――目次―― 論文 1, 宗教学方法論における最近の問題, 田丸 ...

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――目次―― 論文 1, 宗教学方法論における最近の問題, 田丸徳善, Recent Trends in the Methodology of Religious Studies, Noriyoshi TAMARU, pp.1-16. 2, カントの理性信仰について:知的内的直観を中心に, 堀越知巳, On the Kantian “rational Belief”: concerning with the intellectual inner Intuition, Tomomi HORIKOSHI, pp.17-34. 3, 古代中国の地母神に関する一考察, 池田末利, A Consideration of Earth Mother of Ancient China, Suetoshi IKEDA, pp.35-50. 4, 仏教十戒思想の中国的受容, 吉岡義豊, Acceptance of Thought of the ten Buddhist Precepts by Chinese People, Yoshitoyo YOSHIOKA, pp.51-72. 5, Śvetāśvatara Upaniad VI-21, 原実, Minoru HARA, pp.98-73. 展望 6, アメリカの宗教心理学, 上田賢治, pp.99-105. 書評 7, 西谷啓治著『宗教とは何か』, 玉城康四郎, pp.106-108. 8, Carl Michalson, Japanese Contribution to Christian Theology, 鈴木一郎, pp.108-111. 9, 神田秀夫著『古事記の構造』, 鎌田純一, pp.111-114. Posted in 1961(昭和36)年

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――目次――論文1, 宗教学方法論における最近の問題, 田丸徳善, Recent Trends in the Methodology of Religious Studies,Noriyoshi TAMARU, pp.1-16.2, カントの理性信仰について:知的内的直観を中心に, 堀越知巳, On the Kantian “rational Belief”:concerning with the intellectual inner Intuition, Tomomi HORIKOSHI, pp.17-34.3, 古代中国の地母神に関する一考察, 池田末利, A Consideration of Earth Mother of Ancient China,Suetoshi IKEDA, pp.35-50.4, 仏教十戒思想の中国的受容, 吉岡義豊, Acceptance of Thought of the ten Buddhist Precepts by ChinesePeople, Yoshitoyo YOSHIOKA, pp.51-72.5, Śvetāśvatara Upaniṣad VI-21, 原実, Minoru HARA, pp.98-73.

展望6, アメリカの宗教心理学, 上田賢治, pp.99-105.

書評7, 西谷啓治著『宗教とは何か』, 玉城康四郎, pp.106-108.8, Carl Michalson, Japanese Contribution to Christian Theology, 鈴木一郎, pp.108-111.9, 神田秀夫著『古事記の構造』, 鎌田純一, pp.111-114.

Posted in 1961(昭和36)年

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宗教学方法論における 最近の問題 っ も 立 向 の

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今日われわれが宗教学と呼ぶ学問が、マックス ・ミュラーによってその基礎をおかれたものであ ることは、余りに

も よく 知られている。一八 セ 0 年にⅠコ下。 由仁痒 ~ 0 コ ( 0 臼のの住の巳の oh オキ四 0 巳を出して、々 小 教の客観的、実証的

宗教学万法論における最近 の 問題 田

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この ょう に、その性格や任務に関して見解の相 違 が存することは、今日の宗教学がおかれている 状況のいちじるし 2

ぃ 特徴である よう に思われる。一方ではそれを 神学に下属する学科とする議論が未だにもとを 立 たないと共に、またの

他方ではその中立性を強調して社会科学との 連 関を主張する立場が有力になってきている。そし てこのことは実際面

において、大学その他の研究・教育機関の枠の 中 で宗教学をどこに位置づけるか、という問題と もつながってくる。

筆者の印象では、わが国の宗教学はこの点で、 一 般 に末だかなり神学への依存 皮 が高い欧米のそ れに比して、独自の

性格をもっているように思われる。何れにせよ 、今日の宗教学が当面する重要な問題の一 つは、 神学(教学)、人文

科学、社会科学の間で、またそのなかで、その 位置を如何に決定するか、ということであろう。

おそらく右のような状況に刺戟されてであろう か 、最近数多くの研究者の間で方法論的反省の気 運 が見られるのは

注目に価する。その成果の目ぼしいものを挙げ て見るならば、 ヮソハ 「比較宗教学し( 毛舶臼 づゴ の 00 コロリハ韓由ぺの

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0 哩の & 浅知 由円甑 0 とゆ b.. お ふ)も 、 右の諸労作 と 連関して重要な方

法論的論述を含んでいる。さらに昨年九月、 マ | ルブルクにおける第十回国際宗教学宗教史会議 0 席上、プレー ヵ|

の 「宗教学の将来の課題」と題する論説をめぐ って熱心な討論がかわされたことも、こうした 傾 向 の一つの 表 われと

号目えよス

。(

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宗教学の方法に関するさまざまの問題を包括的 に 取りあつか ぅ ことは、もちろんこの小論の能く するところではな

いし、また筆者の意図もそこに は ない。ここで はむしろ、右にあげたような諸学者の論議を通じ て 、その焦点になっ

ていると思われる一つの方法論上の問題を取上 げ 、いささか検討を加えるに止めたい。かんたん に且 ミロえば、それは

教学における「理解」の問題である。この問題 ほしかし、或る意味では、われわれの学問にとっ て 決定的重要性をも

圧面

鈍 近代の黎明をなした啓蒙主義の時代にあ

っても、状況はほぼ同じようなものであった。

伝 統的 宗教(キリスト教)

接の支配 力 が弱まり、未知の民族や文化との

接 触が 開かれたことによって知的

視圏 が拡大した

結果、ひとびとは次第に

る よ う になった。そしてさらに個々の歴史的め

不 教の基礎にある普遍的な

輪 宗教、いわゆる「自然宗教」(

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口 ( 主 回を考える よう になったのである。この一連

の 運動は、ふつり「

理神

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お論 多分に思弁的な性格のつよいものであったが

」の名で知られ、ロック、ハーバート、

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リ シヤ、いわゆるギリシャ啓蒙

期が、 正にそう した時代であった,この点にのみ注目するならば

、宗教学の起源を遠

咄 くこの時代のギリシャの思想家の間にもとめ

ることも、あながち不可能ではなかろう。

-2 )

入 学 つ 先 に学 な 意 来る 制約 前史 る 問 も 図 。 取 を 界 に に 性 の

を こ 扱 持 の 述 先 の と

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る 集 わ 上 間 が 太 る 宗 硯 田 く に の だ 象 の の 当 揚 り

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走 する 人 ぎな要因であることは疑えない。

しかし近代における宗教学の成立を可能にした のは、護教ないし伝道というような実践的目的か らの解放という & 局

味 でのごの「客観性」のみではなかった。それ と 並んで、またそれと密接につながりつつ、大 き な 役割を果している

もう一つの要因がある。それはおそらく「経験 的 」または「記述的」要素と呼ぶことができよう 。先にあげた啓蒙 期

の 思想家たちは、距離を保っ客観的な視点を導 入することによって、宗教学への道を準備はした が、 併しその方法は

主として思弁的・哲学的な色彩がつよく、宗教 史の細かな事実の研究にまでは進まなかった。 そ してこれこそ正に 、

マッタス・ミュラー以後の学者が主として開拓し た 領域である。新しくひらかれた学問的分野 へ の 関心にかられて、

人々は言語学的、歴史的、人類学的、心理学的、 社会学的等、ほとんど考えうる限りの方法を援 用 して、過去・現在

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ればならない。そしてマックス・ミュラーも 、或 る 意味で、これらの思想家の系列を引くものと 見ることができる。 4

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の 宗教の事実の研究に伺った。例えば宗教史に

お け るいわゆる宗教史学派、民族学における

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それが、この時期の一般的精神状況と無関係で ないことも、指摘しなければならない。この点で 、現象学を創始した

フッサールと、とくに解釈学の理論をぎづいた @ アイ ルタイの影響とは、明らかにたどることがで き る 。

「理解」ということはしかし、厳密に舌口えば、

一 つの甚だ困難な問題を含んでいる。それが信仰 ないし宗教体験と

いかにつながるかという問題がそれである。

解 釈学 のとく所にしたがえば、あるものを理解する ためには、それをつ

き 放して眺めるのみでなく、共感的に受容しな ければならない。この場合で言 ,ぇば、 ダ イ ナミッ ク な生の機能として

の 宗教を理解するためには、われわれは「感情移 入 」によってそれを「追体験」しなければならな い 。しかしこれは、

或る宗教の理解のためには、研究者自身が信仰 をもつ必要がある、ということにならないだろう か 。事実こうした 主

張は 、今日もしばしば一部の神学者の側から 聞 かれるし、その声はむしろ強まってぎたと思われ るふしさえある。 例

えば クレーマーは、神学のみが「精神の自由と な 平な理解」や「先入見にとらわれない批判と評 価 」を生むことが 出

来 ると い,フ

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8 )同趣旨の発言は、さらにいくらで も 拾い集められよ う 。こうした主張は結局、つき つめて行けば、宗教

は 内側からしか理解できないということになる が、 若しそうだとすれば、宗教を客観的に取りあ つかぅ 宗教学は否定

されるか、またはせいぜい神学の補助科学に甘 んずることを余儀なくされる。このような 議ぁ 謂 の 拾頭は 、歴史的に

は 、第一次大戦後のヨーロッパおよび一九三 0 年代からのアメリカにおける、いわかる神学ルネ ッ サンスの一端であ

( 9 )

り 、さきに見た 25 に宗教学の成立を可能にし た 啓蒙 期 いらいの自由主義への、一つの反動とみ ることが出来る。 こ

の 一連の思想が、宗教は「究極的関心」の事柄 であって、それに対しては中立の立場はあり得な いことを力説した キ

エ ル ケ ゴールの「実存」的思惟に、その源を発す るものであることは よ く知られている。宗教が 当事者にとって究極

的な意味をもっという洞察は正しい。併しわれ われは、右の立場からの主張をそのまま承認する ことはできない。何

故 ならそれは、極端におし進めると き 、宗教学 の 可能性の否定へ み ちびかざるをえないからであ る 。

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これまでの簡単なスケッチによって、今日の仝

不 教学がおかれている一般的な状況は、いくらか

明 らかにされたかと

思 う 。この分析はまた同時に、この学科の性格

と 方法とを考える場合、ぜひとも考慮に入れな

げ ればならない 幾 っか

の 契機を見つげ出すことをも、目的とするもの

であった。繰返し舌ロ

う ならばそれは、一方では

客 観 的な態度と事実の

記述的研究、他方ではそれら事実の統合的な

把 握 のため要求される研究者のがわの理解と内的関

与 、という二組の相

反する動機のうちに見出される。これら両者の

関係をいかに考えるかによって、宗教学の学問

としての位置も決ま

る 。この種の方法論上の論議がしばしば困難で

あるのは、もちろんかなりの程度まで「客観的」、

「経験的」、「理解」、

「関与 ヰ遥ヰすい口

pd ぎ口 )」というような中心概念

の暖昧 さに よ ることが多い。したがって、毎月

の 混乱をさけるため

には、これらの概念をできるだ

け 正確に規定し ておく必要があることは、号ロ

ぅ までもない。しか

し 、前以てわれわれ

の 見方をテーゼとして表現するとすれば、宗教

学は何らかの形でこれら二つの要素を結びつげ

ろ ことによってのみ

湘 上村 暁 ⅡⅣ む け㍉㌃部や外部から宗教学に

ぬってなされる批判に対する答えの意味をもって

いる。こうした批判は

ぬ太ぎく二つのグループに分けることが出来よ

のうちの何れかを強調し

何 つつ、それによって宗教学を裁こ

う とするも のである。第一のグループの論点は、宗教

字は その対象の性質上じゅう

は ぶんに客観的であり得ない、というものであ

る 。すな ね ち、ダイナミックな生の機能として

の 宗教は、直接に観察で

ほ きずまた実験的に証明することも不可能であ

る 以上、それを取扱

う ことは 非 「科学的」であ

るとする。この立場をと

入ってくることは避け しうるものに限ることを

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輪 いろな学問の間の相違は 、げ つき よく 、それ ぞれの基本となる問いの立て方、つまりそのも のの見方の枠の相違に 帰

おする。まったく無前提の学問があると考え るのは、だから錯覚にすぎない。このように、 宗

穎 的な研究であるということをみ とめるとしても、そのこと自体、じつは宗教が 何であるかについての暗黙の理解を前 9

と 言わなければならない。何故ならその場合で

も 、複雑な現象のなかからとくに宗教的な事実

な えらび出すために

睡は、 少くとも宗教が何であるかについての

ある理解が必須だからである。この

ょう な予備的

な 理解は、ときに

ヮ ー キ

ただ事実から帰納されるだけのものではなく、

認識主体が対象の取扱い

な 最戊に

「われわれが科学的事実と呼ぶものはつねに

当っても

う げる一つの枠に体ならない。そ

、どこにも存在しない。答えに体ならない

いろ(

4 )Ⅰ

という限り正しい。宗教学はその研究過程で対 家 に拘束され

るのも、このことを指している。宗教的象徴、 制 皮 、祭祀、

とは、明らかに宗教学の仕事の一部である。 そ してこれらの

( 穏 )

ぅ ことを真面目に否定する者は、おそらくある まい。例えば

史的背景など ば 、仏教徒や神道家にも知り ぅる ものである。

なじょうに理解しないだけである。このことは

「客観的」

て 、はっきりと強調しなければならない。何故 なら、事実的

らかに可能だからである。

ただしこの「客観性しは、決して 付 制約のもの ではない。

系づ げが問題となると き 、明らかとなる。 と ぅ のは、いか

立たないからである。宗教学の任務を宗教の事 実の

記述にの

-

( 2 ll

ているから「宗教についての創作ではない。」と 言われ

教 説など、さまざまな事実についての知識をあ つめるこ

「事実」が、特定の信仰をもたない者にも知り ぅ るとい

イエスが生れそして死んだという事実や 、 彼の 生涯の歴

ただ彼らは、たぶんこの事実の意味をキリスト 教徒とお

な 宗教研究を不可能とする第二の立場からの 主 張 に対し

ぬ 識の蒐集という意味では、「客観的」な宗教 研究は明

そしてこのことほ、これら事実の解釈、つまり 理論的 体

なる学問的認識も、まったく解釈の要素なくし ては成り

み 限ろ う とするのは、したがって始めから不可 能 な試み

条件ではな

ることは 出

右のよう

をもっとも

れる「理解」

とである。

すように、

な 対象に目

はできない

ぃ 。もしそうだとすれば、すでに亡んだ歴史上 の宗教や、または現存している宗教でもその過去 を 理解す

来 ないことになろ う 。

に 考えてくると、われわれは一応ふたりのもの をはっきり区別しなければならない。すな ね ち、 ある信仰

よく理解するのはその信仰そのものになること だと言われる場合の、実存的な生のいとなみのな かに含ま

と 、さきに指摘したよさに宗教学的な研究の前提 として、およびその過程の中で要求される方法 ぬ 「理解」

たしかに両者は、究極的には一つのものである。 というのは、先に引用したファン・デル・レウ 0% 幅 も示

徹底的な理解はかならず理解の主体と対象との 同一化にまで行きつくもので、だから「理解は 、 どのよう

( 6 l Ⅰ )

げられるにしても、究極的には宗教的な性格を もつ。」からである。しかし、両者を全く切りは なすこと

( 7 l Ⅰ )

としても、区別することは一応可能であろう。 , 」の意味で ワッハ の舌ロ ぅ 「理解の段階」という 考 え方は 、

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i1 ( ⅠⅠ )

サる 最近の問題

に 、「解釈」ないし「理解」の要素を無視する。 」とは出来ないからである。ただこの場合の「 解 釈 」は、信仰の立場

からする神学的なそれと混同されてはならない。

このわれわれの見方 は、 多くの学問がじっ さいに似たような 複

雑 な構造をもつものである、との認識にもとづ いている。事実それらは(数学のように純理論的 な学科をのぞ げば ) 、

何らかの形において事実的要素と解釈的要素、 ないし実証的要素と理論的要素の二 つを 含み、 , 」れら二 つは 相互に 規

示唆にとんでいる。われわれは先に、宗教の事 実は特定の信仰の有無にかかわらず客観的に知り ぅる 、と述べた。 い

さ われわれは、さらに一歩を進めて、信仰なし にも宗教の内容の相対的に客観的な理解は可能で あるということがで

き る 。このことは、宗教は究極的関心のことが らとしてすぐれて主体的なものであり、客観化を 許さないという キヱ

ルケ ゴールの真理とは、必ずしも矛盾しない。 な ぜなら、まったく無前提に客観的な学問が可能 であると考えるのが

ティー ヴ な錯覚にすぎないように、まったく 客 観 化の契機を含まない純粋に主体的な信仰などと い う ものも、現実に

は 存しないからである。ティリッヒの鋭い観察 にょ れば「どの神学者も信仰に身を委ねていると ともにそこから離れ

ている:::神学的円環のなかにいるとともに

外、、

こうした自己疎外的

構造をもっている以上、その相対的に客観的な 理解としての宗教学もまた可能であるはずである

いままでの考察をも う 一度要約してみよう。 実 記主義者の主張するごとく、宗教学が事実の基礎 の … ,え壬エ たな げ

ればならないことは明白である。そして事実( @ ァ ー タ )についての研究は 、 疑いもなくその任務 の 重要な部分を占め

る 。しかし他方、宗教宇の仕事をそれのみに 限 ろ う とする試みは、 斥 げられなければならない

すでに論じたよ う

Ⅰ -, , 窩

前節でわれわれは、最近の傾向を念頭にお

きつ っ 、宗教学の性格や方法をわれわれなりに規定し

よ 5 と試みた。 宗

教学の方法論的な反省のもう一つの重要な

テ| て は、最初にも指摘した よう に、隣接する諸人文 科学との関係および

それ自体の組織をいかに考えるか、ということ

であろう。ここではこの問題に立入る用意も暇も

ないので、ただいく

つかの基本的な視点のみを強記することにする。

宗教学が、上述した よう に事実の要素とその 意 味の解釈の要素を含むとすれば、それを歴史的な

部分と体系的な部

分 とに分けることが出来よう。すなわち宗教史

と景狭義での宗教学とである。しかしこれが一応

の 概念の上での分類

であって、とくに近年、両者の間の実質的距離

がきわめて小さくなってぎたことはたしかである

。次に隣接科学との

この論述のなかで参照して 来 た諸学者の方法論 的 反省の結論も、じっさい多かれ少なかれ、同じ 点 を目ざしている 眩

よう に思われる。例えば ヱ リアーデに ょ れば「 士 不教学者は経験的研究方法を用いる。彼は宗教学 曲事実を取りあつかの

いつつ、それを理解しまた他人に理解させよう とつとめる。彼は宗教現象の意味とその歴史の双 方 にひかれるのであ

-9

@ Ⅰ )

って、双方を正しく考慮し、どちらか一方を犠牲 にすることがないようにする。」北川氏が「 基 本 的には、宗教学の

出発点は歴史的に与えられた宗教である。

不教学は記述的原理をまもらなくてはならない、 その探求はしかしみ 不

ぅ のも、おなじ意味と思われる。もちろん個々 の 学者によって 、重

点 のおぎ方は異っている。例えばスミスは「 比 較 宗教学の研究の人格化」を要請するあまり、 み 不 教の事実的側面

教説 、制度、祭祀などの研究は「予備的所 究 」にすぎない、何故ならそれは「宗教の外的形 式 」で「それ自身 宗

教 ではない」から、という。これは明らかに 一 面的に過ぎると舌口れなくてはならない。しかし 彼 とても結局は「人格

的 アプローチは 、 他の方法にとって 伐 るもので

宗教学方法論における 最近の問題

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は 、実存的ないとなみとしての信仰そのものに 伐 ることは出来ない。しかしこれは、そうした 認識が無意味である

という理由にはならない。それは宗教的現象の 多様な相を理解することを教え、それによって間 接 的にではあるが、

宗教的生そのものをも豊かにし ぅ るのである。 われわれは、かつてマックス・ミュラーがしたよ う に、ゲーテの逆説

を 引用することによって、この小論を閉じるこ とにする「外国語を知らざる者は、自国 妾 由 をも知らざるにひと

し 。」

(・ 14

申 -

宗教学方法論における 最近の問題

( 9 )このことのみならず、以上の概観がすべて、 一 応 西欧についてのみ当てはまることは、言 う までもな

このことは、

宗教 手 が西欧に成立したものである以上、当然である 。世界の他の部分、とくに東洋においては、宗教の「 科学的」 研

究は最近まで、あるいは今日でもなお、全く未知のも のであったし 又 あると言うべぎである。ここでは宗教 は、 つねに

「実存的」(この述語はもちろん用いられなかったが) な 問題として、取扱われて来たと言える。このように 、東洋が

今まで科学的精神の洗礼をうけなかったということか ら 、今日の東西文化の接触に当って、宗教研究の方法 の上でも、

いろいろな困難が生じている 0 ここでは併し、ただ問題 0 所在を指摘するに止めるの外はない。の戸ロこの方の

グ 毛 0 「 ヴ -0 ミ |

のガせ -0n.

い岸 ・一目 @ ウ c す o Ⅰ・ いズ ・Ⅰ・㏄

ト 一 パざ のの のミウ 0 で・ りぎ Ⅰ・ いヰ ・ 0 億。

( 皿 )北川氏は( 0 口・ n@ (・ 宅 ・ 0 ム )四つの批判を数え上 げているが、われわれは別の観点からこれを二つにし ほった

(Ⅱ) セリコロ のⅡⅠのの

目毛 。 ワゑ (・の・

べのい

(は))すぎ・の・~のか

@c (・

め - ぎ 巨の @ 、 ・(二の

オ穏牟

0 「 ざコ 0 (Ⅱの

甘的 -0 二のし心さい

悪わヰ Ⅰいい㌔つ

0 ヰココ の ぺ 0 Ⅱ - 頭コ 0 Ⅰの 仔 すいキミ ア - い プずアずヰ 0 ゥ @ り 八二 %

00 臣い Ⅰの キ 0 ・・

, ( 0 Ⅰ・ 0 目(・

づ ・㏄㏄)

( 甘 ) 0 (・

ミ pn ゴ o つ ・ コ (・ ワ ・ Po (

(Ⅱ) 口 ・の り の 四 「の ぺ @ トコ Ⅱののの

せ 0 コミ 曲コ ( トコ nroq

のⅠ )Ⅰ・いい)・

ぃ (・Ⅰで・の

2. ㏄㏄。

( 騰 )一般にものの究極的構造や意味についての認識 を 哲学と舌ロ ぅ のにならって、示教というものの究極的 構造や意味(Ⅱ「 大

質 」)についての認識を宗教哲学というならば、 そ

( づ 二目ぃす

@ い せ降の日 注ざドす n0-0

の せそ o-.H.

つ ・ む 0 )

の 研究の最終の結果についてとおなじく、この ワ| キング・ハイ ポ

セ シスの問題においても、宗教学と宗教哲学は相接す るということができる。ハイポ セ シスの名のごとく 暫 定 的なもの

で、研究の進むとともに修正されるとしても、それは 少くとも対象としての宗教というものの性格について の 何らかの

( 騰 ) セゥコ 由のⅡⅠ

ee

㌍ 毛 0 口 ・ ユ (・の・

べの ㏄

( け, ) 臣ハいプ 0 口 ・ n ぎ ・ つ ・ ト ト一 い帳 @ せい コ 巨のⅡこの㏄由幸

0 口・ 0 @ (・の・Ⅱ㏄の㌍・

( 00 ) 円 ぎざ す 0 つゑァづ o@H.

つ ・ トっ

(㎎) 口 - ぎ 口の 0 づ ・ 由 (・ つ ・のの

@' キ ・㌔

( 穏 ) 抹 @ (ぃ内ぃ毛の

( れ )の 日 @ 二 0 口

( 戎 ) せ性 ・ つ り コ

附記この試論は 、

はなはだ意にみん

0 ㌧・ いぎ ・ つ ・㏄ 目

ハ ツ・㌧ つ ・㏄ 包 、下 0 臣 0 田の

宙 り Ⅱ い ee

け名

0 つ ・ りざ ・㏄・

べウ タ ベ ㏄ 卍片

欧米学界の一部の傾向のみを念頭

にないが、手を加える暇がないまま 印 に

刷お

@, 附て @ し @ 言己 l 日

し % 高 司

て な

。 う冗 士 も

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諒 た

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を の うあ 。 る

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容、

形 式

(16) 16

耳 ニ @

俺円 @. Ⅱ。

弔 Ⅰ

カントの理性信仰について

あ 合、 る そ よ も と 庇 う な ろ

る の 。 し の び 瞥 見 と げ も 。 ヵ

か しガ 一ハ蒙らした イ め れて。 ぅ理ン げ性ト

て べ る ほ つ つ を い き あ た の あ 耶雙支 、 き か 、 て い 故 う な る 。 問 る 界 、 姿 に 共 て 意 こ い か 周 題 い 田 . を し か と を だ と 代 の ル 界 、 代 る 反 問 の あ に 核 と ン も は よ に 計 理 題 梱 る あ 心 っ ト っ 当 り つ さ 半 は 不 、 呈 ブ 理 啓 国 を は る 遼 河 一 理 さ レ 住家 家 ぅ 既 こ 、 よ 軟 性 せ l の に 権 げ に と 理 り を

とた 文。 キ睡 をを ょ力 る " まく " 古 、 信 ず と

そ 仰 「 す の の 埋 る 合 こ た で 判 教 、 つ 目 U 佳 月、 埋 と の 汚 に 会 理 の

と は で し 向 か 性 評 か 主 仰 を 合 力 る 廉 ら 発 側 が る 張 」 一 理 ン 。 で れ 禁 か 成 伏 し と に と ト 教 、 た の ら 立 況 、 い し は 派 会 裏 書 処 の し の 更 ぅ て 大 、 の 切 論 分 政 て 基 に 結、 い 々 お 側 9 弾 を 撃 い

17@ (@17@)

@

理性知的内 の 直 目 一

蟹仰

堀 て

るた 。 と とし

ては 即ち き 、 思 理

・ 准 佳 句 一 もま 六日

般 「 な に 主 る お 俸 存 い の 在 て 或 に 走 る 対 ィ立 決 し す 定 て る 根 も

と 挺 ぷ / い ( の

の 観 汀 た 的 臣 め

根拠が に 同 乙絹 、 の 臼

する両 合 、理 に従っ

,陸 て 者 の 」 い

的 Ⅱ 選 板 お 択 拠 ) を に 定 道 従位 ら っ す れ

と あ れ の 通理

理 し で て つ い 一

信て

で 下 こ れ

主 の で 場 体 は あ 所 ちんるた 田口Ⅰ ゼペ ㏄ で占める いわた仙

めに知 甘 Ⅱ ゴ巴力 の 。 、 る。理

は し ト 監

、 ほ の ( 除く に求 の根 ( 義

」( は外観めて、 メ 目 せ 0 由 ・

た っ に

性 、 従 と 」

的 要因をカント文献に即しつつ論じるこ

るが、それを通して人間存在における理性

| 信仰

が 蔵する構造の一新

。 ふ ・ 4 お

モ ㍉

7 Ⅱ

盤 として本稿が問題設定する処は、理性と信仰

の カント的結合の根拠如何である。つまり啓示

と 現象的自然の両面か

ら 断絶した場で、信仰は思惟のいかなる機能に

その根を見出し

ぅ るかの問題である。従って当面

、理性と信仰の機能の

面を捉えてみたいのである。ここで、信仰は啓

示 信仰と無縁の如くであるが、問題の展開はや

がてそれとの連関を

そうした企図

は もとより慎重を要するが

明かにし

ぅ るかと思

う 。

が坤

琵 ・ -. 。

カントの理性信仰について

は呼 「 る沫て

理、 さ 不 に 論、 意

達 に 「

づ臣 (

目 で 諾 いた 守 て しげ 理にと 可 理 とて す l

19 (19)

それなら信仰の「内面的状態」、信仰によって 立 つ 「主体的根拠」、あるいは「感情」とは何であ

るか、この点に次

の 展開を求めてみたい。上述のよ 5 に、信仰は 理性のある主体的根拠によって定位された田口Ⅱ 名簿 甘 Ⅱ ゴの一

(の コ であ 二り

がために、理性信仰と名づげられた。このこと から、問題は、理性の主体的根拠にしぼられ、 理 性の核ともい う べ き

持 牙ら 忠帝 のに焦点を結ぶ。「統覚」をこの問題 と 結びつげる必然性には多くの疑点、反対があり ぅ ると思 う 。まして

や 結論を先取して、統覚の統一のうちに、主体 の 自己存在把握の働 き 、自己の現存在の感情を認 め、 更にここに理性

| 信仰の結合の根を据えると言えば、荒唐の訪 を まぬかれないかも知れぬ,以下、蒸煮の問題 提 起を恐れうっ、論述

の 整合を急ぐばかりであるが、ただ少しく意図 する処を記してみたい。

カント解釈の流れのうちに

づ の ヨ 佳音(打日 ドの に 抑圧されたのの富三という問題と関連する 枠 内で採り上げるの

だがカント的前提に対する所謂、内在批判 の 立場を見ることができる。即ち理性の必然性に 理論的および実践的

能力以外の一層広い能力を帰属せしめうること を立証し、それによって、前提された理性の意味 を 拡張し豊かにせん

と 意図した人々である。しかしぎ田荘寓目 ac ザの Ⅱの言った "& い の ピト のⅡ 日む 岨の目 宙 のの ハ りの片む

ピ の ,あ る ⅡⅠは隼の ヨト の ヰ 汀が

甘 no 荘や弓 Ⅱ い ののと関連させて語った

,かザコ由宙

コ呵 、これらは結局理性の内に属せしめうるもの と 思われる。その 意

昧で 二の方向における試みは、感情的なものの 発掘に成功しつつも、帰着する処は啓蒙の延長線 上から出られなかっ

"- 一

のを絶えず狭める方向に働ぎつつ、しかも他面 あくまで「理性の自己保持の格率しを守るが故に 、非合理の方向への

制限ともなっている。

& の ( ま 0 ③ コ せの目ロ

ロ卸ま 。 ぃ巽、

か口 日 ,)理性

信 仰は弓む

メヰ曲

「 オロオ田ガ下であることによって

、 。 由の臣になろうとする㏄

ものを妨げる或る壁を不可避的に含んでいる。

即ち信仰は理性の主体的根拠によって選択された

が 故に、合理的なもの

@,

局耳由 この田口。二のの)

ココ のⅡのの かコ の ぃ甘 P 屈の臣 , ( オ 経 ・ パせ目 。 轟潟 ・ か ㏄㏄の)等と呼ばれている。この 意味で自我はただ

監ね

たよう である。しかしこの方向に更に一歩を進 めるなら、仮にカントの説を越える危惧があると しても、恐らく カン

トの 理性、従ってまた理性信仰に対する一つの 視点が得られるのではないかと思 う 。

論述を Hn

ダロの

已 おに戻したい。

ヵント によれば

統覚(卜せ

罵 qNe

で 由 0 口)とは、意識が同一である

ことの根拠である

と 同時に 、 与えられた多様を綜合的に統一する 根拠でもある。従って先験的綜合という問は統覚 自身の同一を 顕 わに

することでもある。これが統覚に関する所説の 骨子であるとすれば、この所説の C ( 絃 己ともい ぅ べ き ものを、第一

批判起稿の前年に着手されたと推定される「 形 市上 半 講義」(尻が コ (の づ 0 ニ 9 目内の コ曲汀 「 審 の 田がせ

ダい の ぃオ,ダハ

の 幅 ・ せ

巾昌守,ちざ )およびこの時期に平行して残され た 遺稿断片のうちに跡付けることができる。 こ の C ( 田 巨は統覚 理

解への有力な暗示を秘めるだけでなく、理性情 仰 というカント的結合の必然性への手懸りをも 準 偏 するであろう。

ここでは、個別的主体は一切の現象的受容を排 して、自己自身を直接的に実体として捉え、かく してしが はぎへ の

道を獲得していたものと考えられる。即ち「 実 体 的なもの 谷舖 ㏄ 絹ヴの ta コふ 田の)を私はただ一つ の場人口にのみ直観し

ぅる 、それは私が私自身を直観する(が コ の c 甘 au の 口 )場合である。」( 巾 0 苦い ( ヅづ ・・の・

ドざ )以下同意 であるが「私のうち

に 私は実体( 臼邑 の軒口 ぃ )を直接的に直観する。」 ( p.p,O.,

の ・ oN

)「自我(宙がの

Hn す )とは私の 実体の直観である。」

( オの申 ・ パづコ ・ト下の印

@ せ性 ・ a 佳の下 パづ目 ,とい

い丹 , 下 ㍉ ぃ ㏄ ,かお ふ Ⅹ づ HHH の No べ )右の引用はいずれも実体の 非把握性の唯一の 例

ヰ外 として自我を語っている。これらを通して 指通 すべ き ことは、かかる自己把握に働いてい る 自発性、直接性、直観

Ⅰ 的 性格である。この直観が自然的現象的 物 から感覚を通して 受 げとられる感性的なものを 意味しないのは勿論であ

却る 。自我は自己を感性的受容によって捉え るのではなく、自己自身を存在的に直覚(セミ 口 臼 日当)しているのであ

から区別して、他の箇所では㌦日日が荘田 巴宙の 卜 ~)ののすの屈のコミ(、

H,

Ⅰの

目 ヲの

Ⅹ七口,かゆい分り

0 目鮭 1%. の・ ト ㏄ か ) ちおでユビ ) ゆ - い の ゴ の 井目ののすの

佳 佳さゆ ょ (刃の曲・

メせ目 ・か田

ゆダ 下口 い ㏄) (21)

