安藤一重・井上孝代・大西守・平野良子 (編) (2013)....

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よ り輝 きを求めて R e n a 1 S S a n c e A コ学芸社 安藤一重 井上孝代 大西守 平 野 良 子/編

Transcript of 安藤一重・井上孝代・大西守・平野良子 (編) (2013)....

より輝 きを求めて

R e n a 1 S S a n c e

Aコ学芸社

安藤一重

井上孝代

大西守

平野良子/編

;17Yレ60副ロネ戚て |ωッか

∞サら∞ンの

ロス「コ

(l)

まえがき

四月中旬に本書の編集者として名前を連ねている四人で、過ぎ行く春に重ねて明治学院大学副

学長の「井上孝代教授の退官」を祝しての会をもちました。その席上、新年度の抱負やこれから

の生き方など、ワインを片手に幅広い話題に花が咲きました。特に超高齢化社会の到来の中で、

心豊かにそして健康で生き生きとした人生を送られ輝いている方々の姿について話が弾みました。

ところが翌日出勤すると昨晩ご

一緒したメンバー宛に大西先生から、私の退任を機会に「印歳

からのルネッサンス」と表題も決めて本書の企画書が届いていました。

正直言

って

「え:・?」というのが最初の感想でした。と申しますのも、私の退任のことは

一言

も話題にのぼることはなかったからです。そして難しい理論や専門的ではなく、趣味のことなど

を書いていただこう、という大西先生のアイディアが添えられていました。そのメ

lルを拝見し

ているうちに、意外な趣味や、仕事と関係ないそれぞれの分野で活躍されている先生方のことを

灰聞していたこともあって、「面白いかもしれないしと私自身が大西マジックにはまっていきま

した。私の退任を記念してなど、特別な功績があるわけでもなく、多くの皆様のご指導、ご協力

があってこそ任務を全うできたと常日頃思っている私は、

H

おこがましいu

という気持ちを拭い

去るこおとができませんでした。でもこの機会に先生方の隠れた趣味や生きざまをとおして、生

3

きる上での糧と勇気を読者にお届けできればと、私自身の気持ちも変化していきました。

そして数日後には、大西先生からモデル原稿が届き、執筆をお願いする先生方のリストまで添

付されていました。

4

本書はこのような経過で企画されましたが、短期間の原稿依頼にも関わらず、期日までには全

員から原稿が届き、その内容も多彩、知られざる執筆者の自己開示的な

一面もあり、まさに

「印

歳からのルネッサンス」にふさわしい読み応えのある本が完成しました。

お読みいただける皆様にとって自分の人生を心も体も輝かせ、

豊かに生きていく上でのヒント

にしていただくことができれば、この上ない喜びです。

本書にご執筆いただいた先生方は第

一線でご活躍のご多忙にもかかわらず、この企画にご賛同

賜り、

貴重な実践経験などをお寄せいただきました。心からお礼と感謝を申しあげます。

また、本書は大西先生の豊かな発想と素早い対応がなければ実現しなかったでしょう。その上

に表紙を飾る絵やカッ

トなどすべて先生の作品をご提供いただき、本書に華を添えていただきま

した。改めて大西先生に深甚なる感謝の気持ちを表します。

O一三年八月の暑い日に

編集者を代表して

• • 目

カバー

・表紙絵/本文挿絵

まえがき

-戦いすんで日が暮れてl心豊かに過ごせる時を楽しみに

-タ力ヨ教擾の。工イジングはつらいよクー若い

(和解)への

ポジテ

-うんと走って、食べて、飲んで

-

お独り様の居場所探し|無為自然のスローライフに向かって

-忘れること、夢みること

-高齢者の鞄心理学

安藤

井上

大西

渡遷

寺沢

中山

重孝代

守宏、英理子

和彦

大西

守3 8 16 25 34 42 49

5

• -おっかけの実存哲学|ファンは執念深いか

-海外ロングステイの泣き笑い

福永

-新・ストレス一日決算主義のすすめ

山本

• -

重荷を下ろし、ゆっくりと

漬口

-高齢者こそパッションを!

ゴH叶JnHH戸

町「立ロ

-

日本の原点

田園地帯の魅力とその力

-父親学の実践

桂)11

-

おしゃべりの効用

口は幸福の元

市川

-老化現象は障害か個性か

多面社会を生き抜く

中田

-リスクマネジメント

倉林

-新田義貞の「恋」に夢を追う老作家誕生の夢

後閑

@

-猫と暮らせば

繁田

@

-加齢とともに幸せも増大

悩むことは学ぶこと

隅谷

平野

良子

佳津子

晴義

利夫

中谷正支修佳居

貴男

るみい

誠千恵

理子

58

6

65 76 84 93 101 1

1

1

121 128 138 144 152 162

@ • • @

-ヴィラ経営は天国だ|竹富島奮闘記

-劇団員への夢、成るか

-若者と大人のハーモニー

-私の健康法

-高齢者は金の卵

-人生の午後はアサ|ティブに

「四十歳からの出発」

刺激されて、五十九歳で産業カウンセラーとして独立

-ゥあるがまま々しなやかに生きる

チャレンジは楽しい!

-ゥ更年期を過ぎたらもうひと花咲く。を信じて

-勉強、また勉強

-単身赴任は人生再発見

あとがき

島仲

原戸『巴青

木岩船

遠藤

渋谷

舛野

ルミ子

康長

節子羊

田中

節子

展子

瑞江

武子

善江

尚典

223 213 203 193 183 171 260 250 242 231 268

7

戦いすんで日が暮れて

心豊かに過ごせる時を楽しみに

梅雨明けと同時にうだるような暑さが

つづき、マスコミでしきりに

H

熱中症H

対策が報じられている。こんな暑さの今

日もスポーツセンターのプ1ルに通い、

体全体の健康状態を確かめながら、

一歩、

一歩、水の中を歩いている。

考えてみると、五十五年も時間に拘束

されたサラリーマン人生を続け、いつも

時間に追われ、夜遅くしか自分の時間が

とれなかった日々からようやく解放され

た。日中から

0

アールに通い、地域の人々

と交流し、時間のすべてを自分でコント

ロールできる至福の時を送っている。

8

..・⑨・@・⑨ー・@⑨・・.'.・・.・ー・.'.

安藤(あんどう

フイリ γピン,パギ、オ市で生まれ,

福岡県で子供時代を過ごす。安

保闘争で揺れていた 1960年に金

融機関に入社, 3人の子育てと仕

事の両立に苦悩を抱え,一方で

は社会の激変と勤労者の生活の

変化の中で1 健康問題に業務と

して従事した。すなわち高度成長

と公害問題,バブルの時期,バ

ブル崩壊後の失われた 20年を勤

労者の視点から見続けてきた。

その中で金融機関在!被中のス

ローガン「万人は一人のためにj

「一人は万人のために」を心に刻み

この座標軌を胸に日本産業カウ

ンセラー協会で1 働く人々の支援とその輪を広げる活動に従事,

2013年 5月同協会会長職を退任。現在は同協会相談役。

一重かずえ)

現役時代には、この

0

アールで仕事のこと、人間関係などのいやなことを忘れ、いま何メートル?

