Laughter as a Marker and "Owarai (Comical routines)": An Frame-Anaritic Exploration

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1

関西社会学会第 66 回大会 一般研究報告Ⅰ 部会2 .社会調査法・社会学研究法 第 3 報告 (@立命館大

学衣笠キャンパス 敬学館 232) 報告日=2015-05-23(事後改訂版=2015-05-25)

マーカーとしての笑いと「お笑い」 ―フレーム分析の実装化へ向けての一試行―

中河伸俊(関西大学総合情報学部)

nobunaka@res.kutc.kansai-u.ac.jp

1.方法について

・ ゴフマンは終生,自然主義的観察(naturalistic observation)こそが自分の方法上の立

場だとし,(韜晦かもしれないが)“素朴実在論者”を自称した

しかし,彼の「自己」の社会的構築をめぐるさまざまな観察や議論は明らかに,自ら

掲げた看板の下に留まってはいない; 彼の多彩な著作の多くは,what(自然主義的観

察を通じて得られた「もの」)から how(その what を人びとが協同的に産出するにあた

って使う方法)へ遡るという1 エスノメソドロジー研究の方向に,つねに少なくとも一

歩は足を踏み込んでいたように見える

そうした傾向は,「フレーム(frame)=枠」のメタファーを駆使して,人びとが経験す

る「現実」の多層性に焦点を合わせた中期の大著,『フレーム分析』(Goffman 1974)

においてとくに顕著だといえよう

・ 報告者はすでに,論集『触発するゴフマン』所収の小論(中河 2015)で,ゴフマンが

創唱したフレーム分析(frame analysis=FA)という“質的研究”のアプローチを,経

験的に実用しようとするときに直面する困難のいくつかを明らかにし,にもかかわら

ずこのアプローチには,捨てるには惜しい豊かな可能性があると指摘した 2

・ 本報告の目的は,FA の枠組みを使って何ができるか,その例を示して,その可能性の

一端を明らかにすることである; 具体的には,FA の用語で「転調(keying)」および

「偽造(fabrication)」と呼ばれる,私たちの社会生活に深く組みこまれている“現実”

の転換の基本的様式,なかでも前者の一類型である「作りごと(make-believe)」3 の

1 この「what」と「how」という概念整理については,グブリウムらの『The New Language

of Qualitative Method』(Gubrium and Holstein 1997)を参照のこと。ただし,この本での

「質的」調査の方法的立場の整理は簡便ではあるが,結論として著者が示す,あらゆる方面に

「いい顔」をしようとする折衷的な提言は,およそ実際的とは思われず賛同できない。なお,

“what から how に遡る”とは具体的にはどのようなことなのか,言い換えれば,エスノメソ

ドロジーとはどのような社会学的探究なのかを,手っ取り早く確認されたい方には,フランシ

スらによるきわめて分かりやすい入門書『エスノメソドロジーへの招待』(Francis and Hester

2004=邦訳 2014)第 2 章の,「エスノメソドロジー研究の 3 つのステップ(=①観察,②観察

された対象についての自己省察的な問いかけ,③人びとがそうした対象を産出するにあたって

使う方法の同定)」についての概説の一読をお勧めしたい。 2 また,昨年の本学会大会で,この小論の要旨を報告している(「フレーム分析の使い勝手─

アーヴィング・ゴフマンの遺産目録を吟味する─」関西社会学会第 65 回大会自由報告,2014

年 5 月 24 日@富山大学)。 3 転調という発想に原型的なイメージを提供するのは,ベイトソンらが高等哺乳類のエソロジ

カルな観察を通じて明らかにした「ごっこ遊び」である。たとえば,子犬の“けんかごっこ”

2

組織化の諸様態を,笑い(laughter)という表出的な行いを補助線にしながら解明する

方途を探る

この試みに当たって,とりあえず,①日常のやりとりの中での笑いには,フレーム変

換のマーカー(つまりフレームが変換されていることを表示する行い)という側面があ

ることに注目する,②いわゆる「お笑い」を制度化の程度が高い“脚本スクリプト

のあるドラマ”

の一種として理解し,その制度化を可能にするフレーム化の慣行( framing

conventions)の多様性と複雑さに留意しつつ,日常のやりとりと「お笑い」とでは,

マーカー(もしくはキュー cue)としての笑いの意味や働きがどのように変わってくる

かに注目する,という二点を,方針として掲げる

2.笑いについて

・ “笑い”現象については,古くから,各種の哲学的・人文学的な考察や,進化論に基

づくダーウィンの表情研究,フロイトの精神力動学的説明等々,多くの理論や主張が

ある; その多くは,「何が人を笑わせるか」という笑いの原因,もしくは誘発因の同

定を試みる形をとり,また,多くの場合,「可笑しさ」と,「笑う」という表出的な行

いとを,無造作に等号で結ぶ傾向にある4

こうした従来の笑いの原因論とは別に,笑いの機能論,つまりコミュニケーション(相

互行為)の中での笑いという表出行為の働きを明らかにする研究が,近年進展している;

会話分析(=CA; たとえば Jefferson 1977, 1978; Jefferson et.al. 1987; 水川 1993)と,

その流れを汲む谷(2004)やグレン(Glenn 2003; Glenn and Holt 2013)の研究がそ

れである

では,争いにおける攻撃や追跡のモーションが,たとえば噛んだり前肢で撃ったりする仕

草をしても歯や爪を立てないというように体系だったやり方で変形され,その活動に参与

する個体の間で「けんか」と「遊び」の二重のフレームが共有されて,その活動の組織化

を可能にする参照枠となる。ゴフマンは,こうしたフレーム変換を,音楽で楽曲のキー(調)

を変えることになぞらえて転調と呼ぶ。「作りごと」は,この転調のサブタイプであり,そ

こには,日常会話の中で“ストーリーを語る”ことやふざけて人や事物の真似をするとい

ったことから,白日夢,演劇・小説・映画・テレビドラマ等々の“脚本のあるドラマ”ま

で,制度化のレベルが異なるさまざまな“フィクション”が含まれる。 4 「可笑しさ」を,私たちは一般に,人を笑うに至らせるような“内面”の状態として理解し

ている。各種の笑いの原因論は,ほとんどの場合,何がそうした内面の状態を誘発するかを説

明する,という形をとる。しかし,ホクシールドの感情管理論(Hochschild 1983)を俟つま

でもなく,人は可笑しく感じても笑わないこともあるし,可笑しくなくても笑うこともある。

である以上,可笑しさから,笑いという行いそのものに焦点を移すべきだという以下のような

谷の提言は,笑いの研究にとって決定的に大きな意味を持つといえる。「インフルエンザ・ウ

ィルスに感染すると発熱するが,だからといって,インフルウィルスを分析しても発熱のメカ

ニズムはわからない。そもそも,インフルにかかったとき以外にも,いろんなときに人は発熱

する。とすれば,人の認知構造上の諸条件の考察から笑いの発生因もしくは誘発因を同定しよ

うとするアプローチにもそれなりの意義はあるだろうが,それよりも,たとえていえば人間の

身体にそなわった発熱メカニズムを研究するのと同じように,コミュニケーションの中での笑

いの発生とその働きを調べることのほうが,より実りある笑い研究になるだろう。」(谷 2004,

pp.99-100)

