOが提

唱する文化観光概念において文化の価値がどのように把握されているかを分析する。次

に、文化遺産観光をめぐる議論を把握するため、観光分野からは主に UNWTOが採択した

条約などについて、また遺産保全分野からは ICOMOSが採択した国際憲章の内容を整理

する。さらに、途上国における文化遺産観光開発に関する議論を、地域開発論の展開との

関連とともに把握する。

第 2節においては、文化遺産保全分野における文化遺産の対象及びその価値に関する議

論を把握する。UNESCO及び ICOMOSが採択してきた国際憲章及び国際文書、宣言の内

容を分析し、これまでの都市遺産の価値把握に関する国際的な議論を整理する。

第 3節では、都市遺産観光開発の先行事例の分析により、今後の途上国の観光開発への

示唆を得る。

最後に、都市遺産観光開発に関する現在の議論及び事例から得られる課題を整理し、研

究の枠組みを提示する。

20

1-2 文化遺産観光に関する議論

1-2-1 文化遺産観光の対象

UNWTOの国際会議「文化遺産と観光開発 Cultural Heritage and Tourism Development1」の

報告書において、観光産業の主要な柱のひとつに「異文化のアイデンティティを見て学び

たいという人間の基本的欲求(筆者訳)」が挙げられ、文化遺産は、「国内観光では国家へ

の誇りを喚起し、国際観光では異文化の尊重と理解、その結果としての平和をもたらす(筆

者訳)」と記される(World Tourism Organization 2001: p.1)。

また同報告書では、「文化観光 Cultural Tourism」は「宗教、祝祭、慣習、料理、芸術と工芸、

建築、音楽、踊り、民俗、文学を通して表現される人々の暮らしへの関心と多様性への欲

求を満たすための旅(筆者要約)」 2 であり、その対象としての「文化」は「人々の日常

生活という、生きている、ダイナミックな側面及び記念物や遺跡などの建造物で構成され

る遺産の両方に表出する(筆者訳)」3と説明される(World Tourism Organization 2001:p.4)。

すなわち、文化観光の対象には、文化の諸要素を通して表出する人々の生活様式が含ま

れるのである。さらに同報告書では、文化観光の傾向について、「特にヨーロッパから途

上国への観光客は、地域住民の生活の在り方を実際に見学し、学ぶことができるような目

的地を探す傾向(筆者訳)」にあり、彼らは「土着の雰囲気にあふれる簡素なホテルを希

望し、一人で旅行し、地域住民の生活の状況を学ぶために可能な限り地域住民との交流を

もとうとする(筆者訳)」と指摘している(World Tourism Organization 2001:p.4)。

つまり、途上国へ向かうヨーロッパ地域からの観光客は、先進国では近代化のなかで失

われた伝統的な文化を継承すると同時に新たな文化を生み出しながら暮らす人々の生活を

観光の対象としているのである。以上より、文化観光の主要な対象は、人々の日常生活か

ら生み出されたものや生み出され続ける有形・無形の遺産であると読み取ることができ

る。よって、文化観光の対象地における文化の価値は、過去の時代の遺跡や為政者が建設

した建造物のみならず、現在に生きる人々の日常の営みから生み出される有形・無形文化

遺産に見いだすことができると言える。

また、ICOMOSの「国際文化観光憲章 International Cultural Tourism Charter」では、文化観

光の対象である「遺産」は、歴史的な場所、遺跡、その他建造物によって構成される環境、

21

生物多様性、コレクション、文化的な慣習、知識や生きた経験 living experiences」が含ま

れるとされる(ICOMOS International Science Committee on Cultural Tourism 1999)。ここでは、

定義をより厳密にしながらも、建造物などの有形文化遺産のみならず慣習や知識、経験な

ど現在に生きる人々が有する無形文化遺産が遺産の対象として含まれている。

1-2-2 文化遺産観光と負の影響

観光と文化遺産の関係についての指針を示すものに、1976年の ICOMOSの国際会議で

決議された「文化観光憲章 Charter of Cultural Tourism」及び前述の「国際文化観光憲章」が

挙げられる(International Seminar on Contemporary Tourism and Humanism in Brussels 1976)。文

化観光憲章では、観光が遺産保全に貢献し得るという可能性よりも、コントロールされな

い観光が遺産に与える負の影響に主眼が置かれ、観光と遺産保護を両立させるために必要

な措置について提言している。しかし、1999年の国際文化観光憲章では、「遺産マネジメ

ントの根本的な目的はその重要性と保全の必要性をホストコミュニティと訪問者へ伝える

ことである(筆者訳)」とし、また訪問者に提供される「遺産と文化的発展への<略>物

理的、知的アクセスは権利であり、特権でもある(筆者訳)」と記され、「それが遺産の管

理者である現在のホストコミュニティの関心や平等性、遺産の価値、そして遺産を生み出

した景観や文化を尊重するという義務感をもたらす(筆者訳)」とする(ICOMOS 1999)。

さらに、2002年の改訂版(ICOMOS International Cultural Tourism Committee 2002)においては、

物理的アクセス及び知的アクセスに加えて「感情的アクセス emotive access」が挙げられて

いる。そして、「物理的アクセス」とは訪問者本人がその場所を体験可能とするアクセス

であり、「知的アクセス」は訪問者やその他の人々がその場所を訪れた際、あるいは一度

も訪れたことがない場合でもその場所について学ぶことが可能になるアクセス、そして「感

情的アクセス」とはその場所にいるという感覚を、訪問した場合でもそうでない場合でも

感じられるようなアクセスであると説明されている(ICOMOS International Cultural Tourism

Committee 2002:p.21)。同憲章に示される方針は、遺産の脆弱性を前提とし、その保全のた

めに持続可能な方法で管理されなければならないとしながらも、遺産の保全計画と観光計

画は、観光客が値打ちを感じ、満足し、楽しむことができるものを設計しなくてはならな

いと提言している。また、観光促進プログラムについても、遺産の保護及びその価値をさ

22

らに高めることを目的とするように提唱している。つまり、遺産へ物理的に近づくための

アクセスと、遺産の価値を理解するための情報へのアクセスを確保することにより、遺産

の価値と保全の意義が地域住民や観光客に理解され、さらにそれが遺産の保全と未来への

継承へつながると提言しているのである。このように、国際文化観光憲章では、文化観光

憲章の内容から一転し、観光及び観光客の遺産保全に対する役割が積極的に評価されるよ

うになったのである。

また、国際文化観光憲章では、地域住民 host communityと先住民の遺産保全と観光に関

する諸計画の策定作業への関与を原則としている。受け入れ地域では「地域住民」、「遺産

の所有者」及び「関係する先住民」が保全及び観光の主体としてその計画策定から実施段

階まで関与するべきであるとされる。その一方で、憲章全体では、文化観光に関連するス

テークホルダーとして上記の受け入れ地域以外に「遺産保全関係者」、「観光産業関係者」、

「ICOMOS及び其の他の国際組織」、「遺産及び観光に関する方針決定権を有する人々」及

び観光客について言及される。憲章の目的として、「遺産保全関係者」による活動促進及

び地域住民と観光客に対する遺産の重要性や意味へのアクセスを確保するようなマネジ

メントの実現、「観光産業関係者」の活動促進及び遺産と生きた文化を尊重した観光マネ

ジメント及びプロモーション、「ICOMOS及び其の他の国際組織」及び「観光産業関連者」

による遺産マネジメントと遺産保全の統合性を維持するためのイニシアチブのサポートが

挙げられ、さらに「遺産及び観光に関する方針決定権を有する人々」による観光の利益の

均等な配分のための手段の促進が原則として挙げられており、各ステークホルダーに求め

られる役割が示される。つまり同憲章では、地域住民は遺産の法的所有主体、有形文化遺

産の利用や日々の管理を行う空間的管理主体、そして先住民の文化における知識や慣習の

実践を行う文化的表現主体であり、遺産保全における重要な主体であることが指摘される

と同時に、文化観光を成立させるためには、遺産保全関連組織、国際機関、観光産業、政

府など受け入れ地域外の組織による観光開発への関与と連携を前提としている。遺産の所

有に関し、西山(2001:p.28)は「現時点において空間的に最も近い人々が、その遺産を創

出した文化と全く関わりのない、あるいは文化や文明が一旦断絶した後に住み着いた人々

であるような場合は、契約上の所有関係は別として、そうした遺産が本質的に誰のもので

あるのかということが問題となってくる」、さらに「遺産に関わる文化継承者や遺産をよ

く理解したホストのもてなしはツーリストの訪問経験を豊かにする」ため、観光開発の視

点からも「遺産は誰のものか」という問題が重要であると指摘する。この問題は、旧植民

23

地の都市において特に顕著に現れると考えられる。なぜなら、多くの場合、旧植民地国の

独立後は都市における宗主国民の人口が減少し、先住民や移民の人口が増加するため、旧

植民地時代に形成された都市の建造物群を創出した文化とは異なる文化的背景を有する

人々がそれらの建造物群を文化遺産として継承することになるためである。よって、観光

開発の主体となるべき「地域住民」が、観光開発時に遺産地域に住んでいる住民のみを対

象とするのではなく、現在の「法的所有主体」はもちろん、歴史的な「空間管理主体」及

び「文化的表現主体」をも含めることにより、文化遺産の価値の真正性をより多角的に評

価することが可能である。

地域住民と観光の関係についての指針は、「観光の社会的インパクトに関するマニラ宣

言 Manila Declaration on the Social Impact of Tourism」(The World Tourism Leaders' Meeting on the

Social Impact of Tourism 1997)にも示される。この宣言が採択された WTOの会議「観光の

社会的インパクトに関する会議」では、観光の社会的影響について議論され、正の影響を

最大限にし、負の影響を最小限にすることについて、また特権を乱用した搾取的な観光形

態の廃絶について考察された。その結果として採択された宣言は、観光計画及びその実施

の支援、モニタリングと評価の各段階における地域住民の関与、経済的・社会的な機会の

創出による生活水準の向上、地域社会における社会的・文化的ルールの尊重、観光関連業

者による正しいイメージの形成と当該地域に適したマーケティングツールの開発の推進な

どを含む、地域住民の視点からの提言であるといえる。

2002 年には、「持続可能な開発についての世界会議 World Summit on Sustainable

Development」の同時並行イベントとして「アフリカにおける世界遺産と持続可能な開

発 World Heritage in Africa and Sustainable Development」4が開催され、「アフリカにおける世

界遺産と持続可能な開発についてのヨハネスブルグ宣言 Johannesburg Declaration on World

Heritage in Africa and Sustainable Development」(World Summit on Sustainable Development Parallel

Event on World Heritage in Africa and Sustainable Development 2002)が採択された。同宣言では、

途上国における遺産保全と途上国における持続可能な開発の関係性に言及し、遺産マネジ

メントが持続可能な開発及び貧困の削減を実現するための手段の1つであるとしている。

一方で、アフリカにおける世界遺産登録件数が少ないこと、政府や地方自治体による公約

の実行や法制度及び組織編成が再構築される必要があることが指摘される。そして、遺産

のマネジメントと所有に関する地域住民の役割の重要性を認識し、地域住民が遺産マネジ

メントの中心的役割を果たせるようなエンパワメントの方法を探究することが決議され

24

る。また、開発に関連する国際的パートナーが、アフリカの国々における資金的限界を考

慮し、技術的、制度的改善の必要性を鑑みた支援を行うことの必要性に言及している。以

上に示される提言の内容は、途上国における文化遺産マネジメントが地域開発という目的

を担っていること、そのためには地域住民を主体とした文化遺産マネジメントが進められ

るべきであることを明記した上で、各国、各地域の能力について配慮した支援を国際機関

に求めるものである。

1-2-3 文化遺産観光と途上国における地域開発

これまでに述べたように、途上国では開発の度合いが低い一方で、多様な文化遺産が継

承されてきた。そして、そういった文化遺産を資源とする観光開発が主要産業である国々

は少なくない。

途上国における観光開発に関する議論は、基本的には途上国開発理論の進展と同調しな

がら展開されてきた。第 2次大戦後に冷戦構造における対立の中での支援とりつけを主な

目的として始められた途上国援助では、近代化理論及びトリクルダウン理論に代表され

る巨額な投資による産業開発による経済開発が進められた。1950年代後半から 1970年の

観光開発の傾向について、山村(2006:p.15)は「開発奨励期」であったとし、地域住民や

文化への負の影響に関する議論よりも、観光の経済的利益を強調するものであったと分

析している。その後の 1970年代は、資源が有限なものであり、人口増加と経済開発がそ

のまま続けば資源が枯渇するという議論を展開した「成長の限界(メドウズ 1972)」の出

版や、生活の質の向上と無駄な利用の削減などを目標とする「もう一つの開発 Alternative

Development」(Dag Hammarskjöld Foundation 1975:p.28)概念の提唱、人類学者を中心とする

参加型開発手法の実践など、環境問題に対する意識の高まりとともに、地域社会の実態把

握調査に基づく開発の重要性も主張されるようになった。観光開発分野でもマスツーリズ

ムとは異なる形態の観光の模索からオルターナティブ・ツーリズム 5という概念が生まれ、

さらにアメリカの人類学者などが中心となり観光開発が地域社会へ与える負の影響が分析

されるようになった 6。そして 1987年、国連に設置された環境と開発に関する世界委員会

の報告書(通称ブルントラント・レポート)「私たちの共有の未来 Our Common Future」(United

Nations World Commission on Environment and Development 1987)において「持続可能な発展」

25

概念が提唱され、1992年にはこの概念を基調とする「環境と開発に関するリオ宣言」が

環境と開発に関する国連会議にて採択された。ブルントラント・レポートにおいて、「持

続可能な開発」は「将来世代が彼らのニーズを満たす能力を減じることなく現代世代の

ニーズに応えるための開発(筆者訳)」と定義される(United Nations World Commission on

Environment and Development 1987: Chapter 2)。さらにこの概念は 2000年に国連ミレニアム・

サミットで採択された「国連ミレニアム宣言」に基づく開発目標「国連ミレニアム開発目

標」の 8つの目標にも反映されている。同宣言は、21世紀の国際関係の発展のため、平

和と安全、開発と貧困、環境、グッド・ガバナンス、アフリカの特別なニーズなどを課題

として掲げるものである(United Nations 2000)。そしてミレニアム開発目標は、この国際

ミレニアム宣言や既に採択されていた開発目標などを統合し、一つの共通の枠組みとし

てまとめられたものであり、「極度の貧困と飢餓の撲滅」、「初等教育の完全普及の達成」、

「ジェンダー平等推進と女性の地位向上」、「乳幼児死亡率の削減」、「妊産婦の健康の改善」、

「HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延の防止」、「環境の持続可能性確保」、「開

発のためのグローバルなパートナーシップの推進」の8つを挙げている(外務省,2010)。

UNWTOは、国連ミレニアム開発目標を受け、その8つの目標のうち、「極度の貧困と飢

餓の撲滅」、「ジェンダー平等推進と女性の地位向上」及び「環境の持続可能性の確保」を

「持続可能な観光」を通じての達成を試みている(United Nations World Tourism Organization

2010:p.4)。さらに、これを達成するのは「責任ある、持続可能な観光 Responsible and

sustainable tourism」による環境及び文化遺産への負の影響を最小化し、経済的、社会的利

益を最大化する観光であるとする(United Nations World Tourism Organization 2010:p.4)。「責

任をもつ、持続可能な観光」の枠組みは 2001年に国連総会にて採択された「観光の国際

倫理規約 Global Code of Ethics for Tourism」において示される。以下に示す 10項目からな

るこの規約は、「世界人権宣言 7」や「世界遺産条約 8」、「国際観光に関するマニラ宣言9」、前述の「環境と開発に関するリオ宣言」、その他にもこれまでに国連や UNWTOが採

択した条約や宣言の内容を含む内容となっている(United Nations World Tourism Organization

2010)。

26

Article 1: Tourism's contribution to mutual understanding and respect between peoples and

societies.

第 1条:観光の集団間及び社会間の相互理解と尊重への貢献

Article 2: Tourism as a vehicle for individual and collective fulfillment

第 2条:個人と集団の充足の媒体としての観光

Article 3: Tourism, a factor of sustainable development

第 3条:持続可能な発展の一因としての観光

Article 4: Tourism, a user of the cultural heritage of mankind and a contributor to its

enhancement

第 4条:人類の文化遺産の利用者として、またその価値をさらに高めるための

貢献者としての観光

Article 5: Tourism, a beneficial activity for host countries and communities

第 5 条:ホスト国とホストコミュニティのための利益活動としての観

Article 6: Obligations of stakeholders in tourism development

第 6条:観光開発におけるステークホルダーの義務

Article 7: Right to tourism

第 7条:観光の権利

Article 8: Liberty of tourist movements

第 8条:観光客の活動の自由

Article 9: Rights of the workers and entrepreneurs in the tourism industry

第 9条:観光産業における労働者と企業家の権利

Article 10: Implementation of the principles of the Global Code of Ethics for

Tourism

第 10条:観光の国際倫理規約の指針の実践

この 10箇条に示される指針は、文化多様性の立場からの相互理解の促進、ホストコミュ

ニティとその文化遺産の発展、観光客の充足といった観光が世界や地域社会、個人に対し

て果たしうる貢献を提示するとともに、観光開発における情報の透明性とサービスの安全

性、観光業従事者の権利の向上など、観光開発において配慮すべき点についても提示して

27

いる。「責任ある観光」とは、観光に関連するすべての人々が、自らの利益のみを追求す

るのではなく、受入れ地域はもちろん観光客や政府、観光関連産業などの観光を成立させ

る全ての要素を考慮し、自らの行為とその影響に対して責任をもつ観光であると理解でき

る。利用する資源の持続性、資源の管理者であるコミュニティの発展、それらの実現を促

すための資源や地域に関する情報の提供と観光客の充足など、異なる立場にある関係者同

士の理解とそれに基づく全体のシステム設計、さらにそのシステムの異なる関係者間での

共有に基づく観光が求められていると言える。

28

1-3 都市遺産の価値に関する議論

1-3-1 議論の背景

文化遺産の保全に関する国際的な議論は、これまで ICOMOSを中心に展開されてきた。

ICOMOSは文化遺産の保全に関する国際的な非政府組織 NGOであり、その主要な目的に

国際会議を通して文化遺産保全に関する専門家同士の意見交換の促進及び国際会議での

決議の採択と実施の推進を掲げている。また ICOMOSはユネスコの諮問機関でもあり、

ICOMOSが採択した国際憲章の内容を取り入れる形で世界の文化遺産及び自然遺産の保護

に関する条約(以下、「世界遺産条約」)履行の作業指針 10(以下、「作業指針」)なども改

訂されてきた。

そして、そうした議論の中で文化遺産の価値についてもその概念が拡大されてきたので

ある。ここでは、国際憲章やその他 ICOMOSで採択された国際文書などの内容及び文化

遺産の価値に関する既往文献の分析から、これまでの都市遺産の価値把握に関する国際的

な議論を整理する。

1-3-2 初期の国際憲章における遺産価値

初期の文化遺産に関する国際的な議論は、ヨーロッパ諸国を中心として展開されてきた。

そのため、文化遺産の対象とその価値に関してもヨーロッパ諸国において価値が認められ

ていた石造物を主とする記念物や遺跡を念頭に置いた議論が進められた。

1931年成立のアテネ憲章は、文化遺産の保全に関する国際憲章の起源となった憲章

で あ る(First International Congress of Architects and Technicians of Historic Monuments, Athens

1931)。同憲章では記念物 monumentsと遺跡 sitesを対象とした復原 restorationの考え方が

示される。そして、文化遺産の価値を表すために「歴史的価値 historic value」という語

句を使用している。また、価値という言葉は使われないものの「芸術的 artistic、歴史的

historic、もしくは学術的 scientificな興味の対象 interest」という語句の使用も見られ、外観

を評価する芸術性や、過去の文化の証拠としての歴史性及び過去の文明の技術を探究する

29

研究対象としての価値が重視されていたことが読み取れる。

さらに 1964年には、ICOMOS の発足の契機であり、その後の遺産保全概念の基礎的

な考え方を示したベニス憲章が成立する(The Second International Congress of Architects and

Technicians of Historic Monuments 1964)。同憲章では、歴史的記念物について定義されており、

単体の建築物のみならず周辺環境をも包含すること、また偉大な芸術作品のみならずより

質素な作品にも適用されることが明記される(ベニス憲章、第 1条)。つまり、寺院や城

などの大規模で豪華な建築のみならず民家などの簡素な建築も保全の対象とすること、ま

た単体の建築物の周辺部分にあたる都市及び田園環境も一体的に保全の対象とすることが

提唱されており、単体の建築物についての遺産概念が広がったと言える。また、文化遺産

の価値に関しては、「人類全体の価値 human value」という語句が使用され、文化遺産が特

定の国や民族にとって価値を有するのみならず、その価値は人類全体に共通のものである

という世界遺産条約につながる考え方を示している。そして、遺産の価値についても「真

正性 authenticity」及び「完全性 integrity」という新たな概念を示している。「真正性」につ

いては、序文及び第 9条において以下のように記載されている。

Imbued with a message from the past, the historic monuments of generations of people

remain to the present day as living witnesses of their age-old traditions. People are becoming

more and more conscious of the unity of human values and regard ancient monuments as a

common heritage. The common responsibility to safeguard them for future generations is

recognized. It is our duty to hand them on in the full richness of their authenticity. (ICOMOS

1964)

幾世代にも渡る人々の歴史的記念物は、過去からのメッセージをそのすみず

みに含み、彼らの昔からの伝統の生きた証拠として現在まで残っている。人々

はよりいっそう人間の諸価値の一体性を意識し、古代の記念物を共通の遺産と

みなすようになってきている。これらの記念物を将来世代のために保護すると

いう共通の責任が認識されている。それらを真正性が潤沢に満ちたままで将来

世代に渡すことが現代世代の義務である。(筆者訳)

30

Article 9.

The process of restoration is a highly specialized operation. Its aim is to preserve and reveal

the aesthetic and historic value of the monument and is based on respect for original material

and authentic documents. It must stop at the point where conjecture begins, and in this case

moreover any extra work which is indispensable must be distinct from the architectural

composition and must bear a contemporary stamp.The restoration in any case must be

preceded and followed by an archaeological and historical study of the monument. (ICOMOS

1964)

第 9条

復原の工程は高度に専門的な作業である。その目的は、記念物の美的及び歴史

的価値を保存し、顕在化することであり、それは当初材及び真正性を有する文

書に基づいたものでなくてはならない。推測が入る時点で復原作業は停止され

るべきであり、推測に基づく追加作業が不可欠な場合には建築作品とは明確に

区別されなくてはならず、現代のものであることが分かるような印が押される

べきである。どのような復原も記念物の考古学的、歴史的研究が先決であり、

それらによって裏付けられていなくてはならない。(筆者訳)

つまり、遺産の真正性とは考古学的、歴史学的調査を通した信頼できる情報源の真正性

に依存しており、真正性を保持した状態で将来へ遺産を継承しなければならないというこ

とを意味していると把握できる。そして、当初材が遺産の価値を構成するものであるとい

う前提にたち、真正性に裏付けられた場合にのみ当初材に対する復原を行い、後に保存の

ために必要な処置として加えられた部分に関しては可視化すべきであると主張しているの

である。

また、「完全性」については、第 14条において以下のように記載されている。

Article 14.

The sites of monuments must be the object of special care in order to safeguard their integrity

and ensure that they are cleared and presented in a seemly manner. The work of conservation

and restoration carried out in such places should be inspired by the principles set forth in the

foregoing articles. (ICOMOS 1964)

31

記念物の敷地は、その完全性を保護するために、また適切な整備と展示を確実

にするために、特別な注意を払う対象である。そのような場所で行われる保全

と復原事業は前記の条項で示された原則に従うものでなければならない。(筆者

訳)

つまり、ある記念物が建てられる敷地に関しては、敷地全体の完全性を担保することが

遺産の価値を担保することになるため、その一部でも損なうことは、価値が減少すること

であると指摘している。

以上に整理したように、初期の国際憲章における文化遺産の対象は単体の建築物である

記念物と現在の文化とは断絶しているような遺跡を対象としていたことが読み取れる。ま

た、そのような文化遺産が有する価値とは、外観の芸術性、歴史性また学術的価値を評価

したものであったことが分かる。それらの大部分が一般市民の生活とは関連しない、過去

の為政者の権力を象徴するような建造物や途絶えた文明の遺構であった。しかし、初期の

議論において遺産が人類共通の価値であることや、それを保護するための基本的な考え方

が示され、さらにそれを国際的に共有できたことは大きな成果であった。

1-3-3 キト規範における遺産価値

1967年に成立したキト規範 The Norms of Quitoは、芸術的及び歴史的価値としての記念

物及び遺跡の保存と活用についての会議 11 において決議された。そして、充分な保護措

置がとられていない当時の状況に対し、経済・社会開発に資するものとして文化遺産を

価値づける必要があるとの分析結果から、記念物及び遺跡の芸術・歴史的価値以外の価

値として利活用価値の位置づけが試みられた(Meeting on the Preservation and Utilization of

Monuments and Sites of Artistic and Historical Value 1967)。

「記念物の経済面での価値付け」12という節では、記念物は自然資源などと同様に経済

的価値を有するとし、その保存及び活用計画を都市計画の中に位置づけ、関連する事業を

マスタープランの中に位置づけることの必要性を指摘する。さらに、「利用性の向上の促

進と文化遺産の価値」13という節において、利用価値を以下のように説明している。

32

In other words, it is a question of incorporating an economic potential, a current value,

of making an unexploited resource productive by a process of revaluation that, far from

lessening its strictly historic or artistic significance, enhances and raises it from the exclusive

domain of erudite minorities to the awareness and enjoyment of the masses.(Meeting on

the Preservation and Utilization of Monuments and Sites of Artistic and historical Value

1967)

言い換えれば、厳密な歴史的・芸術的意味と重要性を弱めるのではなく、未

発見の資源に対する再評価を行うことによりそれを生産的にし、少数の学識者

の閉鎖的な独占ではなく大勢の人々の認識と楽しみのためにそれを促進し、増

加させる現時点での価値としての経済面での可能性との結合についての問題で

ある。(筆者訳)

To sum up, the enhancing the usability and value of the monumental and artistic patrimony

implies a systematic, eminently technical action, aimed at utilizing each and every one of

those properties in accordance with its nature, stressing and enriching their characteristics

and merits to a point where they can fully perform the new function assigned to them.(Meeting

on the Preservation and Utilization of Monuments and Sites of Artistic and historical Value

1967)

まとめると、記念的・芸術的な遺産の利用性と価値の向上を促進することは、

資産の特質に沿い、その特徴と長所を強調・向上させながら、資産に与えられ

た新しい機能を余すことなく発揮できる状態を目指し、すべての資産一つ一つ

の活用を目的とした組織的で、高度に専門的な活動による行為を意味する。(筆

者訳)

つまりここでは、遺産の価値は学術的な価値を専門家のみが知識として保持することを

批判し、一般の人々もその価値を認識してそれを楽しむべきであり、そのために遺産に利

用価値を与えつつ文化的価値をより高めるような整備を行うことが必要で、さらにそうし

た行為が遺産の保護にもつながるということが指摘されている。遺産に利用価値という新

たな価値を与えることにより、現代に住む人々が遺産に親しみ、現代社会における遺産の

意味を見いだすことが可能となることを指摘している。そして、その実行が遺産の保全と

33

次世代への継承へつながるということが述べられているのである。

また観光との関連について述べる節において、「しかるべき方法で復原された資産は、

生きた歴史学習というのみでなく国民が誇りをもつための正当な理由である(筆者訳)」

とし、さらに「これら過去からの証明書は、国際的な関係というより大きな枠組みのなか

で、政治的にはライバル同士という国々に対してさえ理解と調和、精神的共通性を刺激

する」とする(Meeting on the Preservation and Utilization of Monuments and Sites of Artistic and

Historical Value 1967)。そして「精神的価値 spiritual value」という語句を使用してそれを表

している。すなわち、観光を通して自国民の誇りが醸成され、さらに異文化間の理解と精

神的な調和が達成されることを指摘した上で、それを遺産の精神的価値と位置づけている

のである。

以上に見たように、それまでの学術的な価値づけに対し、キト規範では、経済的観点か

ら評価をするための利用価値や、自国民のみならず異文化間での精神的な豊かさの高まり

を意味する精神的価値という新たな価値概念を導入した点で画期的であり、意義があると

言える。

1-3-4 世界遺産条約における遺産価値

1972年に世界遺産条約が成立する。同条約において、世界遺産に登録される資産は「文

化遺産」と「自然遺産」に分類され、文化遺産はさらに以下のように分類される。

Article 1For the purposes of this Convention, the following shall be considered as 'cultural heritage':

monuments: architectural works, works of monumental sculpture and painting, elements or structures of an archaeological nature, inscriptions, cave dwellings and combinations of features, which are of outstanding universal value from the point of view of history, art or science;

groups of buildings : groups of separate or connected buildings which, because of their architecture, their homogeneity or their place in the landscape, are of outstanding universal value from the point of view of history, art or science;

34

第 1条

この条約において、「文化遺産」とは次のものをいう。

記念碑:建築作品、記念的な彫刻や絵画作品、考古学的特質をもつ構造物やそ

の部分、碑文、洞穴住居並びにこれらの特徴の組み合わせであり、歴史的、芸

術的、学術的観点から顕著な普遍的価値を有するもの。

建造物群:個々が独立して、または連続して建てられる建造物群で、その建築、

均質性、景観における位置のため、歴史的、芸術的、学術的観点から顕著な普

遍的価値を有するもの。

遺跡:人類による、または自然と人類との合作による作品で、考古学的な遺跡

を含み、歴史的、美的、民族学的、人類学的な観点から顕著な普遍的価値を有

するもの。(筆者訳)

条文から、これまでの記念物と遺跡に加え、建造物群、すなわち都市遺産が新たな遺産

のカテゴリーとして加わったことが理解される 14。それまでの記念物や遺跡の多くが古代

に消滅した文明の遺産であり、現代の人々の生活とは無関係に近いものが多かったことに

対し、現在も人々が住み続け、一般市民の生活の場そのものである建造物群の遺産として

の価値が把握されるようになったのである。

また、全ての資産は顕著な普遍的価値を有するとされ、それは作業指針において次のよ

うに説明される(UNESCO World Heritage Center 2008)。

Outstanding universal value means cultural and/or natural significance which is so

exceptional as to transcend national boundaries and to be of common importance for present

and future generations of all humanity. As such, the permanent protection of this heritage is

of the highest importance to the international community as a whole.

sites: works of man or the combined works of nature and of man, and areas including archaeological sites which are of outstanding universal value from the historical, aesthetic, ethnological or anthropological points of view.

(UNESCO 1972)

35

(UNESCO 1972)

顕著な普遍的価値とは、国境を越え、全人類の現代及び将来世代にとって共通

に重要 importanceであるほどに類稀な意味と重要性 significanceを有するような

価値を意味する。従って、そのような遺産の恒久的な保護は国際社会全体にとっ

て最も重要な事項に当たる。(筆者訳)

世界遺産条約における価値把握には「意義」または「重要性」と訳される significance

の説明が必要とされる。significanceは「重要性 importance of something」と訳されること

が多いが、「意味 the meaning of something」という意味もある(Hornby 2000:p.1197)。また

語源は signであり、「何かの存在やある出来事を示唆する」「表す」「象徴する」という意

味に由来する(Hornby 2000:p.1196)。一方で、「value」は「お金や他の物品との交換価値

how much something is worth in money or other goods for which it can be exchanged」「金額と比較

した時の値打ち how much something is worth compared with its price」「有用性、重要性の質 the

quality of being useful or important」という意味を持ち、交換価値や金銭価値を基本とする概

念であるといえる。Carver(2007:p.342)が指摘するように、遺産が存在する土地には生産

価値、商品価値、居住地としての価値、コミュニティにとっての価値、政治的価値、環境

的価値などその他の様々な価値が内在する。それら異なる観点からの議論を整理し、他

の価値に代えても保全すべき遺産の価値とは何かを議論するために、valueという簡潔で

理解しやすい概念で遺産の総体的な価値を表す語句が使用されたと考えられる。前述の

キト規範 The Norms of Quitoにおいては、「本質的価値 intrinsic value」という語句が使用さ

れる 15。そして、それは「考古学的、歴史的、芸術的意義 archaeological, historic or artistic

significance」と定義されている。

また、「作業指針」において全ての登録資産は「完全性 integrity」を満たしていなければ

ならないとされる。

88. Integrity is a measure of the wholeness and intactness of the natural and/or cultural

heritage and its attributes. Examining the conditions of integrity, therefore requires assessing

the extent to which the property:

a) includes all elements necessary to express its outstanding universal value;

b) is of adequate size to ensure the complete representation of the features and

36

processes which convey the property's significance;

c) suffers from adverse effects of development and/or neglect.

(UNESCO World Heritage Center 2008)

第 88条

完全性は、自然遺産及び文化遺産とそれらの特徴の全体性とそれらが手つかず

のままであることを評価する指標である。そのため、完全生の状態を検証する

には、資産に関する以下の項目の評価が必要である。

a) 資産の顕著で普遍的価値を表現するために必要な全ての要素を含んでいるこ

と。

b) 資産の意義を伝える特徴や諸過程を完全に表せることを担保するために十分

な大きさであること。

c) 資産に与えられた開発や放棄による悪影響の度合い。

条項に示される通り、完全性については、登録資産の価値を表すために必要な要素を全

て含んでいることが重要とされ、歴史的な価値のみでは評価できないことを示している。

1-3-5 バラ憲章及びケベック憲章における遺産価値

1979年に成立し、その後 1999年に大幅な改定が行われたバラ憲章 16 では、保全の対

象を「文化的意義を有する場所 places of cultural significance」とし、「文化的意義とは過去、

現在及び未来の世代にとっての美的、歴史的、科学的、社会的または精神的価値を意味す

る(the Australian National Committee of ICOMOS 1979)。文化的意義は場所そのもの、その組織、

周辺環境、用途、連想、意味、記録、関連する場所及び関連する物品に具現化されている。

(筆者訳)」と定義している。このうち「組織」は、「構成物、設備、内容物、物品を含む

その場所における全ての物質」と定義される。このように、バラ憲章における遺産価値の

対象は建築物や遺構のみならず、備え付けの設備やその場所に存在した動産物をも含む。

さらに、土地利用形態や精神的つながり、意味や記録といった無形の要素を含む。ただし、

1999年の改訂に関する付記から、利用形態、連想と意味などは 1999年の改訂によるもの

であることが分かる。

37

さらに同憲章では、「バラ憲章ガイドライン(1984年オーストラリアイコモスにより採

択、1988年改訂)」において用語が詳細に説明されている。そこで文化的意義については、

「場所の価値を評価する際の手がかりとなる概念である(筆者訳)」とし、美的価値、歴史

的価値、科学的価値及び社会的価値やその他すべての価値を表す形容詞を包含するとして

いる。そして、美的価値においても匂いや音などの無形要素を含めている点が特徴的であ

る。また社会的価値は、場所がその質のために精神的、政治的、国民的またはその他の文

化と関連する感情の焦点となっている場合に、そうした質を包含する概念とされる。

1982年に成立したケベック憲章においても遺産概念に建築物や遺構以外の動産物まで

が含まれ、遺産概念は建っている建造物や遠い過去といったものよりも多くのものを含む

として、それを物質文化、地理学的環境及び人間環境に分類している。物質文化に関して

は、建築に加え、人類学及び民族学的物質、図解書、文書、家具、芸術作品などをの人

間が住む物質的環境すべてを含むとし、バラ憲章と同様に動産物も含んでいる(ICOMOS

Canada 1982)。また人間環境について、「ある環境において彼ら自身の慣習と伝統を有し、

彼らの記憶は特定の民俗文化によって構成され、彼らの生活の仕方が特定の周辺環境に適

応している人々は人間と社会的な財であり、彼らも保護を必要とする」と説明されている

(ICOMOS Canada 1982)。すなわち、社会的な価値と関連する物質を保全するのではなく、

人そのものを遺産とし、保護の対象とすると明記している点は特筆に値する。

両憲章ともに先住民族との関連が深い土地で決議された憲章であることが注目される。

アボリジニーやインディアンの信仰や生活を通して把握される価値と遺産の継承方法が、

それ以前の科学的根拠と当初材に基づく価値把握と保全の方針では認識できないという課

題から両憲章が成立したことが読み取れる。

以上のような文化財概念の広がりを受け、1992年、世界文化遺産に新しいカテゴリー

として「文化的景観 cultural landscape」が追加された。文化的景観は、以下のように定義

される(UNESCO World Heritage Center 2008)。

Cultural landscapes are cultural properties and represent the "combined works of nature

and of man" designated in Article 1 of the Convention. They are illustrative of the evolution

of human society and settlement over time, under the influence of the physical constraints

and/or opportunities presented by their natural environment and of successive social,

economic and cultural forces, both external and internal.

38

(UNESCO World Heritage Center 2008)

文化的景観は、文化的資産であり、世界遺産条約の第 1条における「自然と

人間の共同作品」を代表する。これらは自然環境によって与えられた物理的

制約及び/もしくは環境の影響及び社会的、経済的、文化的成功の内的・外的

な力の影響のもと、幾時代にもわたる人間の社会と居住の進化を例証するもの

である。(筆者訳)

また、これらは「人間によりデザインされ、創造された景観」「有機的に進化した景観」「連

想される景観」の3つのカテゴリーに分類される(UNESCO World Heritage Center 2008)。「人

間によりデザインされ、創造された景観」は、人間の手によって設計された庭園や公園な

どを指す。そして「有機的に進化した景観」は、さらに2つのカテゴリーに分類される。

一つは、進化は既に止まっているがその進化の証拠を物質の状態で残す「化石景観」で、

もう一つが伝統的な生活と密接に関連し、現在も進化し続ける現代の社会における社会的

役割を保持し、その進化の過程を示す物質的な証拠も有する「連続する景観」である。そ

して最後のカテゴリー「連想される景観」は、物質文化としての証拠というよりも、自然

物に対する宗教的、美的もしくは文化的な連想からの習慣や態度などから登録の可否が判

断されるとされる(UNESCO World Heritage Center 2008)。

この文化的景観という新規のカテゴリーの追加により、生業と関連し、その景観は固定

されることなく常に変わり続ける棚田などの景観や、自然物を物質的側面のみならず信仰

の対象であることによって価値把握できる景観を世界遺産リストへ掲載することが可能に

なったのである。

1-3-6 グローバルストラテジーにおける遺産価値

世界遺産会議は、1994年の第 18回総会において、「グローバルストラテジー」に着手した。

グローバルストラテジーは、世界遺産リストにおける不均衡を問題とし、それを是正し、

「世界遺産リストが世界の多様な文化及び自然の顕著な普遍的価値の代表性を確実に獲得

することを目的(筆者訳)」とする(World Heritage Center 2010)。リストにおける不均衡性

については、地域、類型、時代、文化的、また建築学的観点と人類学的な観点の間の不均

衡などが指摘されている(UNESCO World Heritage Committee 1994)。グローバルストラテ

39

ジーについての専門家会議では、これまでの登録資産がほとんど排他的に「記念的」物件

に偏重していることが指摘されている(UNESCO World Heritage Committee 1994)。さらに、

その後の遺産概念の広がりについて、「建築学、考古学、人類学及び民族学分野において、

社会構造、生活様式、進行、知識体系、異なる過去及び現在の文化の象徴に具現化される

より複雑で多面的な文化的集合 cultural groupingsが対象とされるようになった(筆者訳)」

ことが指摘されている。

1994年の会議における提言では、不均衡の是正のために考慮されるべき項目が具体的

に挙げられている。それらは、まず「人間の土地との共存 human coexistence with the land」

と「社会における人間 human beings in society」に分けられている。そして、「人間の土地

との共生」では「人の移動 movement of people(遊牧 normadism、移住 migrants)、居住地

settlement、居住様式 modes of subsistence、技術的進化 technological evolution」、「社会におけ

る人間」では「人の相互作用 human interaction、文化の共存 cultural coexistence、精神的及

び創造的表現 spirituality and creative expression」を挙げている。その他にも、産業遺産、文

化的景観及び 20世紀の建築を世界遺産リストに掲載するための議論が進んでいることに

ついて言及する他、欧米その他(特にアフリカンサハラ周辺地域)の前史時代の遺跡につ

いての調査・研究を推奨している。さらに、生きた文化 living cultureを遺産概念に含める

ため、作業指針における顕著な普遍的価値指標から「消滅した which has disappeared」や「特

にそれが復原不可能な変化によって危機にさらされている時 especially when it has become

vulnerable under the impact of irreversible change」という表記を除くことが提言されている。

こうして、グローバルストラテジーにおいてそれまでの偏重した文化遺産の評価基準と

その是正のための大きな方針が明文化され、文化多様性における異なる視点による評価基

準を設定する必要性が専門家の間で共通して認識されるようになった。

1-3-7 奈良ドキュメントにおける遺産価値

1994年に成立した「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」(Lemaire, Stovel

ed. 1994)は、「真正性」概念を拡大したことに大きな意義を見いだせる。前述のように、

ベニス憲章においては遺産の価値は考古学的、歴史的真正性に裏付けられた当初材によっ

て構成されるとされたが、その真正性を把握する際の情報源の対象が拡大されたのであ

40

る。

奈良ドキュメントは、前文を除くと「文化多様性と遺産の多様性」及び「価値とオーセ

ンティシティ」の 2章に別れている。「文化多様性と遺産の多様性」では、人類にとって

の文化多様性の重要性と文化遺産の多様性における異文化及び異文化における信仰体系の

あらゆる側面を尊重する必要性について記された上で、条約や憲章へ批准することによる

国際基準と遺産の管理者が属する文化からの要求のバランスをとることが奨励されている

(Nara Conference on Authenticity 1994)。

そして、「価値とオーセンティシティ」においては、次のように記される。

9. Conservation of cultural heritage in all its forms and historical periods is rooted in the

values attributed to the heritage. Our ability to understand these values depends, in part, on

the degree to which information sources about these values may be understood as credible or

truthful. Knowledge and understanding of these sources of information, in relation to original

and subsequent characteristics of the cultural heritage, and their meaning, is a requisite basis

for assessing all aspects of authenticity.(Nara Conference on Authenticity 1994)

第 9条

文化遺産をその全ての形態や時代に応じて保全することは遺産がもつ価値に根

ざしている。我々が価値を理解する能力は、部分的には、これらの価値に関す

るどの情報源が信頼できる、または真実であると理解できるかという度合いに

依存する。遺産の原型、またその後の変遷を含む特徴とそれらの意味に関連す

る情報源の知識と理解は、真正性の全ての側面を評価するために不可欠な基礎

である。(筆者訳)

10. Authenticity, considered in this way and affirmed in the Charter of Venice, appears as

the essential qualifying factor concerning values. The understanding of authenticity plays

a fundamental role in all scientific studies of the cultural heritage, in conservation and

restoration planning, as well as within the inscription procedures used for the World Heritage

Convention and other cultural heritage inventories. (Nara Conference on Authenticity

1994)

41

第 10条

このように考えられ、ベニス憲章においても主張された真正性は、価値を考察

する際に必要不可欠な評価要素のようである。真正性の理解は、世界遺産条約

その他の文化遺産リストへの登録工程においての役割と同様、文化遺産につい

ての全ての科学的研究において、保全や復原計画において、基礎的な役割を果

たす。(筆者訳)

11. All judgements about values attributed to cultural properties as well as the credibility

of related information sources may differ from culture to culture, and even within the same

culture. It is thus not possible to base judgements of values and authenticity within fixed

criteria. On the contrary, the respect due to all cultures requires that heritage properties

must be considered and judged within the cultural contexts to which they belong. (Nara

Conference on Authenticity 1994)

第 11条

関連する情報源の信頼性と同様、文化的資産が有する価値についての全ての判

断は文化間で、また同じ文化においてでさえ異なるかもしれない。そのため、

固定された基準による価値と真正性の判断を据え置くことは不可能である。対

照的に、あらゆる文化に対するふさわしい敬意は、遺産という資産がその文化

が帰属する文化的文脈によって考察され、判断されることを求めている。(筆者

訳)

12. Therefore, it is of the highest importance and urgency that, within each culture,

recognition be accorded to the specific nature of its heritage values and the credibility

and truthfulness of related information sources. (Nara Conference on Authenticity

1994)

第 12条

そのため、それぞれの文化において、遺産の価値の特質と情報源に関する信頼

性及び真実性の認識が最も重要で先決である。(筆者訳)

42

13. Depending on the nature of the cultural heritage, its cultural context, and its evolution

through time, authenticity judgements may be linked to the worth of a great variety of

sources of information. Aspects of the sources may include form and design, materials and

substance, use and function, traditions and techniques, location and setting, and spirit and

feeling, and other internal and external factors. The use of these sources permits elaboration

of the specific artistic, historic, social, and scientific dimensions of the cultural heritage being

examined. (Nara Conference on Authenticity 1994)

第 13条

文化遺産の性質、その文化的文脈、時間を通しての進化により、真正性の判断

は非常に多様な情報源の価値と関連するであろう。情報源の側面は、形態と意匠、

材料と材質、用途と機能、伝統と技術、立地と周辺環境、精神と感性、その他

の内的要因と外的要因を含むであろう。これらの情報源の利用は、検討される

文化遺産に特定の芸術的、歴史的、社会的、科学的側面の精緻化を可能とする。

(筆者訳)

つまり、遺産の価値はそれを知るための情報によって把握されるので、その情報が真実

であるかどうかという真正性が問題となる。前述のように、何を遺産の価値と見なすのか

という問題そのものが文化多様性の観点からみると多様であるため、価値を評価するため

の情報の真正性についても固定化することはできない。そして、それまでの意匠、材料、

技術、周辺環境という物質的側面に加え、用途、機能、伝統、技術、精神、感性など無形

的側面からの評価が行われるようになったのである。特に、精神や感性による評価は、前

述の文化多様性と遺産の多様性とも密接に関連していると考えられる。なぜなら、ある文

化遺産がある特定の民族にとっては誇りとなる価値を有する遺産でも、ある別の民族に

とっては何ら意味をもたず、精神や感性とのつながりを持たないものであったり、逆に負

の遺産であったりする可能性があるからである。つまり、真正性はその文化遺産が形成さ

れ、継承される過程において関連したあらゆる管理主体や文化的表現主体のそれぞれの価

値観に基づいて評価する必要が有ることを示唆している。

この背景には、日本が世界遺産条約に批准した際、石造建造物で構成されるヨーロッパ

の文化遺産保護の考え方と、木造建造物を中心に構成される日本及びアジアの文化遺産の

それとが異なるため、ヨーロッパの研究者たちの理解を得ることが容易でなかったこと

43

が挙げられるとされる 17。田中(1995:p.10)は、その違いとして、日本では解体修理によ

る復原主義をとることに対し、ヨーロッパでは改造も歴史の経過の結果として必要な修理

のみを行う修理主義を挙げている。その他にも、伊勢神宮の式年遷宮がヨーロッパでも既

に有名であったため、全ての木造の文化財が新しい部材で建て直されているという誤解も

あったという。

渡邊(1995:p.8)は、奈良会議について、伊勢神宮に関する議論も含め、ヨーロッパで

展開されてきた物質文明に根ざす文化遺産概念とは異なる各民族の伝統的価値観に根ざす

文化遺産の価値が、世界の遺産として共有され得るかという大きな議論の導入の切掛けと

なったとして評価する。さらに、ヨーロッパの物資文明とは異なる文化体系として、アミ

ニズム的な信仰を中心に文化を築いてきた民族が少なくないことや、最高の価値は神にあ

るとし、偶像崇拝を認めないイスラム教の例を挙げている。また、ヨーロッパの近代文明

の進出により消失した文化の記憶をどう留めるのかという問題にも言及し、民族学的な

観点と連携し、領域の拡張へと向かう方向性が正しいのではないかと述べている(渡邊

1995:p.9)。

以上に整理したように、奈良文書において遺産の価値の多様性が確認され、価値把握の

ための情報源の真正性についての概念が広がった。情報源のなかに、用途、技術や精神な

どの無形的要素が含まれるようになり、文化多様性においてある文化遺産の持つ真正性と

それに基づく価値は多様な価値観に基づいた検証がなされる必要があることを明示したこ

とは、文化遺産概念の拡張に大きな役割を果たしたと言える。しかし、文化遺産の対象は

あくまでも建造物もしくは景観という物質的な要素に限られ、無形的要素はあくまで物質

的側面の価値を理解するための情報源という意味にとどまっていることが指摘できよう。

1-3-8 無形遺産保護条約における遺産価値

2003 年、UNESCO 総会に おいて、「無形文化遺産の保護に関する条約 Convention

for Safeguarding Intangible Cultural Heritage」(The General Conference of the United Nations