と数えながら、体の関節の状態を確認し、自分と向き合う貴重な時間であった。少ない時間を効

率的に使おうと二人で黙々と歩き続け、心'身のリフレッシュと明日への活力を養う場でもあった。

このプlル通いのきっかけは、今から十五年前にさかのぼる。当時、私は日本産業カウンセラー

協会の常務理事兼事務局長を一九九六年から務めていた。当時の協会会員は四

000名弱であっ

たが、九四年に労働省(当時)から「産業カウンセラー試験」が技能審査として公的に認められ、

加えてバブル崩壊後の急激な社会変化から「こころの問題」が大きな社会的なうねりとなって表

出してきた頃と重なり、会員の増加が顕著であった(二

O一一二年現在の会員数は二万七

000人)。

当時の産業経済を概観してみると、地価・路線価の下落(九二年初頭以降)に加えて、社会問

題視された有効求人倍率や新卒者の求人率の大幅な低下による「学生の内定取り消し」がされて

いた(九三年以降)。三洋証券・山一証券・北海道拓殖銀行などの破綻や大手金融機関の貸し渋り、

貸しはがしにより中小企業が倒産に追い込まれた。そして業績の悪化した多くの企業は新規採用

を見送った。九一年に八十四万人あった新規採用は、九七年にはコ一十九万人に減少し「就職氷河

期」と称された。新規採川の抑制で過剰人員の削減に踏み切れなかった企業が、大規模な解雇を

行いはじめた。九八年あたりから、リストラを名

Hにした人目の整理が公然と行われ、この年は

失業率が五%を超えるに至った。自殺者も三万人を超え、「こころの問題」に多くの人たちの関

9

心が寄せられていた。

このような社会状況下、私は二十三歳から働いてきた金融機関を定年退職、その.二年前から非

常勤の常務理事を務めていたこともあり、事務局長として日本産業カウンセラー協会の専従役員

として迎えられた。

ハUl

当時の協会はお金も人も事務局体制も十分ではなく、心ある優しい人たちのボランティア精神

に支えられて運営されていた。しかし、産業カウンセラーの公的資格試験の実施とバブル崩壊後

の社会的な変化と相まって、産業カウンセラーの資格取得を目指す勤労者が増大し、急激に会員

数も附加した。

中J

時の協会組織はベテランカウンセラーを中心とした学刊行集川の集まりで、小集川をつくるこ

とで組織を活性化させることを推奨していたため、協会本部は「従たる事務所的存在」ではなく、

産業カウンセラーの学習機関として自立した活動を展開していた。事実、全国各地に川十四の組

織が誕生して活発な独自活動がなされていた。

一方、この動きは組織の活性化に寄与したものの、本部、支部の関係は存在せず、財政管理上

の課題やベテランカウンセラーの権限行使など倫理上の問題も浮上していた。

そこで当時の執行部は、支部化による組織改編で、本部の均針に川り支部の独自性を加味した

活動の推進を要請することだったりこの支部化に山中寸たって、川十川の組織を当初は九文部に集介

することになり、当該組織の合意を取り付けるのに六年の歳月を要した。その後、さらに関東支

部を五分割し、現在の十三支部体制が出来上がった。

さらに、養成講座のカリキュラムの統一や、事務局体制、事務所ゃつくりへの支援など、ガパナ

コン。ブライアンスなどの課題にも着手しはじめた。

ンス、と

はいえ、新しい組織編成や事業展開には必ず反対や抵抗があるのは当然であった。協会内で

も地方でも、これまで頑張ってきた幹部たちにとっては、自身の存在を揺るがす大変革につなが

ることで、理屈ではない感情論が噴出し、その調整に多くの時間を割いた。

私が記憶している一端を披露するが、さまざまな人間ドラマが展開された。本部役員として推

進の小心にいた私円身も、その渦の中に巻き込まれそうになったり、思いがけない支援者に出会っ

たり、喜怒哀楽のなかストレスフルな生活を強いられていた。

ある地域の支部ゃつくり実行委員会では、同年輩の男性から女性の責任者と私を指して「なんで

女三人が威張っているのか」と。この十五年間に男女共同参画の機運が高まっているが、当時は

こんな言葉が堂々と批判として出てくる時代であったのだ。別の組織で支部化要請のため責任者

と話し合っていた折に、「安藤さん、あなたは常務理事かもしれないが、私はこの組織の責任者だ。

どっちが偉いと思うのか」と別室の誰もいないところで詰問された。私はすかさず「私が偉いに

決まっています。私は協会本部の定款に則り総会で選出された役員です。あなたは任意組織の役

11

員ですから」と答えたことを鮮明に覚えている。

多くの地域で支部化について喧々誇々の意見が百出し、その調整に全国各地を訪ね、夜を徹し

て調整にあたったことが昨日のように思い出される。なかでも、難しい地域の女性責任者と最後

の話し合いをした時のことが強烈なストレスとなった。何もなければ親しくできていたのに、支

部化は彼女の地域社会での利害も重なり、厳しい反対の態度を突き付けられた。私は役員として

対応せざるを得ない立場とはいえ、押しつぶされそうだつた。そんなストレスフルな生活は、徐々

に大きく膨らみ、睡眠中に「夢」を何度も見る、早期覚醒となって表れ、私の健康に黄信号の警

鐘が灯された。

多くのストレスを抱え込んでいたそんな時期に、天の恵みのように自宅近くにスポーツセン

ターが建てられた。早速

0

アール通いが始まり、

spAも設置されていることからサウナでいい汗

を流し、お風日で体を癒し、肉体的に疲れて、ぐっすり睡眠をとることを自らに課し、いやな夢を

見ることがなくなった。

日本産業カウンセラー協会の役員を今年二

O一三年五月末に終えたコ在職した二十年間の社会

の激変の中で、働く人々の苦悩の噌大とその支援に全力で取り組んだけ々、たくさんの人たちと

の出会い、多くの課題と向き合い対応することができたと、今はすべての方々に感謝の気持ちを

持ちながら、静かに自分の人生を振り返っている。

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同時に、私の青春・壮年時代を過ごした金融機関の現役時代も職業人生として自己実現できて

いたからこそ、協会で頑張れたのだと思っている。安保闘争、原爆禁止の戦い、職場での男女差

別をなくす運動、子供を産んでも働ける職場ゃつくりに女子職員たちと頑張りぬいた若い二十代・

三十代だった。私円身も、

Afのように育児休職などない中で三人の子供を産み育てながら仕事を

してきた。当時は保育所も学童保育も十分でなく、働き続けるには自らが中心になって施設設置

に向けた運動の輸に入っていかざるを得なかった。「全国働く婦人の中央集会L

や「母親大会」

の出席など、社会に口を向けた活動に参加して、自ら働く条件づくりの活動を行った。職場の女

性の地位向上のために、たくさんの同僚たちと勉強会を重ね、助け合いの輸を広げる努力もした。

一方では職場で男女差別をなくすために頑張っていながら、家庭でも「男女の役割分担」に悩

む日々でもあった。夫は昭和一桁生まれの企業戦士、私が働くことを必ずしもよしとせず、退職

を迫られることもたびたびであった。こんな時、いつも通勤電車の中で自分らしく生きぬいた女

性たちのノンフィクション小説や経験などを読んで勇気をもらった。

私は働くことに意味を見出し、職場生活は大変であっても楽しく、仕事を辞めることは眼中に

なかった。夫に退職を迫られないようにと、いま思い出してみると涙があふれるほど家事万端に

必死に取り組んでいたことが蘇る。

一二十代半ばから同卜代は、人事部調査役として労働安全衛生法に基づく「保健衛生委員会」の

事務局を担当し、健保組合の理事も務め従業員の健康全体の支援を進めるための諸施策に取り組

13

んだ。当時は職場のコンピュータ化が進み、「一頒一日腕症候群」と診断された女子従業員の労災認

定闘争などが顕在化し、健康への機運が高まっていた。そこで職場への健康意識醸成のための指

針づくりや衛生教育などを実施し、労組の協力も得て一定の成果を収めることができた。

この時期、私は自身の専門性を高め支援活動を有効なものにと、社会福祉事業大学の通信教育

を受講、相祉政策やカウンセリングなども学んだ。さらに専門性と技能を習得しようと、休日に

は産業カウンセラー協会の勉強会に通った。

この頃になると子供たちも少しは手がかからなくなり、再学習の機会到来であり、職場でも資

格取得に励む人たちも多くなり、昇進、昇格などの男女差別も縮まっていった。

職場内での私'H身の業務も市民権を得て、従業

Hのための健康づくり講座や職場巡州、例人面

談、産業医との連携などを通して「職場から自殺者を山さないL

をスローガンに、多彩なプログ

ラムを提案し、一人ひとりの従業員と家族の支援に力を尽くした。

常に現場の意見に耳を傾け、現場目線で問題点を抽出し、「保健衛生委員会」の委員である労

組からの支援もあって、当初の頚肩腕症候群の対応から健康全般を論議し、メンタルヘルス対策

など幅広い活動につなげることができた。

私は産業カウンセリングの学習の中から

'H身と向き合い、日己の限界を知り、多くの仲間との

交流に癒され、生きていくことが楽になっていくことが実感できたと必死に生きてきた頃を振り

14

返っている。今は夫を見送り、子供たちもそれぞれに社会人として人生を誠実に生きている。

これからは、時間に迫われることなく小説を読み、映州も日比たい。プールでのウォ

lキングか

ら泳、ぎもマスターしたい。ヨガなどにも挑戦し、健康づくりに励んでいきたい。

スポーツセンターで知り合った地域の仲間、同じ団地の仲良しの友人たちと交流を深め、カウ

ンセリングで培った専門性を生かした、ボランティア活動を、東北の被災者支援も含めて時間の許

す範囲で実践したい。

今まで時間に制約され果たせなかった、古い友人、兄弟姉妹、子供たち家族との時間を大切に

過ごしたい。

多くの方たちのご支援とご協力に、心からの「ありがとう」をお伝えし、

れた静かな時間のなかで感謝の日々を送っていきたい。

ストレスから解放さ

15

タカヨ教授の

若い(和解)

φ

工イラングはつらいよ。

へのポジティブロード

16

-老いの予感

タカヨ女子が小学三年生の夏、

当時三歳のかわいい盛りの末弟

が赤痢で

一晩で亡くなった。夕

飯で食べたカニが原因というこ

とで、なぜか弟と父親だけが赤

痢にかかり、体力のない小さな

弟がその日の夜中に病院でひっ

そり息を引き取った。母親は小

さな亡骸を掻き抱き、父親は治

りきっていない弱々しい身体で

'.....1・・・・...・4・・・・⑨-・・@・.....・e

孝代たかよ)

井上(いのうえ

明治学院大学名誉教授, MCC (マ クロ・カ ウンセ リ

ング&コンサルティングセンター)代表。臨床心理士。

なだらかな山並みと長い海岸線の福岡の自然が原風景。

子ともの頃からの世話好き ・人情話好き。でも まさか

“聴く "をl[i)t業にするとは思いもよらない巡りあわせ。

自分のことも満足に処理できないくせにと煩悩の日々。

最大謀題はいかにして老いるか。願わくば“明日のル

ネサンス 'を夢見て,乾+不!