3

本報告では,そうした CA 系統の探究の蓄積をアプリシエイトしつつ,それに FA の視

点を加味することによって,何を明らかにすることができるかを考える

・ 最初に確認しておかなければならないのは,笑いは多義的,つまり多機能的であり,

やりとりの文脈の中でさまざまな働き(しかもしばしば1つの「笑い」の表出が同時に

複数の働き)を果たしうる,ということである; 本報告の主題の1つである,フレー

ム変換のマーカーとしての働きは,顕著かつ重要なものだとはいえ,笑いの可能なさ

まざまな働きの1つにすぎない5

たとえば,相手のいっていることを理解し,共感しているよというメッセージを伝え

る働きをしていると思われる次の事例での笑い(04 と 07 で“佐野”が“栗原”に発し

たもの)は,おそらく本報告の主題とはあまり関係がない

【事例1】

(([子育て支援サークルで出会った母親同士の]佐野と栗原は,10 秒ほど黙って,泣いて

いる子どもの様子を見ている))

01 佐野:((栗原に顔を向け))マイコちゃん↑なエリカちゃん寝てんの昼

02 (0.7)((栗原が佐野に顔を向け,口元が「はい」と動く ))

03 栗原:昼寝てな[い

04 佐野: [ahah 相変わらず

05 (0.6)

06 栗原:寝えへんで:

07 佐野:ha ha ha ha [hah

08 栗原: [ほんで夜は

09 (0.8)

10 ((以下,夜もよく目を覚ますという話が続く )) (戸江 2009, p.126)

・ ただし,それがどのような事態なのかを記述するのは存外にむつかしいが,とりあえ

ず「シリアスネスを減じる」とでも呼んでおきたいような働きが,笑いの表出にある

のは,日常のコミュニケーション経験を振り返ってみても確かであるように思われる

【事例2・3】

G:そんな大変なことを,ぜんぶかかえこもうとしてるわけじゃないよね。

S:’hhh わからないの,ジェリー。

5 笑いがこのようにヴァ―サタイルなことの理由の1つとして,泣くことや怒りの表出などに

比べて,呼気音と比較的小規模の表情の変化で表出可能な笑いは,「コミュニケーションに乗

りやす」く(谷 2004),きわめて広範囲にわたって会話に浸透しているという事実を挙げるこ

とができるだろう。

4

(.)

S:もう,泣くのはやめにしたの uhheh-heh-heh-heh-heh

G:あなた,なんで泣いてたの? (Jefferson 1977,p.346)

C:あー,えーと,事故について聞いたよ,ほんとに同情する。

L:ああ,ありがとう,ほんとにいままでの人生で,経験した痛みをぜんぶ合わせて

も,この足の痛みに比べたら [eh heh-heh

C: [あの,きみ

L:ha (ha)

C:きみ,もうちゃんと歩けるようになったの? (Jefferson 1977,p.347)

これはどちらも,トラブルを抱えている人とそうでない人との会話であり,そこでは

日常の会話でよく見られる話者間の笑いの連鎖は見られない; どちらの事例でも,ト

ラブルを抱える側が笑いを含む発話をしているのに対して,その相手は,笑わずに相

手が抱えるトラブルの話を真剣に聞いて,質問する

つまり,トラブルの話は基本的には「笑いごと」ではない; ここでのトラブルを抱え

た側の笑いには,その語りの中でのトラブルのシリアスネス,もしくは深刻さを幾分

かでも緩和し,相手にとって話を聞きやすくする効果がある6

こうしたトラブル語りの場合以外にも,さまざまな局面で,私たちはやりとりや活動

のシリアスネスを減じさせるような形で笑いを発する(【事例1】での笑いにも,そのよ

うな側面があった可能性もある)

・ 上記とは逆に,会話の中で話者間の笑いの連鎖が起こるとき,話者の一方の笑いはし

ばしば,笑いへの招待になる; 言い換えれば,それは「ここは笑うところ」というこ

6 ここでの理解は,今後経験的に検証すべき,“マジ(seriousness)―冗談非連続性仮説”と

もいうべき想定を前提にしている。そこでは,人びとの無変換の諸活動は,医者―患者の診療

場面や,バス停でバスを待つ知人どうしの雑談,贔屓のチームの選手のサヨナラホームランの

直後の私設応援団のメンバーのふるまい・・・等々を並べてみれば推量できるだろうように,そ

のそれぞれが,それにとって適切なマジ(シリアス)度とそれに釣り合う関与配分の程度の幅

を伴うものだと想定される。笑いは,その幅の中でシリアスネスを減じる効果があるが(「き

み,これをやって」vs.「きみ,これをやって haha」),この種の笑いをどれだけ積み重ねても,

それだけでは「冗談」へのフレーム変換は起らないだろうと考えるのである。誇張や反実仮想

などの,この報告ではまだ検討されていない形式的特徴や文脈性,もしくはそれが冗談だとい

うことを示すマーカーや発話(「やだなあ,冗談だよ!」)が加わらなければ,「素」のシリア

スな活動のフレーム変換は達成されないと,ここでは考える。にもかかわらず,マジと冗談が

連続しているように見えるのは,それが実際に連続体であるからではなく,人びとがときに,

フレームの曖昧さ(frame ambiguity; Goffman 1974: 302-308)を利用したコミュニケーショ

ン戦略を使うからである。私たちは,「マジ」と取られたら不具合が生じるかもしれないこと

について語らなければいけないとき,「マジ」か「冗談」か微妙なデザインの発話を行うこと

がある。そしてもちろん,悪口や攻撃を冗談や皮肉のオブラートで包むというフレームの曖昧

さの利用は,日常的な笑いの研究にとって避けて通れない重要なトピックである。

5

とを会話の相手に表示するマーカーの働きをする

【事例4・5】

ジョイス:でねえ,あの娘ったらさ,だれか友だちといっしょに,どっかにしけ

こんでたのよ,ふん。

(0.7)

ジョイス:ehh[hhhhhhh!

シドニー:Oh(hh)h hah huh!

ダン:おれたち,すごくキマってたよな,おれがおまえのことを,こいつヤク中ジャンキー

なん

だぜっていってやったの,聞いてただろ。

(0.5)

ダン:hheh heh[

ドリー: [hhheh-heh-heh (どちらも Jefferson 1978,p.80)

・ どちらの事例でも,抜粋の初めの時点での話し手が,聞き手に対してストーリーを語

ったのち,自分から笑って,その話(で語られたこと)は「笑っていいこと(laughable

matter)」,つまり,笑いの対象と想定されている事柄だということを表示する; する

と,【事例4】では即時に,【事例5】ではワンテンポ遅れて,相手から笑いの応答が

ある

こうした笑いの連鎖を通じて,笑いの対象(もしくは客体=object),話し手が聞き手に

「笑える」話をしたという場面の定義,そして,同じ相互行為(会話)の参与者同士

という関係性(共-成員性 co-membership)が相互行為的に達成される

グレンは,その現時点ではもっとも包括的な笑いの機能論的研究の書(Glenn 2003)

の中で,1章をついやして,laugh at(~を笑う)と laugh with(~とともに笑う)と

いう,笑いの表出の理解に重要な二側面について分析している

笑いは,何らかの事柄や出来事やさらには人を対象にして行われる(対象が不明な笑い

は,「異常」の症候として読み取られることさえありうる7 );

【事例6】

ケート:テープ[録音]のあなたの声,ぜったいバカみたいよ。

(2.0)

ケート:[[ Bhh hah huh huh ] hh=

7 例として,紙幅の都合でここではトランスクリプトの引用はしないが,精神病院の患者の(家

族や病院のスタッフにとって)対象が不明な笑いや泣きが,病の症候として理解されたという,

クルターが紹介するシーラの事例を挙げておく(Coulter 1979 邦訳 pp.203-208)

6

ブランド:ぼくの声,そんなにバカみたい?