Educational, Scientific and Cultural Organization 2003)が採択される。

無形遺産の保護に関する国際的な議論の歴史は古く、世界遺産条約の条項検討時、既

にその議論があったが、具体的な条項としては盛り込まれなかったとされる(Kono

44

2010:p.66)。それ以降、民俗文化の保護に関する国際文書の草案を作成したが、変化する

ことが前提のものを保護するということが非現実的であるとして採用されることはなかっ

たとされる(Kono 2010:p.66)。1989年には UNESCOから伝統文化と民俗の保護に関する

勧告が出され、国際的な議論が始まるも、科学的な検証の必要性が強調されるなど視野

が狭く、伝統文化や民俗の担い手自体を支援するものにはならなかったとされる(Kono

2010:p.67)。1993 年、UNESCO は人間文化遺産プログラム Living Human Treasures Program

に着手した。これは、日本の人間国宝制度と同様個人の知識や技に焦点を当てたもので、

同プログラムにより次第に生きた文化遺産 living cultural propertiesの保護施策の必要性に対

する認識が高まったとされる(Kono 2010:p.68)。1998年には、UNESCOは人類の口承及び

無形遺産の傑作宣言 Masterpieces of the Oral and Intangible Heritage of Humanityを採択した。

そして、前述の人類の口承及び無形遺産の傑作宣言を発展させる形で、2003年のユ

ネスコ総会において無形文化遺産保護条約 Convention for the Safeguarding of the Intangible

Heritageが採択される。この際、人類の口承及び無形遺産の傑作宣言の一覧に記載されて

いた無形遺産は、無形文化遺産保護条約に規定される人類の無形文化遺産の代表的な一覧

表に記載されることとなった。同条約では、「無形文化遺産」を「慣習、描写、表現、知

識及び技術並びにそれらに関連する器具、物品、加工品及び文化的空間であって、社会、

集団及び場合によっては個人が自己の文化遺産の一部として認めるものをいう」と記され

る(外務省,2010)。注目される点は、動産物や文化的空間など、世界遺産条約の範囲と

重複しているかのようにも読み取れる点である。動産物に関しては、無形遺産条約では文

化的空間についての定義は記されず、条約に基づいて作成される「人類の無形遺産の代表

的な一覧表」に「文化的空間」として記載されるものについても、UNESCOのホームペー

ジ上で公開されている詳細から読み取る限り、モロッコのジャマルエル広場以外は特定の

場所に限られるものはない(UNESCO 2010)。このジャマルエル広場に関しても建造物自

体は世界遺産として登録されており、必ずしも有形と無形を一体的な遺産の価値として把

握するものではない。

条約では、UNESCOに設置される政府間委員会へ「人類の無形遺産の代表的な一覧表」

及び「緊急に保護する必要がある無形遺産の一覧表」の作成と公開を義務づけており、世

界遺産の一覧及び危機遺産の一覧と対応する形をとっている。また、「代表的」な一覧表

とすることにより、世界遺産で義務づけられるような類似する遺産との比較分析を要求し

ている点でも、世界遺産との類似がみられる。

45

スミソニアン協会の Earlyらは、条約が成立する前の 2002年のリオデジャネイロでの

会議において、条約の内容の検討過程において無形遺産の実際の継承者たちを軽視し、

UNESCOの単独のプロジェクトでもあるかのように議論がすすめられてきたと批判して

いる(Early and Seitel, 2002)。さらに、UNESCO の役割は、「優先性支配 priority domains」

によるものではなく「良い実践例 best practice」を示したデータベースをインターネット

で創設し、管理することであると述べる(Early and Seitel 2002)。このような指摘を受け、

2009年に「良い実践例の登録 Register of Good Parctices」にも着手している。

1-3-9 有形文化遺産及び無形文化遺産の総合的な価値に関する議論

これまでに、世界遺産を中心とした有形文化遺産概念と無形文化遺産の保護に関する条

約の成立でようやく国際的な枠組みによる保護が開始された無形文化遺産概念について整

理した。ここでは、無形文化遺産に関する議論が高まるなか、より活発な議論が展開され

はじめた有形及び無形文化遺産の総合的な価値把握に関する議論を整理する。

(1) イスタンブール宣言

2002年の国連文化年間に開催され、71人の文化大臣が招集された円卓会議 18 におい

て「イスタンブール宣言」が採択された。同宣言では、無形文化遺産が文化多様性の根源

fundamental sourcesであるとし、有形遺産との関係について次のように記される。

2) The intangible cultural heritage constitutes a set of living and constantly recreated

practices, knowledge and representations enabling individuals and communities, at all levels,

to express their world conception through systems of values and ethical standards. Intangible

cultural heritage creates among communities a sense of belonging and continuity, and is

therefore considered as one of the mainsprings of creativity and cultural creation. From

this point of view, an all-encompassing approach to cultural heritage should prevail, taking

into account the dynamic link between the tangible and intangible heritage and their close

interaction. (United Nations Third Round Table of Ministers of Culture 2002)

46

第 2条

無形文化遺産は常に再創造される生きた慣習、知識や描写で構成され、それら

はどのレベルにおける個人や集団でも価値と倫理的な基準の体系を通して彼ら

の世界の概念を表現することを可能とする。無形文化遺産は集団内への帰属意

識や継続性に対する感覚を育む。そのため、それは創造性と文化的な創造物の

源泉であると考えられる。こうした観点から、文化遺産に対する包括的なアプ

ローチがとられるべきであり、そのアプローチは有形遺産と無形遺産のダイナ

ミックなつながりとそれらの密接な相互関係を考慮したものであるべきである。

(筆者訳)

つまり、無形遺産である慣習や知識は、集団や個人の価値や倫理感の体系的な表現その

ものであり、有形遺産もまたそういった慣習を展開する場所であり、知識に基づいて創造

される創造物であるため、無形遺産によって生み出されるものであると言える。そして、

そのようにして創造された有形遺産は、無形遺産を体現するものであるため、有形遺産と

無形遺産は深い相互関係を有するというものである。このように、有形遺産と無形遺産の

相互関係について国際的な宣言文において明文化されたことは高く評価される。

(2) イコモスシンポジウム「場所、記憶、意味 Place, Memory, Meaning」

無形文化遺産条約が成立した 2003年、イコモス総会において「場所、記憶、意味:記

念物及び遺跡における無形の価値の保存 Place, Memory, Meaning:Preserving intangible values

in monuments and sites」と題されたシンポジウムが開催された。

開催地はジンバブエのビクトリアの滝であり、YAÏ氏による基調講演では、アフリカに

おける万物の捉え方について述べられた。それは、有形物と無形物で万物を区別するもの

ではなく、また一神教か多神教かという問題とも異なっており、人間や動物、自然環境す

べてが、創造の力の流れの中に存在しており、神によって生命の力を与えられたそれらの

ものが世界のすべてを一体となって構成するというものである(YAÏ 2003)。さらに、世

界遺産における顕著な普遍的価値が、こうしたアフリカにみられる価値観を視野に入れ

ず、西洋的価値観のもとに定義されてきたことにも言及している(YAÏ 2003)。

シンポジウムでは、こうした有形の文化遺産と無形の文化遺産の一体性に関して議論さ

れている。2003年当時、UNESCOの文化部門の副部門長であった Bouchenaki氏(2003)は、

47

有形文化遺産と無形文化遺産は「コインの裏表で、両方が意味を保持し、人類の記憶が刻

まれており、それぞれの意味と重要性を理解しようとするとき、両者は互いに依存するの

である。“ 混合遺産 mixed heritage” ともよべるような遺産の特定と促進のために特定の方

針の設定が不可欠である(筆者訳)」と述べている。また、2003年当時、ICOMOSの会長

であった Petzet氏(2003)は、「最も現代的な調査と資料の標準をもってしても、保全と

復原は、もしも遺産の真正なメッセージである無形の価値が理解されず、歴史的な構成物

である有形物の一側面にのみ集中すれば、遺産を死滅させてしまうことがある。完璧なマ

ネジメント計画でさえ記念物と遺跡の真正な精神の理解に代わることはできない。特に、

文化遺産の真正な用途は、物質的価値に集中する傾向が強く、遺産を珍しい “ 博物館の展

示物 ” と変えてしまうようなマネジメント計画よりも重要であるということを心に留めて

おくべきである。<略>上海で開催された ICOMの第 7回アジア太平洋地域会議において、

彼らは “ 動産と不動産、有形と無形、自然遺産と文化遺産を一体化させるような、相互規

律と双方を組み合わせたアプローチの確立 ” 及び “ 総合的な博物館設立と遺産保全の実践

における記録手法と標準の確立 ” を提言した(筆者訳)」と述べている。

シンポジウムにおいては各地の事例も紹介され、有形遺産と無形遺産の相互依存性が確

認された。また、前述のように有形と無形を一体のものと見なした場合の価値把握手法や

保護施策などに対する新たなアプローチの必要性も確認されたと言える。そして、遺産の

真正性については、奈良ドキュメントで提示されたような多様な価値観と精神、感性に基

づく評価が重要であることにも言及されている。

(3) 有形文化遺産及び無形文化遺産の保護のための統合的アプローチに関する大和宣言

奈良文書採択から 10年後の節目に当たる 2004年、再び奈良で文化庁及び UNESCOが

主催する国際会議「有形文化遺産と無形文化遺産の保護—統合的アプローチをめざし

て The Safeguarding of Tangible and Intangible Cultural Heritage: Towards an Integrated Approach」

を開催し、「有形文化遺産及び無形文化遺産の保護のための統合的アプローチに関する

大 和 宣 言 Yamato Declaration on Integrated Approaches for Safeguarding Tangible and Intangible

Cultural Heritage」(International Conference on the Safeguarding of Tangible and Intangible Heritage

Organized by the Japanese Agency for Cultural Affairs and UNESCO 2004)が採択された。

同宣言では、「有形文化遺産と無形文化遺産の相互関係及び相違点、またそれらの保護

について考慮し、どこであろうと可能な限り、社会や集団の有形文化遺産と無形文化遺産

48

の保護の調和、相互の有益性と補強性に対して有効な統合的アプローチを練り上げること

が適切であると考える(筆者訳)」とし、各国政府機関や NGOを含むすべての関連機関に

対し、関連する社会や集団との協力と合意のもとに、統合的アプローチに関する戦略及び

工程を確立するための調査を行うことを提言し、UNESCOに対しても、その計画やプロ

ジェクトにおいて、遺産についての包括的で統合的なアプローチを採用し、実施すること、

キャパシティビルディングを支援すること、また最良の実践のための指針を示すことを提

示した(International Conference on the Safeguarding of Tangible and Intangible Heritage Organized

by the Japanese Agency for Cultural Affairs and UNESCO 2004)。

会議の目的の一つは「地域ごと、あるいは遺産の類型ごとに行われてきた保存の取り組

みに関し、その経験を共有する(辰野 2005:p.5)」であったとされ、それに対応して「有形・

無形遺産の分野の専門家が使う定義や専門用語を調和する重要性(松浦 2005:p.31)」が議

論された。辰野(2005)は、「有形、無形それぞれの文化遺産保存分野における指導的立

場の専門家おおび学者と政府機関、NGO等の代表者が一堂に会し有意義な議論を行うと

いうという、今までにない非常にユニークな国際会議(辰野 2005:p.5)」であったと述べ

ており、それ以前は、遺産のそれぞれの分野の専門家が独立した形で議論を進めてきてい

たことが読み取れる。宣言においては、具体的な方針までは提示されなかったものの、有

形文化遺産と無形文化遺産に対する統合的アプローチの必要性が認識され、各国機関へ対

し実践を呼びかけ、ユネスコに対しては指針の提示を求めたことは、統合的アプローチへ

の第一歩と言えるであろう。

(4) リビング・ヘリテージ

2007年、文化遺産国際協力コンソーシアムの第 2回研究会「リビング・ヘリテージの

国際協力」が開催された。

「リビング・ヘリテージ」の定義は、未だ国際的に共有されていない。遺産保全分野に

おいて、livingという言葉は前述の人間文化遺産 Living Human Treasuresプログラムにも見

られるように、無形文化遺産の議論において使用されることが多かった。2008年に登録

された世界文化遺産「マラッカ海峡の歴史都市群マラッカとジョージタウン」の価値を説

明する文章にも無形文化遺産としてリビング・ヘリテージという言葉が使用されている。

しかし、「リビング・ヘリテージの国際協力」において、ユネスコバンコク事務所アジア

太平洋地域文化担当アドバイザーエンゲルハルトは「私のリビング・ヘリテージの定義

49

は、死んでいない文化遺産であって、引き続きコミュニティに対して意味合いをもたらし

続ける文化遺産」であると述べている(エンゲルハルト 2007:p.9)。同氏は、遺産概念の

広がり及び遺産保全のアプローチの変化に言及し、遺産保全の歴史では、過去の権力者の

遺産を中心とした考古学的な価値を有する遺跡の保護に主眼を置いてきたが、「現在は一

般の人たちのためのあらゆる場所、そして空間を保護すること」に主眼を置き、「実際に

人々が生き続けていているところの地域社会」及び「人々の生活に生き続けている伝統、

文化的な慣習」であると述べている(エンゲルハルト 2007:p.5)。また、リビング・ヘリ

テージの地域社会における脅威として、「遺産を文脈から切り離し、理解できない意味の

ないものにしてしまうこと」及び「有形と無形の文化遺産を分離させてしまうこと」、ま

た遺産の価値が軽視されることによる「文化資源の劣化」を挙げている(エンゲルハルト

2007:p.6)。さらに、世界遺産条約の第 5条「世界遺産に対し、社会における役割を与える

ための一般的な政策をとること」がリビング・ヘリテージの保存のための最重要メッセー

ジであると指摘している(エンゲルハルト 2007:p.5)。

エンゲルハルトが提唱するリビング・ヘリテージとは、現在に生きる地域の人々の生活

のなかで使いこなし続けられ、地域住民に対して意味をもたらし続ける、つまり地域住民

の精神や感性との繋がりを持ち続ける、あらゆる有形的要素と無形的要素が一体となった

遺産として理解することができる。

50

1-4 先行事例から得られる視座

これまでに、都市遺産観光開発と都市遺産の価値に関する国際的な議論を整理してきた。

議論が展開し、概念が拡大され、新たな方針が示されることは進展ではあるが、それらは

今後の取り組みへの指針を示すものであり、そうした議論の背景となった個々の事例にお

ける課題が解決された訳ではない。途上国においてはそれらの議論自体が把握されていな

い場合もあり、先行事例地での経験から学ぶことなく同じ問題を抱えることになる可能性

がある。

ここでは、先行事例地における具体的な事例について、それらの事例地における問題と

その発生経緯について把握する。一つ目の事例として、世界遺産登録と同時に観光開発を

行った中国雲南省麗江を取り上げる。そして二つ目の事例として、本研究が対象とするレ

ブカと地理的、歴史的条件が類似する姉妹都市でもあるアメリカ合衆国ハワイ州ラハイナ

歴史地区を取り上げる。

1-4-1 行政主導の観光開発:中国雲南省麗江

(1) 概要

麗江旧市街地は、中華人民共和国、雲南省麗江ナシ族自治県内に位置する。その歴史を

通して形成された多様な文化の要素の混合によって構成される建築物群と優れた水路シス

テムの完全性などが価値づけられ、1997年に世界遺産に登録されている(UNESCO World

Heritage Center 2010)。

麗江ナシ族自治県の総人口は 33万 5千人、うち 19万 8千人がナシ族で、これは中国

全土のナシ族の 66.5%に相当するとされ、旧市街地の人口は 2003年時点で約 1万 4千人

であるとされる(山村 2001:p.109)。麗江旧市街地は交易路上の要衝であり、ナシ族は、

漢族、白族、チベット族などとの交流から独自の文化を形成してきたとされる(山村

2001:p.109)。

中国政府は、世界遺産登録を見越し、登録以前から麗江旧市街地の観光開発及び整備

を進めてきた(藤木・他 2008:p.1499)。そして世界遺産登録後の観光客数の増加により、

経済的には観光地として成功していると言える(藤木・他 2008:p.1499)。しかしその一方

51

で、先住少数民族であるナシ族を中心とする先住民族の旧市街地における人口の減少や、

そうした少数民族が担っていた無形の文化遺産の消失が問題となり、中国政府に対して

UNESCOが警告するという事態となっている(藤木・他 2008:p.1499)。

(2) 観光開発と住民構成の変化

麗江旧市街地における観光開発は、1985年の「対外国人開放地区」指定による外国人

観光客の受入に始まるが、本格的な開発は 1992年の雲南省による決定及び地元政府に

よる観光業を四大産業の 1つとして位置づけた決定に始まるとされる(山村 2001:p.117,

p.118)。ここに麗江旧市街地の文化遺産の保護とそれをいかした観光開発という方針が

決定され、それに基づいたインフラ及び観光施設整備、プロモーション、資源誘致、人

材育成などが実施された(山村 2001:p.119)。世界遺産登録と同時期に、新市街地の建設

も進められ、新たな居住地と観光客のための宿泊施設などが建設されたとされる(山村

2001:p.120)。

山村(2001:p.119)によると、麗江旧市街地を訪問する観光客数は 1995年ごろから急

速に増加しており、国内観光客が全体の約 96%を占める点が特徴である。ホテル数及び

旅行社数も同様に増加しているとされる(山村 2001:p.110)。こうした観光地としての発

展は建築用途にも現れており、2000年の時点で旧市街地の沿道の建築物のうち商業利用

されているものが約 80%あり、そのうちの 50%以上が観光業種であったとされる(山村

2001:p.110)。麗江が貿易路の要衝として発展した経緯を考慮すると、建設当初より商業利

用されてきた建築が多いと考えられるが、2000年時の観光業種のうち約 93%が 1996年以

降に開店したものであるとされる(山村 2001:p.174)。

さらに、住民の民族構成について、中国の戸籍制度上の常住戸籍を有する常住人口の

90%以上がナシ族であることに対し、流入人口についてはその約 80%が漢族であるとされ、

流入人口の約 86%は 1997年以降に移住してきた人々であるとされる(山村 2001:p.177)。

そして、流入人口が現在利用している建築は 90%近くが借家であり、そのほとんどが

商業利用されているとされる(山村 2001:p.177)。山村(2001:p.181)は、これらの借家

の所有者の多くがナシ族であり、彼らは旧市街地の生活環境の改善及び建築密度の低減

を目的に開発された新市街地に住んでいると考察している。彼らにとって新市街地への

移住は、現代的な生活と賃貸による収入を獲得できるという利点があるとされる(山村

2001:p.180)。そして、このような地域住民構成の変化は、観光地化以前からの近隣組織や

52

近隣関係が弱体化していたことが一因となっているとされる(山村 2001:p.193)。

また、観光業の経営に関してはナシ族よりも漢族を中心とする流入人口の方が経験も豊

富であり、観光地としての成功が地化の上昇、すなわち賃貸料の上昇につながるため、ナ

シ族にとって旧市街地に住み続けるインセンティブが低下していると山村は指摘している

(山村 2001:p.196)。

さらに、流入人口による観光土産店の増加と地域文化と関連しない土産物の増加が関係

していることも指摘されている(山村 2001:p.207)。

ただし、地元政府も流入人口による急激な観光商業化を旧市街地の文化の主体の変質と

して問題視しているとされる(山村 2001:p.196)。

(3) 事例から得られる課題

以上に概説したように、麗江旧市街地では行政主導で観光開発が行われてきた。1992

年の方針決定から 1997年の世界遺産登録までの間にインフラその他観光施設整備が迅速

に進んだことは、雲南省及び地元政府の協力の成果であるといえる。その結果として、ナ

シ族の新市街地への移住と観光業の経験豊富な漢族の旧市街地への進出が起こり、旧市街

地における民族構成が変化した。世界遺産登録にともなう観光開発以前は、遺産の法的所

有主体、空間的管理主体、文化的表現主体がほぼ一致していたと考えられる。しかし、観

光開発以降、ナシ族の移住により法的所有主体及び文化的表現主体が空間的管理主体と一

致しなくなったのである。

麗江旧市街地で起こった観光開発では、それらの三様の主体としての役割を担ってきた

地域住民が不在の開発がすすめられた結果、「空間的管理主体」と「文化的表現主体」が

分離し、それまで旧市街地の空間において展開されていた住民生活と関連が深い文化遺産

が損なわれたと把握できる。地域の開発に関する方針決定権を有する地元政府もこれを問

題視しているとされることから、新市街地への地域住民の移住をともなう旧市街地におけ

る流入人口の増加は意図的なものではなかったと考えられるが、観光地化を第一義とする

急速な開発とその実現のためのプロモーション及び民間企業の誘致により、新たな流入人

口は新市街地への進出のみに留まらず、旧市街地での観光開発も積極的に展開した。一方

で常住人口であるナシ族の一部は新市街地へ移り住み、旧市街地の家屋の賃貸から収入を

得るようになったのである。これらの流入人口は、旅行会社やディベロパーなどの大規模

で体系的な組織を有する観光産業関連組織ではないが、観光業に従事し、そのために歴史

53

的建造物群を利用するという意味においては観光産業関係者である。政策によってそれら

の観光産業関係者の流入がコントロールされなかったこと、また観光産業関係者がそれま

での地域住民の文化や生活に配慮した観光開発を行わなかったことが前述の遺産の消失へ

とつながったのである。

麗江旧市街地での問題は、地域住民が観光開発の主体であるべきであること、及び彼ら

が文化遺産の継承者であるということを、地域住民を含む各ステークホルダーが十分に認

識していなかった点にあるといえる。そして、歴史的建造物は保全される一方で地域住民

の生活から生み出される文化遺産が消失した要因は、歴史的建造物群という有形文化遺産

の価値に対しては保全施策がとられたことに対し、住民の生活から生み出される無形文化

遺産及び有形文化遺産と無形文化遺産の相互依存性を考慮した保全施策がとられなかった

ことに起因すると考えられる。よって、ここから得られる課題は、観光開発当初より都市

における建造物群の価値及びそれと一体となった住民の生活から生み出される文化遺産の

価値の総合的把握であるといえる。なぜなら、総合的価値を把握し、それを継承すべき価

値と位置づけることにより、その総合的価値をいかした観光開発を推進するうえで地域住

民の存在を不可欠なものとして位置づけることが可能であるからである。

1-4-2 民間主導の観光開発:アメリカ合衆国ハワイ州ラハイナ

(1) 概要

ラハイナは、アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島の北西部の海岸沿いに位置する。ラハイ

ナ地区の人口は 17,967人で、うち約 9, 330人(52%)が白人、7,387人(41%)がアジア系民族、

3,341人(19%)がハワイ人及び周辺の太平洋島嶼国の民族、2,118人(12%)がヒスパニッ

ク系及びその他の民族で構成される(Maui County 2009:p.11)。

ラハイナ歴史地区は、主に布教活動期からプランテーション時代に建設された建造物群

の価値が認められ、アメリカ合衆国の国定歴史保全地区 National Register of Historic Places

に登録されている。地区は、南北方向の海岸線に沿って約 1.2kmにわたって広がり、建ち

並ぶコロニアル建築群から構成されており、地区の東側には火山の裾野がなだらかに広が

る。

ラハイナは、1778年のクック船長によるハワイ諸島発見後、カメハメハ一世によって

54

ハワイが統治された際のハワイ王国の最初の首都に選定された。その後は捕鯨業により都

市が発展し、同時に布教活動のために派遣された宣教師たちにより先住民の学校教育など

も行われた。捕鯨業の衰退後は、それまでに既に土地の所有権を得ていた宣教師の子孫な

どによるさとうきびプランテーション経営が始まった。そしてさとうきび産業の衰退後、

それまでに蓄積されてきた歴史的建造物群をいかした観光開発が行われ、現在に至る。

(2) 歴史保全地区の目的

ラハイナの歴史保全地区に関する計画、条例、ガイドラインにそれぞれ「コミュニティ・

プラン」、「マウイ州条例」、「ラハイナ・デザイン・ガイドライン」が挙げられる。各計画

からは、ラハイナ歴史保全地区の観光地の商業集積としての位置づけを読み取ることがで

きる。

例えば、コミュニティ・プランにおいては「フロントストリートのベイカーストリート

との交差点からプリズンストリートまでの区間では、地域の独自性を創出する、旅行者に

向けたアメニティや地域の商業活動とそのための施設整備に重点を置くこと(筆者訳)」

とされている。また、マウイ州条例では、その目的を「郡の人々の経済的、文化的、また

総合福祉の向上、郡内の和平、規律に則り効果的である郡の成長と発展の保障、郡評議会

による郡の歴史と文化に関する質の保全とそれによる旅行者及び住民にとっての魅力の創

出(筆者訳)」とする。そして「ラハイナ・デザイン・ガイドライン」では、ラハイナの

中心市街地を尊重する理由を「遺産の尊重」、「保全による住み心地の良さの向上」、「経済

面での重要性」であるとする一方、「保全とは、建造物の活動的な利用を維持することで

あり、そのためには歴史的建造物や地区の重要性を定義する主な造作的特徴を保持するな

かで、合理的な変化については認められる」としており、積極的な活用を推奨している。

このように、まず保全地区内の景観整備は主に観光客に対する環境整備であることが読

み取れる。地域住民の生活環境の向上にも言及があるが、それよりも観光客に対するアメ

テニティの提供を主眼とし、建造物群の物質的価値を担保することによってそれを実現し

ようとする内容であると言えるであろう。また、歴史保全地区設定の目的を主に経済効果

に求めていることも読み取れる。

55

(3) 観光開発と住民構成の変化

ラハイナの観光開発は、1950年代のさとうきび産業の不振に起因する経済低迷の打開

策として始まった。プランテーション経営会社は、ハワイの気候と海岸という資源をいか

した観光へと目を向けたのである。そしてラハイナの北部、自社の所有地においてリゾー

ト地区を建設し、ラハイナのコロニアル建築群を、そのリゾートへの付加価値として位置

づけ、他のリゾート地区との差別化を図ったのである。

一方で、ラハイナの海岸沿いの建築群を含む地区はアメリカ合衆国の国立歴史保護区

National Historic Landmarkとして指定を受け、さらに 1968年には国定歴史保全地区 National

Register of Historic Placesに登録された。その後、歴史的建造物の修理、修景事業とともに、

遊歩道やショッピングモールなどの観光施設が整備された。

白人との交易が始まる前のラハイナには、6世紀か 7世紀頃にハワイに到着して以来の

住人であるポリネシア系のハワイ先住民が集落を形成していた。そして、ラハイナはマウ

イ島を支配する部族の王の居住地であった。現在、建造物は残されないが宮殿の遺跡の位

置は特定されている。捕鯨船の乗員である白人との交易を通し、ラハイナは経済の中心地

となっていたとされ、この頃から白人の定住人口も存在したと考えられる。その後、布教

活動の宣教師たちの入植を経て、プランテーション時代には日本、中国を中心としたアジ

ア人が労働者として移住した。現在ラハイナに残る歴史的建築物の多くはこのプランテー

ション期に建設された商業及び娯楽施設の集積である。そのため、ラハイナのメインスト

リートであり、海沿いを南北に通るフロントストリートに建ち並ぶ建築物には、日本人に

よって経営されたレストランや雑貨屋、スーパーマーケットの名残である日本名のビル名

が記されるものを確認できる。また、その多くは店舗のみならず住宅としての機能も備え

る店舗兼住宅であった。このように、プランテーション期、フロントストリートの商業地

区は主に日本人と中国人によって経営され、その役割は地域住民であるプランテーション

労働者のための商業及び娯楽活動の場の提供であった。

ところが、観光開発を経た 2010年現在、商業地という土地利用の特性は変化していな

いものの、店舗経営者及び従業員は主に観光地としてのラハイナに経済的価値を見いだし

たアメリカ本土からの流入人口である。そして、歴史地区内の店舗の業種は宝石店、服飾

店、アート・ギャラリー、土産物屋など、全てが観光客向けの店舗になっている。前述の

通り、観光開発が始まった当初はプランテーション産業の低迷によりラハイナの商業地区

の経済もまた低迷していた。よって、プランテーション時代の商業地区を支えてきた住民

56

は、生活の資金を得るために店舗を売却した。そして、その多くは新たな土地へと移り住

んだ。また、日系の 2家族は歴史地区内ではないがそれと近接する山側の地区へと場所を

移し、現在も店舗を構えている。かつては、中国系住民によって新正月の祭りが催され、

また日系住民によって端午の節句が祝われ、正月には餅がつかれたという。しかし現在は、

そうした家庭における風習は継承されておらず、本願寺での盆踊りのみが観光客も参加で

きるイベントとして継承されている。

一方、現歴史地区の丘陵側及び南側の海沿いには、プランテーション期を通じ、労働者

の住宅地やプランテーション経営者及び管理者層の住宅地が形成されていた。このうち、

プランテーション労働者の住宅については、プランテーション閉鎖時にそれらの住宅が従

業員へ払い下げられており、当時からの家族が居住している場合や、労働者住宅の原型に

近いと考えられるものが現存する。また、プランテーション経営者の住宅地についても総

責任者の住宅が現存し、地域のイベント時に利用されることもある。また、この住宅より

北側、歴史地区へ向かう方向には、比較的規模の大きい住宅が建ち並んでおり、管理者層

の住宅地であったと考えられる。

そして、観光開発が進むなか、フィリピン系を主とする移民が新たな流入人口として増

加した。そのため、彼らの居住地として歴史地区の北側及び丘陵側に新たな居住地区が開

発された。

(4) 事例から得られる課題

以上に概説したように、ラハイナではプランテーション会社という観光産業関連者に

よって観光開発が進められてきた。麗江と同様に、ラハイナにおいても開発の過程におい

て地域住民が不在であり、観光産業関連者主導による観光開発に伴う住民構成の変化が起

こり、地域住民の生活から生み出される文化遺産を損なう結果となった。同時に、歴史地

区内の店舗の販売対象を地域住民ではなく観光客へと変化させ、歴史地区とその周辺に住

む地域住民の生活とが分離された。

歴史地区として登録され、条例やガイドラインが整備されることにより建造物群という

物質的な価値は担保されたが、それらの建造物と共にあった住民の生活という無形の文化

遺産は損なわれたのである。これは、歴史的建造物群の保全がプランテーション会社とい

う民間企業の利潤追求を目的とする観光開発構想の一部であったことに起因するといえる

であろう。リゾート開発に対する付加価値という遺産保全の位置づけと、そのための歴史

57

的建造物を利用した商業地区の整備という観光産業関連者の方針、また遺産保全を行う際

に歴史的建造物群という有形文化遺産のみを対象とし、地域住民の生活から生み出される

無形文化遺産やそれらの相互依存性を考慮した文化遺産の総合的価値を捉えようとする視

点を見いだすことができない。よってここでも、地域住民を主体とする観光開発及び地域

住民による文化遺産の継承の実現のため、歴史的建造物群の価値把握とともに住民による

無形文化遺産の価値把握という課題を抽出できた。

58

1-5 小結:「人間不在の観光開発」の克服に向けて

1-5-1 人間不在の観光開発

第 1節では、「文化観光」が過去の時代の遺跡や記念物のみならず人々の日常の営みか

ら生み出されたものや生み出され続ける有形・無形の遺産を対象とすることが把握でき

た。そして、そのような有形・無形の諸要素に「文化遺産」としての価値を見いだしてい

ることが把握できた。また、国際的な議論において文化観光の負の影響が注目されるよう

になり、途上国における開発論の展開とともに、文化遺産を資源とする観光開発について

も議論が展開されてきたことを把握した。そしてそれらの議論において、観光開発が地域

の発展に寄与するためには、地域住民が主体となった観光開発が行われるべきであるこ

と、また地域住民が遺産の継承者であり続けるべきであること、それらを考慮し、政府や

観光産業関連者との連携のもとで観光開発が推進されるべきであることが指摘されてい

た。

第 2節では、そうした文化観光における文化遺産の価値について、文化遺産保全分野で

の概念の拡大を把握することができた。遺産保全について国際的な議論が交わされはじめ

た当初、その対象は記念物や史跡などに限定されていたが、民家や歴史的建造物群にも価

値が見いだされるようになり、さらには文化的景観など無形的な要素との関連を説明して

初めて価値を見いだす事が可能なものへその対象が広がった。一方で、無形文化遺産保護

のアプローチも長年にわたる議論の成果が近年になってようやく無形文化遺産保護条約と

して成立した。このように双方の分野からの議論が展開した結果、有形・無形の文化遺産

の相互依存性について言及されるようになる。そしてその相互依存性の考慮から、双方が

個々に存在するのではなく、一体のものであると捉えた上での保全施策が求められてい

る。また、観光開発分野では文化遺産の価値が人々の日常生活から生み出される有形・無

形の諸要素におかれることに対し、文化遺産保全分野ではその対象の限定的な把握から始

まり、徐々にその対象が拡大されて現在ようやく有形・無形の相互依存性を前提とした保

全の必要性に言及されるようになり、近年ようやく観光開発分野と遺産保全分野における

文化遺産の価値の所在の見解が一致しつつあるといえる。文化遺保護施策は、価値が認め

られた物件の修理や周辺整備に対する公金を用いた補助と関連するため、適用する対象と

59

なる文化遺産について厳密な定義が求められる。そのため、どの文化遺産を保護するかを

考えた際、重要性及び緊急性の高いものを優先して制度が整備されてきた。欧米の有形文

化遺産の専門家のあいだで国際的な議論が進められてきたことに加え、こうした制約も文

化遺産保全分野での価値把握が狭義のものからより広義のものへと拡大されてきた背景と

して挙げられる。また、文化遺産の価値評価には専門性が必要とされるが、文化遺産の専

門性は分化しているため、特定の分野における専門家がすべての要素を網羅して評価する

ことは困難である。そのため、これまでは各専門分野の視点にそった側面で切り取られて

文化遺産の価値が評価されてきたのである。しかし、本来有形遺産と無形遺産は相互の存

続性及び価値説明の観点から相互依存しており、これを前提とした保全施策が求められて

いるのである。

第 3節では行政主導の観光開発事例と民間主導の観光開発事例を分析し、両事例に共通

の課題として、まず、経済的利益を優先し、歴史的建造物をそのための「道具」として扱

う観光開発により、歴史的建造物を支える一体的な存在であった地域住民の生活が尊重さ

れないままに開発が進んだことが挙げられる。両事例において観光産業の主体となった流

入人口がすでに観光業に関する基礎的な知識や経験を有していたことに対し、本来の地域

住民は観光産業の経験が乏しく、自らが観光産業に参入するための基礎知識を持たなかっ

た。地域住民は歴史的建築物を賃貸もしくは売却して収入を得る以外に、生活を維持する

手段を持たなかったといえる。その結果、歴史的建造物に対しては保全施策が整備され、

観光開発における経済的利益を生み出す資源として利用される一方、地域住民の生活から

生み出される文化遺産はその本来の脆弱性に対し保護施策が整備されないまま消失してい

たのである。

本研究では、このような地域住民の生活を軽視した観光開発を「人間不在の観光開発」

とし、その克服を研究の上位目標とする。

60

1-5-2 人間不在の観光開発の克服に向けて

これまでの議論から、「人間不在の観光開発」の克服には、「地域住民主体の観光開発」

及び「地域住民による文化遺産の継承」が実行される必要性があることを指摘した。また、

その実現のためには、地域住民が継承する有形文化遺産及び無形文化遺産について、それ

らの相互依存性に考慮しながら価値を「文化遺産の総合的価値」とし、その総合的価値を

把握することにより、地域住民の存在を不可欠のものと位置づけることが可能であること

を導いた。同時に、これまでは観光分野からは観光の対象、すなわち価値をもつものとし

て把握されてきた一方で文化遺産保全分野からはその保全対策が遅れていた住民の生活か

ら生み出される無形文化遺産の保全対策について、総合的価値を構成する要素を明確化す

ることにより、保全対策を検討することが可能になると考えられる。しかし、文化遺産保

全分野における文化遺産の総合的価値把握は、近年に議論されはじめたばかりの話題であ

り、価値把握方法は未だ確立されていない。よって本研究では、有形文化遺産と地域住民

の生活から生み出される無形文化遺産の相互依存性が顕著であると考えられる「地域住民

の居住がともなう歴史的建造物群」を「都市遺産」とし、その都市遺産を有する対象地に

おける都市遺産の総合的価値把握及びその価値の保全状況の分析を行い、結章において途

上国における都市遺産観光開発に対する新たな成果と、対象地に対する都市遺産保全及び

観光開発の指針を提示する。

61

1) World Tourism Organization International Conference on Cultural Tourism, Siem Reap, Cambodia, 11-13 December 2000

2) 原文と訳:People travel, not just to relax and recreate but to satisfy their need for diversity and their curiosity on how other

people live in environments different from their own. Other people's lifestyles are expressed through their religion; festivals;

costumes; cuisine; arts and crafts; architecture; music and dance; folklore; and literature. These cultural manifestations

differentiate one group of people from another. They make life colorful and interesting. (World Tourism Organization, 2000,

p.4)

  人々は旅をする。しかしそれはただリラックスするためや、レクリエーションのためではなく、異なる環境に

おいて他の人々がどのように暮らすのかということへの関心と多様性への欲求を満たすためでもある。他の人々

のライフスタイルは、宗教、祝祭、慣習、料理、芸術と工芸、建築、音楽、踊り、民俗、文学を通して表現される。

これらの文化的表出は一つの集団を他の集団から差別化する。そしてそれらが生活を彩り、興味深いものとす

るのである。(筆者訳)

3) 原 文 と 訳:People also travel for the specific purpose of visiting the great monuments and sites of the world such as

the Angkor Wat in Cambodia; the Taj Mahal in India; the Great Wall of China or the Borobudur and the Prambanan in

Indonesia. Thus, culture is manifested in both the living and dynamic aspects of a people's everyday life as well as in built

heritage, i.e., monuments and sites. (World Tourism Organization, 2001, p.4)

  人々はまた、カンボジアのアンコール・ワット、インドのタージ・マハル、中国の万里の長城、インドネシアの

ボロブドゥールとプランバナンのような世界の偉大な記念物や史跡を訪れるという特定の目的のために旅行す

る。よって文化は、人々の日常生活という、生きている、ダイナミックな側面及び記念物や遺跡などの建造物

で構成される遺産の両方に表出している。(筆者訳)

4) World Summit on Sustainable Development Parallel Event on World Heritage in Africa and Sustainable Development, under

the auspices of the UNESCO World Heritage, held in Johannesburg from 19th to 23rd August 2002.

5) オルターナティブ・ツーリズムという言葉は、各団体が異なる定義で使用しており、共通の定義がないとされ、

言葉の発生の経緯や意味の拡大については、(Pearce, 19992)に詳しい。

6) (Smith, V. L. ed.,1989)など。

7) United Nations (1948) Universal Declaration of Human Rights of 10 December 1948.

8) UNESCO (1972) Convention concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage of 23 November 1972.

9) WTO (1980) Manila Declaration on World Tourism of 10 October 1980.

10) 世界遺産の概念や世界遺産登録申請のための書類作成作業に関する指針が示される。

11) Meeting on the Preservation and Utilization of Monuments and Sites of Artistic and historical Value

62

12) Economic Valuation of Monuments

13) Enhancing the Usability and Value of the Cultural Heritage

14) ただし、こうした建造物群の保護に関する提言は、1954年のハーグ条約 Convention for the Protection of Cultural

Properties in the Event of Armed Conflictや 1968年の歴史的または芸術的意義を有する建造物群及び地区の積極的

保存及び再生・活用の原則及び実施に関する決議 Resolution on principles and practice of the active preservation and

rehabilitation of groups and areas of buildings of historical or artistic interestで既に行われている。

15) Munjeri(2006 p.325)なども、「本質的価値 intrinsic value」という語句を用い、世界遺産における即物的な価値

把握が本質的価値を捉えきれていないのではないかと疑問を投げかけている。

16) 1981, 1988年にも改訂あり

17) 例えば(渡邊 1995)、(田中 1995)など

18) Third Round Table of Ministers of Culture “Intangible Cultural Heritage, mirror of cultural diversity” Istanbul, Turkey, 16-

17 September 2002

第 2章

レブカにおける都市空間の形成

63

第2章 レブカにおける都市空間の形成

2-1 はじめに

フ ィ ジ ー 諸 島 共 和 国 の「 レ ブ カ タ ウ ン と オ バ ラ ウ 島(Levuka, Ovalau: Township and

Island)」は、レブカタウンに関しては太平洋における 19 世紀の植民地時代の遺構をもっ

とも良くとどめるものとして、そしてオバラウ島全体では先住民集落と砦などの遺構が継

承されるとして、世界文化遺産国内暫定リストに掲載されている(UNESCO World Heritage

Centre, accessed 2009.7.7)(p.6,図 1,図 2 参照 )。本論で扱うレブカタウン(以下、「レブカ」)は、

白人との接触をきっかけとして近代化を果たしたフィジーにおいて、その政治、産業、信

仰や教育などの形態の変化を支えるための都市機能を有する近代都市として成立した。レ

ブカをめぐっては、これまで政府と地元による文化遺産保護と世界遺産登録に向けた継続

的努力が行われてきたが、国内専門家の不在と国外機関への調査依存により、学術調査は

断片的なものが多く、都市遺産における歴史的建造物群としての体系的な価値付けが未だ

不十分である。

よって本章では、史料、図絵、画像データ、既存文献などの収集と分析、現地踏査によ

るヒアリング調査と現況景観の分析を行い、レブカの歴史的・空間的・景観的特性の把握

を通して文化遺産としての都市景観の価値を明らかにすることを目的とした。

本章の分析には、日本における伝統的建造物群保存地区制度を中心とする遺産の面的保

全を通して発展を見た価値把握手法である都市史研究の手法を援用する。本論で用いた手

法は、主に宮本によって精緻化されたもので、文献史料に基づく歴史学や絵図史料や地図

資料に基づく歴史地理学の視点のみならず、現在まで継承されてきた実体としての遺産に

基づく建築学や考古学の視点を加えることによって、それら遺産を過去に実際に利用した

都市民の視点に立ち、より実像に近い過去の生活環境の復 原を通して都市の空間や社会に

迫る歴史研究を可能とした(宮本 2005)。この手法により宮本は、日本の近世都市が、封

建社会における中世都市の閉鎖的な空間構成を引き継ぐものでなく、それとは断絶して成

立したより開放的な都市空間が展開されたことを読み解き、現在の都市はその都市構造に

こそ立脚するものであることを明示したのである。

具体的な分析の方法は、まず国内外のフィジー先住民集落及びレブカに関する既存研究、

64

報告について把握した。そして、現地における資料収集及び踏査、ヒアリング調査を行

い、レブカの成立の歴史を調査、分析した。都市の形成過程については、地図資料の作成

を 1923 年まで待たねばならないため、それ以前に関しては次の方法で分析を行った。まず、

図絵資料に描かれる建築及び古写真に見られる建築について現在の土地所有図上での位置

を特定し、これに後年作成された地図資料を重ね合わせ、さらに文献資料とヒアリング調

査から得られた情報をもって総合的に考察した。なおヒアリング調査は、主にレブカのヘ

リテージ・コミティ 2 のメンバーに対して行い、資料収集はフィジー博物館、フィジー公

文書館、各関係省庁、フィジータイムズ図書館、ケインズ・ジャニフ写真資料館、及びレ

ブカ町役場にて行った。

本稿では、現在の都市景観の価値を明らかにするという目的を踏まえ、歴史が都市景

観へもたらした変化をとらえて分節し、年代区分を 3 期設定した。第 1 期を、伝統集落の

自給自足的な生活と伝統集落の景観が維持された「都市黎明期(先史時代~ 1840 年代)」、

第 2 期を、布教活動により西洋の価値観がもたらされ、その後急速に都市景観が形成され

た「都市発展期(1850 年代~ 1882 年)」、第 3 期を、都市の成長・拡大が収束し、景観が

緩やかに更新されていった「都市成熟期(1883 年~現代)」とした。なお、「都市黎明期」

については、その後の 2 期と比較すると長期間であるが、オバラウ島に住み着きだした先

住民は、国内の他島から移住してきたと伝えられることから、その集落は当初からある程

度完成した集落形態をもって形成されたと考えられること、また、後述のビーチコーマー

たちは先住民と共に集落に住み着いたとされることから、それらの期間に本稿で考察する

現況都市景観に影響する重要な変化が起こったとは考えにくいため、そのように設定した

(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society,

Levuka 2001:p.29, Smythe 1864:p. 167)。

本論において「レブカ」と記述する場合には現在のレブカタウン領域内、「レブカ地区」

とする場合にはそれら全てに加え、周辺集落を含んだ行政地区を指す(p.6,図 2 参照)。

65

2-2 黎明期

オバラウ島及びレブカ地区に人が住み始めた時期については不明であるが、考古調査か

ら 3500 年前にはフィジー全土に人が居住していたことが明らかになっている(Donnelly,

et al. 1994:p.8)。白人との交流が始まる 19 世紀初頭のレブカは、フィジー語で「中心」を

意味するその地名が示す通りにフィジー諸島全体の中心に位置するという有利な立地と、

急峻な山並みが生み出す豊かな水資源から先住民集落が形成され、ツイ・レブカ(現在も

レブカ地区全体を支配する者の呼称)が住むレブカビレッジが周囲の集落を統治していた

(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society,

Levuka 2001:p.72)(以下、地名に対応する場所は p.79, 図 2-1 参照)。当時のフィジー国内

における集落での暮らしは、ダロイモの栽培を中心とした農耕と漁業で支えられ、部族同

士の戦争が耐えなかったとされる(Donnelly, et al. 1994:pp.8-10)。レブカビレッジはレブカ

領域外北部に位置するが、この後の時代に書かれたイギリス人大佐夫人の手記 Ten Months

in Fiji Islands には、「3 人のカトリックの宣教師たちがトトンゴビレッジに住んでいた」と

あり、レブカの地理的な中心地であるトトンゴにも先住民集落が存在していたことが推測

できる(Smythe 1864:p.167)。

先住民集落には次第にビーチコーマーと呼ばれる元貿易船員が住み着き、先住民と白人

との交渉や通訳、船の修理、情報の収集や伝達役として働くようになったことが知られる。

当時アメリカ探検隊が出会った白人 12 人は全員先住民と結婚し、先住民集落に住居を構

えたとされることから、先住民の生活文化に馴染むように暮らしていたことが読み取れる

(Wilkes 1985:p.50)。レブカが白人の間で好まれた理由は、前述の地理的優位性に加え、環

礁に囲まれた天然の良港であったこと、さらにツイ・レブカが白人を擁護したことが挙げ

られる。

この時期の空間構成について、まず 1850 年代にレブカビレッジからニウカンベまでが

描かれた俯瞰図(p.80, 図 2-2 参照)を用いて探りたい。図中、レブカクリークから海岸線

にかけて塀が巡らされており、そこがレブカビレッジの集落境界であると考えられる。そ

れを越えた南側には、現在のビーチストリートの原型と考えることのできる海沿いに延び

る道と、その道沿いに点在する約 10 棟の建築物が描かれる。これらは、先住民集落に隣

接している点、また海沿いに建てられる点において、先住民との交渉や船修理を行うため

66

に有利な立地であるといえ、ビーチコーマーたちのものであったと考えられる。以上のこ

とを読み取った上で 1923年の地籍図に目を転じると、レブカ内の敷地は大きさが異なっ

ても全体的には比較的四角形に近い敷地で構成されることに対し、ナサウ及びトトンゴで

は、円形のものを含み形状も大きさも異なる敷地が並んでいる(p.81, 図 2-4-A, 図 2-4-B参

照)。これらは、宣教師たちの布教活動が始まる頃も先住民集落が存在した場所で、彼ら

の生活様式に合わせた土地利用の名残を示していると推測できる。また、レブカ北部のビー

チストリート沿いには、周囲は全て教会所有地であるにもかかわらず、その一帯だけが取

り残されたように非教会所有地で、間口幅も奥行きも不揃いな敷地が並んでいる(p.81,

図 2-4-C参照)。これらは、ビーチコーマーたちが住居や交易を行った場所と重なり、宣

教師の来訪前に彼らが土地を所有していたために教会に賦与されなかったものと考えられ

る。この時期の土地利用に関しては、現在まで継承される集落形態である、集落単位で所

有する土地に集落及び耕作地を設ける形態をとったと考えられる。また、家屋と農地との

関係は、各家屋に隣接して農地を設けるのでなく、集合した家屋群から離れた周辺地に農

地を耕作したと推測できる。道路などの概況としては、図 2-2(p.80参照)からレブカビ

レッジとナサウ・トトンゴ地区をつなぐ海岸沿いの道があったと推測され、集落内にも各

戸をつなぐ小径があったと考えられる。また、図 2-2から明確に読み取ることはできない

が、現在同様の伝統集落形態をとったとすれば、集落内には広場が設けられ、そこで儀式

や集会などが行われたと推測できる。

この時期の景観についても同俯瞰図から読み取ることができる。図中の全ての建築物は、

ブレと呼ばれる草葺きのフィジーの伝統家屋 3として描かれる。ビーチコーマーたちは西

洋風の建築を建てずに先住民と共にブレに居住したため、この時期、先住民が形成してい

た集落景観からの大きな変化はなかったと推測できる。ただし、レブカ内にもレブカビレッ

ジにもこの時代からのブレは現存しない。

以上、白人との交易が始まった都市黎明期においては、白人たちは文化的にも物質的に

もフィジー人の伝統的生活文化の中に同化して暮らしており、1923年の地籍図の形状を

継承している現在の空間構成の中にその歴史を読み取ることが可能である。

67

2-3 発展期

2-3-1 布教活動のはじまり

1850 年代に入ると、レブカでの白人宣教師たちの布教活動が始まる 4。この頃、フィジー

国内に住む白人約 200 人の中でレブカの白人人口が最も大きく、彼らはこの頃も通訳や船

の修理工といった職業に就いていたとされる(Smythe 1864:p.20)。ここから、布教活動期

までに白人人口が増加したこと、また彼らは当時も先住民との関係が深いビーチコーマー

の暮らしを続けていたことが読み取れる。一方で、レブカの白人のうち 20 名程度は日曜

のミサへ参加するものがおり、白人のミサとは別の時間に設けられた先住民へのミサに

は 200 名程度が集まったとされることから、次第に宗教観やモラルの基準が西洋化されて

いったことが読み取れる。そして、この時はじめて個人または団体による土地の私有地化

という概念がもたらされた。

この時期の空間構成について、1923 年作成の土地所有図にその痕跡を見ることができ

る(p.81, 図 2-4 参照)。図中、現在のデラナ及びミッションヒルがメソジスト教会所有地、

トトンゴ南側がカトリック教会所有地とされており、宣教師達の活動地及び住宅地とする

ため、ツイ・レブカから広大な土地が与えられたことが読み取れる。またこれらの土地が、

レブカビレッジ及びトトンゴビレッジに隣接しており、宣教師たちもまた先住民と密接な

関係にあったことを表す点も注目される。

さらに、1860 年制作の Smythe 夫人の水彩画に描かれる建築物の面的広がりに目を向け

ると、この頃までにニウカンベ周辺の沿岸部まで住宅地及び商業地が広がったことが分か

る(p.79, 図 2-1; p.80, 図 2-3 参照)。沿岸部はビーチコーマーの時代の性格を引き継いだ船

の修理店や商店の敷地とそれらの経営者の住宅地であったのに対し、環境の良好な丘陵地

は教会関係者の住宅地、また教会及び学校の敷地として開発されたと考えられる。また、

Smythe 夫人の手記か ら、宣教師であるビナー氏の住宅には庭園があり、イギリス庭園の

ような草花以外に果樹やスパイスなどが植えられたとされ、建設計画中の Smythe 夫人の

家にはフェンスを張り巡らせる予定とあり、それまでの伝統集落の集落共同体全体で土地

管理を行う形態とは異なり、教会という団体が所有する土地を個人が借り、フェンスで明

確化された個人の敷地内に家屋と庭園を配置するという、現在の敷地内空間構成と同様の

68

形態をとったことが読み取れる(Smythe 1864:p.23)。この時期も、道の整備などを行う十

分な数の技術者がいなかったため、各戸へ続く小径が形成されたのみと考えられる。

この時期の景観についても同水彩画から探りたい。図中、西洋風建築と草葺きの建築が

描かれ、さらにそれぞれ、主屋のまわりにベランダを配置するものとそうでないものに分

けられ、合わせて 4 種類の建築が描かれる。丘の頂上に描かれる西洋風建築は、白い絵の

具で描かれ、寄棟造りで、下屋をまわしてベランダを設けている。その色からも比較的緩

い屋根勾配からも屋根素材は茅や板ではないと考えると、この時代の後にレブカで一般的

になるトタンが屋根に使われはじめていると推測できる。平屋で主屋の四方にベランダを

巡らせるという構成は、現在のレブカにおける住宅の典型であるが、財を投じて材料を

輸入すれば、入植初期にも同様のものを建てることが可能であったことがわか る。そし

て、ブレと同じ色で描かれるが、下屋が出ているように描かれる建築は、Ten Months in the

Fiji Islands 中、「新居は、木造で草葺き、ベランダを周囲に巡らせ、(略)白人の大工 2 人

が木造部分を、先住民が草葺きを行う予定」とある折衷様式とも呼べるものであると考え

られる。1862 年には切妻造りの平屋で妻入り、珊瑚海砂を混ぜたコンクリートと見られ

る外壁をもつメソジスト教会が建設された(Smythe, 1864:p.23)。教会は、メソジスト教会

系のデラナ高校校舎(部分)と共に布教活動期の歴史を伝える(HJM Consultants PTY LTD

1994)(p.83, 図 2-9 参照)。

以上から、この時期に始まった布教活動により西洋の文化的価値観がもちこまれ、土地

所有の新たな概念と、教会やベランダ住宅といった西洋的建築様式が取り入れられたこと

がわかる。そして、それらの歴史を物語る空間構成と景観が現在まで継承されていること

が読み取れる。

69

2-3-2 フィジー・ラッシュ

レブカの状況は 1860 年代の間に大きく変わる。60 年代当初は、先住民と寄港する白人

の間で船修理の依頼や食料調達の取引がなされる程度の寄港地であったが、70 年代初頭

までのわずか 10 年の間に、レブカはプランテーション経済と文化の中心地である白人の

都市へと変化を遂げるのである。その背景は、60 年代終わり頃から 70 年代初めにかけ

て、南北戦争の影響で綿花の需要が高まり、フィジー・ラッシュと呼ばれる急成長期を

迎えたことにある。移住者の多くは、オーストラリアやその他母国からの脱走者であっ

た。ザコンバウ政府の最初の首相でさえ、債務不履行でその叱責から逃れるためにレブカ

に居着いたという経緯をもち、その他、刑務所からの脱走者や免許を剥奪された医者など

もいた。彼らは新しい生活での仕事には真面目に取り組んだが、それでもレブカは小さな

諍いが絶えない町であったという(Young 1984:pp.221-231)。レブカを訪れた人物の手記に

よると、レブカの入植者たちのアルコール消費量はそれまでに彼が見たアメリカの西部

の村や、オーストラリアの金鉱の町で見たものを凌駕していたとある(Young 1984:pp.221-

231)。領事の報告書では、アルコール輸入量は食品の輸入量を超えているし、航海士たち

は海に浮かぶアルコールのボトルで、自分たちの進む道を辿れるという冗談も飛び交って

いた(Young 1984:pp.221-231)。こうしたビーチストリートでの雑多な様子から一転、丘陵

地に屋敷を構える入植者については状況が異なった。彼らは、レブカに来る以前に他の植

民地で財を成し、単独ではなく家族で移住してきた人々であった。ビーチストリート沿い

で店舗を経営し、丘陵地に住居を構えた。人口の増加と共に船舶の来航数も増え、同時に

最新デザインの衣服、新聞、家具、武器、書籍や酒類などを運搬した(Young 1984:pp.221-

231)。1870 年 1 月から 1871 年 11 月までにレブカに移住した 1,578 人の内、306 人が女性で

あり、彼女たちはレブカのそれまでの男性社会に家族の生活や、社交ダンス、ピクニッ

クやコンサートなど、白人社会の文化を持ち込んだ。1871 年にはレブカ女学校 Levuka

Ladies' College が設立され、ドレスメーカーの店も開店した。こうしてイギリス社会の文

化が持ち込まれ、フリーメイソンやチェス・クラブ、ライフル協会、レブカ演劇クラブな

ど、様々な組合組織が形成された。集会は読書室やホテルで開かれ、ホテルの裏のクライ

テリオン劇場で、公演が行われた。また、暑い日には、トトンゴ川を丘側に上った天然の

プールで水浴びを楽しんだという。1860 年代の輸入品からも、食料品などを遥かに超え

てマンチェスター製品(綿織物と考えられる)や食卓用金属品などが輸入され、母国イギ

70

リスの文化が持ち込まれたことが読み取れる(表 2-1 参照)。そうした中、先住民や混血

人種への差別もあった。教会の礼拝の時間が分けられており、集会への出席を拒否される

こともあった。またこの時代、南太平洋では奴隷貿易が行われ、労働契約は公正なものば

かりではなく多くの誘拐や虐待が横行した。そしてレブカは、この奴隷貿易の中心地であっ

たことでも知られる。

しかし、無政府状態で形成された都市は、物理的にも社会的にも秩序の欠如を内包する

ものであった。

この時期の空間構成について、まず図絵や写真から探りたい。1870 年制作の図絵は、

海上からレブカとその背後にそびえる山々を描いており、都市の立体的な広がりを捉える

ことができる。沿岸部ではトトンゴクリークを超えてカトリック教会北側まで商業地が

広がり、デラナやミッションヒルでは、1860 年に比べ建築の数が増加していることが読

み取れる(p.79, 図 2-1;p.82, 図 2-6,2-7,2-8 参照)。ミッションヒル上方、現在グラウン

ドとして利用される敷地と推測できる場所に建てられる建築は、レブカの白人社会のリー

ダー的存在であった Butter 閣下 5 のものと説明され、地位や権力と利用する土地の標高の

比例関係を読み取ることができる。以上を踏まえ、1948 年の地籍図中、カトリック教会

敷地の広い敷地の北側に並ぶ、短冊状ではあるが間口も奥行きも不揃いな敷地に注目した

い(p.81, 図 2-5-A 参照)。これらは、フィジー・ラッシュ期に全体的な計画をもたないま

ま各々が商店を建設した結果を反映していると考えられ、現在まで形状が継承されてい

る。これらの北にも同様の不揃いな敷地が並んでいたと推測されるが、その現在の形状か

ら 1895 年の台風後に区画整理が行われたと推測でき、当初の形状からは変化しているよ

うである。この時期、レブカタウン領域内では、その土地利用が林地や農地から、平地

品目 1863 年(£) 1866 年(£) 1867 年(£)マンチェスター製品 4,825 10,000

食卓用金物、その他金物類 950 7,000

ワイン、ビール、精酒 1,500 3,000

船用雑貨 1,500

食料品 2,000 2,000

衣服 500

煙草 500

機械類 700

合計 9,275 25,200 29,000

推測合計 18,000

表 2-1 1863-1867 年の輸入品 (Adventuous Spirits より)