弟のデスマスクを懸命に描いた。タカヨ女子は自分が代わってあげたかったとしきりに悔やんだ。

その年の秋、今度は祖母がお風呂で心臓麻痩で急逝し、その年が明けてすぐ、あとを追うよう

に祖父が急性肺炎で亡くなった。タカヨ女子は寒い夜一緒に寝ながら温めてくれた祖母の身体が

冷たくなってしまったことにショックを感じた。弟に続く祖父母の死は、タカ

ヨ女子に人が老い

ること、急に亡くなってしまうことへの予感と怖れを強く抱かせることとなった。

そのためかどうか、タカヨ女子は古代遺跡の本と宇宙銀河系の本が大好きになった。遺跡の本

を読んでいる時は、人類の生命の営みが連綿と続くことを信じられたし、宇宙の本を読んでいる

時は、人知では測りがたい大いなるものへの憧れやロマンを感じられた。

-老いの備え

大学生となったタカヨ姉は心理学を専攻した。小さい時からの老いの予感の体験から、

生涯発

達心理学の分野に親しみを持ったからである。ピアジェやエリクソンらの発達理論に目が聞かさ

れる思いを抱きはじめた頃、今度はまた心理学科で最も親しく共に心理学を学びあっていた親友

が、持病の哨息薬の副作用で急逝した。まだ二十歳の早すぎる別れに、弔辞のことばが見つから

なかった。

17

忘れかけていた老いの予感を思い出したタカヨ姉は、青年期早々にして老いへの心準備を思い

おしゃれやデ1

トといった若い女性らしい興味よりは、自分が将来どのよう

どのようにキャリアを積んでいけば、エリクソンの八番目の老年期の発達課題

である「

25♀05(英知)」の段階にたどり着けるのかと考えを巡らせた。

友人たちが連れ立ってショッピングに出かけるような土曜日の午後に、精神病院の実習にせっ

せと出かけるタカヨ姉は、「女の人は若さ(かわいらしさ)だけで通用しなくなる日が必ずくるから、

今のうちに頑張っておかなくちゃ」と可愛げのないことを言い、周囲をうんざりさせた。

適齢期になり周囲から、「早くお嫁に行かないと大変なことになっちゃうよ」としきりに声掛

けを受けはじめた頃、タカヨ姉は不思議な体験をした。駅の待合室で中年女性に「私の話を聞い

てくれませんか?」と頼まれたのである。警戒しながらも耳を傾けると、その女性は悲惨な生い

立ちで現在も婚家でつらい日々を送っている、というような内容であった。別に、だからお金を

貸してもらいたいとかいうのではなく、

「聴いてくれてありがとう。あなたの目はきっと人の話

を聴いてくれる目だと思ったから」とお礼を言って立ち去った。当時、「カウンセリング」とい

う言葉も

一般的ではなかった頃のことである。

立つこととなった。

な職業について、

-老いの実感

駅の待合室での不思議な体験があったためか、

タカヨ女は大学院修了後、

いろいろな現場で心

18

珂士として活動することとなった。同時に遅まきながらの結姉、二子を持て、それまでの喪失体

験とは異なる、育ち行くものへの慈しみを感じながら三卜代の忙しい毎

Hを過ごした。

中年期四十代への坂は、不器用ながら必死で自動車免許の取得にチャレンジすることで乗り越

えた。五卜代に向かう頃、またしても両親が問を置かず共に心筋艇塞で急逝した。タカヨ女ほと

ほと身内の突然の死に遭遇する運命なのだと思い知った。お別れに最後に触れた父親の頬は硬く、

ちりめんじわ

そっと握った母親の手には、いつの間にか細かな縮制雛が刻まれていた。

教育現場、産業現場、医療現場、社会福祉現場、調停現場など、さまざまな人の抱くコンフリ

クトの内実に専門的に関わっていく心理士としての仕事は、確実にタカヨ女に人の生きていく

ことに伴うある種の諦観を抱かせた。そんな時、「諦める」は仏教では「明らかになる」に通ず、

と知り、生老病死を人の常とする思想にほっと救われる気がした。

そんな折、タカヨ女は自治体の主催する中国北京市の女性実業家への表敬訪問団長となって訪

中した。各訪問先での行事に先立つ

FH己紹介では、小同側のメンバーは全員が「私は誰々です。

今何歳です」と自分の年齢を正確に一言うのに驚かされた。また、どこに行っても「あなたは何歳

ですか?」と尋ねられ、私たち什本人女性には稀な経験なので、全員符えに戸惑った。聞けば、

中国では歳をとることは自然なことであり、尊いことでもある。相手の年齢を尋ねるのは、自分

の一青葉使いなどの態度で失礼があってはならないからだという。その時、タカヨ女は自分が「老

いHCE」、「CEH古い、汚い」というネガティブなイメージに固執し過、ぎていたことに、はつ

19

と気付かされる思いがした。

しかし、タカヨ女は確実にもはや

ロぬさではなく、夜の電車の窓に映る自分の容姿を見るにつけ、

はるか昔から抱いてきた

ρ

老いの予感μ

は明らかに

μ

老いの実感H

となりつつあった。理屈で理

20

解していたつもりでも、

実際に老いていくことの不安やコンフリクトにたじろいだ。

-老いとの和解

一愛犬ジョイの旅立ち

老いを実感しはじめた頃、タカヨ女史は遅まきながら大学教員となり、改めて臨床実践と教育・

研究の両方で頑張ってい

こうと心に決めた。そういうタカヨ女史の五十代から六十代にかけては、

J心友H

ジョイと過ごした

u友情H

の期間でもあった。

ジョイは小型のパピヨン(雄犬)で、

血統書に書かれた

「原名

一デインゴ

・オブ

・サカモト

キヤツス

ルL

(

福岡出身)から格別な強い縁を感じた。子犬の頃は所構わずおしつこをするので

N

便

・子ジョイ(弁天小僧アとあだ名された。ドライブ大好き犬で、運転するタカヨ女史の肩先

にひょいと飛び乗っては飽かず動く外の景色に見入った。H

お金ρ

も大好きで、財布の何枚かあ

るお札のなかから確実に高額紙幣を抜き口にくわえ、取り戻そうとする私たちから走り逃げ回っ

ては、

一緒にμ

遊びμ

たが

った。「ゴキブリ

!」と叫ぶと、

家中の隅々をくまなく鼻先でくんく

んと点検して回る姿に何度も爆笑した。鍵っ子の次女を尻尾を振って

「おかえり!」と迎え、就

職活動に苦戦する長女の涙をぺろぺろ祇めて慰めた。仕事がはかどらず夜遅くまでパソコンに向

かうタカヨ女史の視界の片隅には、いつも

H

大丈夫だよH

という目で見つめるジョイの姿があった。

そんなジョイも十三歳になった頃から、ふと見ると自慢の黒・茶・ページュのトリプルカラー

の毛並みに白い毛が交じるようになり、ピンと張っていた背骨にヘルニアの小さなコプが目立つ

ようになった。まるで早送りの映像を見るように、ジョイの生活時間は私たちの何倍かのスピー

ドで過ぎて行った。やんちゃ犬は瞬く聞に老犬になり、十六歳になってからは排世もままならな

いのかか小便・古ジョイH

になり、やがてクッションに寝たきりの状態になった。スポイトで口

に入れるわずかな栄養食と強い生命力で、ジョイは何度も死にかけ、生き返りを繰り返しながら、

ゆっくりゆっくり旅立ちの準備をしているかのようだつた。抱き上げるたびにジョイの身体は軽

くなっていき、やがてふわっと綿のように感じられた頃、ジョイは本当に旅立ってしまった。

急な死ばかりに出会ってきたタカヨ女史にとって、愛する対象が病み、衰えながら力尽きる瞬

間を共に過ごした初めての体験となった。ジョイの走馬灯のような早送りの一生は人間のそれと

重なった。迫遥として生の営みに従うジョイの姿に、老いやがて死に行くことの自然さを受け入

れる、そんな老いとの和解について、生涯ひとことの言葉も発することのなかった犬に教えられ

たのである。

21

-ポジティブ・

エイジングの願い

22

定年退職を迎えたタカヨ教授は、米コ

|ネル大学が七十歳以上の高齢者を対象に行った調査

「宮

32門」に関する新聞記事に大いに感じるものがあった。

日く、

7人生で最も後悔していることは何かH

という問いに対して、驚くほど多かった回答は、

H

無駄に心配しすぎたことH

というものだった。自分ではどうしょうもない問題に関してくよく

よ悩み、多大な時間をさいてしまったというのだ。頭の片すみにしつこく居座る不安や心配事を

追い払うには、隈想や心理療法もいいだろうし、生活に変化を持たせることも効果的だろうが、

名言も大事である。心配ごとを手放し、ほかのあらゆるものが入ってこれるスペースを心につく

りだすための手助けになるかもしれない」。

なるほど、

ダライ

・ラマ十四位もこう言

っているではないか。

「占める問題が解決可能であり、それについてあなたが何かを行動できるのであれば、心配す

る必要はない。問題が解決できないものであるなら、

心配してもしかたがない。なんであれ、

心配から得られるものはない。

タカヨ教授はいたずらに老いへの不安を抱え続けたに違いない。流行語で言えば、「生きるの

はμ

今H

でしょ

!」が足りなすぎた。やっと、こう気づいたタカヨ教授は「アンチ・エイジング」

ならぬ「ポジティブ・エイジング」とも命名できるポジティブな生き方について考察するに至っ

た。

それは例人や社会を繁栄させるような強みや長所を研究する「ポジティ

ブ心理学(七

255℃∞有EC一cmて)」の目指すものである。これは、近年最も注目されている心理

学の一分野で、一九九八年に当時の米国心理学会会長でもあった米ペンシルベニア大学の冨・

セリグマン博上が創設した「よい人生」について科学的に探究し、その実現に向けて心開学的介

入を試みていく学問だ。

セリグマン博士の良い人生を送っている人たちへのインタビュー研究によれば、「幸福感」

(『}告℃

E2目)に三つのタイプがあるという。まず第一に、「愉快な人生」

(125E一一宏)で人生

を愉しむスキルが大切、第二に、「杭極的に関わりのある人生」

(moc♀

gmz胃aE,O)

で川々の

生活で何かが得られることが大事、第三に、「意味ある人生」

(EgロEmE一一一号)で、自分だけに

とどまらず、他方に役立つと信じるサービスをやり遂げる、の二一つの生き庁が身体のみならず梢

神的宅島

'ZEmも実現するという。

そうか、

νポジティブにμ

といっても、なにがなんでもと頑張り過ぎる必要はないのだ。タカ

ヨ教授はぽんと膝を叩いたc

この程度ならやっていけるかもしれない。

タカヨ教授は確信したのだ。毎日の生活をエンジョイし、家族や友人・コミュニティとの繋が

りのなかで、少しでも誰かの役に立ちたい気持ちで日々を過ごしていけるなら、それがきっとさ

さやかでも、いつまでも若いこころを持ち続けられる自分の半せのカタチであるに違いないとけ

定年退職を記念して、タカヨ教授は勤務校の教職員・卒業生の共同開催でパーティを聞いても

ポジティブな生き方、

23

その機会を自分の生前葬とも考えていたタカヨ教授は、駆けつけてくださったこれまで

ご縁のあった多くの方々を目の前にし、感謝の気持ちで胸一杯となった。圧巻は卒業生たちのゴ

スペル「OUL古℃℃可ロミ一回」の大合唱だった。誕生日の

O八月一四日をもじって、「オl・ハッピー

デイズ!」と繰り返し歌ってくれたのは、いつも「井上先生の誕生日は「オl、ハッピイよ」と

読み替えていた卒業生たちが、

J』れからはハッピイに生きてldとの願いを込めてくれたに違

いない。そう思うと、歌声がなんだか長年の

M

頑張らなくっちゃH

の呪縛を解いてくれる、そん

な緊張の緩みと温かさを感じた。

パーティの最後には、よちよち歩きも含めた三人の幼い孫から花束が贈られた。

七十歳を目前にして、やっとタカヨさんはか明日のルネサンスを信じて、乾杯luの心境なの

であった。

らった。

24

うんと走って、

食べて、

-フリlタ1宣言始末

私がフリータl宣言をしたのは、慈恵医大精神

科を経て、七年間勤めていた栃木県精神保健福祉

センター所長を辞めた平成

一四年のことである。

精神医学や精神保健以外のこと、とりわけ絵画に

腰を据えて打ち込みたかったからである。まだ元

気でしっかりしてい

た実母に、「六十歳過ぎてか

ら別のことをするより、

五十歳前に転身すること

に意義がある」という旨を伝えたところ、「それ

はいい決断よ、どうせなら若いうちにやらなきゃ」

と思いのほか喜んでくれたのが懐かしい。その母

は、すっかり認知症が進んでしまったが、九十歳

飲んで

-ー....・

大西(おおにし

r-'一・

τ了

まもる)