ケート:ぜったいそうよ。

ブランド:うん,前に聞いたことがあるけど,すごくバカみたいに聞こえるよね。

(.)

ケート:なんであんなに(.)バカみたいに聞こえるの? (Glenn 2003, p.114)

・ 笑いの対象(laughable matter)が人である,つまりその場にいる人が笑いの標的(butt)

にされている会話のシークエンスには,次のような形式的特徴がみられるとグレンは

いう; (1)標的ではない人が笑う,(2)3 人以上の参与者がいるときには,標的でない別の

人が続いて笑う,という発話の連鎖があり,(3)そのあとにきわめてしばしば,その笑いの

対象をめぐる活動(たとえば標的の laughable な言動や特徴や属性等をトピックにした発

話,上の事例でいえばケートの「なんであんなに(.)バカみたいに聞こえるの?」)が続

く8

さて,笑いが対象を持つ(=対象として想定されるもの・人・事柄を相互行為の中で構成

する)とは,言い換えれば,笑いの表出は,「対象」と笑う側との切り離し作業を伴う,

ということでもある; とりわけ,その laughable な対象の候補が人(もしくはその人

に帰属される何か)である場合,いったんその人の「身になって」その場の状況をシミ

ュレーションするという作業(これを報告者はかりに“同一化”と呼ぶ)を行ってしま

えば,「笑えなく」なる可能性がある(「バナナの皮に滑って,転んで痛がっている人」

を心置きなく笑うには,その人 ―とその痛みや恥ずかしさ― に同一化せず,その人を笑

いの対象として,「主体」の側から切り離す必要がある)

・ laugh at は,古典的な“笑い=優越感の表現説”(ex. ホッブス)や,「笑いものにする」

「そんなことしたら人に笑われる」といった日常の慣用句が指し示すような

disaffiliative な笑いの働きを焦点化し,いっぽう laugh with は,「みんながどっと笑

って,場が和やかになった」といった言い回しが指し示すような,相互行為場面にお

ける共-成員性に関わる affiliative な笑いの働きを焦点化する9

初期ゴフマンの面子や礼儀についての微細な考察(Goffman 1967)からたやすく推量

できるように,私たちは日常生活において,disaffiliative な笑いを発する(あるいは

そう受け取られかねない笑いを表出する)ことに,多くの場合,きわめて慎重である10

8 ただし,グレンはまた,laugh at が laugh with に転化する,また逆に,laugh with が laugh

at に転化するというケースも日常的に観察できると指摘する(たとえば,【事例6】で,ブラ

ンドが,ケートに笑われたあと,自分でも ―自虐的に?― 笑うという展開も,まったく考え

られないことではない)。 9 affiliative な笑いと disaffiliative な笑いの研究例については,Glenn 2003, p.112 を参照の

こと。 10 ただし,その場にいない人物が笑いの対象であるときは,その限りではない。その場にいな

い laughable な人物を対象にする,場の参与者にとって affiliative な笑いを気前よく乗せた発

話の連鎖が続くという経験と,私たちの多くは無縁ではないだろう。参考資料として,報告者

7

だれかを標的にして笑うというのは,相手の面子をつぶす(人 person としての水準

を降格 degrade させる)ということにつながりかねないという意味で,かなり攻撃的

なふるまいであり,したがってそれは,それまでの相手との関係の経緯からそうして

も大丈夫だと判断できる場合や(事例6のケートの笑いはおそらくそうした「親しい関

係」に担保されているのだろう),あるいは「冗談」に回収できる場合など,かなり限定

された条件下で行われることが多いといえるだろう

・ ここで(=「冗談」にたどり着いたところで)やっと,“笑い=フレーム変換のマーカー”

という本報告の第一の主題について論述する準備が整った

【事例7】

B16:わたしも[ムカデに]刺されたことがあります。

A17:それでどうしました。

B18:で,引っかいたみたいで,3時間ほど痛かったですけど。

A19:ああそうですか。

B20:冷やして,ヨーチンを塗ったり,それでなんとか治りました。

A21:いやそれで刺されたとしたら,一晩や二晩痛くて,時間を棒にふったと思ったらホ

ッとした。

B22:そんなのに刺されたら痛いですまないですよ。

C24:hohohoho

自身が観察した,「その場にいないが見えるところにいる」人物が笑いの対象になったという

事例についての,“日常的場面におけるフィールドノーツ”を下に提示する(FA アプローチの

経験的研究においては,こうしたノーツを,会話のトランスクリプトのオルターナティブの一

つとして利用することを考えてみるべきだろう)。

[2015-04-16 7:53 ごろ/7 時 55 分に出る JR 高槻駅北口発→関西大学行きのバス内にて]

最後尾の 5~6 人掛けの座席の左(低床の乗車口がある側)の窓際に座っていた女子学生と,

その右隣りに座る女子学生,そしてその右斜め前に当たる通路の末尾に立っている男子学生が

会話を交わしており,かれらは明らかに知り合いであると見て取れた(私=このノートの報告

者は,最後尾座席の 2 人の女子学生の右隣り,その長い座席に掛ける 5 人の真ん中に座ってお

り,つまり 3 人のやりとりを eavesdropper としてよく見聞きできる位置にいた)。 バスの発

車時間が近づくにつれて車内は込み合ってきており,とりわけ,乗車口から入ってすぐのあた

りがよく込んでいるようだった。 最後尾座席の左窓際の女子学生が,窓から外を見ていて,

知っている(たぶん 3 人ともが)男子学生が,バスに乗ろうと走って来るのを見つけ,その名

前を挙げて,走ってくるさまを実況した。 その男子学生は,走ってきて,乗車口からバスに

乗りこもうとして,しかしステップ部に立っている複数の乗客の身体にはばまれて,乗ろうと

したが乗れなかった,ということが,左窓際の女子学生のアナウンス(および私の位置からで

はごく限定的な窓越しの視界)からわかった。 左端の女子学生は,その男子学生が乗ろうと

して乗れなかったこと(あるいは乗るのを断念したこと)を見て笑い,「○○,乗れへんかっ

た」と,「笑いの対象をめぐる活動をトピックにした発話」(グレン)を行って,また笑った。

その女子学生の右斜め前の通路に立つ,乗車口が背中側にあるために走ってきた男子学生が乗

れ(ら)なかったという経緯を目撃できなかった男子学生も,その女子学生の報告を聞いて笑

った(私と左端の女子学生との間に座る,もう1人の女子学生が笑ったかどうかは確認できな

かった)。

8

(pause)