71

は内陸側まで商店やホテル、住宅敷地として利用、丘陵地は比較的規模が大きい住宅敷

地としての利用へと大きく変化したと考えられる。ただし、1871 年の日誌には「道とよ

べるものはビーチストリート一本のみ、その内側は建物が無秩序に並ぶ」とあり(Britton

1870:p.40)、街路の計画や整備がなされないまま開発がすすんだ様子が伺える。また、図

2-6 及び図 2-8(p.82)にはレブカビレッジとニウカンベヒルの間にのみ桟橋が描かれてお

り、主に町の北部で商業活動が盛んであったことが読み取れる。

この時期の景観については、前述の図絵の他写真からも捉えることができる。布教活動

期に比べ西洋風建築の占める割合が増加し、平地では、平屋の住宅や店舗の他に、2 階建

の 2 階部分にベランダを配する店舗及びホテル建築が内陸側まで建ち並んだ。丘陵地の住

宅建築については、寄棟造りもしくは切妻造りの平屋で、下屋を巡らせてベランダを設け、

丘陵地であるという地形的制約から主屋の棟は全て南北方向をとっている。この時期から

現在まで継承されるものに、ホテル建築であるロイヤルホテルと店舗建築である前モリス

ヘッドストロム商店がある(p.83, 図 2-10 参照)。また、通りからセットバックして建てられ、

塔を配することが特徴的であるカトリック教会も現存する。塔はこれまでに幾度か建て替

えられており、現在の石造の時計塔は 1916 年に建設されたもので、以来、ビーチストリー

トのランドマークとなっている(Knox 1997:p.50)。

以上のように、フィジー・ラッシュ期は、白人の生活文化そのものが持ち込まれ、先住

民との接点は土地の売買や入植地の安全確保といった白人の生活を保障するためのものに

限られるようになったといえる。その中で、増加する白人人口を支えるための店舗と住宅、

ホテルを中心とした景観が形成された。そして、その歴史を物語る空間構成と 景観が現在

まで伝えられる。

2-3-3 ザコンバウ政権及びイギリス領フィジー諸島政府の成立

オバラウ島の南西約 40km に位置する小島バウの部族は、ビーチコーマーとの緊密な連

携からフィジー諸島内で有力な部族に成長していた。1871 年、バウ島出身のザコンバウは、

レブカにおいてフィジーの統一者としての宣言を行い、白人を中心とする議会 Levuka

Municipal Council を設立する。しかし数年で財政難におちいり、1873 年、イギリスへの譲

渡を打診する(Donnelly, et al. 1994:pp.26-32)。当初のイギリスは、南太平洋地域ではすで

72

にオーストラリアやニュージーランドを領地として手に入れていたこともあり、フィジー

に対しては直接的な統治を行わない方針であった(Cyclopedia Company of Fiji 1907:p.118)。

しかしながら、前述の奴隷貿易を批判するイギリス国内の世論に押される形で、負債の

肩代わりという条件付きで譲渡の受諾を了承する(Donnelly, et al. 1994:pp.35-36)。1874

年、譲渡式がレブカ南端に位置するナソバで執り行われ、レブカはイギリス領フィジー

の首都となったのである。以降 8 年間レブカは、首都として機能し、都市の空間構成と社

会に秩序がもたらされた。植民地政府は、先住フィジー人(以下、「フィジー人」)の政

治参加と先住民集落へ既存の政治や社会体制を継承させることを方針とし、1880 年には

フィジー人の土地の権利を守るための法律 Native Lands Ordinance も制定された(Donnelly,

et al. 1994:p.45)。 新 規 入 植 者 へ 向 け て ま と め ら れ た FIJI PLANTING AND COMMERCIAL

DIRECTORY では、「約 2,000 人のフィジー国内の白人居住者の内、約半分がレブカに住ん

でおり、競馬、ボート、テニス、ライフル射撃などを楽しんだ。教会、学校、銀行、クラ

ブ、新聞、ホテル、食料品店など様々な施設と店舗がある。ダンスや観劇も行われている」

と説明されており、イギリス中流社会の文化が持ち込まれ、首都となったレブカと都市民

の生活の充実ぶりをうかがうことができる(Griffith 1879:pp.68-86)。イギリス工兵隊を動

員しての都市インフラ整備も行われ、ここにレブカは都市としての完成をみたといえる。

この時期の空間構成について、現存する建造物や古写真からそれを探ることができる。

平地に商店及び住宅群、丘陵地に規模の大きい住宅群というフィジー・ラッシュ期の空間

構成を基本的には継承しているが、トトンゴ及び現在のレブカ・パブリックスクール(以

下 LPS)の敷地が学校、拘置所、警察などの公共用地として、さらにナソバ地区は政府庁

舎敷地として、また埠頭の建設予定地には税関や郵便局の敷地といったように公共用地が

確保された(p.81, 図 2-4-B、図 2-4-D、図 2-5-B 参照)。このように公共施設が離れた場所

に配される構成は、都市の中心地にある広場の周囲に政府庁舎その他の公共建築が計画的

に配されるイギリス植民都市の典型的な空間構成と大きく異なり、譲渡以前に既に都市が

形成されていた歴史を物語っているといえる。1923 年の地籍図に目を転じると、前述の

ように有機的な形状のトトンゴに対し、ナソバは規模が大きく整然とした構成であるこ

とから、ザコンバウ政権期から首都期にかけて形成されたものと推測できる。次に、1923

年及び現在の地籍図上のこれら公共建築の敷地を比較すると、他の多くが分筆されてい

る中、現在まで大きな変化がなく、形状が継承されていることが読み取れる。また、1948

年の地籍図において、ウォーターハウスロード沿いは、丘陵地であるにもかかわらず整然

73

とした区画整備がなされている(p.81, 図 2-5-C)。これらは、首都期に建てられた貿易商

の住宅が現存する敷地を含む場所で、白人によって計画的に住宅地が開発されたものと考

えられる。さらに、ナソバの行政庁舎に隣接してグラウンドが設けられたが、これについ

ては、人々が集うための場という意味よりも、イギリス中流階級の文化であるスポーツを

行うことを主な目的としたであろうことが、古写真などから推測できる 6。また、1875 年

には現在と同じ場所に港湾管理局(ポートオソリティ)が設立されており、この当時から、

桟橋の代替としての埠頭建設(1886 年着工)が計画されていたものと考えられ、商業地

区が町の南側へと広がる要因となったと考えられる(p.79, 図 2-1 参照)。

この時期の景観については、図絵や写真から読み取ることができる。ナソバに建設され

たザコンバウ政権庁舎は、中央部分の基礎と屋根を高くするなどフィジーの先住民集落の

建築様式を取り入れた平屋で寄棟の茅葺、周囲にベランダを巡らせ、掃き出し窓を多用し

た折衷様式であった。学校建築に関しては、寄棟造りの 2 階建の 2 階部分にベランダを巡

らせ、正面に塔が配される LPS がバスロード沿いに、部分 2 階建で T 字状の平面構成をもち、

正面に塔を設けた工業学校がニウカンベ北側に建てられた。ニウカンベ南側に建てられた

フィジータイムズ社の事務所は、切妻造りの 2 階建で妻入り、妻面及びベランダのデザイ

ンにアーチを取り入れている。これらの内、政府庁舎が部分的に残されたナソバハウスと

LPS、郵便局、5 件の住宅建築が現存する(p.84, 図 2-11, 図 2-12 参照)。

以上に見られるように、ザコンバウ政権期から首都期にかけて、都市は秩序を手に入れ、

白人中流階級の文化がもちこまれ、公共建築と事務所建築を中心とした景観が形成され

た。そしてそれらの歴史を物語る空間構成と景観が現在まで継承される。しかしその一方

で、レブカの都市空間は都市全体が均質なグリッドが引かれた上に形成され、その土地の

歴史や固有性を消し去るような典型的な植民都市の構成をとらず、むしろ都市全体は有機

的な形状で構成される。また権力の象徴空間としての広場を中心とした公共建築群の建設

も見られない。ここにレブカの植民地としてではなく近代都市としての他の植民地との明

確な相違が示されるのである。

74

2-4 成熟期

2-4-1 コプラ貿易の隆盛

1882 年、都市をさらに発展、形成させるには、急峻な山が迫るレブカでは平地面積が

不足することから、首都はスバへ遷されることとなる。現首都スバは、その後海岸部で大

規模な埋立てによる近代港湾設備が整備され、都市の景観構成については歴史的建造物の

建て替えがすすみ、大規模な商業建築が立ち並ぶ都市として発展した。このことを鑑みる

と、結果としてこの遷都は、レブカを文化遺産として今日に継承できた最大の要因であっ

たといえる。また、1895 年の台風はレブカに大規模な被害をもたらすが、それでもコプ

ラ貿易が終焉を迎える 1940 年代まで中継貿易港都市として栄え、今日遺産として継承さ

れる多くの建造物が造られ続けた。

このコプラ貿易期初期の空間構成については、現存する建造物や古写真から探ることが

でき、後期のそれについては地籍図から知ることができる。1885 年に撮影された古写真

から、首都期のはじめには建物が疎らであったカトリック教会から埠頭にかけて、店舗建

築や倉庫建築が建ち並んだことがわかるが、これは埠頭の建設が要因であったと考えられ

る。しかしその後の 1895 年の台風は、レブカクリーク南からトトンゴクリークにかけて

の沿岸とその背後の丘陵地に多大な被害を与え、丘陵地の住宅地としての利用が回復され

ないまま途絶え、沿岸部の商店やホテル敷地としての土地利用も回復されず現在の教会及

び病院を中心とした土地利用へと変化した。ただし、1900 年代には、ベントリーズレー

ン西側の丘陵地に住宅が建てられたことや、ナサウ地区南側のトトンゴ川沿いにはクラブ

やホールなどの公共施設が建設されたことに見られるように、都市はその中心を南へ移し

て栄え続けたのである。

次に、1923 年作成と 1948 年作成の地籍図を比較すると、この間に多くの敷地が分筆さ

れている。これは、レブカで定住しようとする人々がこの時期に増え、自分の土地と共に

家や店舗を持とうとした結果であると考えられる。また 1948 年の地籍図上に、カトリッ

ク教会周辺から埠頭にかけての海岸沿いに間口幅は異なるが比較的奥行きが揃った短冊状

の敷地が並んでいる(p.81, 図 2-5-D)。これらは、首都期の税関など港湾施設の整備から

商店主たちや貿易会社にとって埠頭付近の土地利用価値が高まる中形成されたと考えら

75

れ、全体的な計画はなかったがフィジー・ラッシュ期に形成されたカトリック教会北側に

比べると比較的整理されている点が特徴である。さらに埠頭の西側丘陵地に形成された住

宅の敷地に注目すると、首都期にまでに形成されていたデラナやミッションヒル、ウォー

ターハウスロードの住宅敷地が大規模で、広い敷地に庭園を設けて主屋を構える構成であ

るのに対し、埠頭西側に形成された住宅地の敷地は狭く庭も設けられていないことから、

この地区に住んだ白人は会社の経営者ではなくコプラ貿易の隆盛を受けて雇用された労働

者であったと推測される。

この時期の景観については、現存する多くの遺構が今に伝える。カトリック教会から埠

頭にかけて建てられた店舗建築は、切妻もしくは寄棟造りの平屋、もしくは 2 階建で正面

に下屋を設けている。北部に台風後に建てられた教会は、コンクリートの外壁と十字型の

平面をもつ一部 2 階建の建築で、北部のランドマークとなっている。ベントリーズレーン

西側及びバルカンレーン南側の丘陵地の住宅建築群は、寄棟造りもしくは切妻造りの平屋

で、下屋をまわしてベランダを設ける。そしてナサウの公共建築群は、平屋で妻入りのタ

ウンホールを含む公共建築が建ち並んだ(p.85, 図 2-13 参照)。埠頭と直結する形で建設さ

れたコプラ倉庫には、周辺の倉庫と連結、さらに埠頭へ続く形でトロッコレールが敷かれ、

そのレールとトロッコも新たな景観構成要素となった(p.85, 図 2-14 参照)。ただしこの間、

1895 年の台風により、首都期までに北部に形成されてきた住宅建築や商店、事務所建築

の多くが失われた。

以上のように、レブカ北部を中心地として発展した首都期に対し、この時期は埠頭付近

を中心としてコプラ倉庫や従業員住宅、店舗建築群が建設され、さらにレブカ中心部には

ホールなどの公共建築が建てられるなど、埠頭とそれに関連した建築群によって景観が形

成された時期であり、首都期以来の第二の繁栄期といえよう。

76

2-4-2 コプラ貿易期の終焉から現在

1950 年代のコプラ加工工場のスバ移転により、レブカのコプラ貿易は終焉を迎える。

その後は 1960 年に伊藤忠商事の協力を得て建設されたツナ缶工場 Pacific American Fish

Company(以下、PAFCO)が建設され、以来今日までレブカ及びオバラウ島の経済を支え

ている。1948 年の地籍図と現在のものとを比較すると、トトンゴクリークから埠頭にか

けての埋立てによる護岸整備及び埠頭南側に PAFCO の敷地のための大規模な埋立てによ

る変化が確認できる。

PAFCO の工場群は、その規模から、特に海側からのレブカ全体の眺めを変化させている。

さらに、丘陵地で住宅地としての土地利用が絶えた場所では、敷地内や道路脇に草木が繁

茂し、遺構の存在を見いだしにくい状況を生み出している。年月を経た樹木の樹高や樹径

が大きくなったことも加わり、丘陵地全体が緑化されており、首都期や都市成熟期初期の

景観と比較すると緑の比率が多い丘陵地の景観が形成されている。また、1960 年代以降

に建てられた新築物件に関しては、階高は 2 階までに抑えられている点、彩色に関しては

壁と屋根を合わせて 3 色以内に抑えられている点、海岸沿いの店舗建築はセットバックし

ない点、また用途に関しても土地利用計画 7 に則り、海岸沿いでの店舗、後背の丘陵地で

の住宅建設といったように、歴史的な土地利用に即した利用が行われている点から、歴史

的な景観が維持されているといえる。

77

2-5 小結

レブカの歴史的特性について、次のように把握できた。立地及び地形がもたらす防衛機

能と豊かな水資源から、レブカはフィジーの政治及び交通の中心地となり、古くから先住

民集落が形成されてきた。天然の良港であったことに加えて首長の温厚さから、そこに白

人 1 たちが好んで寄港するようになり、次第に貿易船を迎える設備が整えられていく。一

方で、宣教師の布教活動により丘陵地に住宅地が開発されていく。南北戦争の影響で起こっ

たフィジー・ラッシュで中継貿易港として栄え、白人人口が急増し、レブカ北部の空間及

び景観が一挙に成立する。その後首都に選定され、公共建築や護岸や道路の整備が行われ、

都市の空間構成の基盤が形成された。首都が移転したことにより、近代港湾都市としての

大規模な開発を免れ、さらにコプラ貿易の隆盛により港湾施設が増設され、その他関連施

設、新たな公共建築、貿易商の住宅が建設された。このようにして段階を追って形成され

たレブカには、白人の一方的な入植政策によるものでなく、先住民と白人の相互的な関わ

りの中で都市が形成され発展したという南太平洋島嶼地域における近代国家成立の端緒を

物語る点に、歴史的な特性が認められる。

レブカの空間的特性については、次のように把握できた。レブカの空間の外郭は、海岸

線と急峻な山並みから張り出す尾根という天然の地形によって象られる。海岸沿いには商

店街と埠頭が、丘陵地には良好な環境を生かした広い敷地をもつ邸宅が、その中間には丘

陵地に比べ敷地の狭い住宅と公共施設が建設され、かつての住民の社会構成を反映した空

間構成を示す。先住民集落との結びつきが強いレブカ北部やトトンゴでは敷地形状が有機

的であるのに対し、白人主導で開発が進められた丘陵地の住宅地、海岸の商業地、埠頭付

近の住宅地の空間は、直線で構成される。多くの植民都市に見られるような宗主国による

マスタープランに基づく規則的な都市構造と は対照的に、個々の交渉を通して獲得された

土地から成り立つ不整形な都市構造の中に、先住民と白人の相互的な関わりの中で発展し

た都市の空間構成を留める点に、空間的特性が認められる。

さらにレブカの景観的特性については、次のように把握できた。海沿いの道に沿って切

妻造りの平屋で妻入の店舗建築が並び、その間に 2 階建で切妻造り、妻入の正面に下屋を

設けた店舗建築が建てられる。さらに、店舗が連続する中に時計塔を正面に設けた切妻造

りで平屋の教会がセットバックして建てられることにより、景観にリズムが生まれてい

78

る。急峻な山並みの下、濃い緑に覆われた丘陵地には、寄棟造りで平屋の主屋にベランダ

を巡らせる邸宅が建てられる。都市の中心部のコロニアルスタイルのホール及び学校と

いった公共建築群も景観を特徴づける。

また遺産の現況について、都市の空間構成に先住集落期からの歴史を読み取ることが可

能なこと、歴史的建造物については、布教活動期以降の各時代を象徴する遺構が、年代や

用途の多様性を維持しながら現存すること、また新築に関しても景観に調和する規模、高

さ、セットバックなどを自然に選び、多様性を現在まで保持していることに大きな価値を

見出す事ができる。

以上の諸特性を総合して考察すると、レブカの文化遺産としての価値は、南太平洋島嶼

地域において先住民と白人との交流と交渉の結果として形成された都市空間が継承される

点、貿易の需要から急速かつ無秩序な都市形成を経た後、近代国家の首都として都市機能

を備えるための都市インフラ整備が行われた歴史を物語る空間構成要素及び景観構成要素

が継承される点、その後も海運を通じて発展した都市としての性格を維持しながら都市を

成熟させた歴史を物語る空間構成要素及び景観構成要素が継承される点、そして、1 つの

都市に黎明期から成熟期までの全ての発展段階を物語る遺構を継承する点にあると言え

る。

79

0

50

100

200

500(m)

N

トトンゴ

ナサウ

ナソバ

Vagadaci

レブカバカビチ (レブカ・ビレッジ)

デラナ

ニウカンベ

シラナ

レブカ・クリーク

トトンゴ・クリーク

カトリック教会ベントリーズレーン

埠頭

ビーチストリート

ウォーターハウスロード

チャーチストリート

ミッションヒル/199 steps

グラウンド

都市黎明期/ビーチコーマー期に白人による居住が確認される敷地都市発展期/布教活動期までに白人による居住が確認される敷地都市発展期/フィジー・ラッシュ期までに白人による開発が確認される敷地都市発展期/ザコンバウ政権期までに白人による開発が確認される敷地都市発展期/首都期までに白人による開発が確認される敷地都市発展期/首都期おわりから都市安定期はじめにかけて白人による開発が確認される敷地(一部正確な場所未確定)都市安定期/1895年の台風までに白人による開発が確認される敷地都市安定期/コプラ貿易最盛期(1900年代)までに白人による開発が確認される敷地都市安定期/コプラ貿易安定期(1940年代)までに白人による開発が確認される敷地1950年代以降にに白人による開発が確認される敷地1950年以降も未利用の土地地区区分線(外郭は2009年現在レブカタウン領域)※同じパターンで色が薄く表示される敷地とビーチコー期に ついては、正確な敷地の特定がなされていないが、古写真 その他の史料より推定した敷地※地籍図は2007年の図を使用

凡例

図 2-1 白人による土地開発の経年的広がり(参考文献、図絵、画像資料::フィジー博物館及び National Archive Fiji 所蔵古写真、フィジー博物館所蔵 1860 年水彩画 Watercolour sketch of Levuka by Mrs S.M. Smythe、フィジー博物館所蔵 1870 年水彩画 View of the Island of Ovalau and the town of Levuka, Fiji June 1870 by J Trevor Jones、HJM Consultants PTY LTD, Town of Levuka Heritage Study, 1994)

80

図 2-2 1850 年代に描かれたレブカビレッジとレブカ    (出典:Routledge D., 1985, MATANITSU The struggle for power in early Fiji, University of South Pacific, Suva, p.97)

図 2-3 1860 年代に描かれたレブカ    (Watercolour sketch of Levuka by Mrs S.M. Smythe:フィジー    博物館所蔵 )

81

0

500(m)

200 0

500(m)

200

図 2-4 1923 年地籍復原図    (Department of Land and Surveys 所蔵    Township of Levuka より作成)

図 2-5 1948 年地籍復原図(Department of Land     and Surveys 所蔵 Levuka Town Cadastral     Map Prot No 13 of 1948 FRGS No 5 of    1976 LN 10 より作成)

82

図 2-6 1870 年のレブカを描いた絵画    (View of the Island of Ovalau and the town of Levuka, Fiji June 1870 by J Trevor     Jones:フィジー博物館所蔵)

図 2-7 図 2-6、A の拡大図。図中央のカトリック教会より南側(図中左側)は開発が進んでいないこ    とが読み取れる。

図 2-8 図 2-6、B の拡大図。海沿いの建築群及び丘陵地の建築群が確認できる。

A B

83

図 2-9 メソジスト教会(2007 年撮影)

図 2-10 ロイヤルホテル (2009 年撮影)

84

図 2-11 ナソバハウス(2010 年撮影)

図 2-12 レブカパブリックスクール(LPS) (2009 年撮影)

85

図 2-13 タウンホール(2009 年撮影)

図 2-14 元コプラ倉庫 (2007 年撮影)

86

1) 現在の EU 加盟国、南北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ロシアなどキリ

スト教が主要な宗教である国々出身のコーカソイド及びそれらの人々を祖先とする人々。

1921 年から 2007 年のセンサスデータを通して「Part European」や「Half casted」な

どと表記される混血民と区別して「Europeans」または「Europeans and other whites」

と表記されるが、その定義は示されない。ただし、1921 年のセンサスデータでは、フィ

ジ ー 国 内 に お け る「European」 人 口 に つ い て 詳 細 な 統 計 結 果 が 示 さ れ る。 表 101「以

下の表はフィジーにおける European 人口の出生地に関する過去 2 回の統計を示す The

following table shows the birthplace statistics of the European population of Fiji for

the last two censuses」において「アフリカ、アメリカ(西インド連邦を含む)、アジア、

オーストラリア、イギリス諸島、ヨーロッパ、フィジー、太平洋諸島(フィジー以外)」

と分類された上で、さらに表 104「ヨーロッパ出身の白人の出生地 Birth places of white

people from Europe」では表 101 で「ヨーロッパ」としてまとめられた地域の詳細が示

され、「オーストリア、ベルギー、ボヘミア、デンマーク、エストニア、フィンランド、

フランス、ドイツ、ジブラルタル、ヘリゴランド、アイスランド、イタリア、マルタ、ノ

ルウェイ、ポルトガル、ロシア、スペイン、スウェーデン、スイス」と分類されている。

以上より、センサスデータにおいて「Europeans」と示される場合にも現在の EU 加盟国

よりも広範な地域を含むと考えられる。

2) レブカにおいて、1970 年代から遺産の保全活動を行っている保全団体。

3) 先住フィジー人の伝統家屋であるブレは、ココヤシの丸太による掘立柱で軸組が構成され、

屋根は寄棟もしくは切妻でココヤシの葉を重ねて葺き、天井ははらない(青木,1997)

4) 1940 年代から動きはあったが、白人の宣教師を迎えての本格的な活動は 1850 年代から

始まった。

5) Honorable J. S. Butter (1832-1912)。ビジネスマンでもあり、政治家でもあった人物。フィ

ジーのイギリスへの譲渡の前まで、政治的、社会的、経済的リーダーであった(Australian

National University, accessed 2009-7-7)。

6) フィジー博物館所蔵古写真 Na-004

7) フィジー政府都市計画局 Department of Town and Country Planning による Levuka

Town Planning Scheme (1987)

第 3章

都市遺産レブカの総合的価値

87

第 3 章 都市遺産レブカの総合的価値

3-1 はじめに

レブカについて、前章では、都市の歴史、空間、景観的特性の把握から都市景観の価値

を把握した。その結果、レブカの都市景観の価値は、旧イギリス領時代からの遺産のみな

らず、それ以前の先住民集落や布教活動期、そして旧イギリス領首都期、また遷都後のコ

プラ貿易期までの歴史をその空間構成及び景観構成の中に留めることにあることを明らか

にした。

続く本章では、レブカの都市遺産が、その成立以来人が住み続けて継承してきた遺産で

あることに注目する。現在のレブカには、旧イギリス領時代を経て形成された、多様な民

族的、文化的背景及び異なる宗教観をもつ人々が暮らす。本研究では、このような都市遺

産という有形遺産と人々の生活という無形遺産が一体となった複合性にレブカの遺産とし

ての価値があるという視点に立ち、まず住民の民族構成の変遷を把握し、さらに遺産の管

理者に関する状況及び空間の使用状況の把握を通して住空間の分析を行うことに より、現

在のレブカの歴史的建築物と住民生活の関係を明らかにすること、そしてレブカの都市遺

産としての総合的な価値を把握することを目的とする。

分析の方法は、西山夘三が住宅計画のために行った居住者の状況の詳細な調査と住空間

の利用形態の把握、分析を通して居住者の生活の実態を明らかにする「住み方調査」の調

査手法 1 を用いる。西山は、それら生活に関する情報を定量的情報として分析することに

より、質の高い量産型住宅設計を実現した。住み方調査の手法は、その後も建築計画のみ

ならず歴史都市の空間構成把握調査手法としても応用されている 2。本研究では、居住者

の状況については定量的把握を行い、居住形態についてはより定性的な分析に着目し、多

元的な社会における多様な居住の在り方を明らかにすることを試みる。具体的には、以下

の方法で研究を行った。

まず、レブカの歴史と民族構成の変遷について、現地での既存文献収集及びその分析か

ら把握した。民族構成の変遷に関しては、主に統計局(Fiji Islands Bureau of Statistics)で得

られたセンサスデータと住民へのヒアリング内容をもとに分析を行った。

歴史的建造物と住民生活の関係については、土地利用及び建築用途について、前章で得

88

られた結果を踏まえて分析した。次に、公共空間である道路、緑地、公園、埠頭の利用形

態について、現地踏査による観察及びヒアリング調査の結果から分析した。そして、公共

的建築に関しては、前述の HR(HJM Consultants PTY LTD 1994)及び九州大学による調査

でこれまでに新たに抽出された歴史的建造物合計 123 物件のうち、一般的な公共建築に加

え、私立学校及び教会という公共性の高い建築を含めて抽出し、同様に分析した。

また、店舗兼建築及び住宅建築については次の方法で抽出した。まず、前述の歴史的建

造物合計 123 物件の内、店舗もしくは工場と兼用のものも含み、住居として利用される物

件 62 件を抽出した。この内、これまでに消失している 12 件、改築工事中であった 3 件、

調査許可が得られなかった 3 件、空家であった 1 件を除く 43 物件に対して調査を(p.126,

表 3-2; p.127, 図 3-1 参照)。ただし、内 2 件は、店舗として利用する物件に隣接する物件に

食堂を置く。また、別の 2 件は店舗として利用している物件に隣接する物件を住居とする。

両物件とも、店舗と居住空間を行き来できるように 1 階部分を改築したものである。これ

らについては、居住空間の分析の便宜上これ以降の分析では 1 件として数える。以上の方

法で抽出した物件の世帯主に対し、居住者に関する基本的な情報について調査票を用いた

ヒアリング調査を行った。さらに実測調査により平面図を作成し、家具などの配置を平面

図に記録した後、再びヒアリング調査を行い各室の利用形態を把握した。また、これまで

の建築履歴調査の結果及びヒアリング調査から、建築の改変の傾向を把握した。なお、平

面図作成及び建築履歴調査は、岡山理科大学江面嗣人教授の協力の下、九州大学を中心に

行われた。以上の情報を分析し、歴史的建築物と住民生活との関係を明らかにした。本稿

では、「世帯」を「住宅 の玄関を共有する血縁者及び食客」と定義する。また、時代区分

及び地区名称についての考え方と設定については前稿と同様である。

89

3-2 居住者の変遷

3-2-1 民族構成の変遷

前章で述べた通り、19 世紀初めのレブカにおいて白人との交易が始まった当時、レブ

カには先住民集落群が存在したと伝えられる 3。1820 年代からレブカ地区に定住するよう

になったことが知られるビーチコーマー 4 の数は、1840 年までに 40 名程度になっていた

とされる。彼らの国籍の詳細は記録に残されないが、アメリカ人及びアイルランド人、オー

ストラリア人の存在について記録が残される(Wilkes 1985:p.50, Gravelle 1979:p.90, Wilkes

1984:p.68, Donnelly, et al. 1994:p.18)。

1850 年代、レブカにおいて白人宣教師による布教活動が始まる。この頃までに、カト

リック教会の布教活動に訪れていたフランス人もレブカに居住していたとされる(Smythe

1864:p.67)。

1860 年代の急成長期であるフィジー・ラッシュで、レブカは中継貿易港として栄え、

白人定住人口と商用での滞在者数は 1860 年代後半に急増した。こうした商人の中には、

当時南太平洋で貿易を活発に行っていたドイツ人商人の存在も認められる(Cyclopedia

Company of Fiji 1907:p.321)。この時代に行われた南太平洋における奴隷貿易では、現在の

バヌアツ、キリバス、ソロモン諸島などの国々から奴隷が集められ、オーストラリアやフィ

ジー国内、その他の国々の農園での労働を強いられた(Donnelly, et al. 1994:p.34-36, Institute

of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society, Levuka

2001:p.53)。

首都期のレブカの民族構成については、1881 年のセンサスデータ 5 から知ることができ

る。白人人口の国内総数 2,307 人に対し 1,082 人、白人との混血フィジー人の国内総数 374

人に対し 116 人、そして中国人、マレー半島出身者などを含むグループの国内総数 156 人

全てがオバラウ島在住であることが示される。レブカがその東端に位置するオバラウ島に

は白人が経営する大規模な農園がなかったことから、これらの人々の大半がレブカ及びそ

の近郊に住み、店舗経営や公職に従事したと考えられる 6。2007 年のレブカ全体の人口が

1,394 人である 7 こと、この時期までに現在と同程度まで都市の規模が発達していたこと 8

もあわせて鑑みると、フィジー人以外の人口が現在のレブカの人口と同等の数に達してお

90

り、当時のレブカはフィジー人以外の人口で占められたと考えられる。

1882 年の現首都スバへの遷都後も、1930 年代頃までレブカはコプラ貿易の中継貿易港

として栄える。1911 年のセンサスデータ(Legislative Council Fiji 1912)ではレブカの全人

口 1,421 人の内、白人が 352 人、白人との混血フィジー人が 320 人、フィジー人が 348 人、

ポリネシア人が 212 人、インド人が 78 人、中国人が 29 人である 9。そして、現在のレブ

カ領域内の人口は、それまでの白人及び白人系民族に加え、これまでに国内での人口が増

加していたインド人や中国人で構成されたと考えられる。インド人人口は、奴隷貿易禁止

後の代替労働力として契約労働が開始された 1879 年 10 から 1911 年までに、国内人口が 4

万人を超えるほどに増加していた(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and

Levuka Historical & Cultural Society, Levuka 2001:p.57)。また、中国人については、19 世紀半

ばから徐々に移民人口が増加していた 3。ただし、レブカにおいては両民族とも農園労働

に従事するのではなく、主に商店を経営した。さらに、奴隷貿易の中心地であった歴史的

背景から、ポリネシア人の人口も確認できる。

1911 年及び 1921 年のセンサスデータ(Legislative Council Fiji 1922)からは、当時国内に

いた白人の出生国について知ることができる。1911 年から 1921 年にかけてオーストラリ

ア人が増加している一方で、イギリス人が減少し、イギリスとの直接的な関係よりも、オー

ストラリアとの関係が強化してきていることが読み取れる。また、ドイツ人人口が減少し

ているが、これは第一時世界大戦の影響でドイツ人が追放されたためである。この時以降、

レブカの商業はインド人と中国人の 2 民族が支えるようになったと考えられる。ただし、

公務員や貿易業の経営などは、依然白人や白人との混血フィジー人の専業であり、白人と

混血、フィジー人の間の階級差別も継続された。

1930 年代からの世界的な低迷を受け、1950 年代のコプラ加工工場のスバへの移転によ

りコプラ貿易が終焉を迎えた後は、新しい産業への試みもなされたが軌道に乗らず、都

市は一時ゴーストタウンと化した。この間の民族構成の推移をセンサスデータ(Gittins

1947)見ると、1946 年までに白人の数が大きく減少している。これは、前述のようにコ

プラ貿易が低迷したことと、第 2 次世界大戦中に帰国したものが多かったためであると推

察できる。一方で、フィジー人及びインド人人口は増加しており、白人と入れ替わるよ

うにしてレブカへ移り住んだと考えられる。1936 年に書かれた手記では、レブカで商店

を構えた日本人の存在も確認できる 11 が、彼らも大戦で国外退去したものと考えられる

(Aston 1936:p.11)。一方、ロツマ島から子供の教育のために移住する家族も次第に増え始

91

める 12。

1960 年代、前述の水産加工工場 PAFCO が建設された。1966 年のセンサスデータ(ZWART

1968)では、調査領域が 1946 年と比べ狭くなっているにも拘らずフィジー人人口が増加

しており、PAFCO の創立が雇用を生み、レブカ内のフィジー人人口が増加したことが読

み取れる。1970 年のフィジー諸島共和国の独立を迎えるに当たり、以前は主に白人と混

血フィジー人が行っていた役職にフィジー人がつくようになった。また、近年新たに移住

してきた白人人口が、ホテルやダイビングショップなどの観光関連業を営んでいる。

このようにして、現在の都市は、初期入植者の子孫である白人との混血フィジー人、20

世紀はじめから住み続けて来たインド系フィジー人及び中国系フィジー人、奴隷貿易とい

う過去から、またレブカでの教育を求めて移住してきた周辺島嶼国からの人口、PAFCO

創設時の従業員であった日本人、1970 年代以降都市に住み続けて来たフィジー人という

多様な民族で構成されるようになった。

3-2-2 遺産を支える住民の現在

ここでは、調査票をもちいたヒアリング調査から、歴史的建造物の居住者の職業や民族

構成、家族構成といった居住者の属性を明らかにする。

調査は、41 物件、58 世帯に対して行った。41 物件の内店舗の裏手に住居部分を増築す

るなど、店舗と住居部分が一体となった店舗兼住宅建築が 13 件(31.7%)で、住居の裏手

にパン工場を構える工場兼住居が 1 件(2.4%)、住宅機能のみの住宅建築が 27 棟(65.9%)

であった。また 58 世帯の内、27 世帯(46.6%)が物件を所有しており、19 世帯(32.8%)