内的直観」というわ ゑ括 そのものにある。 面 し て カントが一般に実体ということで考えるのは づ卸由拍ガの円

(や内「

phd

である点を特に強調したい。「行為(耳管 ま 三コ 拍 )従って活動( づ舘漏 ガ色() や力 ( 本 「曲学)がある ところ、そこには 実

体も存在する ピ ( 口 ・ ま 0 )私が直観する私の実 体 とはこの意味のものと解すべきであろ㌔「 力 の 中心し( 本奉 片ぽ 目 ・

ヰ目 日 )というこの線では再びライプニッツとの つながりが考えられるが、しかしカントの自己 直 観は本来「知的内的

直観」であるから、経験的直観から扶を分つば かりでなく、「知的直観」含まの二のの 汗鰹 のわ お宇 竺ヒ穏 )からも区別

されねばならぬ。知的直観は外的受容によらず、 自発的に全内容を措定する直観である。 反之 、 知的内的直観は自我

における自己所与から一切が内奥に自体的にあ ると推論することを拒否する。より根本的にはう イ ブ ニッツが「唯一

の 実体」に神を見る時、カントは「実体的なも の 」のうちに 店ぁ 。 コを 見るのである。「人格( 巾 のあ 0 コ )としての 自

我は謂わば実体的なものである。」(下色のののすⅡ ぃ Ⅱ( ぢヴ の「 &w の づ 0 まり 。 ゴ ふ津の &. ダ 日の ヰ斡で

すⅡ れガ ののロ目いの

ぎ已 z 口 ・ せ円 o- 曲 ・ れメ ・

めべ ㊥叫の コ ロき田の主体はこのようにして自我 の 自己把握に根ざしている。自我の自己所与性は 紡ぅ 方なぎ自発性を

もって、自己を直接意識へと導く。即ち「或る ものが主語(の 目庄 0 ガ 什 )であって他の或るものの 述語でないというこ

( 5 )

の 物自体と私の物自体としての自我とを区別す ることで足りる。しかし筆者の関心はかかる区別 より、むしろ「知的

やよ 己 意 と ッ コ Ⅰ 外把義同 ツ こ お

て と おき 言 す 体の 点に 体 だ 捉 て れ 非 あ か え 降

ば把るも 現握 。 で ら) れば 家 住 し あ る 容 の が か る か 易 暴 言 し 。 ら に

体 わ 白 物 で ぅ

と れ 我 目 あ 々

し る の 休 る プ て の 自 の 。 二

(22) 22

Ⅰ 丑甘肛

洋 ・ @ 田 。 ,

の は る

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半 り で、 あ

カントの理性信仰について

1-t@

とテ 傍視 も

る 物 ほ ろ が つ い す あ ら ね 対するにすぎ た ナ 我々に 専ら て 多様 て 。へて「 ナ っこ 。 て あ 方 の も 」 切 と

23 < 恭 )

まり 鰍 子器 汀き宰 おぎと・のの子の(の(

汀 日日 げ ( 口 ・ Pw の)とば同じ一つの事の両側てあり、主体裁 と 客体我は相即なの

自我が語られていると考える訳ではない。むし ろ 本来一つの 車 。態に対する二つの立場があると 考 えたいのである。 つ

自我( 先 験的統覚 田 3%

お臣 9 荘 ぼち君の rz の 宮 ~ 0 コ )と客観としての自我(経験的統覚。 日宮由 のの ダ の レつつ のⅡ 鳶づ由 0 口)

との統一の仕方 何 加に怒ってくる。而して、

カ ント の理性の核心に投ぜられたこの間に対する 処 理 如何によって 、カ

( 8 )

ント解釈は多岐に割れるであろう。

この点に関しては、カント自身が多義的、且つ 相互に矛盾する論述を残して、問題そのものの ァ ポリヤを露呈して

いるのであるが、思うに、自我自体は、その時 間 表矢 性 にも拘らず自己直観において触発するも の (隼がのわヨ ふ ere づ ・

汁 )であり、

反之 、経験的自我は触発されたも の ( 監 ら田 甑の 「 汀 )なのではあるまいか。この 場合しかし、二重の

(守のぎぽ日のぎ匡の黛)、これは純粋統覚を意味 し 、これ

㈲知覚の客観としての自我( 宙ゅ の すプ 田の 0 三の の () 、 従っ

官の客観としての自我。」( らコ ( 巨 。 づ已 。 ゆげ ・ 由 ・ ド 叩ト ・ ち申 (Ⅰ)・)

自己把握は、ここでは二重の対立する自我であ る 。かくし ほ

ついては全く単一な表象という以上には何も キ 一口,

え ない、

て 内的経験を可能にする規定の多様を含んだと, 」ろの、 内

先に「知的内的直観」として統一的に理解され た 自我の

て 問題は統覚に収飯する。即ち当面の問題は主 観 としての

「さてここで、自我は(対立して)二重であると 思われる。即ち 、 Ⅲ思惟(論理 字 における) の 主観としての自我

下 "

しまうのか。「内的知的直観」と「内官」との 区 別は解消して、唯一の例外てあった 接 ) 日ギの 存在意識は霧散する れ

のか。しかし他方においてカントは、純粋理性 批 判 の三板 か 出版された年にも「主観はいかにして そ

れ自身で経験を惹 り

起し ぅ るか、あるいは自己自身を内的に直観し ぅ るか」(屈の空 パせ HHH

、のの心ゆ

@ 臣 曲りぽら 宙ざオ ののしが 由 安目 む @ ヴ 日田(

け ㏄㏄ト刃

輔 Ⅱ)

という問を残していた。而してもし合引用した 問を全く無意味であるとするなら、先験的綜合 と い う 企ては、出目 日 0

( 7 )

の方向において先ず容易な業てあり、且つまた 実践理性の優位、更には理性信仰という結合も根 拠 薄弱なものになり

了 るであろう。

カントの理性信仰につ し

に ととは 苦 る で に

要 は 、

隠 オの いり 歩 く 開示 崔ヴ の てい

25 ( 25 )

円目いのの~

守 めのめ年毎 ヱのゴ の)だけが自我自体であるこ と、 恰も経験的客観における物自体と同様だか らでヰ める」( 卜 包目 のガ e の ,

沐簿 戸ヰ の 0 づ 仁の で Q のⅠ 仁 コ仁

Ⅰ コ Ⅰ 宙のⅡ

ゆ のの田の一

- ヰロロ し びの 仁 Ⅰ(の

二 d. ロの ( 昌コ ・ ト ゆめ 0 ㍉ め中ぴ

。 らコ巴臣 ・)と述べている 。思惟的自我と行為

的 自我とは、その存在からば一 つ であるが、

先 験 哲学的方法においては問題的に区別される、 と い とフ この 塾珊 日日に

帰する処は平凡であるが本稿もまた賛同し たい。かく考えることが前述の自我の直接的自己 把握なる 巴 Ⅱ曳 こ に

も 忠実であるというのが、その一つの理由であ る 。

先 験的統覚としての自我、即ち Hn

二ロ

のコオ のと、 経験的統覚としての自我、即ち私に与えられた 宙 がのの 仁 すのⅠ

い臣ふ ㏄ こ

( 9 )

とは、かかる意味で直接的に結合して一つの 統 一酌主体である。 無 時間性における触発と内的知 的 直観とは全く同義

のものと解してよいであろう。従って自我が主 体 我と客体我の二つに割れるということて、 問 題の核心が一方的に

0 庄の ガ (円

く 山の(の目されてしまう訳では決して低い

とはいえ勿論のこと乍ら、人間は「自己 自 身をいわば生み出す

(の c ゴ麓 次の コ )のではない。」(の 弓岸臣臼 Ⅰ ミ ・心印

ド ) むしろ「人間は自己自身を手に入れる( セ のおの rP 曲の コ )のである。 し

況であるよりは、( ダ

( メ ・ り ・ 笘 ・ント, づ,窩 ) 而 L してこの づ のⅡのの

す P 目の コ

申すの 臣 )ことを示している。Ⅱいすーの 由ユの ガヰも ぎぽ

という営みは、自我が自我を「前に立てる」( セ

10

三の

ガ (も共に主語であ

or, の田の目

0 口)という 状

いてさえ、それは窮極の本来的活動者( & 窃弓はヰ潟 )である。何故なら、根源的自発性を所有し て 現存するもの( 隼斡の

である。 レ 日の㌃はこれについて「自我は統一 的 自我であり、経験的自我(自己触発ぎこの 村ヰの 拝ざ臣 )の活動にお

Ⅰ 可 ',

式目 岸経ゴかす 簿ののののと一脈のつながりを持ち、 その観点からも主体のこのか c (口のは、所謂 認 識 形而上学から一歩㏄

を 踏み越えたものと言えよう。論理学における 純粋統覚の自我と、心理学における内感の自我と の 、相即の結合の中の

に 、 m 甲もので七の

bo

「 ミセ & のということのカント的形 姿を見るのは 悉逸に 過ぎるであろうか。しかし もし先験哲学そのも

のの底流に動いている 将 しくその心理学を敢 え て指 適しょうとするなら、この理性の主体的根拠 を 措いて他を掘り起

しても徒労に 了 るのではなかろうか。ともあれ、 統覚の統一のうちには、受容との関連点と共に

、 、、

、主体の ヱ曲 戸ら -9 臣幅

0% 湊点 があるとだけは言えるであろう。

以上述べたことをカント自身によって語らせて みよう。「私が私自身を自覚するということは、 主体我と客体我と

の 二様を既に含んだ思惟(しのコ カ の 臣 )である。Ⅰ きらのコ カ のの自我が、私自身にとって(直観の) 対象であり、かくし

て 私を私自身から区別し ぅ るということが付加 にして可能であるか ほ 、絶対的に説明することは できない、尤もそれ

は 疑いえない事実であるけれども。」(㌧ パ のめののの

甘 )・

円 ft,

ポポ ・ めぺ e この引用からも明かなよ う に 、 ~ 日 * ) 0@*

) @m@

~ @Pm@@

串 ()と、

v う

ことは理性にとっては隠され覆われだ事実であ って、まわりを廻るだけであ る 。「自我それに 関

しては概念であるとさえいえない、却ってあら ゆる概念に伴 う 単なる意識である。この思惟 すサ 0 自我によって 現 わさ

れるものは、思考の先験的主観、即ち X に 値 な

の 直接的作用におい

ては、実在の範 濤 とは 異 った意味における「実体 ぬ なもの」・(守のぎ

汀荻罵匡の )、「実際に実存せ るす めるもの」(の中男帯・

da

のぎ

穿づ 笘の甑の田~の二)が与えられている,

」とは既に考察して来た所である。ここで「実体 的なもの」、「 X 」と

して性格 づ げられたものは、カントにとって 存 在 論的根拠としての意味をもち、「所有としての 有 」として、統覚に

おいては一切現象の根拠であると共に、実践に めげる主体の根拠でもある。従ってカントの統覚 は 単に抽象的な「 沌

粋 認識論的主観」であって 、 o コ dp 逢な 意味を 全く含まぬという主張があるとすれば、それは 事

え よ う 。「統覚はある実在的なもの( 藻毛援再の 田 のの)である。」(㏄・

串ゆ )つまりロ % なの 俺零と いうことは、私の現

キヰム

カントの理性信仰について

頓 的 梓 人 存在 よⅩ @@ ノ を 充 か の 臼 ⅡのⅠの とし 口 い の e

あ 通 統 つ り 一 た 力 の な と 為、 も て ・

が ン 根

, し " 沖ァ ト拠 L " こ お 従 しか 虚 」 で い っ

「 て て し 実 ま

か 体 た

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理性 二重 なも 上 が の の と

格 し 仰 性 て の

の 結

(㌧ 合 の 根 er の び 自我は

) 臼 し 言

) 先 く

が ず し すれ % の て九

考 ㌧ て ,え ら の一 目庇 れ 再 の て で 照 い あ 明 る っ を ほ 自 で し と の、

な 我 あ ひ は る 感情 がの ま して

忠鉢。 。 主ぅ い い 我 し

直 と か 碑睾 秀吉 客 し

P. )) パ ムフ 「 由 - し 体 先 て 我 に 迫 持 的 「

い 丁い不や い と も が 続 美 香

27 (27)

「私は思惟して実在する」 村プ の田のⅠ片のⅡのら

留詩 の 口 色 ( 口 ・ き ) ぱ 上述の如く「私の現存在の知的意 識 」であり「現存

在の感情」であった。こののの 曲ヒ という 言 葉は、梢 ともすると起りがちな実体概念や感性的 直観との混同を避 け

て 、意識の直接性、非対象性を端的に性格づ け、 主体の根拠における卜のⅠ口のの特徴をよく示し ている。

先に感情は 、毘ヰ 毛が プ qr 田 ガロの主体的決定の場 、つまり信仰の場において、理性によって自ら 惹 き 起された感情、

即ち「理性感情」として規定された。これは 主 仲酌定位の基底において「理性信仰」に等しい。 「道徳的見地におけ

る弓ぢ r 毛笘甘 Ⅱ ゴ舘 Ⅰの口の格率の根拠、換言すれば 純粋に実践的理性信仰( 口母ガ 曲の c 甘のぺ せ簗 ヨ日Ⅱ 俺 ナいコす

の)」(

メ ・ 宙 ・ づ Ⅱ

づ : ギ 肘の)は 、 従って 、 同じ「現存在の感情」 、「我尽 ぅ 」の根から出てくる。というよりは 前 者 と後者とは同一の

る 私がか 絡 (下ぁ。二)なめてある。」(

甲乱窩臼 Ⅱ 宰 ・パパ、は

吋 ③しかし他方において、思惟の活動 的 自発的主観、即ち

「私が 矩怪 (ぎヰ 色 俺の コ もと呼ぶもの」( ロ ・ 支ド ト 日日・)、これもまた複数としては現われない。

自我は自己の結合 能

力 を意識しているⅠ耳の二)抽の臣いとして実在する

。即ち「知性としての理性存在( セ 0 目 日 乱け毛の のの 口 )は物自体そのも

のとしてのみ与えられる。」( オ 0 オ パせ HHH

も 8S のである。上述のことからも予想されるよ う に 、感情の主体として

の づ の あ 0 臣と 、思惟の主観としてのⅠ コヰ の ヱぃ

幅の 罵 とは決して別のものてはない。敢えて区別す るなら「一個の主観

がその自己自身を単なる現象として意識し 、し かも同時に物自体そのものとしても意識するとい ぅ ことは如何にして

可能か。前者は経験的統覚によって、後者は純 粋 統覚によって」( 弓 Ⅱの 戸拐まヰ ・ おメ ・ ゆか 0 )である が 、これは立場上の

相異であって、両者は一つの同じ統一である。

コ はいわば実践的 知

性であるに過ぎない。このことの可能になる 根

それは既に幾度も触れられたその同じ 根 から理性信仰も養分

を 採るのである。

(28) 2&

鯛 。 ,

ものの両面であること、恰も人格と知性の場合 と興 らない。即ち、認識の領域で自己意識と呼ば れたものが、実践の

領域で人格と呼ばれるに過ぎない。「現存在の 感情」、「理性感情」、「理性信仰」の底に絶える,

- となく流れ続けるも

のは、同じ「内的知的直観」である。感情が何 よりも先ず組テ 降幅 の 田 ()主であることからも、 こ れは明かであろう。

感性的直感を越えたこの感情という能力は 、た とえ理性感情ではあっても、単なる理性の原理の 如 ぎものとして解す

べ ぎではない。 せ 。 ヰ口目

臣はづ の ヨ の ヰヨ の コ である 。感情は ピ 目ら ミ 詩のの根源に働く主体のか 痒 目 9%8 曲・ 由曲コ臼仁コ的

として理解さる べ ぎである。それは、行為の領 域 において主体の定位を決定する能力、つまりは の 三手のの能力であ

る 。かかる意味を槍った理性信仰が、全体とし ては理性主義によって覆われ乍らも、理性を越え た 或るもの X を予感

していることは前にも見た処である。理性は 0 目 目 になろ う とする「秘密」を抑圧するが、 そ れなしには理性その

ものが崩壊を釆たすのであろ づ 。

ののⅡ(

ぃ 甘が第二批判の領域で果す役割については 多くを語るまでもないと思う。「自己感情( &p の 残 り ゴーⅡ

ぢす -0

コ)が 、

そのつど自己を開示する( 0 曲の三村(日笠

ヨ臼 ) 即 ち 在らしめる仕方や様式は、本質的にはつねに 、感情者が自己感情

においてそれに対して感情をいたく当のものの 性格によって 、 共に規定される。」(目の日の的㏄

e (・ 本曲口占佳コ

隼隼笘の ㌧ no.

田の日色のⅡ 審 0% せ目セ ム 拝め 卜 Ⅰ め ・の・

ド駐 )従って ここではか 0 は (Ⅰ コ抽嚥 h@ ヒが

「自己自身に対 する尊敬( 卜住日コ的

ヰ 片角Ⅱ 組 0 ゴ のの まの ()」(し

い の嵩の( い つ けぜ のレガ由のⅡ

のレ ((の

口,ヨ ・ののの)であり、自己感情であることを

指 適するだけで充分であ

ろ う 。それは法則を自ら自己自身に与える 人格感情である。かの有名な「結託 阻 し( ロ ののの

ま岸 Q

何 ( p.p,O.

)であったが、これは、人格を人格

たらしめると共に、それでも「血眼」につなが るものとして、或る X を

力 隠蔽 しき れない。人格に対する尊敬も、非人 格 に対する畏敬も「知的内的直観」に帰着して いる。

29@ (@28@)

機 に 根 体 こ ら ( 威 こ の

自色 さ 拠 ィ言 たるはと こ 我こ 厳 で た ま

的 れ は 仰

なた 特 。 実 " pT " 貫道 体 こ ある 0p 日 れを や 性 に言 的な

格 え も 機

は ばの能 の的 五

側面 これ ヵヵ 直接 ら る 的 よ を 板 把 り 在 ぅ し

て 上 統 な 丑 がこ

に立の 覚ら 、

己か 由 Ⅰ & り

性 現 信 存 の 仰 在 決 の の 定 @ 一中 覇

や み 仝

龍 実 , 性 に 約 の

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ま 発 適 し

理観ぎ 性 」、 て に ん し ィ言 と こ

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(@30@)@ 3@

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壬ト

カントの理性信仰 @

宗善 お い

数原 り に Ⅰょ エ 里 、 も 「 と 主拘 であ の革命 悪 悪 原 で 根源的

ぎ こ、 て さ

」 ( が 反

な 通る性 あ 埋ま 口

し 。 宗 ピ

31 (31)

とは、先に見て来た通りである。カントの企て ほ 「歴史的体系としての啓示( & い の 0 目の巨 す曲 (仁コ 拍曲 万ぽ げむふ の 0 目のの

のぜ 母の日)」(

オ臼 ・ ぎコ : ま,お )が理性の体系に帰 すかどうか、つまり批判の体系が得た結果の 、歴 史への適用にあった。

しかしかくすることによって「限界内の自己 自 身 」は与えられた歴史、啓示にっきあたる。その 限界線上において 埋

性の外が問題となってくる。「如何なる理性もこ の 衝突を整理しえないであろう。」( p. ヂ O,G e かかる背景におい

て 、「 X 」が由のの(が 隼ぃガ巴 。㏄鱗のという形をと って最も顕らわに露呈してくるのである。

カントにとって一般に悪は反法則的(ゆの

紹 鯨志田 宙拍 )と同義である。この悪が根本的であるのは 、反法則が理性の

主体的根拠に根ざしているからである。この場 ム 目 悪は感性的触発の中にではなく、感性を越 , え た、いわば 無 時間的

触発の中に求められる。つまり「知覚し ぅるす べての行為に先だった人間の自由使用一般の主 体的 根拠( 繍 (の 仁ヴ ・

ヰ Ⅰの ガ (守のの「ロ口

色 )」(

p.p.O

: き )が反法則的な のである。ここでもまた立証されるのは「私の 実存の意識のうちに、

Ⅰの意識と共に与えられたもの」( &p のぎ 目 隼 Ⅱピ田らのコト

し か名目の ヰ維 コロⅠの ドコ の ぺ目パ )の ヰ の 巨 z のの的。

ヴ 0 コの)である。「人間が

しかし「限界内の宗教」の意図する処は、理性 信仰の機能的説明てもなければ、宗教の批判的基 礎づ げでもない。

これらのことは批判の体系において既に充分な 構図をえて完成してしると考えられる、

( i

3 O ) この点に つ

いては今までの論

述が 、不充分乍ら弁明を与える て あろう。カン トの 志向は、啓示から離れて、理性宗教を「理性 の 限界内」に留める

ことにあった。即ち宗教の人間の側におけるⅡ 目 目下 ざ 臣にとどまって、それを維持することに あった。そこには 主

( 4 l Ⅰ )

体に 荷われた一つの場の設定がある。この場が 自然からも、「知られざる X 」即ち啓示からも 断 絶したものであるこ

まお ・ ざ ゴヨ目口 監さ ・ お鰹 ・ ド 片目: 押 ま肝 捧 ) を カントにおいて論証し ぅる かこの問題への 解答は後日を期した

いと思 う のであるが、ただ本稿に関連する限り で、以下の蛇足も許されるかと考える。

カントが「私の実存の意識のうちに、この意識 と 共に与えられたもの」を理性信仰の中核に据え たことは何を意味

するか。この所与は「知られざる X 」であり「 それ以上何も言 七 ぬもの」であった。しかも、

そ れは カントの全思弁

を 支える視点であり、先験哲学そのものの心理 でもあった。一体かかる所与とば何であるのか。 この間を「(人間 理

性の避くべからざる限局に適応して)歴史的 信 仰は指導手段として純粋宗教を触発する宮部立 ハのコ

)」( おニ ・ ぎコ ・ 、串

PP の)の一節と結びつげるのは余りに逸脱した 暴 論 であろうか。前にも述べたよ う に、自我の自 己 統一においては、

ある種の「触発」を全く否定してはいなかった。 而して、残されたのは「知的内 知 直観」であっ た 。勿論仮説として

舌ロ ぅ のでほあるが、ここで啓示( 0 音の コヴ簿 ヨコ 帥 ) が 、いわば理性をくぐり抜けて、

秘 かに主体の 前に現われているの

ではないか。根源における蔭に 、 覆われた歴史 や 、伝統の露呈があるのではなかろうか。啓示は 理性信仰を自己の中

に 包括するが、それは「二つの 相 離れた 円 とし て ではなく、中心を共にする円として」( ヂが ハり : ノト 0 「(の笘の

ぃ佳 Ⅱ は

ト三 ご % )であった。この中心が理性信仰の中 核でもあるなら、これは同時に「私の現存在の知 的 意識」でもある 筈

か る (

ヶ @ し

汀 ち て に く 必 れ

o 一 と 所与 甘の た づ しまっ理性 もので なる。 熱性は (32) 32

穏 1.

。 、 l ,

カントの理性信仰について

註 7 6 4 3

ヱ ヨ . 下

ぁま

の 己 臼 確 ヰ実 は 性 知 解 的 体 に さ

推 れ 読 て

さ 実 れ 体 ろ は 稿 第二

33 ( 33 )

う 。 思し 寵 、 ぅ べあ で

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と あ 能 語 り に 自

、 な ら え 又 っ こ

た 道 た れ の に の を

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あ 間 あ 入 ろ は る し

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15 14 13 12 11 10 8 9

Ⅰ 冊 卑 の 乙 さ町

つも 私

「 の ぬ

つ 唐画 宰 隙 ム冊 ヨの

帝 - す 0

(34)@ 34

古代中園の 地 母神に関する 一考察

解 青 ず め 或 さす 、 字は周君 り 、 母究空古 や 存

れ こ

と 等

し に 人

35@ (@35@)

古 戊申 國 の拙画 祀に閥 する』

木 J

註 (ー)部民、「金文

所 無著」、金文 叢考収 。

( 2 )㏄ 木 巴瓦 斥コ @ の 030 ㍉ ec 目まモ の づヨヴ 。 打ぎ巨 コ 0 ざコ ( C すぎ

a.

の(

0n

ヰす 0-

ヨ, )の ひ 0.

邦茂、「

程祀姓 」、

甲骨文字研究

収 。

( 3 )小島祐馬 氏も此手 を土とされるが、上部は祀

主 を威 する土壇、 ユ 0% 書は犠牲の血清 と 解される 肘刮

は 軍なる土壇と見れば足りるし、

又鮎膏は周膿 大宗伯 の祀 稜の血祭や丁( 木 ) 頗 ( 祭 )等の鮎書からの類推で

あらうが、

これ等の鮎 書 が犠牲の血 滴 であるか疑問である。 孫海

一が 、 黙妻を件ふ 土芋 の少 いとこ

ろから云って軍なる 糟繁 形とすべぎであらう。

の祀祀 1 自然紳の場合との 二類 があるとする。 但 し前 類の土も祀であるが、同一ト辞中に他の先 公と 並列されて同様

の祀 % を享けてゐるから、先公の範 濤に 入れる と云ふ のである。後類は艶 土 ・亭主 と云ふ のがそ

れであって、当地の

祀 、基地の祀と解すべ き ものとする。而して 別 に 唐土・ 粂 土の如く、 唐祀 とも唐の土地ともとれ る ト辞 例を牽 げて ゐ

渦 程は勿論 異 るが、結論に於て 相土と祀 とを同視 する惇氏の見解に 鈴

程 接近した事となる。かくて ト 静の土を祀に 比 走 する事にはなほ問題があって、守屋美都 雅 氏の 如 ぎも 祀と 見る事に

は 賛成して居られない。文献の祀は悉くが土地 神とは限らず、 祀 稜の語によって知られる如く 、 美国の保護 祀 或は二

十五家を意味する聚落の寧位の場合もあるので、 ト辞の土を直ちに 文 厭の祀に解する事には如何 にも 異ぁ煕 かあらう。

そこで問題は祀の本質は何かと 云ふ 事となる。

から 祀 , 祀 同源詮を提起したが、「 土 」 字 とす る 事には 憂 りない。従ってこれを土とする事は 一 般 に承認されたもの㏄

と見て差支へないが、(

3 )その性格については論争 が

ある。嘗て 王國 維は最初これを「 祀 」と理した が、 後に読を改めての

( 4 )

( 5 )

「当上」の語に基いて段の先公( 祀祓 )の「粗土 」とした。久博期年 は 和上とし乍らも同時に「 郊祀」とする。 即 ち

( 6 )

人格 神 と自然 神 とのムロ 膿と 見るのである。これ に 勤して薬玉森は専ら郊祀 詮 をとる。これ等の諸 詮を暁る 紛々たる 議

( 7 )

論の詳細は既に紹介されてゐるが、最も新しい 陳 豪家の見解はまだ十分に紹介されてゐないので 一億追加して置く。

( 8 )

陳氏も営 初相土 説を否定して社説をとった。

併 し 後には 相土 詮は依然認めないが、土に先公1人 格 紳の場合と 某地

キ Ⅱ 宙

( 5 )

見を出した事があるが、語って

詳 かならざる

鮎 があり、 又 多少考へが 愛 つた鮎もあるので、改め

て 考察してみたい。

守屋氏の詮は何れ後に紹介するが、氏は諸説を

批判した後、従来の誘が祀の標識となるもの文彩

式を重要視して、

ゼ それをすぐ自然崇拝に結んだのに謝して、

祀 が 聚落の中心であると

云ふ 油倉 的 重賞 を 重視 し 、 祀は原始聚落の住

生と

恥パ鱒 ㍉㌶ 鞠簗 一隅隅㌶ 引れ ㌔

一致する。は小島

血 的に 昭 妬馬此

に始(

6 )

騨 事實、氏自身その見解が藤枝氏の所説と結

局は同じである事を明かにして居られる。

又 宇都 木 氏の論文は周

禧 所見の

㎝祀を中心として、宗法制的支配下に

於 るその 性格と機能とを考察されたもので、祀の起源に

まで及んだものではない

仰 が 、 祀の基本性格を宗法的秩序に

謁 する 排 除 的な面に置く難に於て、守屋

氏 等の所論と根本

的に背反するものではな

始 聚落の中心と見る事は我

國に放 る 豊 説の主流を 成すものと 元 へよう。 併 37@ (@37)

( 35

藤堂明保戊や 祀倉 史の面から 周祀 色見える祀の 制度を考察された宇都本章 氏等

がある。(

4 )私も営 日て

祀の起源について 私

( 2 )

等のト テム 説 や陣要塞の 高頑 神との回廊 詮等が ある。更に同氏以後に於ても音韻豊の面から「 祀 」字の本質を論じた

一 ' 一

祀の起源に聞する諸説に就ては既に守屋美都雅

に李則綱 ・孔食 毅

( 4 )王氏、段 禧 散文及び「 殻 ト辞 甲 所見先公先王者 」、 額 堂集材 待九 、 戟毒 生所蔵 殿虚 文字 者 輝一葉同じ。

( 5 )惇氏、「斬獲ト辞烏木後記 祓 」、安陽 葮掘 報告第 二期。

( 6 )棄民、段席書契前編集 樺 智一、八葉。

( 7 )守屋美都雅氏、「祀の研究」、 史串 雑誌第五九編 第七 號 (昭和二五年)、 島 邦男氏、殿廊ト辞研究 二 二九 | 三一頁。

( 8 )陳氏、「古文字十二西周祭祀」、燕京 争報 第一九 期 一一六頁以下。

( 9 )陳氏、殻 盧 ト辞 綜述 三四 01 一頁、五八二1匹 頁 。

この一文は燕國の祀が 芦國 の杜撰 に 諸官する事 を 述べたもので、 祀 ・ 祀 同源の文献酌 誇披 とこそ なれ、果し

段 盛を示したものか、問題であらう。 重浬氏が この文を芦に於て比較的に祀の原始形式が維持 された 外護と

すなわ

は 、 費 祀の比重を渦重規するものではないであ ろうか 。更に㈹ 詩蒋の 「 廼ち 家出( 祀 )を立つ 、 戒 醜の行く

0 手樽 に 「大事を起し、大衆を動かすには必ず 先づ 祀に 事 ( 祭 )ありて後に出 づ 」と 云 ふのは、 軍隊を動か

に 告げる事を云 ふ のであり、而も所告の動機は 戦闘に在るのであって大衆を動かすに在るのでは ないから、

ちに祀の集 國的 意義の詮 例 となるか、疑問であ ろう 。

右 三條の外、更に㈲ 渡記 余沫 の 「 王 、群 雄 の 震 めに祀を立て 又 大祀 と日ふ、 自らの 烏 めに祀を立 て 二王 祀

諸侯、百姓の為めに祀を立て ュ國祀と日ふ、諸 侯 自らの 為 めに祀を立て二俣 祀と日ふ 、大夫以下 群を成し、 て

芦祀 の

されるの

ところ」

す 際に 祀

これが直

と日ふ、

祀を立て

遺 休 し 國 が も め 此 な 一 々詳細 冤記に 陰陽あり、 て 人 畢 ,、 ぐ 祀の集 それ てその 較的簡 概 ので な批 楚の燕 之 詮に 作 く 寓佳 が必 起源 略で 略称 判 を試 雲夢あ浬津 、 影響 さ 唯 く。 讃 抜 の ずしも と本質 はない 見を加 か て 明 ) 特は と 勿 つ の

(38)