C25:(Aの足下を指して)いま入ってないかナ。

A26:[hahahaha

B27:[hahahaha (pause)

C28:hahaha (谷 2004, p.48)

この事例では,A,B,C3人が“ムカデに刺された経験”というトピックで会話を

交わしている最中に,Cが,Aの足もとにムカデが這っているのではないかという,

不意に言われれば思わずどきっとするような,反実仮想的な冗談をいう; C24 の

「hohohoho」は,冗談をいう予告だと後になって了解することができるような笑いで

あり,AとBは(おそらく一瞬どきっとしたのち)笑い,続いてCも笑う; 3人ともが

笑ったことによって,Cの「いま入ってないかナ。」という発話は,冗談として達成さ

れる(そしてもちろん3人の笑いがCの冗談の終結 closing になる)

先の事例の4・5でも,話し手の笑いが「laughable matter」のマーカーになり,聞

き手の笑いが,話し手の笑いが指し示す対象が「laughable matter」であると承認し,

その可笑しさを観賞(appreciate)したという表示になっている; どちらの事例でも,

話し手は,自身が経験した事柄についての「ストーリーを語る」という,FA の用語で

いえば「作りごと」のフレームに属する活動に携わってはいる; しかし,話し手の当

初の「誘い」の笑いは,フレームの変換(あるいはそれが作りごとのフレーム内での活

動だという表示)に関わっていない(事例の抜粋の末尾の参与者が「一緒になった」笑い

で,そのストーリー語りが終わるとすれば,それがフレームの終結を表示しているとはい

えるだろうが)

いっぽう,事例7でのCの笑いは,そこでフレーム変換が行われ,まったく虚構の冗

談11 が語られるということを予告するマーカーになっている12 ; 笑いがフレーム変

換のマーカーとして働くというのは,たとえばこのようなことである

そして,私たちはときおり,日常の顔見知り同士の社交的な会話の中で,参与者が,

発話のあちこちに笑いのマーカーを乗せながら,反実的な“バカ話”のキャッチボー

11 事例4・5はいわばノンフィクション(あるいは FA 流にいえば再演 replaying; 南 2015

参照),事例7のCの語りは純然たるフィクションである。フィクションとノンフィクション

の区分については,考えておかなければいけないことがいくつもあるが,ここではそれを検討

する紙幅はない。ただ,日常会話の中では,冗談という装いをまとわずにフィクションを語る

というのは,かなり敷居が高い行いだという点だけは指摘しておきたい。 12 もちろんCは 24 のスロットで笑わずに,真顔もしくはポーカーフェイスで,「いま入っ

てないかナ。」ということもできただろう。そうした冗談の演出を,私たちは見聞きすること

もある。しかし,この冗談の場合,それが実際に起こっている事態だと理解される可能性があ

る(そして事実確認ののちに,「冗談を言った」ではなく「嘘をついた」と受け取られる可能

性がないわけではない)。したがって,ここでの“予告の笑い → pause → 冗談の発話”とい

う段取りには,そうした事態を回避する保険としての働きが(結果論かもしれないが)あった

ともいえる。

9

ルを続ける場面を目撃することがある13

・ 再確認すると,会話における冗談は,“シリアスでないもの”として時間的な枠(もし

くは括弧 bracket)で囲われ,そしてしばしば笑いがその開始を(ときには事例7のよ

うに遡及的に),そしてもっとしばしば“一緒に笑うこと”がその終結を示すマーカー

になる

しかし,日常的な冗談の中には,いま少し制度化された,したがって次節のトピック

である「お笑い」により近いものもある; ジョーク(小咄)を語る,という,とりわ

け欧米で慣行化され,パーティのような社交的な場面で,あるいはさまざまなスピー

チやプレゼンテーションに埋めこまれる形で見られる実践がそれである

ジョークには独自の形式的特徴(例えば,虚構のストーリーを語るという枠付けや,“前

知らせ14 → ネタの本体 → パンチライン (オチ ) → 笑いを含めた聞き手の評価的リアク

ション15 ”というシークエンシャルな構造)があり,そして話者も私たちも制度的知識

(常識)によってそうした特徴をそれと認識でき,語り手として承認された者は,ジ

ョークを語り終えるまで話していいという“チケット”を与えられる(語り手とオーデ

ィエンスの一時的な構造的分化が成立する); したがって,通常,ジョークのフレーム

を成り立たせるにあたって,その開始のマーカーとして笑いが使われる必要はない

【事例8・9・10】

画廊のオーナー: きみに,いいニュースと悪いニュースがあるんだ。

画家: そのいいニュースっていうのは,何ですか?

画廊のオーナー: いいニュースというのはね,今日,ある人がやってきて,きみの死後に,

きみの絵の値段は上がるだろうかと,私に尋ねるんだ。そうなるでしょうね,と答えたら,

その人は,それならうちにあるきみの絵をぜんぶ買うというんだよ。

画家: すごいじゃないですか! で,悪いニュースっていうのはなんですか?

画廊のオーナー: 悪いニュースというのはね。 その人,きみのかかりつけのお医者さん

13 少なくとも報告者は,通勤のバスの中やバス停で,学生のそうしたやりとりを繰り返し耳に

している(倫理上の事情から録音はできないが)。 14 これについては,現時点ではまだ十分調べられていないいが,ジョーク本のタイトルになっ

た(Hill 1995)「こんなの聞いたことがあるかい(Have you heard this one?)」の類は実用さ

れるだろう。もちろん,これはリタラルな質問ではなく,「なになに(What?)」といった応答

(あるいはそれと同等のものと解釈できる表情やジェスチャー)を「ジョークを語る」ことの

承認ととってジョークを語りはじめるというステップに先行する「前知らせ」である。 15 もちろんこの聞き手の評価的リアクションの局面では,笑うこととそれ以外の二つの対応の

うち,前者が,会話分析の用語でいえば「優先的」な選択肢になる。と同時に,この局面でし

ばしば,その優先性に沿って(あるいはゴフマンの用語を使うならジョークを語ったものの面

子を保つために),ホックシールドがいう感情管理(emotion management)が行われる(授

業で受講生に感情管理の経験について何度かレポートを書かせたことがあるが,先輩や友だち

などの「面白くない」冗談に相手もしくは「場」を配慮して笑ったという体験は毎回,頻度が

高いトピックの一つだった)。

10

なんだ。 (ネットサイト「Good News Bad News Jokes」より16 )

その男はひっきりなしに猥褻な言葉をしゃべるオウムを飼っていたらしい。それを何とか

しようとしてあれこれ努力したが,みな失敗に終わったので,男はオウムを冷蔵庫に押し

こんで,こう言った。「品よくしゃべれるようになるまで,ここにいろ」。一時間ほどして,

男は冷蔵庫を開けた。オウムはブルブルふるえながら,見るも悲しげな様子で中にすわっ

ていた。男は言った。「おい,これからは品よくしゃべれるかな?」「はいはい,約束しま

す」とオウムは答えた。「でも,このニワトリはどんな悪いことをやったんですか?」

(Berger 1997 邦訳 p.239)