は貸家に住み、12 世帯(20.7%)は公務員で職員住宅に住んでいる。世帯主の職業は、

14 人(24.1%)が店舗経営などの自営業で最も多く、次に公務員 16 人(27.6%)が多い。

PAFCO 就業者が 4 人(6.9%)であること、第一次産業従事者は漁業を行っている 2 人

(3.4%)のみであることからも、レブカがオバラウ島の中心地というのみでなくロマイビ

チ州の州都でもあるという都市としての性格を読み取ることができる。一方で、失業者が

7 人(12.1%)であることから読み取れるように都市の経済状況は悪く、PAFCO 労働者に

関しても、PAFCO 側が短期間雇用という形態をとることによってより多くの島民が収入

を得ることができるよう配慮しているため就業期間以外は無職となる。世帯主の年齢は、

92

50 代が最も多く 17 人 (29.3%)、そして 40 代が 11 人 (19.0%)、60 代が 10 人 (17.2%) と続く。

世帯ごとの居住人数は、4 人の 10 世帯(17.2%)が最も多く、次に 3 人の 8 世帯(13.8%)、

2 人の 7 世帯(12.1%)と続く一方、14 人、22 人といった大人数の世帯が存在する。これ

らは、レブカでの就業や都市の利便性を求め、親戚や友人を頼ってきた同居人が含まれる

ためである。一人暮らしの高齢者(60 歳以上)が 4 人(17.2%)いるが、使用人が毎日通っ

てくる、いつも決まった友人や兄弟が訪ねてくるなど、社会から切り離された環境で過ご

す独居老人は存在せず、社会との関係性が保たれていることが読み取れる。

また、レブカでの居住年数については、ほぼ 4 割の 28 世帯(48.3%)が 10 年未満であ

る一方、50 年以上住み続けている古い家族が 12 世帯(20.7%)ある。後者のうちの 6 家

族はインド系の商店などで、レブカで最初に開いた靴店なども営業を続けている。その他

に初期白人入植者の子孫にあたるドイツ系やイギリス系の混血の 4 家族、中国系の 1 家族、

ロツマ人の 1 家族がおり、居住者は前項で概観した歴史を反映した多様な民族で構成され

ている。

ここで世帯主の民族的背景に着目すると、41 人(70.7%)は単一民族の純血であるが、

その内容は、フィジー、インド、中国、ロツマ及びその他 3 民族で構成される。中国系フィ

ジー人、白人系インディアン、トンガ系ロツマンなど、2 民族の混血が 12 人(20.7%)、白人・

トンガ系フィジー人など 3 民族の混血が 4 人(6.8%)存在する(p.126, 表 3-2 参照)。さらに、

1 人ではあるが、中国、フィジー、ソロモン、白人と 4 民族もの混血という人物も存在し、

センサスデータからは読み取ることができない多様性を確認できた。また、以前は親同士

が決めた結婚が大半で多民族との婚姻も避けていたインド系住民も、近年は異民族との婚

姻を行う例が増加している。従って、今後の都市はさらに複雑な民族構成を獲得すると考

えられる。

次に、その宗教的背景に着目すると、世帯主の内 25 人(43.1%)はフィジー人の間で

最も信者が多いメソジスト教会、14 人(24.1%)がヒンズー教、8 人(13.8%)がカトリッ

ク教会の教徒であり、さらに別のキリスト教系 4 教会 13 の信者や、無宗教者も存在する。

特徴的な点は、インド系フィジー人 17 世帯の内 2 世帯以外は全世帯がヒンズー教を信仰し、

母国での信仰を引き継いでいることに対し、中国系フィジー人に関しては、特に信仰をも

たない世帯が 2 世帯、キリスト教の世帯が 3 世帯で、東南アジアの華僑に見られるような

道教信仰などをもたない点である。また、フィジー人との混血が進んでいる中国系住民は、

キリスト教を信仰している点も特徴的である。

93

調査対象の 14 店舗の内 13 店舗は、客層について「ほとんどが地元客」と答えている。

数十年前までは、ビーチストリート北部に中国系店舗、南部にインド系店舗がそれぞれ集

中して建てられたとされる 14 が、現在までに中国系店舗の数は減少し、本稿の調査対象

物件 5 棟が残されるのみである。インド系及び中国系住民はレブカの商業を担う民族であ

り、ビーチストリート沿いに形成される商業地区に集住しているため、丘陵地の居住者は

少ない。したがって、主にフィジー人やその他の混血民などで構成される丘陵地の住民は

日用品を買い求めるためにインド系や中国系によって経営される店舗に立ち寄る必要があ

り、インド系住民が経営する店舗(以下、「インド系店舗」)10 店舗及び中国系住民が経

営する店舗(以下、「中国系店舗」)4 店舗で構成されるこれらの店舗では、日常的に異な

る民族間の交流が発生していることが読み取れる。

以上に見たように、レブカでは地域社会における住民同士のつながりが存在し、その社

会は多元的である一方混血民によってさらなる文化多様性が生み出されていることが明ら

かになった。

94

3-3 都市空間の利用形態

3-3-1 空間利用の概況

(1) 構成

レブカタウンは、火山島の裾野の砂州に位置し、町の東端は海岸線で、西端は急峻な山

並みから続いて町へ下りる尾根という、天然の地形が町の外郭を形成している。北端はレ

ブカ川、南端はナソバ地区である。そして、尾根の谷間を東西に流れレブカに到達する川々

が、その蛇行する形の通りに町を南北に分ける。レブカタウンの北端にレブカ川、中央部

にトトンゴ川が、更に南部には細い流れのバンドラタウ川、そして最南端の地区ナソバに

も細い川が流れる。

中継貿易都市として発達したレブカでは、海岸沿いを走るビーチストリート沿いに商業

地区が形成された。一方で、後背の丘陵地では住環境の良さを求めた宣教師や富裕層の宅

地が形成されていった。それらの中間に当たる地区も、店舗と店舗経営者の住宅で構成さ

れる町並みが形成されていった。更に、埠頭を中心として商業地区や倉庫群、労働者住宅

地区が形成された。

また、都市の中の核として、教会と公共建築が建てられている。レブカで最も古い教会

建築メソジスト教会(ナボカ)と関連するデラナ・メソジスト・スクール、2 番目に古い

教会建築教会カトリック教会と関連する学校施設マリスト・コンベント・スクール、そし

て 20 世紀初頭に建てられたアングリカン教会と関連する学校施設がある(p.128, 図 3-2 参

照。以下、地名については同図参照)。また、行政、警察関連では、公園とその周囲に配

置されたタウンホールやクラブなどがあるナサウ地区、その南に配置された警察署やロマ

イビチ県庁舎(旧拘置所)、保健所などで構成されるトトンゴ地区、かつて植民地行政庁

舎が存在し、現在は官舎が建てられているナソバ地区がある。そして、建設以来町の経済

を支え、人々や物資を迎えてきたクイーン/キング埠頭がある。

以上の基本的構成は、現在の都市空間に継承されている。

95

(2) 土地利用

レブカの土地利用形態は、先住集落期より現在までの歴史を通して変遷してきた。

先住集落期には、レブカ川やトトンゴ川の周辺に集落が形成された。フィジーにおけ

る伝統的な集落構成では広場の周囲に家屋がまとまって建てられ、その付近にダロ芋な

どの畑地が形成されていたため、レブカでも同様の構成がとられたと考えられる(坂上,

1998,p. 97)。この性格は、先住集落に住みついたとされるビーチコーマーの時代も大き

く変わることはなかったと考えられる。そして布教活動期に入り、主に水系に規定されて

きた集住形式の集落に加え、眺望と通風を確保するため丘陵地に住宅地が形成されるよう

になり、ナサウ周辺及びトトンゴが教会用地として確保された。次のフィジー・ラッシュ

期には、トトンゴ川より北側の平地は商店やホテル、住宅が建ち並び、丘陵地においても

住宅地が過密化した。さらに首都期には現在の埠頭付近まで商業地が拡大するとともに、

ナソバに行政庁舎その他の行政施設用地として利用された。また首都期には埠頭の整備も

始まっており、埠頭周辺は税関や郵便局用地として利用された。その後のコプラ期を通し

て、埠頭周辺がコプラ倉庫の建設用地として利用されるようになり、コプラ産業の低迷後

は PAFCO 建設用地として大規模な埋立て地が整備された。

こうした都市の基本的な性格は現行の土地利用計画図(1987 年決定)に反映されてい

る(p.129, 図 3-3 参照)。商業地が海沿いに、公共用地が都市の中央に、住宅地が平地から

丘陵地中央部にかけて、工業地が埠頭南側に広がる。商業地に関しては、フィジー・ラッ

シュ期は都市北端まで商店が建ち並んでいたと考えられる。

しかし、トトンゴ川より北側に関しては土地利用計画決定時にはすでにそれらの商店は

存在せず、教会及び学校用地としての公共用地または住宅地として計画、利用されている。

同様に、内陸側の平地部分に関しても、フィジー・ラッシュ期には 2 階建てのホテルと考

えられる建築や商店建築が建ち並ぶ様子を古写真で確認できるが、現在は住宅として利用

されている。首都期以降に都市の秩序が獲得されるとともに、船乗りが集まる騒がしい町

から居住に適した平穏な都市に変化したことが読み取れる。ビーチストリート沿い以外の

商業地は、土地利用計画上は特別区に指定されており、ロイヤルホテルとオバラウクラブ

の 2 区画がこれに相当する。ロイヤルホテルはフィジー・ラッシュ期に建てられたと考え

られ、当時は海沿いではない場所にもホテルが建てられたことを示す貴重な証拠である。

また、オバラウクラブに関しても、時代は首都期より下るものの、都市の中心地に建設さ

れた公共的性格をもつ商業建築として重要である。

96

土地利用計画に規定される土地利用と、現在の土地利用を比較すると、概ね計画が遵守

されている。ただし、レブカ中央部の丘陵地に位置する住宅地区においては、土地が利用

されないまま放置される箇所が見られる。それらは、ウォーターハウス・ロード及びス

パウアート・ロード(p.129,図 3-3 参照)によって形成される十字路沿いに規定される住

宅地区及び Mrs. Dora Patterson 家の西側に当たる地区である。また、それらの地区の南側、

レブカ・パブリック・スクールの西側に当たる丘陵地には、レブカタウン領域内外にわた

る不法居住区が存在する。この地区は、奴隷貿易でレブカに運ばれてきたソロモン島民や

その他の周辺島嶼国民が住んでいた場所であるとされる 15。その当初からの住民や子孫は

残されないものの、主に PAFCO での雇用機会を得るため、現在も周辺島嶼国民やフィジー

国内の他島出身者が住むとされる 16。道路のコンクリート舗装などもレブカタウンカウン

シルからは援助を得られないため、地区住民による共同出資で整備されている 17。その他、

ヘニングス・ストリート沿いに位置し、公共地区に指定されている土地については、土地

を借りている利用者が、材木置き場として利用しており、焼却処理なども行われる。近隣

住民の生活環境やヘニングス・ストリートを挟んで北側に建てられるホテルの宿泊客の滞

在の快適さを向上させるためには、今後場所の移動が必要であるとともに、公共用地を貸

し出す際の規約を見直す必要が有る(p.129, 図 3-3 参照)。

3-3-2 建築用途

これまでに述べたように、レブカには先住民集落期を除く都市黎明期から安定期にかけ

ての全ての時代を物語る歴史的建築物が維持されている。歴史的建築物 97 棟の内、首都

期までに建てられた遺構が全体の約 19.6%を占め、その後のコプラ貿易の繁栄期、1900 年

代までの遺構が約 33.0%を占める。また、コプラ貿易と都市の経済の安定を物語る 1940

年代までの遺構が最も多い約 47.4%を占める。これまでにその多くが消失している首都期

までの建築物の中でも、1 棟のみが残される店舗建築 Former Morris Hedstrom Bond Store 及

び敷地内に 2 棟の歴史的建築物が残されるロイヤルホテルは、教会や公共建築と比較して

保存の確実性が低いため、それを確実にする保存の方策が必要である。

歴史的建築物の現在の用途は、大きく公共的建築、店舗建築、倉庫建築、住宅建築に分

類できる。用途の内で最も多いものは住宅で、約 49.5%である。住宅建築は、レブカの歴

97

史的建築物のなかで建築年や立地、規模、意匠に関して最も多様性を有する建築類型であ

る。住宅建築に関しては、教会を兼ねた 1 件を除き、住宅としての利用が維持されている。

次いで多いのが、店舗兼住宅(店舗の裏手に増築して住居を構える)と店舗を合わせて

約 24.8%である。店舗建築は、食料品店、日用雑貨店、理髪店、仕立て及び布地販売店、

靴店、家電及び日曜大工店など様々な業種の店によって利用されており、地域住民の日常

生活に必要なものやサービスを提供している。店舗の多くは住居も兼ねており、店舗後背

の増築部分または 2 階部分を住居として利用している。海沿いに建ち並んで連続した景観

を形成する店舗建築に対し、平地から丘陵地にかけてセットバックを設けながら散在する

住宅建築が約 2 倍の数を占め、レブカタウン全体へ遺構が広く分布していることが分かる。

そして、役場や学校などの公共建築が約 15.5%を占める。その他にも、ホテル、事務所建築、

倉庫など、レブカタウンが首都として、またその後も貿易都市として繁栄したことを物語

る様々な遺構が、その多くは用途が変わらないまま利用され続けている。倉庫建築は、全

体の約 1% と、数自体は多くないが、コプラ貿易期の歴史を物語る重要な要素である。本

来コプラ貯蔵庫、または貯蔵庫を兼ねた加工工場として建設されたが、コプラ加工工場の

閉鎖にともない、それらの倉庫建築は異なる用途に置き換えられて利用されるようになっ

た。新しい用途としては、家具及び電化製品店、映画館 18 や古着店などがある。

1 階建てが、ベランダの床下部分に増築して部屋を設けた建築を含めて約 89.7%である。

2 階建ての 6 棟の内訳は学校、ホテル、店舗及び店舗兼住宅が 4 棟であり、用途が住宅に

限られる建築に 2 階建ての建築がないことが特徴である。また、近年の新築物件を含め 3

階建て以上の建築はなく、規模を統一した良好な景観が形成されてきたことが窺える。よっ

て、今後の景観形成に関しても、住宅の階高は 1 階まで、それ以外は 2 階までという基準

を設定することにより、歴史的な景観を維持することが可能となると考えられる。

歴史的建築物の全てがトタン葺きで、フィジー・ラッシュ期や首都期に存在したと考え

られる草葺きや板葺きの歴史的建築物は現存しない。一方で、外壁素材は多様性を保持し

ている。板壁が約 63.9%を占め、次に多い鉄筋コンクリートを用いた建築が約 14.4%を占

め、珊瑚石を混ぜたコンクリートやコンクリートブロック、珊瑚石、石に彫刻を施したも

のなど、南太平洋のコロニアル建築に見られる珊瑚を使用した建築物が残される点が特徴

といえる。

また、外壁と屋根、下屋に使用する色の数に関しては、2 色が最も多い 34.0%であった。

2 色に同系色の色をもう一色足したものと 3 色使用したものは同数で約 24.7%である。割

98

合は異なるが、2 色から 3 色が最も多いという傾向は、建築用途に拘らず同様であった。

1 棟のみ 4 色を使用する建築があるが、これは角地に建つ店舗兼住宅で、それぞれの通り

に対して異なる配色を施しているためである。また、店舗建築は、発色の良い青やピンク

などの色を使用するが、色の数を少なくする点や、同系色を使用する点で景観形成に貢献

していると考えられる。よって、草葺きの建築の復元と外壁素材の多様性の維持を行い、

さらに彩色は屋根の色を含めて 3 色までという基準を設けることにより、歴史的景観の維

持が可能となると考えられる。

レブカの歴史的建築物は、公共的建築、店舗建築、倉庫建築、住宅建築に分類できる。

公共的建築は、町役場、裁判所、学校、集会所以外に教会や郵便局などの公共的な役割

をもつ建築を含む。レブカのオバラウ島の中心地というだけでなく、ロマイビチ州の州都

という役割から、歴史的建造物以外にも刑務所や養護学校など多様な公共施設が整備され

ている。公共的建築には、教会、学校や病院など、建設当初からその用途の変更がないも

のがある一方で、用途が変更されているものもある。例えば、現レブカ町役場は本来の用

途はホールであり、現在も集会その他イベント時に使用されている。また、旧イギリス領

時代からの政府庁舎は、その後レブカ町役場として使用されたが、町役場のホールへの移

動後は、町役場職員の住宅として利用されている。

店舗建築は、食料品店、日用雑貨店、理髪店、仕立て及び布地販売店、靴店、家電及び

日曜大工店など様々な業種の店によって利用されており、地域住民の日常生活に必要なも

のやサービスを提供している。店舗の多くは住居も兼ねており、店舗後背の増築部分また

は 2 階部分を住居として利用している。さらに、建設当初は店舗として利用されたものの、

現在はコミュニティセンターとして複合的な用途を有するものもある。コミュニティセン

ターについ ては、後に詳述する。

倉庫建築は、本来コプラ貯蔵庫、または貯蔵庫を兼ねた加工工場として建設された。し

かし、コプラ加工工場の閉鎖にともない、それらの倉庫建築は異なる用途に置き換えられ

て利用されるようになった。新しい用途としては、家具及び電化製品店、映画館 19 や古

着店などがある。

住宅建築は、レブカの歴史的建築物のなかで建築年や立地、規模、意匠に関して最も多

様性を有する建築類型である。住宅建築に関しては、教会を兼ねた 1 件を除き、住宅とし

ての利用が維持されている。

99

3-4 公共空間の利用形態

3-4-1 道路

都市形成の基盤となる街路は、海沿い、川沿い、平屋と丘陵の境界など、地形に沿った

小道が形成され、本格的な入植後に直線的な街路が形成された。その特性は現在も継承さ

れており、平地と丘陵地の境界に沿って通るチャーチ・ストリートやトトンゴ川沿いの道

など、多くの道は直線ではなく地形に沿って湾曲している。また、199steps、スパウアート・

ロード、ウォーターハウス・ロードの 3 つの通りは、入植後に形成されたため、丘陵地で

あるにもかかわらず、直線で構成されている。街路名については、大きく分けると入植最

初期に既に存在したビーチストリート、教会・学校関連、貿易関連の3種に大別でき、こ

こにもレブカの歴史と関連する名称が残されている。

ビーチストリートは、早朝から夕方まで人の往来が絶えないレブカのメインストリート

である。早朝は、数名のレブカ住民が夜明け前の薄暗い時間からウォーキングや散歩を始

め、海からの日の出と朝焼け、その後強い日差しへと変化する様子を眺めながらの運動を

楽しんでいる。午前 7 時を過ぎると、焼きたてのパンを買い求める人々がパン屋を訪れる。

午前 8 時前には、ピンクやグリーン、青といったカラフルな制服を着た小・中・高校生の

通学路として利用され、周辺集落からのバスも到着し、その停留場所として利用される。

バスには、学生のみならず PAFCO やその他の商店の従業員なども乗っており、レブカ内

から各就労所へ通勤する人々の通勤路として利用される。この朝の通勤・通学ラッシュの

後は、お昼休みまでしばらく静かな時間が続き、お昼休みの時間になると昼食を買い求め

る人々や自宅で昼食をとるために一次帰宅する人々で再び賑わう。そして夕方の帰宅ラッ

シュの時間には、帰宅前の買い物を済ませたスーパーマーケットの買い物袋を手に提げた

人々と再びカラフルな制服で賑わう。ビーチストリートがトトンゴ川を横断する部分に架

けられた橋では、放課後の子供たちが橋から海へ飛び込んで遊ぶ。そして日が暮れた後は、

再び人通りが少なくなる。

登下校、通勤、帰宅時間には、ビーチストリート以外の道路も学生と労働者が利用して

いる。特に、下校時に小・中学生が数十名単位で 1、2 列の列をなして歩く様子が特徴的

である。

100

ただし、ウォーターハウス・ロード、スパウアート・ロード及びマリスト・コンベント・

スクール南側から Government Quarter へと続く石造の階段などは、利用者が周辺の数世帯

とごく僅かであり、低木や雑草で覆われている箇所もある。

3-4-2 緑地及び公園

レブカに整備されてきた緑地及び公園には、ビーチストリートの海側、ミッションヒル

ロードとの交差点からトトンゴ川を挟んでバルカンレーンとの交差点にかけて整備される

緑地、レブカ中央に位置するナサウ公園、そしてかつて競馬場として利用されたと伝わる

現デラナハイスクール運動場がある。古写真では、ナソバの行政庁舎に隣接して運動場が

整備され、スポーツをする様子が確認できるが、現在は公共建築が建てられ、運動場とし

ては利用されない。

ビーチストリート沿いの緑地は、首都期以降、幾度かの護岸整備を経ており、その度に

幅が拡張されて現在に至っている。首都期とみられる古写真からも植樹が確認でき、台風

で倒れるなどした際に樹種は変わっている可能性があるが、伝統的に植樹が行われてき

た。この緑地は、1 日中人々の交流の場として利用されている。バスを待つ人、買い物帰

りの人、仕事帰りの人などが、ベンチや植樹の上げ床植込枡 20 の縁に座って休憩をとる、

また知人同士で会話をする空間として利用されている。そして、土曜日にはオバラウ島内

の集落からの野外農産物市場として利用される。ダロ芋やカッサバといった主食類に加

え、ナスやトマト、キュウリ、チンゲン菜、チリ、ベレ 21 などの野菜類、ジュウロクさ

さげといった豆類、さらにパパイヤやマンゴー、バナナ、ココナッツ、パイナップルなど

の果物類が並ぶ。スーパーの野菜は品数が少なく、船で運ぶ間に鮮度が落ちるため、鮮度

が高く、比較的品揃えが多いこの土曜日の市場は地元の買い物客で賑わう。また、海岸に

沿ってコンクリートの堤防と通路が整備されており、この壁面も休憩のための空間として

利用される。その他、釣り場としても利用される。ただし、土曜日の市場については、地

面に野菜を直接置いて売るという販売方法に対し衛生上の問題が指摘されている。対策と

しては、簡易テーブルの使用の徹底もしくはトトンゴ川北側の以前の市場へ戻るように規

制を強めるなどが挙げられる。ただし、緑地で市場が開かれる場合は、実際の購入機会及

び集落住民との交流の機会を通して集落の生活について学び、レブカの生活を経験するこ

101

とができる場でもあるため、そのような場所を確保するという意味においては緑地におい

て市場を継続する方が地理的に有効であるといえる。

ナサウ公園には、グラウンドとテニスコート、観客スタンドが整備されている。ほぼ毎夕、

ラグビーの練習場として利用される他、日曜日にはサッカーの練習場として利用される。

また、ラグビーの国内大会などの会場として利用されることもある。スタンドは観客席

としての役割の他、チームが着替え等を行う控え室の機能も果たす。公園の東部にシルク・

ツリーの大樹が立っており、その木陰も観客には観戦のための空間を、選手には控え室と

休憩のための空間を与える役割を果たしている。その他、独立記念日を祝う祭りの会場と

しても利用され、年によって内容は異なるが移動遊園地が設営されることもある。

3-4-3 埠頭及び桟橋

フィジー・ラッシュ期から首都期にかけて、レブカには桟橋が建設され、1904 年には

クイーン埠頭が、さらに 1924 年に はキング埠頭が整備された。古写真では、レブカビレッ

ジとニウカンベヒルの間に 2 本、トトンゴ川の北側に 1 本、ヘニングストリートに北側に

1 本、カトリック教会正面のファーザーズワーフの他、現在のクイーン及びキング埠頭付

近にも 2 本の桟橋が確認できる。しかし現在は、ファーザーズワーフが基礎の石積みのみ

残される他、クイーン及びキング埠頭が残されるのみである。

クイーン及びキング埠頭は、1950 年代のコプラ貿易の終焉まで、コプラの積み出し場

として利用された。そのため、木造の埠頭にはトロッコのレールが敷かれていたが、その

後の埠頭の再整備の際にコンクリートで埋められている。同埠頭は、首都期以来の島への

玄関口である。現在は、首都スバからの大型フェリー 22 及び小型フェリーが運行する他、

周辺の小島へのボートも運行している。レブカには主に海上からの入国者に対応するため

の入国管理所と税関が設置されているため、ヨットの旅行者も寄港する 23。さらに、同埠

頭は釣り場として利用される 24。同埠頭は、建設以来レブカへの出入り口として様々な人々

や物資の運搬に関連してきたレブカの歴史を物語る上で重要な場所である。利便性や機能

性からコンクリート製に再整備されているが、コプラ貿易と関連が深いトロッコのレール

を確認できる箇所もある。しかし、現在は場所を示すサインや説明もなされていない。よっ

て、周辺の倉庫からのびるレールも含め、レールが目につきやすいように整備するととも

102

にそれに関する情報の展示が必要である。

また、ファーザーズワーフは現在、基礎部分の石積みのみが残され、古写真で確認でき

る木製の橋は消失している。地域住民がファーザーズワーフ・コミティを設立し、修理事

業に着手したものの、世界遺産登録に関する景観整備の方針が決定するまで作業を停止す

ることを政府から指示され、実現に至っていない。そのため、現在は利用されていない状

態であり、景観整備方針決定後にそれに則り、安全面にも配慮した復元が必要である。

さらにレブカには桟橋がもう 1 本架けられており、それはナソバに流れる小川の河口南

側に位置する。この桟橋は、1970 年のフィジー国独立時、イギリス王室のチャールズ皇

太子のレブカ訪問を記念して建設された。現在は、魚釣り場として利用されているもの

の、木材の老朽化に対して修理が施されない状態が続いている。安全及び景観保全の観点

から、早急な修理が必要である。

103

3-5 建築の利用形態

3-5-1 公共的建築

(1) 行政施設

レブカにおける行政施設については、フィジー・ラッシュ期の図絵に見られる 2 つの領

事館 25 やザコンバウ政権期に建設されたナソバの行政庁舎の大部分は既に消失している

ものの、その行政庁舎の一部や、コプラ貿易期に建てられ、現在は町役場として利用され

るタウンホールが残される(p.128, 図 3-2 参照。以下、公共的建築の位置に関しては同図

参照)。両建築とも平屋で寄棟造りである。タウンホールの外壁はコンクリートブロック

造で、ナソバの庁舎の外壁は木造である。また彩色に関しては、両建築とも外壁にクリー

ム色を使用し、これにトタン屋根の色を合わせた 2 色を基本とする。タウンホールに関し

ては鋳造の柱などに薄いグリーンが使用される。

タウンホールは、クイーン・エリザベス・記念ホール Queen Elizabeth Memorial Hall とし

て 1898 年に建設が開始された。都市の中心地であるナサウに建てられ、建築の正面には

トトンゴ川が流れるため、対岸からは橋がかけられている。平屋で寄棟造り、東側を正面

とする妻入りである。4 方に下屋を延ばしており、うち北側と南側の一部はオープンベラ

ンダである。東側に角屋を伸ばし、建物正面の北側と南側に 1 室ずつ部屋を設けている。

また、それぞれの部屋の西側に隣接する位置に、ベランダを一部内部化して部屋及び給湯

室が設けられている。主屋は広い板張りの空間とステージで構成されている。

現在、正面南側の部屋が町役場の事務室として利用されている。そして、その部屋に隣

接する部屋は、タウンクラークの執務室として利用されている。また、正面北側の部屋は、

フィジー文化遺産局のレブカ事務所としてレブカ駐在職員が利用している。その西側に隣

接する部屋は、市長と同等であるスペシャル・アドミニストレーター 26 の執務室として

利用されている。主屋の板張りの空間は、町役場関連の会議室として利用される他、地域

の集会、地域の要人の誕生会、赤十字のチャリティーイベントなど様々な会合の場として

利用される。さらに、日曜日には教会堂をもたない Every Home Church の集会に利用される。

スピーカーから、説教や賛美歌が流され、その音はタウンホールから約 250 メートル離れ

た住宅地でも聞こえる。また、ステージは、過去には映画上映イベントなどを催した他、

104

町役場や地域の集会時にヤンゴナを飲む場所としても利用される。ヤンゴナは、植物の根

を擂り下ろした粉を水に溶かした後、濾した飲み物で、鎮静効果がある。これまでフィジー

では伝統的に儀式や社交の場で用いられてきたものであり、床の上に円座になって座るた

め、土足の板張り空間ではなくステージが選ばれると考えられる。

ナソバハウスは、ザコンバウ政権期に建設され、その後旧イギリス領の行政庁舎兼

住宅として使用された建築が部分的に残されたものとされる(HJM Consultants PTY LTD

1994:data sheet no.002)。これは現在、町役場が所有しており、職員の住宅として利用され

ている。現在残される建築が、建設当初、政務室として利用されていたのか、居住空間と

して利用されていたのかは明らかではない。部屋の数の調整は、パティションの設置、ま

たは取り外しによって対応しており、内部の改変は少ないと考えられる。

両建築ともに、比較的管理状態は良好である。しかし、タウンホールの外壁のペンキ塗

り替えを一度に行うことができずに数回に分けて行う、ナソバハウスの跳ね上げ窓の修理

費用が即座には捻出できないなど、タウンカウンシルの財政難が建築の日常の管理へ影響

を与えている。

(2) 警察署、刑務所及び裁判所

トトンゴ地区には、首都期以降に警察署、刑務所及び裁判所が建てられたとされる(HJM

Consultants PTY LTD 1994:data sheet no.058)。どれも平屋で、外壁に使用される色はクリー

ム色、トタン屋根はグリーンに統一されている。警察署及び裁判所は、その用途を変更せ

ずに利用されており、原型を留めていると考えられる。刑務所については用途が変更され

ており、現在はロマイビチ州の州庁舎として利用される。この現州庁舎に関しては、建て

替られずに内部のみが改変されている。現在も、高い位置にある窓などから刑務所として

建てられた歴史を確認することができる。

警察署、刑務所及び裁判所ともに日常的な修理がなされており、歴史的建築の価値保全

の観点から管理状況は良好であるといえる。

(3) 学校

レブカの学校建築は、首都期以降に建設されてきた。ニウカンベヒル北側に建てられ、

西側正面に塔が設置された技術学校は消失したが、首都期に建てられたレブカ・パブリッ

ク・スクール(以下、LPS)及びコプラ貿易期に建てられたマリスト・コンベント・スクー

105

ルに歴史的建築物が残される。デラナ・メソジスト・スクールも歴史的建築物を有してい

たが、2009 年に老朽化のため解体されている。

日本の小学校から高校までに当たる教育は、フィジーにおいては 6 年間の初等教育とそ

れに続く 6 年間の中等教育で構成される。レブカには、カトリック教会系列の初等教育施

設 27 及びアングリカン教会系列の初等教育施設及び中等教育施設が設置されている。そ

して LPS は、公立の初等教育施設及び中等教育施設である。レブカは現首都スバと並ぶ

教育の中心地ともいわれており、子供へより良い教育を受けさせるためにレブカに移り住

む人々も多い。また、フィジー国内のみでなく、ロツマ島をはじめ、周辺諸国からの教育

を目的とした移住者も多い 28。

LPS は 1879 年に、レブカにおいて最初に建設された公立学校である。レブカの名門校

であり、白人以外で初めて学校の教員となり、また白人以外で初めてレブカ市長になっ

た人物 29 が LPS を卒業している他、現職の政府役人にも LPS 出身者が存在する 30。また、

2010 年現在、8 名のナウル出身の留学生を受入れている 31。

敷地の中央西側に建てられる鐘楼を有する校舎が 1879 年建設当初のものであるとされ

るが、鐘楼部分は建設当初のデザインを取り入れて再建されたものである(成田,2007,p.

347)。この校舎は、2 階建ての寄せ棟造りで平入である。主屋の四方に下屋を設置し、ベ

ランダを設けている。外壁の色はクリーム色、屋根はグレーで、敷地内の他の校舎もそれ

に統一されている。この校舎とその他の関連施設との間には芝が敷かれた広場になってい

る。また、この校舎の東側に位置する初等教育施設には、グラウンドが整備されている。

レブカ・パブリック・スクールでは毎日、朝礼前と 1 日の終わりの集会後に、当番の学

生によってフィジー国旗の掲揚と降納が行われる。

登下校時やお昼休みには学生と教員で学外が賑やかになる。下校時には、グレーの制服

に身を包んだ学生たちが整列して歩いて行く様子が見られる。

また、日曜日にはメソジスト教会系の集会が催される。

マリスト・コンベント・スクールは、カトリック教会系列の初等教育施設であり、1890

年に建設が始まったとされる(HJM Consultants PTY LTD 1994:data sheet no.044)。カトリッ

ク教会はビーチストリートに面して建てられ、その後背に当たる西側にマリスト・コンベ

ント・スクールが建てられる。校舎は、2 階建ての寄せ棟造りで平入である。壁はコンリー

トブロックで、トタン屋根とともに白いペンキで塗られていることが特徴である。校舎の

1 階は 3 つの教室と 3 つの事務室に区切られている。そして 2 階は主に教室とホールで構

106

成されている。校舎の正面には芝生の庭が造成されており、資金集めのためのバザーなど、

教会関連のイベントも催される。

これらの学校は、当初は主に白人や白人との混血フィジー人のための学校であったとい

う歴史はあるものの、現在は多様な民族的背景をもつ地域の子供たちが通い、学ぶ場であ

る。フィジーの伝統舞踊であるメケの練習にインド系の生徒が参加するなど、多元的な文

化的環境で育つ子供たちにとっては、その多元性そのものが彼らの文化的背景になってい

ることが読み取れる。

両校舎ともに日常的な修理がなされており、歴史的建築の価値保全の観点から管理状況

は良好であるといえる。

(4) 教会

レブカには、1962 年建設のナボカメソジスト教会 Navoka Methodist Church、1966 年建設

のレブカバカビチ・メソジスト教会 Levuka Vakaviti Methodist Church、及びカランバのメソ

ジスト教会の 3 つのメソジスト教会が現存する。ナボカメソジスト教会は 199steps と呼ば

れる階段の手前に建てられ、平屋で切妻造りの妻入りである。内部は、1 室のシンプルな

構成である。外壁は珊瑚を混ぜたコンクリートブロック造である。外壁の色は白色、屋

根の色は赤を使用している。レブカバカビチは主にレブカビレッジの住民が通う教会で、

レブカビレッジの南側に建てられる。ナボカメソジスト教会と同様、平屋で切妻造りの

妻入り、内部は 1 室で構成される。外壁は珊瑚を混ぜたコンクリートブロック造である。

外壁の色は白及びクリーム色、屋根の色は赤を使用している。また、1868 年に建設が始

まったカトリック教会も現存する(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and

Levuka Historical & Cultural Society 2001:p.39)。現在ビーチストリートに建ち並ぶ商店建築の

間の敷地に建てられる。正面には時計塔を有する。教会は一部 2 階建てで、平面は十字型

である(成田,2007,p. 348)。教会堂の外壁はクリーム色、屋根は赤色が使用される。時

計塔は珊瑚を混ぜたコンクリートブロック造で、色は塗られていない。そしてアングリ

カン教会は 1904 年に都市の北部に建てられた。海に面し、東側を正面とし、一部が 2 階

建てである。平面は十字型で、東側壁面に祭壇を設け、主廊のみで則廊は設けられない

(成田 2007:p.348)。外壁は珊瑚を混ぜたコンクリートブロック造で、色は塗られていない。

トタン屋根は緑、窓枠にクリーム色を使用している。

非歴史的建築物である教会建築で活動する宗派としてアセンブリーズ・オブ・ゴッド

107

教会(以下、AOG)が挙げられる。同教会の活動は 1959 年であるものの、現在の教会堂

は近年建てられたものである。AOG の集会も楽器を使って賛美歌を謳う、賑やかな集会

である(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural

Society 2001:p.45)。また、バプティスト教会は 2005 年からレブカでの活動を開始し、

199steps 沿いの住宅を住居兼教会として利用している 32。

その他、教会が独自に所有する物件をもたず、場所を借りて活動する教会も存在する。

1994 年から活動を開始した Latter-day Seventh は、LPS の西側にロイヤルホテルの経営者か

ら物件を借りて集会の場としている(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific

and Levuka Historical & Cultural Society 2001:p.42)。また、Seventh-day Adventists もはじめは

レブカのある家族の家で集会を開いていたが、現在はレブカ内ではなくレブカの南にあ

るヌクマタイ Nukumatai 地区で集会を開いている(Institute of Pacific Studies, University of the

South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society 2001:p.43)。Levuka: Living Heritage で は、

Church of All Nations 及び Christian Mission Fellowship もタウンホールを使用するとされる

(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society

2001:p.43:p.45)。ただし、2010 年現在は Every Home Church がタウンホールを利用している33。 ま た、Jehovah's Witness Ministry、Church of Christ Ministry、Mahainam Ministry、Souls to

Jesus Ministry の 4 つの教会組織がコミュニティセンターを利用している 34。また、Levuka:

Living Heritage には「Baha'I Faith の人は存在するかもしれないが、他の人気のある教会に

も行くのでメンバーがよく分からない」と記される(Institute of Pacific Studies, University of

the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society 2001:p.45)。

図 3-4 に、レブカの住民の信仰及び宗派の分布を示した 35(p.130, 図 3-4 参照)。まず、

レブカには明確な教区が存在しないことを指摘できる。信徒の数が多いメソジスト教徒及

びカトリック教徒に関しては、レブカ内に広く分布しており、教会所有地と必ずしも重な

らない。一方で、ヒンドゥー教徒に関してはビーチストリート沿いに集中している。これ

は、商店街の店舗経営者を構成する主要な民族がインド系フィジー人であるため、必然的

に集中したと考えられる。また、教員の職員住宅 36 ではキリスト教徒とヒンドゥー教徒

が自室以外を共有して生活している他、キリスト教の異なる宗派同士で同一の建築に居住

する例も 3 件見られる。

これまでに概観した内容から、レブカの住民の多くは信仰深い一方で、小規模な宗派の

信者はより大きな教会へ行くこともあるなど、信仰の体系は自由度が高く柔軟であるとい

108

える。

日曜日には、信者は老若男女を問わず正装し、午前と午後の集会へ向かう。男性の正装

は、スルと呼ばれる脛にかかる程度の長さの巻きスカートにブラシャツと呼ばれる襟付き

のシャツである。男性用スルのほとんどは紺やグレーといった地味な無地の布地が使用さ

れるのに対し、ブラシャツは植物やフィジーの伝統工芸品であるタパに描かれる幾何学文

様などが描かれる。女性の正装は、足首までの長さのスルと、チャンバと呼ばれるワンピー

スである。チャンバは、腰までのものから脛までの長さのものまであり、襟や袖のデザイ

ンもそれぞれに異なる。布地は鮮やかな赤、青、緑、青、黄など様々な色に動植物や幾何

学模様が描かれる。既製品も購入できるが、襟や袖、裾などを自分でデザインし、材料を

自分で購入して仕立てに出すことも一般的である。そのため、日曜日にはそれぞれに色や

デザインの異なるスルとチャンバをまとった人々が通りを歩き、教会へ集う。

教会 では洗礼や結婚式、葬式も催され、個々人や家族の日常生活から人生の節目となる

行事にまで関連する場である。

どの教会建築も、信徒からの寄付金で修理費がまかなわれており、歴史的建築の価値保

全の観点から管理状況は良好であるといえる。

3-5-2 店舗建築

(1) 店舗兼住宅

店舗兼住宅建築は、レブカのメインストリートであるビーチストリートに沿って建ち並

ぶ(p.126, 表 3-2; p.127; 図 3-1 参照。以下、店舗兼住宅建築及び住宅建築の概要と位置に

ついては同表及び同図参照)。正面に道と接して下屋を設け、間口が狭く奥行が深い。平

屋のものが 7 件、2 階建てのものが 1 件、店舗部分のみが 2 階建てのものが 1 件、店舗後

背の住居部分のみが 2 階建てのものが 3 件、その他部分的に 2 階建てのものが 2 件ある

(p.126, 表 3-2 参照)。これらの内 6 棟はコプラ期最盛期の 1900 年以前に建てられたもので、

7 棟が 1900 年から 1940 年代に建てられ、3 棟は 1960 年代に建てられたものである。また、

壁面及び屋根の彩色に使用する色の数については、14 棟が 3 色以内で、1 棟が 4 色、別の

1 棟が 6 色使用している。店舗兼住宅は、フィジー・ラッシュ期からコプラ期のはじめに

かけてニウカンベヒルより北側にも建ち並んでいたが、連続して店舗が建ち並ぶ景観は台

109

風により消失している。

9 店舗あるインド系店舗は、生地・雑貨店(3 店舗)、食品・雑貨店(4 店舗)、靴・雑貨店(1

店舗)及びカレーレストラン(1 店舗)、理容院・写真店(1 店舗)に分類できる。そして、

5 店舗ある中国系店舗は、それぞれ食品・雑貨販売店、パン製造店、パン製造販売・軽食店、

パン製造・食品販売店、中華料理レストランである。

調査対象の 14 件の内、2 階部分をもたない 7 件の空間構成は、住居部分が道と接し、

店舗の奥に在庫置き場、寝室、リビングルームと同義であるシティングルーム、キッチ

ンなどが配され、建物の一番奥にシャワー室及び便所を配すというものである(p.131, 図

3-5~3-9; p.132, 図 3-10~3-14; p.133, 図 3-16~3-19 等参照)。これらの内 2 件を除いては、キッ

チンも建物最後背部に配される。2 階建ての物件についても、2 階部分を有する 7 件の内

3 件については、1 階部分の空間構成は前述のものと同様である。それら 3 件の 2 階部分は、

レストランを設ける中華料理店 1 件(p.144, 図 3-70, 3-74)以外はシティングルームなどが

設けられる(p.136, 図 3-30~3-34; p.138, 図 3-40~3-44)。2 階部分を有する 7 件の内、残りの

4 件については、主なベッドルームとシティングルームが 1 階に配されず、それらは 2 階

にある(p.137, 図 3-35~3-39; p.139, 図 3-45~3-49; p.142, 図 3-60~3-64; p.143, 図 3-65~3-69 参照)。

これらとは異なる空間構成を有する物件として、道路に接して建てられる住居部分の後背

部にパン工場が配されるパン工場兼住宅が挙げられる(p.140, 図 3-50~3-54 参照)。

インド系店舗では、店舗内の壁面全体を覆うように配置された棚や、吊り下げ具、ショー

ケースなどを使用し、空間全体を有効に利用する点が特徴である(p.131, 図 3-7; p.132, 図

3-12; p.133, 図 3-17 等参照)。一方で、店員の目が届きにくいこともあり、店舗前面の通路

上に販売物を並べることはない。また、開店時はドアを常に開いており、店の外を通る人

から中にいる人が見えると挨拶が交わされ、店の中にも店員と客以外に店員の友人がお

り、店員や客と会話していることがある。6 店舗において店内の入り口付近に祭壇が設置

され、毎朝開店前にはヒンドゥー教の商売の神に祈りが捧げられる(p.126, 表 3-2; p.131,

図 3-8, 3-9; p.133, 図 3-18, 3-19 等参照)。また、夜 9 時過ぎまで開いている店舗の内 2 店舗

では、夕方の繁盛期を過ぎると店員がその友人とヤンゴナを飲むことがある。ヤンゴナは、

植物の根を擂り下ろした粉を水に溶かした後、濾した飲み物で、鎮静効果がある。これま

でフィジーでは儀式や社交の場で伝統的に用いられてきたもので、現在は女性や先住フィ

ジー人以外にも普及している。

次に、中国系店舗については、パン製造販売・食品店において、中国からの輸入食材な

110

どを販売している。また、中国系の混血フィジー人が経営する店舗では、食品と雑貨を販

売するが、特徴的な点はヤンゴナ、パパイヤなどのフルーツといったレブカ内ではない先

住民集落からの収穫物も販売する点である。これは、世帯主の家族は混血が進み、よりフィ

ジーの先住民集落の文化と近しい関係にあるためであると考えられる。

食事は主にダイニングルームで摂るが、5 世帯においてダイニングルームは独立した部

屋として確保されており、別の 5 世帯では台所に併設され、さらに別の 5 世帯ではシティ

ングルームに併設される。それぞれ「モーニングティー」、「アフタンーンティー」と呼ば

れる午前と午後の休憩時も、ダイニングルームで紅茶とビスケット、パンなどを摂る。

また、8 店舗あるインド系店舗では、7 世帯において居住空間内、店舗の裏側に当たる

箇所に temple と呼ばれる礼拝空間を設けて祭壇に偶像や絵を置いており 、内 3 世帯では

独立した部屋に祭壇を設置し、礼拝室としている 。

来客があった際は、9 世帯ではシティングルームにて、3 世帯ではダイニングルームで

接客する一方、家でヤンゴナを飲むことがあるという 6 世帯中、3 世帯が店内、2 世帯が

シティングルーム、1 世帯が別棟の小屋を利用する。これは、ヤンゴナを飲むのは午後の

遅い時間である場合が多いことから、プライベートな空間から離れた場所を選んでいる結

果であると考えられる。店内で飲む世帯の内 2 世帯は、夕方の繁忙期を過ぎた閉店までの

時間を利用し、店番をする傍らで友人とヤンゴナを飲んでいる。

中国系店舗の内 2 件では、マスターズベッドルームと呼ばれる寝室が配される(p.143,

図 3-65~3-69; p.144, 図 3-70~74 参照)。マスターズベッドルームとは、中国においては家長

が使用し、トイレやシャワーが備え付けられる寝室である。1 件ではその慣習通りにトイ

レとシャワーが備え付けられる。ただし、これは家長である世帯主ではなく世帯主の甥が

使用する。もう 1 件ではマスターズベッドルームと呼ばれるが、トイレやシャワーの施設

はない。また同 2 件のみが、全調査対象 41 物件中で金魚を飼っており、比較的混血が進

んでいないこれらの中国系 2 店舗において本国の慣習が継承されていると考えられる。

2 階部分にベランダがある店舗は 2 店舗あるが、中国系の経営によるレストランでは客

席が配されその眺望を楽しむことが可能であるものの、インド系の住居部分に当たる 1 棟

については、物干場としてのみ利用されている。

フィジーでは室内で靴を脱ぐ習慣があるが、レブカの店舗では、7 世帯が店舗空間と住

居部分の間で靴を脱ぎ、3 世帯は住居空間内で 2 階に上がる時に靴を脱ぎ、基本的に脱が

ないという世帯も 2 世帯存在する。主に白人によって建設された歴史的建築物にインド系

111

住民が居住することにより、ヒンドゥーの礼拝空間が設けられ、居住空間が文化的多元性

を獲得したといえる。また、店舗空間に関しては、店員でも客でもない人物の存在や、開

店時間中にヤンゴナを飲みながら友人との団欒を楽しむなど、商業空間という機能に加

え、社交空間としての機能を有するといえる。

現在の居住者がこれまでに建築に対して行った改変は、台所の改修及び間仕切りによる

部屋数の増加がそれぞれ 2 件、前述のマスターズベッドルームを整備するための増築によ

る増室が 1 件、店舗外壁のコンクリート化が 1 件、2 階にあるレストランへ、1 階を通ら

ずに外部から直接上がれるようにするための階段設置である。間仕切りは、簡便なつくり

で、部屋の数の増減を調整するために利用される。以上に見たように、主な改変は部屋の

数の調整と水回りの改修であり、生活の変化の中で必要であった改変である。一方、階段

の設置や外壁のコンクリート化など、生活上の必要からの改変でないものもある。マスター

ズベッドルームの整備に関しては、建物 2 階の後部への増築であるためレブカの歴史的景

観の保全を阻害するものではなく、文化多様性の観点からは評価されるものであるといえ

る。

成田らの復原調査では、レブカの店舗兼住宅建築の住居部分は全て後補であるとされる

(成田,西山 2008:p.384)。1870 年代の初期入植者の一人 Mr. F.C.Hedemann は、海沿いのメ

インロードであるビーチストリートに店を構え、現在の Suli's House を建てたことが知ら

れる。入植初期の店舗経営者や従業員は、当初は店舗と住宅を別棟として構えたが、その

後インド系や中国系フィジー人が店舗を経営する際、住居を別に構える資金的余裕がな

かったこと、また丘陵地は白人の居住地であり、差別的背景もあったことから、店舗裏に

住居を増築したと考えられる。

(2) コミュニティセンター

現在のコミュニティセンターは、店舗として建設、利用されたが、後に用途が変更され

たとされる建築である。Cyclopedia of Fiji(Cyclopedia Company of Fiji 190:p.326)に写真が掲

載されており、現在フィジーにおける主要なスーパーマーケットチェーンであるモリス・

ヘッドストロム Morris Hedstrom の店名が確認できる。

1979 年にフィジー・ナショナル・トラストに寄付された。現在の機能は、ナショナル

トラスト事務所、博物館、図書館及び幼稚園である。建築は、平屋の切妻造りで妻入りで

ある。建物正面に当たる西側に事務所と博物館、図書館を配置し、パティションで隔てた

112

東側を幼稚園のための空間としている。朝、ナショナルトラストの職員が解錠すると父親

や母親に連れられて幼稚園児が登校してくる。午後になると、小学生なども図書室を訪れ

る。また、ここはナショナルトラストを中心とした地域活動の拠点でもあり、図書館週間

の仮装パレードの催行を行う他、地域団体の会合場所としても利用される。さらに、ナ

ショナルトラストは観光情報の提供及びガイドツアーの催行など、観光の拠点施設でも

ある。各教会も幼稚園のスペースを礼拝のために利用している。Jehovah's Witness Ministry

が木曜日及び日曜日の夕方、Church of Christ Ministry が火曜日の夕方及び日曜日の午前中、

Mahainam Ministry が土曜日の朝から日没まで、Souls to Jesus Ministry が月末の日曜日の昼

間から夕方にかけてというように、同じ空間における利用時間が重複しないように時間を

区切りながら使用している。

コミュニティセンターでは、博物館に使用するスペースの拡張が検討されているが、現

状の施設だけでは、コミュニティセンターが担う多様な用途を満たしながらそれを実現す

ることができない。ナショナルトラストは、このコミュニティセンター以外にも 2 棟の建

築を所有するが、これらに関しては修理が必要であり、その費用が捻出できないため利用

されていない。対策としては、遺産情報及び観光情報、ツアーを提供する機能を強化し、

観光収入から修理費用を獲得するといった仕組みの確立及びコミュニティセンターにおけ

る遺産保全及び観光マネジメントに関する人員の増加が挙げられる。

(3) ホテル

レブカには、フィジー・ラッシュ期以降多くのホテルが建設された。1870 年に作成さ

れた図絵(p.82, 図 2-6~2-8 参照)には、レブカビレッジとニウカンベヒルの間に 2 階建

ての Key's Jetty&Hotel 及び Manton's Hotel、ホテル専用の桟橋を所有していたと考えられる

Albion Hotel の 3 つのホテルが描かれる。その他、Pacific Hotel、All Nations Hotel、Criterion

Hotel などがあったとされる(Young, 1984:p.715)。また、1931 年から 1934 年の間に書か

れた手記には、「かつては 26 ものホテルがあったが、首都の移転、戦争、不景気、ハリ

ケーンなどが歴史的場所を台無しにしている(筆者訳)」(Aston 1936)と記される。しか

し、現在レブカに残される歴史的なホテル建築はロイヤルホテルのみである。1869 年の

記録が残され、Fiji Times にも広告が載せられていたとされる南太平洋の島嶼地域におい

て現存する最も古いホテルであるとされる(HJM Consultants PTY LTD 1994:data sheet no.066,

Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society

113

2001:p.119)。当初は J.R. Thompson によって経営されたが、後に Morris Hedstrom Ltd. の所

有 と な っ た(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical &

Cultural Society 2001:p.119)。第 2 次大戦前に現在まで続く Ashley 一家がホテルの管理者

となり、後に Morris Hedstrom Ltd. から購入し、現在まで家族で経営してきた(Institute of

Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society 2001:p.120)。

ただし、現オーナーは PAFCO 建設時にレブカにやってきた日本人である吉田氏と、

Ashley 家の子孫であるニコレット・吉田夫人であるため、厳密には吉田一家によって経営

されている。

ロイヤルホテルは都市の中心部、ナサウの東側、ビーチストリートから約 70 メートル

西側に位置する。敷地の西側から北側を回り、正面までトトンゴクリークが蛇行しながら

囲んでいる。主屋は東側を正面として建てられ、2 階建ての寄棟造りで、平入りである。

この主屋の 1 階にはレストラン、バー、スヌーカー 37 室、会議室、インターネット室な

どとして利用され、2 階は全て客室である。そして、この主屋の南側に位置する増築部分

が経営者家族の住居として利用される。

ホテルの屋根には、展望台が設置されており、ホテルの 2 階から上がることができる。

これは、建設当初の宿泊客であった船乗りたちが、自分の船をホテルから確認すること

ができるように設置されたものであるとされる(Institute of Pacific Studies, University of the

South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society 2001:p.119)。

ホテルの 2 階は当初オープンベランダであったが、個室にトイレとシャワールームを設

置するために、1969 年に室内化したとされる 38。

主屋の東側と南側にはヤシやプルメリア、ブーゲンビリア、レモンツリーその他の植物

が植えられる庭に囲まれている。

現在レストランではトースト、サンドイッチ、スープなどの朝食メニューを夕方 5 時ま

で注文できるが、昼食や夕食メニューは用意していない。ホテルのオーナーによると、こ

れは、ホテルの宿泊客が地元のレストランで食事をとるように仕向けるためで、ホテルだ

けが客からの利益を独占しないようにするための配慮である。また、朝食に提供するパン

も、レブカ内のベーカリーのものを利用している。これも同様の理由で、ホテルでパンを

焼くこともできるが、利益を地元の他店へ還元するためであるという。吉田夫妻の息子で、

実質的なマネージャーでもあるマーク・吉田氏は「これまでもそのようにして助け合って

きたのであり、しきたりを変えることによって自分たちのための経済的利益を得ることが

114

可能であると分かっていても、そんなことはしたくはない」という。

レストラン、バー及びスヌーカー室のほとんどの利用客が宿泊客である一方、会議室に

関しては赤十字や遺産、観光関連など様々な地域団体の会議に利用される。

また、スヌーカールーム及び階段には、レブカやロイヤルホテルの古写真が展示されて

いる。

ロイヤルホテルは、構造については原型を留めており、日常的な修理など管理状況が良

好である。トイレ及びシャワーを個室に設置するために 2 階ベランダ部分が室内化されて

いるため、今後、ホテルの運営見直しが検討される際などには、復原の可能性も検討され

る必要がある。ロイヤルホテルのベッド数は 45 台であり、レブカのその他のホテルの中

でも規模が大きく、利用者数が増加すれば雇用を拡大できる。しかし、スケジュール管理

や資金管理を行うオーナー以外には、庭の手入れや建物その他設備の日常的な修理及び管

理、バーでの接客を努める男性 3 名が雇用され、時間やその時の仕事の量によってことな

るが通常は 2 名体制で勤務する他、レストランでの応対と調理、客室やホテル内の清掃、

シーツの洗濯などを行う女性 4 名が雇用され、通常は 3 名体制で勤務するのみである。

ホテル建築という有形文化遺産の修理を継続するという観点及び地域住民の雇用創出の

観点から見れば、観光客の誘致とサービスの充足による収益と雇用機会の増加が課題であ

る。

(4) バー

前述のように、フィジー・ラッシュ期のホテルやバーの酒場は、荒くれ者たちで賑わっ

ていた。しかし、それらの内で現在まで継承される建築は上述のロイヤルホテルのみであ

る。一方で、1904 年にナサウ公園の南側に建てられたバーであるオバラウクラブが現存

する。オバラウクラブは南東側を正面とし、タウンホールと隣接する東側には芝生の庭が

設けられる。建物は平屋で寄棟造りの平入りである。

オバラウクラブは 1904 年に建設され、創建当初は政府の建設関連機関であるパブリッ

ク・ワークス・デパートメント Public Works Department の職員官舎も兼ねていたとされる

(HJM Consultants PTY LTD 1994:data sheet no.061)。その後、機能はバーのみになり、オバラ

ウクラブ創設当初のものとされるスヌーカー台とともに現在に残される。

オバラウクラブの会員になることができたのは、第一次大戦まではヨーロッパ人とフィ

ジー人の首長のみであったとされる(HJM Consultants PTY LTD 1994:data sheet no.061)。次

115

第にこの差別は緩和されるが、1966 年にレブカ北部にレブカクラブが創設されるまでは

フィジー人が気兼ねなく自由に出入り可能なクラブは存在しなかった 39。

1970 年の独立を経てそうした差別は次第になくなり、現在は地域住民及び国内外から

の観光客によって利用される。基本的にはビールや簡単なカクテルを提供するが、入り口

付近のテーブルではカバが飲まれることがある。オバラウクラブには、無料で貸し出すた

めのカバボウル(カバの粉を水と混ぜるための容器)が用意されている。

オバラウクラブは日常的な修理がなされており、歴史的建築の価値保全の観点から管理

状況は良好であるといえる。

3-5-3 倉庫建築

レブカには、コプラ貿易に建設された倉庫内でコプラの加工を行っていた工場兼倉庫

も含む倉庫建築群が埠頭周辺に現存する。現存する 7 棟は全て平屋で切妻造り、妻入りで

ある。その内の 4 棟、Former Morris Hedstrom Bond Store、Port Authority of Fiji、Former Burns

Philip Copra Shed1&2 の壁は板壁であり、Former Morris Hedstrom Copra Shed、Concrete Copra

Shed1&2 の 3 棟の壁がコンクリート造である。ただし、これまでに平屋で寄棟造り、平入、

壁は板壁であった倉庫 2 棟が火災で消失している。この内 1 棟は、同じ敷地に再建されて

おり、スーパーマーケットとして利用されているが、もう 1 棟の敷地は空地のままである。

Port Authority of Fiji は、港湾管理所及び家電、家具及び日曜大工用品店、仕立て・衣料

品販売店として利用される。Former Burns Philip Copra Shed 1 & 2 は、幼稚園として利用さ

れる。Former Morris Hedstrom Copra Shed は、映画館として利用されていたが、その閉館後

は利用されていない。Concrete Copra Shed 1 & 2 は、レブカで会社を興し、現在までにフィ

ジーにおける一大海運会社に成長しているパタソン一家が管理している。これらの倉庫は

現在も物置として利用されているが、パタソン家自体が拠点をスバへ移しており、人の出

入りは少なく常時施錠されている。しかし、パタソン家がレブカで生活していた頃は、こ

の倉庫内でダンスパーティーが催されることもあったとされる 40。

倉庫建築は、どれもその構造に原型を留める一方で、Port Authority of Fiji を除いて老朽

化が進んでおり、修理が必要である。これらの倉庫建築群は、半世紀以上にわたりレブカ

及びオバラウ島の経済を支えた産業であるコプラ貿易期の歴史を物語る証拠であるととも

116

に、その大空間をいかした活用により、地域住民や観光客向けのイベントを開催すること

が可能である。

3-5-4 住宅建築

住宅建築は、ビーチストリートに建ち並ぶ店舗建築の後背から西に位置する丘陵地にか

けて建設されてきた。調査対象の 27 棟の内、布教活動期のものとされる建築が 1 棟、フィ

ジー・ラッシュ期のものと考えられるものが 1 棟、ザコンバウ政権期のものが 1 棟 41、首

都期のものが 3 棟、1900 年までのものが 3 棟、1940 年代までのものが 19 棟であった。住

宅建築は、27 棟全てが平屋である。外壁及び屋根への彩色は、16 棟が 2 色まで、9 棟が 2

色とその内の 1 色の同系色、もしくは 3 色を使用している。また全て道路からセットバッ

クを設けて建てられる。住宅建築は、主屋とその回りに下屋を回して設けたベランダとい

う型が基本的な構成で、下屋から連続して、もしくは別棟として台所と便所が建てられる。

さらにテラスや個室が下屋から連続して増築される場合もある。主屋における各部屋の数

は、1 部屋のものが 3 棟、2 部屋のものが 10 棟、2 部屋でそれらの間に通路が設けられる

もの 1 棟、3 部屋のものが 9 棟、4 部屋のものが 3 棟、そして 6 部屋のものが 1 棟であり、

2 部屋及び 3 部屋のもが 74.1%を占める。また、主屋の周囲にベランダがまわされる側面

の数は 2 面が 9 棟、3 面が 3 棟、4 面が 15 棟であり、設計時に対称性を重視していること

が読み取れる(表 3-1 の各類型から 1 事例ずつを選び、図面及び写真を掲載した(p.145~155,

図 3-75~129 参照)。

丘陵地に建てられる住宅 16 件は、斜面方向に対して垂直方向を長軸として建てられ、

表 3-1 主屋の部屋数に対するベランダの即面数    (表中の数字は、p.126 表 2 中の物件番号と対応)