ー.... ・ ・ - ・ - ・~... ・ 4畢 ⑥ ・ ・ ⑩ ・

精神料 医。(公社)日本精神

保健福祉連盟常務理事。日

本外来精神医療学会理事長。

本業は精神障害者スポーツ

の振興。生活の糧は職場の

メンタルヘルス?趣味は多

文化問精神医学。最近, 10

キロマラソンで公式記録

49分 15秒をマークし,大

いに気を良くしている。一

方,絵画に打ち込みたいが,

雑用と煩悩に時間を取られ,

慨促たる思いも ある。

25

で療養を続けている。

そうは言っても、実際にはフリータ!と称しつつも医師という資格で、だいぶズルをしている。

いくつかの企業・組織と顧問契約を結び経済基盤が確立できたからである。上司が一人もいない

というのは至極気持ちのいいもので、今に至るまでだらだらと続いている。

それでも、フリ

lタl宣言当時は、周囲からいろいろと言われた。「伺か、特別なことを目論

んでいるのか」「本当の肩書きは何なのか」といった類である。たまたま、以前から委員を務め

ていた日本精神保健福祉連盟から理事の話があり、就任となった。無給であるが、一応の肩書き

がついたので、今でも、必要の際にはこの肩書きを使用している。

その際感じたのは、日本社会における肩書きの問題である。よくある話で、

OO会社の

OO部

長だった人が退職すると肩書きがなくなり困惑するという。もちろん、名刺もまったく使用しな

いか、極端に少なくなるだろう。肩書きを捨てろといえばそれまでだが、サラリーマン諸氏にとっ

ては自己のアイデンティティーに関わる事項で、簡単な問題ではない。落ち着くところに落ち着

くのだろうが、中高年世代の一つの重要テ1マであることは間違いない。

さて、フリlタl生活を始めて十年以上経過するが、この評価はなかなか難しい。ゆっくり、

のんびりする筈で、毎週金曜日は「お絵描きの日」と内心決めていたのだが、半年もしないうち

に形骸化していった。平成十一年度から取り組んでいた精神障害者スポーツ振興が軌道に乗って

きたことと、職場のメンタルヘルスに閲する講演依頼が多くなり、全国を飛び回る羽目になった

26

とくに、

精神障害者スポーツに関しては、

身体障害

・知的障害で実施されていた全

国障害者スポーツ大会に、精神障害者バレーボールが正式競技と認定され、

三障害での全国障害

者スポーツ大会を実現できたのは大きな成果である。

つまり、自由に日程が組めるということは、逆に多少無理な日程でも可能ということに気がつ

いた

のだ。もちろん、さりげなく

一週間ぐらい勝手に休みをとることもあるが、

金曜日どころか

土曜日まで、仕事でつぶれることが多い。このあたりは未熟なところで、まさにルネッサンスす

からである。

る必要性を痛切に感じている。

-走ることへの情熱

ところで、私が唯一誇れることが二十五年以上続けているジョギングである。おかげで、ここ

一O年以上、ズル休みすることがあっても体調不良で休むことは皆無で、体型もほとんど変わら

なし。

もともと運動好きでテニスなどを若い頃からやっていたが、

三十歳を過ぎたころからお腹が出

てくるような気がして(事実、出てきた)、走り出したのである。何回か挫折したが、今では毎

朝二十分から

一時間、休日は一時間三十分近くジョギングをする。地方に出かける時も、国内外

を問わずジョギングシュ

ーズと短パン、

Tシャツは必須である。宿泊ホテルを決める際も、近く

27

に公闘や河川敷があって走りやすいというのが大事な選択基準となる。

原則、雨だろうが何だろうと毎日走る。走らないのは、積雪があって道が凍っている日と、朝

一番に羽田出発で四時起きをしなければいけない時ぐらいである。走れなかった日の午前中はイ

ライラして調子が悪い。

こうなると、健康習慣というよりも、立派な噌癖レベルである。噌癖とは、悪い癖で精神医学

的には立派な病気と位置づけられている。代表的なものとして、アルコール依存、ギャンブル依存、

摂食障害などがあげられるが、確かに思い当たる節は多い。前夜に暴飲暴食した朝などは、本当

は無理しないのがいいのだろうが、カロリーを考えるといつも以上に長く走らないと不安になる。

まさに、過食症の人が自己幅吐するのと同じメカニズムであろう。

事実、ジョギングの魅力の一つは、ある一定時間(二

1三十分頃が多い)を過ぎると、悦惚感

や高揚感が出てくることである。多少のイライラは解消し、忘れていたことを思い出したり新し

いアイデアが浮かぶこともある。とはいえ、多くは買い物を忘れていたとか、誰それにメールし

なければといった程度である。それでも、家に戻るやメモをつけることも少なくない。そのため、

入り口の脇にいつもメモ用紙を用意している。

また、ここ数年は市民マラソン大会に一シーズンに三

1四回参加している。遊びといっても、

正式タイムと順位が出るので、「タイムなんかどうでもいいよ」と言いつつも、大会前はは節制

して練習に励む。スタート直前の緊張感もなかなかのもので、トイレに行ったのにまた行きたく

28

なるという体験は、通常味わえないものである。

そして、マラソン大会の魅力は仲間との触れ合いだ。現在、応援も含めて老若男女

一O人前後

で参加することが多く、終了後は反省会と称して大宴会となるのが通常である。走って苦しい時

も「ビ

1ル、ビール」とつぶやきつつ耐えている。これは私だけの話ではなく、多くの市民ラン

ナーの気持ちだろう。また、最近は若い女性のマラソンブ1ムはなかなかのもので、かわいい

ニフォーム姿も魅力的である。昔は、テ

ニスとスキーをやらないと女の子に口をきいてもらえな

いものだったが、今はジョギングの話題なくしてナンパできない。まあ、単純で分かりゃすいモ

チベ!ションで、マラソン大会終了後の宴会場の選定(焼肉、中華、

トンカツ屋が多いが)には、

なかなか気を使う。

これから、ジョギングを始めようとする人には、

専門屈でのウエアやシューズを、それも高価

なものを推奨したい。発汗性や軽さなど、

一昔前までは考えられないほど品質が向上している。

やはり、形から入るのが一番で、挫折することも少なくなる。何といっても、継続は力であるこ

とを強調したい。

-食べること、飲むこと

私の愉悦の

一つは、美味しいものを食べ、飲むことである。

29

おそらく、

ほとんどの人の楽しみ

であろうが、健康上の理由や経済的な事情などから、それを実現できない人も少なくないc

好みの川題もさることながら、好きな食べ物、飲み物を摂取できること向体がギ一制で健康の証な

のかもしれない。やや言い訳がましい口上がついたが、以下は私の食べ飲み生活の一端である。

私の食習慣は少し偏りがある。小学生の頃から朝食は摂らず、同町一も少なめ(給食は大嫌いだっ

たてそして夕食はどっさり二人前は食べるぐらいの感じである。原則、夜の九時を過ぎたら食

べず、卜時過ぎたら飲まないで

Hrく寝ることを心がけている。したがって、三次会や夜の銀座に

行くことは皆無である。

脂っこいものが大好きで、焼肉、トンカツの類で、生野菜もドンブリ一杯はたいらげる。この

晴好は幾つになっても変わらない。起動するせいもあって、まずはビールを飲み、そのあと食事

をしながら赤ワインを飲むのがほとんどである。若い頃にフランスに三年近く留学したが、「食

事をする時に水を飲むのは、カエルと日本人だけだ」という諺を教わり、この教えだけは今もき

ちんと遵守されている。

ときどき、仕事上で接待されることがある。私の年代からすると、何も希望しないと和食や懐

石料理の類いになる確立が高いので、事前にずうずうしく、ワインが飲めてお肉(ただし、鳥肉

は不可)が美味しく禁煙のところとお願いする。鳥肉が嫌いなのは昔からで、生まれてこのかた

焼き鳥屋に入ったことがない。当然、ケンタッキーブライドチキンにも行ったことがない。

当然、暴飲暴食するとカロリーや肝機能といったところが気になるだろう。私'l身は先述した

つまり、

30

ように運動していることもあって、体重はほとんど気にせず、むしろ筋肉をいかに維持するかに

関心がある。ある本に「筋肉はすぐに衰えるが、賛肉はすぐに付く」という文章があったが、ま

さに至言である。そうは言っても、フォアグラを持ち出すまでもなく、美味しいものはカロリー

が多く、体に思そうなものが少なくない。おそらく、カロリーや脂肪分を気にしつつも、反健康

的な食行動に走るところに快楽が秘められているのだろう。

「最後の晩餐の一品を挙げるとすれば、何にする?」という話題は、宴会などでは大いに盛り

上がる。意外な人が意外な食べ物を挙、げ、その人の隠された一.山をみる思いをすることもある。

ちなみに、私は迷うことなく「カツ井」である。警察で取り調べを受け、刑事からカツ井を箸ら

れたら、無実でも自白してしまうかもしれないc

ところで、日本橋に政財界の要人も訪れる

Mという高級ステーキ屈がある。たまに訪れる

ことがあるが、カウンター越しに屈の主人から「先週いらっしゃった

OO会社の会長さんは、

OOgのステーキをぺロリと召し上がりました」というようなつぶやきがある。おそらく、そ

れを聞いた同年代の会長、社長は無理してでも二

OOgのステーキに挑戦するのだろう。こうな

ると、食を通しての健康局不運動のようなもので、馬鹿らしさと倣慢さが入り混じってくる。で

も、この防のステーキは本当に美味しくてたまらない。

31

-中途半端な絵画修行

32

最後に、絵画修業について触れておきたい。昔から絵を描くのが好きで、小学生の頃からプロ

の画家に師事して勉強す・)していた。ただ、こういう芸事は習うというよりも、要所要所でア

ドバイスを貰うということであろうか。例えば、元来走るの速い素質をもった人が、専門コ

ーチ

の指導によってより進化してアスリートになるのだろう。絵画も同じで、習う感じよりはプロか

らコツを伝授してもらう表現に近いかもしれない。

そのなかで身についたのが、聞の取り方だろうか。どうしても

一枚の固に没頭すると、描き込

みすぎたり、彩をつけすぎたりする。また、時々遠くから離れて眺めるのも大切である。数日、ほっ