も 存する事を忘れてならぬ。

3S

がを起源的乃至本質的形式の遺制と見

徴 すの ま、

6 一見 安営 のや ぅ であっても、實はそこに観念論に

潤色された後世的 憂 ㏄

によ るかと 云 ふに 、 恐らく最初は自蔵の

祀と 差別 する 為 めに特に上下に

)のと

詮ゃ

欄を施したのであったが、これが後に陰陽

美 国 性 との間に直接の窩係は認め難いや

( 蝸

中 ネ

梱から陰陽思想の如き明確に後世の所産と思

はれる要素はこれを

佛抗 しながら、そこに示され

た具 監的事實のみはこれ

か始 形式はやはり焦尾と考へるが、 云 ひたい のは祀の無屋からその美国性を導出する客観的

譚掠 がないと 云ふ 事であ

時に、友博 哀公 七年の「 曹人 或は衆君子の祀 宮 げ 上エちて曹を亡さんと謀るを夢む」のやうな記述 を 忘れてならぬ。 尤

考 もこの 祀宮 の 解 程につⅠては問題

力 ミ ある カ ( : 4 l

、 ) 「祀の宮尾」と解される可能性を否定出来ないで あらう。但し私も祀の原

の 石崖 が 祀の原始形態でない以上、これから 逆 算した祀の無尾も 亦 これ等の文献のみから原始 形 式 とする事は困難の

そうである。更に㈱ 祀記郊 特性 の 「天子の大祀 は 必ず霜露風雨を受け、以て天地の気に達するな り 。この故に 喪國の

祀 はこれに 屋す 。大場を受げしめざるなり云々 」は一見明瞭な如く陰陽 読 に基くものである。 文 献 には祀の鮭 屋 と同

其の下を柴す」や㈹ 周 腫大司徒の「其の祀 稜の 墳 ばて、か,

援兵

ひ %

これが田主を樹つるに 各 其の野の 宜しき所の木を以て

す 」やこれと同主旨の田 圃樟 封人及び㈲ 逸 周書 作雛解 等の文は亦富澤氏自ら云はれる如く、原始

的 祀の意義と構造と

なっても、それが直ちに祀の本質的理解とはな うない。川長の場合も同様の事が 云 へよう。父性 が敗 屋を有しなかつ

おは

た 事からその人鬼でない 譚例 とする㈹全学 博哀 公 四年の「祀は封なり、

亡 國の祀は蓋しこれを 扮 ふ、 其の上を捻ひて

て 貴社 と日ふ 」・及び 周祀 川長の「

は 禁法篇の特殊性ま別としても、(

,む

2 l

若し歳時を以て 州 祀を祭祀すれば、則ち其の民 を闘 めて 直 ( 法 )を 誼む 」の三傑

これ等が封建的階級 濃制 に基 く 祀の序 階 である 事は明瞭で祀の集稟性の説明とは

彩 乃至歪曲の存する事を注意すべぎである。

ぬ に守屋 氏 が文献の祀を分析して、合理的叙述

の中に於て 尚は 行はれてゐる非合理的要素を原始

遺制とされる基本

態度は了解出来る。併しこの場合でも後代的

愛 形の存する事を考慮に入れる必要のある事は勿

め 冊 であるが、同時にそ

れは飽くまで補助的或は間接的資料に止むべ

き であらうし、更に古いト辞・金文等直接資料の分

祈 が並行して試み ろ

るべきである。氏は祀の諸形態を検討して、

墨 子の叢 位 ( 叢祀 )の 祀 よりは叢に着目して祀の原 義 をそこに見出し、

日が とするが、これ等の字音から「

輻 化したとされる。 即 ち祀の最原始形態は原始

祀 」の音は直接出て

これによると、守屋 氏が 祀の原形を聚落の標識 に 求められる 根 披は要するに 叢 ・ 纂 ・ 薪と 云った 字 昔の睡 暇鞄係 であ

る 。 かュる 字音の通暇を遡源的に辿る方法が文

化現象の原初形態を探る一つの手懸かりとなる

事 は疑 ひないが、何分

上古昔の不明確な現在に於て事に字音のみに

基 く 推論は甚だ危険と云はねばならず、同時に字形

の 探究を件はない時

は 一種の観念の遊戯に 降 る 躍 れなしとしない。 現 に 同氏は「 祀 」昔が「 祀 」に残ったと云はれる けれども、この雨音

( 8-

l え

に通 暇の可能性が考へられない事は藤堂

氏 が昔 韻豊 的に論 燈 される通りである。この場合「

祀 」 の 字形について更に考

慮を佛ふ 必要がありはしなかつたか。如何にも

韓非子や韓語 外停 等には 祀主 の 束 木の記事が見 , え らから、 戦 國から 秦

(40) 40

。 円 r ‥

漢 にかけてはか ュる 形態の祀が 實 在したであら ぅが 、これが果して祀の原始形態であるかは疑は

しい。同氏はト辞の

ロ ・並等を上・ 祀 とする事には賛成されないが、

それならその理由を説明する必要があらう。

後 述の如く私はト辞 豊

者 と共にこれを祀の原形と見るが、

こ 上には 束 木の形象は見られないや ぅ で、むしろ 米 ( 焚 ) 釆 ( 帝 ) 等 こそ 東本 の

( 9 @ Ⅰ )

% 象であらう。 又 如何にも港南子や詮文の語は 祀 ・ 祀 同源を思はせるものがあるが、

か 上る文献

資料だけでほ不十分

の嫌 ひがある。而して、ト辞の祀失禁の慶運

に闘 する 僻 氏の見解に基 い て殿枕 さ祀 , 祀 結合期とす る 事には更に問題が

ある。今日からは 倖 氏の見解は訂正さるべきで、 土や王女 筆 が交 祭 のみを享けてゐるとは限らず 、 父 上申以下が発票

0% 象 となつてみないわけでもない。(

0 2

) 一歩を譲 つて祖先祭祀 法 にか上る時代の愛化が見られると

しても、それは結局

祀紳に閲 する事で、 燐柴が 屋外祭祀であるから と 云って 、 直ちにこれに 祀 神約性格を認めるほ 早 計 であらう。現に ト

辞 では多くの先公・先王が 播柴 1 % 祭|を 享 け て 居り、同時に 岳 ,何等の自然的諸神も昔在

祀と 同資格に於て祭られ

て 居る。 旭神 崇拝が優位を占め、純粋な自然

神 祭祀が認められぬト辞の宗教事實から考へる

とト 辞 以前も略同様 か、

更に 祀 神意識が濃厚であったと推定するが

至営 であらう。そこで、守屋 氏が 聚落標識に後から 祀 先 観念が附加され、

更に 祀と 分離して 祀廟が 別個に設げられたとさ れるのは甚だ疑問であり、少くとも

ト僻 以前に豊 狽に 宗教的 儀薦 の 封

埼象 となった聚落標識の如ぎは考へられず、

寧 ろ 逆に 祀 先の観念に祀の意識が附加されたと

見 るが事實に合するもの ュ

は氏 自身決定的なものでないと断つて居られる

| これは以後の拙論に於て

関も同様である1が 、ぬ母昌

な資料に立脚しな がらも結局は字音 よ りの推論を主軸とするその め 輌澄に 謝しては異議を挿ま

ぎ 聚落 誼が 必ずしも賛成し難い事を述べた。他の

諸説については一々論駁

41 ( 41 )

㌔ 出一

Ⅰ 0

の 艮一

一巻筆 燈何 と もこれ

す が 、 一 =

陰陽便る事は 號 。 差に し基 招 く

へ 子女

る 代 宜誼 し 明 い で

の あ で る は 事 な い 認

かめ 。 て

吐 市

無 屋 事 實 @ ナ

る 。

場 ム 事 實 本 質

睾 ( ( ( ( ( ( ( 9 8 6 5 4 3 2 1

) ) ) ) ) ) )

Ⅱ @ 吐

第 香 第 期、 「 明 代 郊 祀 儀 帝旺

雑 咀 目 ト 利

、 す 網 九 十 」

支 6 % 台 の 那 事 胃薬 字 上

のトテ ミズムを安易に既定的事實として論を進 めてゐるが、これは宗教皇的に大いに反省を要す る 事であらう。 今こ

0 間 題 に深く立入る事は営を得ないので 別論に 譲るが、結論としてその存在を認定し得べ き確實 なる資料は寡見にし

(四)

て 未だ検出し得ない事だけを指摘して置く。

強い 鴬 めに トテム の暗影を藏有すると 云 ふのは 全くの空論に過ぎず、 又共工 ・ 句龍偉読 に撮り、 これを 龍トテムと 毒蛇

ふ るが 如 ぎは 、 決し蓋 のト テム神としての 本 質 に濁れるものではない。この際、注意を喚起し て置 ぎたい事は古代の

中園 に 果して トテ ミズムが存在したかと 云ふ一 般 的問題である。古代史研究者が洋の東西を問は ず、往 々にして 中國

古代中 園 の 地 母神に関する 一考察

( 托 ) 孫詮 譲 ら黄 編 ノ 本属三壁 三紋其 四面(知夫「 之糊欄 一と 云って

(ー

, ・) 重澤 氏は部族 坤 としての祀は家族神としての 祀 に 先行するとされる。如何にも宗族の発蓮は部族組織 に 後行するもので

あり、古代 祀舎 組織の阜 位 が家に非ずして部族に在る 事も了承出来るが、

祀 碑は必ずしも 宗 由伸 に 限定する 必要なく、

宗族分裂以前の廣 範圓 な部族組織に在っては、部族の 祖先祀 が 部族神として崇拝の封 家 であった ど 考へるの が 上代社倉

事實により適切であらう。同氏が宗廟祭祀の排他性を 示すとされる友博 僖公 十年の「紳は非用に散けず、

民 は非族を祀

らず」や喪服山詞 の 「 五 世にして遷るの 宗 ありし及び 「庶子が租を祭らざるは其の宗を明かにするなり」等 は 何れも 封

建制下に 放 る宗族組織確立以後の事實に属する。肚の 普遍性や李等性は封建的土地観念に 件ひ 、祖廟に比し てその権能

を 著しく 横 大した事に起因するものと見るべぎであら @O

( 00 )辞宜氏、前掲論文。

(㎎) 陳 豪家 も章柄 麟の新方言三の「全山西の扮 州 、 母を謂ひて 姐と俺し 、湖南別に祖母を謂ひて候 祀と窟 す 」を引 き 、「 今

43

吾人、母を呼びて 姐と 貸す」と云ってゐる( 高楳 郊祀 祖廟 通考 )。

賛頁んか1

燕京。陳氏説の

の語が見える

宮杏は尚は

0 陳 豪家はこれを水を以て痕を洗

検討の鈴

他 があってすぐ

かないが、一億考慮に入るべ

き 見解である。

(Ⅱ) 愈氏 、笑 巳 挿穂 循二 、二八葉。

(は) 禁 法記述の禧事實が 禧 記の他の諸篇や膿文献と 著しく 異る 事は昌指摘されるところであり、この離か ら 禁法の 債値 を否

走 する早者も清朝以来多いが、かく一概に斥けるべ き でなく、国語の系統をひく別派の禧と見るべぎで、 嘗 て廟制 につ

いてこの事を指摘した事がある(拙稿「 廟制考 」1日 本中園 阜含報 第一一集 | 参照)。

(㌍)廟の原初形態は特設されない 寝 ・ 廟同 屋であ っ たと考へられる(拙稿「 廟制考 」)が 、ト 錦に先公・ 先王が 岳 ・ 河 ・ 土

等の自然的諸神 と 共に 衰祭 の 対 象となってゐる事から 云へば 別に廟の無屋を認める事が出来 る 。 段 先王の回 匝 ・ 巨等

室 中に祭ったものを 博 新年が別系統とする(「斬獲ト辞 高本後記 祓 」)はこの場合参考となる。

(Ⅱ)この 祀 宮を祀の室屋ある者とする都衆説に 対 し 、 圓摘 とする反論がある事は藤枝氏も引用される通り である。 孫詰譲も

鶉 、末吉 録 憶説 巷一 三・三七 葉 同じ)が 、 若し草に 國 拮 の 意 なら

仕官 と云ふ 必要はないであらう。

ずしも同一ではない。 今 その用例を見ると、

㈲発禁或は睦 年 ・暴雨又は寧 風 ・雨の封 象と なれるもの、

る ら 以 必

う 事か 外妾 。 にをの 祀 、 的 画 こ す る カ人こ 諸 ト 紳 に の字 一 一

る 辞 譲 が詮 につ 見方 中に 営 し 前述

は 他 律 の い ト 骨 る 六口 て 辞紳 表 く 私 宗 の 塊 土 見 教観 が壇 を の 金 見 の 注 酌 め れ で が 事 な な 「 貫 い い 士 こ

に と と 」 又

背 す す 字 に 反 れ れ に 到 す ば ば 比 っ

る 別 、 定 て も で こ 出 ト ね 既 祀 れ 果 ば に と が し て ・なら 社 岳 する 祭祀

ぬ 何 事 の で 。 等 は 封 あ

僻 目 先 象 る

し 然 づ と か 、 紳 許 な

ト 的 さ つ 改 諦 性 れ て め の 格 て 居 て

根本的 意の 主の 諸神( ェ 然るべ 而 り 、 義 が )ぎ も 検 は 存 で こ 討 必 す あ れ の

22@ 21@ 20

の め ト し ト し均 し 國 古 と 宇陳

利 一中 ・ 松 で千言

祀二

亦ン般提 p 。 政 と 各 そケ に 出 @ 併擢解 外 圧

(・ 44

@ :・Ⅱ 凸 ・ 撰

Ⅰ ニ : 巨甘 … @ 弓 @,.@

であるから、「 上 しから「 祀 」が 繁 化した 事 は、且 1組、

帝|締 、 鬼 1 % 、 石|柘と 何何 である。然らば「 砒 」は 妨

大串 國 の 地 母神に関する -

べ 文 筆 ぎ 献 で @ ㈲ で の あ そ と 中 麦 田 し な で 生 干 て つ 直 文 人 背 文字てぬ八・ | 接宗 後 上 構 る 数一一 土 成 事 行 l 万 上 は 車 上 の に 勿 の 方 我 梵 論 戦 を が

て で 象 代 田 も あ と つ を

侵すこ 祀 」 つて、「 なって に 受 げ は 行 ゐ て と

十人。 示 」 るのは「 貼 改革 位 又 ( たすけ

と の ( Ⅱ ) 「 祀 で 出 " と す 。 )

な る こ ら 字 が の ん

素 、 場 か

の とし、 合 やはり ( ) 2 上 赤 字 は は 教 篆 云 的 に

ふ 祀 祀 ま を と

で 以 解 も て さ な 早 れ く 期 て 崇 め ゐ 数 も る

的 の な と 而 意 見 し 味 る て

(45)

貞 交子 土 、三心事、卯一半、

沈 土牛 酌 - 。一・一

・ 三 一 1頁 ふ、 上に発( 祭 )するに三心 牢 もてし、 一 半を 卯 ( 殺 ) し、

土牛を沈めんか。

いの

貞葬 年子 土 、九中棚「 , 二一 1頁 ふ、 年を土 に暴 るに大半もてせんか。

ぃ貞勿睦 年子封土 埼ポ一 1頁 ふ、留 (地名 )の土に年を零るたからんか。

㈲碁子土面 瑚蝶 Ⅱ 二

㈲土地の意味となれるもの、

㈲東土 受年 、南上堂宇、吉、西土 受年 、吉、 此土黄牛、吉 0 セ ー 東土牢を受け、帝土年を受け て吉 なり

梓九

乍 大目 干 唐土㎏ ボ 1人邑を唐の土に作らん Ⅹ カ O

らんか。

力は ( のまもり

れ よ

㈲玉具平乗 戊 御封人、 茸回 土人 沐祈人 、又 哉 機軸 三 1玉 具 れ泉 成 と努・受の人を呼び、貢士 0 人来 ぴ 初の人を

わざわい

茸 ( 剖 )つに茂文( 右 )るが。

㈹十目玉 卸 ㎝ ニー 弓の土に武 て卸 ( 御 Ⅱ箕祭 )せんが。

鞍 ㈹土方(部族の名)

等の諸説が出た頃は ト 僻の資料や研究が今日程 十分でなく・ 又祀 ,祀の字音に 閥 する 科 堅約検討 が 進んで ゐ なかった

跡ち 「 土 」の祭祀を意味しなくてはならぬ。 さ ればこそ詩の家士 は家杜 であり、殿上 は段祀 であ り 、全学偉の諸侯 祭托

土は即 ち祭祀である如く、 土 ・ 祀 通用する場合 が 多い。この意味から、同じく祭祀の封 象 となつ てゐるト辞の土が祀の

と無閾係 とはどうしても考へられない。字音の 面から云っても、土と 祀 とが 詣聲に 属する事は藤 堂 氏の指摘の通りで

ある。部 ち ト辞の土を祀の原始形とする事に些か の 不都合もない筈である。若し守屋 氏 に従って 住 1玉 | 祀の聯 窩を認

めないと 臣 9 れば、 ト 賠の且を祀 即 ち 祀 紳の意に 解する事も認められない事となる。さすれば一般 に 甲骨文字をその 鬨

展系 路 な 辿って後代文字に比定する工作それ 自 樫が 無意味とならう。ところが、 ト 僻の研究や段 嘘 遺 地の調査が進むに

つれて、ト辞の諸事實と文献の記述との符合が案 外に多いことが明かにされ、(

3 ) 民國 初頭以来古史 耕 一派によって無視

されか ム った古典の信用性が部分的ながら快復 されんとしつ ふ ある現在に於て、かくの如 き 態度 に 出る事は正に時代

錯誤と云はねばならぬ。 柳か 話がわき道に外れ たが、兎も角ト辞の「 土 」を「 祀 」字に解する事は 承認さるべ き ものと

信ずる。(

4 )但しト辞の「 祀 」の内容について問題 がある事は前述の逼りであるが、Ⅲの上は襄 年 暴雨の対象となって

ゐる貼に於て他の先公租 紳 と本質的に相違が見 られないのみか、これ等諸神 と 同一 % に並卜 され てゐる 事は陳豪 家 も

㈲㈹を自然神に配分せざるを得なかつた所以 である。㈲㈹を土地

の 意にとるか、某 地 の 祀 とするかについては 亦 議論があるが、何れにしても 純 宗教行事のⅢ と若 工 1 二 ユーアンスを 異

にする事は明かである。Ⅲ㈲㈹其式 丁 別辞に兄 , え てゐるから、この何れが字義であるかを決定 する事は困難である

( ム 6 )

が 、かくト辞の上に 敦 概念が存する事は既にそ れが 最 原始概念でない事を示唆するものと 元 へよ ぅ 。併し乍ら、宗教

ぬ 要素が凡てに優先する一般古代 祀 食事實から 推論して、田のそれが少くとも後 義 でない事は認 められねばならぬ。

かくてト辞の土はやはり本質的には土地神であ り 、後世の杜はその 悼統なう げるものと見て誤り ないであらう。この

意味から祀の土地神起源 詮 をとる橋本増 吉 ・ 伸 % 年 ,佐藤重文諸氏の見解は再検討に値ひするも のと考へる。 但 これ

甜 する観念的崇拝や信仰ではなく、死者や祀

神に 罰 する崇拝の輯化したものと見るべぎであら

ぅ 。 臭其 昌は且の本質に

綱に 宗廟が 殺 げられるに及んで、屋内標識と して別に且が出現したのではないか。勿論これ は 革なる推測に過ぎない

繍が、 ト辞 且 の 甜祀的 性格は且・十一膿から 後に土が分離して 純 土地神となる過程を示すもの とも考へられよ う 。

ので、陳氏や藤堂 氏 のそうな綿密な分析が試み られなかつたのは % 超もない事である。

そこで私は祀の原初形態ばやはり土地神

と 見る のであるが・ こュ に 無 現出来ないのは既に ト 餅の 上 に組神曲性格が

見られると 云ふ 事である。これは毎期年 や陳夢 家の説く所によっても明かであるが、

岳 ・何等 の 他の自然的諸神につ

( り 1 )

いても 云 へる事であり、嘗て指摘したや

う に 、ト 辞 宗教の特色をなすものである。この事はト辞

以 前 の 祀 ・ 祀 合一形態

を 推定せしめるものと見得よう。前述の如くト辞

では土と 且 とは 直 別されて居り、久石蓮如

氏にょ れば 段 嘘の建築造 柾

に 於て氏の所謂二組なる一基地グループは東に

在って左に、両組基地は西に在って右に属する。

二組の多数は房屋を

有したものふ如くであるが、両組

は 上夢だけで 禁 所を想定せしめる。而して前者の規模は後者に

比して大きい。石底

( 8 )

にょ ればこの情況 は周祀小 宗伯の右社友船の 記 述を髪鰯 せしめると 云ふ 。併しこの両組基軸が 果 して後世の祀に 該 昔日

するものか、これ 丈 げで は 疑問であるのみなら ず 、石氏に ょ れば吉二組の年代は、秀士があって

既に武工期に建築が

( 9 )

開始されたと思はれる中細に勤し。

帝 乙の晩年 か 、常幸初期の建築であらうと 云ふ 。既にこれ等 0 基地が一時に建設

されたものでないとすれば、これを

右 社主 祀に 比定する事には幾分無理があらう。併し

、 兎も角 も官 廟と 別個の士 檀

れ識| 換言すれば土塊を質料とする人鬼の奉

交, これが 祀紳 標識の最原始形式ではなかつたか

。それが後に墓 葬 とは 別

この土地神の聖 所 たる祀が精神的にも部族事績 の中心であった事から、そして 又 農業の葮展及び これに 俘ふ 都市 國

家の成立等の脛 済的條 件の故に、 集 専の保護 祀 と 見放されるに到った(第二次 葮展 )のであら う 。以上の見地から 文

献の祀の早晩を排列すれば、前引墨子や詮文筆 0%. 祀 同源を思はせるものは可成り古い 惇統 を 有するものと見ら

れ ・詩の家上・殿上、公 羊 停の諸侯祭主筆 は第 一次 葮展 形態に属する。 周 腫大宗伯の祀 稜 ・五紀 ・ 五 嶽を始め、中宗

伯 の 右祀左 祀や尚書古書 の 「命を用ふる者は祀 に 賞し、命を用ひぎるものは祀に 俄 せん」等も同 様である。而して 祭

法の大祀・ 侯祀等や郊 特 性の 「 祀事 の 篇 めには 畢く 里を出づ一ム々」、春秋の観

祀 等は第二次 葮展 形態である。尤もか

く機械的に配 営 する事には勿論問題があらうが、 祀 の住屋系列から 云へば略 右のそうな事になら ぅ 。而して守屋氏寺

が 重要視される 叢 社や 東 木の祀の中には既に 祀 廟と封 比されてゐるものもあり、土地神の標識と して 相蕪 しくないか

ら 、社主の原初形態とするは無理であらう。

以上別個の見地から 祀 ・ 祀 同源論を提起したが、 これは勿論推論に過ぎない。併し右の事實を傍 澄 し得る一般的 事

側 はこれを見出すに困難でない。部 ち ロバート ソン・スミスは全般的に聖所の特徴が坤の機能に ついての観念の葮 展

又ク | ランジュは、死者の嚢 魂が 天上に住むとするの は 比較的新しい思想

で、古くは死者が墓の中で生活し、 嚢魂は肉購 と分離しないで遺骸の埋 所 の一劃と永久に結びつ く 、 希 職人は死者に

の 活動力と支配権とは一定の土地制約を受け、 紳 々は 成 一定の固定型所に 棲 住する事を飴 儀 なく された。而して 或紳

( ユ l l )

の 土地はその 祀丼 者達の土地に相 賞 するもので あって、その意味から 外 國の土地は不浄とされた

現在の事ではあるが、正に上記の週程を示すも のとして興味深い。祖神崇拝がその起源に於て 自 己の部族 祀 先に限ら

れる以上、土地崇拝の封象も本来は自己部族の 土地と 云ふ 狭範回に制約されたものと考へられる 。一般に古くは神々

( o i )

たものを地上に 樹て 二周回に樹木を綾らし、 土 民相 集ってこれを 拝祀 する習俗の存する事を述べ てゐる。これは勿論の

眩 ・ ,,

デ ・ 肝

古代中園の 地 母神に関する 一考察

睡 ( ( 3 l 人下 メサ ( ⅠⅠ ユ 60 ( り乙 ( ⅠⅠ 下 Ⅰ ( 下 Ⅰ ハリ ( りコ ( 00 ( 7 ( ムり ( ニし ( ノ片 ( りレ ( ヰユ

) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) )

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ま は

( " れ 6 典 等 で見 に と も ら は唐 紀一 麗華 対 格 な れ

蘭 し - 致す て 力 、

字 堅 を は を あ

導 け ぅ 展 々 一 澄 る 。 上 る 指 と 後

又 ツ 編 十 滴 す 述 プ ク は き る 参 レ も l 墓 葉 草 用 れ る 肚隈 の

カ と さ 通 樹

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氏 て 董 も の ィ乍

古池 賓 当下拝 る事 であ

代土 も そ る 。 起 源 々 不 が

山砲

0 陣 説

致死 土 豪 の

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於 の 編 信じ 地神 家 、 て 住 序 で 駁 雑

上 所

あ 虚 い

地 で 事 が め 頁 事 辞 も

死 る 昔事 等 の か 五 住 も 揖 も 八 あ

49 (49)

好んで地下の神なる若俗 を興へ たと 云ひ、

( )Ⅰ更に

3

グラネは私見とは若干 異 るが、先祀の祭祀が墓の 祭に睡 ずる傾向と共

に 、それが地所の祭祀に近づく事、更に死者が大

地の神々と共に地下の生活を途つてみると

云ふ 考へが 現實的 信仰 と

の 宗教現象に適用する事は勿論問題であらうが、

一般に 祀耐 崇拝 と土

地 崇拝との 無蕗係 でない事を示唆するものと 見 得よう。

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土 凌生

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居り、 か上る 地皮 教模 豊 祭り得 祀 詞曲 未 は だ として

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( 50 ) 50

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佛数 十戒思想の中国的受容 盗 ま 五戒三目 我 と = 新 一 店 はたそと 優っの こ % 尽 殺 形 さ

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51 ( 51 )

佛 数十戒 田

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木目 ' モ 坂ネ "

の 中国的受容

で 堅持すべぎである。四には下敷、人にあざむ かせてもいけない。常に尽 形寿 まで堅持すべ き で ある。五には 不

飲酒、酒をめぐみほどこしてもいげない。常に 尽形寿 まで堅持すべぎである。もし酒を薬用にす るときにはその

軽重をはかって使用し 、 必ず酔 う ほどにいたっ てはならない。酔に三十六大があり・経教に深 くいましめてあ

る 。下殿なれば長寿、小盗なれば常に安泰、 不 婬 なれば清浄、下期なれば人から敬信され、 小 酔 なれば精神爽快

である。五戒を行な う には 歳三 、月六斎を修す る 。 歳 三斎とは正月一日より十五日まで、五月一 日 より十五日ま

で、九月一日 よ り十五日までである。 月 六斎 と は 月の八日、十四日、十五日、二十三日、二十九 日 、三十日であ

る 。お ょ そこの斎日にはすべて魚肉を使用せず、 正午までに食し、正午をすぎた後は甘春美味の ものは一として

口にすることができない。洗心念 遣 して三尊に 帰命 し 、悔過自責して四等心を行ずる。房室を遠 離し、六欲に著

せず、むち打ったり、ののしったり、駕や牛馬 に 乗ったり、武器を持ったりしてはならない。 婦 人はさらに香花

脂粉の ょそ おいをやめて、心を正し柔順にしな くてはならない。斎はあまねく先口 や 現存の知識 、 親 属及び一切

衆生のためにし、みなこの至誠によって、おの おのあ い 発心すべぎである。心がすでに感発すれ ば ついに弄舌 を

まながれる。故に忠孝の士はつとめて勉励 し、兼 極の功をいたす。 徒 らにおのれのためにのみ す るのではない。

斎日にはもっぱら文観( 禅観 ) し 、法言を講話 すべぎである。もし空を行ずることができないと ぎには、 六 思念

を 習すべぎである。 六 思念とは念仏、念経、 念 僧 、 念施 、念 戒 、念人である。何をか 念天 という 。十善四等は応

天の行であるから、力のお ょ ぶところをはかっ て 、つとめて衆生をすく ぅべ ぎである。

十善とは、身に殺 盗 婬を犯さず、意に 嫉志 擬せ ず、 口に妄言、綺語、両舌、悪口しないことで ヰ める。何をか 不殺

という。常に一切蠕動の類を衿 忠 して 困 急の場 ム 口 でも害を加えないことである。お ょそ 衆生の危 難には心をつく

して救護し、その水陸の棲 自 にしたがって所を 得させるべぎである。おのれのために殺したこと が 疑われる場合

には受けてはならない。何をか 盗 という。およ そ 自己の所有でないものを取れば大小をとれない 。また官にあっ

( 52 ) 52

佛数 十戒思想の申 国 的受容

て 潔白でないものは、すべてこれを盗という。 ま た 、ひそかに盗んで他にわからなくても盗罪に なる。何をか 婬

という。一切の執著を広く 婬 という。色欲は正 しい匹偶でなければ犯してはならない。所謂 嫉と はしっとであ

る 。人の善をみ、人の徳があるのをみれば、 そ の人の身になってよろこぶ べ ぎである。争競 憎嫉 の心をもっては

ならない。所謂 志 とは、心にうらみをもって 和 解することのできないことである。所謂 凝 とは 大 法を信ぜず 、真

理 にくらく ぅ といことである。何をか妄言とい ぅ 。ありもしないことをいいふらして、でたらめ ぎね まりないこ

とである。何をか綺語という。舌口薬たくみにお

へっ か をいって真実のないことである。何をか 両 舌 という。甲に

いうことと乙にいうこととはまるで反対でで た らめなことである。何をか悪ロという。 口 ぎたな く ののしること

である。また、不善のことをいってそのために 人を罪におとすのをも悪ロという。

おょそこの干害 が ホンの わづ かでも心念に起こ ることがなければ十善となる。またこれを十戒 と ち い う 。五戒は

からだのいましめで、十善は心のまもりである。 事に 疎密があるから結果に軽重がある。お ょそ 百方の境を総じ

て三界という。三界の内に五道がある。

天 、人、 畜生、餓鬼、地獄である。五戒を全うすれば 人 相 がそなわり、

十善を具すると天堂に ぅ まれる。一 成を 全うし ただけでもまた人となることができる。人に高下 があり、寿命に

不同があるのは、すべて持戒の多少による。 十 善に反するのを十悪という。十悪をことごとく 犯 すと地獄におち

る 。わがままで強情で忠告をぎ き 入れず、悪心 が 強くて私利だけをはかるものは畜生におちる。 また生まれかわ

ると、 へび やまむしになる。 ケ チン ボ で 利慾を @ 」ととしあくことを知らないものは餓鬼におちる 。その罪がやや

軽いがれども、おのれのことだ け 考えて私情に 支配されるものは鬼神に堕ちて、かすかな福を受 げることはで き

るが、やはり苦痛がある。以上を三 塗 といい、 ま た 三悪道という。

これが東晋初期の知識人の仏教思想の中に消化 せられていた解釈である。(

5 )また 郡超は 五 % を色、

痛痒、思想、生

死 、 識 としている。これも 色 、 受 、想、行、 識 と 呼びなれた名称からすると異様である。仏教 思 想 が中国人に受容 せ孫

べ で に い

ては三教思想は混 然 一体化してもはや分離して 考えることができない。すな ね ち、中国の思想は 時間的にも空間的

も 、上流にさかのぼれば水源を三所に求めるこ とができるが、中流に下ると、人口流して一本の大 何 となっているの

ある。この実態を直視しなくてはその真相を解 明 することがなっかしい。上流だけをさぐって そ の一 源を知り、 す

てを割り出そうとするのは無謀に近い。逆に下 流 にのみ拘泥して上流の地勢、気象変化などの 知 識 がないときには

中国思想をい 5 場合、これも慣用的に儒教、仏 教 、道教の三教を並称する。上層の支配社会の政 治 機構に編みこま

れている専門コースのところをとらえれば、 も ち ち んこの区別は成立する。一方、中下層社会の 一般大衆の思想にお

は わわれたこ之はい 5 までもない。 % 超 のよう な 真剣な仏教信者は積極的に理解につとめたわ け で

ある。しかしながの

ら、 更に広く一般社会に受容せられ浸透してゆ く 段階になると、翻訳仏教のかどがとれて抵抗を 感じない程度に思想

内容が編み直されなくてはならない。ここにお いて儒教や道教との接触交流が具体的になる。 即 ち 仏教を正しいすが

たにおいて理解し伝えようとする専門の出家僧 侶や知識階層の居モたちとは別に、中国の伝統的 な 思想や生活規範の

実際の場においてほ、彼等の生活環境に都人ロ

の よ い方法で摂取してゆくのが社会大衆の仏教受容 のあり方である。 こ

ぅ した場合に、いわゆる偽経とか 疑 偽経などと 呼ばれる多数の経典が造作された。一体、正と 偽 ということは実は簡

単には区別できない。正の基準、偽の根拠とな ると、仏教信仰の実際からすると複雑な問題を内 包 している。むしろ

一般社会に受容せられている仏教の実際的なあり 方から割り出すと、かえって 疑 偽経典として 排 されているものに 高

い 価値を認めなくてはならない。そこで、専門 家が経錦研究などのための全く専門学的な操作と しては偽経などの 分

類 もやむを得ないものだとして肯定するにして も 、歴史的社会的な立場 よ りする仏教 信 抑の実際 的 問題把握の立て前

からは、正とか 偽 とかの別に固執して経典の価 値 判断をする態度には賛成でぎかねる。どうして も 必要なら、仏教は

もっとスッキリと自己清算をしてかからなくて ほ なるまい。

られる過程において、仏教に直接関与するもの はもとより、そうでないものの間においても、 き ね めて大きな努力が 轍

マニ.・

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佛数 十戒思想の中国的受容

次場 を し 道 て し 以 べ 法 な に か 成 か こ 程 、 た 後 ぎ 門 る 郡 奏法要 すべぎも加え めたこ 外にも 致の 十 十戒忠 戒律が 中国的 たちは なかっ 仏教 仁 の戒律