117

長軸方向には常にベランダが配される。玄関は、長軸方向中央に配されるものが 7 件と、

短軸方向に配されるものが 6 件、また建物の裏手に配されるものが 3 件ある。短軸方向及

び建物後方に配されるのは、敷地に余裕がなく、正面からのアプローチを確保できないた

めと考えられる。平地に建てられるものは、敷地形状によって建築全体の長軸方向のとり

方は異なるが、道路に対して正面性をもたせ、道路側に玄関とベランダを配する。

建物正面に配されるベランダは、17 世帯においてシティングルームが配され、接客空

間及び家族がくつろぐ場所として利用される(p.145, 図 3-77; p.147, 図 3-87 等参照)。それ

らの内 13 世帯においては主屋により私的なシティングルームが配される(p.145, 図 3-79;

p.151, 図 3-109 参照)。側面にあるベランダは、ベッドルームとしても使用される(p.145,

図 3-75, 3-78 参照)。家屋後背部のベランダは、別棟への通路となる他、ダイニングが配

される場合、また台所や便所・シャワーが置かれる場合もある(p.150, 図 3-100; p.152, 図

3-110, 3-114; p.154, 図 3-120 等参照)。

丘陵地のベランダからは海へ開ける眺望が確保され、風通しも良い。また、深い軒と跳

ね上げ式窓により日差しや雨を遮る構造になっている。ベランダのシティングルームには

ソファや椅子、テーブルが置かれ、来客があった際は客をもてなし、家族でくつろぐ時に

も利用される。入植初期の白人も、ベランダからの眺望やそこでの読書、友人との団欒を

楽しんでおり 、建設当初からの空間利用形態が現在も継承されていると言える。

前述の主屋におけるシティングルームには、テレビや DVD 視聴機、ラジオなどが置か

れる。また、フィジアンマットと呼ばれるフィジーの伝統工芸品で、冠婚葬祭の贈り物な

どにも用いられるパンダナス製マットや絨毯が敷かれる。Suli's House 主屋の北側には、鉄

鋳性の天井飾りがつけたれている、二重壁になっているなど、他より豪華なつくりをした

部屋が配される。しかし、現在はそうした部屋も区別なくベッドルームとして利用され、

部屋の設えの違いによる空間の用途の区別はされていない。

ダイニングルームではダイニング用のテーブルと椅子が置かれ、食事と、モーニング

ティー及びアフタヌーンティー時に利用される。ダイニングルームは、18 世帯において

独立した部屋に配され、17 世帯においてキッチンと併設、8 世帯においてリビングルーム

と併設される。

また、住宅でもヤンゴナは飲まれ、主にシティングルームが利用される。主屋とベラン

ダの両方にシティングルームがある住宅では、7 軒中 6 軒がベランダを利用している。フィ

ジーの伝統建築である平屋で合掌造りの草葺き建築ブレにおいても、家屋の入り口側が

118

boto と呼ばれるパブリックな空間とされ、ヤンゴナを飲む時はこの空間が利用される こ

とから、レブカの西洋風建築においても入り口に近いベランダが利用されていると考えら

れる。また、ヤンゴナを飲む際にはベランダであっても床座になり、普段は敷かれていな

いマットが敷かれその上に円座になってヤンゴナを飲む。

すべての住宅建築において、屋内では靴を脱ぐ習慣がある。

敷地内の屋外空間に関しては、住宅建築が建てられる全ての敷地において、建物の周囲

や玄関までのアプローチの両側に芝生及び低木などの植物が植栽されている。この内 14

件では、芝生が植栽される敷地の一角にフィジーの伝統料理でロボと呼ばれる蒸し焼き料

理を調理するための場所が確保されており、クリスマスやその他の祝い事などがある日に

は、庭から煙が立ちのぼる様子が見られる。この様子は、庭園がない敷地規模の小さい家

でも見られる。

以上に見たように、入植者が建設した建築にフィジー人が住むことにより、建設当時か

らの接客空間であったベランダ空間では、昼間は椅子座で接客され、夜間のヤンゴナの飲

用時には床座で接客され、西洋起源の文化とフィジー起源の文化の共存が見られる。また、

建設当初は椅子座であった主屋のシティングルームにはマットが敷かれ、床座の空間に変

化している点に、西洋起源の有形文化遺産とフィジー起源の無形文化遺産との融合が見ら

れる。また、庭にロボというフィジーの伝統文化が持ち込まれ、屋外空間は調理空間とい

う新たな機能を獲得している。

現居住者が把握している住宅の改変は、台所に関するものと便所・シャワーに関するも

のがそれぞれ 3 件と、テラスの建設が 2 件であった。台所に関しては、設備の改修に加え、

住宅後背部のベランダへ台所施設を組み込むという改変が見られた。これは、建設当初は

防火のために別棟で台所が建設されたが、不便であるため主屋と隣接させるようにしたも

のである。 便所・シャワーに関しても、同様の理由で後背部のベランダの一角に設置して

いる。テラスに関しては、前面のベランダを拡張するために増設されている。

また、レブカの住宅建築が当初はオープンベランダであったことは、これまでの研究で

明らかになっている他、古写真で確認できる。ベランダが内部化され、さらに間仕切りが

設けられ、個室の増加が図られている。また、ベランダに個室を設けるための間仕切りに

当初材のものが存在する、すなわち全てのベランダが当初から間仕切りのない通り抜け可

能な空間であった訳ではない可能性が示唆されている 。さらに、前面と後背のベランダ、

その間の主屋の空間の間仕切り壁として利用することにより、1 棟に 2 世帯で住むために

119

も利用されてきた。一方、Len Wong Bakery では家族の人数が減ったために以前は存在し

た間仕切りが取り除かれている。いずれにしても、こうした間仕切りは設置も取り外しも

比較的簡易である点が利点であるが、主屋に 6 室を設ける住宅では、遮音性のためと考え

られるがこの間仕切り壁をコンクリートで立ち上げており、復原が容易ではない 42(p.155,

図 3-125, 3-129 参照)。

住宅建築では、空間の規模や部屋の数の調整のためにパティションが用いられるため、

構造については原型を留めている。一方で、住宅建築はこれまでに述べてきた建築類型の

なかで最も管理状況に相違が見られる類型である。それは、各所有者の経済状況に左右さ

れるためである。1 物件当たりの居住人数が最も多かった Mrs. Robinson's Residence1870 年

代に建てられたとされる、その歴史性からも豪華な意匠という側面からも貴重かつ重要な

建築である。しかし管理状況が悪く、屋根や外壁のペンキが塗り直されずに板壁の老朽化

を早めており、腐った床板なども修理されないままの状態である。他にも、日常の管理の

一環として軽微な修理を継続すれば維持が可能な住宅建築が、それがなされないままに老

朽化している。これまでに既に述べてきた HR では、レブカが有する歴史的な住宅建築の

リスト化が十分ではなく、歴史的建築物である個々の住宅建築を保全するためには、まず、

それらの物件の特定とリスト化が必要である。

120

3-6 都市空間の利用と記憶

ここまでに、住民構成の変遷と現在の住民について分析し、さらに建築の利用形態につ

いて把握した。本節では、ロイヤルホテルのオーナー夫人であるニコレット・ヨシダ夫人

の個人の歴史に即した記憶をもとに、地域に根付いた個々人、家族と都市遺産の関係につ

いて論じたい。以下、ニコレット夫人に関する情報はすべて彼女へのヒアリングによる。

ニコレット夫人は、1947 年、ロイヤルホテルのオーナー一家の次女として生まれる。

父 Edmund Ashley はロイヤルホテルのオーナーであった。Ashley 家は、ロイヤルホテルを

経営するためにスバからレブカへ移り住んだ。ニコレット夫人の父方の曾祖父はサモア人

であった。母 Dorothy Ashley は、Rudlof & Elsie Kaad の娘で、21 才で結婚するまで LPS の

近くの家に住んでいた。母方の祖父は、ロツマ人及びデンマーク人の混血であった。

夫人は 5 才からマリスト・コンベント・スクールへ通い、LPS のセカンダリースクール

へ通った。

彼女とその兄弟は、夕方までに宿泊客の靴を磨き、ベッドのマットレスを裏返し、出発

する客がいる場合は朝 8 時出発の船便に間に合うように荷物を降ろしておくなどといった

仕事の他、食堂の仕事も手伝った。レブカにレストランがなかった頃はホテルの食堂で朝

食・昼食・夕食を提供しており、準備ができるとベルを鳴らして知らせた。また、コプラ

貿易の終焉でまちの活気がなかった頃は、ホテルの庭でロツマの舞踊とメケと呼ばれる

フィジーの舞踊を披露するなどして観光客の増加につながる努力をしており、夫人と兄弟

もこのダンスに加わった。

レブカには、現在クラフトセンターが建てられるキング・ストリートとビーチストリー

トの結節点北側に映画館が建てられ、サイレント映画を上映する際に夫人の祖父とパタソ

ン夫人がそれぞれバイオリンとピアノを演奏した。タウンホールや現在は店舗が経営され

ているヘニングス・ストリートとビーチストリートとの結節点南側の建物でも映画が上映

された。夫人の両親が若かった頃は、タウンホールで社交ダンスパーティーが開かれてい

たという話も聞いたという。

また夫人は、祖父から、オバラウクラブやレブカボウリングクラブでは有色人種への差

別が続けられ、ロツマ系の混血であった祖父が若かった頃はそれらの会員に加わることが

できなかった話などを聞かされたという。また、イギリス領時代は、フィジー人がアルコー

121

ルを飲むには許可書を所持していなければならなかったという。

1968 年には、PAFCO の冷凍業務に関する技術マネージャーであった吉田氏とアングリ

カン教会で挙式、その後 3 人の男の子と 1 人の女の子をもうけた。子供たちはアングリカ

ン教会で洗礼を受けた。1979 年までロイヤルホテルにテレビはなく、子供たちはゲーム

やコンサート、ピクニックなどをして遊んだという。また、割譲記念日には各学校による

ビーチストリートでのパレードが行われた。子供たちは全員、マリスト・コンベント・スクー

ル、LPS、セント・ジョーンズ・カレッジ 43、さらにオーストラリアの大学へと進学した。

ニコレット夫人は、1979 年にタウンカウンシルの議員に選出され、議員を務めた。また、

アングリカン教会で日曜学校の教師を務めた経験もある。

吉田夫妻の息子 2 人と娘はオーストラリアに住み、もう一人の息子がホテル経営を任さ

れている。夫妻には 5 人の孫がおり、彼らはオーストラリアに住んでいる。

以上のことから、レブカで生まれ育ったニコレット夫人にとって、レブカの都市空

間と建造物群は彼女の人生を語る上で欠くことができない要素であるといえる。夫人

は、Levuka: Living Heritage(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka

Historical & Cultural Society, Levuka 2001)において彼女が執筆担当したロイヤルホテルに関

する章を、次のように締めくくる。

I was born and raised in the Royal along with my four sisters and brother. I have never

regretted a moment. Working alongside parents of whom I am most proud is something I

would never change. The town, too, is like a family. We all know one another and work

together in ways which are lost in the cities. The Royal within Levuka is for me a home

within home.(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka

Historical & Cultural Society, Levuka 2001:p.121)

私は、4 人の姉妹と 1 人の兄弟と共にロイヤルで生まれ育ちました。私はそ

のどの瞬間についても後悔がありません。なかでも私が最も誇りに思う両親と

ともに働いたことは、絶対に変えたくありません。このまちも、家族のようです。

私たちは皆、一人一人を知っていて、都会では失われてしまった方法で共に働

きます。私にとって、レブカにおけるロイヤルは家のなかにある家です。(筆者

訳)

122

ニコレット夫人にとって家族のように感じられるというレブカの住民と共に時間を過

ごしてきた都市空間や建造物群の1つ1つが、ロイヤルホテルという Ashley 家及び吉田

家の家を内包する大きな家としてのレブカを構成する要素なのである。こうした記憶を

蓄積しているのは、ニコレット夫人のみではなく、Levuka: Living Heritage ではインド系住

民、中国系及びソロモン系住民の歴史について記述されている(Institute of Pacific Studies,

University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society, Levuka 2001:pp.47-65)。

近年になって都市に移住してきた人々は、歴史的建造物群の長期的な変遷に関し、個人

の経験を通しての記憶は持たない。しかし、彼らもレブカの歴史的建造物群や文化の多様

性に居住環境としての価値を見いだして移住してきたのであり、彼らの視点からレブカの

価値を語ることが可能である。ヘリテージ・アドバイザーとして勤務した後にそのまま住

み続けるイギリス人夫婦、オバラウ島の東に広がるコロ海の自然資源に価値を見いだし、

フィジー国内の他島からダイビングショップを移転したオランダ人とドイツ人の夫婦な

ど、それぞれがレブカの価値を見いだして移住を決定したのである。

さらに、オバラウ島内の集落は、それぞれレブカ及びレブカと関連が深いレブカビレッ

ジとの関係をその歴史を通して構築してきた。例えば、オバラウ島中央部のロボニビレッ

ジは、先住集落時代からレブカビレッジのライバルであり、島内で最後まで白人に抵抗し

た部族とされる 44。また、その他の集落についても、野菜や果物などを生産し、都市に供

給してきた経緯、また現在では PAFCO への労働力を提供し、さらに購買客としてレブカ

の商店街を支えてきた経緯がある。

レブカのそれぞれの住民が、夫人のように個人の歴史を通してレブカの歴史的建造物群

に関する記憶を蓄積してきており、それぞれの記憶に基づき都市空間及び歴史的建造物の

構成や利用形態の変遷について語ることができる。こうした個人の記憶に基づく歴史的建

造物に関する情報は、都市の変遷を知る上で貴重な情報であるとともに、将来へ継承され

るべき文化遺産であると位置づけることができる。

123

3-7 小結:都市遺産の総合的価値

既に述べたように、レブカは、先住民族であるフィジー人、南太平洋の島々での暮らし

に馴染むように暮らしたビーチコーマー、フィジー・ラッシュでビジネスチャンスを得よ

うとした欧米人、彼らによって強制的に連行された周辺島嶼国の人々、その混乱を鎮静す

るために入植したイギリス人やオーストラリア人、ドイツ人と入れ替わるようにして商店

を経営したアジア人など、その歴史を通し様々な文化的背景をもった民族を受け入れてき

た。そしてその多様性が、都市遺産に居住し日々の生活を通して遺産を管理する現在の住

民の民族構成にも反映されていることや、その民族的多様性がさらに拡大しつつあること

が明らかになった。アジア系住民は現在も店舗経営を継続し、都市や島全体のための日用

品や食材を提供するとともに、レストランを経営し、インドや中国由来の食文化を浸透さ

せている。一方で、住宅地では新規の流入人口が増える中、初期入植者の子孫であるドイ

ツ系やイギリス系フィジー人などが現在も住む。そして、それらの人々の民族的属性に着

目すると、純血の人々については同一民族ではなく多様な民族で構成され、混血の人々の

中にはセンサスデータには現れないような多数の混血が存在することも明らかになった。

こうした都市民の文化的・民族的多様性は、レブカがフィジーにおける近代都市として成

立と発展してきた歴史を通して形成されてきた特性であるといえる。

メインストリートであるビーチストリートでは、レブカ住民及びオラバウ島の住民の朝

のウォーキング、通学・通勤、日曜品の買い物、人々の交流、正装した姿で礼拝に向かう

様子などが見られ、現在の地域住民がその生活を通して利用している。

また、公共建築に関しては改変が少なく、当初の空間構成を継承するものが多いなか、

その用途に関しては多様であり、必要に応じた自由度の高い利用がみられる。各建築は、

曜日や時間で区切ることにより、平日から休日まで、また平日の朝から晩まで様々な地域

活動のために利用されている。

店舗兼住宅では、店舗空間をも社交の場としながら多民族間の交流を深める一方、イン

ド系店舗内や居住空間においては祭壇や寺院を置き、伝統文化を継承している。住宅建築

では正面のベランダを接客空間として利用し、昼間の来客は椅子座で接客するが、ヤンゴ

ナを飲む場合は先住フィジー人の工芸品であるマットを敷き、床座で接客を行うという近

代化以降の文化と伝統文化双方の習慣が 1 つの空間で展開される。また、構造的には 1 室

124

構成の主屋と下屋を回して床を貼ったベランダという単純な構成は、簡易な間仕切りを設

けることにより個室の数を調整することを可能とし、居住人数の増減や家族の生活スタイ

ルに準じた調整を可能としている。

また、レブカの住民は、それぞれの生活を通して都市空間や歴史的建築物に関する記憶

を蓄積しており、都市の変遷を明らかにする際の裏付けとなる情報、また訪問者に過去の

利用形態を説明できる貴重な情報を有することを明らかにした。

以上より、レブカにおける民族構成の多様性そのものが都市の歴史的背景を表出する点、

それらの多様な民族的背景を有する人々による空間の利用形態に文化の共存と融合が見ら

れる点、都市住民がそれぞれの記憶に基づき都市の変遷や過去の利用形態について物語る

ことができる点が都市遺産の価値の構成要素であると把握した。

よって、前章の考察を踏まえると、レブカの都市遺産としての総合的価値とは、先住集

落期の空間構成を 継承しつつ形成された近代都市空間に、文化的、民族的、宗教的に多様

な人々が住み続け、空間を利用してきたことにより、それらの人々の個人的記憶、家族や

民族集団に代表される集団内で共有される記憶の中に有形文化遺産である都市空間と無形

文化遺産である住民生活との関係性に関する情報が蓄積され、その蓄積を通して現在の都

市空間は地域住民の感性とつながり続け、意味をもたらし続けている点にあると言える。

すなわち、レブカの都市遺産としての本質的価値とは、歴史的建造物群の意匠や材料といっ

た物的側面に関する真正性の評価に加え、文化多様性のなかで展開される伝統、建築空間

という家族単位で利用する空間から公共的な都市空間にまで継承される用途や機能、使い

続けてきたことによって醸成された有形及び無形文化遺産に対する精神と感性から真正性

を評価できる点にあると言える。そしてこのことは遺産の完全性の説明によって証明され

なくてはならず 、レブカの都市遺産としての総合的価値の完全性を構成する諸要素とは、

先住集落期の空間構成を継承しつつも、フィジー・ラッシュ期及び首都期にかけて 20 年

に満たない短期間に急速に成立し、コプラ貿易期を経て形成されてきた都市の空間構成

及び建造物が 100 年以上の年月を経てもなお軽微な修理のみで利用可能な良質な建築のス

トック、初期入植者の子孫だけでなくその後都市に移住してきた人々の民族多様性、また

それらの多様な民族的背景を有する人々が、歴史的建造物の形状は維持する一方で自文化

を適応させるような利用形態をとり、公共建築については機能を固定するのではなく利用

可能な空間と時間に合わせて多様で自由度の高い用途で利用するという利用形態、歴史的

建築物が現在の住民のものとして利用され続けているという状態、またそのようにして

125

日々の暮らしの一部である歴史的建造物について、地域住民自身がその変遷や過去の利用

形態について物語ることができる記憶のストックであると言える。

126

表 3-2 空間利用調査物件リスト

物件番号

物件名 種別 詳細 建築年代 階高※1

構造※2

世帯数

居住人数

居住年数

世帯主の民族

世帯主の信仰宗教※4

住居内祭壇の有無

店内祭壇の有無

ダイニング独立性※5

食事をする場所

お茶を飲む場所

接客場所

ヤンゴナ飲用場所

ロボ用石釜の有無

靴を脱ぐ場所※6

HR No.壁と屋根の

彩色数※1

家族団欒の場所

1 LEN WONG BAKERY 店舗兼住宅 パン製造 1920年代 1 木造 1 6 5 中国系フィジー人 C - - 独立 SIT SIT SIT SIT 有 玄関 098 2 SIT9 7 インド人 C - - K D D SIT - 無 店/住 095 2 SIT3 2 白人系フィジー人 M - - K D D SIT - 無 玄関 SIT

3 Katudrau Store 店舗兼住宅 食品・雑貨 1895年以前 1(2) 木造 1 5 4 中国系フィジー人 C - - 独立 D D D 別棟 有 店/住 053 2 SIT4 Ambaral Store 店舗兼住宅 鞄・雑貨 1900 1 CB 1 3 7 インド人 HIN 有 有 SIT D D SIT - 無 店/住 052 3 SIT5 Emily's Café 店舗兼住宅 パン製造販売・軽食 1930年代 1 CB 1 4 4 中国人 無 - - 独立 D D D - 無 店/住 046 6 SIT6 Sea Site Restaurant 店舗兼住宅 カレーレストラン 1890年代 2(部) 木造 1 5 4 インド人 HIN 有 無 独立 D D SIT SIT 無 店/住 4 SIT7 Photo & Barbar 店舗兼住宅 理容・写真 1962 1 木造 1 7 7 インド人 HIN 有 有 K SIT SIT SIT - 無 店/住 n-001 3 SIT8 Narson's Supermarket 店舗兼住宅 食品・雑貨 1895年以前 1(2) 木造 1 1 3 インド人 HIN - 有 K D SIT 店内 店内 無 店/住 040 3 SIT9 Valabh & Sons 店舗兼住宅 生地・雑貨 1900 1 木造 1 4 8 インド人 HIN 有 有 独立 D D SIT - 無 個室 035 1(1) SIT10 R Domodar & Sons 店舗兼住宅 生地・雑貨 1900 1 木造 1 4 7 インド人 HIN 有 有 SIT D D SIT - 無 住居内 034 3 SIT11 Kim's Paak Loong Restaurant 店舗兼住宅 中華料理店 1895年以前 2(1) CB 1 2 5 中国系フィジー人 AG 無 SIT R R SIT R 無 店/住 033 1(1) R12 R K Shingh Store 店舗兼住宅 食品・雑貨 1900 1 木造 1 2 4 インド人 HIN 有 無 SIT SIT SIT SIT 店内 無 店/住 032 2 SIT13 Gulabdas Store 店舗兼住宅 生地・雑貨 1900年以前 1(2) 木造 1 3 7 インド人 HIN 有 有 SIT D D SIT - 無 住居内 030 2(1) SIT14 Kan Lee Store & Bakery 店舗兼住宅 パン製造販売・食品 1960 2(部) CB 1 4 4 中国人 無 - - K D D D - 無 店/住 026 3 SIT15 Duncan's House 住宅 個人住宅 1940 1 木造 1 1 5 イギリス人 無 - - 独立 D D SIT - 無 玄関 2(1) SIT16 Methodist Teacher's Hostel 住宅 教員住宅 1860年代 1 木造 2※3 1 3 フィジー人 M - - 独立 D D SIT D 無 玄関 085 2 SIT17 Suli's House 住宅 個人住宅 1871 1 木造 1 1 9 白人・トンガ系フィ

ジー人M - - K D D SITV SITV 有 玄関 2 SITV

18 Wilson's House 住宅 個人住宅 1900年代 1 木造 1 2 5 白人・トンガ系フィジー人

M - - 独立 D D SITV - 有 玄関 2(1) SITV

4 2 フィジー人 M - - SIT D D SITV - 有 玄関 2 SITV6 3 ソロモン人 M - - SIT D D SITV SITV 有 玄関 SITV2 3 フィジー人 M - - K D D D - 有 玄関 D

20 House Beside Steps 住宅 個人住宅 1900年以降 1 木造 1 8 2 フィジー人 M - - K D D SIT - 有 玄関 099 2 SIT21 Bower's House 住宅 個人住宅 1940年以前 1 木造 1 5 6 フィジー人 M - - 独立 D D SIT SITV 有 玄関 2 SIT22 House Near Royal 住宅 個人住宅 1880年代 1 木造 1 3 7 トンガ系ロツマン 7th - - K D D SITV - 無 玄関 079 2 SITV23 3 Cottages West 住宅 個人住宅 1920年以前 1 木造 1 2 4 白人・トンガ系フィ

ジー人AOG - - 独立 D SITV SITV - 無 玄関 080-1 2(1) SITV

24 3 Cottages Middle 住宅 個人住宅 1920年以前 1 木造 1 2 5 ロツマン C - - 独立 D D SITV K 有 玄関 080-2 2 SIT25 3 Cottages East 住宅 個人住宅 1920年以前 1 木造 1 5 2 白人・中国・ソロモ

ン系フィジー人C - - SIT D D SITV SIT 無 玄関 080-3 4 SIT

26 Mr Robert Patterson's Residence 住宅 個人住宅 1920年代 1 木造 1 1 5 白人系トンガ人 AG - - K D SITV SIT SITV 有 玄関 069 2 SITV27 Mrs Robinson's Residence 住宅 個人住宅 1870年代 1 CB 1 22 7 フィジー人 M - - SIT 個室 個室 SITV SITV 有 玄関 068 3(1) SITV28 House With Workshop 住宅 個人住宅 1900年以前 1 木造 1 1 8 白人系トンガ人 M - - K 個室 個室 SITV 個室 無 玄関 100 2 個室29 3 Matching Houses East 住宅 個人住宅 1900年以降 1 木造 1 14 6 フィジー人 C - - 独立 D 個室 SITV SITV 無 玄関 071-3 2 SITV

6 1 インド人 B - - SIT SITV SITV SITV - 有 玄関 2 SITV1 7 ニューヘブライ系フィ

ジー人M - - 独立 D D SITV - - 玄関 SITV

31 Former William Hennings House 住宅 個人住宅 1878 1 木造 1 7 6 白人系フィジー人 AG - - K D SITV SIT SITV 有 玄関 059 3 SITV11 3 キリバス人 M - - K D D SIT SIT 有 玄関 073 1 SIT1 1 インド人 HIN 有 - K 個室 個室 D - 有 玄関 個室1 2 ロツマ系フィジー人 M - - K 個室 個室 D - 有 玄関 個室1 2 インド人 HIN 有 - K 個室 個室 D - 有 玄関 個室1 1 ロツマ・中国系フィ

ジー人C - - 独立 D SIT SIT SIT 無 玄関 072 2(1) SIT

4 1 フィジー人 M - - 独立 D SIT SIT SIT 無 玄関 SIT3 1 フィジー人 M - - 独立 D SIT SIT SIT 無 玄関 SIT4 1 フィジー人 M - - K D D SIT SIT 無 玄関 2 SIT1 1 インド人 HIN 有 - 独立 SIT D SIT SIT 無 玄関 SIT1 1 インド人 HIN 無 - 独立 SIT D SIT SIT 無 玄関 SIT1 1 インド人 HIN 有 - 独立 SIT D SIT SIT 無 玄関 SIT1 1 インド人 C - - 独立 SIT D SIT SIT 無 玄関 SIT

35 Mr Stevens' House 住宅 個人住宅 1902 1 木造 1 3 6 白人系ロツマン M - - SIT D D SIT - 無 玄関 2 SIT36 Ms Sahai's House 住宅 個人住宅 1900年代 1 木造 1 2 9 白人系インド人 C - - K D D SITV - 無 玄関 3 SIT

5 6 インド系フィジー人 LDS - - 独立 D D SITV - 有 玄関 022 2 SITV4 1 フィジー人 M - - SIT D D SIT SIT 有 玄関 SIT4 2 フィジー人 M - - K D D SIT - 無 玄関 021 3 SIT5 1 フィジー人 M - - K D SIT SIT - 無 玄関 SIT1 1 フィジー人 7th - - K D D SIT - 無 玄関 SIT

39 Sinclair's Residence 住宅 個人住宅 1908年以前 1 木造 1 4 6 フィジー人 M - - SIT D D SITV SITV 無 玄関 006 2 SITV40 Bukalidi's House 住宅 個人住宅 1940年代以前 1 木造 1 6 3 フィジー人 M - - K D SIT SIT SIT 有 玄関 005 3 SIT

3 1 フィジー人 M - - 独立 D D SITV SITV 有 玄関 1(1) SITV3 2 フィジー人 M - - 独立 D D SIT SIT 有 玄関 1(1) SIT

※2: CB: コンクリートブロック造※3: 2世帯が住んでいるが、内1世帯の世帯主の長期不在であっため調査を実施できたのは1世帯のみ。※4: M:メソジスト、C:カトリック、AG:アングリカン、AOG:アセンブリー・オブ・ゴッド、LDS:レイターデイセインツ、7th:セブンスデイズアドバンテージ、B:バプティスト、HIN:ヒンドゥー教、無:無宗教※5: SIT:主屋のシティングルーム、SITV:ベランダのシティングルーム、D:ダイニングルーム、K:台所、R:レストラン※6: 店/住居:店と住居空間の境界、住居内:住居空間内の店舗に近い空間は土足

※1: 1(2)と表記される場合、店舗部分は平屋で、住居部分が2階建てであることを表し、2(1)と表記される場合、店舗部分は2階建てで、住居部分が平屋であることを表す。1(部)と表記される場合、2棟を使用しており、一棟が平屋、もう一棟が2階  建てであることを表す。

タウンカウンシル職員住宅

住宅Nasova House41

木造38 2nd House 住宅 個人住宅 3

2木造11872年

1900年代 1

木造 5

37 William's House 住宅 個人住宅 1940年代以前 1 木造 2

34 Government Quarters 住宅 教員住宅 1930年代 1

1 木造 4

33 Garner Jones House 住宅 個人住宅 1894 1 木造 3

32 Public Building 19A & 19B 住宅 教員住宅 1900年以降

個人住宅住宅Wainiqolo House19

230 Mr Stevens' Family House 住宅 個人住宅 1940年代以前 1 木造

1960年代 2 CB 2

3木造11940年以前

食品・雑貨2 Naidu's Store 店舗兼住宅

127

1. 中国系フィジー人・C

2. インド人・C/白人系フィジー人・M

4. インド人・HIN

25. 白人・中国・ソロモン系フィジー人・C

21. フィジー人・M

24. ロツマン・C23. 白人・トンガ系フィジー人・AOG

12. インド人・HIN

8. インド人・HIN

13. インド人・HIN14. 中国系フィジー人・無

5. 中国人・無

15. 白人・無

16. フィジー人・M

17. 白人・トンガ系・フィジー人・M18. 白人・トンガ系・フィジー人・M

10. インド人・HIN

3. 中国系フィジー人・C

19. フィジー人・M/白人・トンガ系フィジー人・M(2)

28. 白人系トンガ人・M 31. 白人系フィジー人・AG30. インド人・M/ニューヘブライ系フィジー人・M29. フィジー人・M

33. ロツマ・中国系フィジー人・C/フィジー人・M(2)

32. 白人系フィジー人・AG/キリバス人・M/インド人・(2)/ロツマ系フィジー人・M

34. フィジー人・M/インド人・HIN/インド人・C

35. 白人系ロツマン・M36. 白人系インド人・C

37. インド系フィジー人・LDS/フィジー人・M38. フィジー人・M(2)/フィジー人・7th

39. フィジー人・M

40. フィジー人・M

41. フィジー人・M(2)

26. 白人系トンガ人・AG27. フィジー人・M

20. フィジー人・M

22. トンガ系ロツマ人・7th

9. インド人・HIN

6. インド人・HIN

7. インド人・HIN

11. 中国系フィジー人・AG

バプティスト教会

英国国教会

レブカコロ・メソジスト教会

ナボカ・メソジスト教会

アセンブリー・オブ・ゴッド教会

カトリック教会

カランバ・メソジスト教会

凡例レブカタウン領域

M: メソジストC: カトリックAG: アングリカンAOG: アセンブリー・オブ・ゴッドLDS: レイターデイセインツ7th: セブンスデイズアドバンテージB: バプティストHIN: ヒンドゥー教無: 無宗教

0

50

100

200

500(m)

N

図 3-1 調査物件位置図(店舗兼住宅建築及び住宅建築)と世帯主の民族的、宗教的属性

128

レブカ・クリーク

トトンゴ・クリーク

ビーチ・ストリート

ヘニングス・ストリート

ナサウ公園

2. Naidu’s Store

199steps

チャペル・ストリート

ランハム・ストリート

コンベント・ロード

チャーチ・ストリート

スパウアート・ロード

ウォーターハウス・ロード

キングストリート

ミッションヒル・ロード

トトンガ・レーン

バルカン・レーン

レブカコロ・メソジスト教会

ナボカ・メソジスト教会

デラナ・メソジストスクール

カトリック教会マリスト・コンベント・スクール

アングリカン教会

タウンホールロマイビチ州庁舎

クイーンズ・キングス埠頭

レブカ・パブリックスクール

アセンブリー・オブ・ゴッド教会

バプティスト教会

コミュニティセンター

ナソバ地区の桟橋

ナソバハウス

コプラ倉庫群

パタソン家倉庫

ロイヤルホテル

オバラウクラブ

図 3-2 物件位置図(公共的建築)

129

図 3-3 レブカタウンプラニングスキームに基づく土地利用計画図    (出典:Levuka Town Planning Scheme,筆者加筆)

住宅地B

凡例

商業地区B郊外地区特別用途地区一般工業地区公共地区公共緑地

オバラウクラブ敷地

ロイヤルホテル敷地

レブカ・パブリックスクール敷地

ウォーターハウス・ロードスパウアート・ロード

Mrs. Dora Patterson敷地

Government Quarter敷地石造の階段

ビーチストリート

材木置き場

バンバ地区

130

バプティスト教会

英国国教会

レブカコロ・メソジスト教会

ナボカ・メソジスト教会

アセンブリー・オブ・ゴッド教会

カトリック教会

カランバ・メソジスト教会

メソジスト教徒/7th アニバーサリー教徒

メソジスト教徒/ヒンドゥー教徒

メソジスト教徒/カトリック教徒

バプティスト教徒/カトリック教徒

メソジスト教徒/カトリック教徒・ヒンドゥー教徒

メソジスト教徒の家族カトリック教徒の家族英国国教徒の家族アセンブリーズ・オブ・ゴッド教徒の家族7th アニバーサリー教徒の家族レイターデイセインツ教徒の家族ヒンズー教徒の家族同一物件内に混在※玄関が異なる世帯間で宗教が異なる場合:「/」と表記 教員住宅など玄関を共有する世帯間で宗教が異なる場合:「・」と表記

メソジスト教会所有地カトリック教会所有値英国国教会所有地アセンブリーズ・オブ・ゴッド所有地

凡例

0

50

100

200

500(m)

N

図 3-4 信仰別分布図    (空間利用調査時のヒアリング調査の結果及びカトリック教会信徒である Mr. Fong 氏への    ヒアリングに基づき作成した。)

131

図 3-5 店舗建築の居住空間:物件番号 9;Valabuh & Sons;インド系店舗(生地・雑貨)

図 3-6 Valabuh & Sons 正面 図 3-7 Valabuh & Sons 店内

図 3-8 Valabuh & Sons 祭壇 図 3-9 Valabuh & Sons 店内の祭壇

SIT

DK

ST

BRBRBR

SHOPSHOP

SWWW

0 10m

SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)

1 10m

132

図 3-10 店舗建築の居住空間:物件番号 10;R Domodar & Sons;インド系店舗(生地・雑貨)

図 3-11 R Domodar & Sons 正面 図 3-12 R Domodar & Sons 店内

図 3-13 R Domodar & Sons シティングルーム 図 3-14 R Domodar & Sons ベッドルーム

K

BRBR

BR

BRSIT

SHOP

S

SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)

1 10m

133

図 3-15 店舗建築の居住空間:物件番号 13;Gulabdas & Sons;インド系店舗(生地・雑貨)

図 3-16 Gulabdas & Sons 正面 図 3-17 Gulabdas & Sons 店内

図 3-18 Gulabdas & Sons 寺院内 図 3-19 Gulabdas & Sons 寺院内の祭壇

SHOP

ST★

BR

BR

BR

DR

SIT

VERANDAH

K

SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)

1 10m

134

図 3-20 店舗建築の居住空間:物件番号 7;Photo & Barbar;インド系店舗(理容・写真)

図 3-21 Photo & Barbar 正面 図 3-22 Photo & Barbar 写真店オフィス

図 3-23 Photo & Barbar 祭壇 図 3-24 Photo & Barbar 理容店店内

SHOPSHOPOFFICE

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KWS

SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)

1 10m

135

図 3-25 店舗建築の居住空間:物件番号 12;R K Shing Store;インド系店舗(食品・雑貨)

図 3-26 R K Shing Store 正面 図 3-27 R K Shing Store 店内

図 3-28 R K Shing Store シティングルーム 図 3-29 Ambaral Store ベッドルーム

SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)SIT

K

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SHOP

SW

1 10m

136

図 3-30 店舗建築の居住空間:物件番号 4;Ambaral Store;インド系店舗(鞄・雑貨)

図 3-31  Ambaral Store 正面 図 3-32 Ambaral Store 店内

図 3-33 Ambaral Store 祭壇 図 3-34 Ambaral Store シティングルーム

K

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SIT SIT

SHOP

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1F

2F

SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)

1 10m

137

図 3-35 店舗建築の居住空間:物件番号 8;Narson's Supermarket;インド系店舗(食品・雑貨)

図 3-36 Ambaral Store 正面 図 3-37 Narson's Supermarket 店内

図 3-38 Narson's Supermarket 店内の祭壇 図 3-39 Narson's Supermarket     シティングルーム

SHOP

K

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)

1 10m

138

図 3-40 店舗建築の居住空間:物件番号 2;Naidu's Store;インド系店舗(食品・雑貨)

図 3-41 Naidu's Store 正面 図 3-42 Naidu's Store 店内

図 3-43 Naidu's Store シティングルーム 図 3-44 Naidu's Store2F 白人系フィジー人    家族のシティングルーム

SITSIT

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SW

SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)

1 10m

1F 2F

139

図 3-45 店舗建築の居住空間:物件番号 6;Seasite Restaurant;インド系店舗(カレーレストラン)

図 3-46 Seasite Restaurant 正面 図 3-47 Seasite Restaurant 店内

図 3-48 Seasite Restaurant 寺院内 図 3-49 Seasite Restaurant 寺院内の祭壇

K

KSW

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room ★ : Temple☆ : Temple  (temple と呼ばれ、店舗内に  配される場所)

1 10m

1F 2F

140

図 3-50 店舗建築の居住空間:物件番号 1;Len Wong Bakery;中国系店舗(パン製造)

図 3-51 Len Wong Bakery 正面 図 3-52 Len Wong Bakery シティングルーム

図 3-53 Len Wong Bakery パン製造場 図 3-54 マリア像やキリストが描かれた宗教画     が飾られる

SIT

KBAKINGROOM

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SW

SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

141

図 3-55 店舗建築の居住空間:物件番号 5;Emily's Cafe;中国系店舗(パン製造販売・軽食)

図 3-56 Emily's Cafe 正面 図 3-57 Emily's Cafe 店内

図 3-58 Len Wong Bakery パン製造場 図 3-59 建物後背部の下屋下の屋外空間

D

SHOP

SIT

SHOP

VACANT

SHOP

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K

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

142

図 3-60 店舗建築の居住空間:物件番号 3;Katudrau Store;中国系店舗(食品・雑貨)

図 3-61 Len Wong Bakery 正面 図 3-62 Len Wong Bakery シティングルーム

図 3-63 Len Wong Bakery パン製造場 図 3-64 マリア像やキリストが描かれた宗教画 が飾られる

K BR

BRBRBR

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SHOP

GROGROOM

SHOPSIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

1F

2F

143

図 3-65 店舗建築の居住空間:物件番号 14;Kang Lee Store & Bakery;中国系店舗(パン製造販売・食品)

図 3-66 Kang Lee Store & Bakery 正面 図 3-67 Kang Lee Store & Bakery 店内

図 3-68 Kang Lee Store & Bakery     シティングルーム

図 3-69 シティングルームに飾られる中国風の布絵

SIT

K

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

1F 2F

144

図 3-70 店舗建築の居住空間:物件番号 11;Kim's Paak Loong Restaurant;中国系店舗(中華料理店)

図 3-71 Kim's Paak Loong Restaurant     正面

図 3-72 Kim's Paak Loong Restaurant    シティングルーム

図 3-73 シティングルーム内の中国風の装飾 図 3-74 Kim's Paak Loong Restaurant 店内

K

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MBR

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S

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

1F 2F

145

図 3-75 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 1, ベランダの側面数 4; 物件番号 20; House Beside Steps

図 3-76 House Beside Steps 玄関側 図 3-77 House Beside Steps    ベランダのシティングルーム

図 3-78 House Beside Steps ベッドルーム 図 3-79 House Beside Steps    主屋のシティングルーム

SIT

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K

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BR BR BRSIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

146

図 3-80 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 2, ベランダの側面数 2; 物件番号 28; House with Workshop

図 3-81 House Beside Steps 玄関側 図 3-82 House Beside Steps    ベランダのシティングルーム

図 3-83 House Beside Steps キッチン 図 3-84 House Beside Steps ベッドルーム

SITV

K

BR BR

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

147

図 3-85 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 2, ベランダの側面数 4; 物件番号 35; Mr. Steven's House

図 3-86 Mr. Steven's House 東側 図 3-87 Mr. Steven's House    ベランダのシティングルーム

図 3-88 Mr. Steven's House ダイニングルーム 図 3-89 Mr. Steven's House     ベランダ側の窓からの眺め

LIVV

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Guest Rooom SIT: Sitting Room,

SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

148

図 3-90 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 2, ベランダの側面数 2; 物件番号 25; 3 Cottages East

図 3-91 3 Cottages East 玄関側 図 3-92 3 Cottages East    ベランダのシティングルーム

図 3-93 3 Cottages East:     主屋に設けられた通路兼シティングルーム

図 3-94 3 Cottages East ベランダのシティング     ルームに置かれる棚:家族の写真ととも     にマリアが描かれた宗教絵が飾られる

SITV

K

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

149

図 3-95 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 2, ベランダの側面数 2(2 部屋の間に通路);      物件番号 31; Former Wlilliam Hennigns House

図 3-96 Former Wlilliam Hennigns House 図 3-97 Former Wlilliam Hennigns House      ベランダのシティングルーム(玄関側)

図 3-98 Former Wlilliam Hennigns House     ベランダのシティングルーム(南側)

図 3-99 Former Wlilliam Hennigns House     図 3-97 と図 3-98 のシティングルーム    をつなぐ通路

SITV

SITV

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STSIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

150

図 3-100 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 3, ベランダの側面数 2; 物件番号 15; Duncan's House

図 3-101 Duncan's House 東側 図 3-102 Duncan's House     ベランダのシティングルーム

図 3-103 Duncan's House     ベランダのシティングルームからの眺め

図 3-104 Duncan's House ダイニングルーム

SITV

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SIT

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

151

図 3-106 Suli's House 玄関側 図 3-107 Suli's House     ベランダのシティングルーム

図 3-108 Suli's House ベランダからの眺め 図 3-109 Suli's House     主屋内のリビングルーム

図 3-105 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 3, ベランダの側面数 4; 物件番号 17; Suli's House

SIT

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

152

図 3-111 3 Cottages Middle 玄関側 図 3-112 3 Cottages Middle      ベランダのシティングルーム

図 3-113 3 Cottages Middle ダイニングルーム 図 3-114 3 Cottages Middle キッチン

図 3-110 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 4, ベランダの側面数 2; 物件番号 24; 3 Cottages Middle

SITV

K

D BR

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

153

図 3-116 Mr Robert Patterson's Residence     玄関側

図 3-117 Mr Robert Patterson's Residence      ベランダのシティングルーム

図 3-118 Mr Robert Patterson's Residence     ダイニングルーム

図 3-119 Mr Robert Patterson's Residence     キッチン

図 3-115 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 4, ベランダの側面数 3;      物件番号 26; Mr Robert Patterson's Residence

SITV

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

154

図 3-121 Sinclair's Residence 玄関側 図 3-122 Sinclair's Residence     ベランダのシティングルーム

図 3-123 Sinclair's Residence キッチン 図 3-124 Sinclair's Residence ベッドルーム

図 3-120 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 4, ベランダの側面数 4;      物件番号 39; Sinclair's Residence

SITV

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SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

155

図 3-126 Mr Steven's Family House 南側 図 3-127 Mr Steven's Family House     ベランダのシティングルーム(西側)

図 3-128 Mr Steven's Family House      ベッドルーム:キリスト教の宗教画が     飾られる

図 3-129 Mr Steven's Family House     建物中央に配され、空間を分割している壁

図 3-125 住宅建築の居住空間:主屋の部屋数 6, ベランダの側面数 3;      物件番号 30; Mr Steven's Family House

SITV

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BR BR SIT: Sitting Room, SITV: Sitting Room  (「シティングルーム」と呼ばれ、  ベランダに配される場所)BD: BedroomK: KitchenD: Dining room S: ShowerW: Bathroom ST: StorageEMP: Empty room

1 10m

156

1) 西山夘三(1967)など参照。

2) 例えば、趙聖民・布野修司(2007)など。

3) ナブエタキ氏(ナウオウオビレッジ在住の男性で、ツイ・レブカの親戚)Mr. Navuetaki へのインタビュー

から、ナウオウオ Nauouo、2007 年 10 月 16 日。

4) 太平洋島嶼地域において、元貿易船員であったが船での就労を中止して島嶼地域に滞在し、通訳や船修

理などを行いながら生活した人々。

5) National Archives of Fiji 所蔵 : Vital Statics - Colony of Fiji。

6) ただし布教活動で各集落に小グループの白人が滞在した可能性がある。

7) 2007 年センサス調査終了後、オバラウ島担当であった Health Department Levuka Office から情報を得た。

8) 前章で論述済み。(八百板季穂 2010)