たらかしにしておくのも効果的である。そのため、複数の画を同時進行させつつ、立ったり坐っ

たりしながら完成させていくのが私のスタイルである。

私自身は、油絵、水彩画、エッチングなどをやってきたが、油絵、エッチングとも非常に時間

がかかることから、最近では水彩画がほとんどである。旅行や出張する時には、スケッチブック

を持っていくことが多い。ジョギング用品も携帯するので、荷物は増えるばかりである。とはい

え、いまだにフラフラした状況で、精神医学も絵画も中途半端なまま今に至

っている。この文章

を書いてきて、心の中のネジをしっかり巻かなければならないと改めて強く感じている。

今回、心優しい編集者諸氏からの勧めもあって、本書において表紙絵と挿絵の役目を仰せつかっ

ている。厚かましいことだが、ご覧いただければ幸いである。

以上のように、かなり勝手な生き方を続けている私だが、もちろんその背景には多くの人との

出会い、そして支えがあるのは言うまでもない。感謝、感謝:・。

33

お独り様の居場所探し

無為自然のスローライフに向かって

-お独り様になる

お二人様からお独り様にな

ったのは、

六十二歳のとき。それからまる六年、

そんなアラ古希の私にとってのルネッ

サンスは、激変した人生への適応、し

かも

μ

今から先H

とN

外H

に向か

って

輝くのではなく、μ

過去から今H

とか内μ

に向かう輝かない話になる。

お二人様時代は

三十五年。パ

ート

ナーとの出会い

は、旧国鉄に就職直後、

現場実習で長崎の保線区に三か月間赴

34

⑨.....・・@・・・-・e..・⑨......・・・-目下、公的には 3足のわ

らじを履いている。一般

社団法人日本産業カウ ン

セラー協会. ]R東日本安

全研究所?茨城キリスト

教大学:で,いずれも非常

勤の仕事である。大学で

心理学を専攻し旧国鉄

の労働科学研究所でメン

タルヘルスの問題も含め,

働く人の安全確保のため

の組織心理学的研究に携

わり l 国鉄民営分割によっ

て(財)鉄道総合技術研究

所に移 j 定年前に大学:

に移って約 10年教鞭を執る。自称,産業組織臨床心

理学者。ただし ここではそれらとはほとんど無縁の

話をしたい。

)

1U

おむだ

tdた

i度遺(わたなべ

任したときである。彼女が駅前で開いていた喫茶居「あじさい」に、夜間作業に出る前の暇つぶ

しに通っているうちに意気投合してしまった。ただし、趣味や好み、考え方が一致したわけでは

ない。むしろ逆である。私より六年前に生まれ原爆を体験している彼女の生き方、考え方が、大

学出たての頭でっかちな私とあまりに違うことに感動したのである。私から見て彼女の

M

欠点d

と思えることについて、「こうあって欲しい」と期待をかけ、「よかれ」と思って無理強いする。

それらはことごとく反論に遭う。そこで自分のか我H

に気づく。彼女も違いを楽しみ、苛立ち、

自分を知る。その点は似たもの同士であり、不思議と心が休まるのである。一致していたのは、「二

人の人生を大事にしたいので、子供はいらない」であった。二人とも

ρ

普通の大人H

になりきれ

なかったのかもしれない。私が国鉄の研究所に帰任するときに、屈をたたんでついてきてしまった。

そんな彼女が七年前、「高血圧症」で調子を崩した。後で分かったことだが、それは単純な高

血圧症ではなく心筋梗塞によるものであった。当時、文教大学で学科長をしていて多忙であった

私は、彼女が臥せっていても深刻には考えていなかった。虫の報せだろうか、会議後の会食を断っ

て帰宅した二月初めのある日、夕食直後に彼女は心室細動を起こし突然椅子から崩れ落ちた。あ

わてて救急車を呼、び、電話で指示された心肺蘇生法を必死で続けた。しかし救急病院での集中治

療後も意識は戻らず、三か月後に独りで逝ってしまった。

35

-喪失の悲嘆からの

一歩

36

三十五年間のパ

ートナー関係の突然で

一方的な解消は、私にいわゆる悲嘆反応を引き起こし

た。彼女自身が病院嫌いだったこともあるが、調子を崩したときに強引にでも病院に連れていか

なかった後悔、忙しさにかまけて心のうちの対話をしなくなり「あなたは単なる同居人ね」とい

われていた悔い、独り生き残ってしまった、身半分になってしまったという思いに苛まれた。知

人や友人の月並みな

μ

慰めH

やH

励ましH

(

当時はそう思えた)のことばには、怒りさえ覚えた。

一心に響いて嶋咽してしまったことばは、

三十代でエンカウンター・

グループを通じてお近づ

きになった大須賀発蔵先生(仏教思想に基づく独自のカウンセリング論を展開されていた)がおっ

しゃった

「悔しいね」だった。

一番重かったのは、自分の存在の無意味感、何のために生きながらえているのか分からないこ

とであった。彼女にそれだけ精神的にも生活的にも依存していたのであろう。一

緒になった当初

「彼女」を意識して

いたが、

三十年の歳月は、居るのが当たり前にし、

意識からも言動からも

消えていた。しかし、それは無意識の深海に沈澱していたようだ。

その当時は、彼女の介護もあって大学教員の専任を辞していたため社会的なつながりが希薄で、

ますます自分の

M

居場所H

がない思いが強まった。ときどき、教え子たちゃ大学時代の友人、妹

や姪からの気遣いメ

lルが、忘れられていない感をもたらすわずかな救いであった。

日本産業カウンセラー協会の安藤

一重会長(当時)からお声がかかったのはそんな時である。「協

会の産業カウンセリング研究所の活動を再構築したいので、手伝ってほしい」とのお話しであっ

た。安藤会長とは二十年来のお付き合いで、協会のいろいろな仕事に携わらせていただいていた。

ご自身も数年前にお独り様になられていたこともあり、この間の私の事情や心境を、お会いする

たびにただただ聴いてくださった。

お話があった当初は、とにかく新しいこと、前向きなこと、表に立つことに拒否的になってい

たのでお断りしたが、原専務理事(当時)と二人がかりで説得されるうちに、こんな自分でも役

立つこと、存在意味があるらしいことに気づかされ、お引き受けした。その後、どの程度期待に

応えられたかは恒慌たるものがあるが、この産業カウンセリング研究所参与に就けたことが、悲

嘆の負の循環から抜け出す第

一歩であり、しみじみありがたく思う。

-般若心経を唱える

パートナーが逝く二十日ほど前に、私自身も心労から十二指腸に穴が聞き緊急入院した。しか

も救急用のベッドが空いておらず、別の病院に搬送され開腹手術をした。彼女に逢えない入院中

の二週間の心境は筆舌に尽くしがたいが、思いを強くしたのはご寸先は闘しということである。

世の中、森羅万象、常に変化しており、今の安寧は次の瞬間の安寧を保障してくれないことを思

37

い知らされた。

茶道師範をしていた母の影響もあって、茶道とその根本にある禅の考え方には若いころから関

心をもっていた。禅の考えを端的に表した「般若心経」を、まともに学んでみようと思ったのは、

そんな時であった。「般若心経」の初段には「空」という文字が七つ出てくる。「般若心経」の中

心概念である。解説本をあれこれひも解くと、「空」とは何もない

0の状態であるが、数字のー

や2はOが無ければ意味をなさないように、人類や生物、それを培う地球など天地全ての存在の

基盤、宇宙の根本的なエネルギーを意味するという。決して虚しい「空」ではない。そして、そ

れを基盤に存在するものは、絶えず移ろい変化して止まない「諸行無常」の性質をもっ(そうい

えば、物理学ではこの変化こそが「時間」であると聞いたことがある)。パートナーとの別離も

「空」という宇宙の道理であり、自分自身もそのうちこの道理で一つの生命体としては存在しな

くなるが、その構成物やエネルギーは別のものに代わるだけかもしれない。「死」とは「生」とは、

そういうものかもしれない。わけが分からないが、ホッとした。

また、「空」の世界では全てのものは一つでは成り立たず、関係の中でしか存在しえないとす

る「諸法無我」の性質をもっという。仏教の世界観では「苦」をベースに置くが、それも「楽」

があってのことである。彼女あっての私であったが、私あっての彼女だったのかもしれない。彼

女にとっても、苦ばかりではなかったと想う。彼女だけではなく、安藤会長も、教え子も友人も、

仕事の関係者も、私を存在させてくれている。少し楽になった。

38

「般若心経」の初段ではこの根本原理を述べ、中段では「無」

「不」という文字が並び、全てを

一旦否定する。そして終段では「是」の文字が、その否定をも肯定する。世の中、結局そんなも

のかもしれないと妙に安心でき、外出時に歩きながら、電車に乗りながら

一節ずつ暗記していっ

た。今もそれが続き、知らないうちに口ずさんでいる。

-仏像を彫る

自分の存在意味を求めて、もう

一つ始めたことがある。パートナーの供養の意味も込めた仏像

彫刻である。昔から絵を描いたり、版画を彫ることが好きではあったが、パ

ートナーも晩年仏画

を描いており、

日頃から仏様の図像が身近にあったこともある。

一本の角材から仏様を産み出す過程では、視覚、聴覚、触覚、嘆覚を総動員する。木の中に埋

もれる仏様を観、ノミと槌で彫るカッカッという音を聴き、

彫面の肌理の手触りを確かめ、用材

の檎や楠の香りをかぐと心が洗われる。ノミや彫刻刀を当てる角度と力加減によっては、修復不

能な切込みを入れてしまう。常に全体を意識して彫進めないと、実にバランスの悪い像ができて

しまう。手を抜いたところはすぐ分かる自己責任の世界で、

他のことは考えられない無我になれ

る作業である。

仏像教室に京都から通って来る仏師の文嫡先生は、「仏像はその人が本当に彫りたいもんを彫

39

りたいように彫るもんや。彫りたい気持ちが肝心なんや」が信条で、利休の「その道に入らんと

思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけり」を思い起こさせる。最初だけノミや彫刻万の基本的な扱