て で と 仏戒 想 杉 皮 多 た お が」 参 ・あ ら 教 と の 威 容 く の い よ は 二 「仏教 考 まで るが、 考えら の十戒 いうの 受容の せられ という の禁忌 である ては、 ぅや く て 戒 の 梵 十 げな 具 。 は が ら も

お に 範 綱 善 る る 体 そ 仏 そ れ い

く 。 よ図経 っを の道と。 業 こう的の教のつう に一任 骨 つべ て 十 干 と に そ は 端 末 格 あ ぎ 十 戒 重 か す こ 古 は 後 と っ も

回 に 戒 い る で 釆 四 の な た の 的 限 な わ 。 中 の 世 も っ こ で 受 る ど れ 国 中 細 の て と あ 容 と が て の 国 初 で い が る の い お い

具 う っ る の は こ が に で る の る 五 を な が 郡 の る 抱 っ 思 に 十 理 こ 相 超 影 禁朴 て 想 降戒 解 と 互 の 響 ,忌 子 お の っ の し で に 説 に と の も 中 て 説 よ 影 明 よ 体 中 う に 此 明 5 も 響 に っ 教 に に は 斉 を と っ し あ て の み 、 仏 文 み す と な っ 組 成 ろ 漢 教 宣 て 戒 く し 。 昔す 行 に

55 ( 55 )

問 い の , 9 、

題て に、 大わ 衆ぬ し こ 社 洪 て こ 会 本 み で に の

る は 受 難

にお 先ず 客せ

4 ム 9 5

教 れ こ

の た と

十 体 が 戒 教 あ る が中 の実 。 ヵヵ 任国人 -@ 態 : @ の つ

, 思 、 い こ

想 て れ や は ま

では 信仰 顧慮

の す 中 中 る 国 に こ 仏

、 と 教 ど が の

の す 研 よ く 究 う な は に か 上 摂 っ 流 取 た な せ 。 さ ら こ ぐ ね め る 変 よ こ

容 う と

せ な に

9 れ回 編 懸 合 た を で か 足 あ " 正 つ

とす いる、 て ぅ 意 中 こ 味 涜て

と に 下 を お 流

斎戒 報

太上老君蔵経

霊宝無量康人上 経 大法(霊宝五戒)

一成投下侍殺生

戒 要殺失言常行 忍救

三 戒

ぬ下侍 嗜酒

戒 嫉妬英典常守成人

三戒淫本得田定心 非

戒 蔓生路運営 施 正直

四戒

要下侍 楡盗

成功 起實 清宮生知 塊

戒 新藷 憎姫華 統覚 修倹慈

五戒

下侍 浬色

( 7 )

太上老君 戒経は 道経に収められているものは 残 欠本で後半を欠く。一八期末、おそらく梁木ごろに

は 成立していたも

のと思われる。その 説相 は化 胡 経とか 西昇経 な 。とと呼ばれているものと同類のものである。現存

0 部分は老君が 尹喜

( 00 )

のために五戒を説く段である。中国人の思想を 仏教、道教と区別して 考 , 乙る 立場からすれば、 こ れは仏教の五戒を道

教 がぬすみ取った不都合な経典、ということに なる。しかしこの経典の作者をふくめた中国人一 般の考え方からすれ

先ぜ,五戒の受容について一二の例・を示しておく。

優婆塞五戒

一 不殺生

三下僚 盗

不邪淫

不妄語

不飲酒

"'"""

/@@

沙弥十戒

不殺生戒

不倫 盗戒

小経法威

不妄語戒

不飲酒戒

下室 飾香貢戒

不歌舞 鶴聴戒

不坐高広大林 戒

不非時食 戒

下書金銀宝戒

梵網経十戒

殺賊

盗戒

婬戒

妄語戒

酒戒

説 四衆遮戒

自讃 致他戒

樫 倍加 穀戒

腹心下堂幅 戒

諦三宝戒

十善戒

不殺生

下僚 盗

不邪淫

不妄語

不悪口

不両舌

不綺語

不實欲

小旗 患

不邪見

(56) 56

曲, -

ば 、世道人心性有益なものであるから、これが

普及の一手段として文字の上で、ただ「仏説」を

「老君国」とおきか

えただけで、さらに他意があるわけではない、

と いうことになろ

う 。盗んだとか取ったとかい

う ことであれば、もち

ろん五戒を犯したことになる。これは上夫のべ

た よ う に、中国人の宗教として道教と仏教とを

考 , える場合の根本的見(

9 )

解 ともなる。斎戒録は中唐ごろのものであるが

、その五戒は順序がちがっているだけで戒文には

変化がない。霊宝

量皮 大上 経 大法は元木ごろに

は 成立していたら しいが、その五戒はホ当変容

もの(

0 1

) 目 、ことなって

しナ

い ることは上掲のと

りである。

十戒の例はきわめて多いので、いくつかのもの

を 中心に紹介する。

㈲業報因縁経の十戒

第一成者、不得殺生灰俵

殺想 、常行慈悲、済度一切、

観 諸衆生、常知己

第二成者、不得

楡 益友侠盗 想 、常行退譲、不愛非義、

ぬ 諸費 射 、知己 物想

第三戒者、不得邪淫

及懐 埋忠、常行貞潔、

独処 幽棲、 観 諸男女、 如 骨肉 想

第四 戒 者、不得 樫 貫入 懐賃想 、常行布施、広済貧窮、

平等一心、無彼我

第五戒者、不得

損怒及懐 慈忍、常行歓喜、和睦

冤親 、 観 諸衆生、 如 赤子 想

第六 戒 者、不得愚痴人

懐凝想 、常行智慧、勧誘

愚迷 、 観 諸衆生、九手足

第セ戒 者、不得 綺 言及 懐綺 想、常行忠正、内外純和、

観 諸経教、生食

話想

第八戒者、不得妄語

及懐 妄想、常行信実、隠顕無期、

観 諸人民、無虚説

第九 戒 者、不得悪口

鳥 骨灰悪口腹、常行正念、不起

毒 心 、観 彼 毒蛇、自敬

害想

第十戒者、不得両舌闘乱波両舌

想 、恒行端直、不起

愛 憎 、 観 諸彼我、 無 向背 想

( 2 )

57@ (57)

T ,明

喜 徳 の の 善 す に た 十 が 十 千 悪 成 悪 善

十 娘 と で, 壺ロ 書 て は

も 、 ロ 六 十 四

(妄言、 朝木 に 善が既

綺語、 は成立 に行な

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で は 身 あ お 三

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(58) 58

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佛教 十戒思想の中国的受容

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そ う 薄二 また 戒 、 む と情欲 沃 よ に

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59@ (@59@)

遺法会元の十戒

斎戒録の十善

一孝養父母

一念孝順父母

三思 於 君王

二念忌事石肺

三房理非直之 色

三倉慈心万物

日房實 不義之 財

屯倉忍性 容非

五段天公門 以直為曲

五食 諫斧鑓悪

六段 酔酒怒 会厭 萱

大志 損己救窮

セ男傲忽至真 、時勢愛人

セ念 放生養物、 種諸 栗林

八房怠慢行持

入念道辺合弁、 種 樹立 橋

九 特撮 徳嚴心

九食為人 興 別除害、教化 未悟

十念諦三宝縄律、恒 春 香花供養二具千男陥入 不 義

ここでも父母に 孝 、君に忠があげられている。

道 法会元の十戒は外戚 と 呼ばれている。これは 内 戒に 対するもの、

との意味である。

更に 敦煤 本などによって知られている十戒 経が ある。その成立は梁 代 であるらしく、染木にはそ れに十四時 身品か

附されて、十戒十四 持身品 として通行していた 。特に十四 持 骨品は家族、社会、国家に対する 倫 理 をはっきり規定し

ている。この十四 持身 品は前述の智慧罪根上口 叩 大成経にもすでに説かれている。十戒十四 持 鼻ロ 沖は十戒中のもっとも

では再説しない。

も出ている。

(つつ)

リマ

同じよ 5 な 類のものに、斎戒録の十善、(

2 2

) 道法会 九

の十戒がある。

戎は 五清経本

起 品からの収録である。ここでは

家族や社会だけでなしに、君王や国家に対する

戒 規

があることを注目㏄

すべぎである。というのは道教々団の成立とも

からんでくることになるからである。この十戒は

書笈 セ篆 養三十八にの

盟 ころに修正の意図がある。この戒は入道和真 者が必ず受持すべ き もの、という立て前になっ ている。その意味では 仏

冊数の沙弥十戒に相当するもの、ということ

になろ う 。しかしながら代表的善書の一である 敬 信 録の中の「 文昌 常若 勧ぴ

柑 散手紙文」に、この十戒がおさめられてい ることは、その受持者が出家入道者に限らないこ とをも示すものである。 色

の 十戒は虚皇天尊 初真 十戒としわれ(

5 2

) 、、 各戒文 に 説明がある。「英日」としてあるところはその

説明文の一部を摘

( り つ 1 4 )

記したものである。 雲笈セ 致や至言総の出すと

( 笏 )

@ 」ろは単に物真十戒として

虚 皇天尊をいわない。 戒文だけで説明文も

ない。「 虚 皇天尊影」も「天真日」となっていて、

条文の順序もちが ぅ 。即ち 虚 皇天尊 初真 十戒の 第一条は雲 笈セ範や

ぬ 至言 総 の 初真 十戒では第九条にちたる。 両 者は第一条と第九条が入れかえられているわけで

ある。至言総は北宋 末ご

囲 ろの 成 書かと 思 5 が、 七 嚢の引用から 祭す ると、この 初真 十戒は唐木には成立していたもの

とみてよい。それを 虚皇

が 天尊 初真 十戒として修正流布したのは南宋 か元 ごろのことであろう。即ち「 不得 不忠不孝」 を 第一条にもってぎたと

㈲ 初真 十戒

第一成不得不忠不孝不仁不信、当 尽郎 君 親 、推 誠 万物 ( 文 日、忠孝 為 諸成二百、百行 こ源 、学者 之 先務)

第二 成 下侍 陰賊潜謀 青物利己、当行陰徳、広済群生( 文 日、返照 廻光 、化人為 書 、 則広 陰徳、普 済 群生、 斯 廼 入道芝第一義)

第三戒下侍殺害全土 以充 滋味、当行慈恵、 以 人見 轟 ( 文 日、不殺生者所以 存 仁愛)

第四 戒不得淫邪敗 真綾 慢 霊気、当寺貞操、 使 無欠 犯 ( 英日、不 淫邪者 所以 戒 乱倫)

第九放下侍 交源非賢 居処 雑抜 、 当慕 勝己、槙葉清虚(

第八戒 不得貫 未練 厭積 財本 散 、当行節倹、恵撫貧窮(

第六 戒不得謁致 賢良 露才揚己 、当体 人之 美喜、不自 伐

第五戒 不得 販人成功雑人骨肉、当成道勘物、 今 九族 搾

第セ戒不得 飲酒過差食肉 違禁 、当調和気性、専務清虚 其

功能( 文 日、誠 為 入道芝 門 、語音 心之声也 、語 之妄

和 ( 文 日、人倫不敗、道義両全、実 登 眞之要路)

文 日、友 分 三等八雲 朋 露文、良朋知友、 狂朋怪友 Ⅴ

文 日、勿吉 實求 、常侠心地虚聞、物欲消遣、久 則 自然

( 文 日、不飲酒者所以 戒乱性 )

各尋長 、便当 慕勝

中心 之 不誠也)

与 適合 真 )

己 、 棲集 清虚、不買父母遺子、出家 之 心下 孤 )

第十戒 不得 軽忽言笑挙動弁 真 、当持重 寡辞 、以道徳 馬 務 (英日、持重 寡辞 、動客中 式 、 乃進 道芝 要 、誠達者 二所当為)

モ ・ サ

君 は 劉宋 の 陸修静撰と伝ぇ

られる幻視

願儀 ( 8 2 ) ( 洞玄 霊宝 斎説光燭戒罰燈祝願儀

)の十戒である。現行本

が陸撰 のままか。

ぅ かは断定できないが、後人の手が加わって

い - るにしても、梁には存在していた、と考えてさし

つかえあるまい。

祝頗儀 にはないが、この十戒には後になると、

必ず十二町促成

が 附されて通行していることは、

さぎの十戒十四時

品の場合と好一対をなすものである。もろもろ

の 十戒の中ではこの両者八十戒十四

持身見 、十戒 十二百 従 V がもっと

も代表的なものでもある。

( 乃 )

修 希求道にはまさに十戒を奉ずべし、とてこの

十戒十二百

従を 体用する経典は多

- い ,太上楓真智

慧 上品 大 誠では 十

戒 十二町従を天尊十戒として引用している。

軸 上 禾 必要 巻 四十六では、

( 0 3

洞玄 智慧十戒と命名して

大 識 経から引用してあ

て 出家入道のときに必ず受持すべ

き 戒律としてか

かげてある。

但 、 こ

卸 十戒十二再往 戒

第一成 者 不心 悪妬 、無生 陰賊 、 検口慎過 、想念 在法

第二成 者守 仁平 殺 、 笘済 群生、慈愛 広救 、酒友一切

第三戒者 守貞 諫議、不運小路、常行書意、

損己 済物

第四戒善本色小飲、心無放蕩、貞潔子

慎 、行無点汚

第五戒者口熱悪言、言不幸

綺 、内外中直、不犯 口過

第六賊 者 断酒節行、調和気性、神不損傷、不犯衆悪

第七戒善平嫁入 勝 、口争競功名、毎事遜譲、退身慶大

第八戒者不得評論経教、皆

致 聖文、射小春 法 、恒九対 中 ネ

第九戒香不得闘乱口舌、許諾四華、天人各

恨 、 傷損神 気

第十戒者挙動施為、平等一心、人

相神穆 、打帯優然

Ⅰ甘力 ぶ榊

62

佛数 十戒思想の中国的受容

て 行 だ て の れ 一入 討さ の) ㊨の 経 芽 " て 2 管 " ず " 修を等

ろ 学徒真に

こ 修 介 の 千

あ 度 厳 てな 皮暉二 れ 荒 し た の

えしてもが ば、 レま ・の あ ; お 天 い で る

0 人 け あ の

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離 道

り は る が 思 。

、 こ 祝 わ 所 ま と 真 れ 八 確十 の な 十 路 の 祝

表 土 城 も

功 す 十 の 説く。 させて が糾察 黄皮の 尊 な立 えて達 。あ る 業 る 四 と 」 従 。 と 0 は し も て る ら 妙 前 拝 み と を た し も

63 (63)

ならない。妄言 詐語 してはかりごとをめぐらし、人を おとしいれるべ き でない。広くおのれの財を積み、 多く浮利をむさぼ㏄

り 、貧弱のものを併呑 し 、自己の利益をはかってはな らない。もし 受度 後も前非を改めたければ、受戒の後 は 護身神工 が 糾察

し 、三宮 が 祀を… ,ば … , :

口 、すでに支度すれば身心を清浄にすべぎである。 漸 潮に欲を離れて 俘 侠を去れ。自今以後、欲念を絶てば 妻妾も礼をもって 対

す 。 戒忌 のときには規律を守れば、鬼神も畏敬し、

仙 班 に近づくことができる。

五 、すでに 受 度すれば口腹を淡泊にすべぎである。 任 意 に六畜を宰殺してその美味をほしいままにし、真性 を傷 乱してはならな

い 。平日でも斎食できれば一番よい。未だよく葦を断 つことができたければ朝食は精進 食 にせよ。朝食も精 進 にすることがで

ぎ なければ三元、八節、庚申、甲子、本命、生辰等の 日の斎はまもる べ ぎである。斎の前日は欲をいましめ ょ 。当日は萱をつ

つしめ。翌日は随意でよい。このようにすればすこ ぶ る 実行しやすい。戒律を守ることができないのに 徒ら に斎 功 をたのむの

を 預修という。将来の昇 皮 をたのむのであるが、おそ らくはかなえられない。かえって三宮が糾察し堕獄の う れいにあ ぅ 。

六 、すでに 受 度すれば万事簡素にして衣食の外は自然 に 任せ執著すべ き でない。天が物を養 う には鳥獣のご ときにすら常 に轟粒

を 給している。まして人が天地の間に生れて 祓料 がな いといえ ようか 。おの づ から定方がある。心を苦しめ る 必要はない。

セ 、すでに支度すれば 慈慨 をもって心となし、常に 陰 徳 をほどこす・ へ ぎである。陰徳とは人に知られないで 黙々として自己の力

の 及ぶかぎりのもろもろの方便をなすことである。 冤 柱 のあるものはすすいでやり、争闘しているものは 相 解させ、 答属 不和

のものは和をはかり、子弟不順のものは正道をもって 善諾 し、飢渇のものには飲食をあたえ、疾病のものに は 治療してやり、

凍鞍 のものには衣食を給し、人が自分にそむいた時で も う らみに思わず、自分が人から離れてゆく時には 報謝の心を忘れぬ

い 。この ょう に行動すれば人天の福を積むことがで き る 。もしもこれを行なわないで、その預修の祈 禧 をた よりにして福が 得

られると考えているならば、とんでもないことである 。深く反省すべぎである。

八 、すでに 受 度すれば、祖先の供養を思わないものは ない。経に セ 租界遷し永く 鬼宜 な離る、といい、また セ祖 天堂に生ず 、と

い う 。古の修 真は先づ 祖先を度して後に登 貢 した。 も し 先祖を済 抜 しなければ死帳 が栢続 して 超弄 すること ができない。先祖

を 度するには無理に多くの金品きつかって 九 雌黄鉄の まつりを行な う 必要はない。広く陰功を積んで 無費 の 功徳をすれば ょ

い 。 無 費の功徳を積むには太極 葛 仙翁の煉 皮 が一番ょ い 。この法は簡単で行ないやすく、その上費用も大し てかからない。も

しも汝が毎月おこな う ことができないときには、道行 のある法師に代行してもらい 陰 功を積み先祖を超 支す ればよい。そ うす

れば将来自己が 超弄 するのに何のやましいところもな い 。また、 受 度者の親 知 のものに僧侶がいるからとて 、毎月その僧に 諦

、 、 ヰ 一

佛教 十戒思想の中国的受容

す も

る の こ こ で れ

老者 者 と あ @% 観勒 勧 が る 入 助 勘助㈹ で 。 道

今今 供勧 内 皮 人人妻 助 容 師 世世法上 が が

い 受 ち 皮 じ 者 ノ の に 甲 し 説

身 砂君 く 打 一 く

具 す 体 る

的 た 幸高 堂 、 垣 値 で め

あ の る 戒 点、 で ・ に お お る い か 北 そ

人尊、 謂 章句

Ⅰ 白戸 @ 白 g 族

期 味 ご ・ で・

日は糠 ろ は の 初 道 貞 教 士 教戒 田 や の 十 あ 戒 り 十 刀 工 0 町 一 往 面 と

を 同 も 類 察 の

経供養してもらい、太極陳皮を必要としない、と考え るものがあれば、それも間違っている。 受 度者はすで に 道子となって 太

七 の 種恩を 受ける身である。凡夫であっても名が玉 暦 に 記録され、 ぃ づれは仙境に超 弄 することが約束され ている。祖先を超

度するには仏教でも度脱できないことはない。しかし 道子となったからには異教を師とすべ き でない。本 数 の 太極致 不煉 によっ

て 行な うべ ぎである。もしもこのことを知らないで み だりに行なえば、九周回司の責罰を受ける。

九 、すでに 受 度すれば、平等一休の精神をもっべ き で ある。小事によって大きな恨みをいだいてはならない 。私怨によって公道

から外れてはならない。我が身は自己のためにだけあ るのではない。恩怨の何れにも偏執すべ き でないこと を 思 うべ ぎであ

る 。みづから迷執して因果を作ってはならない。越度 を 欲すればつ つ しんで省思すべぎである。

十 、一切の真 仙 はみな修行 煉 養して後に登 貢 したので ある。いまここに 受 皮の縁にありのは自己の修習に ょ るのではない。すな

わち 投壇 して預修の功徳を建て、他日滅度したときに 地獄に堕ちず 丹 天に生まれることをねが う ためにはみ づ からの修習が肝

要 である。自己の修行には 存 真守正を第一とする。 話 経 斎食はその次である。ただ道門は広大で方術も多端 であるから、うっ

かりしていると入門のところで空費してしまう。もし 夙昔の霊 骨 がなければ老境に至っても有道者の指導を 得ることができた

い 。そこで 開皮 にあたって修道の方を略説する。おそ らくは汝は未だ 途 径を知らないはずであるから、 聖涯 を 望むことはで き

ないであろう。 収 心内観して万事に不 暁 不屈であれ。 収心 黙坐すれば定慧がおの づ から生じ、湛然として 玉 清境 をみることが

できる。いわゆる大宝神光の類である。このようにな れば、漸次生死を脱してもろもろの輪廻をまめがれる 。 修 斎を待たずし

て 自然に昇度する。もし汝の根基が固くなく、これを 聞 いておどろ き あやしみ 存 修することができないなら、 よろしく斎戒を守

り 、預修の符 鍬を楓 して将来の超 皮 をまつ べ ぎである。 汝 、わが説くところをさとるや否や。すでに通暁すれ ば升壇受

度せよ。

65 (・

も 十 と 経戒 太 の 力点 こ " と 上 こ

四 三二一

本質 悪外 漏 精 盛、 則 、 倫壊 則黄庭 、 清 神鏡 光

。 釈 切 、 巻 し 精魂 好礁

赤赤 干號

冠 形、 尾 化 主

血喉異 聞 生 侃 王

閃 い 形 。 十 仕 家、 神化 傷宮 高運、 漸塊 % の 法師法えよ う 世 で、 六朝の 六所司 ( ) 4 2 在五

思所 欲 、

玩 走 仙悲 備

こ 太 り 母 に 参 莫 足、 セ

求 ロ弘竹 、 祖 同

敗他 我 死童 相 歓、

圭ロ

此 縁 四 悉

(66) 66

る 。この経もまた梁には成立していたものと

考, えてよい。その内容は仙道

具 が強いところに特色

がある。仏教十戒の

影響によって、道教の禁忌が十個

条 にあみこま れた例といえる。書笈

セ 藪巻三十三の仙道悪十敗

は 、この十個 条 の 各

頭句を摘出したものである。申で第十初地同便

曲は勿向北 大小便と修正してある。同じく

巻 三十 二 一の仙道十戒は敗

% 相 十条の第十条に説く

蕾写別 出したもの である。

㈹ 其他

神霊宝無量産火上 経 大法 巻セ 十一には霊宝 十善(一科

老 ㎎ 孤 、 二憐貧援寡

、 三 救済幽冥、四散

施 丹薬、五敬重一切、六勤行符

十文非人、五本

駝水

減 想

、 セ常 講経唄、八広

得取 非義 射 造経像

、大下

、 九勤

得怨道

持斎戒、十枚

各師、

セ不 %

併願

志 楽長生、・三顧

出 死人生、三

顧 鉄気 息 形、四顧 皮 諸衆生、五廟天下太平、六

願 衆生悟道、七顧視

禰昇 遷 、 八願 水難 鬼官 、九顕形 臼

第五 勿 全父母本命獣肉、 則元形喪始 、根本 亡皮 、 胎神 號眺 、 経君叫慕 、 三魂 惨毒、 塊 宗匠 墓 、 此 肉入口、命 墜 長夜、 此 五敗 仙

第六吻合己身本命獣肉、 則形神犯真 、泥 % 減 落 、三宮 閉門、嬰児交錯、 魂爽飛遂 、 塊 永福 榔 、 此 六敗 仙栢

第八 勿食 五辛 之菜 、 則 王威悪臭、三車潰乱、神不正 達 、 精胎 不精、 魂 塊土 離 、赤子 頬頓 、飛雲大守、眼光 流 逮 、 北 八敗 仙相

第九功殺生 轟昆 以上、 則兵対 万物、 束骸 曲想、 形慕塊 凶 、 魂気 交戦、船霊 笏往 、 真児 逃散、泥九折 狂 、赤子 乗鞍、月形 湯綾 、

水煮火燗、 此 九敗 仙栢

第十 勿 光市 便曲 仰視三光、勿九 % 理髪解脱衣裳、 勿北 ぬ 陸鳥 犯破致王 、破 謂歳下 辰也、王諸王気 之 所在地、 勿怒 日月星辰、 勿

は 八節日行蔵 刑 、 勿以 月朔日懇志、勿 以 大串日食 亀龍 鱗甲之物肉 、勿 以 丙午日食焼肉、勿以内子日食思 獣物 肉 、勿 以 庚申

目打陰陽 与 婦人同床面 臥 、 勿以 二卵日大酔、 勿奴 正月 四日光 向 殺生、勿 以 二月九日食 魚 、勿 以 三月三日食 諸王 威肉 百草

心 、勿 以 四月八日親車代 樹 、勿 以 五月五日見 血 、 勿以 六月六日起 土 、勿 以 七月七日忌 存 悪事、勿 以 八月四日 面詰 腹展諸附

足 老物、勿 以 九月九日起床 席 、勿 以 十月五日記貴人、 勿以 十一月十一日不沐浴、 勿以 十二月梅内三日下 斎焼 昏怠 仙

右ま大敵

@ , 霊 青紫文山鼠真記上

,, 経こよ (

G 4

) 一

って一本した もので、 仙相 をやぶる十条すなわち仙道のさまた げとなる十戒であ

仏教の五戒十善を因子として、中国人がそれを どのように受け入れ消化したかについて具体的に 例示しだ。仏教の

十戒にせよ、儒教の五常にせよ、そのままの形 では一般中国人大衆に受け入れられることは困難 である。それが道教

る い 神供 皮 、

Ⅱ - ム

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佛数 十戒思想の中国的受容

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(㎎) れ

るので、大野浅道 博 土も指摘せられているよさに

「大乗戒経の研究」三七八頁参照)

晋末 ごろの 失 訳経典とするのが至当であろう。( 大

野浅 道博士㏄

70)

広弘明集 巻 二十 セ (大正五二、三 0 六以下)参照

なお 浄 佳子については塩入見道 氏 「文宣王荒子良の浄

佳子浄行法門について」(大正大学研究紀要第四十六

揖 )参照

道蔵、力、第五六二冊

雲笈セ 藪巻三十九第十四紙以下の「老君

説 五戒」の 頃 は 道蔵本の大上老君 戒経 第七紙以下の本文と一致する

斎戒 録 第二紙(道蔵、 弔 、第二 0 七冊)。斎戒 録は つい ては拙著「道教経典史論」一八六頁以下参照

安 七十一第二十五紙(道蔵、出、第九九冊)。この経の

成立については福井康 順 博士「東洋思想史研究」二五

頁 参照

太上 洞玄 霊宝業報因縁経巻 四 第二紙(道蔵、文、第一 七四冊)参照

道教義 枢及ぴ その所説の十善については拙著「道教と

仏教第一」 三 0 九頁参照

水際経は最近フランスの国民図書館から

敦埠 発見のぺ りオ 本を中心に豪華写真版で刊行された。永く供して

いた靖代 の

古道経が、 敦埠 本によって見事に復元せられたことは

学界の朗報である。詳細は別に紹介する。

照 。なお無上秘要については拙著「道教経典史論」三

% 八四頁参照

第十三紙(道蔵、力、第五六二冊)

智慧罪根上品大成経巻上第六紙(道蔵、陶、第二

0 二 冊 )参照

三洞 泰道 科 威儀範については拙著「道教経典史論」

三 0 一頁以下参照。 但 、この経典は梁木ごろの著作であ

る 0 拙著の

前 論を訂正する。

洞玄 智慧経の十善戒に「諸行者

足 、当選十悪、遠旅 盲 道 」の句がある。「 著足 」が「並足」となってはいる

が 、この 句

はそのまま智慧罪根上品大成経の十善戒のところにあ

るから、両者は同一経典の洛

名 と具名と考えてよかろ @ 。

巻五 第三紙(道蔵、唐、第二 0 四冊)。なお拙著「道教

経典史論」 四 0 二頁など参照

道蔵、力、第五六二冊

道蔵、 弔 、第二 0 セ冊

遵法会九巻一百五十四第五紙(道蔵、

ニ 、第九一セ 冊

出 ・Ⅱ

( 払 )拙稿「 敦 短衣十戒経について」(塚本博士 頚寿 記念仏教史学論集)参照

( r3

)道蔵、雨、第

セ セ冊

( uv )言笑 セ 藪巻四十 第セ紙 (道蔵本)

( 符 )至言給養 一 第七紙(道蔵、去、第七 0 三冊)

( 然 )道蔵、化、第二九三冊

( 鴉 )道蔵、雨、第七七冊

( 釦 )道蔵、子、第 セ 七三冊

(㎝)道蔵、唐、第二 0 四冊

(㌍)道蔵、 椛 、第九八九冊

(㏄)道蔵、伐、第二一一冊

( 目 )道蔵、在、第二八一冊

( 鵠 )道蔵、白、第二八五冊

(㏄)道蔵、体、第二六六冊

( 組 )道蔵、雨、第七七冊

(㏄) 巻 上第四紙(道蔵、陶、第二 0 二冊)

(㏄)道蔵、通、第一 0 二八冊

(㏄)道蔵、岡、第一 0 二冊

( 虹 )第八紙(道蔵、雨、第七七冊)

( 蛇 )第十三紙(道蔵、子、第七七三冊)

(㏄)第四紙(道蔵、 傍 、第九七八冊)

( 何 )第四紙(道蔵、啓、第九八一冊)

戒思

( 億 )大正五二、三一四、上

( 托 )道蔵、雨、第七 セ冊

( 好 )道蔵、髪、第三一六冊

71 (71)

(㎎)全真清規(道蔵、

椛 、第九八九冊)に収録する 。なお、建徳忠成「道教の清規について」(東方 宗 教 創刊号)参照㌍

(㎎) 巻 六十五第七紙(道蔵、児、

第セセ 六冊)

(㏄)道蔵、 杜 、第一 0 五八冊に収む。道蔵本は十巻 であるが道蔵 輯要本は 下方 巻 である。

但 、画本は内容 に 増減はな

の 経はその名称からして仏教の法華経と対比して考え られるものである。その成立年代は明らかでない。 明 中期以前の

ものであることはいさまでもない。或は唐宋を下らな い 古道経と考えても不都ム ロ ではない 0

( 訂 )善書の意義については、酒井忠夫博士「中国書 書の研究」参照

" 吋

Svet 宕 SvataraUpani ぢ ad VI-21

原 実

ⅠⅠ

黒ヤジュル ・ヴェーダに 帰せられ。 ", タイティ リ 一ヤ (T 杣 ㎡ riya) 派に属

すると考えられる㈹ Svet( 誌 vatara)Up(a ㎡ 担 d) はその正確なる 所属㈹ ,

成立年代のに 関して多くの 問題を含んで 居る。 又 後世の引用には Man ヒ a

UPanISad と称せられて , その素姓に明確を 期し難い, この UPa Ⅲ Sad の中

(@1@)@ A . Weber@:@ The@Hstory@of@In4an@ Literature@ p . 96@(Triibners@oriental@Series ,

London: 1904)

L . Renou:@ Les@ 6coles@ v6diques@ et@ la@ formation@ du@ Veda@ p , 131@ (Cahier@ de

la Societ6 asiatique K,Paris: 1947)

(2) L.Renou: op.cit.p.197 (cf.la re8olution- れ ト 昭 -dans s が ひ argz 砂石 タ a Il.2cJ

(3) 例えば P.Deussen はこのき vet 柚 vatara なるものは Sa,nhita, Br 互 lhma ヰ a 等を

完備した Veda の Schule てはなくてむしろ Krels der Asketen であ ったら ぅと

考えた。 Renou 氏も指摘する 如く, その Gedankengane が統一されて 居らず,

RegeIlos てあ り Versmass が全く勝手で・ 個人の作といわん よ りむしろ,菜圃 の

手によって漸次追補,洗練されて 行ったものであ らう。 (Sechz@ Upanishad,5 des.