9) レブカの領域は 1948 年に改正されており、改正前は、レブカビレッジとその北に位置するバガンダディ

地区を含んだ。よって、フィジー人人口の多くはレブカビレッジからのものによると推察できる。

19) インド人労働者を乗せた最初の船が来航した年。

11) ギブソン氏も、1930 年代には、日本人の経営する商店があったことを記憶している。ギブソン氏(元レ

ブカ市長)へのインタビューより,Len Wong Bakery でのロツマンコミュニティーの会にて,2009 年 10

月 29 日。

12) ギブソン氏(元レブカ市長)へのインタビューより,Len Wong Bakery でのロツマンコミュニティーの会

にて,2009 年 10 月 29 日。

13) アングリカン教会、Assembly of God、Latter Day Saints、7th Days Advantage の 4 教会。

14) Ms. Sahai へのヒアリングより。(Ms. Sahai's Residence にて,2008 年 8 月 13 日)。

15) ナショナルトラスト職員 Lydia Bower へのヒアリングより。2010 年 11 月 25 日。

16) ナショナルトラスト職員 Lydia Bower へのヒアリングより。2010 年 11 月 25 日。

17) ナショナルトラスト職員 Tabaki 氏へのヒアリングより。2010 年 11 月 25 日。

18) 2010 年現在は閉鎖されている。

19) 2010 年現在は閉鎖されている。

20) レンガブロックなどで縁を作り、その中に土を入れて植栽を施す際の縁部分を指す。

21) ハイビスカスの一種。フィジーでは葉っぱを茹でる、スープにするなどして食べる。

22) オバラウ島にはもう 1 つ港が整備されている。大型フェリーに関しては、運行スケジュールの関連から

そちらの港が利用される場合が多い。レブカから港まではフェリー会社のバスを利用する。

157

23) ヨットを岸から離れた場所に停泊させ、小型ボートで埠頭まで移動する。

24) PAFCO のツナ缶工場が近接しているため、工場から排出される汚水に魚が集まるとされており、大型の

サメなども見られると言われている。

25) 1872 年作成の図絵の注釈に American Consul 及び Consul とのみ記載される場所がある。アメリカ領事館

と、 もう一方はイギリス領事館と推測される。

26) 2009 年、暫定政府は都市指定されている行政区の組織改革を行い、「市長」という役職を廃止し、代わ

りにスペシャル・アドミニストレーターを派遣している。市長が都市住民の中から選出されることに対

し、スペシャル・アドミニストレーターは中央政府側から派遣される。レブカの場合は、本島のナウソ

リ出身者であり、ナウソリのスペシャル・アドミニストレーターがレブカのスペシャル・アドミニスト

レーターも兼用しているため、レブカに実際に滞在するのは週に 2 日程度である。

27) カトリック系列の中等教育施設は、オバラウ島内の別地区、ザワチ Cawati 地区に設置されている。

28) レブカのロツマ人会の人々のほとんどが、教育目的でレブカに移住してきた人々である。その他、ツバ

ルからの移住者も存在する。

29) Mr. George Gibson。彼はフィジー人ではなくロツマ人であるが、5 才の時に良い教育を受けるためにレブ

カに移住した。当時は、LPS へ通うために白人の名前を持っている方が有利であったため、移住して以

来この白人名を姓名としている。

30) Ms. Sandys へのヒアリングより。2010 年 11 月 12 日。

31) Ms. Sandys へのヒアリングより。2010 年 11 月 12 日。

32) 住宅は Powell 一家の所有である。2008 年 8 月 11 日、Baptist 教会における Mr. Case へのヒアリングより。

33) タウンカウンシル職員である Ms. Christina Murgan へのヒアリングによる。2010 年 11 月 15 日。

34) ナショナルトラスト職員である Mrs. Bower へのヒアリングによる。2010 年 11 月 19 日。

35) 歴史的建造物の居住者に対する住み方調査時のヒアリング調査結果に加え、非歴史的建造物居住者に関

する情報をカトリック教徒の Mr. Fong 氏にヒアリングした結果から得た。

36) Government Quarters。LPS の職員住宅。

37) ビリヤードの一種。

38) ニコレット・ヨシダ夫人へのインタビューによる。オープンベランダの室内化の結果、2 階の風通しが

悪くなったそうである。

39) ニコレット・ヨシダ夫人へのヒアリングより。

40) Mr. Gibson へのヒアリングより。

41) この物件は、公共的建築でも説明しているナソバハウスである。現在は住宅として利用されるため住宅

158

建築調査の対象としている。

42) 天井の鋳造の装飾が、コンクリートの壁の両側に位置する部屋の一方の天井中央にのみ設置される点、

復原すると壁がなく、両側の部屋が 1 つの部屋として利用されていたと考える場合、その部屋の天井中

央にあたる場所には装飾の痕跡が見られない点から、壁はオリジナルのものである可能性がある。その

ため、詳細な履歴調査による確認が必要である。

43) オバラウ島北部のザワチ地区に建てられる、カトリック教会系の学校。

44) ロボニ集落でのエコツアー Epi's Tour 参加時の、Epi 氏へのヒアリングより。2009 年 10 月 28 日。

第 4章

都市遺産観光開発の現状と課題

159

第 4 章 都市遺産観光開発の現状と課題

4-1 はじめに

レブカの都市遺産保全は、遺産そのものの保全や地域住民の精神的な向上と共に、観光

開発による地域の発展という目的を持つ。1970年代終わりからこれまで、世界遺産登録

に向けて主に地元住民及びフィジー政府によって継続的な努力がなされてきたが、国内の

専門家不足と国外の援助団体の継続性の欠如によりその努力は実っていない。

そこで、本章では、前章までに把握したレブカの都市遺産としての総合的価値の保全の

現状及びそれを資源とする観光開発の現状について考察し、都市遺産観光開発を通した地

域の発展に向けた課題を明確にする。

まず、遺産保全と観光開発に関するステークホルダーの活動の経緯を、現地踏査による

既往文献と資料収集、関係者へのインタビューを元に分析する。分析する上で、それらに

関する主要なステークホルダーである地域住民、フィジー政府及び海外支援団体を軸とし

て分析する。ただし、レブカタウンカウンシルについては、現在のスペシャルアドミニス

トレーターを除いてはレブカの住民であり、地域側の意思決定機関でもあるため地域住民

に含める。

遺産保全の状況については、まず歴史的建造物の保全に関する法制度を把握した上で、

景観保全の現状を、第 2章で明らかにした都市空間の形成で明確になった地区ごとの特徴

から分析した。さらに、地域住民の生活状況について、センサスデータやヒアリング調査

を元に分析、考察した。

観光開発の現状については、国際文化観光憲章で提唱される原則の内容に従って現地踏

査による観察及びヒアリング調査の結果を分析した。

また、歴史的建築物の居住者の遺産保全及び観光開発に対する意識を、アンケート調査

から把握、分析した。調査は、筆者が参加した 2006年の財団法人ユネスコアジア太平洋

文化センター Asia-Pacific Cultural Centre for UNESCOの大学生交流事業の一環で行われた。

ただし、調査票の作成、配布、回収、分析は筆者が行った。対象は、HR(HJM Consultants

PTY LTD 1994)にリストされている建築の内、住宅に分類されている建築の所有者または

管理者とした。そして、該当者の住宅を訪問し、アンケート票を配布した。回収も住宅を

160

訪問して行った。50世帯に配布し、40部回収できたので、回収率は 80%であった。

161

4-2 都市遺産保全と観光開発の取り組み

4-2-1 これまでの取り組み

(1) 地域住民

港町であるという特性により、レブカは都市の成立当時から国内外から訪問者が訪れる

観光目的地であった。1880年代からレブカで営業していた商店 1がレブカの都市景観を撮

影した写真を表紙とする葉書 2を販売されていたことからも、訪問者及びレブカの住民が

都市の景観に美的価値を見いだし、楽しんでいたことが読み取れる 3。また、1959年には

イギリス海軍の調査船 4の乗員が保養のために訪れており 5、レブカは都市の成立以来観

光目的地としての性格を醸成してきたといえる。商用の訪問者が多いという傾向は貿易が

好調な間は継続したが、コプラ貿易の終焉による都市の経済の低迷はホテルの集客にも影

響することとなった。

そうした背景のなか、1960年代にレブカの住民のなかでレブカの遺産保全に関する議

論が始まった。住民グループが、レブカの歴史やその歴史的建造物群の観光目的地として

の可能性に着目し、住民グループを中心に Levuka Historical Associationという非公式な会

合をもち始める(窪崎,八百板,西山 2008:p.385)。

1977年には地域住民による Ovalau Tourism and Promotion Committeeが設立され、これは

1年後の 1978年に Levuka Historical and Cultural Society(以下、LHCS)と改名して存続す

る(Harrison 2004:p.212)。同組織のリーダーでもあった Victor Carell氏の尽力により、ナ

ショナルトラストに寄贈された MHBuilding(現在のコミュニティセンター)修理のため

の 6万フィジードル以上が集められた。さらに LHCSは Back to Levuka Weekを設定し、こ

れを後に Back to Levuka Festivalと改めて都市経営や歴史的建造物保全のための資金集め

も行ってきた。この祭りは 1982年から始まり、一時は 16,000フィジードルもの資金を得

ることができたが、2000年までには赤字に転じ、その後人材や資金の不足によりタウン

カウンシルによる運営が困難となり、休止を余儀なくされた(The Local Case Study Team

2000:p.46)。

1992年には、閣議決定で Levuka Conservation Committee(LCC)が設立される。この組織

は、後述の Pacific Asia Travel Association(PATA)の報告やタウンプラニングスキームにお

162

ける提案を実行するために設立されたものである。また、オーストラリア政府がレブカの

住宅の修理を援助するために 2万 5千フィジードルの寄付を行った際の基金管理も行った。

基金の運用は、LCCを通じて住民に 5千フィジードルの長期低利貸付を行うという内容

であった。

1999年には、Levuka Conservation Committeeに代わって Levuka Heritage Committee(LHC)

が新設される。LHCは、地域住民の代表及び政府側のヘリテージマネジャー、ロマイビ

チ州政府職員らによって構成され、レブカにおける遺産マネジメントに関する議題につい

て定期的な会合のなかで議論することを目的として設立された。また、この委員会を通し

て世界遺産登録を進めることも目的であった。しかし、現在の会議は、大きな会議を除く

通常の会議は地域住民及び文化遺産局のレブカ支局職員のみが参加する状況で、本来の目

的通りには機能していない。タウンカウンシルに市長と議会が置かれていた 2009年まで

はタウンカウンシルも LHCの会議に参加していたが、現在のスペシャルアドミニストレー

ターは全ての会議に参加可能な訳ではない。LCCが解散しているため、住民組織の意思

決定機関ではない LHCのみが住民の手に残された上、通常の会議もメンバーが揃わない

ため何も議決することができない状況が続いている。

さらに、2001年には LHCSが南太平洋大学と連携して地域住民の視点からレブカの歴

史や歴史的建造物、都市の生活などについて記述した Levuka: Living Heritageを出版してい

る。

2004年には、後述の UNESCOバンコクによる地域努力と保存 Local Effort and Preservation

(LEAP)プロジェクト 6に対しカトリック教会の正面に位置するファザーズワーフ Father's

Wharfの復元的整備を提案し、同プロジェクトから予算も得ている。この際に、Father's

Wharf Committeeというファザーズワーフ復元的整備事業のための委員会も設置した。し

かし、文化遺産局から世界遺産登録に関する整備方針が決定するまでプロジェクトを停止

するように通達されたまま、2010年に至っている。

2005 年頃、LHCS のメンバーが非公式ではあるが Levuka Tourism Association(以下、

LTA)を設立した。LHCS の前身 Ovalau Tourism and Promotion Committee の名称にもみら

れるように、レブカでは遺産保全と観光開発が一体のものとしてタウンカウンシル及び

LHCS、LTAに共通のメンバーで進められてきた。ところが近年に入り、LTA及びタウン

カウンシルのメンバー構成に変化が起こり、遺産保全と観光開発をめぐる状況にも変化が

起こっている。まず、LTAについては、1990年代終わりごろから移住し、レブカやオバ

163

ラウ島内で宿泊業などの観光関連業を営むオーストラリアなどからの移住者がメンバーに

加わった。そして、彼らの行動力や発言力から次第に主導権を握るようになり、規約の設

定などの成果があがる一方で、次第に初期からのメンバーとの間に軋轢を生むようになっ

た。LTAの設立時からのメンバーであるロイヤルホテルは現在も LTAに所属はしているが、

会議にはほとんど出席することがない。こうした背景から、現在の LTAの実質的なメン

バーにおけるレブカ出身者は、マリッズロッジという宿泊施設を経営する中国系フィジー

人のみである。現在の議長はこのマリッズロッジの経営者の次女と内縁の夫に当たる島外

出身のフィジー系フィジー人である。しかし、2009年の世界遺産登録関連の海外コンサ

ルタントの訪問時に文化遺産局が面会を求めたのは当時の書記であり、2008年までの議

長であったオーストラリア人ホテル経営者であることからも、実質的な発言力や指導権は

このホテル経営者が有すると周囲が認識していることが読み取れる。さらに、それまでタ

ウンカウンシルがLHCSとの連携のもとに開催してきたBack To Levuka Festivalについても、

2008年以降はタウンカウンシルとの連携はなされずに LTAが独自に企画・推進し、それ

に合わせてフェスティバルの名称を Old Capital Festivalと改名し、さらに本来の主要な目

的の 1つであったタウンカウンシルの資金増加はフェスティバルの目的から排除された。

"Back to Levuka"は、海外からの訪問者へはレブカが首都であった時期を思い起こさせる

意味で、また国内からの訪問者へはレブカが貿易、教育、スポーツ、そして社会の中心であっ

たことを思い起こさせる意味で命名されたとされる(The Local Case Study Team 2000:p.46)。

このため、Old Capital Festivalではこめられた全ての意味を継承することができないことが

指摘できる。一方で、LTAは、オバラウ島内の集落におけるエコツーリズムに着目し、独

自の資源調査を進めつつ、国内リゾート地区や首都からの直行便を確保するために航空会

社との交渉も積極的に試みるなど、観光促進に向けて努力をしてきた。しかし、その規約

には遺産観光という文字はなく、エコツーリズムとダイビングの推進、集落や離島へのツ

アーの促進を掲げている(The Levuka Tourism Association 2008)。このことからも、現在の

LTAは遺産保全よりも観光開発を重視していることが指摘でき、以前のように遺産保全と

観光開発の一体性が損なわれていると言える。また、タウンカウンシルについては、2008

年にそれまでの議会制が撤廃され、中央政府から任命されたスペシャルアドミニストレー

ターとタウンクラークにより運営されることとなった。この 2人は両者ともレブカ出身で

はないため、それまでの経緯なども引き継ぎ時にヒアリングが行われた内容から知るのみ

である。

164

(2) フィジー政府

1986年、タウンプラニング法に基づきレブカタウンプラニングスキームが施行され、

土地利用に関する規定が定まる。この制度の概要については後述する。

政府側からは同スキームを施行した都市計画局 the Department of Town and Country

Planningの、地域側からは LHCSの主導により、1987年にはフィジーにおける初めての試

みとしてレブカの歴史都市宣言を行う。

また、1990年にフィジーは世界遺産登録に批准し、この際にレブカは他の 3つの候補

地とともに暫定リストに掲載されている。

1997年、フィジー博物館が UNESCOバンコクとの協同のもと「第 3回グローバルスト

ラテジー会議」を開催する。そして同年、地方開発省 Ministry of Local Governmentのもと

に UNESCO World Heritage Steering Committeeを組織する。1998年にこの組織の所属が女性・

文化省 Ministry of Woman and Cultureへ移管し、翌年、女性・文化省、ナショナルトラスト、

フィジー博物館、レブカタウンカウンシルが UNESCO World Heritage登録の現状について

公のワークショップを開催した。1999年に LHCを新設しているが、方針決定への地域住

民の関与を目的に設立されたが、前述の通りその目的通りに機能していない状態である。

2001年、ナショナルトラストが世界遺産広報プログラムを始める。2003年 9月、フィジー

政府が Fiji National Committee for World Heritageの設立に同意する。この委員会のメンバー

にはレブカ側の LHCメンバーも含まれるが、会議自体は現首都スバで行われるため、そ

の他の地域住民が会議に参加できる機会はない。筆者は 2007年の会議に参加したが、こ

の際は当時の LHCのチェアマンであった Gulabdas & Sonsの店主が同会議に参加していた。

しかし、彼に与えられた発言の機会は一度のみであり、立場上 LHCの代表としての意見

を求められることになる。そのため、政府の高官が列席するなかで地域住民の代表として

地域側の意思を伝えることは難しいと考えられる。

2004年、ナショナルトラストが主導し、オーストラリアの Deakin Universityが世界遺産

登録書類の一部として提出される比較分析 Comparative Analysisのための調査が開始され

る。これについては、2007年に完成版が提出されている。また同年より、世界遺産会議

への参加を開始している。

2006年、フィジー博物館が世界遺産登録申請を行うが、内容が不十分であったため見

直しを求められる。提出時にレブカ住民に対する地区設定の考え方や保全の方針が説明さ

れることなく、登録が見送られた理由についても同様であった。また、同年に世界遺産関

165

連の政府側担当が文化遺産局へ移管する。そして、文化遺産局のレブカ支局がタウンカウ

ンシルの建物内に設置され、職員 1名が勤務することが決定した。これは、2010年現在

まで続いている。この職員派遣の目的は、主にオバラウ島内の集落へ理解を求めるためと

されているため、職員はそれらの集落におけるワークショップや会議の開催を重点的に

行っており、レブカタウン内の住民に対して政府側の進捗状況を説明するためのワーク

ショップなどは開かれない。一方で、レブカの住民は同職員が政府側の代表としてレブカ

タウンに住み込み、レブカタウン内で必要な業務遂行や地域住民とのコミュニケーション

の促進を目的として来ていると考えている 7。よって、地域住民側にとってはレブカタウ

ン内での活動を中心としない同職員の業務内容やその目的は不明確であり、信頼関係が構

築されているとは言えない。また、現状では地域住民側の意向を政府側に伝えつつ、反対

に政府側の活動や意向を地域住民に伝えるという機能を果たす機関は設けられていない。

2008年には、文化遺産局がオーストラリア及びニュージーランドのコンサルトタント

にそれぞれ遺産マネジメント計画及び観光マネジメント計画の策定を依頼している。ま

た同年、文化遺産局の世界遺産登録担当チームにフィジー人で、政府の公共施設整備局

Public Works Departmentに勤務していた建築家が加わっている。これらのコンサルタントも、

実地調査を中心とせず、既往の調査資料をとりまとめるという方針であるためレブカタウ

ンに長期滞在しながら住民の意向を反映するという方針ではない上に、住民説明会も遺産

保全計画及び観光マネジメント計画案策定の前後に 1回~ 2回程度を予定するのみである。

その間に文化遺産局が説明会を催す予定もない。そのため、地域住民の計画策定段階への

十分な関与が実現できているとは言えない。

さらに 2009年には、フィジー人の法律家が世界遺産登録チームに加わっている。また、

同年タウンカウンシルがレブカにおける観光と遺産の関連性に対する意識を高めるため

の会議を主催し、観光省長官、環境省長官、文化遺産局長、フィジー政府観光局 Tourism

Fijiの議長などを招待した。この会議において、筆者は筆者らの研究グループが 2007年よ

り地域住民や文化遺産局と協議してきたエコミュージアムコンセプト 8に基づく遺産保全

と観光開発についてのプレゼンテーションを行った。本会議において観光省からの支持も

得られたが、支援に関してはレブカの遺産保全及び観光マネジメントに係る事項の決定権

を有する文化遺産局の判断を待つということであった。プレゼンテーションの内容は、日

本における先進事例を参照しながらエコミュージアム構想について説明するものであり、

LHCチェアマン、LTAチェアマン、タウンカウンシル、現在レブカの全ての教会をとり

166

まとめているアセンブリーズ・オブ・ゴッドの牧師、レブカビジネスコミュニティなどか

らの署名なども得て実質的な指示を得ているものでもある。そして文化遺産局スタッフも

支持してきたものであり、スタッフより年度内予算がその実現のために使える可能性があ

るという情報を受けた提案であったが、文化遺産局長の判断で採用されなかった。レブカ

では世界遺産登録に関する計画など諸案件が整理されるまで基本的に新規事業は行わない

という判断は一方で妥当であると考えられる。しかし、前述のファザーズワーフの修復事

業と同様、慎重すぎる判断とボトムアップの意思を尊重しない態度は、住民の意欲や積極

性を減退させる結果を招きかねず、後述する住民意識調査では住民が長年の努力にも拘ら

ず世界遺産登録が現実にならないことや、プロジェクトの実施に対する許可が下りないこ

とに対し、意欲を喪失しつつあることも明らかになっている。

(3) 海外支援団体

1980 年代に入ってからは、レブカの観光目的地としての価値に着目した Pacific Asia

Travel Association(PATA)によって専門家派遣調査が始まり、レブカの世界遺産登録の可

能性が報告される(窪崎,八百板,西山 2008:p.387)。1985年には、PATAによる報告書

が作成されており、遺産保全の資金源としての観光の可能性を提示している(Pacific Asia

Travel Association 1985)9。さらに、1989年には Asian Development Bankにより観光マスター

プランも作成されている(Copers & Lybrand Associates 1989:p.113)10。

そして 1994年、PATAの出資によりオーストラリアのコンサルタントが遺産保全のため

の提言及び建造物群のリストから構成される HRが作成される。

また、同年、PATAの支援によるヘリテージアドバイザーの派遣が始まり、2000年まで、

3次に亘って行われた。第 1次派遣では、アメリカ人でハワイの歴史保全などの経験のあ

る建築家が派遣され、第 2次ではアメリカ人の建設関連業従事者、そして第 3次ではイギ

リス人の組織形成を中心とした海外支援の専門家が選出された。なお、3人目のアドバイ

ザーは派遣期間が終了した現在もレブカに住み続けている。

さらに 1997年、UNESCO World Heritage Global Strategy Meetingの第 3回会議がフィジー

の首都スバで開催され、フィジー博物館及びフィジーナショナルトラストが運営した

(UNESCO World Heritage Center 1997)。そして同年、国内の世界遺産関連事業の責任がフィ

ジー博物館から当時環境省の下部組織と位置づけられていたフィジーナショナルトラスト

へ移管された。

167

さらに、1999 年には UNESCO バンコクによる LEAP の一環として「文化遺産マネジ

メントと観光:ステークホルダーの協同のためのモデル Cultural Heritage Management And

Tourism: Models for Cooperation Among Stakeholders」という事業の 8つの対象地 11 の 1つに

レブカが選ばれた(UNESCO Bangkok, 2010)。事業の報告書(UNESCO 2004)によると、

当事業は 1999年から 2003年にかけて実施され、成果としてそれぞれの対象地に対する開

発及び実施戦略が立案されたとされる。

また、タウンカウンシルに、国際協力機構(JICA)から 2002年から 2006年まで 2次に

渡り協力隊が派遣された。遺産保全の専門家としてではなく一般建築職としての派遣で

あったため、主な職務はインフラ施設の整備などであったが、ワークショップのコーディ

ネートや工作物の復原案、緑地の整備案の提出、歴史的建造物を示すサインの整備などを

行っている 12。

4-2-2 取り組みにおける課題

以上に主要なステークホルダーによる活動の経緯を整理した。そういった諸活動が継続

されてきたにもかかわらず、フィジーの世界遺産条約批准から 20年を迎える現在も登録

は実現していない。実現のための課題を、ステークホルダーの協同という視点から指摘し

たい。

まず、各ステークホルダーの特徴を分析する。

地域住民に関しては、観光による地域活性の視点から 1960年代に遺産保全の構想が始

まった。1977年に設立された住民組織である Ovalau Tourism and Promotion Committeeがそ

の 1年後に Levuka Historical and Cultural Society(LHCS)と改名して継続された点にも、地

域住民にとっては遺産保全と観光開発が一体のものとして取り組まれていたことが読み取

れる。その後、様々に統廃合を繰り返し、名称を変更しながらも、地域住民としての活動

が途切れることなく現在まで継続されてきたことが特徴であるといえる。一方で、レブカ

タウンカウンシルは公的機関として、国や各種援助団体と住民との媒体という役割を担い

ながらも、地域住民の代表として、またカウンシルの職員それぞれが一人の地域住民とし

て遺産保全と観光の促進に取り組んできた。しかし、財政的基盤が弱く、遺産保全に関す

る物理的費用、また知識や技術の向上のためのトレーニングなどへの参加費用について

168

は外部からの資金援助に頼らざるを得ない状況である。しかし近年になって、LTAのメン

バー構成及びタウンカウンシルのメンバー構成の変化から、遺産保全活動と観光開発活動

の間、また地域住民とタウンカウンシルの意識の間に乖離が見られることが指摘できる。

フィジー政府は、1980年代後半から都市計画手法の導入と世界遺産登録への取り組み

を始めている。しかし、タウンプラニングスキームの導入以外の主な内容は国内外での会

議への出席及び開催であり、歴史的建造物の修理のための予算確保や保護法の整備への努

力が十分であったとは言えない。その要因として遺産保全はレブカが初めてのケースであ

り、国内に専門家が育成されてこなかったことがまず挙げられる。また、経緯の整理から

読み取れるように、政府内の担当機関の変更、また担当機関を管轄する省の変更が知識の

蓄積や事業の継続を困難にしていると考えられる。

海外支援団体の取り組みについては、これまでにレブカに大きな影響を及ぼしてきた組

織に PATA及び UNESCOが挙げられる。この 2つの組織の事業は、資金的裏付けがあるた

め、途中で放棄されることなく履行されてきた。なかでも、PATAによるヘリテージアド

バイザーの第 1次派遣は、遺産保全の専門家がレブカに入っているため、地域の実情を把

握した上で報告書をまとめ、提案を行っている点で評価できる。一方で、UNESCOによ

る国際ワークショップについては、一般的な知識は得られても、参加者の有する知識や経

験、フィジー政府の法制度の整備状況に合致した内容にはなり得ないため、得た知識を実

践の場でいかせていないといえる。また、双方に共通することは、事業の継続性がないた

め、どの報告書も課題を指摘するにとどまり、その克服のための事業が展開されない。

以上のステークホルダーについて総合的に考察すると、まず、地域住民と海外支援団体

が遺産保全と観光の相互依存性を明確に認識しているのに対し、政府レベルでは文化遺産

局と観光省の連携がとれていないといえる。世界遺産登録は文化遺産局の主導で行い、観

光省はそのサポートを行う体制が整えられているが、文化遺産局が具体的な要請をしない

ため、観光省も行動できないという状況が続いている。また、LCCが存在した 1990年代

は、歴史的建築物の現状変更申請について、ナショナルトラスト、LCC、都市計画局によ

る許可を得るシステムが機能していた。すなわち、地元住民組織である LCCが現状変更

申請に対する権限を有していたが、政府側の判断で現在の LHCに改名して以来、その権

限は消失し、地元としてはタウンカウンシルのみが関与できることになっている。これに

ついても、再び政府側が LHCの権限について承認する必要があり、地域住民だけでは変

更することができない。さらに、文化遺産局のレブカ支局の目的が周辺集落への理解促進

169

と設定されているため、レブカの遺産保全にとって何が必要かを把握する業務内容になっ

ておらず、レブカの住民との連携や意思の疎通が十分に行われているとはいえない状況で

ある。これらのことから、こうした不一致を合致させるため、地域住民間のみならず、政

府及び海外支援団体との連携を担う機関が必要であるといえる。

レブカでは、地域住民、政府、海外支援団体が遺産保全と観光開発に関する主なステー

クホルダーである。地域住民には遺産保全の意思があるが、専門家及び資金が不足してい

る。本来、地域住民主体による遺産保全及び観光開発を支援する立場にある政府と海外支

援団体であるが、政府に関しては景観コントロールに関する地域住民の主体性を発揮する

ことが困難になるような組織編成を改善せず、世界遺産登録に関する作業については海外

のコンサルタントと地域住民との間の連携を推進する立場にありながら十分に果たされて

いるとはいえない。「国際文化観光憲章」に示される、「地域住民 host communityと先住民

の遺産保全と観光に関する諸計画策定作業への関与」という原則が守られていないことが

指摘できる。また、海外支援団体に関しては、「アフリカにおける世界遺産と持続可能な

開発についてのヨハネスブルグ宣言」(World Summit on Sustainable Development Parallel Event

on World Heritage in Africa and Sustainable Development 2002)で示される「地域住民や支援対

象国の実情を考慮した支援」が履行されず、ワークショップなども画一的なプログラムの

下で進行されるため、地域住民の実質的な知識や技術の向上に繋がっていないことが指摘

できる。いずれのステークホルダーも、地域住民のための遺産保全であり、支援プログラ

ムであるという意識が低いといえるであろう。

170

4-3 都市遺産保全の現状

4-3-1 制度の整備状況

現在、フィジーには文化遺産保全に関連する法制度として「都市計画法 Town Planning

Act 」(Fiji Government-1 1929)、「フィジー博物館法 Fiji Museum Act」(Fiji Government-2

1929)、「考古学及び古生物学的財産の保存法 Act of Preservation of Objects of Archaeological

and Palaeontological Interest」(Fiji Government 1940)、「ナショナルトラスト法 National Trust

Act」(Fiji Government 1970)が施行されている。ただし、どの法律もこれまでに改定され

ている。

1929年に成立したフィジー博物館法及び 1970年に成立したナショナルトラスト法は、

それぞれの組織の運営や組織構成について規定している。さらに、ナショナルトラスト法

では非営利組織としての基金の運用についても規定している。

1940年に成立した考古学及び古生物学的財産の保存法において「考古学及び古生物学

的財産」について定義されており、その内容には「構造物、建造物、記念物、ケルン 13、

埋葬地、井戸、塹壕、要塞、灌漑地、古墳、発掘地、洞窟、岩、壁画、絵画、彫刻、碑文、

モノリス 14、これらの残存物、人類及び動植物の化石もしくはそういった化石を含む地層、

いかなる考古学的、人類学的、民族学的、先史及び有史時代の物質、考古学もしくは古生

物学的財産が発見された、もしくは存在する土地、そうした土地を囲む、カバーする、あ

るいは保存するために必要な土地、そして考古学もしくは古生物学的財産へのアクセス手

段及び便利な調査」15が含まれる。単体の構造物や建造物などが含まれ、またそれらが建

てられる土地とすることで建造物群の面的な保全にも適用できるが、「景観 landscapes」や

「建造物群 groups of buildings」といった概念は示されておらず、主に遺跡や遺跡調査から

発見される建造物その他の物質を対象としていることが読み取れる。これは、同法律が最

後に改定された 1978年当時、レブカの歴史的建造物群保全に対するフィジー政府の意識

が低かったことを意味すると考えられる。その他にも同法では調査を行う際の許可制度、

危機に直面している物件の強制買収、一般人の物件へのアクセスの権利などについても言

及している。

都市計画法は、土地利用計画、交通計画、都市公園の配置計画などを定めるための根拠

171

法である。レブカでは、1986年に同法に基づいてタウンプラニングスキームが計画された。

同スキームではレブカの都市域を「住宅地」、「商業地」、「郊外」、「特別区」、「一般工業地」、

「公有地」、「公的オープンスペース」にゾーニングしている。また、「レブカタウンプラニ

ングスキーム一般規定 Levuka Town Planning Scheme General Provisions」では各ゾーンの用途、

建築物の正面、側面、背面のセットバックや階高、建蔽率について定めている。その他、

サインについて大きさやネオンの使用及び駐車場の規模についても規定する。

しかし、「レブカタウンプラニングスキーム一般規定」の目的はあくまで秩序ある開発

を行うための土地利用に関する規定を定めるものであり、歴史的建造物群の保全を主要な

目的としていない。よって、建築意匠や配置については、「タウンカウンシルや政府が指

名する建築家、もしくは都市計画局長による改善の要求がなされる場合がある」とされ、

歴史的または建築的価値を有する建築物の保存に関しては、「タウンカウンシルもしくは

都市計画局長がナショナルトラストとの協議の結果必要と判断した場合にはその物件の保

存を命じる」と定めるのみである。例えば、歴史的建造物として価値がある物件のリスト

が付記されず、新築物件や歴史的な意匠をもたない物件に対する設計方針、それらの建築

物についての材料や色についての規定、建築物以外の歴史的要素の復旧計画についての言

及もない。

ただし、スキーム策定の目的には将来の土地利用において必要となる項目を明らかにす

ることも挙げられており、これに対応して「将来計画のための陳述 Scheme Statement」が

作成されている。同陳述書では、提案の第一項目及び第二項目にレブカの歴史都市として

の宣言及び保全地区の布告を挙げており、前述のレブカタウンプラニングスキーム一般規

定では言及されない部分を補完している。ただし、同陳述書で示される項目はあくまで提

案であり、その実施に関してはタウンカウンシルが関連省庁との協議のもと推進するとさ

れる。その他に、公的な保護施策、インベントリーの作成、新築及び現状変更計画の確認

工程の確立、税金の優遇措置、市民の教育、重要性に基づく物件の分類、歴史地区の範囲、

条例の制定とそれに基づく建築高、色、建材、サインなどの関する規制の実施、許可制度

の工程などについて提案されている。また、観光に関しても顧客層の異なる宿泊施設の増

加や観光インフラ施設の整備、工芸品及びデザイン性の高い写真やスポーツグッズなどの

生産と提供、イメージの改善及びプロモーションの促進などが提案されている。

この内、これまでにインベトリー作成の一環としてHJM Consultants PTY LTDによる調査、

レブカ市民及びオバラウ島内集落民に向けのワークショップが行われた他、近年までは許

172

可制度の運用もなされていた。一方で、世界遺産登録にも不可欠であり、歴史的建造物群

の保全の根幹をなす修理及び修景に関する方針は示されない。

2006年には、ACCUの大学生交流事業の一環で、筆者を含む九州大学のチームとフィジー

の大学生による建築、景観、地域社会に関する共同調査及びワークショップが行われた。

また、2008年度より海外のコンサルタントに委託し、遺産保全のための法整備及び遺

産マネジメント計画と観光マネジメント計画の策定に着手している。オーストラリアのコ

ンサルタントが法整備を担当しており、その代表者は、HJM Consultants PTY LTDの HR作

成時のチームメンバーである。そのため、少なくとも 1994年頃のレブカの様子について

は知っている。しかし、2つのマネジメント計画策定を担うニュージラーランドのコンサ

ルタントは、その代表者が草案を作成する前に 3日間レブカを訪れた他、以前観光客とし

て数日滞在したのみで、他のメンバーはレブカを訪れていない 16。また、マネジメント計

画作成については、これまでに提出されてきた報告書内の提案内容をまとめ、草案策定後

にレブカ市民向けの説明会を開催する方針である 17。しかし、レブカでの調査や人々との

意見交換なくして地域の実情に沿った草案が作成されるとは考え難い。この問題について

は、前述の代表者の 3日間の滞在中の説明会において、参加者 18 から「どの程度私たち

の立場に立っているのか」という質問が出た際、「私たちは地域住民の意思を尊重するの

で、今後ワークショップを開催します」といった回答しかできず、実際に彼らがどの程度

住民の立場に立って考えているのかという質問に直接回答しなかった事実から住民が既に

不安を感じていることを読み取ることができる。

4-3-2 遺産保全の現状

(1) 地区別の残存状況

a. レブカビレッジ地区

レブカタウン領域の最北端、レブカクリークとレブカ・コロ・メソジスト教会南を東西

に走る小道で限られる地区は、行政地区上はレブカタウンに含まれるが、コミュニティ自

体はレブカビレッジに属する(以下、地名に関しては p.200,図 4-1を参照)。フィジー・ラッ

シュ期の 1968年、レブカ・コロ・メソジスト教会が建てられた。敷地が南北の中心線で

173

分かれる三角形の敷地 2筆から構成される。レブカ・コロ・メソジスト教会は現在もレブ

カビレッジの住民のための教会として利用されており、布教活動期の歴史とフィジー・ラッ

シュ期の景観を伝える。古写真に、寄せ棟造りの平屋、草葺きのように見えるがブレと比

べて軒の出が浅く、開口部に窓格子が確認できる、イギリスの民家風の建築物が教会の西

隣に建てられるが、現在は滅失している。同写真では生垣による土地境界の形成が確認で

きるが、これも現在は滅失している。図絵や古写真を用いてこれらの景観構成要素の復原

を行うことにより、地区の歴史や空間、景観の特性を顕在化させることが可能である。

b. 北ビーチストリート地区

レブカビレッジ地区の南側境界である小道を北端、ミッションヒルロードを南端とし、

ビーチストリート沿いに並ぶ敷地を含む地区である。ニウカンベとその西側の敷地は小高

い丘であるが、それ以外は平地である。北端に Buca(湿った土地)及び海側に迫り出し

た丘 Niukabe(意味は不明)という古い地名が残る。ビーチコーマー時代から白人が居住

し、その後の布教活動期から西洋風建築が建てられ始め、フィジー・ラッシュ期及びザコ

ンバウ政権期には店舗や倉庫、ホテル、事務所建築などが連続して建ち並ぶ都市の中心地

が形成された。1895年の台風後、アングリカン教会と病院が空間の中で大きな割合を占め、

その周囲に店舗建築が、ニウカンベ西側には小規模な住宅が建てられた。病院と教会の敷

地となった箇所は、それ以前は分割していた敷地が統合され、規模の大きい敷地を形成し

ている。それらの敷地の北側には、不揃いで長軸と短軸の長さが極端には変わらない敷地

が並び、南側には間口が狭く奥に長い短冊状の敷地が規則的に並ぶ。現在も教会がランド

マークとなり、その他の病院、ベーカリーの店舗建築、パタソンシッピングの事務所建築、

住宅建築が継承され、台風後の都市の安定期の景観を伝えるが、フィジータイムス事務所

を含む古写真に見られる多くの店舗建築と事務所建築が滅失している。現存するアングリ

カン教会や病院の保存対策を行い、さらに、地区北部にブレ形式の住宅や桟橋、南部に2

階建ての公共建築やホテル、事務所建築などを古写真に基づき復原することにより、ビー

チコーマー期から首都期までの歴史を伝える景観の回復が可能である。

174

c. デラナ及びミッションヒル地区

北はレブカビレッジ地区と、南はニンガウ及びカランバ、東はビーチストリート北地

区と接し、西はレブカタウン領域線で限られる。学校敷地となっている Delana(「~の上」

の意)、Qaranitoa(鳥の家)、教会敷地となっている Navoka(意味は不明)という地名が残

る。布教活動期にツイレブカからメソジスト教会に与えられた土地であり、現在もその大

部分が教会の所有地である。フィジーラッシュ期からザコンバウ政権期にかけて規模の大

きい住宅建築が建設された。また、現在のデラナ高校運動場は、以前競馬場として使われ

た 19。地区の中央、ナボカ教会の南側から 199stepsと呼ばれる石段が斜面に沿って直線状

に配され、それに連結した小道が地区西側の高台まで続く。地区西側にはデラナ高校のグ

ラウンドを含む大規模な敷地があり、その敷地に囲まれるようにして、直線的な敷地形状

をとる住宅敷地が並び、その東側にデラナ高校の比較的規模の大きい敷地、さらにその南

側には直線で象られるがそれぞれの敷地形状は統一されない敷地が続き、199stepsの南側

には比較的規模や形状の揃った住宅敷地が連なる。布教活動期に建設されたメソジスト教

会、フィジー・ラッシュ期もしくは首都期に建設されたサンディ家及びデラナ高校教員住

宅、ミッションヒルの 199stepsがそれぞれの時代の歴史を伝える。1895年の台風の前まで、

主に住宅建築で構成されていたデラナは、現在デラナ高校の新校舎や新寄宿舎で構成され

る景観へと変化し、建築の規模が大きく変わっている。また、2009年に布教活動期に建

てられたと伝わる高校校舎が取り壊されている。古写真を用いて、煙突を設置する建築や、

切妻造りの平屋を 3棟連結させたような建築などを復元し、住宅建築を中心とした景観を

回復しながらも、それらに現代の用途を適用し、地区の歴史を伝える景観を復原すること

が可能である。また、デラナ高校運動場からはレブカタウン及び環礁までの広い眺望を得

られる場所であり、観光客のビュースポットとしての利用も視野に入れる必要がある。

d. カランバ地区

北及び西をデラナ及びミッションヒル地区と、南をナカランボ地区と、そして西はチャー

チストリートと接する。カランバという地名のフィジー語での意味は不明である。大部分

が布教活動期にメソジスト教会の敷地となり、その後の首都期には土地所有調査にも記録

されており、デラナやガラニトア地区に建てられた住宅建築と共に古写真に写っているた

め、首都期までには現在の敷地形状が形成されていたと考えられる。ただし、古写真中の

建築は、デラナ地区よりもブレ形式の建築が目立ち、西洋風建築が多く建てられるように

175

なった首都期以前、フィジー・ラッシュ期から白人の住宅地であった可能性がある。トト

ンゴクリークへ流れ込む小川が流れるこの地区は、デラナ高校のグラウンドへ続く道の両

側に直線で構成された地割りがなされる。その東に位置する、チャーチストリートに沿っ

た住宅地は不整形である。地区の歴史を伝えるものとして、首都期に撮影された古写真に

写る商店の店名と同じ姓のドイツ人の墓標が残され、保存対策が必要である。チャーチス

トリート沿いには、1940年代までには建てられていた住宅建築が継承され、安定期の景

観を伝える。地区西側においては、草葺きやトタン葺きの住宅建築などの景観の回復によ

り、地区の歴史を伝える景観の保全が可能である。

e. 南ビーチストリート地区

北をミッションヒルロード、南をトトンゴレーン、西をチャーチストリート、ランハム

ストリート、トトンゴクリーク、トトンゴレーン、東を海岸線で限られた地区である。布

教活動期、地区北部はメソジスト教会、南部はカトリック教会所有の敷地となり、その後

のフィジー・ラッシュ期に一挙に店舗建築やホテル建築が建ち並んだ。トトンゴクリーク

沿いには、1865年にヘニングスが綿繰り小屋を建てており、1869年にはロイヤルホテル

が建てられた。さらに 1879年にはニュージーランド銀行が建てられた。また地区南側には、

1868年にカトリック教会が建てられた。しかし、トトンゴクリークから北側は、1895年

の台風でほぼ全ての建築が全壊し、その後住宅地が形成された。カトリック教会敷地には、

Navutu(ヴツの木)という古い地名が残る。トトンゴクリーク沿い北側には、レブカタウ

ン内で唯一南北方向に短冊状の敷地が並ぶ場所である。これらは、古写真との比較から台

風後に整理された敷地であると考えられるが、キングストリートやチャペルストリートな

どはそれ以前に形成されていることが別の古写真から確認できる。トトンゴクリーク南に

は、ロイヤルホテルの広い敷地が広がり、その南側には店舗建築が建てられる短冊状の敷

地が連続し、カトリック教会敷地に至る。トトンゴクリーク北側には、台風後に建設され

た住宅建築で構成される景観が継承されている。また、トトンゴクリーク南側には、ロイ

ヤルホテルの本館が現存し、海岸沿いは、通りに接して建てられる切妻造りの平屋で、正

面に下屋を配した店舗建築群が地区のランドマークとなる、正面に時計塔を配置する切妻

造りの平屋で妻入り、セットバックを設けて建てられるカトリック教会北側まで広がる。

地区はフィジー・ラッシュ期以降の歴史を伝える景観がよく継承されており、今後は歴史

的建築物の保存対策が課題である。

176

f. ナサウ地区

チャーチストリートとトトンゴクリーク、ランハムストリートで囲まれる、レブカタウ

ン中央に位置する地区である。布教活動期、アングリカン教会の最初の教会が地区西側

に建設された。その後、首都期までに地区の東側及び南側に住宅建築が建設されており、

敷地形状はその頃に形成されたと考えられる。ただし、公園の中央部は首都期までヤシ

林で覆われていることが古写真より読み取れる。その後、1898年に現在のタウンホール、

1904年にはオバラウクラブ、1913年にはマゾニックホールが建設される。中央部はグラ

ウンドとして整備され、現在もラグビーの公式戦が開催される。中央に円形の敷地があり、

その周囲を形状も面積も異なる敷地が囲んでいる。現在も南西部に住宅地が形成され、そ

の東側にホールなど公共建築が並んでおり、それらの歴史的建築物の保存対策をとる必要

がある。マゾニックホールが火災にあっているが、石造の構造自体は良好に残されるため、

履歴調査に基づく修理が必要である。

g. ウォーターハウスロード地区

北をカランバへ続く小道で、東をチャーチストリートで、南をトトンゴクリークで限ら

れる。首都期の土地所有調査に記載され、1870年代終わり頃にロビンソン家住宅が建設

された。Nigau(意味は不明)、Nakalabo(居住地の意)、Nadgu(意味は不明)、Vunidrala(樹

木名)と、古い地名が多く残される。丘陵地であるにもかかわらず、十字に交差するウォー

ターハウスロード及びスパウアートロードに沿って、敷地が整然と並ぶ点が特徴である。

その北側には、1900年頃建てられたとされるパタソン家住宅が建てられるが、そこへ通

じる道は小川に沿って湾曲しており、地形に沿った規模が大きい敷地が並ぶことが特徴で

ある。ロビンソン家及びパタソン家住宅が 2棟、火災で台所部分のみが残されるイースト

ゲート住宅が現存するが、大部分は茂った樹木で隠れ、十字路も利用されない状況である。

樹木と道路の管理を行い、イーストゲート住宅を復元することにより、地区の歴史的、空

間的、景観的な特性を顕在化させることが可能である。また、丘陵地に建てられる歴史的

建造物の中に 2階建ての建築はないが、丘陵地に2階建ての新築物件がある。これについ

ては、長期的には 1階建てにすることが必要である。

177

h. バス・ロード及び学校地区

北をバス・ロード及びトトンゴクリークで限られ、東はトトンゴ地区との境である小道

で限られる。首都期の 1879年にレブカパブリックスクールが建設され、首都遷都後も寄

宿舎や教師の住宅など、学校関連の建築が建てられた。地区南西部に Nokonoko(樹木名)