禿頭の男が理髪店を訪れ,理髪師のふさふさした髪の毛を羨ましげに見つめながら,次の

ように所望した。

「僕のヘアスタイルを君のと同じようにしてくれたら,百万円差し上げよう」

「お易い御用です,お客様」

そう言って,理髪師はたちどころに客の希望を叶えた。自分の頭髪をきれいに剃ってしま

ったのだ。 (米原 2005 p.65 より)

上記はネタ本やハウ・トゥ本などによくある「書かれたテキスト」であり,その語り

の実際と同じではない(上記をそのまま棒読みにしただけでは,おそらく聞き手の受けを

取り,笑いを誘うことはむつかしい)

FA 的観点からすれば,最低限,どのようなやり方を通じてそれを語ることが承認され,

ジョークのフレームが成立するかについての種々の実例に当たっての研究は必要だろ

うし,またジョークの「ネタ」がしばしば仕込まれたり再演されたりするものである

以上,どのようにしてそれをその場に適切な「受ける」ものにされるのかという演出

論的(dramaturgical)な経験的吟味が課題化される

・ ジョークは,語り手の自作の場合もあるが,きわめてしばしば口承の,もしくは各種

の手ほどき書・ジョーク集所収のストックが参照され,いずれにせよ,「お笑い」と同

じように事前に(少なくとも大筋の)「スクリプトが用意されている」状態で語られる;

したがって,そうしたジョークを語る実践を,制度化された「お笑い」の萌芽形態と

呼んでも,それほど見当違いではないだろう17

16 The Virtual Reality Amusement Company

http://www.hereinreality.com/funnystuff/otherstuff/goodnews.html#.VUsvZKkcTmQ 2015 年 5 月 7 日ダウンロード 17 米英では職業的なコメディアン,いわゆるスタンダップコミック(漫談家)の主要な演目は

ジョークを語ることであり,したがって,ジョークのハウ・トゥ本にも「プロのようにジョー

クを語る方法」といった惹句がつけられていたりする。また,日本でも,説法に含まれる笑話

や軽口・小咄語りの会などから江戸期に職業咄家が生まれたという歴史的経緯は,よく知

11

ジョークを首尾よく語ることは,単なるお話(フィクショナルなストーリー)のプレゼ

ンテーションではなく,一種の詐術の発揮を伴う; そこに,こうした語りの実践をよ

り深く理解するには,CA の知見に加えて,ゴフマンの FA の道具立てが役立つと,報

告者が主張する根拠がある

ジョークのパンチラインを効果的にするためには,そこまでの「ネタの本体」の部分で,

聞き手をミスリードする必要がある; この「誤解」への誘導は,ジョーク語りにおけ

る意外性(認知的不調和 cognitive incongruity)の意図的達成に欠かせないが(米原

2005:18-22),それは FA の用語でいえば“偽造”18 ,つまりフレームについての情報

の不均等状態が意図的に創り出されているという事態の,境界的なケース19 として理

解できる

事例8~10 でも観察できるように,こうして意図的誘導によって作り出された「誤解」

られている(たとえば,延広 2011; 中川 2014)。 18 ゴフマンは,プライマリー・フレームワーク(以下 PF)と彼が呼ぶ「素」の活動(これは

ウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」と等置して理解してよいだろう; see 中河 2015)

が変換され,フレームが二重化することを「転調」と呼ぶ。フレームの二重化とは,たとえば

小説の食事のシーンを読む場合,読者は PF に属する「食事をする」という活動と,小説とい

う特定の「作りごと」のフレームに属する活動のふたつを同時に理解し,こなす能力

(competence)を駆使して,そのシーンを享受するということである。『フレーム分析』では,

そのフレームに属する活動の参与者が等しく,「いまここで起こっていること」のフレーム状

況を理解している「転調」以外に,フレームが二重化しているにも関わらず,そのことを参与

者の一部しか知らない「偽造( fabrication)」というフレーム変換の様態もあるという指摘が

なされる。詐欺やスパイ活動やサプライズのバースデイパーティのような,偽造フレームに属

する活動の特徴は,参与者間で,フレーム状況についての情報の不均等なことである。参与者

は,その情報状態によって,「だます側」と「だまされる側」に分化する。だます側にとって

のみフレームは二重化しており,だまされる側は,フレームを一重の(「素」の)ものとして

認識しているというのが,「偽造がばれる」時点までの,偽造フレームの参与者の在り様であ

る。 19 話し手と聞き手の間の,トピックについての情報状態の不均等は,むしろ会話が紡がれてい

きための与件だといえる。偽造とは,そうした一般的な情報の不均等ではなく,フレームにと

っての情報状態の不均等によって維持される事態である。報告者が,ミスリードを偽造の境界

的なケースとして位置付けるのは,ミスリードを目指す語りには,「反事実」を述べないとい

う意味で,「うそ」がないからである。ジョークの語り手にとって,選択的に提示される(語

られるストーリー内での)いくつかの「事実」は,話し手がそう受け取るであろう「ストーリ

ー1」の構成要素と,あとで(典型的にはパンチラインによって)明らかにされる「ストーリ

ー2」の構成要素と,という形で,二重化している。つまり,語り手にとっては,つかの間の

“フレームの二重化”が現出している。こうしたミスリード(もしくは,ミスディレクション)

は,物語一般において,オーディエンスや読者をストーリー展開に引き付ける技法として広く

使われているし(「忍び寄る敵の軍勢,気付かずにつかの間の平穏を楽しむ主人公たちの,運

命やいかに!」),とりわけミステリというジャンルの小説や映画では不可欠のものだといって

いい(都筑 2012)。なお,ミスリードがオーディエンスや読者に「ばれた」(そしてフレーム

が全参与者にとって一重になった)あとに,通常,「引っかけた」語り手が道徳的非難を受け

ることがないという意味で,こうしたエンターテインメントにまつわるミスリードは,FA の

用語でいえば,「善意の偽造(benign fabrication)」の一種ということになる。(ちなみに,マ

ジック(奇術もしくはイリュージョン )は,基本的にはミスリードは最後まで明かされず,観客

は「ストーリー2」があるだろうことを推測しつつ,「ストーリー1」をフィクションとして

楽しむという,演者からの謎解きなしの特殊なタイプの“善意の偽造”である。 See 泡坂 1992)