Veda p.288 Le@z@ , 1897)

J.W.Hauer はこの Upanisad が Caraka に属するという 使 承を後期の Fiktion

と断じ Vedlsche Theologen.schu@e der 怠 vet 乙 Svatara の存在を全く 否定して居 る 。

J.W.Hauer: DieSvet 五ミ vtara Upanishad. 助 nmonotheistischerTraktateiner

Rudr 升 s 引 v ㌃ (Geme 市 de (ZDMG.Bd.85,1930) p.*101*

J.W.Hauer: Der Yoga,E ㎞ Indischer Weg zum Selbbst p.118 (Stuttga 「 t:

1958)

(4) A.S Ⅱ bumn の見解に従って 第三章を最古とし 第四,第五これに 次ぎ , 更に第二章

が加わり, 最後に多くの 印度の Text 成立にみられる 如く第一章と 最後の第六章が

成立したと考えられる。

A ・ Silburn@:@ SvetaSvatara@ Upanisad , Introduction@p , 6@ (Paris@:@ 1948)

(98)@ 9&

き vet 乙も vatara Upan ㎏ ad Ⅵ -21

に 知者 怠 vetaSvatara 自らがこれを 説いたといわれるも㈲ , Svet 恭 vatara な

る人格について 猶未 だ正確な事は 知られない㈹。 それの後期印度思想に 与えた

影響についてば ,普く知られるところで , Sa 甲 khya, Yoga 哲学の萌しが 認

められ, Bhagavad.gita に結晶する唯一神教の 思想も既にここに 見出される。

全六巻の成立に 前後のあ る事は,文献学的整理を 試れば容易に 看取し得るとこ

ろで,一顧,乃至,一章の 特徴をあ げて,この Upa ㎡ 甲 d の全体を律する 事

は危険といわねばならぬ。

1656 年に Su@m Mohammed Dara Schakoh は Oupnekhlat の名のも

とに 50 の Upan 騰 ad を ぺ ルシャ語に訳した 中 , 本 Upani$ad は その第十三

番目に位し, 血 lque 也 du Pe 「「 on の手によってラテン 語訳され "Sataste 「 "

の名のもとに 初めて西洋に 紹介せられた。 帝釆 A.Weber,o.B6ht@gk 等の

卓れた文献学者, 拉 びに苦手者の 研究対象となり ,多数の研究成果を 記録した

が, 1927 年 R. Ⅱ auschIld は J.He 己 el の Mu Ⅰ 己 aka Upani?ad の研究に 純

を 取って, 従 末の研究を網羅し ,厳密なる文献学的研究を 添えて, 本ウパ ニシ

ャドの 独逸 語訳を世に贈り ,研究 更 に一時期を画した。 7)0

今この Svet Up. の中から,斯学の 当初より論議され , 屡ヒ 引用され乍ら ,

未 だその明確な 解釈を得て居ない 一項 VI- 打について,従来 顧 れなかった 新

しい資料に 塞 いて私見の一端を 披歴し,先賢の 御示教を仰ぎ 皮 。 と考える。

II

Svet , Up. V ヒ -2 工に,吾人は 次の如く記述をみる。

tapah-prabh ゑ ivad deva-prasadac ca

br 伍血 a ha き ve 眩玉 vataro ,tha vidvan

a ゆ恭 ram 山 hyah Parama 甲 pa ㎡ tra 甲

(5)@ Svet , Up . I-21

(6) Cf 註 53

(@7@)@ R , Hauschild:@ Die@SvetSsvatara-Upanisad , Eine@ kritische@Ausgabe@mit@einer

Ubersetzung@ und@ einer@ Ubersicht@ liber@ ihre@ Lehren@ (Abhandlungen@ fur@ die

Kunde@ des@ Morgenlandes@ XVII , Band , No , 2)@ Leipzig:@ 1927

97 (97)

provaca samyag 蜘づ a 血 gha Ⅰ ug 曲 m(8)

「 タ パスの力により ,父神の恩寵に よ り , 実に知者 Sve 柄ミ vatara は aty 乙

鮭 am 五達に , R Ⅰのサンガに 悦ばれ,最上の 浄めであ る brahman と説い

た」

以下この頚の 解釈に Sa 血 lkara("@ に 帰せられる註釈, Sankarananda の

Diplka, 及び Vi ヱ乙 nabhagavat の Vlvarana(l のを援用するであ ろうが,

註釈者の解釈の 是非については , 論を進める間にこれを 明かにし使いと 考え

る。 唯 ,冒頭の部分のみ ほ ,有神論の立場から ,興味あ ると思われるので , そ

の 大意を取るに , 「 Krcchra 。 " Candraya 臼 iacl2) 等の苦行 や ,心及び感官の 統

一に基 く 修行を内容とする タ パスの カと ,大自在神の 恩寵㏄ 3) に 塞 いて 出 ' 」と

いわれて,神人両側 よ りする両者の 接近,交わりが 美しく描き出されて 居る。

第二旬 brahma ha の以下は本論の 主題を構成することになるであ らう。

(8) Cf,V 乙 yaviya Sa 甲 hit 乙 I1.6.72-3

(9) 盃 a 轟 ka 「 a Bh 且う ya はその著者の 眞ぬ性に多くの 問題を含んで 居る。 諸種の有力な

論抜に 基づく否定的結論については・

R . Hauschild@:@ op . cit . Kap . IV , Die@ Frage@ nach@ der@ grossen , dem@ Sankara

zugeschriebenen@Kommentars@ zur@Svetasvatara-Upanisad , pp ・ 64@ff

(10) 以下 話註程の Text は

AnandaSrama@ Sanskrit@ Series , 17@ (Poona:@ 1905)@ pp , 75@ Dipika . pp . 48@ ff ,

ViVa 「 a Ⅰ a.pp.64 ば ・に依る

(11)@ Cf ・ Manusmrti@ XI ・ 212

(12)@ Cf ・ Manusmrti@ XI , 217@ ff ,

(13) 唯黛荻 ka ぬ nanda はもう一つ別の 見解を紹介し

atha v 乙 devasya dyotan 乙 tmasy 巨 ntabka で apasya p て aS 荻 d 蚕 n nal 戸 maly 乙 d ap@

(p.48 lines 26 イ ) となす。 pras 巨 Cda を anuC 「 aha の他に na 廿 nmalya を 犀 げるが

pras 巨 da に閲する同種の 議論については 有名な K 畦 hak ㌃ UpanBad Ⅰ り 0 dh 祇叶

pra 繭 d 臥に閲し M. M 剛 er, J.Charpentier, R.E. Hllme の諸見解を参照。 又

類似の章句についてる vet.Up. Ⅲ り 0 Mah 乙 naraya 辛 a Upanigad Ⅷ 斗 , Taittiriya A 「 an.yaka X.l0.1 参照。

(14) 後世 Bhagava 七 g;ta に 茂 いて究極する 坤の恩寵の思想は K 註 haka, 白 vet.Up

嗣掲 箇所の他, Mu っ daka Upan 憶 ad ℡・ 1.2 にもみえる (Cf.R.Hausch Ⅱ d.op.cit

p.78.E.W.Hopkins: Great Epic of India 旺 New Haven,1920] Pp.188 代 )

<96)@ 96

Svetasvatara Upanisad .t-221

以下にないて 吾ミは,先づ 第二旬にみゆる「知者 Svet 恭 va ぬ ra 」と同名の

行者の現われる K(urma) PCura 硅 ;a)1 ユ 4. について検討し , 次に第三旬 ヮこ

み ゆる a ゆ誌 rama の語義を文献学的に 帰納し , 更に第二旬 の brahnlm の

意味を検討するであ らう。 この間に第四句の「 Si 一 sSa 五 gha の性格と,第姉旬 の

pa ㎡ tra の語に関 税 する。 而して最後に 斯く検討された 五つの要衝を 基にし

て , 本頚 のよりよ ぎ 理解に資し ,以 って Svet Vp. 全体の性格の 一端を明かに

し支いと考える。

Ill Svetasvatara

KP. I.14 ひ のは, 先づ Mmu Svaya 甲 bhuva より Ut 塘 nap 乙 da,Dhruva

の誕生と一連の 系譜が続いて Vena の子, Vainya, P ぢ伍 u 王の記事に至る

al ~ 15) 。 王は身を持すること 堅固に (J テ totendr け a) 思慮あ り (dhimat) 王の義

務を遂行したが ,幼少より Narayana に 信 篤く, Govardhana-giri に 到っ

て苦行を行い ,苦行を嘉した 神は, KrSna (d 圧 Imodara) の姿を現じて ,行い

正しく, 容姿美しく, 武芸に秀でたる 二児の日ならずして 誕生するを予言す

る。 王は政務に怠りなく 励みつ 1, なほ不動の信仰をヴィシ ス 神に寄せる間,

容姿 麗 わしぎ妃は, 日ならずして 果して予言通り ,息子 Su 鮒 a を産む。 彼は

長じて, 学問を積み , 正しく身を持する 間にひそかに 遊行に思いを 走らせ

(24), 聖地巡礼の後に , 或る 時 , 苦行を行じて 不可思議 力 を得た人 (siddha).

(15) 諸プラーナは 新 嘗 諸田想を含み , それらの成立年代もまちまちで , これらに 基い

て年譜を立てる 事に大なる危険のあ ることには言を 侯たない。 又 これらプラーナに

統一的,組織的な 叙述を期待し ,それらに 塞 いて系統的に 体系づける事が 極めて困難

であ る事も , 曾て S. Dasgupta の自ら述懐するところであ る (S. Dasgupta:

Ⅲ story of In Ⅲ an Phllosophy V. (Cambrldge: 1955) P.96 及 p.106) 。 比較的

成立の遅いと 母 われる K Ⅱ rma Pur 乙ヰ a は, もとヴィシ ス 教徒の手になったもので

あ ったが,後, シヴァ教徒の 鋳直しの操作を 経たものと 巴 われ, 叙述に必ずしも 一

貫性を見ないから (R.C.Hazra: Stu 小 es@the Pur 乙 l ㎡ c Records on Ⅲ ndu 卍 tes

and Customs (Dacca,1940 コ p.58), 雨 要素を厳密に 匡 別して 跡る 事は決して容易

でない。 ここに提示する KP.I.14 も 亦 KP. の元来の部分には 属さぬ後世の 白 v ぁ

教徒の手の加わった 部分と思、 われる。

95 (95)

0 集えるヒマラヤ 山の山奥に到る (25) 。 そこにないて 彼は 「 法森 (dhar@

mavana) 」と称せられ , ヨーガ行者の 入場を許すも , 曾て, Bra 市 nan ( 梵 ?)

に 通 う者の近づき 得ない (yog 市 乙甲 gamyam agamya 中 b 通 hma.vidvi 綱 m),

法成就 (?dharma.siddhi.p 田 da) の森を見る。 そこにはこの 苦行林を飾るに 通

わし ぎ ,蓮華をた ム える清流 Mm 曲 kini あ ・ り, 彼はその高岸にあ り,悦びの

こみ上ぐる まム に,苦行者の 庵 ( 蕪 rama) を眺め , 川に沐浴, 潔斉 して, 大

自在天を供養し ,祈念し,敬礼した 後,彼は正しく ,大修験者 (mahamu ㎡ ) 戦士 派 の 長 (m 杣必 p 燕 upatot ぬ ma) 百 vet 括 va ぬ ra と 名づくる者 お ve 適鯨 a-

tara.namana?) を見る。 彼 Sve はき vatara は身体一面に 灰を塗り , ぼろ (kau

pina) をまとい, 体 胴は苦行のためやつれてもなほ 白色 祭帯 (ya 肺 opavita)

を着けて居た。 Su き Ila は近づぎて挨拶なし ,感涙にむせんで ,行者の足下に

ふれ伏し,「ヨ - ガ行者の主たる 卿に間近かたまみえんとは ,嬉しや,有難や。

正しく吾が苦行の 報いられたるなり。 吾 れ卿の奴 脾 となり,弟子とならん。 導

ぎ給え 」 と 言 5 に, 行者は彼を弟子として 迎え入れる (37) 。 この智者は彼

(SusiIa) に遊行者の行うべ き 規範を残らず 行ぜしめて, 自らの支派に 定め

られたる 誓 たる, 自在に達する 智を与へた (dadau tad aisvara 甲 Ⅰ 砧 na 曄 sv 括 ak こ a 円 i ㎡ ta-vra ぬ m) (38) 。 この 智 とは,一切 ヴヱ一ダの 精髄にして,

個的 霊魂の繋縛を 解くものであ り,アンティアーシ ,ラマと称せられて ,梵天

その他により 実現せられたものであ る (39)0 さて行者は, この庵にたむろする

バラモン,王族,ヴァイシヤ 出身の彼の弟子達を 指して, 「 こム に集える ヨー

ガ行者達は,吾によって 創始せられたる 支派 ( の教えるところ ) を学び,大白

在天を念づる 者共であ る。 ・…‥かの大自在天を 崇拝して,彼らは 卓 れたる神通

力 (siddhi) を 獲た (44) …… 卓 れた王子,卿も 亦,苦行の実 修 に専念じて, ・

常に吾の傍にあ れば,この神通力を 得るであ らう」と語り , 鰍 wa 神 <p 田 ak 田 )

を 念じ,然るべく 成就せんために ,一切の悪を 鎮め解脱を賀 すヴヱ一ダの 精 髄

「火は灰なり」に 始まる呪文を , 聖仙達 と合唱した。 斯くて S 掻 aIa はこの言

葉を聞いて,信用する 気になり (Sraddh 無 v 迂 a), 直ちに PaSupa ねの行者と

なって, ヴヱ一ダの 学習に専俳する 傍ら, 身体を灰で塗って , 球根を食し,

I 目

(94)@ 91

, @ お

Ⅲ 申

SvetaSvatara Upanisad Ⅱ -21

心を鎮め,身を 調御し,感情を 抑制して,遊行者の 生活に入った C50) 」。

煩噴に亘 ることを避 け ,簡明を旨として 大意を取った 為め , 逐 詩的訳出や,

説明を一切省略したが , 以上がⅠ ぴ ・ 1 ユ 4,16 以下約 35 頚の述 ぷ るところ

であ る。 こュ に記載されるところをみると , 吾そは 大史詩その他に 親しまれた

伝説や舞台を 想起するが,今はそれらに 触れる事を避けて ,当面の問題であ る

Svet.Up.VI 柁工 と関連あ る部分を, Text に即して解説する 事とする。

先づ舐 vet. Up. の中で,智者 (vidvan) と称せられ, aty 誌 rammn 達に最

上の浄めであ る br 荻 mm を説いた Sve 笛養 va ぬ ra は,ことで m 血圧 mumi,

Ⅲ 杣晦 p 誌 upato 枕 ama( 駿 ), m 田 Ⅱ 和 ara, yog 騰 vara, y リ田㎡曲中 vara (3 の

Ⅵ㏄ 蛭 a 辛 a (37), viprend ぬ C47) と称せられ,苦行のために 身はやつれる

も,ぼろ (kaupina) をまとい,白色 祭帯 を着 け ,総身灰を塗り (16)( 鵠 ), 上層姉

階級出身者にして 梵行を行ずる (40) ところの sjddha(25)yoe 五 (26, 然 , 4, り

muni (28,45) と集めて, ヒマラヤ山奥なる Dharmavana (26) 帝こ 道場

( 括 rama) (27,40) を擁し, これら仙人達と 共にヴェーダの 精髄たる A 山 a

rVa き廿 as UpaniSad Ⅰ " の 呪文を唱えて 神を礼拝し ,以 って神通力

(s;dd Ⅲ ) を得て居た (41 ~ 45) といわれて居る。 世を捨てて遊行 (sa ヰ myasa)

(24) を志す者は,この 道場に到って ,遊行者の守るべ き 規範 ( 鯛甲 nyasika 中

vidhim) ( 鵠 ) を修め,球根を 食して,遊行生活に 入る (50) 。 注目すべ き は

又,こュ に現われる 蘇曲 la の語であ る。 銘頼に ノ Svetasvatara , は新入の弟

子 SuSlla に「自らの学派にないて 規定せられたる 誓戒 (svaSakhla-vihi ぬ -

じ Ⅰ

(16) これらの習慣は Gu ワ ;aratnas Ⅱ ln@ の Tarkarahasyadip@ 互に言及される ( 巨 dh 巨 lra-

bhasma,@ Ⅰ 在 yaJ 五 lopav れ a,kauplna) もので, 翻 va 教 ,特に P 庄 supala 行者の特徴

であ った。 kaupina については KP. 1. 33.8; Ⅱ 37.100 球根を食する 習慣も

m 口 apha はき itva として KP. I.2. 43-44 もその他に述べられる。

(17) agnir ity 乙 d@am(KP, I. Ⅰ 4.48) は明らかに, AtharvaSiras Upa Ⅱ sad の agnlr

Ⅲ bha5ma v 巨 yur Ⅵ bhasma を揖す (ASS.29.p.38. Ⅱ nes-2 打 ) Cf.KP. Ⅱ, 11.66

Manuscrlpt B の Read@g を取る。

93 (9 の

vrata), 即ち自在神の 智 ( ね d a 送 vara 中 inanam) を与えた」といわれ ,

又 41 額には「ヨーガ 行者達は, 吾 即ち SvetaSvatara によって創始せられた

学派 ( の説くところ ) を 究ね めて (maya pravarttita 円転㎞ 憶 m adhitya … 刀

といわれて居る。 又 彼の字派の規定する vrata Ot antyaSrama と称せられ

る (59) 。 この anty 蒸 rama の語については , KP. の 雨 ed 田 on 共 ('8) 異 読を

挙げて居ないけれども , 今は Wintemitz と共に aty 誌 rama と同義に取る

が 。 壌 ,この点・は 後述する。 更に Sve 士 Up. 第四句にみゆ るざ婁 -sa 血 gha の 概

念は,既述の 道場 鮨鮭 ama) に相当すると 思われ,就中 Su 鮒 a を入門させ

るに当って,その 大成成就を朝して Sve 体 vatara が ロづ さ れ Atharva 鰍 ras

Upa ㎡ Sad の 児又 は 聖仙達 によって㏄ 巨 bhih) (48) 合唱せられたとあ るのは,

如何にも 聖 仙の集える sa 血 lgha の存在した事を 想像せしむるものがあ る (2 。 ' 。

果して KP. の別の箇所 卜 53.1 以下 p こ Sveta を頭とする道場の 盛況を説い

て, Kai 期の大自在神の 化身を述ぶる 間に次の如 き 章句が見出される。

「神の中の神にして ,偉大なる光輝であ る Sveta と 名づくる者は ,バラ モ

ンを益せんがために ,第七マ ス , Vaivasvata の治世に諸山の 長, Himalaya

の美しき頂に 現われ,その 弟子,孫弟子相集って 盛況を呈す ロ

以下有名な Siva の花の化身と ,その下に集える 四人の弟子 140 人の名が

列挙せられるが ("', 何れにしてもこの 章句は Sveta なる人間 ( 若くは Siva

の化身 ) が℡ malaya 山頂で , 多くの弟子と 集めて居た事を 指示して居る。

(18)@ Venkatesvara@ E4ti n@ and@ Bi li theca@ In4ca@ *@@$@@ts

く 1g) M.Wintern れ z: Zur Lehre von den 一一 Airama(Be 辻 Ⅰ 荻 ge zur L れ era 仕 ur-wissen-

schaft@ und@ Geistesgeschichte@ In4ens , Festgabe@ H , JacoU , Bonn , 1926)@ p , 217

Anmerkung 2. 但し Raghuva 山ぅ a VII1. 14 には乙 う ramamanlyam の語があ る。

(20)@ Cf . J . W , Hauer:@Die@Svetasvatara@ Upanisad ・ Ein@ monotheistischen@ Traktat

e@er Rudr ナ鮪 va Geme@de (ZDMG.84,1930) P.*101*

(2l) Cf.V 呑 yu Pur 巨ヰ a XX Ⅲ. 115 ば ・ (cf.D.R.Pat 山 Cu@tura@ Ⅲ st0ry from the

Vjyu Pur 厘ヰ a,p.61,Po0na,1946), V こ yav@a Sa 甲 ㎡ t 蚕 Ⅱ・ 9.1 ば ・Ⅱ nga Pur 乙ヰ a i

24.13 ば . 諸 Pur 乙 Ⅰ a に言及されるこれら 140 の人名には異同があ るので, これら

の厳密なる比較対照は 或る鮎で, これら Pur 乙っ a の 博 承の性格の一斑を 知らしむる

如くであ るが, 今は説かない。

(92) 92

s@*

述次最

既,は

P

てめ て

いも

のょ 0 を

ゆ肋従

がを 囲 v てに ぎ

づ く

次 三 知

のの

,S

も pulya なる人を指す。 而して彼は離 欲 CvairaWa) に達し,生活の 糧に

も, ス 自己の身体にも 顧慮するところがない」。 証権 に碩を引用して 後,「 a ゆす

る r 幻 ㎡ n とは paramaha 甲 sa-sa 甲 nyasmn であ る」と結んで 居る。 Dipik 乙に

よれば ati 一 とは究極のもの Ctu 「 nyasya turiya) を意味し , 従って a け asra 山下

とは, 脾 ram 劫 Ⅵ 甲 sa として特徴 づ げられる最上の 燕 rama に住する人を

意味すると かひ , Vivara?a 亦 Sankara に帰せられる 註に従って atya 鮭 ama

と lT sa 甲 ny 色斑 毎梱 ma であ るが,就中陣 ram 囲 la 甲鱗鯨 ama であ るという。

ところで,この paramaha 甲 sa とは如何なるものであ らうか。 Vaikhy 巨 nasa

Sma 比 a S 丘比 a Ⅶ -9 によれば,彼らは 樹木の根元や ,火葬場に住し ,衣服を

つけたり,つげたかったりして , 法 ,非法,正偽, 浄 ,不浄を等しくみる 遊行

者であ る。 聡 。 これら遊行者の 性格について , 今は触れないが , これらの註解

の妥当性如何は ,論を進める 間に明らかとなるであ らう。

近代学者はこの atya 鮭 amibhyab を解釈するに 当 。 て "untotheaKetics

o 士 the most advanced stage" (Hume)(23), "den 廿 ber die A る rama,s

Er 血 benen "(Hau ㏄㎡ ld)(2 の , "(dem f 軒去 reis) der A 鮭 am Ⅰ Erhabenen "

<22)@ Vai hanasasmartasutra , ed , byW . Caland@(B Ⅰ iotheca@ In4ca@ 242)@p , 118@ li es 4 打. )

<23)@ R , E , Hume:@ The@ Thirteen@ Principal@ Upanisads@ (Oxford , 1931)@ p , 411

(24)@ R , Hauschild:@ op , cit , p , 37

9 Ⅰ (91)

ヰ Ⅰ "

(Deussen)"51.@ "@den@uber@die(4)@ Lebsnsstadien@ Erhabenen@"@(Hauer)"",

" が ceux auj ont francmi les 恭 rama" (S Ⅱ burn) は 7), の 訳語を用い乍ら ,

猶 判然たる理解に 到達して居るとは 思われない。 -, Asrama について 卓 れた研究

をなした M.W 面 temitz は率直にこの 語の無理解を 認め (2%, p.V.Kane 亦

"to ぬ oss who had n エ sS3n above the mere observances of 誌 rama " の

諸訳を残し,その 解釈を放棄した。 変 。

ところで, この不可解な 語を理解するために , 吾モ はこの語の出て 来る文章

を可能な限り 蒐集 し ,それらを逐一検討してみる 必要があ る。 以下に筆者がこ

れ迄 集め得たものを 列挙して,この 語のよりよ ぎ 理解に到達してみたいと 考え

ⅠⅠ

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ニ ミ 二 口 ロ

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指摘

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に 出て 釆る 。 即ち ,

yah 志 a 七 amd て Iyam adhite so

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bhava む brahma 目 , haty 乙 lt p 丑 rto bhavati krty 包瓦「 七 y 巨 t p 億 o bhava 廿

七 asm 乙 ld avjmuk ね m 乙 きて i 七 o bhava 毛け a 七 y 乙き丘 ami sarvad 乙 sak 壬 cd va

(25)@ P , Deussen@:@ op ・ cit , p , 310

(26)@ J , W . Hauer@:@ Der@ Yoga , ein@ indischer@ Weg@ zum@ Selbst@ (Stuttgart , 1958)@ p ・

140.

(27)@ A . Silburn@:@ op . cit . p ・ 75

(28) M.Winternitz: op.cit, p.217. Ch 乙 ndogya Upan 遇 ad では 恭 rama は三つし

か存在せず, 従 って第四の sa 甲 ny 乙 s@ を aty 恭 rama と考え得るかも 知れないと

推測するも, その註に In keiner der be@en Ste Ⅱ en w 旺 d erk は rt,was unter

aty 乙 sramazuverstehen. として決定的解決を 控える。 L.Renou 氏も亦 W@ter ㎡ tz

の所説に従 う 如くで Ch 乙 ndogya Upan 憶 ad を掲げ,それに 塞 いて 白 vet. Up.VI イ 1

を鮮 程 して居る (L, Inde c@assique S768 p,379) 。

この 他 Sa 田 ny 乙 ssa Upan 遇 ad の 曲 rama-p 荻 Ira 甲 eaccheyam は Ich w Ⅲ

aty 蕪 ra ㎡ n werden と評 され (Winternitz op.cit),A 雙 avakragit 乙 I.5tvam ‥

n 酪 rami は du bist ein aty 恭 ra 冊 n と諾される (R.Hauschlld: Handbuch des

Sanskrit Ⅱ CHeidelberg,1953J P.ll2 Anmerkung3.) 。

<29)@ P . V , Kane:@ Hstory@ of@ Dharmasastra@ Vol , 2@ (Poona , 1941)@ p , 422@ and@ p , 421

note 1002

(90 Ⅰ 90

Svetasvatara@ Upanisad@ @[-21

ね ㏄ 亡

「 怠 atamdriya を学習する者は 火によって浄められる ( 如く ) 飲酒するも ,バ

ラモンを殺すも ,文義務を履行せざるも ,それらょり 浄められる。 それ (Sa-

ぬ rudriya の学習に ) よ り , 彼は聖地 Avimukta に巡礼したことになる。

atya 鮭 ammn は恒は , 若くは一度びでも , これを思俳すべし」

又同 U 脾 ㎡ 鯛 d 1.4 一年にほ

vivikta Ⅰ e 鮎 ca sukh 互 sana-sthah 蕪 uci Ⅱ s 負 ma-g て iva 一色 i 丘 ab-%a 亡 Ⅰ rab

aty 誌 ra 血ゑ づぬ ah sak 囲 endnyami n 正 rud 曲 @a bhaktya sva 一足℡ m 甲

p て a 与 amyah ても -pu 守田乱ど ika 甲 vi Ⅱ aja 甲 vi 急 uddha 甲 vic 下 tya

「人里離れた 場処にて安楽生 に 住し, 首 , 頭 ,身体をた ビし ,かのけがれ

たき a ゆ托 ramma に位せる人は ,一切の感官を 制御し ,心 こめて師に敬礼

し,, む臓の辮に住し ,けがれなぎ , 《アートマン ウ を内観。 し ……」

とあ り Dipik 奇 fT 何れの場合も 百計 ama な param 荻 血中 sya-lak 鞍ヰ a 廿と 釈し

て 居るのは (30) さぎの Svet , Up. の場合に等しい。 併し注意すべ き は,この 語

が, 後に示す如く P 誌 upata S ㎡ vism に由緒深い V 田 asaneyiSa 甲 h 油の

Satarudriya との関係に 掩 いて出て居る 事 ,及び,師匠 を有し,アートマンの

瞑想に耽る行者の 如く解される 点であ る。

鮭 , m,l 一 11 ほ騰 vVara. 革 ほと称せられて Siva 神を讃えるが , Vi 珂 u 神

を讃 える Bhaeavad.gi 壌を模倣 し ,内容をすりかえ 乍ら , 新しい部分を 追加し

て 行った事情は ,両 テクストの文献学的整理を 試れば,容易に 看取せられる。

その第十一章は yan 止 , niyama を説明して居るが ,その記述が Y0ga S 丑 tra

のそれに従って 居る事も亦明らかであ る ("' 。 これらの諸問題 は 今は触れない

が, 推 その第 69 頚の中に偶 そ吾そ はこの a け蕉 rama の語に遭遇する。

esa p 凄き upato yo 箱 h p8%u 一 pa 鯨を 一而 muk 億 aye

Sa 「 va 一 Ved 、 圧 inta 一 Ima 「 go ,yam aty 乙蓋 「 am.am lti 轟 m 廿 b

(30) Kaiv 刮 ya Upanisad の Text は Anand 五ミ rama Sanskrit Series 29 に由る。 p

11l 及 p.103

(31) KP. Ⅰ. 11,12-2g と Yoga SUtra Ⅱ. 29-45 の 対 照は他日これを 分けにする機会

があ るであ らう。

Ⅰ イ ㌔ トア

「これは P 恭 upa ぬの Yoga てあ り, 個的 霊魂を繋縛 よ り解放するのを

目的として居る。 一切の UpanlBad の道であ り, a け蒸 rama と伝えられ

る」

この章句は, 既述の KP. I.14 にみえたところを 想起せしめ, sa Ⅳ㌃

vedan ぬ 一 marga はⅠ 鍵 ・ 1.14.39 夜曲にみえた veda づ沖 a に一致し ,共

ヰこ At 五釘 vaSiras UpaniSad を指示して居ることは , 1 ひ ・ 1. Ⅱ・ 69 に先行す

る章句 (65 一 66) をみれば容易に 首肯せられるてあ ら う (32) 。

次にこの語の 現われるところ ほ ,有名な Dakga の祭祀に逆上した Rudra

が , これをふ ちこわす M(aha) bh ( 硅 ata) の章句てあ る。 Uma と共に現わ

れた Rudra は,傷心の Dak 鈎に回って次の 如く言 う (3 の 。

vedatga4 ゴ血 gad udd 比 tyasa 甲 khy ナ y0gacca 尹 lk 億ぬ Ⅱ / ぬ pa Ⅱ suta.

pta 甲 v@ Ⅲ a 中 duScara 甲 deva 田乙 nava 血 / ap ⅡⅣ a 甲 sa Ⅳ at0bhadram

v@Svatomukham avyayam / ab ゑ a 廿 d 玉酊迫 組中 yukta 甲 g 可 ㎏ m

apraj 行 za-n 伍 ditam / var 神 Srama-kr ぬ ir@harmair ㎡ panta 甲 kva 億 t

samaIn / gatantairadhyavasitam a け誌は man,lida 甲 vratam /maya

p 蒸 upa ぬ田 dakSa yoyam utpadi ぬ m Pura

「 六 支を有するヴェーダ 及びサーンキ㍉ ヨ ー ガより,正しく 抽出し, 神 Ⅰ

や悪魔 ヰこ よるも行じ難く ,深甚にして ,前代未聞なる ,而も一切を 開かれたる,

不壊にして玄妙, varnasrama のための 法 とは部分的に 同一なるも 柏 容れず,

無智の輩により 軽蔑されるも , 目的を達した 人とによって 確認せられたる タ

パス, この aty5Srama なる 誓戒 , P 話 upata の Yoga は,その晋吉により

て 創始せられた」

原文を逐詩的に 翻訳することが ,必ずしも容易でなく , abdair da 鮎 ha づ am-

yuktam の部分は E.W.Hopk 旺 s に従って「学習するに 数年,若くは 十日裏 す

。 ' 。 ' 」と訳すのが 可能と思はれるが ,今は省略した。 神が一般のバラモン

ぴ 2) Cf.Atharva 鮒 rasUpan 鷹 ad (ASS.29 p.17 Ⅱ nes 3 ヰ and p.38 Ⅱ nes2 ぽ ・ ) 然る

時 KP. I. Ⅱ. 66 b は勿論 Manuscript B の Reading を取る。

(33) B0mbayEd Ⅲ 0n x Ⅱ. 285 192 Ⅱ. P00naCritical Ed ㎡ on はこの部分を Append@

に入れる。 (V0l.16,pp.2072-3)

(88) 8S

鮒 e 捧 v 燕 ra Up れ rnlsad Ⅱ -21

教の神との宴に 招かれ 々 , 彼に由れば愚者とされる 輩から軽んぜられるという

事は Kumarasa 甲 bhava を初め,いくつかの Text[W にみえる所で ,この

点 は の Ve 田 sm, B 「 a 憶 mlaIu ほ m との関係,ひいてはその 起源的性格に

も 関わると思われるが 今は触れない。 唯 こしで注意すべ き は,正統バラモンの

遵奉する var ゃ a 及び 托 rama の 法と必づ しも 栢 容れず,むしろ 矛盾するもの

として aty 誌 rama が語られ,その 誓戒 がその 音 Siva の創始にかしわるとい

われる点であ る。 この文章に関する 限り, aty 蕪 rama は,本来一般の 誌 rama

に 対立した概念であ った事が明らかであ る。

これらの章句をみるに atya 鮭 ama とは Siva 神 ,若くは Rudra によって

創始せられ,その 内容は正統バラモンの 認めた 誌 ramaa と両立しない 事が明

かであ り,それに住する atyasramin は,アートマンの 瞑想に耽る行者であ

ることが知られる。 又 前節にみたⅠ ぴ ・ 1.14 や , f,l1.67. 及び MBh. の章

句にみる如く ,この語が PaSupa ね なる概念と密密接な 関連において 理解さ

れて居た事は 注意すべぎであ る。

然らば次に Pasupata の典籍にあ って,この語は 如何に理解されて 居たで

あ らうか。

1893 年以来 皮 重ねて Benar ㏄に写本蒐集のために 赴いた R.A.Sas ㎡は

当地に 掩 いて P 燕 upa ぬ S 丑比 a の脱漏多 き 写本を発見し , Ⅰ 940 年 Travan.

co で e 大学の Ohen ぬ IMmuscHptubrary から T(hvandmm) S(anskrit)

S(eHes) の 143 巻として出版した。 この TeXt に収められる P( 採 upata)

S( Ⅱ ltra) とその註釈 P ㎡ carnha 団悔 Sya (PABh) の著者及びその 年代にっ い

ては 差 当って確言を 避ける。 他の TeXt との関係,碑文, Rl ぬ Pa, 考古学的

発掘, 美術史等の立場から , 多角的に取扱われねばならぬと 考えるからであ

(34)@ E . W . Hopkins:@ The@ Great@ EPc@ of@ India@ (New@ Haven , 1920)@ pp , 114@ ff ,

R.Chanda: The Ind 叶 Aryan Races,Part Ⅰ (Ra@shahi,1916) pp.128-9 は別様に

取る。

(35)@ KumSrasambhava@ V , 62-73

Bhagavatapu 苗 IFa fW.2

87 (87)

る 。 何れにしても 筆者 惧 PABh. の中に,この atyasrama なる語が二度現

われ. て 居るのを確認した。 今 これらを順次検討してみたいと 考える。

TSS.p.3. 血 e 15 以下に , 神が K 乙 yava ぬ rana に降下して,化身した 記

述があ る。

「神は人間の 姿を取って,バラモンの 身体に入り, Kay 百 Vat 、 穏 a 甘 a に降下

した。 彼はそこより Unjayini に歩いて行った。 何故その事が 知られるので

あ るか。 学識者の言が 証権 であ る故に ,又 その標しを見聞する 故に。 ( さて

彼はそこで ) atyasrama として知られる linea によって宣言して 日く…

以下に灰中に 沐浴し,臥床し 云 との Pasupata 独特の儀軌が 述べられる。 こ

ュで K 五 yava ぬ ra 丑 a ( Ⅹ arvan) への降下。 , 。 ,,及び Siva の故地 Ujjaym が 7)

に関して,幾つかの 考古学的研究があ り, 又 これらと文献との 対照は 未 だ何人

8 行って居ないところであ るが,今は触れない。 併し乍らこ ュ に atyasra 血 a と

して知られたⅡ nga (atyaSram ナ IP 「 asiddha 甲 l 油 gam) なる文句があ り,そ

の内容が灰を 塗る等の PaSupa ね 独特の儀規を 含んで居ることは 注目に値す

る。

(36)@ G , Bii Ⅱ er:@ Cintra@ Prasasti@ of@ the@ Reign@ of@ Sarangadeva@(Epigrap Ⅱ a@ Indca

Vol.11,1890.pp.27l ff,)

D . R , Bhandarkar@:@ An@ ERin8i@ Stone@ Inscription@and@the@orign@and@ Hstory

of@ the@ Lakulisa@ Sect@ (Journal@ of@ Bombay@ Branch@ of@ Royal@ Asiatic@ Society

. 22.1908 ・ pp , 151@ ff , )

M , R . Ma Ⅰ mdar: Antiquiries @ Karvan (Journal of the University of

Bombay@ 18@ pt , 4@ 1950 , pp . 43@ ff . )

C . H . Khare:@ Two@ Sendraka@ Grants@ (Epigraphia@ Indica@ 28.1952@ pp . 195@ ft , )

R.N.Mehta: A 哺 khal 一 the Traditional Ulk 巨 grama 0f K 庄 rva つ a M 荻 h 乙 tmya

(Journal@ of@ the@ Oriental@ Institute , Baroda@ 6,1957@ pp . 169@ ff , )

(37)@ Cf , Kathasaritsagara@ vi . 135-6 , xx . 141,160

J . N , Banerjea@:@ Development@ of@ Hindu@ Iconography@ (@2@nd@ Ed . Calcutta ,

1956)@ pp , 109,114,117,151,153.