トトンゴ地区に面する箇所では、地割りが不整形で、先住民集落期の土地利用の名残であ

ると考えられる。また、トトンゴ川へ支流が流れ込み、それに沿った敷地が形成されて

いる。地区南端の面積の大きい敷地には、1940年代までに小規模な住宅が 1棟建てられ、

近年さらに2棟建てられた。また、首都期の古写真には、古写真中の位置から地区の東南

の角の敷地であると考えられるに建築が確認でき、その建築は現存するレブカパブリック

スクール教員宿舎(元は医者の住宅)である可能性がある。レブカパブリックスクールの

背後には緑に覆われた丘陵地が広がり、トトンゴクリークに沿って住宅と寄宿舎が現存

し、首都期や安定期の歴史を伝える。レブカパブリックスクールと共にそれらの建築群の

保存対策をとる必要がある。また、教員宿舎から北西へ丘陵地を上り、小規模住宅を越え

てさらに森の間の小道を抜けると、レブカパブリックスクールやトトンゴ、ナサウからニ

ウカンベまでを一望できる巨岩の上にたどり着く。ここは、地区学習や観光において俯瞰

図を得られる場所としての整備が可能である。

i. トトンゴ地区

トトンゴクリーク及びコンベントロードで北と西を限られ、トトンゴレーンに接する半

円状の敷地を含む地区である。地区名のフィジー語での意味は不明である。カトリック教

会の宣教師たちはこの地区に形成された先住民集落で暮らしたとされる。この先住民集落

の住民は、首都選定時にレブカタウン南にあるドラインバ集落へ移住したとされる 20。そ

して首都期には刑務所などの公共施設が建てられた。先住民集落期の土地利用と関係があ

ると考えられる円形の敷地形状が特徴である。首都期には牢屋として建てられた建築は現

在ロマイビチ州の役所として利用されており、トトンゴレーンを挟んで西側には警察署が

建てられ、首都期の景観を現在に伝える。それら歴史的建築物の保存対策をとることが必

要である。

178

j. ベントリーズ・レーン地区

北をコンベントロード、西をレブカパブリックスクール敷地との境界である小道、東を

ベントリーズレーン、南をバルカンレーンで限られる。布教活動期にカトリック教会の所

有地となった場所である。1891年にマリストコンベントスクールが建設され、ベントリー

ズレーン西の丘陵地には安定期に住宅が建設された。地区南東部には、Vatubukete(妊娠

石の意)という古い地名が残る。地区の西側には、前述の教員宿舎へマリストコンベント

スクールの裏手から上る石段がある。ビーチストリートの商店街に近い側には小規模な住

宅敷地が並び、西側の丘陵地ではそれらに比較べて規模が大きい敷地が並ぶ。建築そのも

のの規模もそれと比例するように、ベントリーズレーン沿いの住宅は小規模である。現存

するマリストコンベントスクールがランドマークとなり、ベントリーズレーン沿いの住宅

とともに安定期の景観を伝えている。それら歴史的建築物の保存対策をとることが必要で

ある。

k. 埠頭地区

北をトトンゴレーン、南を丘陵地へ続く小道、西をレブカタウン領域、東をビーチス

トリートで限られる。フィジー・ラッシュ期の 1868年に店舗建築 Former Morris Hedstrom

Store 及び倉庫建築 Former Hedstrom Bond Store が建設され、その後首都期には、Custom

Authority Buildingや桟橋が、さらに 1886年にはクイーン埠頭が整備された。首都期に入

り、それまでにレブカタウンの海沿いに点在していた桟橋では行えない出入国手続きがこ

こで行われることになったこと、さらに埠頭の整備により規模の大きい船舶も停泊可能と

なり、必然的にレブカタウンの島外からの唯一のアクセス地点となった。首都期終わり頃

から、カトリック教会から埠頭にかけて店舗やホテルが建ち並び、遷都後はコプラ貿易の

中心地として埠頭付近に倉庫やコプラ加工工場が建設され、その西側の丘陵地には従業員

の住宅が建てられた。バルカンレーン北側は、前述の Vatuvuketeに含まれる地区である。

また、Vadratauや Silana(両方とも意味は不明)という地名も残る。ビーチストリートに

丘陵地が迫るこの地区では、狭く急な坂道が東西方向に整備され、ビーチストリート沿い

には短冊状の店舗や倉庫建築の敷地が、その背後の丘陵地にはデラナ地区やウォーターハ

ウスロード地区に比べて規模の小さい住宅敷地が並ぶ。バルカンレーンより北側は、布教

活動期にカトリック教会の敷地となり、その後店舗経営者へ売られた敷地である。それら

店舗建築群の敷地は、首都期終わり頃から遷都直後にかけて建てられたと考えられる建築

179

が点在しながら現存する点や店舗群という土地利用形態が変わっていない点から、その時

期に形成されたと考えられる。一方で、現在ガソリンスタンドが建てられる敷地は、1948

年までに統合され、それまでの短冊状の敷地形状が損なわれ、店舗もしくは倉庫などが建

てられた歴史が読み取れなくなっている。また、海岸護岸はこれまでに幾度も整備が行わ

れ、海岸側のオープンスペースが徐々に形成されてきた。ビーチストリート沿いの西側で

は、1885年までには建設されていた切妻造りもしくは寄棟造りで妻入り、2階にベランダ

を張り出す Young Yetや Narsey & Sons、Kim's Restraurant、それらと同時期に建てられた切

妻造りの平屋、妻入りで、正面にパラペットを設ける Whales Tale Restaurantや、それ以降

に建設された店舗建築群が現在も使用され、首都期からその後のコプラ貿易期の景観を伝

える。ビーチストリート西側の埠頭及びその周辺は、前述の Former Morris Hedstrom Store

や Former Hedstrom Bond Storeが現存し、キング及びクイーン埠頭もコンクリート造に変化

したが現在もオバラウ島への玄関口、また PAFCO関連の出入荷港として利用されており、

遷都後からのコプラ貿易期の景観を伝える。ただし、古写真では現在よりも多くの倉庫建

築が確認でき、これまでにそれらが消失していることが読み取れる。さらに、Silanaの丘

陵地では遷都後のコプラ貿易期の古写真にも確認される Sinclaire's Houseが現存し、当時

の景観を伝える。まずそれら現存する建築群の保護対策をとる必要がある。さらに、古写

真などから火事などで損なわれた倉庫建築群の復元を行い、北側に建ち並ぶ店舗建築群と

南側の倉庫建築郡で構成される景観を形成することにより、地区の歴史を物語る景観の回

復が可能となる。

l. PAFCO

西をビーチストリートで限られ、北を埠頭へ続く小道で限られる、1962 年創業の

PAFCO敷地として埋め立てられた土地である。PAFCOは創業より現在まで約 50年にわた

りレブカタウンのみならずオバラウ島の経済を支えてきた。初期に建設された工場は、アー

チ状の屋根で、建築の高さが埠頭周辺の倉庫建築と同程度であることや、妻入りであるた

め道路に面している面積が少ないことから、海側からも道路側からもそれ以前の歴史的建

造物で構成される景観を阻害しない。しかし、それに建設された工場施設は規模が大きく、

ナソバ地区が完全に隠れるなど、海からの景観を大きく変化させている。前述のように、

島の経済を支え、買い物客である従業員の雇用により商店街の経済も支える工場であるた

め、現段階での規模縮小や移転は不可能であるが、長期的には初期工場施設以外の施設の

180

撤去と海岸護岸の復旧を行うことにより、レブカタウンの現代を含む歴史を伝える空間及

び景観の回復が可能である。

m. ナソバ

北と南を丘陵地へ続く小道で限られ、西はレブカタウン領域線、東をビーチストリート

で限られる。地区南側は、ザコンバウ政権期及び首都期を通して政庁が置かれ、譲渡式の

行われた場所として、レブカタウンのみならずフィジー諸島共和国の歴史上重要な場所で

ある。地区の北側の丘陵には PAFCO従業員の社宅が建てられる。地区の中心部を小川が

流れ、その両側はロマイビチ州庁職員の住宅敷地となっている。また、海沿いに譲渡式が

執り行われた広場が残され、最南端の敷地に建てられる Nasova Houseと共に首都期の歴史

を伝える。Nasova Houseはザコンバウ及び植民地政府の政庁舎の部分が残されたものであ

ると伝えられる。1970年の独立に合わせて復元されたブレも、フィジー諸島共和国の歴

史におけるイギリスの統治とそこからの独立という歴史を伝える。古写真から植民地政府

庁舎の前にはグラウンドが整備され、ラグビーなどの試合を行っていた様子が読み取れ、

桟橋付近やグラウンドの北側にはブレと見られる建築が建てられたことも確認できる。地

区北端に位置する 1940年代には存在した住宅建築と共に、政庁の遺構の保存対策をとる

ことが必要である。長期的には、2007年に建てられた歴史的建築物の規模を越える集会

所を取り壊し、植民地政府庁舎の復元を行うことにより、この地区の歴史的景観の回復が

可能となる。

(2) 防災の現況

レブカの歴史的建築物の主な材料は木材であり、その多くはビーチストリートに近接し

て建ち並ぶ。そのため、防火及び台風による暴風・浸水対策はそれらの建築物を保全する

上で不可欠であり、特に防火に関してはこれまでにも多くの建築物が焼失しており、深刻

な課題を抱えている。

レブカタウンの消防署は、トトンゴクリークの北側に位置する。2名の正規職員に加

え、8名のボランティア消防員が防災の任に当たる 21。消防車は 2台整備されており、消

火栓はレブカ内に 22箇所設置されている。しかし、2007年の消防署長の報告(Leweniqila

2007)によると、これらの消火栓は全て旧イギリス領時代のもの、つまり最低でも 40年

前のもので、これまでにまったく整備がなされていないとされる。このうち、老朽化や水

181

漏れなどにより使用できない状態にあるものが 2箇所あり、その他のものも現状では使用

可能な状態であるが、全ての消火栓に対し何らかのメンテナンスが必要であると報告され

ている。また、レブカ内の数カ所に新たに消火栓を設置する必要があるという。

1994年の HR記載物件のうち 6棟がこれまでに消失している。うち 1棟はクーデターの

騒乱のなかでの放火であるが、残りは事故である。これらについては延焼がなかった点が

幸いであるが、ビーチストリートの商店建築群などは密集しているため火災に対し非常に

脆弱であるため、特に入念な整備が必要である。

(3) 都市の生活

2008年のセンサスデータ(Fiji Islands Bureau of Statistics 2008:p.93)によると、フィジー

国内における時給制の労働者の 1日当たりの平均賃金は 20.82フィジードル 22 であると

される。フィジー国内の最低賃金は時給 1.75フィジードルであり、ホテルのベッドメイ

クなどの初任給は最低賃金に設定される場合が多い。その他、PAFCOでのパートタイム

労働は 2.85フィジードルである。そして物価は、レブカのスーパーマーケットにおいて、

小麦粉 10キログラムが 10.41フィジードル、米 1キログラムが 1.60フィジードル、砂糖 1

キログラムが 1.20フィジードル、フィジーではよく食卓にあがるツナ缶 1缶が 0.98フィ

ジードル、冷凍チキン 1羽が 10.61フィジードル、魚 1キログラム当たり 6.00フィジードル、

輸入品であるオレオクッキーが 1パックで 1.89フィジードルである。また集落住民がひ

らく市場においては茄子や胡瓜 1盛り 1.5フィジードルなど、平均賃金及び最低賃金と比

較して決して安くはない。タクシーは基本的にメーターを使用せず、距離に応じた相場が

決まっている。レブカ内の平地はどこでも 2.00フィジードル、レブカ外へは距離に応じ

て決められる。集落へのバスは 3.00フィジードルであるため、集落からの PAFCO労働者

などは、2時間分の労働を往復の交通費に費やすことになる。

また、現在 PAFCOは約 1,000人の雇用を創出している。この 1,000人という数字は、オ

バラウ島の約 9,000人の人口の約 11%であり、島全体の生活が PAFCOに依存していると

いえるであろう。しかしこの PAFCOも、近年アジア産の安価なツナ缶の影響から売り上

げの低迷が続いており、夜間労働の休止など島の経済にも影響を与えている。さらに、移

転によるレブカ工場の閉鎖の可能性が新聞記事にも掲載されており、もしそれが現実とな

れば、オバラウ島の経済にとって壊滅的な状況をもたらすことが予測される。

商店街の店舗においてアルコールを販売しているが、アルコールを販売できるのは 9時

182

までと規制されている。9時以降は、バーやレストランでのみアルコールを飲用できる。

また、一部のインド人系店舗以外は閉店する。このような規制と習慣が都市の秩序をもた

らしていると考えられる。

一方で、レブカ内の人々は互いに顔見知りであり、精神障害者なども施設で預かるので

はなく通りを自由に歩き、意図せずに万引きなどをすると周囲の人が買い与える、または

注意して商品を戻すなど、地域住民全体で見守っている。大きな犯罪などは起こらないが、

ホテル従業員による宿泊客の所持金の窃盗、また宿泊客がでかけている間の泥棒といった

軽犯罪が起こる。泥棒などの小さな事件が発生すると、人々がまず噂をするのはレブカの

西側丘陵地に広がる不法居住区、バンバの住民についてである 23。ソロモン系、バヌアツ系、

フィジーのオバラウ島外出身者などが住んでおり 24、レブカのなかでも低所得層が住んで

いるといわれている 25。ほとんどの住民は商店街の店舗の店員や PAFCOでの労働から収

入を得て生活しているが、こうした犯罪により、地区住民への偏見もあるとされる 26。

インフラ施設に関しては、数ヶ月に 1度程度の割合で停電が発生することがある。また、

雨量の多い日は水道水に泥が混じることもある。ガスは、プロパンガスを使用している。

また、下水は各戸の庭などの地下に設置されたタンクに溜め、10年に一度程度の頻度で

汲みだすという形式をとっている。雨水に関しては、水路から海へ流される。

レブカには病院が 1軒建てられ、簡単な手術が可能である。ただし、スタッフの人数不

足や医療器具の不足から大きな手術には対応することができない。

1年中蚊が発生し、デング熱の感染報告もあるため、地域住民及び観光客の保健のため

に定期的な薬剤の散布など対応が必要である。

(4) 文化多様性

2007年の国勢調査によると、レブカ内の人口は 1,394人 27である。その人種の内訳は、フィ

ジー人が 959人、インド系フィジー人が 181人、その他アジア人、白人などが 254人である。

インド系フィジー人の比率がフィジー全体での比率 47%と比べて少ないのは、オバラウ

島には大規模プランテーションがなかったため、インド人労働者の町への流入が少なかっ

たことによる。また、年齢の構成は、5才以下が 108人、6-19才が 136人、20-64才が 594

人、65才以上が 70人である。フィジーでは、子供の結婚後も両親と住む場合がほとんどで、

高齢化により家の管理ができなくなるという問題は少ないと言ってよい。

レブカタウンにおいて明確な教区は存在しないが、メソジスト派の信徒が最も多い。各

183

宗派の信徒の分布図は図 3-4(p.131)に示した。ヒンズー教とイスラム教寺院がレブカの

北 1.2kmのワイトブ Waitovu地区に建設されているが、タウン内居住者にはイスラム信徒

は存在しない。インド系フィジー人でキリスト教徒は存在するが、フィジー系フィジー人

のヒンズーもしくはイスラム教徒は存在しない。また、同じ家庭内の親子でもメソジスト

とカトリックといったように宗派が異なる場合もある。メソジスト教徒へのインタビュー

では、便宜上近くの教会に通う事が多く、もし引っ越しをして異なる宗派の教会しか無い

村へ住む場合はもちろん、町の中でももしカトリック教会の近くに住む事があればそちら

へ行くだろうと答えたため、どの宗派か、という問題よりも、教会へ礼拝に行くという事

が大切であるという意識が読み取れる。また、同じ教会での礼拝に参加する人々同士は社

会的結びつきが強い。英国国教会は、島内外の別の集落にも教会を建て、土地も所有して

いる。信徒も多数存在するため、レブカの象徴的な景観要素である教会建築はその用途と

共に守られていく基盤が存在すると言える。

衣服に関しては、フィジー人その他のメラネシア系及びポリネシア系住民が教会での正

装時に前述のスルやチャンバを着用する他、年配のインド人女性が常時サリーを着用して

いる。

食事に関しては、特徴の違いが顕著であるため夕食について述べる。フィジー系及びロ

ツマン系の家庭ではダロ芋を主食とし、主に魚のスープなどをメインディッシュとし、副

菜にベレの茹でたものなどを食す。また、お祝い時や祝祭日にはロボと呼ばれる焼き石を

使用した蒸し料理を庭に穴を掘って設けたオーブンで調理する。インド系住民は主に野菜

やチキンを具材とするカレーを食す。この際、米の他ロッティと呼ばれる小麦粉からつく

られ、フライパンでギーと呼ばれるヤギの油を使って焼かれる薄いパンを主食とする。ま

た、中国系住民に関しては、混血が進んでいない家庭ではビーフンやチャーハン、その他

野菜や肉の炒め物といった中華料理を食す。一方、混血がすすんでいる家庭では、フィジー

系やロツマン系住民と同様ダロ芋を主食とし、チキンスープや魚のスープなどを食す点が

特徴である。

現在、民族に固有の習慣などは、民族集団や家族の間で伝えられるのみで、意識的な伝

承や保存は行われていない。ただし、フィジー人の伝統舞踊メケに関しては、学校で習う

機会があり、民族にかかわらず参加することが可能である。前述 Levuka: Living Heritageに

もレブカ住民の各民族の歴史について住民の視点で記述されている。そして、同書にお

いてもインド系フィジー人の若い世代がヒンズー語を話せても文字を書けないことや、20

184

世紀前半はより多くの祭りが催されていたことなど、独自の文化の衰退が指摘されている

(Institute of Pacific Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society,

2001:p.58)。また、中国系フィジー人についても、旧正月のお祝いもレブカでは各家族が

小規模なお祝いをするに留まるとされる(Institute of Pacific Studies, University of the South

Pacific and Levuka Historical & Cultural Society 2001:p.50)。

ただし、以前のBack to Levuka Festivalでは、"Asia Night"というイベントが企画されており、

そこで中国系フィジー人の学生が毎年民族舞踊を舞ったと記録される(Institute of Pacific

Studies, University of the South Pacific and Levuka Historical & Cultural Society 2001:p.50)。このこ

とから、このようなイベントが民族に固有の文化の継承に作用していると考えられる。

(5) 住民の記憶

現在、個人が有する歴史的建造物の変遷や過去の利用形態に関する情報は Levuka: Living

Heritage(前掲書)にその一部が記録されるものの、第 3章までに明らかにしたような

多様な年代と用途からなる歴史的建造物群、それを利用する多様な民族的背景を有する

人々、その相互関係から生み出される多様な利用形態を体系的に説明する記録は残されな

い。

第 3章で述べたように、レブカの歴史的建築物に 50年以上住んでいる家族が 12世帯存

在する。また、その他にも、本研究の調査対象とされなかった歴史的建築物以外の住民の

なかにも 50年以上住んでいる家族が存在する 28。さらに、第 3章では、近年になって移

住した人々もそれぞれにレブカの価値を見いだしてきたことを指摘した。周辺集落にもそ

れぞれレブカとの関係を物語る情報が蓄積されるが、これに関しても記録は残されない。

4-3-3 遺産保全の課題

ステークホルダーの活動分析より、政府や国際支援機関に地域住民主体の都市遺産観光

開発の実現に対する意識が低いことが明らかになった。政府自体に資金及び専門家の不足

という課題が、雇用した海外コンサルタントと地域住民との中間的存在として両者の連携

を促進するという役割も十分に果たしていない。国際支援機関については、地域の実情を

考慮したプログラムやプログラム終了後の継続的な状況確認や必要に応じた継続的支援が

185

行われないため、プログラムの成果もいかされず、その後の発展を見せない状況である。

また、保護制度の整備状況の分析から、現行のタウンプラニングスキームの見直しが必

要であることが指摘できる。地区別の分析と合わせて考察すると、同じ住宅地でも歴史的

には丘陵地に 2階建の建築が建てられたことを確認できず、地区ごとの特性を読み取った

景観計画の策定が課題である。また、そのような景観計画に基づく景観形成により、より

都市の特性を顕在化させることが可能であるといえよう。それらの歴史的建築物群や人々

の生活を守るための防災設備に関しては、老朽化が進んでおり、整備が必要であることが

指摘されている。上述の景観形成のための計画に加え、その保全のための防災計画につい

ても、予算確保手段までを視野に含めた計画策定が課題である。

地域住民の生活の分析から、地域住民は互いに顔見知りであり、生業などに基づく強固

なつながりではないが、独居老人や障害者のサポートのなかに共同体としてのまとまりが

あることを把握できた。しかし、賃金設定の低さが指摘でき、個々人の所有物件の維持及

び商店街の維持、地域住民が生活しているという状態の維持、そして地域住民の生活自体

を向上させるために平均賃金の向上を視野に入れた地域経済の活性が課題である。さら

に、バンバ地区住民への差別も存在することが明らかになった。彼らが差別される原因の

1つとして、低所得であるための軽犯罪者の存在が挙げられる。よって、バンバ地区の人々

が収入を得ることができる雇用の創出が課題である。

現在の地域住民の多くは各宗教の敬虔な信者であり、また各宗教施設に通うことによっ

て地域社会における人々のつながりが醸成されていることを指摘した。しかし、1990年

代以降に移住してきた欧米人などは、教会に通っていない。よって、麗江やラハイナのよ

うに現在の住民のほとんどが移住者と入れ替わった場合、日曜日に人々が正装をして教会

に通う様子が見られなくなることが予測される。また、そのような住民の変化が起こった

場合、民族や家族の間で、また個人のものとして蓄積されてきた記憶が消失することにな

るであろう。つまり、現在の住民の生活の継続によってそれらの記憶の保全とさらなる蓄

積が可能といえる。一方で、前節で指摘したように海外からの移住者は、知識も経験も豊

富であり、遺産保全や観光開発を推進する上で有効な知見を有する。このため、フィジー

語でカイレブカ Kai Levukaと称されるレブカ出身者が有する情報を尊重しながら、主に白

人を指すカイバランギ Kaivalagiが有する海外からの観光客を誘致するために有効といえ

る知識を有効に活用することが課題である。

186

4-4 観光開発の現状

前述の国際文化観光憲章 2002年改定版は、その提言の対象を ICOMOSが定義する記

念物や世界遺産に限らず、全ての文化遺産、コレクションやホストコミュニティの生き

た側面 living aspectsと観光との相互作用に関する提言を行っている(ICOMOS International

Cultural Tourism Committee 2002:p.3)。同憲章は、国際憲章や提言のなかでも文化遺産やそ

れ以外の多様な有形、無形の文化的蓄積を対象とした観光の原則や考え方について述べて

おり、その内容は本研究で明らかにした都市遺産の総合的価値を対象とする観光にも適用

される。そこで、ここでは国際文化観光憲章 2002年改訂版の 6つの原則とレブカの現状

を照らし合わせ、レブカの都市遺産観光の課題を抽出する。

4-4-1 遺産に関する社会的認知度の向上

前述のように、国際文化観光憲章ではその原則 1として整備されるべき遺産への「アク

セス」として、物理的アクセス、知的アクセス及び感情的アクセスを挙げている。原則 1は、

主にこのアクセス及び遺産の意義の解説について言及している。

レブカにおける遺産への「物理的アクセス」に関して、まず島外からレブカへの交通整

備状況については、レブカには首都のスバからフェリーが運行している。フェリーは頻繁

にスケジュールが変更されるが、ほぼ毎日運行している。レブカ内の港に停泊することも

可能であるが、フェリー会社のスケジュール調整によりレブカの港ではなくオバラウ島西

部に整備される港が船着き場となる場合が多い。この場合、レブカの都市景観を船上から

目にすることができない。前史時代より、他島からレブカへの交通手段は船であり、船を

利用することにより先住フィジー人や初期入植者がレブカを訪れる際に眺めた景観を目に

することができる。その観光ルートとしての価値も視野に入れた航路設定の検討が必要で

あるといえる。また、オバラウ島西岸には最大乗客数 20名程度の規模の航空機までは対

応可能な空港が整備されている。ただし、現在運行されている飛行機の規模は乗客最大人

数 6名である。航空機は 1日に往復 2便運行しているが、天候や乗客数が少ない時などに

キャンセルされる場合が多い。また、島内での交通は、タクシーが利用可能である他、周

187

辺集落へはバスを利用することもできる。

レブカにおいて観光の総合案内所の役割を果たしているのがコミュニティセンター内の

ナショナルトラストである。ここでは、オバラウ島内や離島の宿泊施設の案内の他、レブ

カタウンのヘリテージガイドツアーを催行している。ナショナルトラストは、コミュニティ

センター内のフィジー博物館の管理も行っており、レブカの遺産保全と観光の一体的な実

践を推進しているといえる。ただし、上記の役割に加えて図書館の管理までを 3人の職員

で進めており、資金や機材も不十分なためどの活動も現在以上の規模で展開することが困

難な状況である。また、公共的建築物や記念碑などを中心とする歴史的建造物の位置を示

す地図は JICAボランティアの支援により一度は印刷されたものの、再度印刷されること

がなかったため残部が少なくなっている。また、その建造物が歴史的建造物であることを

示すサインについても同じく公共的建築物を主とする 17物件以外には設置されない。よっ

て、都市の景観への物理的アクセスは確保されているが、店舗建築や住宅建築などそれを

構成する個々の歴史的建造物へのアクセスは整備されていない。

レブカの遺産に関する「知的アクセス」については、まず現地訪問前に可能なアクセス

として、ユネスコ世界遺産センターのホームページ、フィジー政府観光局のホームペー

ジ Fiji Islands Travel Guide: Tourism Fiji、LTAによるホームページ A guide to Levuka and Ovalau

by The Levuka Ovalau Tourism Association、レブカの歴史についての情報を収集しているイン

ターネット上のサイトで、サイトの管理者以外の閲覧者も投稿が可能であるため、随時情

報が更新されている Levuka History and Timelineが挙げられる。フィジー政府観光局のホー

ムページでは、宿泊施設、レストラン、交通手段、イベントなどの観光インフラ情報及び

イベント情報が掲載される他、「おしゃべりと昼寝はレブカにおける正当な活動である」

といったように、レブカにおける平穏な生活がユーモアを交えて紹介されている。一方で、

レブカの遺産の意義を伝えるための情報については都市及び個々の公共的建築物について

の歴史的価値の説明が主であり、都市史調査から明らかになる都市景観の価値や都市史を

通して説明が可能な個々の建築物の価値、民族多様性や文化多様性についての説明は言及

されるものの史資料や学術調査に基づいた内容ではなく、国際文化観光憲章で述べられる

ように「その場を訪れることがなくとも遺産の意義について学ぶことができる」内容は限

られている。また、現地においても、学術調査の結果がまとめて管理される場所がなく、

コミュニティセンター内のフィジー博物館においても史資料や学術調査のまとまった蓄積

はない。同憲章では、過去の経験から現在の多様性までを、マイノリティであった文化や

188

先住民族を含め、遺産地区とそのホストコミュニティの遺産、伝統、慣習について説明し

なければならないとされている(ICOMOS International Cultural Tourism Committee, 2002:p.7)。

レブカの都市空間と都市景観は、先住民集落期の空間構成を基礎としつつ、白人との接触

以来主に白人によって形成されてきた。しかしその影には、先住フィジー人の居住地を奪っ

た事実、奴隷貿易の中心港であった事実、さらに白人以外の人々に対する差別の歴史が存

在する。そうした有形文化遺産の価値評価のみからは得られにくい負の記憶について、負

の記憶としてアクセス可能にする必要が有る。そのためには、既に述べたように過去から

現在までの遺産の管理主体及び表現主体を明確化する民族構成の変化の分析に基づき、そ

れら多様な主体ごとの記憶を収集した上で、それらの記憶へのアクセスが可能な状態にす

る必要が有る。

「感情的アクセス」についても同様に、「その場所にいるという感覚を、訪問した場合

でもそうでない場合でも感じられるような」情報源はない。国際文化観光憲章において、

個々の遺産の重要性を、教育、メディア、技術、個人的な説明を適切で、刺激に富んだ

最先端の方法で伝えなければならないと述べている(ICOMOS International Cultural Tourism

Committee 2002:p.7)。最先端のインターネット技術を利用などすれば、写真や動画を通し

て臨場感の高い「その場所にいるという感覚」を伝え得る。また、同憲章内で「個人的な

説明」が「感情的アクセス」の経路の1つであることが明記されている点も注目に値する。

前述のニコレット夫人の記憶のような個人的な記憶は、ある部分は客観的な情報と見なせ

る部分もあるが、他のある部分は個人の経験に基づく主観的情報であり、一般性を欠く。

しかし、こうした個人の経験を通じ、記憶として蓄積された情報は、その全てを「知的ア

クセス」形成のための客観的、あるいは学術的な情報としては使用することが難しいが、「感

情的アクセス」形成には有効であるといえる。さらに、異なる背景をもち、異なる立場に

立つ個々人による説明は、遺産の意義をより多角的な視点から把握することを可能にする

のである。

4-4-2 遺産と観光の多面的な関係のマネジメント

国際文化観光憲章では、その原則 2において、主に観光が遺産に与え得る負の影響の回

避について言及している。遺産の価値の包括的な理解が必要であり、遺産の重要性が表出

189

しているものとしての物質、収集された記憶及び無形の伝統の不可欠性、さらにオーセン

ティシティの重要性についても言及している。そして、それらの理解の上で観光活動が展

開されなければならず、その活動は遺産やホストコミュニティの生活に対する負の影響を

最小限に留め、プラスの結果をもたらすものでなくてはならないとされる。また、観光開

発のためのプロモーション活動に先立ったマネジメント計画が策定され、観光が与える正

のインパクトを評価するためのプログラムが実施されなければならないとしている。

前述のように、レブカの現状では主に歴史的建造物群の歴史的価値は部分的に評価され

ているものの、人々の記憶や無形文化遺産については本研究で行ったような学術的な価値

付け調査が行われてこなかった。よって、レブカの文化多様性や人が住み続けることによっ

て蓄積され、継承される記憶については、継承すべき諸要素が具体的な記述によって明文

化されていない。憲章でも明言されている通り、遺産の価値の包括的な理解の上で観光活

動が展開されることが重要であり、レブカの遺産価値の説明が依然歴史的建造物群の価値

に偏重したままで世界遺産登録や観光開発が先行すれば、先行事例地に見たようにそれら

の価値が損なわれる可能性がある。また、同じく憲章で明言される通り、その回避のため

には、観光プロモーションに先立った観光マネジメント計画が策定されるべきである。し

かし、レブカにおいては未だ正式に承認されたマネジメント計画が存在しない状態が続い

ている。

4-4-3 訪問者にとって価値ある経験を保障する

国際文化観光憲章はその原則 3において、遺産の価値保全とその解説を中心とする提言

を行いつつ、観光客の快適性、保健性、健康性へ配慮し、訪問の楽しさを促進させなけれ

ばならないとしている。

レブカには現在、4軒の宿泊施設があり、総ベッド数は 105である 29。歴史的ホテルで

あるロイヤルホテル、宿泊費用が高額であるが丘陵地からの眺望と清潔な部屋、が特徴で

あるレブカホームステイ、数年前の火災を受け新築された清潔な部屋と比較的安価な価格

及び海沿いという立地が特徴のマヴィンダ、トイレやシャワーが共用であるが安価さが特

徴のバックパッカータイプドミトリーマリッズロッジと、現在のレブカのホテルはそれぞ

れ異なる特徴を有するため、多様な観光客層に対応可能であるといえる。この内、レブカ

190

ホームステイのみが、レブカ出身者ではなくオーストラリアから移住してきた夫婦によっ

て経営されている。さらに、オバラウ島内にはその他にも 4軒に宿泊施設があり、内 1軒

はシラナ集落内、別の 1軒はルクルク集落付近に建てられて集落出身者によって管理され

る。その他 2軒はそれぞれレブカから北へ約 1.5キロメートルのオニビロとそこからさら

に北へ約 1.5キロメートルの位置に建てられ、海外からの移住者によって経営される。

レストランはレブカ内でのみ経営しており、島内には各宿泊施設がレストラン機能を設

置しているのみである。レブカ内にはそれぞれ 1軒の中華料理店、ピザ店、洋食店、フー

ドコート風複合店 30 及び 4軒のインド料理店が経営している。この内、洋食店の主な客

層が観光客である他は、主な客は地域住民である。ただし、中華料理店についてはクーデ

ター以前には現在より多くの観光客が来ていたという 31。レブカ内、海沿いのオープンス

ペースには、ベンチが設置されている。しかし、日射を遮ることができないため、夏期の

日中の休憩には不向きである。その他には、一般のレストランやホテルのレストランを利

用する以外に休憩する空間は確保されていない。公共のトイレは、埠頭付近に位置する発

電所の北側及びナサウ公園のスタンド下に設置されている。

また、レブカには総合病院が 1件あるが、必要な施設、スタッフ及び技術が不十分であ

るため、大きな手術を行うためには首都のスバへ行く必要がある。緊急の手術が必要になっ

た場合は、ヘリポートや待機しているヘリコプターもないため、ボートでスバへ運んでい

る。ただし、レブカからスバまでは 2時間以上かかる上に、波が荒い悪い場合は航行でき

ない。

4-4-4 ホストコミュニティと先住民の関与

国際文化観光憲章ではその原則 4において、ホストコミュニティ、遺産の法的所有者及

び先住民が、遺産の特定、マネジメント、展示と解説に関する目標、方針、戦略の決定に

関与しなくてはならないとしている。また、ある特定のコミュニティや先住民の慣習、知

識、信仰、その他の活動、工芸品や場所への物理的、精神的、知的アクセスを制限する必

要がある場合には、それを尊重しなければならないとしている。

レブカにおいては、これまでに明らかにしたように先住フィジー人のみならず時代ごと

に文化的、民族的、宗教的に多様な人々が住んできた。現在のレブカの民族的、文化的に

191

多様な人々はもちろんのこと、特に白人との接触後に現在のレブカ領域外に移動した先住

フィジー人集落の子孫や、レブカビレッジが統治する集落、その他レブカと歴史的、経済

的、文化的に関連が深いオバラウ島内及び周辺の島々に存在する集落なども遺産の特定か

ら解説、さらに観光マネジメント計画の目標や方針の設定、そして戦略の決定に関与する

べきであるといえる。前述の通り、現在レブカにおいて観光を促進するための活動を行っ

ているのは LTAであるが、LTAのメンバーはそのようなレブカの遺産保全と観光開発に

関する決定に関与すべき人々を代表するものではない。

また、観光活動がレブカタウンのみならずオバラウ島全体、及び周辺の島々において展

開されるならば、それらの場所に存在する集落に住む先住フィジー人にとっての聖地への

アクセスの制限について、物理的、知的、感情的アクセスのどこまでを許容するのか検討

する必要があるといえる。さらに、今後調査を継続し、レブカタウンにかつて存在したと

考えられる聖地や先住集落の文化的景観についての情報を展示し、現在の都市景観が成立

する過程で損なわれたものについての物理的、知的、感情的アクセスを設けるという視点

も重要である。

4-4-5 地域住民の利益

国際文化観光憲章ではその原則 5において、方針決定に係わる人々は、社会経済学的な

発展と貧困の削減のため、観光からの利益が公平に分配されるように努めなければならな

いとしている。また、遺産保全のための基金の設立と訪問者に対する基金についての周知

の必要性、ホストコミュニティからのガイドやインタープリターを育成するためのトレー

ニングと雇用の促進、観光の対象となる先々の場所におけるインタープリター育成のため

の教育、さらには方針決定や計画策定に係わる人々、教育とトレーニングの促進について

提唱している。

現在のレブカでは、まず最終的な方針決定権を有する政府関係者自体が、レブカの都市

遺産の保全に関する知識を十分に有さず、そのことが世界遺産登録の遅延の一因でもあ

る。また、ナショナルトラストが独自に調査した情報に基づきガイドツアーを催行する

が、ガイドやインタープリターを育成するためのトレーニングプログラムは実施されてい

ない。また、基礎教育を通してフィジーの伝統文化やその他の多様な文化について学ぶ機

192

会が限られており、レブカにおける文化多様性を継承、表現し、さらに説明するための方

策が立てられていない。

前述の通り、現在レブカの観光業関係者はホテル経営者やレストラン経営者がほとんど

で、ガイドの数自体も少ないため、多様な文化を担う集団が関与できる体制は整っていな

い。レブカタウン内のガイドツアーは、ナショナルトラスト職員及び LHCのメンバーで

もあるロツマ島出身の元市長により催行されている。また、レブカホームステイも独自に

フィジー系フィジー人によるガイドツアーの斡旋を行っている。その他、ガイドツアーで

はないが、見晴らしの良い丘陵地に住宅を構え、レブカには 30年近く居住するスコット

ランド人の住宅を訪問し、お茶やおしゃべりを楽しむというツアーも催行される。レブカ

タウン以外では、オバラウ島内のカルデラ内に位置するロボニ集落でのエコツアーが、ま

たレブカタウン北部の海岸沿いに位置するシラナ集落での集落跡地を見学する遺産ツアー

が催行されている。しかし、現在の 2時間に及ぶガイドツアーの参加料金は 1人 7フィジー

ドル(約 340円)で、先進国における同等のツアーの料金設定から考えると、正当な対価

であるとは言えない。また、レブカの住民全体やオバラウ島のその他の集落がどのように

観光業に携わり、収入を得られるような仕組みは確立されておらず、遺産保全を支援する

ような基金も設立されていない。

4-4-6 責任あるプロモーションプログラム

国際文化観光憲章では、その原則 6において、現実的な期待と同時に遺産の特徴やホス

トコミュニティに関する情報を与え、責任感を生じさせることにより適切な態度をとるこ

とを促さなくてはならないとしている。また、観光客の数が過剰になることを避け、数の

変動を最小化することにより遺産の真正性を守り、観光客の体験を向上させなくてはなら

ないとしている。さらに、より人気のある場所への集中を緩め、より広範な文化遺産や自

然遺産の訪問を促進すること、工芸品やその他の製品のプロモーションや販売は、合理的

な社会的、経済的な見返りをホストコミュニティに与えるべきであると提言している。

前述のフィジー政府観光局のホームページでは、レブカが位置するロマイビチ地区のな

かでレブカが紹介されているが、オバラウ島内のその他の場所やオバラウ島以外の島々に

関しては、宿泊施設の情報が掲載されるのみで、民族や文化に関する情報はほとんど掲載

193

されない。よって、閲覧者は主に歴史的建造物群の存在と宿泊施設、レストランなどにつ

いての情報を得ることが可能であっても、ロマイビチ州の人々の生活や、それを通して継

承されてきた慣習について知ることができない。そのため、無意識に地域内の文化にはそ

ぐわない態度や行動をとってしまう可能性があるといえる。

4-4-7 観光開発の課題

レブカの観光開発における最も根本的な課題は、地域住民、タウンカウンシル、フィジー

政府、観光関連業者がレブカの都市遺産が有する総合的価値を認識することである。国際

文化観光憲章でも繰り返し明言されている通り、遺産の価値認識を全ての前提として、そ

れを尊重し、その保全に貢献し、それを通訳して訪問者が知的、感情的にその遺産と繋が

りを持つことが可能になるような観光が実現されなくてはならない。なぜならば、その把

握の上に立って観光開発を進めなければ、訪問者は遺産の真正な価値を理解することがで

きず、何が継承されるべき価値であるかが明確でなければその価値そのものが観光開発に

よって損なわれる可能性があるためである。現在のレブカでは、都市遺産の価値として学

術調査による裏付けとともに明文化されているものは歴史的建造物群のみである。そのた

め、本研究で明らかにしたような住民の生活から生み出される無形文化遺産との相互依存

性を含めた総合的価値については、個人や集団内では自らのアイデンティティを形成する

ものとして価値が認識されていると考えられるものの、学術調査によって裏付けられた上

で明文化されたものものは存在しなかった。よって、そのような住民の生活を基盤とする

総合的価値をレブカの都市遺産の価値とし、それを継承するならば、まずは損なわれては

ならない価値について観光開発に係わるステークホルダーが認識することが課題である。

また、その価値把握の上に観光マネジメント計画やそれに付随するプロモーション計画

などが策定される必要がある。その際には本論で明らかにしたような先住フィジー人から

現在の多様な背景を有する住民に至るまで全ての人々の立場から価値を説明、あるいは負

の遺産としての歴史について説明することに留意する必要が有る。また、現在のレブカタ

ウン住民及び先住フィジー人が観光関連事業に関与し、経済的利益を得られるような仕組

みが必要である。

194

4-5 都市遺産保全と観光開発に関する住民意識

4-5-1 住民意識

歴史的建築物の居住者及び管理者に対する質問項目で、居住または管理している建築に

ついて「デザインの好きな点」については 11人(26.9%)が「空間の広さ」、7名(17.1%)

が「正面の意匠」、4名(9.8%)が「構造」、3名(7.1%)が「木材の美しさ」及び「コンクリー

トの耐性」と回答した。また、「デザインの嫌いな点」については 14人(34.1%)が「管

理が大変であること」、6名(14.6%)が「特になし」と回答した。デザインに関しては、広々

とした空間を好きと答える回答者が多い一方で、木造建築の材料の質感やコンクリートの

耐性など、材料を好きな点に選んだ回答者が少なかった。また、管理が大変である点が嫌

いであると答えた回答者が多かった。このことから、回答者は、歴史的建築物が有する広々

とした空間が気に入っているが、材料に関するこだわりは特にないこと、また建物の老朽

化が進んでおり、頻繁な修理が必要になっていることが読み取れる。

ただし、「建物について変更できるとしたら、何をするか」という質問に対し、12人

(29.3%)が「修理」、8人(19.5%)が「増築」、3人(7.32%)が「コンクリート化」、2人(4.9%)

が「現代的な家への建替え」と回答し、さらに「建替えについてどう考えるか」という質

問に対しては 16人(39.0%)が「修理のみで建替えはしたくない」、13人(31.7%)が「建

物外部、または内部に変更を加えたいが、建替えはしたくない」、7人(17.1%)が「歴史

的な意匠を維持しながら建替えたい」、2人(4.9%)が「可能であれば歴史的な意匠を考

慮せずに建替えたい」と回答している。建物を建替えたいと考える回答者が少ない一方、

修理のみで維持したいという意思を示す回答者が多かったことから、歴史的建築物の保全

に対する意識が形成されているといえる。

また、「歴史的建築物の保全に対してどのように考えるか」という質問項目に対しては、

26人(63.4%)が「歴史的建築物はレブカの特徴であり重要である」、18人(43.9%)が「観

光資源として利用できるとすれば良いことである」、12人(29.3%)が「経済的な問題がある」

と回答した。よって、歴史的建造物がレブカの特徴であり、維持すべきであると考える回

答者が多い一方で、修理や日常の管理費用に対して経済的不安を持っている回答者も多い

ことが明らかになった。

195

「フィジーにある他の利点と比べてレブカが有する固有の特徴は何か」という質問項目

に対しては、23人(56.1%)が「建築物群」、10人(24.4%)が「人々のホスピタリティ」、

8人(19.5%)が「まちの大きさ」、同じく 8人(19.5%)が「歴史」と回答し、歴史的建

造物群がレブカの特徴であると答えた回答者が多かった。

「レブカが世界遺産候補であることを知っているか」という質問項目に対して 33人

(80.5%)が「知っている」と回答したことに対し、「レブカが世界遺産に登録されるこ

とについてどう感じるか」という質問項目に対しては回答数自体が 15人と少なく、8人

(19.5%)が「うれしい」、6人(14.6%)が「うれしくない」と回答している。これは、過

去 30年に及ぶ遺産保全運動の成果が実らなかった結果、人々が諦念を持っているものと

考えられる。店舗経営者など 3名にヒアリングを行った際も、「何も起こらないのでもう

期待していない」と回答した。

また、35人(85.4%)が「人に会った時に挨拶をする」と回答している。スバやナンディ

のような大都市では、人々が擦れ違う際に知人以外に挨拶をすることはない一方で、レブ

カでは、擦れ違っただけの観光客に挨拶する地域住民も多い。よって、レブカでは人々の

結びつきが大都市と比較して強く、より安全なコミュニティが形成されていることが読み

取れる。そして、まちの中での移動に関する質問項目に対しては、35人(85.4%)が「徒歩」

と回答している。自動車の所有に関しては 13人(31.7%)が「所有している」と回答した。

ただし、この内 8人が店舗経営であり、業務用の必要から所有している。そのため、店舗

経営者を除くと、一般的には 15.2%程度が自家用車を所有していると考えられる。そして、

「人生の最後までレブカに住み続けたいですか」という質問項目に対し、23人(56.1%)が「住

み続けたい」と回答したことに対し、「住み続けたくない」と回答した人は 5人(12.2%)、

「分からない」が 6人(14.6%)、「回答なし」が 7人(17.1%)であった。「住み続けたい」

と回答した 23人の内、11人が「リラックスできる平和な生活」、7人が「ホームタウンだ

から」、5人が「まちの大きさ」、4人が「フレンドリーな人々」を理由に挙げている。「分

からない」という回答は、仕事の都合によるためと考えられ、この質問に回答した人の内

では「住み続けたい」と回答した人が 67.6%であることを鑑みると、レブカの歴史的建造

物の継承者である居住者は、今後も可能な限りレブカに住み続けたいと考えていることが

明らかになった。

「レブカに観光客が来ることに関してどう思うか」という質問項目に対しては、31人

(75.7%)が「収入の増加が見込めるためよいことである」と回答し、「文化に与える負の

196

影響を考えるとよくない」と回答した人は 3人(7.3%)であった。このことから、観光開

発への期待が大きい一方で、世界遺産登録による観光客の急増、それによって起こる文化

的影響などへの危惧は少ないことが明らかになった。

4-5-2 住民意識にみる遺産保全と観光開発の課題

歴史的建築物の所有者及び管理者は、それらの建築群がレブカの特徴をつくりだしてい

ると考えており、保全にも理解を示している。また、多くの住民が可能であれば人生の最

後までレブカに住み続けたいと考えていることも明らかになった。その主な理由は、レブ

カという基本的な都市機能を有するにもかかわらず、人々がフレンドリーで、平和な生活

を送れる点である。

その一方で、長年にわたる活動の成果があらわれない世界遺産登録に対しては、諦念を

もつ住民が存在する。これは、フィジー政府と地域住民との連携が十分ではなく、進捗状

況などに関する情報共有が不十分であることが指摘できる。

また、歴史的建築物の維持費に関して経済的な問題をもつ住民も存在する。経済状況が

悪い住民に関しては、海外資本による物件の買い取りが容易に起こり得る。よって、歴史

的建造物群の保全とそこへ居住する地域住民の生活によって構成される都市の総合的価値

を保全するためには、観光開発を通じた雇用の拡大、修理・修景に対する助成制度の確立

を実現するとともに、物件を地域住民のもとに留めるための対策が課題である。

197

4-6 小結

本章では、都市遺産の総合的価値の保全の状況を分析するとともに、その価値を顕在化

させ保全しつつ地域の発展に貢献し得るような観光開発という視点からその現状を分析し

た。

ステークホルダーの活動分析では、地域住民、フィジー政府、海外支援団体の 3者につ

いて分析した。まず、前章でその生活の持続を通して都市遺産の総合的価値を継承して

きた地域住民は、レブカにおいて都市保全活動が始まってから 3者のなかで唯一継続した

努力を続けてきたといえる。LHCSの活動やその後の地域住民による会合の継続はもちろ

ん、その生活を通して都市の公共空間や個人所有の建築空間を利用し続けて継承してき

た。フィジー政府についても、政府全体では活動を行ってきたが、省庁間で責任の所在を

転嫁し続けた結果、作業を継続し、成果を蓄積することが困難であった。そのため、何が

世界遺産登録に必要な作業で、レブカにおいて住民が要望する事業についても世界遺産登

録を前提とした時の判断を下す知識を蓄積することができなかったと考えられる。また、

フィジー政府が計画策定を依頼しているコンサルタントやその他の海外支援団体について

は、都市遺産の有形文化遺産に価値を見出しており、前章で明らかにしたような都市遺産

の総合的価値については価値付け調査や保全の対策を行っていない。

よって、まずは地域住民が再認識することも含め、レブカにおける都市遺産の総合的価

値についての理解をステークホルダー間で共有することが課題である。そして、その価値

保全の基盤が地域住民の生活にあることを認識し、その継続なくして価値保全は実現しな

いことを理解することが重要である。

各ステークホルダーの役割について、まず海外支援団体は価値保全及び観光開発のため

の支援を行うことが役割であるといえる。しかしその支援内容は画一的かつ時限的であ

り、遺産保全が未経験のフィジーにおいては投資が事業の成功に結びつかなかったことを

鑑みると、柔軟性と持続性の獲得が課題であるといえる。

フィジー政府については、海外支援団体と住民のパイプ役、遺産保全と観光開発に関す

る制度の整備及び方針と計画の策定と承認である。しかし、現実には知識と技術が不足し

ている。タウンプラニングスキームの見直しが一度もなされなかったことや、地域住民と

の意思疎通に問題が見られることも、どう対応してよいか判断できないためであると考え

198

られ、知識と技術の獲得が課題である。

また、地域住民の役割は価値の継承、遺産保全と観光開発に関連する方針や計画策定へ

の関与による地域住民の意思の反映と実情に沿った方針と計画の実現であるといえる。価

値の継承に関しては、有形文化遺産のうち公共建築の保全状態が良好であることが確認さ

れた。店舗については一部改変が見られるものの、日常的な修理が施されている。一方

で、住宅については所有者の経済状況によってその保全状態が著しく異なることが明らか

になった。所有者が保存の意思をもっていても、経済的問題から建物の老朽化が進んでい

る物件があり、先進国の多くが採用しているような修理に対する助成制度の確立が必要で

ある。その実現のためには、それを運営する組織の認定あるいは設立、また運営システム

の構築が課題である。さらに、建築家や大工などの技術者の養成を行い、遺産の価値を損

なわないために修理及び修景の技術を向上させる必要がある。一方で、生活自体や生活か

ら生み出される無形文化遺産、そしてそれらを通して蓄積される記憶に関しては、価値認

識そのものが共有されていない。無形文化遺産は、個人、家族、民族や宗派などを共通と

する集団間で共有される記憶を通して継承される。そして、無形文化遺産とそれが展開さ

れる場という有形文化遺産の相互依存性についても、同様に人々の記憶に蓄積され、それ

が共有されることにより継承される。つまり、この記憶の共有が都市遺産の総合的価値の

次世代への継承に不可欠であるといえる。またその記憶の共有の方法は、空間利用の記憶

やその利用形態に関する記憶を日々の生活を通じて個々人の記憶として蓄積することであ

る。

また、有形文化遺産の物理的特性に関する情報は慎重な検証により精緻化することが可

能であるが、そこで展開されてきた無形的要素に関する情報とその評価については個人の

属性、価値観、社会的立場や置かれた環境によって異なるといえる。よって、都市遺産に

ついて、それが現在まで継承される過程において起こったあらゆる出来事のうち、見落と

されがちな都市の負の記憶を継承するためにも、マイノリティに属する人々を含むあらゆ

る属性の人々の記憶を保存し、それを地域住民と来訪者にとってアクセス可能なものにす

ることが課題である。さらに、記憶は常に更新されるものであるため、調査を継続して行

ない、情報を更新するシステムの構築と実行する組織の特定もしくは設立が必要である。

観光開発についても、まず都市遺産の総合的価値把握が必要で、その理解を前提とした

観光開発の方針と既に述べた諸点に留意しながら観光マネジメント計画を策定する必要が

199

ある。その際、空間の利用が記憶の蓄積に繋がっていることを考慮すると、観光客のみを

対象とする店舗では住民の記憶が蓄積されにくいといえる。よって、地域住民のための店

舗、あるいは観光客も地域住民も利用することができる店舗を維持・保存することが必要

である。

以上の課題のなかで、特に地域住民が抱える課題は、特定の組織による運営を必要とす

るなど地域住民だけで解決することが困難なものがあり、フィジー政府や海外支援団体か

らの支援が必要である。しかし、フィジー政府自体もトレーニングやワークショップへの

参加による知識と技術の向上を必要としている。

以上に挙げた課題を解決するためには、まずすべてのステークホルダーが都市遺産の総

合的価値を理解した上で、課題解決の方針を共有し、それに沿った指針と計画に合意し、

それぞれの役割を明確化しながら協働で推進していく必要がある。

200

A

B

D

EFG

H

I

J

KL

M

C

0

50

100

200

500(m)

N

ナンドゥグ

トトンゴ

ナサウ

ナソバ

バンドラタウ

レブカバカビチ (レブカ・ビレッジ)

ブザ

デラナガラニトア

カランバ

ニウカンベ

ナボカ

ナカランボニンガウ

ブニドゥララ

ナブツ

ノコノコ

バンババツンブケテ

シラナ

デライナソバ

トトンガ・レーン

バルカン・レーン

ランハム・ストリート

レブカ・クリーク

トトンゴ・クリーク

ベントリーズレーン クイーン/キング埠頭

ビーチストリート

チャーチストリート

199 steps

ミッションヒルグラウンド

レブカ・パブリックスクール

ロマイビチ州庁舎マリストコンベント・スクール

Sinclair Residence

オバラウ・スポーツ(ダイビング・ショップ)コミュニティ・センター(Former Morris Hedstrom Store)Morris Hedstrom Bond Store

Young Yet Store

ロイヤルホテル

レブカ・コロ・メソジスト教会

メソジスト教会Levuka Homestay

Duncan氏の家

タウンカウンシル

オバラウクラブ

マゾニック・ホールマリッズ・ロッジ

カトリック教会

Narsey & SonsWhales Tale RestaurantKim’s Paak Loong Restaurant

ウォーターハウスロード

図 4-1 地名と物件の位置図

201

1) 例えば、Ms. Suli Sandysの先祖に当たる Hedemann & Co.

2) 葉書の写真に、現在のニウカンベの丘の北側に建てられた後、1895年の台風で倒壊した工業学校が確認

できる。このため、遅くとも 1895年にはレブカの景観をいかした葉書が販売されていたと考えられる。

3) 都市景観の他には、先住民の風俗に関する絵葉書も多く販売されていた。

4) HMS Cook (A307) フィジーには、1959 年の 5 月から 7 月まで滞在したとされる(British Library & U.S.

Library of Congress (参照 2010.11.18) NAVAL-HISTORY.NET 1998-2010, Service Histories of Royal Navy Warships

in World War 2, HMS COOK <http://www.naval-history.net/xGM-Chrono-17Survey-Cook.htm>).

5) Royal Hotelに古写真が残される。

6) ユネスコバンコクが遺産保全における地域住民の役割を重視し、地域住民主導による保全とインタープ

リテーションを推進することを目的とするプログラム。

7) レブカタウンカウンシル職員へのヒアリング調査による。2009年 12月、タウンカウンシルにて。

8) 地域全体を屋根のない博物館ととらえ、博物館施設のなかで収蔵品を鑑賞するのではなく、遺産が本

来あるべき場所で展示され、また人々の生活を動態展示として見学するというコンセプト。コア施設で

情報を得た後、サテライトと呼ばれる実際の遺産や遺産地区をディスカバリートレイルと呼ばれるある

テーマに基づくルートに沿って見学するというシステムも確立されている。

9) Harrison 2004:p.213.

10) Harrison 2004:p.214.

11) Bhaktapur, Nepal; Hoi An, Viet Nam; Kandy, Sri Lanka; Levuka, Fiji; Lijiang, China; Luang Prabang, Lao PDR; Melaka,

Malaysia; Vigan, Philippines.

12) 協力隊員によるサインの設置以前は、そのように歴史的建造物を示すサインは設置されていなかった。

13) 記念碑や墓標などとして積み上げられた石。

14) 1枚岩からつくられたオベリスク、柱、像など。

15) 原 文:structure, erection, tumulus, cairn, place of interment, pit-dwelling, trench, fortification, irrigation work,

mound, excavation, cave, rock, rockdrawing, painting, sculpture, inscription, monolith, any remains thereof, fossil

remains of man or animals or plants or any bed or beds containing, such fossil remains thereof, any object which is or

are of archaeological, anthropological, ethnological, prehistoric, or historic interest, the site on which such object of

archaeological or palaeontological interest was discovered or exits, such portion of land adjoining the said sited as may be

required for fencing or covering in or otherwise preserving such objet of archaeological or palaeontological interest, the

means of access to and convenient inspection of such object of archaeological or palaeontological interest.