12

が,パンチラインによって一挙的に解消されるというのが,ジョークというストーリ

ーテリングの基本的な仕組みである

こうした仕組みは,ジョークに限らず,広く冗談一般に観察できるものであるかもし

れない; たとえば,事例7のムカデの話も,CのAの足下を指す仕草と「いま入って

ないかナ。」という発話の直後に,一瞬のミスリードとその解消が成立したからこそ,

それを冗談として理解し,笑うことができるのだとも考えられる

3.「お笑い」について

・ ここでいう「お笑い」とは,1 人または複数の演者によって,事前に準備されたスクリ

プトもしくは筋立てを参照しながら演じられる“作りごと”=フィクショナルなドラ

マであって,その享受者の楽しさ(fun)と関連づけられた笑いが,そのパフォーマン

スの主要な成果の一環として,参与者や関係者に理解されているようなもののことを

指す20

そのジャンルは,漫才,コント,漫談,ものまね・声帯(形態)模写,ボーイズや歌

謡漫談などの音楽(音曲)ものお笑い,落語,笑劇(喜劇)など多種多様であり,そし

てそのそれぞれが,その活動を可能にする(バーガー=ルックマン流にいえば歴史的沈殿

物としての)独自のフレーム化の慣行(framing conventions)によって枠づけられ,さ

らにはその外枠である寄席や常打ち劇場や会やイベント等々に囲い込まれて,二重に

制度化されている

・ こうした制度化された「お笑い」の場では,笑いという行いの様態は,日常会話での

それとはシステマティックに違ったものになる21

そうした場は,仕切られ入場者が限定された会場や,ステージと客席の設備,出入り

口と通路,照明やマイク/PA,開演から終演までのプログラム,演者の出や入りの段

取りや緞帳といったさまざまな慣行や装置によって,時間的・空間的な枠付けが達成

され,それを参照した参与者の活動によって「お笑い」の場としての“状況の定義”

が維持されている

そうした状況の定義の核心のひとつが,“ジョーク語り”における話し手―聞き手の関

20 そうした「お笑い」パフォーマンスの職業的演者には,慣行的に「お笑い」という形容が冠

され,その結果,そうした「お笑い」タレントが出演するテレビのバラエティ番組のタイトル

にも「お笑い」が謳われるようになって久しい。が,ここではあくまで,そうした「お笑い」

タレントの“本芸”に限定して話を進める。 21 こうした「お笑い」は,現代では,ラジオ,テレビ,ネットでの番組化と放送や,その録音・

録画,音響・映像および活字ソフトとしての商品化など,さまざまなメディアテクノロジーを

介した再転調(rekeying)の対象になり,その過程で公式及び私的な編集(後者はとりわけ近

年飛躍的に可能になった)を施されることになる。こうした多種多様な再転調の個別的なフレ

ーム化の慣行(それぞれがそれを可能にするテクノロジーといわば融合している)については,

今後多くの吟味探究が必要とされるが,本報告では議論の無用の複雑化を避けるために,基本

的に,各種の「お笑い」のいわゆる“生”の形態を範型として念頭において論を進める。

13

係を拡張し固定化した,演者―オーディエンス(観客)―スタッフや裏方,の三者の

“分業”である; 三者のそれぞれが異なった権利・義務を割り当てられているが,そ

のうちのオーディエンスは,一般に,客席に座って「お笑い」の演者のパフォーマン

スを観賞し心置きなく笑う権利と,そして笑うという形で享受(appreciation)を表示

しうる関与のレベルでそのパフォーマンスに志向する義務とをもつといえる

・ したがって,「お笑い」の場のオーディエンスは,先に日常会話について見たように,

他者の笑いをフレーム変換のマーカーとして,あるいは「笑っていい対象」を指し示

すマーカーとして,読み取る必要はない; 舞台の上の演者およびその言動を laugh at

可能なものとして対象化し,オーディエンスの側の「われわれ」から切り離して,心

置きなく笑えるようにするような「状況の定義」が,あらかじめ場の設定によって達

成されているからである

日常のやりとりでは,私たちは先述のように,面前の事柄や人を笑って大丈夫か,笑

うことが他者の攻撃につながらないか等,けっこう細かく気を使って,キュー(合図)

や徴候を読み,自身の笑いの表出を適正化すべくつとめている22; それとは対照的に,

「笑っている場合ですよ」23 というのが,「お笑い」の場のオーディエンスに利用可能

な,基本的な状況の定義なのである

・ しかし,だからといって,笑う対象の指示(⇔構成)という作業が不要になるわけでは

ない; 日常的にジョークが語られる場合と同じように,通常,「お笑い」のパフォー

マンスにも適切な場所と演者サイドが想定するパフォーマンス中のポイントがあり,

その「笑う場所」においてオーディエンスが laugh at することができる対象を構成す

べく,演者サイドの誘導とオーディエンスの協同が行われる(その帰結としてのオーデ

ィエンスの笑いは,当然,演者に笑いの対象を appreciate したことを伝えるという働きを

もつ)