い方(怪我をしないためもある)、仏像の種類(如来、菩薩、明王)、形相(頭髪、白墓、三道(首

にある三本の撤)、衣の巻き方など)のきまりごと、人体の構造(耳の位置は頭の側面をタテに

四等分したとき顔から三番目に位置すること)などを話してくれる。その後は、手取り足取りは

教えず、生徒が自分の彫りたい仏様を彫っているところに回ってきて、生徒から問われたり迷つ

しんらっ

ているのを感知すると、辛諌なw

つぶやきH

とともに、自ら万をふるってくれる。私が浬繋仏を彫っ

ているとき、「このプッダはシゴコウチョクゃな」と言いながら、仏師が万を入れると、あら不

思議、硬直が取れた。そういう時は必死に仏師の刀捌きを見つめて盗む。たま

1に「うん、よう

なった」と言われると無性にうれしく、褒められることがこんなに快いことだったのかと今更な

がらに思った。大袈裟に言えば、「自分は生きていてもいいんだ」という思いを強めてくれた。

その教室の生徒は一一

O名ほどで男女半々、その動機や経歴は千差万別であり、利害関係は全く

ない。彫りながら、仏師も含め、お互いにそれとなく自分を語り、耳を傾けたりしているが、深

くかかわることはない。茶道でいう「淡交」である。実は、

3・Hの大震災当日も教室の最中で

あった。仏師は京都に帰れず生徒の大半と教室で一夜を語り明かした。

そんな、人との淡い交わりは、何も飾らず卑下もせず心を素直にしてくれる。何よりも、地蔵

菩薩、泥繋仏、大日如来、不動明王、そして今は百済観汗、その時々にお会いしたい仏様に自身

40

の手でお出まし願うことによって自身の存在意味を確かめて

いる。

-無為自然から断・捨・離ヘ

岡倉覚三

(天心)

の『茶の本』を読むと、茶道は禅の修行の一つであり、禅の大元には老子の

「道」の思想があるという。その

「道」は

「空」の概念の元になったもので、

一切合切を包括し、

ありとあらゆる可能性を含み持つ「無」の状態であり、それがこの宇宙の全てのエネル、ギ1源と

タオ

され、その

「道し

を感得することが人間の本来の生き方であるとされる。それには、

人聞が成長

するに従って身に着けた、生きることとは直接関係のない欲望(達成、顕示、嫉妬、学識、知識)

から離れ、捨てさり、必要以上の意図や作為を働かせない「無為」で、自ずから然りのあるがま

まの状態「自然」になる必要があるという。

「無為自然」に徹することは、人生をより楽に生きるための知恵であろうが、凡人の私には極

めて困難なことに思える。ただ、その具体的な手段の

一つは、やましたひでこの提唱する「断捨離」

だと思った。それは、単なる片づけ術を超えて、

「入ってくる要らないモノを断つ」「家にはびこ

るガラクタを捨てる」、その結果「モノへの執着から離れ、ゆとりのある

ρ

自在H

の空間にいる私」

にたどりつくという。エネルギー消費の少ないスローライフを送ることである。まずはそこから

始めてみようと思う。その程度の意図と欲は、

老子先生も認めてくれよう。

41

忘れること、

夢みること

-忘れることはお恵み|ある

神父様の教え|

四半世紀以上前になりますが、私は大

学院で

「老年期の生き方と価値に関する

心理学的研究」なるテ

lマに取り組み、

日々奮闘していました。「死」や

「遺さ

れた者の立ち直り」の研究をしたいと大

学院に進みましたが、学部では化学を専

攻していた当時の私が、

二年間でこのよ

うに大きなテーマの論文を仕上げること

は容易ではありませんでした。論文指導

を受けるなかで、死に近い方々という観

• ,................ ..・⑩・・・ー⑨・・4島⑨。.....・ー

42

寺沢英理子(てらさわ えりこ)

臨床心理士。札幌学院大学

人文学部教授。|臨床をしな

がら,言語的表現と非言語

的表現の橋渡し機能を研究

中。毎週東京と 札幌を往復

する生活を続けて 6年目に

なるが, しっぽとおひげの

ある子ども たち (3匹の猫

パコ, トーニ ヨ, ミモザ)

がグ レないか心配がつ きな

い。良かっ たこ とは。]AL

のダ イヤモンド会員になっ

たので,優先搭釆や空席待

ちの優先権が与えられたこ

とくらいである。せいぜい

空の上で素敵なESLをみよう

と思う 。

点から老年期へと焦点をしぼりました。自分の大伯父や友人の祖父母といった知り合いの方から

始め、研究の意同に賛同してくれた見ず知らずの方々から||いえいえ、今川山、っと、若い者がな

にやら一所懸命にやっているようだから、ちょっと話を聞かせてやろうかと思ってくださった方

が多かったようです||たくさんのお話を伺いました。そこで、長く生きてこられて、話れること、

語りたいことがたくさんあることと同時に、決して語れないこともたくさんあることに気づきま

した。語れないことの一つは、戦争にまつわることのようでした。単に戦争に行ったとか、戦争

から逃げたとか、そんな単純なことではないように感じました。もちろん、語れないことを伺う

ことはありませんでしたが、墓場まで持って行かなければならないこと、あるいは持って行こう

と決意することがある、そこに人生というものの重さと決意を感じたのを覚えていますコ

そのような時、ある神父様が主日のミサの説教で「ボケる」ということの恵みについて語られ

ました。「お年寄りたちはボケるのは嫌だとおっしゃいますが、齢を重ねて少しぼんやりするこ

とができるのは、時に神様からの大きなお恵みです」という内容でした。私も将来自分のことを

分からなくなるのは怖いなと思っていましたので、この言葉は新鮮に響きました。そして、語れ

ないものを持っている方々との出会いを思い起こし、こういうことを忘れることができれば、ご

本人は少しだけ楽になるかもしれないと思ったりしました。とはいえ、忘れたくないことまで忘

れてしまうかもしれないのは、やはり恐怖かもしれません。それでも、アルツハイマ

l病などに

よる深刻な状況を別にすれば、自然にぼんやりとなって人生の重たいものを肩から降ろしていけ

43

ることは悪いことではないと思います。

さて、拙い研究から得られた知見の一つは、自分が生きてきた生活空間である家や家族の思い

出に繋がる品物を所有し続けている人の方が、精神的にも元気なことでした。これは重要な発見

でした。一時「断捨離」なるものが流行りましたが、私の得た知見から言うとあまりお勧めでき

ません。私の母も、あのブ

lムの時に、「いろいろ捨てなくては、整理しなくては」と言い出し

たので、私は「なにもあわてて捨てなくていいんじゃない、後で私たちがしてあげるわよ」とブ

レーキをかけました。

思い出の品々を残しておくことは、一見すると「忘れることもお恵み」に反するように思われ

るかもしれませんが、実は、いつでも思い出したいときに思い出す手がかりが身近にあると、安

心して忘れることができるのです。忘れたことに不安を感じるのではなく、忘れてしまうのでは

ないかということに強い不安を覚えるものです。安心して忘れるための仕掛けも大切ですが、あ

まり強調されていないようです。どうしても他人に見られたくないものだけは自分で処分し、あ

とはできるだけたくさんのものを周りに留め置きながら生きられるゆとりがあれば、幸せだと思

います。都会などではなかなか大変ですが、お恵みと感じられる程度に緩やかにぼんやりとして

いくためにも、思い出の品々は大切にしたいものです。

44

-無意識と心の働き

無意識は、精神分析の創始者であるフロイトによって明らかにされました。フロイトは心的装

置の

一つとして提唱した局所論のなかで、意識

・前意識

・無意識という三つの領域を考えました。

人間の心の中には、本人にも気づかれない無意識領域が存在し、そこには怒りや罪悪感などの不

快な感情を伴った観念や記憶、またそのままの形では充足させるわけにいかない願望が抑圧され

て留め置かれています。

心には自分の心を安定させる様々な働きがありますが、抑圧もその

一つです。こうして無意識

に留め置かれたたくさんのものは、意識の中からは消えていきます。昨今大きな問題となって

いる虐待にまつわる現象として、被虐待児が虐待時の記憶をなくすことが広く知られていますが、

これは抑圧ではなく解離とよばれている現象です。後々引き起こされる問題はあるとしても、解

離にも

一時的に心の安定をもたらす効用はあります。

老いも若きも抑圧などの心の働きに助けられ、いろいろなことを忘れていきます。例えば、人

の名前が思い出せない時も、年齢的に脳内のシナプスの電気信号の流れが鈍くなっているかもし

れませんが、心の奥深くで抵抗を覚える相手である場合にも名前を思い出すことができなくなる

のです。記憶保持や想起の問題とは別に、私たちには自分の心が波立つようなことは忘れる自己

防衛のすばらしいメカニズムが内在しているのです。

45

私たちは、自分自身の連続性に関することは保持したまま、心の安定という観点からさまざま

なことを忘れながら健康を保っているのです。その際の忘れられたもろもろの保存場所が、無意

識ということになります。

46

また、無意識には今の生活や情緒の安定を脅かすような願望がしまわれていることが常です。

現実生活のなかで、それを意識することは難しいのですが、時折、夢のなかで願望や生きる方向

性が示唆されることがあります。年齢を重ねたり現実の状況が変わったりして、自分自身の願望

に気づいても自分の心が波立たなくなっている、今ならその願望を叶えられるかもしれないとい

う時には、無意識の扉は緩やかに聞かれて、安全な夢という形で姿を剖すようです。このような

無意誠に絡む心の働きも、人生における活性剤となることでしょう。

私にも、夢に支えられ励まされて成果を出した体験があります。四十代後半になって博士論文

を執筆し始めた時です。臨床において治療技法として用いてきた言語的方法と非言語的方法を統

合する研究が行き詰った時、結婚式の夢を見ました。異質なものが一つになる象徴としての夢だっ

たのでしょう。私は、「論文は書ける!」と思いました。夢の意味をいろいろ考えたわけではあ

りませんが、自分のなかから勇気がわいてくる体験でした。論文執筆中は、本当にたくさんの夢

を見ました。執筆も終盤に入って再び行き詰りを感じた時、水面から陽が差し込む明るい水中で

イルカの背に乗っていた白クマがイルカの背を離れて、それぞれがゆったりと泳いでいる夢を見

ました。朝目覚めて、再び「書ける!」と思いました。この夢の解釈もいろいろあると思います

が、お読みいただいている皆様、

それぞれに連想を楽しんでいただければ幸いです。

-忘れること、

夢みること

本当に大切なことは、何度も何度も'無意識に押し込められながらも意識に上ってくるのでしょ

う。時には夢という形で気づかせてくれますし、時には意識する前に無意識に動かされて行動し

てしまうこともあります。日々をこなしていくことに追われている時には、学校や職場に行きた

くないという思いを抑圧した結果は、電車を乗り過ごしたり会議の時間を間違えたりという形で

体験するくらいがせいぜいだと思います。

日常の雑事から解放された休暇の時や生活を変えようとしている時に、とりあえず抑圧し無意

識にしまっておいた自分の願望や思いが、「お忘れではありませんか?」と立ち現われてくるこ

とがあります。現実適応に過剰なまでのエネルギーを割いてしまった結果、忘れ去られた本来の

自分の思いで無意識の領域がパンパンになっている様子が連想されます。

還暦や定年もライフステージの大切な節目と捉えるならば、それまでの重荷や腹立ちなどを無

意識にしまって、逆に無意識に長年放置してきた自分の願望や欲望を引っ張り出して、その実現

に向けて検討を始めてもよいでしょう。この時には、睡眠中の夢から、これからの人生の夢へと

現実味を帯びたものへ変わってゆきます。これが世間でよく言われる、

OOの手習いなる現象を

47

生み出す原動力なのではないかと思います。

無意識は忘れたいこと、忘れていいことを吸収してくれる一方で、大切な思いや夢を大切に守

り保存しておいてくれます。文字通り夢に現れ、そして人生の夢になり、辛い思い山は忘れてい

けるとしたら、人生の節目を迎えるたびに前途は明るいものとなるでしょう。

話をはじめに戻すと、思い出の品々を置いておくスペース(一般的には我が家と呼ばれる場所)