202

16) コンサルタントの代表である Watson氏へのヒアリングより。2009年 9月 11日、ロイヤルホテルにて。

17) コンサルタントの代表である Watson氏へのヒアリングより。2009年 9月 11日、ロイヤルホテルにて。

18) レブカでダイビングショップを経営するドイツ人女性。レブカ住民ではなく、レブカの北にあるオニビ

ロという地区に住む。観光のみならず海洋環境保全やレブカの湾内に沈む難破船の保全に対する関心が

高く、遺産関連のワークショップには可能な限り参加する姿勢を見せている。

19) Mr. Gibsonへのインタビュー。2009年 10月 29日。

20) Mr. Gibsonへのヒアリングより。2009年 10月29日。

21) 消防署長 Leweniqila氏へのヒアリングによる。2007年 10月 4日、レブカ消防署にて。

22) 約 45~ 50円。

23) 筆者も 2009年にホテルで盗難被害にあったが、犯人は実際にバンバ出身者であった。

24) ナショナルトラスト職員であり、バンバ居住者の Tabaki氏へのヒアリング。2010年 11月 19日。

25) 警察署員へのヒアリングによる。2009年 11月 22日、レブカ警察署にて。

26) バンバ在住のソロモン系住民へのヒアリングによる。2009年 10月 17日、オバラウクラブにて。

27) 2007年センサス調査終了後、オバラウ島担当であった Health Department Levuka Officeから情報を得た。

28) 例えば、元市長の Mr. Gibson、元タウンクラークの Mrs. Murganの家族など。

29) ロイヤルホテル、レブカホームステイ、マリッズロッジ、マビンダのベッド数をヒアリングにより確認

した。

30) トトンゴ川の北側、以前はマーケットとして利用されていた建物内に、中華料理や魚料理、カレーな

ど、 フィジー国内で一般的な料理を提供する店が常時 2~ 3店舗営業している。

31) Ms. Inn Kimへのインタビューによる。2010年 12月 12日、キムズレストランにて。

ナショナルトラスト職員へのヒアリングによる。

結 章

203

結章

1. 発展途上国における都市遺産観光開発に対する新たな成果

(1) 都市遺産の総合的価値

途上国における地域住民の生活は、これまでも観光開発の資源として注目されてきた。

途上国では、先進国のような物質文化の集積がない代わりに、先進国ではすでに失われて

しまった固有の伝統文化や、共同体による社会運営システムが継承されているためであ

る。都市遺産は、そのような人々の生活と歴史的建造物群が相互に依存し、関連しながら

継承されてきたものである。

そのように歴史的建造物群という有形遺産と人々の生活という無形遺産が一体の存在で

ある都市遺産の価値は、誰にとっても理解しやすい価値でありながらも、利潤追求型の観

光開発によって容易に破壊され得る。しかも、そこで破壊されるのは都市遺産のより脆弱

な構成要素である無形遺産、すなわち人々の生活であった。なぜなら、利潤追求型の観光

開発にとっては、歴史的建造物こそ根幹をなす資源であり、その文化遺産としての真正性

を維持さえすれば、より多くの観光客の誘致と利潤の上昇を導くことができると考えられ

てきたからである。資金のみならず、技術や経験が乏しい途上国の遺産地域では、そのよ

うな「人間不在の観光開発」に抵抗する術を持たず、世界遺産登録や歴史都市遺産登録を

契機とした観光開発を招致しつつ、それまでの住民生活が損なわれないようにすることは

困難である。一方で国際的な議論においては、観光開発は、遺産の法的所有者であり、利

用者であり、文化的管理者である地域住民が観光開発の主体であるべきであるということ

や、途上国における文化遺産保全は地域開発の役割を担うといった内容が盛んに議論され

てきた。

第 1 章において議論を整理したように、遺産概念が拡大されるなかで、近年では、有形

文化遺産と無形文化遺産の相互依存性を踏まえた価値観や保護のアプローチの必然性が認

識されるようになっており、それが現在の文化遺産保全分野の最先端の価値観であると

言ってよい。この価値観をもって都市遺産を見ると、都市遺産の価値はその有形的側面の

みならずそれと一体となって存在する無形的側面も合わせて把握されるべきである。しか

し、都市遺産の無形的側面を構成する「生活」に関しては、保護施策の構築が難しいとされ、

204

これまで都市遺産の総合的価値を把握しようとする研究そのものも発展を見なかった。

そこで本研究では、有形文化遺産の継承者であり、無形文化遺産の表現主体であり継承

者である地域住民の生活と有形文化遺産の関連に着目し、その総合的な価値の把握を試み

た。まず、歴史的建造物群という有形物の価値をこれまでにも行われてきた手法に基づい

て把握し、さらに住宅計画のために使用されてきた手法を用いて歴史的建造物群と人々の

生活との関連を把握することにより、対象地における総合的価値を明らかにした。

以上より、レブカの都市遺産としての総合的価値とは、次のように説明できた。レブカ

の近代都市空間は、先住集落期の空間構成を継承しつつ形成されたものである。その空間

を、文化的、民族的、宗教的に多様な人々が住み続けながら利用してきたことにより、そ

れらの人々の個人的な記憶や、家族や民族集団に代表されるような集団内で共有される記

憶の中に、有 形文化遺産である都市空間と無形文化遺産である住民生活との関係性に関す

る情報が蓄積されてきた。そして、その蓄積を通して現在の都市空間は地域住民の感性と

つながり続け、意味をもたらし続けているといえる。つまり、レブカの都市遺産としての

本質的価値とは、歴史的建造物群の有形的側面に関する真正性が評価できる点に加え、無

形的側面として、多様性のある文化のなかで展開される伝統や慣習と、私的な建築空間か

ら公的な都市空間にいたるまで途切れなく継承される用途や機能が評価できる点、そし

て、それら有形・無形の遺産に対する記憶の蓄積を通して培われた感性から都市遺産の真

正性を評価できる点にあることがわかった。

 そしてこの本質的価値は、以下のような遺産の完全性の説明によって証明できた。レ

ブカが有する都市遺産の総合的価値については、その完全性を構成する諸要素として、第

一に、先住集落期の空間構成を継承しつつも、フィジー・ラッシュ期及び首都期にかけて

20 年に満たない短期間に急速に成立し、コプラ貿易期を経て形成されてきた都市の空間

構成及び建造物が、100 年以上の年月を経てもなお軽微な修理のみで利用可能な良質な建

築ストックとして継承されていること、第二に、初期入植者の子孫だけでなくその後都市

に移住してきた人々の民族の多様性、第三に、それらの多様な民族的背景を有する人々が、

歴史的建造物の形状は維持する一方で自文化を適応させる利用形態をとり、機能を固定す

るのではなく空間と時間に合わせて多様で自由度の高い用途で利用するという利用形態、

第四に、歴史的建造物群が現在の住民のものとして利用され続けているという状態、そし

て第五に、そのように日々の暮らしの一部である歴史的建造物群について、地域住民自身

が変遷や過去の利用形態を物語ることができる記憶の蓄積、を挙げることができる

205

(2) 都市遺産観光開発の主体

都市遺産観光開発の主体については、まず都市の住民構成の変遷を明らかにしたことに

より、これまでの都市遺産の管理主体を把握することができた。過去に管理主体であった

欧米人の子孫の多くは既にレブカに住んでいない。また、レブカの店舗建築や住宅建築を

建設したドイツ人や宗主国としてレブカを最初の首都と定め、フィジー全土を統治したイ

ギリス人とも独立以降は関係が希薄である。しかし、過去の都市遺産の管理主体も広義の

遺産の文化的所有者であるといえることから、より多くの管理主体が遺産の価値を認識

し、遺産保全へ貢献することを可能にするために、彼らが遺産の価値を理解できるように

するための情報、交通、感情のアクセスが必要である。観光開発は遺産と人々の断絶した

関係を再び繋ぎ、それらの人々による遺産保全への貢献を実現可能とする手段となり得

る。その際、現在の地域住民によってどのように遺産が生かされているかを説明し、訪問

者が現在の都市遺産の総合的価値を理解することができるようなハード及びソフトによる

展示と解説も求められる。また、欧米人による先住民やその他非欧米諸国出身者へ対する

差別といった負の歴史に関する情報についてもアクセス可能とすることが必要である。

本研究を通じて、都市遺産の総合的価値は住民の生活に依拠することが明らかになった。

地域住民は、都市遺産観光開発における価値の所有者として遺産を管理し、利用者として

間接的に管理する一方で遺産に関する記憶を蓄積し、また地域文化及び民族に固有の文化

の表現主体でもある。すなわち、地域住民は、都市遺産観光開発における資源である都市

遺産の管理主体であると同時に観光資源を生み出す主体でもある。よって、その総合的価

値を観光の対象とするならば、都市遺産観光開発は地域住民の生活なくしては成立しな

い。

一方、途上国の都市遺産の多くは、旧植民地時代からの建造物群で構成され、それが誰

の遺産であるかということが問題になる。侵略され、独自の文化が破壊された上に成立し

た蓄積を継承する必要があるのか、という問いに付されるのである。しかしこれまでに明

らかにしたように、また歴史的建造物が負のストックと把握されているならば起こり得な

い、生き生きいきいきとした活用の実態からも読み取れるように、レブカの住民は歴史的

建造物群とともに生きており、建物を愛し、住み続けたいという意思、また都市遺産とし

てを継承したいという明確な意思を示している。

従って、レブカのように、地域住民が遺産の管理主体であり文化の表現主体でもある事

例においては、遺産保全の主体が地域住民でなくてはならないことを明確化した点も本研

206

究の成果であると指摘できる。

レブカの住民が、過去の白人による差別という歴史的事実にもかかわ拘らず都市遺産を

継承したいという意思を有する理由について、あくまで推論であるため今後の検証が必要

であるが、筆者の考えを述べる。まず第 2 章で明らかにした通り、レブカは宗主国によっ

て強制的、搾取的に奪取され、計画的な植民地として成立した都市ではない点ことが挙げ

られる。さらに、レブカタウン領域外は、伝統集落の文化が政治体制を含め継承されてい

るため、フィジー系フィジー人の多くは家族の出身の村への帰属意識を持ち、レブカの都

市機能を便利なものとして利用している点が挙げられる。これは首都スバが位置するビチ

レブ島においても同じ状況で、都市部以外は先住フィジー人集落の土地所有権が保持され

ている。インド系住民については、自民族がもとは旧イギリス領フィジー政府の政策によ

り奴隷として連れてこられたという認識を有するものの、現 在のレブカタウン住民の先祖

は奴隷としてではなく、店舗経営のために移住した人々の 2 世や 3 世であるため、民族と

しての負の記憶は有していても、より小さい小さな家族や個人という単位ではその記憶が

身近なものではないことが指摘できる。また、彼らはフィジーインド系フィジー人は、の

インド人はフィジー化されているため、その忙フィジーで生まれ育ち、そのタイムが流れ

る生活に馴染むなかでによって言葉や慣習が単純化されていると自らを説明すると話すの

を数人から聞いたことがある。そうした時の彼らは、決して悲観的な表情を浮かべておら

ず見せず、むしろフィジー人としての自らを楽しんでいる様子であるように見受けられ

る。奴隷として移住してきた訳ではないアジア系住民も同様である。周辺島嶼国からより

良い教育を受けるために近年移住してきた人々を含め、第 3 章で述べたように、現在のレ

ブカ住民はレブカの歴史的建築物群を負の遺産としてではなく、自分たちが生まれ育ち、

家族が生活した記憶の蓄積を通して培った親しみや愛着といった感情の対象としてこれか

らも継承したいと考えていることが指摘できる。

(3) 「人間不在の観光開発」に対する成果

本研究で明らかにした都市遺産の総合的価値は、住民の生活に依拠するものである。そ

のように価値を明確化した結果、価値の継承のためには現在の地域住民が住み続ける必要

があること、また現在の地域住民が住み続けることで都市遺産の総合的価値は今後もより

高まり得ることを導いた。

そして、その実現のためには現在の住民が住み続けることを支援するためのシステムが

207

構築される必要があること、また無形遺産要素に対しては団体や個人の活動を支援するこ

とによって継承を促進し得ることを導いた。

よって、「人間不在の観光開発」に対する本研究の成果は、地域住民が暮らすことによっ

て成立する都市遺産の総合的価値を明確化することにより、人間の存在を遺産価値のなか

に位置づけた点にある。都市遺産の総合的価値を観光資源とする観光開発においては、地

域住民の存在こそが不可欠であり、その侵害は資源価値そのものを損なう行為として避け

なくてはならないのである。

さらに、地域住民がそれを客観的な分析を通して認識することにより、自民族や自文化

に対する誇りの醸成につながると同時に、居住の持続の意義を再認識できるような分析結

果を得られたことも対象地の「人間」に対して残せた成果であるといえる。

しかし、対象地において「人間不在の観光開発」が起こる可能性がなくなった訳ではない。

本研究の成果をもとに、実際 の遺産保全及び観光開発が推進された上で「人間在の観光開

発」の成功を見るまでは本研究の成果が真に対象地における「人間不在の観光開発」の回

避に資するものであるということはできない。また、対象地における成功により、その他

の事例地における「人間不在の観光開発」にも応用可能な研究であることが証明されるべ

きである。

(4) 有形文化遺産と無形文化遺産の総合的価値付けの理論化と実証

1970 年代から住民運動として始まり、やがて文化財保護制度(伝統的建造物群保存地

区制度)と共同する仕組みとして発展し、地域振興の手法として確立した、日本における

歴史的集落・町並みの保全運動である「町並み保存運動」は、文化遺産保護をめぐる国際

的な議論の今日的視点から見れば、先進的経験であったと言える。つまり、建造物群とい

う有形遺産と人の暮らしという無形遺産を、ともに遺産の価値説明に不可欠な要素(側面)

であると認識し、それらの関係性を有機的、総合的に価値づけ、一体として保存(住みな

がら保存)することでまちづくりとして展開しようという優れた理念と方法論であったと

言える。しかし、日本のアカデミズムはそうした視点から町並み保存運動を評価すること

はなかった。

これに対し本研究は、日本の伝建制度が実践しつつも理論化できなかった有形文化遺産

と無形文化遺産の総合的価値把握について、事例研究によって実証したものであり、この

点も本研究の成果であるといえる。

208

(5) 日本の経験と国際社会の遺産概念との架け橋

国際社会は、有形に偏りがちであった過去の遺産保護理念の反省に立ち、無形遺産保護

に注視するようになるとともに、文化的景観といった無形の価値に裏付けられた有形不動

産遺産を評価する枠組みを 90 年代より開発するとともに、いわゆる日本における「町並み」

の概念に近い「リビング・ヘリテージ」概念による遺産価値の把握とマネジメントについ

て議論し始めている。こうした国際的な議論に対する日本の顕著な貢献には、遺産の真正

性評価の概念を有形的側面のみならず無形的側面にまで拡大した 1994 年の「奈良ドキュ

メント」が挙げられるが、それ以降は、無形文化遺産条約の成立を支援したものの、有形

文化遺産と無形文化遺産を一体の価値として捉えるための理念や手法の構築に対する顕著

な貢献は見られなかった。

これに対し本研究は、伝建地区保存制度の成立と運用を通した日本の経験と国際社会の

求める遺産概念とに架け橋を渡すことのできる実践に裏付 けられた理論と手法を提示し

た。本論文の成果は、今後、途上国において、リビング・ヘリテージを保護しつつ持続可

能な観光開発を実現する上での学術サイドからの基礎理論としての役割を果たし得るもの

である。

換言すれば、本研究は、これまで日本における町並み保存運動が実践しつつも理論化で

きなかった有形文化遺産と無形文化遺産の総合的価値把握を、事例研究を通じて実証した

ものといえる成果とも言えるであろう。

(6) 日本の伝統的建造物群保存地区制度の援用

本研究では、伝統的建造物群保存地区の価値付け手法を援用したが、コンテクストの違

いを乗り越えるために留意した点について述べる。

アンケート調査では、まず、項目と内容の妥当性を確認することに留意した。具体的に

は、フィジー文化遺産局のレブカ事務所職員に相談し、質問項目や文言の修正を行った。

また、レブカタウンには自治会のような連絡手段が存在しないため、アンケート用紙は筆

者と前述のフィジー文化遺産局職員とで各戸を訪問して配布、回収を行った。フィジー人

は、彼ら自身が「フィジータイム」と呼ぶルーズな時間感覚を持っている。その為、回収

時期を早めに伝え、第 1 回の回収時に未回答であった際に再度訪問して回収できるように

した。筆者自らが配布と回収を行ったことにより、訪問時に自己紹介や調査の目的説明を

209

行うことができた。その結果として、訪問先の住人についてどのような人が住んでいるの

か観察でき、また相手に安心して回答してもらうように信頼関係を深めることができた。

都市史調査では、都市形成の過程を歴史、空間、景観という分析軸に沿って解明すると

いう手法を踏襲した。その結果、結論を導くためのアプローチは異なっても、それら 3 つ

の視座から分析するという手法は変化させることなく援用することができた。ただし、史

料が非常に限られることと、都市が短期間で成立しているため、段階を追いながら形成過

程を分析することが困難であった。また、日本の歴史都市の住民は古くからその都市に住

む家族の子孫を多く見つけることができるが、レブカでは都市成立最初期からの家族は多

くなく、ヒアリング調査に基づく情報の収集が困難であった。史料については、日本であ

れば役場で土地台帳や明治期の地籍図が入手可能であるが、レブカで当初入手できたもの

は 1948 年作成のもので、現状の地籍図とほとんど変わらないものであった。そこで、資

料収集は現首都の博物館、公文書館、図書館はもちろん、新聞社や大手写真店のアーカイ

ブにも求めた。レブカは 19 世紀後半に形成された都市であるため、写真資料や絵はがき

の数が比較的豊富であったが、いずれも年代が不明のため、撮影されている場所の特定を

行うとともに、写っている建築の同定からその他の写真の編年分析を行った。史料収集の

際は、他の研究者との情報交換も行い、情報収集に努めた。

日本における景観保全の最新の手法として、保存地区全体に同一のデザインガイドライ

ンを設けるのではなく、敷地ごとの履歴を読み取り、その結果を敷地ごとの修景に用いる

ことにより、より多様で真正性の高い景観を生み出す手法が実践されつつある。本研究で

は、敷地ごとの履歴を読み取ることができるような史料を得ることはできなかったが、都

市史調査に基づいた地区ごとの景観特性分析から景観形成の方針を導くことができた。

以上に述べたように、個々の手法の応用は可能であった。また本研究は、以上に述べた

個々の調査のみでは、都市遺産の総合的価値を把握することはできないことも明確にし

た。都市史調査では、史資料の分析を中心とし、それを補完する形でヒアリング調査を行っ

たが、史資料から得られる情報は、その目的通り都市が物質的に形成されていく過程を明

らかにするために有効である。しかし一方で、物質としては顕れにくい都市遺産の管理主

体及び文化的表現主体の属性や、彼らの記憶については明らかにすることが難しく、単純

に旧イギリス領の白人による物質文化を評価する結果を招きかねない。よって、都市居住

者の経年分析、現在の住民の生活を中心とする有形文化遺産及び無形文化遺産の相互依存

性、そしてその関係維持の装置としての個人や集団の記憶について明らかにすることに

210

よって、初めて都市遺産が住民にとってどのような意味を有するのかを明らかにすること

が可能になる。そして本研究では、レブカの都市遺産が、少なくとも都市住民にとっては「使

いこなし」とも呼べる利用の歴史を通して、個人の、または集団の感性とつながっている

継承していきたい遺産であることを明らかにできたのである。

211

2. 対象地における都市遺産観光開発に対する指針

本研究では、対象地のレブカについて、都市遺産の総合的価値の把握を行った。そして、

都市遺産の保全と観光開発に対する課題を分析した。ここでは、その課題を解決するため

の指針を示す。その際に、日本での先進事例として、白川村荻町における最新の取り組み

である『白川村世界遺産マスタープラン』(白川村 2010)を参照しながら進める。マスター

プランとは、目指すべき将来目標やそれを達成するための基本方針について提示するもの

であり、具体的な計画は別途策定される。白川村荻町は、1976 年に重要伝統的建造物群保

存地区に選定され、伝建制度が遺産マネジメントを担保するという前提に基づき、さらに

1995 年に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録された集落である。

伝建制度における初期の選定地区である白川村では、住民組織「白川郷荻町集落の自然

環境を守る会」(以下、守る会)が、行政との協働によって 40 年以上にわたって合掌造り

家屋と周辺環境が構成する価値を継承してきた。その価値は、「組」や「結」といった相互

扶助の制度や慣習、祭礼行事などを継承し続ける住民の生活と一体となって継承されてき

たものである。しかし一方で、近年になって、世界遺産登録審査時の検討内容が緩衝地帯

の設定や観光マネジメントに言及されるようになる中、白川村の遺産保全においては観光

マネジメント計画が存在せず、伝建保存計画に関しても 1994 年以来見直されてこなかった。

その結果、資産及び緩衝地帯の保存管理、世界遺産登録以降に急増した観光客の観光車両

による交通マネジメントと観光マネジメントに関する問題とそれを克服するための課題が

求められるようになったのである。それらの問題は、ICOMOS の視察団からも指摘を受け

る結果となり、危機遺産リスト入りへの懸念も起こった。そのような背景に加え、白川村

荻町の世界遺産の価値は、もはや伝建保存計画の見直しのみでは保全していくことができ

なという認識から、前述の課題を住民と行政が共有し、遺産の永続的な継承と地域の持続

的発展を実現させる将来目標を掲げ、課題解決のための方針と方策を示すために『白川村

世界遺産マスタープラン』(以下、マスタープラン)が策定されたのである。

本研究の対象地であるレブカは、世界遺産登録を目指す地区であり、現在は大規模な観

光開発は進んでいないものの、登録が実現すれば観光客の急増による住民生活への負の影

響が危惧される地区でもある。よって、伝建制度による有形文化遺産の保全と観光マネジ

メントに関する問題を経験してきた白川村荻町において策定された『白川村世界遺産マス

212

タープラン』は、レブカにおける総合的価値を担保する遺産保全と観光開発への重要な示

唆を与えるものであると考えられる。

ただし、計画の枠組みや達成目標は共有できても、その役割を誰が担うべきであるかと

いう点に関しては、地域の実情により様々であり、日本で行政が推進しているからといっ

て必ずしも同様の仕組みを確立することが地域にとって有効ではない。レブカに関しては、

ナショナルトラストという今後の知識と技術の向上によりその役割を担い得る可能性のあ

る団体も存在するが、現在は遺産保全や観光マネジメントの専門家が不在である。例えば

タウンカウンシルに関しては、本論でも述べた 2009 年の組織再編以前は全員レブカタウン

住民で構成されていたが、再編以降はタウンカウンシルで最も強い権限を有する 2 人がレ

ブカ以外の出身であるため、住民との信頼関係が低減している。その場合、旧体制であれ

ば問題がなかったことも、新体制下では異なるということも考えられる。そのため、各指

針を推進する母体を実務レベルでの関係者間の協議と実質的な議論と関係諸組織からの承

認を通さずに明言することは意味をもたない。よって、この指針はレブカの遺産保全と観

光マネジメントに関するステークホルダー全員に共有されるものとし、各指針の達成が誰

の役割であるかということに関しては言及せず、地域住民との今後の実務レベルでの検討

より導きたい。

2.1 『白川村世界遺産マスタープラン』の概要

マスタープランでは、計画の 3 つの柱として、「世界遺産の価値を高める:遺産価値の再

評価と保存管理の充実」、「世界遺産の価値を伝える:遺産価値の真正な展示と解説の充実」、

「世界遺産で人を育てる:遺産の担い手と遺産保護支援者の育成」を挙げており、それぞれ

遺産保全について、観光開発について、遺産継承のための体制整備について述べている。

「世界遺産の価値を高める」では、人が住み続けながら世界遺産を取り巻く環境や状況の

変化に対応しながらも保存管理を充実することを目標としている。そしてその目標達成た

め、第一に資産空間全体の価値の向上としてそれまで合掌家屋に偏重していた資産を構成

する価値の見直し、土地利用の継承の支援、建物の新築や増築のコントロール、修景によ

る景観コントロールに取り組むとしている。第二には資産の真正性を維持するため、合掌

家屋の茅の確保と防災計画の策定に取り組むとしている。そして第三に、世界遺産の構成

資産をとりまく緩衝地帯の保全の充実として、村全域の景観保全や文化財指定を進めると

213

している。

「世界遺産の価値を伝える」では、観光により世界中の人々に価値を享受する機会を与え、

保存により未来の世代にまでその価値を継承するため、展示や解説を工夫し、観光客や将

来の世代が遺産の重要性を体感できるようにすることを目標としている。そしてその目標

達成のために、第一に公的な展示・解説体制の強化、第二に集落の見せ方、もてなし方に

関する観光事業者を対象としたガイドラインの策定、第三に、主に観光車両を対象とする

交通マネジメントに取り組むとしている。

「世界遺産で人を育てる」では、「遺産の担い手」である地域住民の保存への意思の醸成

や協力の獲得、また観光客を「遺産保護支援者」に育てるために、観光振興を通して居住

環境の向上や地域活動の充実、観光客の有意義な体験を実現することを目標としている。

その目標達成のために、第一に行政、住民、関係組織の役割の明確化と協働体制の強化、

住民参加の仕組みや技術者の養成支援の体制整備、白川村荻町伝統的建造物群保存地区保

存条例に基づいて設立され、主に合掌家屋の修理に使用する駐車場収益による基金を管理

する財団法人世界遺産白川郷合掌造り保存財団(以下、合掌財団)の事業強化、観光マネ

ジメント組織の確立に取り組むとしている。

そして、マスタープランは、以上の 3 つの柱を実現するための方針と方策が資産の保存

管理、緩衝地帯の保存管理、交通マネジメント、観光マネジメント、計画実施体制の整備

の 5 つの枠組みで記述されている。

以下、その枠組みを援用しながらレブカにおける課題を解決するための指針を示す。た

だし、マスタープランの枠組みの内緩衝地帯については、レブカの景観保全のために重要

な検討事項であるものの、本研究で対象としたレブカタウン領域を取り囲む範囲に相当す

るため、ここでは言及せず、今後の課題としたい。また、交通に関しては、島に位置する

というレブカの立地条件上そのコントロールは比較的容易であり、むしろ訪問者の遺産へ

の交通アクセスの確保という観点が重要であるため、観光マネジメントの項目において記

述する。

214

2.2 総合的価値の保全

(1) 法、条例整備

日本においての伝建地区は、文化財保護法及び都市計画法とそれを根拠とする伝建制度

により基づいて地区を決定し設定、保護法に基づく自治体で定める条例に基づいて策定さ

れる保存計画を用いて、その地区内の歴史的建造物などを群として保存している。フィジー

においては「考古学及び古生物学的財産の保存法」が施行されているが、現状では単体保

存を主としているため、レブカはこの法律によって保護されていない。よって同法の概念

の拡大もしくは新法の立法と制度整備を行ない、建造物群の保全を国の政策のなかに位置

づけることが必要である。

また、現行のタウンプラニングスキームの施行から 15 年以上が経過しており、今後の遺

産保全と観光開発の進展を考慮した上での計画の見直しが必要である。

まず、現行のタウンプラニングスキームで提案内容の分析を行う必要がある。提案のな

かで実現された内容の評価や、実現されなかった内容に関して、現在の状況を考慮した上

での必要性の判断が求められる。

ゾーニングに関しては、現状では居住区 1 に指定されている地区では、小規模な宿泊施

設の建設が認められているが、今後の観光開発の進展を考慮すると、より多くの宿泊施設

建設の申請があると考えられる出てくることが予測される。よって、周辺の住環境を配慮

するため、住民の意見を優先したより詳細な設定が必要になるであると考えられる。

新築物件に関しては、階高、セットバック、彩色、材料、屋根形状などに関する基準の

設定が求められる。これは都市全体に画一的な基準を設定するのではなく、地区ごとの形

成都市家空間形成プロセスと景観の特徴を把握して設定する必要がある。また、そうする

ことによって都市全体の特徴の顕在化につながる。さらに、新築や修景の際には、その敷

地の履歴に基づいた設計を行うことにより、個々の建築のみならず都市景観全体の真正性

を高めることが可能であとなる。

新築申請や等の現状変更申請についても、LCC が存続していた時のように、その判断に

住民組織の参加関与が必要である。現在のタウンカウンシルの事務職員以外はレブカ出身

者ではなく、タウンカウンシルにおける勤務経験も 2009 年からの勤務が初めてであり、こ

れまでの許可の判断に関しても経験がない。こうした状況から見るとでは、特にこれまで

の経緯や判断基準を理解している地域住民組織による判断を仰ぐ必要があるといえる。

215

注 1) レブカの居住区はすべて Residential B に指定されており、Residential B では小規模な宿泊施設の建設が認められている。

(2) 総合的価値の管理

a. 歴史的建造物群及び公共空間の管理

まず、保存すべき歴史的建造物を特定し、価値の所在を明らかにすることが必要である。

日本の伝建制度は伝建群の外観保存を目的とするため、構造及び屋根、外観の維持を目的

として修理を行なうが、個々の建築の真正性を担保するためには内部の意匠の保存も必要

である。レブカにおいて多用されているパティションの設置と取り外しによる空間規模の

調整は居住者の利便性を高めるという観点及び建築の真正性を担保するという観点から奨

励される。

伝統的建造物群以外の建造物の新築、増築については、敷地ごと、地区ごとの履歴に基

づいた設計を行なうことを原則とする。し、調査によって履歴が明らかにできない場合は、

規模、材料、屋根形式、軒高、色彩などが周囲の環境と調査調和したものとすることが必

要となる。

b. 無形文化遺産の継承

生活から生み出される空間利用形態を含む無形文化遺産は、その生来の性格として建築

に求めるようなオリジナリティをもって真正性を評価する ことはできず、常に変化しつつ

継承されるものである。従って、規制による利用形態やその他の無形文化遺産の固定化を

試みることはその本来の性質を損なわせることになる。

以上のことを踏まえつつ、どのような空間利用形態が特徴的であるか、どのような祭事

や慣習が継承されているかを調査し、その結果をリスト化し、価値を顕在化させることに

よって継承者の意識を高めるとともに、後述の基金を利用して活動を支援することがその

継承につながると考える。

c. 記憶の収集

レブカタウンやオバラウ島、周辺諸島の居住者に対するヒアリング調査を継続し、記憶

216

に関する情報を収集することにより、多様な価値観、観点からレブカの都市空間及び地域

空間を把握可能にする。

d. 生活環境の整備

住民の生活は、都市遺産の総合的価値の基盤である。商業活動、居住に関わる通学、教

会や地域活動への参加、購買活動、生産活動等の継続性が担保されなくてはならないため、

現状の土地利用と建築用途の維持が必要である。

e. 防災

既存の防災設備の整備、点検、更新を行ないつつ、海外支援団体からの助成などを利用

して最新の設備を整え、消防団及びボランティアの訓練を実施する。

f. 助成制度の確立

現行の制度では、修理や修景に加え、保全活動のための地域活動に対する助成制度が設

けられていない。白川村では、伝建制度に基づく国や自治体からの助成に加え、合掌財団

の駐車場収益からの基金により伝統家屋の修理や修景への補助を行なっている。

レブカにおいても、観光収入からの基金を設立し、修理、修景事業助、地域の建築の様

式や工法を熟知した建築家や大工の養成、文化多様性を維持するための民族文化の調査・

研究・保護を行う団体の設立、啓発のためのイベントの実施、必要な諸道具の調達に対す

る助成を行なう必要がある。その実現手法としては、遺産保全と遺産保全のための観光開

発を目的とする非営利団体を設立して基金を集め、タウンカウンシルやその他の組織との

連携のもとに助成金助成システムをを運営運用するという方法が挙げられる。

g. 生活維持の仕組み

レブカの住民生活を維持する上で危惧されるのは、世界遺産登録後に予測される外部資

本からの物件買い取りによる地域社会のつながりの崩壊である。これは同時に、総合的価

値の滅失を意味する。よって、不動産の流通を市場経済に委ねてしまわないための仕組み

の構築が必要となる。新規の流入人口が物件を購入する前に、地域内における買い手やタ

ウンカウンシルや遺産保全団体による買い取りを行なう仕組みの形成が必要である。また

や、その仕組みによっても地域住民による所有が実現し ない場合は、新規流入者による事

217

業が地域の発展に寄与するものか否かを見極め、行政や地域による許可制度を設ける必要

がある。

ビーチストリートの商店街における反物屋、仕立屋、魚屋、スーパーマーケット、パン

屋、集落住民が開く市場、床屋などは生活の維持に不可欠である。これらの維持のためには、

既存のものと同業種業種と競合するで大資本のチェーン店等を排除できるようなを展開し

ている店は受入れないというルールを予め設けるなどの設ける方法が考えられる他、挙げ

られる。また、観光客に対して各店舗の紹介をし、ブラシャツの仕立てを奨励する、魚屋

や市場で買った食材をレストランで調理する体制を整えるなど、観光客が積極的に地域住

民と同様に各店舗を利用できるようなシステムの形成が有効であると考えられる。

一方で、低所得者の生活を守るために、前述の基金を利用したマイクロクレジット方式

の導入など、小規模ビジネスの支援や、ガイドの育成などを行って所得を向上させること

が可能であると考えられる。

h. 情報管理

レブカの遺産保全と観光開発に関してこれまで様々な調査や報告が行われてきたが、そ

の情報を管理し、参照可能な状態を保持し、新たな研究者や支援団体が情報を得やすい状

態をつくる必要がある。

調査活動から得られた都市遺産の個々の構成要素に関する情報のデータベースを構築し、

新たな情報が得られるごとに追加、更新することにより、遺産全体の細やかな管理が可能

となる。

また、地域住民やツアーガイドと積極的に連携し、彼らにも管理の一端を担ってもらい

わせることで、破損など変化が起きた場合の情報を常時提供してもらうできる仕組みを形

成することにより、研究員が常時全ての要素について把握しようとする努力が不必要とな

る軽減される。

特に無形遺産に関しては、調査の蓄積が少ない。そのため、カメラ及びビデオによる撮影、

録音による保存など最新の技術を利用したデータのアーカイブス化をすすめる必要がある。

i. 遺産保全団体の確立

日本では通常、歴史的建造物に対する現状変更申請や、修景に関する許認可や誘導の業

務を自治体が行なっている。レブカにおいては、許可するか否かを判断する基準も設けら

218

れていないため判断にばらつきが生じるなど、許可制度自体が十分に機能を果たしていな

い。現在の体制を見直すと同時に専門家を配置し、遺産の真正性に基づく基準によって許

可される必要がある。

(3) 観光マネジメント

a. 適正受入観光客容量の設定

住民生活を守るためには、観光客の適正受入数を設定し、住民の生活が侵害されないよ

うにする必要がある。宿泊客に関しては、レブカ、オバラウ島における現状のベッド数を

限界としつつ、周辺諸島やクルーズ船からの観光客に対しては、受入れ可能な曜日と時間帯、

行動範囲、サービス内容を検討の上で受入れる必要がある。

b. 交通アクセス整備

レブカへのアプローチは、基本的に海からとし、クルーズ船や周辺諸島からの小型ボー

ト客を誘致する。

観光客け受入れ体制の確立を待って、リゾートエリアであるナンディからの航空機直行

便を誘致する。ただし、滑走路の延長は基本的には行なわない。

島内では、現在のタクシー業者の車両を活用しつつ、観光客の数が増加した後には島内

の集落ごとに停留するバスを定期的に運行することも考えられる。

c. 展示・解説の充実

遺産の展示・解説については、現在のコミュニティセンター内の博物館の規模拡張と内

容の充実が必要である。

まず、歴史的建築物の展示は、歴史の流れと各時代のストーリーに沿った展示、それら

と現在の都市空間及び景観との関連づけることにより、個々の建築に関する情報からは得

られない都市全体の物語とそこから読み取れる都市空間及び景観の価値が説明可能である。

また、都市住民の民族的背景及び慣習にみられる文化多様性を説明するためには、写真や

映像を利用した展示が有効である。民族の衣食住に関する展示の他、都市の歴史を知るお

年寄りの話、家族集団や民族集団で集まってもらい、が集まって語る都市の記憶について

219

話してもらった時の話、民族集団で集まってもらい、都市について話してもらった時の話

などを録音、撮影し、展示するという手法が有効であると考えられる。同時に、都市住民

の生活を学んだ上で、都市住民になったつもりで滞在時間を過ごすことが可能なように、

ごく短時間のホームステイや、ブラシャツの短時間の仕立て、自分で釣った魚を持ち込み、

地域で一般的な調理法で調理してもらうことが可能なレストランなど、観光客に取ってとっ

ては都市の日常生活に入り込むことができるような、一方で既存の店舗の経営形態を変化

させることなく観光客を客層として取り入れることが可能な観光メニューを開発すること

も必要であろう。

また、ガイドツアー催行のためのガイドを養成する必要がある。資格基準を設定し、知

識のみならず、ガイド自身がいかに都市の価値を把握しているかを豊かに表現できる能力

なども評価することにより、画一的・演繹的なツアーではなく、いきいきとした都市の魅

力が伝わるツアーとなり得る。そして、ツアーガイドにはならなくとも、自らが営業する

店舗や周辺の建造物について解説をすることが可能な店舗経営者もガイドとして認定し、

訪れる観光客へ解説を行うシステムを構築することにより、都市住民の記憶に蓄積される

情報を観光客に与えることが可能である。

d. 観光動線の設計、回遊性の向上、案内体制の充実

レブカの都市空間については、多様な人々が多様な側面から物語ることができる。その

ような多様なストーリーを理解するため、ストーリーごとにそのストーリーに関連する遺

産を巡ることができるトレイルを設計することにより、レブカの都市空間や人々の生活に

ついて多様な観点から把握できるような仕組みが必要である 2。

また、それらの遺産について実際に住民から説明を受けることができるような各遺産サ

イトにおける解説者の養成も検討する必要がある。

注 2) 萩市の「萩まちじゅう博物館」では、コア博物館と呼ばれる「萩博物館」で萩まちじゅう博物館全体について学んだ後、地区ごとのストーリーに沿って設定されたトレイルを歩きながら、トレイル上のサテライト施設を見学する。

e. 観光営業に関するガイドラインやルールづくり

通路側への商品の陳列に関するルールや、地域の材料を使用し、住民の手によってつく

られた土産物の推奨などに関するガイドラインを作成することにより、景観や観光客の満

220

足度に配慮することが必要である。

また、観光収入によって可能な限り地域全体が裨益することができるように、観光業経

営者に対する課税や、バンバ地区など低所得者層の雇用促進を行なうことが必要である。

f. 観光プロモーション

観光プロモーションに関しては、地元組織としては広告費が不必要な Facebook、Twitter、

Youtube、Youstream などのインターネットツールを活用することが可能である。

また、フィジー政府観光局や観光省と連携し、ナンディやスバなどでプロモーションキャ

ンペーンを実施するなど、レブカの知名度を上げる必要がある。

同時に、航空会社やクルーズ船会社に働きかけ、航空機に関してはレブカへの直行便の

新規運行、またクルーズ船に関してはレブカを航行ルートに入れたルートの新規運行を実

現する必要がある。ただし、レブカの住環境の維持を鑑みると、宿泊施設が整備されてい

るクルーズ船の誘致によって夜間の静寂や風紀の維持に貢献すると考えられることから、

クルーズ船観光が推奨される。

g. 観光客と地域の信頼性の向上

観光客が実際にまちを周遊する前に、地域がテーマパークではなく生活の場であるとい

うことの理解を得た上で、周遊する際のマナー啓発を行なうことにより、文化的な負の影

響の回避と地域の風俗や生活習慣の維持に努める必要がある 3。

注 3: 竹富島の「竹富島ゆがふかん」は、島の入口である船着き場から道路を挟んで正面の位置に建てられるビジターセンターで、島の生活について紹介する他、集落を歩く際のルールが示されている。

h. 観光マネジメントの進め方

観光マネジメント団体を確立、もしくはナショナルトラストやタウンカウンシルなど既

存の団体の人員、知識、技術を向上させ、遺産の展示と解説、観光プロモーション、観光

収入からの遺産保全のための基金の設立と管理を行なう必要がある。その際、前述の遺産

保全団体と一体の組織として動くことにより、より遺産保全を前提とした観光開発を促進

することが可能であり、またそれらの役割が相互補完的であるという認識のもとに活動を

推進することが可能である。

221

(4) 総合的価値保全のための体制整備

a. 保全の主体の明確化と保護

現在、住民の間ではその一部を除いて彼らが主体的に保全を行うことの重要性や、世界

遺産登録が実現した後に外部資本が進出してくる可能性、そうなった時に起こり得る住民

生活への影響、また危惧される住民生活の消失などに対する認識は低い。また、住民は「遺

産」とは歴史的建築物であると認識しており、自分たちの存在や生活自体に遺産としての

価値を見いだしていない。しかし、本研究で明らかにしたように、彼らがそこで生活を続

けることにより都市遺産の価値は醸成されていく。

そこで、白川村の住民憲章の文言である「売らない・貸さない・壊さない」を応用した

ものを普及させることにより、住民の保全に対する意識の向上や自らが主体であるという

認識の向上につながると考えられる。一方で、「売らない」の実現のために、物件を売却し

なければならない事情に陥った場合、まずレブカ内もしくはオバラウ島内の住民に優先的

に買い取り権を与える、次にタウンカウンシル、ナショナルトラストその他の保全関連団

体での買い取りを検討するなど、それが無理な場合はレブカに馴染みのあるの遺産保全活

動を身近でよく理解している買い取り手者を優先するなど、可能な限り住民に近い立場の

買い取り手を選択することにより、都市の文脈と関連のない生活スタイルや既存の商店に

配慮しない新たな業種や経営形態をとる店舗の開店などを防ぐことが可能である。また、

店舗に関しては予め規定を設け、参入者に対するの業種や経営形態をコントロールするの

規定を設けるという手段も有効であると考えられる。

b. 意思決定システムの再編成

都市遺産の保全は、その管理者であり主体である都市住民の充分な理解のもとにすすめ

られ、また彼らの意思を尊重する必要がある。しかし現状では、様々な委員会組織が組織

されている一方で、すべての住民が意思決定の過程に関与できるようなシステムが存在し

ない。よって、住民代表として地域住民側の意思を協議する機関が必要である。タウンカ

ウンシル及び LHCS、ビジネスコミュニティ、教会組織、教員組織、赤十字など福祉関連組

織などを含む、すべての世帯が連絡を受け、また発言の機会を与えられるような横断的な

組織構成である必要がある。

その意思決定機関の代表者を含め、政府側関係機関の代表との協議を行う機関が必要で

222

あるが、これについては現在の LHCの枠組みを機能させることにより実現可能である。現

状では定期的に会議を開くことが規定されているが、協議の必要がある案件がある場合に

のみ会議を開くという形式をとることにより委員会を機能させることが可能であると考え

られる。

遺産保全に関わる事業については、各コミティが推進する小規模な事業から公共事業局

Public Works Departmentによる比較的規模の大きい公共事業まで様々な事業が実施される。

しかし、それらのなかには住民の意思が反映されないのみならず、タウンカウンシルにも

許認可の実質的な決定権が与えられないままに実施される場合もある。そのため、景観管

理を含む遺産保全に必要な全ての事業の優先順位と予算、実施主体などを提示する整備計

画を策定し、事業を管理する必要があると考えられる。タウンカウンシルが主体としてこ

の計画を管理し、前述の住民代表組織が協議組織として策定過程に関与することが望まし

い。しかし、そのためにはタウンカウンシルに対する予算と人員の増加が必要であろう。

c. 総合的価値保全に関わる組織の強化

以上に個々に達成されるべき方針を提示してきたが、ここではそうした方針を実行して

いくための組織について提案する。

まず、既に指摘した遺産保全活動と観光促進活動の一体化のため、また観光から得た収

入をスムーズに遺産保全に還元するため、組織は遺産保全とそのための観光促進を目的と

するものである必要がある。また、組織は非営利団体とし、目的達成のために資金を運用

するという方針を示すことにより、公共性を明示することができる。

また、予算については、基本的には商品開発などから独自に獲得する必要がある。ただし、

初期的には政府からの支援を必要とするであろう。

具体的な役割は、遺産保全部門における調査・研究、データベース構築、地域住民との

情報交換による情報管理、観光部門における遺産の展示と解説、集落の生活とタブーの解説、

商品企画、プロモーション活動、景観管理部門における修理・修景及び住民活動への助成

基準の策定、助成の可否の判断、修理・修景に関するアドバイス、地域学習部門における

教材開発、出張講義、住民ワークショップの開催、財務部門による基金管理などが挙げら

れる。ただし、景観管理部門の役割に関しては、タウンカウンシルと連携して役割分担を

行う必要がある。

223

d. 教育

地域住民の遺産保全への意識を高めるために、イベントの実施や学校での教育への導入

が有効であると考えられる。

2009年の Back to Levuka Festival(現 Old Capital Festival)においても歴史クイズなどのイベ

ントが実施されたことが評価される。しかし、その他にも以前のようなレブカの文化多様

性に関するイベントなどが導入されるべきである。また、初等教育過程のなかで、歴史的

建築物の見学、博物館の無料利用、レブカにおける民族多様性について学び、実践するといっ

たプログラムの実施により、子供たちのなかで自然に歴史や自文化への興味、多文化の尊

重といった気持ちが醸成されると考えられる。

そして、保全団体が、有形遺産のみならず、無形遺産にも視野を広げてその振興を支援

することも求められる。

(5) 島内集落との連携

オバラウ島の魅力は、レブカという都市遺産の周囲にレブカと関連しながら存続してき

た先住民集落を訪れ、フィジー系フィジー人本来の生活や文化に触れることが可能な点で

ある。また、観光客の受入れは、集落住民にとって貴重な現金収入となる。

観光目的地としての価値を高めるためにも、周辺集落へのガイドツアーの催行は有効で

ある。ただし、集落住民との意見調整や、試行ツアーの催行によるトレーニングなどを経て、

充分な事前準備を整えた上で実施に踏み切る必要がある。

また、観光客は集落へ入る以前に集落でのルールなどについて学び、そのルールに従う

ことに同意する必要がある。

224

3. 今後の課題

今後の課題としては、まず、都市遺産の総合的価値の把握について、有形文化遺産と無

形文化遺産の相互依存性の分析対象が住民の店舗兼住宅及び住宅建築に偏っており、公共

建築や公共のオープンスペースに関する分析は十分とはいえないことを挙げられる。よっ

て、更なる現地調査によるその明確化という課題が残された。また、建築空間における動

産品の種類や数に関する調査を行ない、文化多様性や空間利用についてより詳細な分析に

取り組みたい。さらに、建築空間及び都市空間全体において、過去の利用形態を分析して

その変遷を明らかにすることにより、都市空間とその利用形態の相互依存性の変化を明ら

かにし、レブカの総合的価値に関する記述の増補を行なうことも課題である。

住民の記憶については、レブカタウン内外に居住するより様々な背景を有する人々にヒ

アリング調査を行ないたい。、レブカの文化多様性における様々な属性を有する人々の観

点からみたレブカの都市空間に関する記憶をたどれば、ある人々にとっては転出を余儀な

くされたかつての居住地であるという負の遺産としての記憶が顕れることも考えられるた

め、こうしたいう側面にも留意しながら把握したいと考える。

また、宗主国であるイギリスにおいて、レブカの都市遺産やフィジーの文化遺産がどの

ように説明されているのかを、現地の博物館施設における展示や観光関連の史資料調査に

より分析し、現在は関係が途絶えている文化的所有者による価値把握及び解説の実態を明

らかにしたい。

そして、本研究で採用した調査手法をオバラウ島全体及びオバラウ島と関連の深い周辺

の島々において展開し、レブカタウンのみならず周辺の先住民集落をも捉えた地域全体の

空間利用史を明らかにすることにより、地域全体の空間が有する価値を明らかにするとと

もに、調査手法の応用性を検証したい。

本研究の成果を対象地における具体的な遺産保全及び観光マネジメントの方針及び計画

のなかに位置づけ、それらの計画の策定過程と実施の結果を検証し、本研究の成果が実際

の遺産保全及び観光マネジメント活動において有効な内容であるかを検証したい。

225

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付録資料

-1-

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付録資料 1. アンケート票

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-4-

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(1)It

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-6-

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謝辞 本研究は、九州芸術工科大学芸術工学部に在籍した 1 年間と九州大学大学院芸術工学府に在籍した 4年間、そして北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院に在籍した 1 年間の合計 6 年間の成果をまとめたものです。その 6年間を通じて、多くの方々にお世話になりました。 北海道大学観光学高等研究センター教授西山徳明先生におかれましては、言葉では表現しつくせない程の甚大な謝意をここに表します。研究室に所属するようになってからの 6 年間、あたたかく、時には厳しく研究者としての私を育ててくださいましたこと、心より感謝申し上げます。国内外の様々な調査地において、通常であれば学生は同行することができないような業務にも参加させていただき、先生が発展途上国の政府高官と対面し助言する一方で、地域の方々とともに地域課題に向き合いそれを克服されていく姿から、研究者がもつべき姿勢や態度を学ぶことができました。重ねて御礼申し上げます。本当に有り難うございました。 北海道大学観光学高等研究センター長石森秀三先生におかれましては、異例の博士課程 3 年次への転学手続きに始まったこれまでの一年余り、大変お世話になりました。深謝申し上げます。先生のおかげで、最後の一年間を素晴らしい研究環境に身をおきながら過ごすことができ、研究をさらに発展させることができました。しかし、私が行き届かないばかりに多大なご迷惑とご心労もおかけしました。深くお詫び申し上げます。そして、主査として、また南太平洋研究の大家として貴重なご意見を賜ったことにより、論文の論理展開の補強をはかることができました。本当に有り難うございました。 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授、国際広報メディア・観光学院観光創造専攻長西川克之先生におかれましては、本研究において根幹をなす遺産概念の理解に対するご指摘や、その他の詳細な点に至るまで拙稿に御目通しいただき、ご指導いただきました。先生のあたたかいお心遣いに励まされ、最後まで論文を仕上げることができました。誠に有り難うございました。 北海道大学観光学高等研究センター准教授山村高淑先生におかれましては、私の研究の大先輩ともいえる博士論文を執筆されておられ、その先生が査読してくださるだけでまず大変光栄でした。そして、先生にいただいた大変貴重かつ鋭いご指摘とアドバイスにより、研究の成果の根本的な部分についてより深い考察と結論を得ることができました。誠に有り難うございました。 岡山理科大学教授江面嗣人先生におかれましては、建築履歴調査によりレブカの歴史的建築物の特徴を明らかにするために多大なご尽力をいただきました。誠に有り難うございました。 九州大学名誉教授宮本雅明先生におかれましては、本研究の根幹をなす都市史研究の方法論を直接ご指導いただくことは叶いませんでしたが、その膨大な研究成果を通じてご教授賜りましたこと、ここに深く感謝申し上げます。この拙稿を先生にもお目通しいただけないかとずっと願っておりました。しかし、それが叶わない今、私が先生から受け継いだと信じております思想や手法、研究への姿勢を常に忘れることなく、今後はさらに別の地域においても展開し、少しでも発展させることができるように努めるという決意をここに表します。 そしてレブカの調査に加わってくださった宮本研究室と西山研究室の皆様、心より御礼申し上げます。過酷な熱さや害虫との戦いのなかでの調査となった時でさえ、みなさまの明るさと笑いに包まれ、楽しく調査をすすめることができました。 本研究は、レブカの住民のみなさまの協力なくしては進めることができませんでした。特に、元タウンクラークのアン・ムルガンとその家族、そしてロイヤルホテルの吉田ご一家は、私のレブカ滞在中、家族のように私を気遣い、様々な悩み相談にのっていただき、また私を励ましてくださいました。本当に感謝しております。また、元市長のギブソン氏、元ヘリテージコミティチェアマンのクマル氏には本研究を進めるにあたり多大な知見をご教授いただきました。そしてレブカナショナルトラストのリディア・バウアーさんと文化遺産局のアナセイニ・カロウガタさんは、時には調査人員として、また良き友人として私を助けてくださいました。本当に有り難うございました。 最後になりましたが、このような我が儘で風変わりな人生をためらいも迷いもなく生きる私をゆるし、これまでずっと支えてくれた父と母、見守ってくれた姉と弟、義兄と私の小さな友人リアムとキーファーに心から感謝申し上げます。本当にありがとう。

八百板 季穂