そして,そうした誘導や協同の過程の経験的分析は,「お笑い」へのコミュニケーショ

ン論的(機能論的)アプローチの研究課題のひとつである

もちろん,つねに演者サイドの想定通りに,オーディエンスの笑いが導かれるとは限

らない; 見込んだポイントで笑いが引き出せないこと,想定外の事柄についてオーデ

ィエンスが笑うこと,あるいは,特定の“妙な”個人が笑いの対象が同定不能な笑い

声をあげるといったことも起こりえなくはない; そして,そうしたことによって,稀

22 ビリッグ(Billig 2005)は,おそらくバーガー(Berger 1997)への対抗を意識しながら,

笑いとユーモアの嘲笑的,攻撃的側面の重要性を強調する。しかしながら,私たちの対面的な

相互行為では,ゴフマンやホックシールドも指摘するとおり(Goffman1967; Hochschild 1983),

他の参与者に対して攻撃的になりうる指し手(moves)を慎重に避け,やりとりの流れを協同

的に維持しようとつとめることが多い。 23 フジテレビ系列で,1980 年 10 月から 1982 年 10 月まで昼帯で生放送された,当時人気の

「お笑い」芸人たちが出演していた帯バラエティ番組のタイトル。

14

には,「お笑い」のフレームそのものがおびやかされることもあるだろう24

とすれば,演者サイドによる笑いの誘導の技法と並んで,オーディンスによる“適切

な場所”での笑いが,他のオーディエンスにとっての「ここ,笑うところ」という対

象についての理解を達成させるマーカーとして働き,それが「お笑い」の場(⇔フレー

ム)の維持に寄与する,という側面もまた,経験的解明の俎上にあげるべきだろう; こ

うした意味でのマーカーとしての笑いの重要性の傍証として,「お笑い」の番組収録の

観客席に“笑いやすい観客”や“笑い屋”を仕込むという放送局の実践25 や,スタジ

オ収録したコントや笑劇等に後から笑い声をかぶせるという,米国のシチュエーショ

ン・コメディ起源のテレビ番組の慣行を挙げることができる

・ 「笑っている場合」という状況の定義を典型化して示すのが,「アホ」「バカ」「与太郎」

「ボケ役」「可笑しな(あるいは変な)やつ」「天然」等々の,歴史的には道化(fool も

しくは clown; ex. 山口 2007)を先蹤とする,この報告では仮に LC( laughable

character)26と呼ぶことにする文化装置である; こうしたフィクショナルなキャラク

ターは,「お笑い」のフレームの中で,laughable な存在として,つまりオーディエン

スが“自分たち”の側からたやすく切り離して笑える対象として提示される27

24 ネタが狙ったところで“受けなかった”り,予想しないところでオーディエンスの“笑

いを取った”りしたなら,演者は通常,スクリプトや段取りを変え,ネタを“練る”とい

ったやり方で対応をはかるだろう。しかし,ときには,笑いの過剰や欠乏が,「お笑い」の

フレーム自体を維持しにくくすることもある。『フレーム分析』でのゴフマンの笑いへの言

及は,“溢れ出し(flooding out)”という,統制しそこねた感情表出によって,進行中の活動

に対するフレーム壊し(frame break)が起こるという事態の一環として取り上げるというも

のだった(Goffman 1974:350-57)。そこでは,たとえば,参与者が笑い転げてしまい,ある

フレーム内の活動の流れが停止を余儀なくされる,といった事態を念頭に置いて事例が示され

ており,つまり,本報告のキイ概念である“フレーム変換のマーカーとしての笑い”とは,ベ

クトルが逆方向の笑いの働きに注目している。もちろん,「お笑い」の場でも,客席からのあ

まりにも過剰な笑いや,オカルトな(対象が同定不能な)笑いが,参与者の没入を妨げ,フレ

ームをゆるがすといった事態は起こりうる。 25 「学生に大人気,テレビ番組を盛り上げる笑い屋バイト」(「ベトジョー ベトナムニュース」

2012/11/14) http://www.viet-jo.com/news/social/121111065955.html 。これはベトナムの事

例だが,もちろん日本にも,放送局の求めを受けて,登録者を収録会場に派遣する観客派遣会

社がある。 26 笑劇やコントでは,本名で示される演者―芸名で示される演者―役の上での LC という

ようにキャラクターをめぐってフレームが三重化するが,漫才では,本名で示される演者

―芸名で示される演者=LC というように,フレームは二重化しかされない場合が多く,つ

まりボケ役の演者に LC 的属性が帰属されやすい。いっぽう,落語では,芸名で示される

演者が 1 人で LC 役と CSC 役の双方を演じるため,大喜利番組でのキャラクター設定を媒

介にするといった事情でもない限り,演者は LC 属性を帰属されにくいといえる。 27 ここでは詳しく検討する余裕がないが,初代平和ラッパや藤山寛美のアホ役から坂田利夫に

至る上方の「お笑い」の「アホ」の歴史をたどれば,安全な「見下し」の笑いの対象だった伝

統的な道化の末裔の「アホ」(ラッパや寛美のネタに見られたような,アホが賢い言動によっ

てときに地位逆転を現出させるという趣向もちろん道化の性能の埒内)が,(おそらくは上下

関係的=差別的な笑いへの抵抗感が育ってきたため)近年では絶滅危惧種になり,大木こだま

や松本仁志や笑い飯のように「変」や「妙」という形で,下にではなく横に逸脱するキャラク

ターが叢生するようになってきたことが跡付けられるだろう。

15

・ ここで,演者による笑いの誘導とそれに対するオーディエンスの協同の過程の複雑か

つ多様な諸相の経験的捕捉のための出発点として,次のような仮設的なシークエン

ス・モデルを提示したい; これは,いわゆる“ボケとツッコミ”による笑いの対象の

構成のもっとも単純なパタンである:

<LC(ボケ)の妙な言動 → CSC (common sense character=ツッコミ)によるその

妙さを確認する発話 → AL1(オーディエンスの笑い) → AL2(さらなるオーディ

エンスの笑い)>

【事例 11・12】

[いとしにジンギスカン料理の作り方を教えるこいし,料理を始めるにあたって,畳が汚

れないように,調理具の下に新聞を敷きつめるようにと指示する。いとしは,「初めてやる

のだから」丁寧に,どの新聞を使うか,種類まで指示してほしいという。]

いとし: [・・・]朝日新聞がよろしいよ,毎日新聞がよろしいよ,いうてもろたらや

りやすいやん

こいし: 指名したらええのんかい

いとし: 指名したらええ

こいし: 指名したらええのんかい

いとし: はいはい

こいし: ほんなら,ほんならまぁええがな,朝日新聞でも敷ひ

いとし: 朝日新聞ひきますか

こいし: ひけや

いとし: うち,読売新聞しかあらへん

こいし: [右腕をまっすぐにして人差し指で床を指しながら] それひけ!

[オーディエンスの笑い,数人が拍手]

こいし: あったらそれひけばええねやん

[オーディエンスの笑い]

(夢路いとし・喜味こいし「ジンギスカン料理」28)

塙: [・・・]ほんとテレビつけるとアイドルばっかりです いまね

土屋: いま大変ですね うーん

塙: ぼく 子どものころ キャンディーズ

土屋: キャンディーズ うまいですけどね

塙: [ランちゃん ヤマちゃん シズちゃん

28 読売テレビ <平成紅梅亭> 1996 年 5 月 11 放送(DVD『ゆめ,よろこびしゃべくり歳時記』

ソニー・ミュージックディストリビューション 2005 所収)。

16

土屋:[ランちゃん

ちょっと違いますけどね [オーディエンスの笑い=AL]

別のキャンディーズになってしまいましたけどね [AL]

塙: 解散コンサートをやったのが 失楽園球場

土屋: 後楽園球場 [AL]

塙: [という球場になりましたけどね-

土屋:[そんな淫らな球場ない - [AL] [・・・]

(ナイツ=塙宣之・土屋伸之「アイドル」29)

比較的近年に演じられた漫才に限定して,パイロット探査的に数作を精査した; この

事例 11・事例 12 のように,上の仮設におおむね適合するシークエンスも拾えたが(ど

ちらの事例でも,繰り返し CSC のツッコミのあとで観客が笑っている),一方で,ボケ―

ツッコミのやりとりは,この単純なモデルよりずっと複雑かつ多相的であり,分析の

ためのより大きな努力を必要とすると認識させられた(ナイツの「アイドル」では,ボ

ケ=塙の変な発話が突っこまれたあとオーディエンスが笑うというパタンが繰り返される

が,いっぽう,いとし・こいしのセミクラシック「ジンギスカン料理」では,どちらかの

発話のあとツッコミを介在させずオーディエンスが笑うというパタンがひんぱんにみられ,

また,いとしのほうがボケ的ではあるものの,そのキャラクター分業はナイツの場合ほど

固定的ではないようにみえる)

・ 最後に,ここまでで取り上げもらした,「お笑い」をめぐる FA ならではのトピックを

3 つだけ挙げておきたい

第一は,フレームについての自己言及的な語り(frame talk)や小規模なフレーム壊し

(→ 否定的経験 negative experience)を通じて,笑いの対象を構成するという方法で

ある; ゴフマンは,『フレーム分析』の中の演劇の FA を試みた章で,不条理劇などの

文脈で,フレームを“いじる”ことの演出的効果について論じているが(その最近の応

用例にたとえば,平田 2007 がある),近年の漫才やコントでは,その種の技法はもはや

定番化しているようにみえる30

第二に,最近「お笑い」のネタの構造分析に独創的な視点を付け加えた井山の“パラ

29 毎日放送 「北野演芸館」 2013 年 8 月 25 日放送。 30 「ここで笑わないと,もう笑うとこないよ」「うちらの漫才,二つか三つしか笑うとこない

から皆さん笑う努力して」と投げやりな声でオーディエンスに話しかけて笑いをとる酒井くに

お・とおるや,あるいは,「夢」や「嘘」の話を「現実」のように延々と語ったり,「私は」

「私は」形式のトピックのキャッチボール(串田 2001)を阻んだり,相手との会話を一

方的にやめてオーディエンスに話しかけたり,比喩表現を字義通りにとったり・・・といった

ぐあいに,漫才の原型である二者間の会話のグライス流にいえば「公理」を,片端から破

って笑わせる大木こだま・ひびきのように,今では,比較的上の世代の漫才演者の間にさ

え,この種の技法で受けをとる実践がみられる。

17

レルワールド論”(井山 2005; 2007)を,フレームの重層化をめぐる FA の発想を基盤

にして整理しなおすことを通じて,よりきめ細かく体系だった分析の方途がもたらさ

れる可能性があるだろう31

第三に,「お笑い」のフレームが再転調され,別のフレームと重ね合わされるという事

態もまた,FA ならではの研究のトピックである; たとえば,演芸コンテストのたぐ

いは以前からあったが,とりわけ「オートバックス~M1グランプリ~」(2001~2010)