と無意識は似ていることに気がつかれるでしょう。抑圧などして無意識にしまったものは、決し

て無くなったわけではないのです。本当に必要なものは必要な時に意識に上ってくる仕掛けがあ

るので、安心して必要のない時に忘れていることができるのです。円分れ'身や家肢の思い出の品々

は、必要のない人にとってはガラクタでも、思い出を置いておくスペース(我が家)にしっかり

と留め置いて大切にしておきましょう。忘れることができる機能を十分に働かせるために、忘れ

るものを間め置くスペースの確保にも心を砕きたいものです。

48

高齢者の鞄心理学

• 「はじめに」

私は退職後に書く本を四冊、密かに

決めていました。まず『電車心理学(別

名一正しい電車の乗り方)』、二冊目が

『出身県別

・体格と性格分類』でした。

その次は『新ストレス解消法

一大阪の

すすめ(別名一大阪学)』、そして最後

に書こうと思っていたのが『鞄心理学』

でした。『電車心理学』は私の考えて

いた内容とは多少違いましたが、数年

前に若い人が似た題名で出版し、ベス

トセラーになりました。おまけに何と

...・*..・・⑨・・・@・-・ー・・..・・..

和彦かずひと)

中山(なかやま

精神科医(東京慈恵会医科大学精神医学講座教授)。専門

は精神薬理学,女性精神医学, 森田療法。最近は精神医学史

精神病蹟学にはまっ ている。趣味は男声合唱。合唱好き は

普通で、はなく自ら合唱団を立ち上げて指導している。エア

ロピク スも得意。方向音痴で人生の方向を見失いがち。

49

英訳本まで出て話題になりました。『出身県別:・』は似たタイトルのテレビ番組が現在も放映中

です。そして『大阪のすすめ』にいたっては、名古屋の大学の先生が『大阪学』として上梓しま

50

した。

そんなとき私の母から、「そのうち鞄心理学も誰かに先を越されるよ」と進言されました。私

は退職にはまだ時間がありましたが、六十歳の還暦祝いの引き出物にしようかと思い執筆を決め

ました。

借越ですが、予想通りの多少なりとも話題性のある本として注目されました。しかし売れ行き

はたいしたことがなく、十分な評価を得られませんでした。

そこで今回、リベンジとして「高齢者の鞄心理学」を新たに提唱したいと思った次第です。

-どうしても知っておきたい鞄心理学の基礎

-力パン屋さんは蜜の昧?