B , C , Law:@ Ujjayini@ in@ Ancient@ India@ (Gwalior , 1944)@ pp . 28,32-3,35

R.B,Pandey: Vik Ⅰ aam 巨 Cditya of Unlayini (Banaras,1951) Pp. Ⅰ 85 一 8

(86) 86

Svet 蕪 vatara Upan 晦 ;ad W-221

更にも 5 一つの章句は , p.8.ine 授 以下 ヮこ みられる。

p Ⅱ w 恭 ram 社・, yam ナ Iniyam なつ ratl 韓 dh 乙由 接 m aty 誌 fam ㌃、 yama 一

n け am モ ー lP 「 as 出 dhY 屯れ ha 甲 ca vidhih Prathama 甲り唐 khy 乙 yyate

「以双の誌 rama の yama, 及 miyama を排除し, 又 a ゆ恭 rania の

脾 mma, 及 miyama を成就するために , 先づ 第一仁儀黍が 述べられる」

こュ に明瞭 仁恭 rama と a ゆ煎 rama が対立して出されて 居るのを見る。 PS.

に説く ya 杣あ miya 血 a が他の一般のそれと 非常に異 っ て居る事は周知の 通り

であ るが,両者の 対照はこ ュ で 誌 rama と a 壊誌 rama のそれとして 代表せ

られて居る。 さきに 吾引土 Svet ,

として居るのを 見たが, こュ で明かな如く aty 燕 ra 山面とは正統派の 誌 rama

とは具り ,或ひ はむしろそれを 無視し,超越する ,古い S.1va 派の一派を指し

て居るやうに 思われる。 尤も遊行者 sa 甲 nyasin それ自体が既に No 止 Ⅴ edic

な 性格を有して 居たと考えれば , Svet.Up. の註釈家を排斥する 必要はなくな

り, さう なると印度に 於ける苦行者の 起源,歴史も 大幅に書き替えられねばな

らない 郎 ' 。 筆者も亦その 可能性を諸種の 理由よりして 信ずる者であ るが, 今

は 立入ることを 避ける。 何れにせよ,少くとも aty 蒸 ra ㎞ n に関する限り ,

彼等が正統バラモンの 圏外にあ って (39], 特殊な儀軌に 従って Siva 神を奉じ

て居た苦行者,修行者であ ったであ らう。 彼等が Lmjjaymni を中心とし, 或ひ

は 久人里離れた 山奥で一団の 集合体を形成し ,唯一神を奉じて 居た事も既述の

諸文献に徴して 理解される。

aty 恭 rama が 煎 rama と対立する概念てあ ることは PS. にみゆる他の a 正

なる pre 丘 X を冠せられた 術語を検討することによって 一層明らかとなる。 以

下に PS, 及び PABh. にみゆる a は d 巨 na,atiya 亜 a,at 油 pa の語を列挙して ,

その概念内容の 検討を試 る 。

PS, Ⅱ一丁 5 r こ a Ⅱ da 坑 a.n ati 鮒 am とあ り, atld 乙 Ina と atayajana の内容

(38) Cf . note 22

L , Skurzak:@ Etudes@ sur@ 1 , origine@ de@ l , asc6tisme@ indien@ (Wroc+aw@ 1948)

pp . 52-5

(39)@ Cf , A . Silburn@ of , cit . p , 24

85 (85)

が PABh. に説明せられる。 それに よ ると, 牛 ,土地,金銭等の 普通の dana

は究極的絶対的なものでないので kudana と称せられ, 自ら自身を神に 捧げ

る 事 (stm ㌃ pradana) が 卓 れた dana, 即ち a 旺 dana と称せられる。 同様に

agnigtoma 等の一般の ya ね na は売買や殺害と 結びっき,無常にして 究極的

でないから kuyajana と称せられ,寺院にあ って尿中に沐浴し ,然るべ き 供

物をなす 事 , 文世俗に在って 狸寝入りに始まる 偽悪的行為㎝ ' をなす事は卓れ

た yajana 即ち atdyajana と称せられる。 又 ati 仮 pa とは,三種の 苦の襲来

に 際しても,己が 教団の教書のいうところに 従って造作することなく ,只管 我

摂 すること (sahi 恕 utva or akro ㎝ 姐 ) であ るといわれ,それ 以外の tapas

は悉く kutapa であ ると称せられる。 (PABh.ad PS. Ⅱ 一 16)

これを要するに a 廿イ v 通 ega 硅 e) を取って,従来知られて 居る三つの概念を

prenX して居る所以のものは ,従来行われて 居る , 他のもの即ち 道具を介し

て 為す dana, ya 而 a, tapas とは明瞭に区別して , 自己本来の有り 方で直接に

主体的な方法でなすものを 強調し, 以 って PaSupata のそれらを,他のそれ

らから区別,優越せしめんとするものであ る。 従来の dana, ya 加 a, tapas は

悉く悪いもの , 即ち kudana, kuya ね na, kutapa と称せられて , 卓 れた

d 乙 na, yajana, 塘 pa 即ち atid 巨 lna, atiyajana, ati 伝 pa と対照せしめられ

る。 同様の概俳は a 五 gati にもみえる。

斯くて,同一の 思考 法は蒸 rama と atyaSrama の間に適用され ,従来の

誌 rama と区別され,それと 鋭い対照に 於 いて atyasrama が強調せられて 居

ると思われる。 実際 PS. Ⅳ一 % 8 には, rudra-samipa, an 互 、 V ぴ 廿を得せしむ

る satpatha Ⅱに対し kupathas tv anye と説かれ, PABh. は, この anye

を ま has ぬ a 巧 rahmac 乙 h ゴ巨 naprastha ヰ hikgu 印斡 andi- と 称し, これによ

って従来の 蒸 rama が kupathss の中に数えられて 居る事が知られる。

以上の P 誌 upata の典籍の述べるところは ,直ちに先の MBh, の章句を想

起せしむるに 足る。 即ち従来の 恭 rama に対立し ,又 これを超越する aty 恭 ・

rama は, Rudra 自らが創始し ,従来 の varp 誌 rama の dharma とは部分

(40)@ Cf , Sarvadarsanasamgraha@ VI ・ lines@ 85@ ff ,

(84) 84

吋デ

svet 穏 vatara Upan ㎏ ad Ⅵ -21

的に一致するも , 猶 相反して (viparita) 居たのであ る。 而してそれは K.Up

Ⅱ 一 工及び KP. 1 ユ 4.f.l1.69 にみゆる 白 va 教 ,就中 P 誌 upata 派を特徴ず

ける概念であ る。 斯く一致を跡って 行くと, Svet , Up.VI セ 工の atyaSramin

も万,この一連のものの 同一線上に位するものと 考え得るであ らう。 前章でみ

た如く Ⅰ 鑑 ・ 1 ユユ 4 で Mah 乙 p 誌 upato 比 ama と称せられた Sve はも vatara

の率 いた居た aty 誌 ramin は,正統バラモンの 抹 rama とは対照的な ,むし

ろそれを蔑視して ,その圏外に 立って, Siva 神と奉じて居た 苦行者,修行者

の 一団を指す。 この点に関し , 先に註釈家が 一致して釈した paramaha 甲 sa

も 亦 , 元来期 る 性質を有したものであ ったであ らうことは, M.E は ade と共

に ,吾そ の想定するところであ る。 4 ぃ 。

V Brahman

最後に Svet.Up. VI セ 1 の第二旬にみえる brahman について一言する。

Sa 五 lkara に帰せられる 註釈は唯単に「限定されざる 大いなる原理」 (apa 「 i,

cchinna 甲 mahat tattvam) とのみ かひ , 又 Dipika も「ヴェーダの 語 」

CvedaSabda) といって , 而もこの brahman と vidv 乙 n を結びつげて 解釈し

て居る。 Vivara ヰ a も 亦 「 唯二 不二の原理」 (advitiya 甲ぬ ・ ttvam) と解して,

所謂中性の最高原理「 梵 」の義にとって 居るが,如何にしてそれが「 Si 一 -sSanSh ナ

Ju 畦 am ( 聖仙の sa 五 nl.gha に玩味せられたる ) と結びつぎ得るであ らうか。 吾

そ はこれらの註釈家のいうところが Svet , Up.VI-21 の本当の意味を 理解し

て居ないと解する 他はない。

近代学者の訳も 亦この「 梵 」以上に出て 居ない。 唯 A.S Ⅱ「 bu 血のみ 忙 この

br 荻 man に 疑ひを 挿み,この br 弘 man が ;, Sve Ⅰ Up. の他の箇所に 出る

brahman を含めて従来一般のそれと 異り, 全く特殊で , 新しいものであ るこ

(41) M.E Ⅱ ade: Yoga,Immorta Ⅱ ty and Freedom, tran 鮒 ated from the French by

W.R.Trask (New York, Ⅰ 958). P.140 . 同氏に由ればこの 博統は eXtreme@

ancient,ab0H 司 [email protected] 巧 rahmanic で後期の y0 団 c 叶 tantric Scho0l を 豫 示して

居る。

83 (83)

とを指摘した ゆ ) 。 同女史はこの 部分を訳出するに "comme il cm ㎡ ent le

brahman 柏 , ) として,独自の 解釈を施したが , 猶 その意味内容について 明確

さを欠いて居る。

筆者はこの brahm ㎝が B6h 血 ngk, Ro め が Petemburg W 缶也 rbuch

の第三菱として 挙げる he Ⅲ 簿 s W0 れ, Go 廿 es Wo れ鰍 ) の 義に取り得ると 考

えるものであ る。 そして, この語も亦, PaSupata の伝承に 塞 いて解釈するこ

とが可能であ り,斯くすることによって , 後に修飾する pa ㎡ 廿 a, 樹お ㎡ 喀 h ㌃

juStam との関わり合いが 明瞭となると 考える。

PaSupatasUtra は五章より成り ,各章は夫 そ T( ㎡㎡ 亜 y)ACra 丑 ;yaka) 第十

巻 よりの mantra の引用によって 結ばれて居る。 勿論 こュ で TA. 第十巻 並

びに M(aha)N(araya 丑 a)U (P 何 %ad) の性格一般について 大きな問題があ る

と 思われるが,今は 触れない。 その五つの man 仕 a といふのは,

忘 adyo,J 乙 ta 甲 prapad 膵 mI/sadyo'Ja 構 ya vai nama 阜 /bhave bhave

na 廿 bhave/bhaiasva m 圧 m/bh 憶 vodbhavah/(PS. 1.4(M44)

vamadev 乙 yya namo Ⅰ yesth れ yya namo ru 血 aya namah/kalayanama Ⅳ

kalavika ㌔ a 丑百 ya Ⅱ ama 比 /balaprama ぬ an 霞 ya nama な lsawabh 丘止 adama

naya nam 軋 7mano,manaya namah(PS. n. 兜ヰ 7)

aghorebhyali/atha@ghorebhyab/ghoraghoratarebhyah@ca/sarvebhyah/

sarvasarvebhyali/namas@te@ astu@ rudrarupebhyah(PS ・ U , 21-26)

tatpurusaya@ vidmahe/mahadevaya@ dhimahi/tanno@ rudrali@ pracoda ・

yat@ (PS , W , 22-24)

聴圧 na Ⅱ sarvavidyan 乙 m7%varab sarvabh 廿 tanam/b 憶 hmano,d ㎡ patir

bra 五 ma 穐 vo me as 抽 /sa 曲櫛 va Ⅱ (PS.V. 蛇 47)

であ って, 第一は TA. X.43. (=MNU. XVII.1)(sB) 第二は TA, X .44.

(42) Cf.A.S Ⅱ burn: op.c れ ・ p,48 (43) Cf.A.S Ⅱ bu Ⅰ n: 0p.cit.p.75 (44)@ 0.@Bohtli gk@ und@ R . Roth@:@ Petersburg@ Sanskrit@ Worterbuch,@Bd . 5@ p . 136 (45) J.Varenne の新研究に従って , これらは Nos,5. 27 ト 2286 とされて居る。

(J.Varenne: La Mah 乙 N 丑ぬ yapa Upanigad, dd 田 on cr Ⅲ que, avec une

traduction@ francaise@ etc , [Paris@ 1960J@ pp , 70-3)@ Cf , table@ de@ concordance CTome l.pp.l19 代 ). い う 迄もなく, これらは Pa 丘 cCabrahma Upa Ⅰ sad の主題 をなす。

ヰ 二ポ 'V Ⅰ :

(82)@ 82

Svetaivatara Upanlsad vI-21

(= MNU.XVII.2), 第三は TA. x .45, ( Ⅰ MNU.XVI1.3) 第四は有名な

Rudra G 君・ yatri 。 。 。 @ で TA.x . 蝸 ・ (MNU. XVI1.4) 第五は TA. x .47.

( キ MNU.XV Ⅱ・ 5) に相当する。 これら tra に関する文献学的研究は 他

日金にする機会もあ ると思 う ので今は触れないが , この五つは後世の 文献に 於

いて Siva の玉顔 (PanCa-Vakt 「 a) と称せられ。 。 7), 教徒の間に神聖な

額 として用いられた 事は, Bana の Ha 蜂 acanita 。 。 のにも, Ma Ⅲ n 互市 a の

Kumarasa 甲 bhava 。 。 ') 註 その他 ( 鋤にみえる。 PaS 叫迂ぬ s Ⅱ tra に 放 いて, こ

れら五つの mantra は, atra ida 甲 brahma j 明ん t ( こュ にて 兄文 を念 づ べ

し ) なる文句 (PS.1.39, n,21, D.20 ,Ⅳ・ 2l; V.41) によって導出されて 居る

ので, これらの mantra が br 血 man と称せられて 居た事が判かる。

而して 斯る brahman は Svet , Up.VI-21 でその第四句に pavitra と株

せられて居るが , この brahman が pa ㎡ 廿 i 14a t 、 浄め ) として理解されて 居た

事情は他の P 誌 upata の典籍によって 明らかにされるであ らう。 Nyaya の学

匠 B ㎏ sarva 坤 a は Ga や iak 巨 Ink 衰の註釈 Ra 伍 a ヰ ika を著したが,その 中

く 46) この Mantra の起源は ョト 常に古く (Maitr 荻 iyani Sa 甲 hit 奇 I.9.1, K 乙 Ⅰ haka

Sa 甲 h れ下 XVII.11) 又 その 簗容は阜 者の注目するところであ り (cf.L.Ren0u:N0te

sur les on ま nes v ろ cdiques de Gane 吾 a, Journal Asiatique Ⅰ 937 pp.271 fg,,

H.Meinhard: BeitraeezurKenntnisdes 雨 vaismusnachderPur 巨 rna,s,,BerIin

1928 pp.26 etc.), それらは G 乙 yatn-%hed 乙 b として Linga Pur 乙早 a Ⅱ・ 48.5-26

に 言及される 0 その特異な解程については J.W.Hauer: Der Yoga,pp,80 ば .参照

(47) Cf.S 巨 ya ヮ ;a ad TA.X.43.l ff, V 庄 yu Pursna XXIL.g ば ・ 従って Monier

Wil@iams: Brahman 尽 m and ℡ nduism(London,1891)P.73 にみゆる pa 昂 c 庄 nana

の 解 程は誤りとすべぎであ る。

(48) P Ⅲ @a-p 曲 tha-pratiSt Ⅲ ta-saikata-%va-l 苗酉 ca bhakt 陣 ・…‥ pa 丘 lCa-brahma-

purabsa 苗 m ‥‥‥ (Nirnaya Sagar Ed.1925.p.20 lines 8 ff,) cf.Sanketa of

Sa 丘 kara (Panca 一ト rahm 屈 Ini 一 ssadyolatab, v 庄 madevan, aghorah.tatpuru 号 aaIl, 憶互 na き

ceti)

(49) Ma Ⅲ nathaadKumarasa 甲 bhavaDl.15(brahm 圧五 ga 一 [bh 丘 b 一 brahma ヮ 五 % sadyo.

j 乙ぬ dj 一 Imantra Ⅰ 互 m ‥‥‥ )

(50) これらの mantra が Siva を象徴して居る 事はの沈下の KP. Ⅱ. 5.21 及び 38 の

ほか例えば Sarvadar き aanasa 血 graha 7 l@es 66 ヰ ,103 目・

@1 (81)

で , この五つの brahm ぁ n ( 兜立 ) ほ 五つの pavi 七 % として 置 ぎかえられて

居る。 Gaekwad,s O Ⅱ entaI SeHes の t5 巻, p.17 I 油 e27 に既述の P 恭 upata

の dana 即ち atid 酎はを定義して , 「五つの pa ㎡ tra の唱えられる 間に,十

の敬礼により ,最高自在神に 自己を捧げる 事を (Pasupa ねめ ) dana とい ヲ 」

Cpaicasu pavltreev ava れ yamsne 軸 da き ab 肘 r namasksra 田 param ㏄ va.

rayatm 且お amarpa 妄 a 中 danam) といわれ, 又 p.18. Ⅱ ne l4 には「それか

ら,一偏なる 動物, 植物なぎ清浄なる 場所に , 五つの pa ㎡ tra を唱えつ ふ 立

つべし…」 (tad ㎝Ⅳ ekante Su ㏄ u prade る e j 燕出 ヰ Tavar と hlne pah ㏄ -

脾 ㎡ tra ヰ y avar ね ya ぬ jva s 伍 eyam) といわれる。 又 p.19. № e 2 にないて

は, 既述の P ま u 田ね特有の偽悪者的儀黍の 実行の後で, 「これら五つの

pa ㎡ 圭 ぬ る 三回 唱ぅべ ぎであ る」 という吉師の 言を引用して 居る (Pa 打 ㏄ 一

pa ㎡ 比乙丑 き 印 ㎡ r ava れ ma 中内 ヱ挿 d i ゆ aha bha ま Ⅳ an a ㏄ 卍 a も ) 。

これらの用例をみると ,或る特定の 宗教的行事,儀黍を 行 うに 当って,この

五つの pavitra 即ち brahman ( 二 mant 悔 ) が唱えられた 事が知られ,この

慣習は , 地に降った Sarasvati が S. Iva 神を崇める際に 先 づ 五つの呪文を 唱

えた (Panca-brahm ㌃ iPurahsa 苗 m … ) と記して居る Har 甲 can ねの描写 と

一致する。 而してこの 5 つの pa ㎡ tra 即ち brahman は PS. の各章の最後を

しめく ム る TA. 第十巻の mmtra に他ならない。

紅 . n.5.21 では Mumi 達の @ Siva 神に答える最初の 章句に

tv 且 m ekam iSa 中 puru 餌甲 pura 丑 a 中 pr 圧丑 eSva 丘 ia 甲 rudram anan も㌃

yogam namama / sarve hf 田 sa 甲 ㎡ vigta 甲 pracetasa 中 brahm ナ

maya 甲 pa ㎡ tram

とあ り, こュ に brahm か mayam 脾 v 肚 am は上述の五つの 呪文より成る

pavitra に 他 ならず,それはそのま ュ Siva 神の epi ぬ ㏄ , 若くは sy 血め 1 で

あ る。 同様に KP. m,5. 鍵にみゆる

yogeSvara 中 bhadram ananta ㎏ akti 甲田 raya 辛 a 甲 brahma 廿 anu 甲

pura 丑 a 中 / namama sarve sara 甘 互市 廿 nastvam prasIda bh Ⅱ ほ d Ⅲ pate

mahe さ a

(80) 80

巨 " 紺 l

㌃ 転

Svet 柏 vatara Upan 咄 ;ad Ⅱ -21

の bram 血がぬ nu も 亦 , 上 と同様に解釈さる べ ぎで, S.1va 神は brahm 租 即

ちこれら mna 且 tra を身体として 有し,それらによって 象徴せられて 居たと解

すべぎであ らが 51)0

これを要するに , brahman は 曲 va を象徴するものであ り,特定の儀式を

行 5 に際して,その 悪 き 成就を期して 唱えられ, 又心 に念ぜられた 浄め , 即ち、

pa ㎡ itra であ った。

斯くの如く考えてくると , Svet Up. V ト -221 にみえる brahma … 脾 ra.ma 甲

脾 Ⅵ七 %m は,上に掲げた 用例のものと 符合する如く 思われ, 又 rsi.sa 血 sgh ナ

和典 a 血にも合致するや 5 に思われる。 lu 軸 am は註釈家によって 奇 ㏄㎡ ね m

に解せられるから , さきに述べた 聖 仙の集いが, この呪文を事あ る毎に用い

て, 諦喝 して居たと解され 得る。 従って こュ にみえる brah 血 an が,註釈家

や ,近代研究者の 理解するそうな「哲学的原理 (tattva) 」ではなくて , て gi-

sangha に 放 いて 玩 賞せられて居た mantra と解すべぎであ り,その内容は

P 恭 up ぬ ねの伝承に見ゆる TA. 第十巻の 五頚 てあ り, 神を象徴する 浄め

の梵文であ ったと考えられるであ らう。 ,, ) 。

VI 拮 論

斯くの如くして , 吾ヒは 前三章にないて , Svet,Up. VI 乾工 にみえる三つの

語 Sve 垣も vatara, a ゆ aSra ㎞ n, brahman を検討した。 そしてこの三つの 語

を中心とし乍ら ,同額にみゆる pavitrra, 幹 Ⅱ 鈎五 gha に言及し, この 額 全体

の 意味をよりよく 理解せんと努めた。 而して今や,全体を 綜合して次の 如く結

論する事が出来るであ らう。

諸 R 肛軸 a の中で Siva 神の第一化身とされる ノ Sve ぬ 若くは ア Sve 櫨る va 十ま,

(5l) P-E.Dumont の譚はこの拙に 関する限り疑問とせざるを 得ないであ ろう。

(P づ ・ Dumont: L'ISvaragita,le chant deS@va,[BaltjmoreetParis1933)P.73 et 79)

(52) 唯もう一つ可能な 解 程 はこの brahman を Atharva 師 ras upanlsad の aenir Iti

bhasma etc. と取る取り方であ る。 KP I-14 に Su もⅡ a の入門式に際し 彼等の唱

えたものは明かにこの 章句であ った。 何かにせよ。 ここで brahman は mantra 乃

至 冗文であ って, 徒束 の 解 程の如く「 哲享的 原理」ではない。

79 (79)

とのう

く h

(53) J.W.Hauer は Jaiminiya Upanisad B ね hmana iv.l,,Mailni UpanIsad li.9 を

掲げて, き vetaSvatara は 鮒 va の別名に他ならす「白馬に 跨るもの」 (svetaSva-J と「救済者」 C-tara) に分ち , -tara は 蕊 va 教の博 事 に従って 鮪 va そのものを

指すというが・ この義を曽 て 吾人は見ない。 何れにせよ南部分を 合して「白馬に 乗り

て,彼岸に導く 教主」 "der Helferoder der Heiland auf dem weissen Rosse リと

繰り返し主張し (ZDMG.85,p.*101*; 団 aubensge5chichte der Indogermane Ⅱ

und die Grundtypen der Indo-arischen ReIigion,Stuttgart.1937,p.208; Der

Yoga,loc,cit.),A.S Ⅱ burn もこの見解を 容れる如くであ る Cop.cit.pp.42-3)0 R. Hauschlld は J.WackernageI und A.Debrunner: 川 tin ㎡ sche Grammatik Ⅱ. 2

(G0ttingen,1954) 恩 451,e (P.608) に従って,この Su 伍 x-tara を Ahnhchke 吐

を示すものとし , a 侮 vatara は Maultier の義であ るとする (A.Thumb und R.

Hau8child: Handbuch des Sanskrit l.1l (Heidelberg, 1959) 釜 388 (P.169)) 。

併し乍ら 吾 々 は 鮨 va の第一化身に 歪 veta, る ve 垣 6sva の如 き 名を見,これらが

鮎 va 教に開運あ る名であ るを見るから ,むしろ ハ Gr,s451.e CPp.60 ㌍ :3) の義

に,この Su 血 x を取って (cf.vlr わ ltara,veg ㌃ ltara), たとえ Svet 燕 va が 蕊 v あ

の別名てあ るとしても,「 鰻 vet 乙 Sva の中の卓れたる 者」「 卓 れて 自 vetaSva なる」の

韓に 取り得ると考える 0 そしてこの概念が KP. I. Ⅰ 4 の Mah 乙 p 乙 Supalottama の

uttama の概念に 或 種の符合を暗示して 居る如く 思 ,われる。 蓋し Su 伍炉 tara,-tam み

が形容詞のみに 添ぬ されぬ故であ る (cf.go-tama). 向 H Ⅱ ka によれ ば vet 恭 vatara は Taitt ㎡ yaAra ヰ yyaka の S 五 ya Ⅰ aa 註にみゆ

といわれる。 A.Hilka:Beitr 廿 IgezurKenntnis der in 廿 schen Namengebung, D 油

凪 tindlschen Personennamen (Bres@au: l910).P.120.7

(54)@ Patanjali@ ad@ Panini@ Sfltra@ V . 2.@76(F . Kielhorn@ Edition@ Vol , I@ p , 387.@line@ 19)

Cf.C.Gale Ⅱ : 0n き iva-bh 屈 gavata@n Pata 毒 Ja Ⅱ, s Mah 乙 bh 五目 ya (IndianAn Ⅱ・

quary@ XLI , 1912 , p . 272)

V.S.Agrawa@a: Ind@a as Known to P 五つ @ni (Lucknow Ⅰ 953) P.381

但し同氏が Sai Ⅱ sm に 二派 あ りと想定 サ るには猜疑問があ る

J , N . Banerjea@:@ Development@ of@ Hindu@ Iconography , p , 449.@Comprehensive

History of India,Vol.2 (by K.A.Nilakanta Sastri) p.396 (Calcuta, Bombay,

Madras,1957) その他 鮪 va 教の古史については ,

J.Charoentier: A 互 v@a (JournaI of RoyaI As@aticSociety l913,pp,6 ff,) A.L.Basham: Ⅲ story and Doctr@e of Aj 「㎡ ka (London,1951) Pp.35-6.

(78) 7&

,,, 。 イ

@vetaSvatara Upa Ⅰ aad M-21

執を逸した生活方法は a 廿 mar 苗 Ⅰはの名を以って 知られて居る ( 瑚 。 ギリシャ

の伝説もこれを 裏 づける如く,印度の Dyo ㎡ sos の名の下に一群の 人を指し

て居たものの 如くであ る (5 。 ) 。 その起源をアーリヤス 侵入以前の土着人種の 習

俗に求める事が 不可能でないとしても ,今は断定を 差し控える。 併し RV.X.

136 にみゆる琵をのばし ,頭髪を整えない KeS 伍 , 又 H.Oldenberg が Medi.

オ 何曲 皿 er(67) であ ったらうと推測する Mu ㎡が, Sk 匝勿 k 。 鋤の指摘する 如

(55) R , D . Bhandarkar: Vaisnavism , Saivism and Minor Religious Systems

(Grundriss@der@Indo-Arischen@Philologie@und@Atertumskunde@ B-l , Strassburg ,

1913) pp.126-7

J , N , Banerjea:@ Comprehensive@ History@ of@ India , Vol , 2 , p , 400

, (56)@ E . A . Schwanbeck:@ Megasthenis@ Indica , p , 43@&@ 144

ここに言及される 三 @Ipoi 及 び 印度の侍 声 の Sibi について多くの 見解があ る。

A.Weber: Ind ね che Stu 小 en XIII.p.376.

J.F. Ⅵ eet: The TopographicaI List of the B Ⅰ「 thatsa 血 hit 圧 (Indian Antq ㎡ ary

XXII.1893,p.189)

S ・ Leivi: Le Cat8ogue des Yakaa dans , le Mahamayuri (Journal Asiati ue Ⅰ 915,p.70)

J , Ph , Vogel:@ Shorkot@ Inscription@ of@ the@ Year@ 83@ (Epigraphia@ Indica@ XVI ,

1921.pp , l6-7)

J . W . McCrindle:@Ancient@India@as@Described@by@ Megasthenes@ and@ Arrian

(London 1877) p , Ill note 2

J , W , McCrindle:@ The@ Invasion@ of@ India@ by@ Alexander@ the@ Great@ (West-

minster@ 1896)@ p . 366

A.B.Keith and A.A. Macdone Ⅱ : Vedic Index under 鮒 bi

E . J ・ Rapson:@ Cambridge@ History@ of@ India@ Vol . 1@(Cambridge@ 1922)@pp , 374-5

V , A , Smith・ The Ear@ History of India (Oxford 1924) p , 97

W , W . Tarn:@ The@ Greeks@ in@ Bactria@ and@ India@ (Cambridge@ 1951)@ p . 170

J , N , Banerjea@:@ Development@ of@ Hindu@ Iconography@ p , 450.@ Comprehensive

History@ of@ India@ Vol . 2 , p , 395

G . S , Gai;@ Madhyamika@ (Journal@ of@ Oriental@ Institute , Baroda@ 10 , 1960 , pp

Ⅰ 80 ば. )

く 57) H.OIdenberg. Die ReIlgion des Veda (Stuttgart& Berlin l917) P.404.

<58) L.Skurzak: [email protected], 5 Ⅰ -52.