を嚆矢とするその種のテレビ番組が,「お笑い」に公然と競技の要素を導入した32; そ

うした新しい活動のフレームの付加が,漫才・コント・“ピン芸”といった各種演芸の

パフォーマンスの諸特徴や,演者のイメージ,オーディエンスの「笑い」の意味づけ

に与える影響は,注目に値するトピックだと思われる

4.結語

・ 本報告では,日常会話での笑い現象と,制度化されたエンターテインメントの「お笑

い」のいずれについても,その経験的研究に,ゴフマンのフレーム分析(FA)のアプ

ローチがもたらしうる独自の貢献の一端を示した(つもりである)

さらにいえば,日常の笑い現象と比較参照することで,「お笑い」の制度的特徴をあぶ

り出せるだろうというのが,本報告をこのような構成にした理由である

紙幅の都合で,演者―オーディエンス(観客)―スタッフや裏方,という「お笑い」

の主要当事者のうちの,オーディエンスの笑いについて初歩的な考察をしたにすぎな

いが(演者の笑いはきわめて興味深い題材だし,観察が難しいという方法的問題があるが,

スタッフや裏方の笑いも無視すべきではないだろう),それでもいくつかの「先」に続く

論点を提示できたと考える

・ さて,今後,「お笑い」の FA を前進させるに当たっては,(1)漫才・コント・落語・漫

談等々の個々の「お笑い」のジャンルの活動を成り立たせるフレーム化の慣行と,(2)

31 笑いのネタを生むパラレルワールド構成の基本的パタンの一つは,演者のパフォーマンスが

「常識的なストレートな世界」と「そこから飛躍したとんでない世界」のコントラストを提示

する,というものだが,そもそもパフォーマンスで現出される「常識的なストレートな世界」

自体がフィクション(FA 流にいえば転調)であり,しかもそれは,「桃太郎」のパロディや『ス

ターウォーズ』のパスティーシュを思い浮かべてみればわかるように(パロディとパスティー

シュの違いについては Hutcheon 1985 参照),しばしば,常識=広く流布しているフィクショ

ンについての知識に担保された絵空事である。そうしたありもしないものに基づくお伽噺やフ

ァンタジーや SF の世界が,どのようにして私たちにとって了解可能なものになるのかという

問いをたてるとき,私たちは,そうした絵空事の存在(ハリー・ポッターが使う魔法や,吸血

鬼や,タイムマシン)を存立させる“非存在の存在論”について考察しなければいけないとい

うことになる。 32 スポーツのように一つのアリーナで勝敗を競うことや,そこでの勝利が演者の“格”を上

げること,「勝つ」ために短いパフォーマンス時間に多くの laughable objects が濃縮して詰め

こまれること,オーディエンスの笑いのボリュームがパフォーマンスの優劣の指標とみなされ

がちなこと,といった“競技化”の特徴は,劇場や寄席といった原型的な「お笑い」の場では

おおむね無縁のものだった。

18

そうしたパフォーマンスをパッケージ化して多くの「その場にいなかった」オーディ

エンスに届け,同時に再転調するラジオ・テレビの番組や音響・映像ソフト等々のフ

レーム化の慣行を同定する作業が欠かせない33

そうした「お笑い」の各ジャンルのフレームを成り立たせる慣行・技法・テクノロジ

ーの研究は,落語において実演者の米朝・枝雀がつけた端緒(桂 1986; 桂 1993,およ

び後者の落語の中での実験的実践)のような例外はあるものの,ほとんど見られない

・ それをいえば,「お笑い」に限らず,小説・映画・テレビドラマ・マンガ・アニメ・RPG

ゲーム・流行歌(ポップ歌謡)34・文楽・歌舞伎・マッドビデオ等々,私たちは,自分

が慣れ親しんでいるさまざまな「作りごと」の世界のフレーム化の慣行に,意外なく

らいに自覚的ではない(『フレーム分析』でのゴフマンの演劇フレームについての考察は

試行的なものだし,マンガについての四方田(1999)の先駆的業績にも後続がない)

そうした意味で,ゴフマンの FA アプローチは,巨大な未踏の大陸を指し示すもののよ

うに見える(が,しかし,そうした足元の作業抜きに,実効性があるポピュラー文化の研

究や文化批評ができるだろうか?)

・ フィクショナルな「作りもの」についての研究と聞いて,トリヴィアルなものという

印象をもつ人もいるかもしれない; しかし,そうともいえない

「作りもの」のフレームへの没頭に,日々,無視できない長さの時間を割いている人

がたくさんいるが,それだけが報告者の反駁の論拠ではない

ゴフマンが『行為と演技』(Goffman 1959)で示して見せたように,フィクションの世

界(同書の場合は演劇)での技法を補助線にして,私たちの日常のいとなみの諸特徴を

逆照射しあぶりだす,といったことも可能なのである

たとえば,私たちがフィクションの世界で,キャラクター(とその固有のパーソナリテ

ィ)を構成する方法は,少なくとも部分的には,私たちが“血肉をそなえた”他者の

キャラクター/パーソナリティを同定する方法と相同だろう; それでも,そうした方

法を(FA の一環として)同定する試みは,トリヴィアルなものなのだろうか?

33 山本らの『落語の黄金時代』(2010)は,ラジオやテレビといったメディアが落語というジ

ャンルを流行らせるとともに,そのパフォーマンスにどのような影響を与えたか(たとえば,

落語家は寄席から放送局の録音室に出向くようになった時点で,はじめて分や秒というレベル

の時間感覚と出会うことになった,というような卓見!)を跡付けようとした,数少ない文献

である。先代三遊亭金馬の人気と影響は,当時のラジオという媒体の特質と無関係ではなかっ

ただろうし,落語家とは大喜利をする人という一般の理解(⇔『笑点』)は,テレビの時代に

しか成り立たなかっただろう。 34 報告者自身,きわめて限定的な形で,日本の流行歌のフレーム化の慣行の一要素を明らかに

しようと試みたことがある(中河 1999)。

19

[参照文献]

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中川桂 2014 『江戸時代落語家列伝』新典社.

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延広真治 2011 『江戸落語―誕生と発展』講談社.

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都筑道夫 2012 『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』フリースタイル.

山口昌男 2007 『道化の民俗学』岩波書店.

山本進,稲田和浩,大友浩,中川桂 2010 『落語の黄金時代』三省堂.

四方田犬彦 1999 『漫画原論』筑摩書房.

米原万里 2005 『必笑小咄のテクニック』集英社.