P.V.Kane は Yati は Non-vedic の苦行者, Muni は vedic の苦行者とするも ,

(History of Dharma 鯨 stra,Vol.2,p.419) この鮎には問題があ るであ らう。

77 (77)

Ⅰ り Ⅱ む

く , 井 アーリヤ的修行者を 指示して居たとすれば ,彼等はアーリヤ 人の斎した

祭式,供犠とは 著しい対照をなして ,何程 か , この a 廿 m 甜陣 ka の伝統を吾

とに想像せしめる 如くであ る。 Siva 神の信仰を Mohenjodaro,Harappa の

遺品に求めんとする 努力が,多くの 学者によってなされた 事は周知の事実であ

り ,供犠とは対照的な bhaktl, p 可 a の伝統にも 亦非ァ ~リヤ的要素を 跡 り 得

るが (59), 今は Siva 神を中心とする 唯一神教の古史には 触れない。 何れにせ

ょ 当面の問題であ る SvetaSvata ぬ のあ り方と かひ,ス その弟子達の a ゆ捧ぬ ・

mmn の性格とい ひ , 正統バラモンの 在り方乃至性格と ,著しい対照をなして

居る事は注意さるべきであ る。 Mahabhara ぬ皿 ・ 285 (Bo)mbay Ed.) にみ

ゆる Rudra の 言 , va 叫榔 ra 血ゑの dhanma と 相容れず,而も 古く (Pura)

彼 自らによって 創始せられた PaSupata, atyaS 旛 maa の vra ぬは勿論伝説の

域を出ないとしても ,何程かその 歴史性を指示して 居るものの如くであ る。 何

故 なら,たとえ , RUdra 一 sSiVa 派の信仰,特に P 抹 町方 ta の歴史が 猶 未だ 何

人も解決し得ない 問題であ るとしても,その ん ㎡ 冊 e 田 sm の傾向は否定し 得

(5g) bhakH が N0n ヰ rahmanic 起源のものであ ることについて 多数の研究,想定が

あ るが,主なものみ 掲げる。

A.K.C00maraswamy: Yak 甲 , Pan.l (Washingt0n.1928) pp.24 パ ・

S.Dasgupta: Ⅲ 5tory of Indian Ph Ⅱ osophy.V0l.3 p.63.

H.RaychaudhuH: MateHa 聴 f0r the Study of the Ea Ⅱ y Hist0ry of th 笘

Vaishnava Sect (Calcutta 1936) p . 10・

J , N , Banerjea@:@ Development@ of@ Hindu@ Iconography@ pp . 335-6

A , M ・ Esnoul:@ Le@ Courant@ affectif@ &@ l'i t6rieur@ du@ Brahmanisme@ anci n

(BEFEO , 48,1956 ・ p , 155@&@p . 194)

L , Renou , J , Filliozat@ etc , :@ L'lnde@ Classique , I . pp . 661@ ff .

L.Renou: イヨ tudesv6diques et p 乙 rnin ろ eennes 6 (Paris,1960) P.8

M.Eliade: Yoga p.348 8 p.360.

p 百 ja については P.T ㎡ eme の 卓 れた所宛があ る (Indische W6rter und 鋭 tten.

ZDMG.g3 pp.I05 打 ) が J.Charpentier(Festgabe Jacobi pp.285 廿 ) の Dravida

起源 説 に大勢は傾いて 居る。

(cf.M.Eiade: loc.cit., S.K.Chattenjee: Indo-Aryan and Hindi, CaIcutta, Ⅰ 960 p.33 8 p.49)

何様な事が Yoga についていわれて 居る事は周知の 事實であ る。

(76) 76

ハ @@

SvetaSvatara@ Upanisad@ @ Ⅰ 21

ないからであ る。 又圃 -sa も mgha の問題にしても , KP. の a 鮭 ama や Pata 可 a は

の SlVa 一 tbh 在 tgaVata を考慮に入れるならば ,その存在の 可能性も推知せられ

る 。 曾て J.W.Hauer は , 「これらバラモンの 誌 rama を超越して居た , こ

の 一群の賢者達は , よしジャイナ 教や仏教のやうにしっかりと 形成されて 居な

かったとしても ,恐らく僧伽を 形成して居たであ ら う ③ ) 」と推測した。 氏の所

説 が時に極端に 奔る傾向なしとしないとしても , この推測は決して 不可能でな

い 。 若し然りとすれば ,それより凡そ 二 ,三世紀前,六師覚道,仏教等の 自由

思想家の出た 頃 ,同様に an 壬も「 ahmanISm の一環として ,古い Siva 教が

持頭して居たとも 考えられる。 後世 Naku ㎏ a P 榔 upata の名で知られる ,

Nak Ⅱ iSa, 若くは LakuliSa は諸プラーナで、 の第二十八化身とされる

が ,字義通り「杖を 携える者 (Lakulmn) の 主 (iSa) 」で, AJiv 汰 a の伝統を

想起せしめる (6') 。 その彫像が,後世の , Siva , 神のそれにみゆる 如く多 技を有

せず, 二 技を有する事実は , 多くの美術史家,考古学者の 一致して訪る 点とな

って居り㈹ ', D.R.Bhandarkar は,「仏陀,大勇などと 共に,歴史的に 存在し

た 人格ならん」を 推定した㈹ ) 。 併しこの人格と Sve 塘 Svatara の関係は猶 不

明 とせざるを得ない。

周知の如く Rudra はもと山間の 神で, Siva も GiI. 聡 a の名を有して 上に

関係が深い。 アーリヤ文化圏の 圏外にあ って,バラモンの 手に伝わる古代印度

(60)@ J , W . Hauer@ in@ ZDMG , 1930@ p , *101 , r

(61)@ J , N . Banerjea@:@ Comprehensive@ History@ of@ India@ Vol . I . p . 399

<62)@ D . R , Bhandarkar:@ Lakulisa@ (Archaeological@ Survey@ of@ India@ 1906-7)@ p , 180

J , N , Farquhar:@ An@ Outline@ of@ the@ Religious@ Literature@ of@ India@ (Oxford

1920) p. 146

D , R , Bhandarkar:@ Mathura@ Pil@ r@ Insc Ⅰ ption@ of@ Chandragupta@ I@ (EPgra-

phia@ Indica@ XXI . 1931)@ pp , 8-9

J ・ N , Banerjea:@ Development@ of@ Hindu@ Iconography@ p . 244

R.N.Mehta: Av 乙 ka@, the Traditiona@ Ulk 乙 gr 乙 ma of K 庄 rvana 一 M 乙 h 乙 tmya

(JOI , Baroda@ 6@ 1957)@ pp , 172@ ff .

/63)@ D . R , Bhandarkar:@ An@ ERi 2i@ Stone@ Inscri tion@ and@the@orig@@ and@Hstory

of@ the@ Lak Ⅰ iSa@ Sect@ (Journal@ of@ Bombay@ Branch@ of@ Roy3@ Asiat@@ Society xxii . 1908@ p , 162

75@ (75)

文献の上から 一応後退を余儀なくされ 乍ら, Va 「 a 田打 eyiSa 田 h 油の Sataru ,

drdya, Atharvaveda の Vratyastoma にその 件 を 留めて,後世の Hlndu.

jsm の発展を予示した 土着の民間信仰が ,猶 この Svet ,

居るものの如くであ る。

既述の如く 色 vet.Up. は成立の年代に 統一なく,同時代の 多くの思想傾向

を析 表 した外観を有するから , 一 額の特徴を以って ,全体を律する 意志はさら

になく,その 意味で 吾ヒは J.W.Hauer の立場と自ら 一線を劃するものであ

るが, Svet Up.VI セェ に関する限り , 他の諸典籍に 徴するに, Siva 教の古

い 伝統の光にあ て 1, 従来明快を期し 得なかった解釈に , 指 差を与え得るもの

と 考える。

Up 全体の性格について ,これを美しく ,簡明に描いた A,SiIb 廿且女

史の二章句を 以って,本論のしめく 上りとする。

Cfes 士 ve 「 s une fuslon de tous les dleux du pm 田 eon v 屯 ldlque en

un@ seal@ que@ tend@ la Svetasvatara qui , sans・

nomb 「 eux aspec 於 deladlvlnlte,acc き (deal' Ⅱ Ii 佳山 vinePrimo 「 dlale,

non plus ㏄ ulement sous l'aspect du 研 rn ぬ佛 d れ lmpersonnel, mals

㏄ us ceh ㎡ du dieu personneI, Sjva, l, objet de la devotlon des

erI Ⅱ 1 Ⅰ㏄.。 。 。 )

Si, comme nous le croyons, il y eutinfnuence dlun Sivai.sme

archalque sur la Svet 色る w ぬ ra, nous aurions des .deux c 毎恭 en

reac 廿 on contre le cuIte n 憶 eI des Br 荏 ]nma 申 a 山 l culte popu Ⅰ㎡ re,

a 田 aire, non brahmanlQue, reli 里 on des pasteurs des mo 血ぬ幻 nes,

adorant@Kr?na@le@bouvier , Rudra@1'archer@et Siva Ie grand な ㏄ c 旺 e,

croyant a la fecon 田億 de la nature, pa れも 穏 ls du ノ oga et de la

あ ん 庇 お, ay 簗 nt co 血行 沖 nce en un djvmn 部Ⅱ de q ㎡ Ies 皿き nerait au

salut166'

74

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( Ⅰ ( Ⅹ @@@

C74 Ⅰ 74

文 .

トに Ⅰ 『

ぉ鏑

, 曲巨

展 望

アメリカの宗教心理学 上

田賢治

さきごろ、グレ ソ ステッドの「宗教心理 宇 」が邦訳せら れた。

その序文で著者は、時代・場所・環境等に よ るさまざ まな困難

を 考えると、恐らく「オックスフォード大字の窓から みた」と

いう副題をつけ加えておいた方がよかったかも知れな いと述べ

ている。宗教心理学という広範で酸味な意味を持つ 主 題 につい

て 概論しようと企てる者にとっては、この言葉が殊更 、 強く意

識 せられてならない。

ハーヴァード大字は、アメリカに於ける宗教心理 字発 祥の母

胎 となったところである。スタ ソり l. ホ l ル、 ス ターバ ソ

ク 、ウィリアム・ ヂヱ ームズという、いわばこの、学問 の 創世記

に 記載される学者は、すべてこの大学から育ち、そし て 深い関

係を持ち続けた人達である。現在でも、ゴオードン・ オ ルポ |

トと ハンス・ホフマンがこの分野で活躍しており、 伝 統 的な名

誉は失われていない。しかし三十年代に入った頃から 、宗教心

理学も、心理学の発達に伴い、 ヂヱ一ムズ の業績が 偉 大なるが

故に打破ることの出来なかった枠を超えて、新しい 発 達への 肪

を 見せている よう に思われる。特に、問題領域の展開 には著し

メリカの各地に、この分野に関心を持つ @ 手者が輩出 し、 従っ

て 、ハーヴァードは最早、唯一のセンターとしての性 格を失っ

たといわなければならないと 居ぅ 。かっ、問題領域 の 広範さ

は 、単独な研究者がその全領域にわたる知識に通暁 す ることを

極めて困難なものとしている。

以上のような条件を考慮すると、蛇足とは知りながら こュ

に 述べられるであろうアメリカに於ける宗教心理 宇の 現況も 、

ある角度から見られたものとしての制約をもつもので あること

を 、 頭 初に明記しておかずにはおれない。

伝統的課題と現象学的研究の成長

フロイドの精神分析 @ が 、ダーヴィン、マルクスに 次 ぐ 第三

の 革命として、文化・人間行動の理解に重大な影響を 与えたこ

とは否定出来ない。特に 、 彼の無意識分析に基ずく 宗 教 批判、

宗教を神経症の 一 徴候として理解する在り方は、ベイ カン の 如

く 、その方法と理論がユダヤ教神秘主義の伝統に由来 するとす

る 見解があり ぅ るとしても、精神分析 学 との対決を宗 教 心理学

の 重要な一課題とせしめるのに充分であったといえる だろう。

第二次大戦と、それに先行するナチズムの 拾頭 という 社会的

条件も手伝って 、 多くの精神分析医がアメリカに移住 し 、世界

中でも最もこの学問の盛んな、今日のアメリカを造り あげた ょ

う に思われる。権威主義的傾向の強い正統派精神分析 医の中に

は 、フロイドのように、宗教に強い関心を示すものが 、 必ずし 99 ( 99 )

いものがあるとかえるたろ

う 。こうした新しい傾向と 土 @ に。 ア

も多くはないが、そこでは、オストウの「信仰への

欲 求 しによ

って代表せられる如く、依然として、フロイド的宗教

理解の基

本 的態度が支配的である。

しかし、社会科手の分野に進出して活躍している、

精 神 分析

学の流れを 掬む 学者達の間では、その宗教に対する

研 究 態度や

結果が一様ではないとしても、フロイドから大きな

展 開を遂げ

ていることは、見逃し得ない。この傾向は、心理烹調

としての

精神分析学理論が持つ弱点を補正しょうとする、

新フ ワイド @ 字

派の動向と軌を一つにしていると云ってよいだろう。

無意識 分

析の新しい展開、日 @ の 日 。す日。のⅠからのの。もの

冶ダ 0 一 。 沖 せ へと

自我の自律的機能を強調する傾向、人格形成及び人間

行動にお

げる非本能的要素の強調による

リビド 一説の補足修正 ヨ 0 曲 |

vat@o

コ 理論を中心とする心理学との接触、幼児の観

祭など 実

験 的研究の試み、これ等の諸条件が綜合せられて、

分 析 学的 宗

教 研究にも、大きな展開が招来せられたのである。

講壇心理学者からは、その神話研究に基ずく宗教観念

が 難解であり、かっ形而上手酌

思辮性 が濃厚であると い う 理由

で、敬遠され勝ちなニングも、イギリスにおける程で

はないと

しても、アメリカで多大の彫

嬰 があることを見逃すこ とは出来

ないと思う。彼の説く集合的無意識、特に

uqn

ゴの (せつ

のの概念

が 、宗教的表象・象徴の心理学的理解に重要な役割を

果すと 考

えられるからである。

ユングと同様、精神分析半治

頭 の 極く 初期の時代に フ ワイド

と 分れ、後、アメ り 方に 牲 住したアドラーは、これま

た ユング

と 同様講壇心理学者の間に、その後継者を持っていな

全的人間関係の重視と ヨ 0 ( @0 コリ目の

ョ 及び ヨコぃ 自の ヨ の 性格を

持つのの

-f

の強調という特色から、必ずしも無視し得

な い 評価㎝

を 受けている よう に思われる。

ロ ム の

名士落すことが出来ない。彼の業績は戦後、比較的 早 く 我が国

にも紹介せられているので、多言を要しないが、最近 、仏教、

特に禅に深い関心を示し、鈴木大拙 氏 との共著を出し ているの

で、今後この方面への更に深い展開が期待せられる。 たビ 彼の

権威主義批判と、 す仁ヨ の三の ヨ に発する愛の理論は 、み 姦 心理

字の分野にも多大の影響力を持ち乍らも、比較的自由 な 空気を

持つ神学校ですら、決して歓迎されてはいないという 事実を承

如 しておく必要があるよ う に思う。

新しい傾向に立つ精神分析学者の最 牡に 、最近、青年 曲用用の小本

教者 ルッターを 、ぎお arc

す 文三の コ きせという独特 の 理論で

分析し、注目を受けているエリクソンを挙げておぎた いっこれ

は 、宗教心理学における伝統的な中心課題の一つであ る 回心の

研究としても興味あるものといえるだろうからである

目 心の研究では、既に極 く 初期の頃から、宗教経験と 、 他の

これに類似する経験との比較研究が行われていたが、 近来 再

び 、アルコ一ル或いは麻薬中毒からの回復過程との 比 較が、回

心経験の現象的理解の上で注意されている。アメリカ において

特に社会的注意を換起した、朝鮮戦争での所謂「中国 的 洗脳 方

弍 」の心理 字的 カラクリも、そしてまた、ドイツの 捕 虜 収容所

における限界状況での人格変換の問題なども、

矢 張り 亡 変笘 心理

字の分野で強い関心を集めているといってよいだろう 。残念な

ことは、これらの研究が、宗教的回心経験の現象的 心 理 過程の

説明方法として利用されているとい 5 段階に留まり、々 小我経験

の 特質的な性格理解の点にまでは及んでいないことで ある。

同じく回心及びそれに関連する特異な経験を研究対象 とした

もの人中では、サーガントの「心の戦い」が 、ヱ パン ヂヱリズ

ム その他の宗教 り バイパル運動を条件反応心理・生理 学の観点

から取り上げたものとして興味深い。

「宗教研究」一 山 八四号で野村暢 清 氏が、最近の宗教心理 学 研究

の方向を示すものとして、 フヱ スティンガーの「予言が はずれた

時 」、及びァ一 ギ ー ル の「宗教行動」を紹介検討してお

られる。

これらは、宗教現象の実証的研究の線に添った 、 新し い 研究所

産の代表的なものとして、アメリカでも 任 目されてい るもので

おる。特に フヱ スティンガーのものは、宗教集団の成 立 ・崩壊

過程を、比較的長期に一日一 つて 実地に探査した結果得 ろ れたもの

として、社会 宇 或いは社会心理手酌研究 法 との関連か ら 、意義

深いものということが出来るだろう。

同様、社会心理手酌方法による研究として、その他に も、た

とえば、カリフォルニア・グループによる権威主義的 人格の研

望究 、或いは、オルポートの先入見の研究などが、 宗教的人格 理

解 の問題に重要な関係を持つものとして注意される。 オ ルポ l

トは アメリカに於ける社会心理手創設者の一人であり 、 新しい

展 実験的研究方法の勇敢な採用者としても注目され る 手者である

が 、同時に、宗教に深い関心を持つ心理 字 としても 貴 重 な存在

だと考えられる。両眼同時視に よ る 黒 ・青二人物の写 真 テスト

を 用い、宗教信者の中に人種的偏見が強く潜在するこ とを見出

すなどは、この面での彼の研究活動を知る一事例とい ぅ ことが

出来よう。

以上、それは余りにも雑駁な記述でほあったが、 ヴのゴぃ

く -0 Ⅱ い -

の c@ の コ然 としての心理学の立場から、或いはそれを通路 として・

宗教現象の科学的研究及び理解が、現在のアメリカに おいてど

のような状態におるかを述べた。このような操作的所 究への方

向が 、従来よりより顕著に見られ、それが宗教心理学 0 社 ムム ・

行動 科字 としての成長を物語るものであることは、 否 是 し得な

い 事実のように思われる。しかし、一方では宗教研究 における

ぬ量 化、法則化の困難性が、この方向への成長に大 き な 支障と

なっていることを忘れてはならない。このことは、 宗 数 社会学

が 既に社会学の一分科として認められ、その名の下に 講座が開

設 せられているのに対して、宗教心理 手 は 未 だに心理 字 の一分

科 としての地位を与えられておらず、従ってこの名称 を持っ 講

座は 、神字 校 においてのみ開かれているにすぎないと い う 事実

によっても充分窺 う ことが出来る。

リュウ パ の行った調査によっても既に明らかなよ う に 、心理

手者の中に、宗教への深い関心を持つ者が比較的少 い というこ

と 、そして同時に、このような方向での心理手酌宗教 研究によⅢ

って、宗教の一体何が捉え得るのかということ、この @ 」とは、

人格心理学の分野において最も明瞭に認知せられるこ とである 皿

が 、ここではこのような問題が残されている よう に 思 われる。

精神治療による救済と成熟人格の宗教

宗教の人格心理学、或いは社会心理学の立場からする 現象学

的 研究の成長と並んで、アメリカにおける宗教心理 字 の 傾向と

して見落してはならないものに、神学者の立場からす る 七 % 教ハり

心理学的研究の分野がある。神が一つの観念として、 心理学的

に 処理せられるべき問題の中に入れられてある場合と 、それが

リアリティーとして信じられている場合との間には、 決定的な

相違がある。それは当然、研究者の問題意識、そして 問題処理

の方法にも重要な影響を及ぼすであろう。従って 、神 字と科 @ 宇

としての心理 宇 との関係をど う 捉えるかは、宗教心理 学の万法

論の根底にある問題として従来も論議されて来てい る 。それ

は 、記述・説明を目的とする心理学と、理解を中心の 課題とす

る 心理 字 との間に 、 常に問題が絶えないのと似た性格 を 持って

いるといえよ う 。行動 科字 、或いは社会科学としての 出 薮 心理

学 に関心を集申し、この字間の将来に、この線に添っ た 限界を

明瞭に意識し、 劫軽正 するものにとっては、この分野の 研究は重

要 な意義を持たず、或は宗教心理学の領域から除外さ れるべ き

ものとしてすら考えられるかも知れない。しかし、 紗 くとも、

アメリカにおけるこの問題についての社会的条件は 、 日本の場

合 と全く異るよ う に思われる。・多くの神学者の申には 、科学と

しての宗教の心理学的研究を、宗教或いは信仰、延い ては神 @ 字

への挑戦として受け取っているものもある。しかし、 そうした

受身の理由で、心理学の限界を示し、或いは心理 字を

避けるために附言しておかねばならないと思 うが、こ

神学校における宗教心理学講座の中心課題なのである

な 意味で、の コ noE% ミ オ痒 ものの コヰす 00-0

の せ リコ隼でのせ

い甘 0-

を 指向する積極性をも見逃すことは出来ないと思 う 。 ,

て 、心理字を通じての、宗教・信仰のより正確な理解

とによって宗教・信仰を弁護しょうという消極的なこ

の拘 わりだけではなく、そこには、信仰のよりよ ぎ理 。

誤解を

om

せは、

解者 とし㎝

れは決し

0 字間 へ

への貢献

」のよう

て 、 斜 子としての宗教心理宇を神字に隷属させよ 5 と する意図

に 発するものでは全くない。

アメリカの宗教心理学で最も活 澄 な研究論議の進めら れてぃ

るこの分野で、代表的な課題は、表題に掲げたもの文一

っ である

精神治療による救済の問題である。一切の生活領域で 良 0 ゴロ円 コハ|

三 % ヱ 0 コの 傾向が顕著に現れつつある現代の社会集 件の下で

は 、精神衛生の問題が重要な関心事となっていること は 否定 田

来ないと思 う 。口に 臼 0 ( ぎ S 目や毘 浜田 ジ (「ぜの 発 達 ・一般

化は、こうした社会的要式に対応するものと考えられ てよい た

ろ う 。キリスト教では、教区内信者の持つ問題は一切 、その 物

心 両面に 亘 ってつりの( 0 「が自己の職掌として 開 与し 援 助 するこ

とが伝統として存在した。

ム 「 日 いわれるところのの。 け 二の 0 ミ 二幅

は 、その方法と理念こそ異なれ、何らかの形で現実に 行われて

来たといえるわけである。従って、神字的立場からす る 精神治

療学 、或いは衛生学との交渉は、当然提起せられるべ ぎ 問題と

して、潜在していたということが出来る。これを剛造 し 顕在化

"

展 望

ね 、深い拘りを持つという問題意識は、ここに発して いるとい

ってよいだろう。特に神学者の側からするこの問題へ の 積極的

な 関与は、元来、精神治療系統の医学、心理学が 、疾 患の駆除

を目的としてその段階に留まり、自主的な人格成長の 原動力を

与えようとするものではなかったというところにその 理由があ

る 。宗教の目指す精神衛生と健康の概念は、疾患の欠 除 という

消極的健康ではなく、絶えざる緊張と不安に対決して 圧 0-0

くり二円

な 態度を失わず、これをプラス方向に発展的に解消し てゆく 不

断の努力を可能ならしめるというところにある。従っ て 、心理

宇 的にい う 救済は、 静 上せる平安の状態ではなく、 現 狂的時点

における本来的な生命力の保持せられた状態を意味し ている。

五 セ % 廿から レ np

Ⅰの

日 q0 ( オ苦 ら 0 コのコ 年日の コ ( u- コ 0% @ すが、

広範囲な研究者の協力を得て、活動をしている事実は 、こ

題の将来にとって 、 大きな希望を与えるものだといっ て よ いた

ろ う 。

なお、ヨーロッパにおける、ビンスワンガ 目 或いは ボスを

中心としたⅡ ゑの (の コ 立の - ㌧の)

c ゴ oa コぃモム のが、 メイそ の他の @ 字

者を通じてアメリカに紹介され、この分野における 一 つの勢力

となりつつある事実は、附記するに足る充分の価値を 持って い

ると思われる。それは 0 巨 0 す呵り 生な現存在の分析を 通じて、

ぎ (の「

ゴ Ⅰ ヨ 呂の甑の( e コ ( @a ( キ n0u

コ (の(における存在体験

か @0 コ %

に ~ コ ( e ⅠⅠ豊のすることを治療の目的とするのである が 、その㈹

基本的な人間理解が、ティ りック 、プーパー等の神学 思想と深 3

い 内容的 っ ながりを持つ故に、特別な注意をするに 価 するから 皿

,穏

である。

二十世紀の前半は、十九世紀に支配的であった合理

主義、

コ巴ぺゆぎさ

二の

ぃ ( Ep

二の

ヨ への反動として、

@ 「「

い主

0 コド

梼ヨと

ぬ 0 コの(

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の ヨ が、心理学の主流をなした時代であるとい

われる。

このことは、

ヨ 0 ( ぎ肚ざコ

の問題領域において~生口

ぃヱ

。 臣あヨ

は 、精神,心理的異常現象を、正常な生活ダ

イ ナミッ

クス の中

にある要素或いはメカニズムが誇張せられたものであ

るとする

考え方と結びつぎ、異常或いは特異現象の研究に専ら

注意を集

中して、正常一般現象を、直接、研究の対象とする

男 力 から 遠

さげる傾向を強めたということが出来るだろう。宗教

心理学で

も 全く同様なことがいえるよ

う に思う。

しかし、このような傾向に対する批判と反ガの

胎拘は

) 一モ

巾て

ハ|

-

三十年代に始まっている。オルポートが

、ヨ 0 ( ぎ注ざ

コ臣 すめ。Ⅰ

として説く、口目まざ二

%P 目 o コ 0 目 せの理論が、その

代表的な

き 、何らかの生理的原因に人間の行動動因(

ヨ o ( T ③ を 還元す

る ゆ き 方を批判し、特に、正常人格の価値実現へと

指 向 せられ

た行動の中に見られる

0 お笘 ぎの な 要因に注目するこ

とから

み 出された理論である。正常人と異常人との間には、

心理学的

に 見て、決定的な断絶がある、という考え方がその

背亘 示 に前提

として存在しているということが出来る。生理

字 的な 原因、

いは生活経験の過去に、現在的な行動の発生的理由を

求めるこ

とが できるとしても、

ョ 0 ( @4

のの現在的な機能を卸察する

なら

関係を絶叫

ち 、機能的自律性をもっているということを見出すで あろう。

それは、或る特殊な目的達成の為の手段であったもの が 、目的㈹

そのものとなった状態であるといってもよい。宗教に 例 をとっ

ていえば、何らかの実利的目的、或いは現実的苦悩 か らの逃避

が 目的で、神詣 ir@

で 或いは参禅古した者が、神詣 ぅで 或いは 参

禅 することそれ自体が目的となり、 オ、 こから価値創造 的 態度を

字 びとることになるのが、正常人における宗教の現在 的 機能で

あるということになる。

このような、 ヨ宰ぎ住ざコ (すの

0 「 ぜ における ぃコ ( 丁 「 伶 ヰけ S@ 0 コ宙ヨ

は 、正常人格の直接的研究の方向と結んで、人格心理 学 にお け

るヨり ( 口 「 @ ( ぜ 理論の展開を促進した。人格の心理学的 成長が目

揮サ 到達 点は 、異常性の欠除という消極的正常性にあ るのでは

なく、未来に向けられた非固定的、生産的性格にある というこ

とが、ここで明らかにされたわけである。人格心理学 による 人

間 理解が、現在、宗教的人間理解と如何年近ずいてい るか 丈、

これによって知られるであろう。従って、宗教心理学 でも、 人

格 心理 宇 でのこうした理論的展開に 則広 して、正常人 格 におけ

る 宗教信仰のコミ 亡 おと( 臣コり串

。二の研究が 、 一つの 中心課題

となるわけであり、現に、この線に添った研究が多く 行われて

いると云うことが出来る。

目 二ロ「

@-

せ 理論の 、 更に具体的な内容について、ここ に 述べ

る 金猫はない。先に触れた オ ルポートと、マスローが 、この分

野 で貴重な研究業績を残していることだけを附記して おこ、「

, 。

,態

ジョン ソソ が 、こつ した理論を適用して、宗教的人格

の 研究に

業績のあることも忘れてはならない。

与えられた紙数の制限から、説明不足、或いは触れ

ろ れるべ

くして触れられなかった問題の多くあることは、これ

を 否定田

来ないように思う。しかし、アメリカにおける宗教心

理学の現

状と 、その大勢が、ほぼ誤りなく伝えられておれば

幸 いであ

る 。新しい問題領域、或いは研究方向として筆者の関

心を捉え

たのは、神学の立場か㌦する精神治療関係科学との

交 渉 であ

り 、人格心理学における成熟人格論と関連した宗教的

人格及び

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(以下一一四頁下段につつく)

( 一 0 五頁より)

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西谷 啓治著 「宗教とは何か」

玉城 康

四郎

本書は次の六篇の論文から成り立っている所の、著者 の 最近

の 宗教論集である。すな ね ち、一、宗教とは何か 、二 、宗教に

お げる人格性と非人格性、三、虚無 と空 、四、空の立 場 、五、

空 と時、六、空の歴史、である。緒言にも 述 。へられて ある よう

に 、著者は最初「宗教とは何か」という課題の下に筆 を 起して

始めの 四 篇を完結し、それでなお書 き 足りない所を補 って後の

二 篇を加えている。従って 各篇 はそれぞれ独立した 論 文 であり

つつ、互に相補いながら一貫した意図によって貫かれ ている。

本書の著しい特徴として、宗教現象の考察によって そ 0 本性

を 明かにしょうとする宗教学の態度から区別せられる 点が挙げ

られる。すなわち著者自ら宗教の何たるかを問い、 自 らそれに

答えよ 5 とする主体的態度である。これは本書を一貫 している

著者の学的方法であるということができる。このよ う な態度

は 、すでに二十年も前に発表された「根源的主体性の

来 定まっていることであり、近年ではエックハルト や ニ ーチェ

に 深く思いを潜めて、

著 わされてきたいくつかの書物 のなかに

窺われる。従って本書に見られるような主体的態度は 著者の学

経歴 影響力ルクス 的 グ 、シ してこ と外と ど し う 内在的 にお け 仕 い う 在 その 歴史的 この 己があ をおか ている 生に必 とは自 内面的 の問題 著者 / と ッ の必然 力 、と、 し でぺ う つ存の想 何 をのな いい お否聞 く な 教 る 痛切 見

(106) 106

wy

が吊 Ⅲ

嘗 評

立 場よが昧て、 の 味三ね くしは て一別 区

では、もとより仏教をとくに挙場しようとする意図はふ 已 まれて

いない。ここに論ぜられている仏教的なものは、すで に 形態を

なしている仏教でほなく、著者のなかに新しく蘇って ぎた仏教

的 思索の生命である。従って著者の立場は、西洋に対 する東洋

でもなく、もとより東洋に対する西洋でもなく、東西 の 交流 か

らその融合への激しい陣痛を背負わされている現代を 背景にし

た 、徹底して現代人の立場である。それはまた現代に 固有な全

人の立場であると云える。

「宗教とは何か」という著者の追求は、東西思想の交流 のさ

なかにある現代の知性として当然見るべきものを見、 突くべき

ものを突いていると考えられる。ことに西欧思想とは 無関係に

発達してぎた仏教が 、 新に著者 に よって見直されてい ることは

注目に価する。仏教は思想としてはすでに数百年も前 に 展開を

停止したものであり、そのままの形では現代思想との 一 父流は困

難 である。この書に現われている仏教的なものは、

そ の形態の

奥深くから汲みとられてきた仏教の生命が、著者の生 活 と思索

とを通して現代思想の問題のなかに現われでて きた も のであ

る 。著者は仏教のなかに新な意義を見出そうとしてい る 。仏教

の 空が西欧思想に対して独特な性格を有するだけでは なく、 空

に 徹することによって反って西欧思想の目標を完遂し 得るとい

ぅ 見地から、ニーチェのニヒリズムを 空 思想に照応 して考察

し 、さらに積極的に歴史観の根 低 に室思想そのものを 置いていの

ることほ、著者独自の創見である。

筆者はこの書を一読し終って、宗教に関する著者の強

末力に驚ぎを感ずると同時に、今更ながら、宗教とは 何か 、の

解答のむずかしさを 嘆 せざるを得ない。多くの宗教 現 象のなか

から共通な性格をとり出してこれに答えることは一応 分りやす

い 。しかしそうではなく自ら向いつつ宗教の本性を明 か 但しよ

ぅ とすることは、遂にはあるべき宗教の単なる形骸、 単なる 観

念 をとどめるにすぎないことになるのであろうか。 従 ってそれ

はあるべき宗教のあるべき形態の追求に終るのであろ ぅか 。 こ

0 間題の所在を突ぎっめていくと、宗教とは何か 、に 窮まって

主体的に答え得るものは、実に宗教そのものであると いうこと

にならざるを得ない。丁度、苗字とは何か 、に 対して 、それは

プラトンの 哲字 、カントの 哲字 自体がそれであるよ う に 。そ う

なると、この追求の完遂のためには、著者によって 方 向 づけら

れているものにつたがる所の現代人の宗教の創建が 必 要 となっ

てくるであろう。少くともそれへの努力のなかに現代 人の宗教

の 解答を求めなければならないであろ ヲ 。しかるに そ れに必要

な力 は現代日本の知性のなかには準備されていない。 長い間の

宗教無視、宗教無関心が、日本の知性をして宗教に対 する感覚

を 消失せしめている。宗教に向 ぅ 根本問題と現代日本 の 知性と

は 絶縁に等しい状態におかれている。このような事態 のなかで

本書は提示されているのである。これはもはや著者 ひ とりの 閻

題 ではない。しかもこれこそが実は知性を荷 う 著者の 最も苦心

している所であろう。(昭三六・二判、

A5 三 二一頁 、セ五 0

円 、創支社発行)

08

鈴木一郎

ドリュウ大字の組織神学教授カール・マイケルソン 博 土は 、

三年前(一九五八年)の 春 、半歳にわたって日本に滞 在され、

東京神学大学及び青山学院神学科の客員教授として 教 鞭 をとら

れたが、その僅かの期間を利用して、米国人らしい 活 発 な精力

を 存分に発揮して、明治以来この百年間の日本プロテ スタント

神学ならびに宗教哲学の主要作品を検討し、その結果 を 博士 一

流の明快な 筆と 皮肉やユーモアに托してまとめあげた 。それが

この「基督教神学への日本的貢献」である。

序文にもあるよさに、日本語を理解しない著者が、短期 間に、

限られた資料にもとずいて整理したものであるだけに 、その 取

りあげた著書や神学者の範囲も限定されて居り、 ス、 その図式

的な日本神学の分析には 燥烏 なる概括のそしりをま ね がれない

面 がないとはいえないが、

ム 「まで外国には殆ど紹介さ

れていな

い 日本思想の 、 更に限定されたキリスト教神学を 、は じめて 休

系 的にまとめて公表したという点で、画期的な企てで あるとい

え よ う 。

資料に関しては、著者自身詳しくのべているよ う に 、そ の 公平

を 期して、選択にあたり多くの神字者の意見をとり、 最も重要

と 考えられる学者数人について、その主著を検討して いる。 そ

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の中には、藤井

武 、内村鑑三、関根正雄、熊野義孝、

里 崎 幸吉、

渡辺善人、前田

護郎 、北森 嘉 蔵といった神学関係の人

々は勿論

のこと、更に、波多野精一、三木清、和辻哲郎のような

哲学乃至

宗教哲学の領域に属する人々まで含まれて居り、相当

の 巾をも

った 資料につぎ、それらの重要と考えられる部分、又

ほ 全文 の

訳を ノートしている。「時と永遠」の

如 ぎは 、四ケ月 間 、毎週

三時間を費して全訳文を日本垂

娼の テキストの行間に書

ぎ 込んで

いる。この様な仕方は、まま資料の推奨者の主観

や、 訳 にあた

8 者の神学的、乃至、語学的能力に大ぎく左右される

嫌いがあ

るのであるが、著者は、その

拡範 な欧米神学ならびに

歴史的知

識を判定の基礎にお

き 、比較的忠実に紹介の任務を果

して 居

り、ス 、そこにとりあげられている神学者も、比較的

妥当であ

る よ う に思われる。

全巻は、 綱絹 的に日本神学の発展を、聖書を中心とす

る 無教

会主義に筆をおこし、教会存在の神学から、北森幕威

の 「神の

痛みの神学」にふれ、宗教哲学で終っている。まず、

内村鑑三

の 無教会主義にみられる聖書解釈の問題と、教会

観を 批判し、

の 最高 峯 に位する者

は 、波多野信一の「愛の時間の神

学 」であ

書 ると断じている。

これを一読して感ずるのであるが、マ イケ ルソン自身 徹底 し

た ドイツ神字の研究家であるだけに(氏は 、チ = 一ビ ンゲン 及

び バーゼル大学二学び、現在シュトラスプル ク に滞在 中 )これ

6 日本人神学者の思想を、欧米、特にドイツ神学と比 駁 して、

これらの学者が、一様に徹底した欧米神学の基礎の上 にたって

いる事実に、驚異と尊敬と共感の情を示している。 特 に 波多野

精一の深く 且 広い正確な読書の跡には、無限の敬意を 表してい

る 。 ス 、それと同時にかかるドイッ神学の咀窟の中に 散見する

ドイツのものとは別個の「日本的なるもの」を外国人 である 著

ンヰメルツ

者は、 み のがしていない。その中には北森 嘉 蔵の「 痛 み 」と 日

本語の「つらさ」の対比や「い き 」と「 やぼ 」といった ような 日

本 古来の文学的表現は勿論のこと、より技術的な哲学 的 用語の

中にも、日本独自の要素をいくつか発見している。 た とえば、

さぎの「伝統」と「伝承」の区別などがそれであるが

「主観

的 」と「主体的」の美紅ついても、在来英語、ドイ ッ華幅も

Ⅰ 、

ぎ 圧のゑヨにあるいはま互井( ヨ ( 曲 (の 一語 であられ されて ぃ

る 概念が、この二つの日本語になっている点に注目し て 、これ

を ハイデ " ガ 一における ぎ 三の ガ ( ぎ @ ( 曲 (からぎ庄の オ ( @ (嬰が

区別された過程と比較し 、ぎ 三のり(

田 (せとは別に 、の絹ヴ

おり 侍 T@ 円 Ⅱ

という新しい英語を作って、日独面語になぞらえてい る 。これ

は 欧米の言葉の中では在来区別されていない概念を 、 東洋の学

御用語に見出した一例であろう。同様に、「時と永遠

ある「未来」と「将来」の使い分けがとりあげられて いる。 マ

イケル ソソ は、 英 , ま 如の( 兵ヨ 0 にあたる日本語が コ 0 ( せ痒

no

きのとい

5 否定的な内容を含む「未来」と 牛 0% ( 0%0 ヨゅ

という積極的な意味をもつ「将来」という言葉で表現さ

れている

点に、 深い興味を示している。その区別は、日常的に は 混同 さ

ね 、 み のがされているが、波多野精一も指摘する様に 、「時間」

の 構造を宗教哲学的に理解する時には、大きな意味を もつので

あって、こうした日本語のこ コ アンスは確かにある 神 学的「 貢

献 」をなすモメントを含んでいるといえよ う 。この 区 別は余程

著者の気に入ったらしく、ドリスク大字の講義にも 引 用 したり

するので、同大学の学生間に、そのうちに日本語が神 学部の必

修 になるのではないかという冗談が流行っていると 序 すハで串

三日Ⅱ

ている。この様な「貢献」は、量子力学の素粒子理論 の 様に 、

学問を根底的に動かすような発明や発見とはいえない かも知れ

ない。そして我々にとっては、 極く 日常的な日本文化 そ のものの

一表現でしかない場合が多い。しかし、この様な特定の

文化につ

ちかわれた小さな思想的表現が、伝統ある学問の大 き な出 何 七 % の

中にとけこんで、「日本的」という肩書をすてて一つの

普遍的な

るものの理解に貢献するということはありうることで あろう。

マイケルソンは日本神学の性格古いくつかの面から 批 判 的に

考察しているが、その中で 哲字 乃至宗教哲学の役割が 、ややも

すれば二次的、道具的になっている事を指摘している O 一九三

ナイン

四年のバルトの「 否 l ニ 以来一般に欧米でもこうした 論義は激

しく交され、一般に 哲 字を真面目に取りあげる事が 、 神学者と

しての体面をそこな う というような考え方が生れた: ハ ウル・ テ

ィリヒ などにも「彼は宗教哲学者であって、神学者で はない」

といった言葉が一種の非難としてなげられている。 宮

は 、その著作 は 「キリスト教信仰の制約を

ぅげ ぬたんな る 哲学で

ある」といっていながら、同時に「それはキリスト教 徒の具体 ひ

約 文化的表現」といいかえている。そこで苗字 は 「 超 戯者を象

徴するものの一般的論理的自覚」ではあるが「神の警 本 には 直

接 に関係をもっていない」とされている。象徴として 0% 字は

信仰に根ざす愛に出発するが、啓示に立っのではない 。その 意

味 で神学と哲学ば区別されるが、分離されてはならな いとして

「神学的宗教哲学」の樹立を試みている。

この波多野、宮本の立場に対して、弁証法神学信奉者 達は 、

バルト、ブルンナーの一九三 0 年代の論争を、そのま ま 信仰 と

理性、アガペー とヱ ロス、神字 と哲字 といった図式に 固定化し

ているが、これは必ずしも正鵠を得ていないとマイケ ルソンは

い う 。波多野は、どちらかといえばバルトに親近感を もって い

た 。「プルソナーは 哲 字を利用することしかしていな

ルト は、ただ 哲 字を除外しているにすぎない。」

これに対して武藤一雄はパルトよりもキ ェ ルケゴール の -u 場

に 関心を ょ せ、哲学と神学はその相互的関係を保ちつ つも、 そ

れぞれの自主制を確保し、

ス 、哲学は神学の道具とな るのでは

なくして、神学の否定的、自己批判的要因としてのみ ならず、

神学そのものの文化一般への関与の機会を与える積極 的な意味

合 をもつべぎであるといっている。

こうした問題は既に欧米でもこの三十年間論ぜられて いる 所

で、それは特に「日本的」であるわけではない。元来 、 長い伝

統 をもつ神学は、その殆どの問題を過去二千年の歴史 の中で何

らかの形でとりあげて来ており、それは、未開宗教の 場合と異

り 、聖書神学、歴史神学、組織神学といったように高度 に 発展の

道を辿って来ている。この様な伝統ある泰西の神学 を 前にし

て、 未だにこうした部門々々の研究の分化さえ充分に なされて

いない近々百年の日本プロテスタ ソト 神学が、如何な る 「主日

メ 打綿

W 」

をなしたかということになると甚だ疑わしい。それは 大きな 既

成 神学体系の前には無に等しいものといえ よう 。けれど も、 同じ

信仰内容、思想内容もそれが 異る 言語で把握される 時 に 、その

言語ならびにその @ 語の属する文化に独自の表現や理 解の形式

が、 思いがげない新しいものを提供することはあり 得 よ う 。 そ

のような幾つかの概念をえぐり出して、大きな世界 神 学の系譜

の中にのせてみせてくれているのがこの「基督教 神 @ 字 への日本

的 貢献」である、全巻を通じて鋭 い 批判が。「あぐら基督 教 」「 ふ

ら しぎ神字」といった著者独特のユーモアにつつまれ ていて、

宙臼 ですぎ)

111 ( ⅠⅠ 1) 一括

Ⅰ " 。

串 三日 評

評 が本

書 なさ が れ会

" 千リ

筆さ 秀

者れ 夫 も て - 一 - ; "

「 古

二で、 既に 事

紹に 二年 その 鎌 詔 ㌍ -

介な 構 田 道

その間 た し 。 純 か は

る にく ヒ 多 更の に書

Ill (111)

れ重

り 、現存の写本・註釈

書 等の上の差がそれをよく物語

るのであ

る 。続いて、江戸時代もその初期は、儒家神道・垂加

神道と日

本書紀を中心とした伝統があり、僅かに春日

社 で、 又 一部で細

細と 、古事記の講読でなされ始めたに過ぎなかった

しか

し 、本居宣長が出現して、その事情は一変した。貫長

の精敵 な

る 古事記研究、一方には、旧事本紀偽書

説 が出てそれ

が 一蹴 さ

ね 、古事記伝、古訓古事記が出、殊にその貫長の道統

を 継ぐ 国

学者の字が発展するとともに、古事記の地位は高まり

、神代を

記す最高の書とされ、従来の神道を日本書紀神道と名

付けるな

らば、いわゆる復古神道は古事記神道と名付けねばな

らぬ 程、

のではなかった。明治以後も古事記研究を志すもの、

先ず古事

記伝を手がかりとして古事記に取組むのが常で、容易

にそれを

脱却し、超越し得なかったのである。古事記研究を宣

長 以上に

するには、

宣長 以上の才智・学力・根気があるか、

又 その方法

は 外のすぐれた研究方法によってする

他 なかったので

ある。

それで、近年の諸学の発達は古事記を自由に夫々の

学 間分野 の

新しい研究方法によって再検討させ始めているが、 先に 、 国は l

文学・国語学・史学・民俗学・神話学等あらゆる角度 から、 こ

れを検討することが企てられ、まとめられたのが「古事 記 大成」㎎

八巻であった。確かに、そこには古事記伝とは違った 新鮮な古

事記研究の方法と方向とが示されていた。しかし、 そ れは、 大

成と云 3 編集上の制約からか、その間口をみせられ ム ・ @ だけで、

更に深い研究はそこにみられなかった。

ここに、その大成以後の、古事記伝にしばられないし かも 深

い 研究が、国文学者であり、比較文学的な方法で取組 んで来ら

れた神田教授によってなされたのである。先人を乗り こえる オ

智と 勇気とを持ってなされたこの研究は、古事記研究 の 新風で

あり、この研究は、古事記を神道古典とする者、ス神 道 に関心

をよせる者注目せざるを得ないであろう。

さて、「古事記の構造」との書名は、古事記を分析 倹 討 した

結果、それは一時に書き下されたものでなく、いくつ かの資料

があり、それを統合編纂されたものとみて、その個々 の 資料を

検討し、統合状況を明らかにせんとしてつげられた ものであ

る 。その 章 題を掲げると、 1 序説、Ⅱ仁徳グループ と 継体グル

|プ、 Ⅱ古事記本文の三層、Ⅴ飛鳥層の文体に及ぼし た 漢訳 仏

典の影響、 V 「 嬢子 」と「郎女夫Ⅱ崩御年干支と書紀 の 干支、

Ⅶ 鞍 晴天皇以下八代の系譜、Ⅷ崇神天皇百六十八歳 考 、 Ⅸ崩御

年 干支と系譜及び伝説、

X 日本武尊と成務天皇、Ⅱ 難 波 播磨の

神話 圏と 出雲の神話 圏 、Ⅲ筑紫の神話 圏と 大和の神話 圏 、 皿 上

古の文芸作品となった古事記、付録として m 山陵覚書 となって

鱗 ・ ,,

いる。

先ず、 1 序説で、古事記は本居宣長にょり訓を つ け られた

が 、その 宣 長調の如 き 全巻にわたるきれいに均された 訓は、古

事記が太安万侶によって、一時に書き下されたもので なく、 い

くつかの資料があり、統合されたものである 故 、それ に 一様の

訓 をつけるのは無理なものであり、本来的なものでな く 、それ

を 脱却しなければ新研究はあり得ないと説 き 、著者 自 身 、その

白文を基礎として研究をすすめている。この点、異論 もあろう

が 、貫長 調が必 らずしも落着いたものでない故、この 研究態度

は 傾聴すべきであろう。続けて、古事記序文にある 帝 紀 ・旧辞

を 追求し、帝室日嗣及び先代旧事は舘暁天皇のもとに あった 本

であるとし、それが、古事記の根本となっていること を説かれ

る 。この点 尚 検討すべ き 点はあるが、注目すべ き 説で ある。Ⅱ

ょ り、その古事記の分析に乗出し、仁徳グループ( 仁 徳帝 以下

十代)が伝えた彼等自身の伝説を抽出検討、更に継体 朝の輪廓

を 記し、継体グループ(継体 帝 以下八代)の系譜・

伝 説を検討

し 、その仁徳グル 一プの 系譜が粗である割に伝説に精 しく、 継

体 グループがその逆である点に注目、それは継体グル |プにょ

り 古事記の帝室系譜が編まれたが枝のこととして論を すすめ、

占事記の現在は、継体即位の五 0 セ 年を上限とし、 皇 極 譲位の

六四五年を下限とすると重要な見解を出され、 継 体 グループが

残した筆録の痕跡・伝説の筆録と再録と、その用字法 から推察

を 加えておられる。

善次の℡が、本書の本論中の本論であるが、古事 証本文を 、敏

達朗前後の古層と、

舘 明朝前後の飛鳥 層と 、元明朝前 後の白鳳

層の三層に区分して、それが重畳、錯綜していること を 明らか

にし、現存本文の基礎は、あくまでも 舘 明朝前後の飛 鳥層 のも

のとして、その単語程度が摘出出来るに過ぎない古層 、また 朱

華乃至加筆 よ りなる白鳳層を明らかにした後、安方 侶 はそれら

のものを編集構成することに努力したのであって 、決 してこれ

までみられていた如く 、 自ら書き下したものではない と 説かれ

る 。これは正に独創の見解であり、卓見であろう。 こ れまでに

も 古事記の原資料の存在を説くものはあっても斯く明 確に提示

されたことはなかった。この三区分の結果には今後輿 論も出よ

5 が、その分析方法と、この試みの影響は大きな波紋 となり、

古来 記 研究発展の一基礎となろ う 。Ⅳでは、文体を論 じ 、古事

記は詩句と散文との 双 在する文体なることを指摘、

そ の 源泉が

古代インドにあることを説 き 、文音仮名に漢訳仏典の

影響、「 所

は 」と「 故 」との対応、「 白 」の敬語的用法から古事 記 ・漢訳

仏典の関係をみ、そこに古事記成立前後の文化状況を におわせ

て 居られる。そして、更に V で、漢語の影響として「 懐子」と

「郎女」の語の内容について考察して居られる。以上の 文体に

ついての考察、これが本書の中心であるが、それを 具 休 的に用

手法の点で押えて論ぜられたところ注目すべ き 新研究 と 云え ょ

へ @ ・・

@ 。

次に紀年の問題では、Ⅵで、日本重日紀の暦年の虚構の

構造、

更に古事記の崩御年干支が古事記の天皇の「御年」の 伝承と無

関係なものであることを強調し、それは帰化人の伝承 が 原因し

Ⅰ 13 (113)

次に神話の問題であるが、大和に対して出雲神話なる 詰 は 従

来 より一般に云われて来ているが、更にここで、難波 ・播磨の

神話 圏 、筑紫神話 圏 なる語を出されている。それは、 出雲神話

と 云う語は、出雲民族の神話と云ったものを考えての 語 であろ

5 が、著者の考えでは、出雲も大和も同じ日本人であ り 、その

別の民族とみるような語を避け、しかも同じ日本人で あっても

神話は一本でなく、地方グループに区分し得るところ から神話

圏 なる語を使われての論であるが、この章に関連して は、ム 「 後

更に氏は詳細なる論を展開して行かれるのであろう。

は 上、古事記を分析し・その構造を明らかにしょう と された

この書は 、 極めて繊密なる考証を基礎としての卓見、 新説に感

服させられるとともに、中に凡人の容易に及び難い想 儀力がそ

の 基調としてあり、その想像力を基礎とし発展させら れた 論致

の中に、その裏付けが充分に説明されていず、 俄 かに 納得しか

ねる点がないでもない。しかし、何れにせ よ 、古事 記 - 学界にと

って、その方法論の独創的なこと、その目指される 方 何 は 、確

かに新風をまぎ起されたものであり、古事記研究は 、, 」の書を

一基礎としてまた前進させられるものと信ずる。(昭一 二四・五

刊 、 A5 三四 セ頁 、四八 0 円 、明治書院発行)

ていること考え・Ⅷでは、天皇の御年として記された 数は年 令

でなく、稲の数量であるとし、大和の耕地面積に比例 配分した

御年を論じ、Ⅸで、かく崩御年干支を帰化人の伝承の 影響、 天

皇 御年の数は実は稲の数としたことから、それを綜合 的に再検

討して居られる。

(114) 114

0 現車台

日時四月二 セ日 (木)午後三時三

0 分| 六時

一 、「宗教研究」編集の件

東北大学から「宗教研究」の編集事務の引ぎっ

ぎ を お こな

い、一六八号より東京大学文学部宗教学研究室で編集

事務を

とりおこな う ことにする。

従来「宗教研究」の編集委員は常務理事が兼ねていたが

、木 Ⅰ

後は常務理事をもつて編集顧問とし、別に編集にあた

8 編集

委員をも う げることとし、次の諸氏を編集委員に委嘱

した。

原案、野田幸三郎、鈴木一郎、高木きよ子

玉城 康 四郎、田丸 徳善 、田村芳朗、戸田義雄

植田重雄、脇本字 也 、柳川啓一

(敬称 烙 ABC 順 )

編集委員

三 、賛助会員の件

字 金運営、とくに学会誌発行の補助金として、宗教法

人あ

るいは個人から広く寄付をあおぐこととする。寄付者

は 別記

賛助会員内親により、賛助会員としてあつか

一 選挙権および被選挙権

投票 ダ 初日の六カ月前よりひ きつ づ き 会員であり、 前 年度

までのみ ム 費を納めているものは、選挙権および抜選挙 権 を有

する。

三有権者名簿

有権者名簿は会員名簿をもつてこれにかえる。但し 会 具名

簿 作成後の会員の移動については「宗教研究」会報欄 に 掲載

する。

三 選挙管理委員会

選挙管理委員会は常務理事によって構成する。

選挙期日

選挙期日は評議員の任期終了の年、選挙管理委員会に

て 決定する。

互選挙方法

評議員 涯考 委員選出内規(昭和三八年四万二

セ日 )

0 常務理事会

日時五月二五日(木)午後六時 | 八時

報告

一会誌「宗教研究」 一上 八八号の編集状況の報告があ り 了承 き

れた。

0 選挙管理委員全

五月二五日(木)評議員選考委員選挙内規によって 常 務理

事によ り構成する選挙管理委員会が発足した。

同委員会において別記の選挙期日を決定した。

a 。

a 会員 中 より選出される選考委員

①選挙は全会員の郵便投票による。

の 投票は二名連記無記名とする。

③投票は所定の送付用封筒および投票用紙を使用す

る 。

b 理事中より選出される選考委員

別に理事会の互選によって選出する。

六選考委員の決定

①開票は選挙管理委員会にて行 う 。

の会員に よ る選考委員の決定は、得票順とする。

③同点者が二人以上の場合、年長者を優先する。

①次のものは無投票とする。

①投票 / 初日までに到着しないもの。

㊥所定の送付用封筒および投票用紙を使用しない

場 合

④送付用の封筒に住所氏名を記入しない場合

0 投票用紙に所定以外の事を記載した

場ムロ

㊥投票を二通以上一括送付した場合

0 郵送しない 場ム口

の 当選人はやむをえぬ事情の場合、告知後

一 0 日以 内に

辞退を申出ることができる。

会員内規

賛助 全眞 規定

第一条 本 会の趣旨に賛同しその事業を後援するもの

を 賛助会

員 とする。

第二条賛助会員は法人(又はこれに準ずるもの)

日周 三セ日 (木)理事会で選挙内規決定

会員,準会員の仕分け

問合わせ 状 発送(全会員)

四月下句

五月三一日(水)問合わせ 状 締切、

セ 月一五日(土)選挙内規、選挙日程を「宗教研究」 一六八

号に掲載する

セ月 二九日(土)有権者決定の選挙管理委員会

セ 月三一日(月)投票用紙、説明文発送

八月三一日(木)投票締切

九月セ ロ (木)選挙管理委員会で開票、(当選者に 即刻 通

卸 する)理事の互選による選考委員決定。

九月一四日(木)当選者を会員に通知

九月一 セ日 (日)当選者の辞退申立て締切

九万二二日(金)当選者決定の選挙管理委員会

一 0 月一四日(土)評議員選考委員会

一 0 月一五日(日)総会の席で評議員選任評議員の互 選 により

理事の決定

中から理事会 に おいてこれを推薦する。

第三条賛助会員は年一万円以上の会費を納入するも

のとす

る。

第四条賛助会員は、「宗教研究」その他本学会出版 物の配布

を ぅけ 、本会主催の講演会・学術大会及び国際学会 仁 来 来

賓 として出席することができる。

昭和三六年度評議員選者委員選挙期日

(116) 116

び 被選挙権を有する方は

このたび昭和三六年一月二一八日に改正された日本

宗教学会会則にもと

ずいて、評議員選考委員の選挙がおこたわれま

す 。

改正された会則は、「宗教研究」一六七号に

、選 山内規は、「宗教研究」

一六八号(本号)に掲載されておりますから、

御 一読願

い あげます。

選挙の投票用紙は、投票説明書とともに、有権

者 各位 宛セ 月下旬に郵

速 いたしますが、選挙に関するお問い合わせは

「東京大学文学部宗教

学 研究室気付、日本宗教学会評議員選考委員選

筆管理委員会宸ノ 、 下さ

投票 / 切目(本年は八月末日)の

六 。 月 以前 ょ り ひ きつ づ き 日本宗教学

会の会員であって、昨年度までの会費を納入さ

れた方であります。

執筆者紹介

日 九徳 善

大正大学講師

堀越知己早稲田大学大学院

池田末利広島大学教授

吉岡 義豊

大正大学教授

原案東京大学講師

上田賢治日本文化研究所研究員

玉城 康 四郎東京大学助教授

鈴木一郎青山学院大学助教授

雛田

純一国学院大学講師

( Ⅰ 14) 114

谷口隆之助宮城学院女子大学教授

川島貞夫青山学院大学大学院

杉本卓 洲

東北大学大学院

坪井洋文日本文化研究所研究員

柳川啓一東京大学助教授

前号(一六 セ号 )の「執筆者紹介」が印刷所の手違い により 脱

溶 いたしました。まことに申し訳ありません。

前号(一六七号)の執筆者

打正

前号(一六 セ号 )会報欄記載の日本宗教 字 全会則に誤り @

りましたので訂正いたします。

八九二頁 ロ 日本宗教学会会則第十一条

諌田会員は、本会会誌の配布を 5 け 、 (以下略)

正会員は、本会会誌の配布を ぅけ、 (以下略)

が あ

Recent Trends in the Methodology

of Religious Studies

Noriyoshi TAMARU

Thoguh nearly a century has passed since Max Miiller established the modern

science of religion, there still seem to exist certain ambiguities about the nature

and method of this discipline. Especially, the recent methodological reflexion

has been focussed to the problem of "understanding." Referring to the works of

Wach, Eliade, van der Leeuw etc., this paper attempts to find out how an "objec-

tive" understanding of religious phenomena is possible.

On the Kantian '' rational Belief " - concerning with the intellectual inner Intuition -

Tomomi HORIKOSHI

The first aim of this paper is t o t ry and determine what the ground of

the Kantian connection between reason and belief is. According to Kant, the

rational belief may rest on some subjective ground of thinking. That i s to say,

if " the holding t rue" (Fiirwahr halten) is sufficient subjectively, but is held to

be insufficient objectively, i t is called believing. Then on the basis of the clarifica-

tion, I want to show what the subjective ground of thinking is. The problem,

in short, on the functional interpretation of Kant's " Reason-belief" (Vernunft-

glaube) is that of tracing a transition from transcendental subjectivity to " one's

inmost self. "

Approaching the problem of the Kantian Subject by the way of his Precriti-

cal works (Poetitz-V.S.133 : Refl.XVIII.5297, etc.), an intuitional action of the

Subject in the ontological sense which interests us is to be found. This action,

which isn't due to the influence of external phenomena, is designated by "in-

tellectual inner intuition. "

Although in the first. Critique, the bare " I think" remains entirely unknow-

able, there seems to be no reason to believe that in any of his Critical investiga-

tions Kant overlooked the concrete side of the Subject. The proposition "I think,"

if it means I exist thinking, is not merely logical function, but determines the

I Subject with reference to its existence. This is the Supersensible Substratum

which he interprets to be "an identity of structure in personality, '' and is nothing

but the so-called " feeling of my existence. "

If the Kantian Ego meant a " reality " of some apprehensible " content, " which is the thesis of the discussion, this achievement cannot be along the lines

of rational reason. Our understanding of "the intellectual inner intuition" in

one's inmost self, as thus revealed, not only permits but supplies the very grounds

for Believing.

A Consideration on Earth Mother

of Ancient China

Suetoshi IKEDA

The character "n" written on the oracle-bones of the Yin Dynasty has been

ordinarily identified with those of " tu " and "she^ ?& ", but a question is

raised whether this character signified Earth Mother or the ancestral deity. On

the other hand, concerning the origin of she recorded on the documents, several

opinions have also been proposed by the scholars, eastern and western, among

which many Japanese scholars have an influential view that have considered she

as the guardian deity or the sacred place of primitive village; but I do not think

this view is supported wholeheartedly.

There a r e three examples for " t u , 4" of the oracle-bones, and it seems t o

me tna t the one regarding it as an object of worship in the religious service is

the older, in which tu was regarded as Earth Mother and possessed a character

of the ancestral deity. T h e real fact suggests that, before the time the oracle-

bones appeared, an ancestral shrine (miao @) was identified with skd.

I suppose that "n" was a mark of the out-of-door tomb of the ancestral

- 119 -

deity moulded with clod, and that "Q" uiz. tsu 1 established a s i ts indoor

one, after the erection of the ancestral shrine. From the idea that regarded the

earth a s the place for peaceful living of the ancestral deity, "n" came to be

understood as Earth Mother as well as a pivot of the tribal unity; so, it may well

be said that this character became, in the end, the guardian deity of the primitive

village influenced by some factors such as the developpement of agriculture

and the like.

Acceptance of Thought of the ten Buddhist

Precepts by Chinese People

Yoshitoyo YOSHIOKA

It is said that the five or ten precepts, ten good precepts, are essential in

Buddhism. Then, how did Chinese except priests and Buddhist laymen accept

this precepts, when they were introduced to China ? Apparently common Chinese

felt it difficult to follow them as they were. Therefore, they were, gradually,

changed into such things as they agreed to their daily behaviours and custom.

Chinese people brought the changes in the precepts with the great lapse of time.

We can find that the altered precepts were established as the Chinese pre-

cepts by Liang dynasty, the beginning of the sixth century. It is interesting that

Chinese morlality seems to have been systematized a t the same period. Chinese

morlality means the ethics of the three teachings, Confucianism, Buddhism, and

Taoism, which form a complete whole in Chinese minds.

In this thesis I intend to clear the Chinese ethical thought, by taking up

the ten precepts as an example.

Minoru HARA

I The verse from Svetikvatara-~pani~ad is here investigated with light thrown

from new materials.

Firstey, the sage huetii~vatasa (viduzn) in the Upani~ad appears in passages

of KDrma PurQa I . 14, the story of SuSila's visit to tee BSrama of Dharma-vana

in Himalaya. There he is called makiimuni mahSipiiSupatottama (KP : 1 . 14.

32). muniivara, yogiivaa, yoga-vidiim vara (35), uicakfaqa (37),

viprendra (47), presiding over the group of hermits, proclaiming the Pasupata

atyakrama vrata, and worshipping the God, Siva. There we also meet the word

GkhZ (sva-SBkha-vihita-vrata, 38 ; mays pravarttitim Sakhim adhitya, 41).

Furthermore the existence of group of siddhas (25), yogins (26,28, 4 1 ) , or munis

(28,45) reminds us of ~ i - s a h g h a in the Upani~ad.

Secondly an investigation of the concept of atyarama in the Upanisad,

which also occurs in Kaivalya Upani:ad 1:. 5 ; I[. 1, Mahiibhirata XII.285.192 ff.

(in Bombay Edition), b a r a - G i t l xi. 69 and two passages of Kau~dinya ad

PSiupatastitra leads us to a hypothetical conclusion that the atySLramins a re

ascetics who stand outside of, or even aloof from the orthodox Brahmanical

iihrama. They ignore the grams and even despise it. This is also confirmed by

careful analysis of concepts of the words prefixed by ati-, such as ati-dzna,

ati-vajana, ati-tZpu in the P&upatas6tras, finding themsefves in striking contrast

with Brahmanical dZna, yajana, tapas, the latters being termed as ku-diina.

ku-yajana, and ku-tapas.

Thirdly, the brahman in the Upanizad does not mean tattva, as interpreted by commentators and modern scholars. On the contrary, it is mantra, which

must be either five sacred formulae from Taittiriya Xraqyaka X , (sadyojzta etc.)

or that from Atharvahiras Upan$ad (agnir iti bhasma etc.). They are called

pavitra in other contexts and this interpretation of the word would be better

construed with jusfam (comm, Zsevitam) of the Upani:ad.

From these investigations, 'svetii~vatara, atySi9rama and brahman, together

with occasional refernences to r+&gha and pauitra, it would be possibly con-

cluded that the verse vi. 21 of Svetabvatara Upani~ad finds itself in the tradition

of Early Saivism or P+upata.