カバン屋はできるだけ素通りするようにしています。入ってしまうと一巻の終わり。何時間で

も平気で品定めです。好きとはいえ、疲れきるまで自分に合うカバンを探してしまいます。でも

自分に見合ったカバンはないのです。そんなことわか

っているのに探すのです。ある時ロサンゼ

ルスのカバン屈に友達と行ったときのことです。外で待っていた友人は、あまりにも長時間だっ

たため日射病になりました。

-鞄は自我ケースフ

カバンは自分の

「こころ」の入れ物です。「こころ」は裸では「こころもとない」のです。「こ

ころ」を自我ともいいます。私は以前よりカバンを「自我ケlス」とよんでいます。

自我には境界があります。この境界線がカバンの素材に当たります。おいおい説明しますが、

この自我境界が大事なのです。「自我ケ1ス」であるカバンのかたち、これが「こころのかたち」

を表しています。

あなたもカバンを購入しようとするとき、まずその

「かたち」をみるでしょう。多くの場合、

まず目に留まったカバンの「かたち」を見ます。それが好きかどうか、また自分にフィットする

かどうかを考えて、購入するかどうか決めます。だからあなたの選んだ「かばんのかたちL

から、

持つひとの

「こころの調子」が読み取れるのです。

カバンの中身はどうでしょう。中身は自我の

一部ということになります。その理由を説明しま

す。私たちの自我は、過剰で無理な目標、仕事、役割などによる心理的負荷がかかると、それに

対応しようとして肥大化します。そしてもともとの自我のスペ

ースでは入りきらず、あふれ出し

ます。それをカバンの中に入れるのです。またいろんな荷物が増えればまた、カバン自体(ここ

ろのかたち)も変わってきます。こころの投影は、中身を含めてカバンそのものに現れます。カ

51

パンは投影されたそのひとの「こころ」を表しているのです。

52

-高齢者の鞄心理学

-リュック型バッグ

これはもともとは男性の持ち物でした。しかし最近では高齢の女性も、ほっこりとしよってい

ます。これは両手が使えますので、安全性が高いからでしょう。しかしもともと両手が使える合

理的なリュックは「戦い」に適しています。両手を自由にしているのは

「戦いのポ

lズ」です。

逆に両手にカバンを持つ人ははじめから戦いを放棄しているひとです。

若い人と違って、高齢者では外界の環境と戦わずして前に進めません。ですから理にかなって

いるともいえます。しかし、いつもこのようなバッグを持っているひとは、やはり十分に環境に

適応できていないと思われます。孤立しているかもしれません。それはあまりにも用心深くなり

すぎて、自分の行動パターンに独自の段取りを持っているからです。協調性すら持てなくなるこ

ともあります。

ポーチ型も同じような意味を持ちますが、もともとの性格が戦いに消極的なタイプだと思われ

ます。

-複数のバッグを持つひと

女性の洋服は、ポケットが少ないか、ないという特徴があります(ちなみに男性の三つ揃い

のス1ツは十七か所のポケ

ットがあります)。ですから、荷物をバッグに入れる必要があります。

その意味では、必ずしもストレートに心理が投影しているとは言えません。しかし両手をふさぐ

カバンを持っていると、どうしても戦うことはできません。女性はもともと戦いに対しては消極

的ですが、複数のバッグを持つということはやはり戦いを放棄しているとみなします。またその

中身はというと、盗まれでも致命的なものは入っていません。核心からはほど遠い、肥大化した

自我があふれ出しているのです。その現状に圧倒されながら戦うこともできず迷い道にいるので

す。私はこのようなカバンを「迷いのバッグ」と呼んでいます。重症になると認知症の初期、軽

症うつ病などを疑います。

-キャリバッグ

最近は年齢を問わず、海外旅行でもないのにゴロゴ

ロ引

っぱっているひとが多くなりました。

このタイプは最も等身大の自我が投影されています。

コンパクトに必需品を収めて移動します。

若い人では別居してい

るか単身赴任、または何かの事情で

一人で生活しているサラリーマンです。

高齢者がこれを持っていると、どこかの避難所に向かっているように見えますので要注意です。

いつでも逃げられます。だから時々大胆にもなります。自分中心の頑固な世界に生きています。

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-子袋入りバッグ

大事なものを小分けして大きなカバンに入れるひと、特に女性ですがこれも年齢を超えて多く

見かけます。もともと子袋付きのカバンも売られています。しかし、このような鞄は不安が強い

状態を示しています。役割が多すぎて混乱もしています。高齢者では、自生的な役割意識が強く

なることがあります。それは与えられているわけではないのですが、予備能力が低下して自ら言

わば強迫的に目標を立てていきます。その優先順位がわからなくなった時、核分裂が起きるよう

にカバンのなかに子袋バッグが多数発生するのです。

-軽い素材で大きなバッグ

カバンの素材は自我境界の強さ、明確さを意味します。薄くて軽い素材のカバンは自我境界が

不鮮明になっていることを示します。思春期は自我の形成、発達のために大いに心理的動揺があ

る時期ですが、

高齢になってきたときもう

一度自我の強化が必要となります。それは今までの生

活から脱皮して、新たな自我同

一性が求められるからです。そのようなときの心理は、

不完全な

防衛反応として、軽くて大きなバッグを持って対処しようとしているのです。危険な時期ですが、

誰もが通る再自我形成時期です。それを超えるとだんだんと荷物が少なくなります。度が過ぎる

と認知症も疑います。

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-最後の鞄、

バッグ、

そしてその意味は

-3つの力パン、

バッグ

ろ-「J

鞄心理学を早く出版するように進言してくれた母は、今は胃痩につながれています。胃痩の根

元には、経管栄養の入ったパックがあります。私にはそれは携帯型のバッグ、鞄に見えます。最

後の鞄です。母の場合、経口食可能な時期に十二指腸通過障害を起こし、救急対策として一時的

に胃痩の形成をしたのです。しかし通過障害が改善せず、回目痩を閉じることができませんでし

た。もともと高齢者の延命治療としてではありませんでした。でも特別な身体疾患もなかったの

で、母にはどんなことをしても生き延びて貰いたいと思いました。私の友人の話ですが、百歳近

いお父さんの治療について「二十歳の人と同じ治療をしてください」と主治医に頼んだそうです。

私も同じ思いです。ここでは胃痩の是非を問うものではありません。私の素直な正直な気持ちを

述べたのです。

最後のカバンは、経管栄養バッグのほかにもう二つありました。点滴バッグと尿バッグです。

バッグはもともと人が自主的に持つ物です。でもこの三つの最後のバッグは人が持たされている

バッグです。

母はいつも口を大きく開けて呼吸しています。ですから口の中は乾燥し粘膜が剥がれています。

三つのカバンがからだの乾燥を癒そうとしています。私が

「口を閉めて」というと口を閉めます。

55

私の一言うことが理解できるのです。こんなことで意識レベルを確認しているのです。

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-そしてその意味

-親は最後まで子供を教育する

母がこのような状態にならなければできなかった事が、たくさんあります。母は三つのカバン

を背負って、苦しそうに自立の重要性を、再度私に教えているのです。自分の力で生さることの

意味です。ひとの力を借りなければ何もできない今の母は、

自分の身を通してその苦しみを子供

に見せているのです。この歳になって本当の自立の意味を知りました。最後の母からの教育です。

三つのカバンが大きく見えます。

-スキンシップと本音の会話

母は左手の握力が強く残っています。ですからそばにいるときは左手をよくつなぎます。

帰る時なかなか外してくれないのがつらいのですが、うわベだけ健康であれば、この歳でこん

なに母の手を握ることはなかったでしょう。また顔をなでたりもします。抱きかかえもします。

そんな母と

一方的に私は自分の思

いを話します。本音を話します。「もう

一度お母さんのカを貸

してほしい。まだ人生の手ごたえを感じていないのです(生きててほしいのです)。」

最後の鞄は経管栄養バッグ、最後のカバンは点滴バッグ、最後のバッグは尿バッグ。

この三つの鞄、カバン、バッグから「命の水滴」が、頬にかかる涙のようにゆっくりと、静か

に落ちています。

57

おっかけの実存哲学

ファンは執念深いか

-おっかけとは

おっかけとは、熱狂的なファンが自分の

好きな有名人

(アイドル

・俳優などの芸能

人、スポーツ選手、アーティストなど)の

スケジ

ュールに合わせ、

移動先まで追

って

いくこと、また、そのような熱狂的なフア

ンのこと、好きなアーティストのコンサー

トツアーに全てついてまわるフ

ァンのこと、

などと解説されているようだ。

ちなみに、私は「おっかけ」と思われて

いる。

小田和正さんのコ

ンサートがあると、

58

. .. ...~・ @ ・ ⑨ ・ ・ 9⑩ ・ - ・ ー@ ・ @・ - ・

産業カウンセラー協会会員。

産業カウンセラー。キャリア・

コンサルタント。カウンセ リ

ングを学んでよかったこ と

は, i過去 と他人は変えら

れない。変えられるのは自

分と将来であるjことを再

認i乱したことである。パー

ルズのゲシュタルトの祈りを

読んだときには 1 気持ちが

すっと楽になった。好きな

言葉は f酒i西落落J。好きな

場所は蜘到底。木造りの落

ち着いた空間で瑚排を楽し

んで気分転換をはかりなが

ら「ワーク」と 「ライフ」の充実をはかりたいと思っている。

良子よしこ)

平野(ひらの

東京だけでなく他の道府県の公演にも出かけているから、というのがその理由らしい。この程度

は「おっかけ」ではないと思うものの、周囲の人に聞くと普通は「そんなことはしない」らしい。

-おっかけをしていた中高の頃

昭和五十二年。私は中学生だった。ある日、校舎の二階廊下の窓に人が集まって騒いでいた。当時、

広島で

一番ハイクラスなホテルに、来日中のベイシティ

iローラーズが滞在していて、その姿が

廊下の窓から見えたという。先生が来て「何を騒いでいるんですか。教室に戻りなさい」

一喝

し、廊下は静かになった。私も後で外を見てみた。何も見えなかったが、そこに有名人がいると

思うと、なんとなくワクワクする気持ちがした。

そして一年後。私は「松山千春さんに会いたくて」そのホテルのロビーにいた。と書くと、「非

常識な行動」と呆れられるだろう。今は私もそう思うが、当時は

「会いたい」という気持ちが強

かった。

他にも同じ目的と思しきファンの人がいた。あきらかに場違いな私たちは、ホテルの人

に「ここには(松山千春さんは)いないから、帰りなさい」と軽く諭され、ロビーから追いださ

れた。しかし、

「絶対ここにいるはず」という思い込みがあった。なぜなら、当時市内で

一番ハ

イクラスなホテルだったからである。待ちながらも「やっぱりいないのかな」とちょっと気弱に

エレベ

ーターが聞き、一瞬だが姿を見ることができた。ゃった、会えた。うれ

59

なり始めたとき、

しかった。

私が初めてファンになったアイドルは、小学校六年の時、野口五郎である。その後、中学・高校・

大学と、いろんなアーティストのファンになっていった。ツイスト、松山千春、清須邦義、オフコ

ス、チャゲ&飛鳥、原田真二、五十嵐浩晃、永井龍雲一、鈴木雄大、安部恭弘、大江千里、

山本達

彦などなどである。友人にも家族にも、「どうしてそんなに、次から次に好きな歌手がいるんだ」

と言われたものだが、そう言われても、次から次に

ρ

いい曲H

が発表されていたのだから仕方ない。

もう、移動先までおっかけるようなことはしなかった。

コンサートを楽しみ、盛り上がり、家で

余韻に浸りながらレコ

ードを聴くことで十分だった。

当時一緒にコンサートに行っていた友人とは今でも会うと、いろんな

コンサートに行った話に

なる。昨年末、「次の年女は還暦よ」とお互い顔を見合わせた。「どうする」

という話になったが、

こんな私たちは、コンサートで盛り上がる還暦もいいのかな、と思う。

-コンサート熱の復活

大学を卒業して就職すると、徐々に音楽を聴く時間も少なくなっていった。気持ちの余裕も少

なくなって

いたのかもしれない。

ところが、

OO八年ごろから、

コンサートやライブを楽しむことが、また少しずつ増えた。

60

きっかけは、友人と久しぶりに会ったことだ。彼女は、小田さんの長年の大ファンで、中学校の

時に私に「オフコ

lスいいよ」と教えてくれた人である。ちょうど、その年、小田さんのコンサー

トツアーがあるというので、一緒に行った。前回、小田さんのコンサートに行ったのは二十代の

頃だったから、本当に久しぶりのコンサートだった。透明で力強い声を聴きながらの時間はあっ

という間だった。会場の盛り上がりに、自分たちも盛り上がり、日常にあるいろんな気がかりも

その聞はどこへやら、気分が落ち込んだことさえ、一時忘れて「なんとかなるさ」と思えてくる。

元気な時はより元気に、そうでないときにもそれなりになれる効果がコンサートにはある。やっ

ぱりコンサートっていいなと再認識した。コンサート熱の復活である。

そして、二

OO九年十一月。毎年、かなりの倍率の抽選になる音楽番組の収録に、その友人が

当選。私は同行者ということで参加できることとなった。その年の収録では、たくさんのアーティ

ストが一堂に会し、二

O分を超えるメドレー曲が披露された。アーティスト同士が共同で作品を

作り上げ、歌い上げるという企両であった。

後日のテレビ放送では、かの曲を完成させるまでの様子を放送していた。そこに至るまでの努

力、妥協しない仕事ぶり。もちろんそれを業としているプロの方なのだから当然なのだろう。し

かし、より高みを目指して作品を作り上げるプロセスは、自分なりの勝手な解釈をすれば、つまり、

自分の仕事や、大げさに一ヨヲんば生き方にも、手を抜かずきちんとやる、苦しみながらも楽しむこ

とが大切だよなあと思う。そして、ますます小田さんの歌をライブでたくさん聴きたい、ずっと

61

聴きたいという思いを強くするのである。

62

-やっぱりおっかけ

そんなわけと、ちょっとした小旅行を兼ねて、以来、

小田さんのコンサートは、都合のつく範

囲で、ちょっと足をのばして出かけるようになった。これまでに出かけた先は、広島、大阪、静

岡、仙台、福島である。興味のない人にしてみると、同じ内容のコンサートに何度も行って何が

よいのか、楽しいのかと言われそうである。しかし、会場ごとに雰囲気も違うし、コンサートの

盛り上がりもちょっとずっ異なる。同じコンサートはない。

それにコンサートが始まるまでの時間、その土地のおいしいものを食べたり、観光するのも楽

しみに加わっている。コンサートのある年には遠征をしているわけだが、はたからみるとそれは

やはりおっかけなのだろう。

ほかにも中高時代に好きだったアーティストのコンサートにも出かけるようになった。七0年

代から八

0年代にデビュ

ーした方たちは、デビュ

ー三十周年、三十五周年を迎えている。ずっ

ライブやコンサートを行っている人もいるし、活動を再開している人もいる。

インターネットで検索をして、

思っているらしく、

コンサートを見つけては夫を誘っ

てでかける。夫は断れないと

つきあってくれている。音楽の趣味は全く異なり、夫は専らクラシックを聴

いていた派なので、私が聴いていた音楽はほとんど聴いたことがない。それでもつきあってもらっ

ているのはありがたいことである。

とあるコンサートの日、私は仕事の都合で、開演ぎりぎりの会場到着となりそうだつたので、

「(全席自由だから)先にいって(前方の)席を確保しておいて欲しい」とお願いした。会場から

メ1ルが届いた。「なんだか雰囲気コワイ」。長年のファンの勢いに圧倒されたのだろうか。「す

ぐに行くので、その場から離れないでください」と返信した。

-おっかけの実存とは

ところで、私自身

「OOのファンです」と言うことに、はばかられる気持ちがすることがある。

何か

「恥ずかしい」という気持ちがするのだ。家族や友人には、ファンであることを公言できて

も、周囲の目を意識すると、仕事の関係の人などには「おっかけ」「ファン」というのは、

「軽い」

とか「軽薄」な人と思われるのではないか、という不安や危倶を感じる。今回の原稿も、当初は

人名を

一切書かないでいたが、やはりここは自己開示をしようと書き直した。

七0年代八

0年代の曲は、「今、聴いても新鮮な」ものが多い。コンサートでは、自分が十代

二十代だった頃を思い出しながら、また、今の四十代という年代で同じ曲を改めて感じながら、

その世界に浸って楽しんでいる。

63

要は自分がよければ、他人に何と言われようといいのだということかもしれない。「おっかけ」

も「ファン」でいることも、「気が多い」と言われでも

「ミーハー」と言われても、それで、自

分の生活が充実するのなら、いいのだと思う。私にとっての健康の秘訣のひとつは

「コンサート」

であり

「おっかけていくこと」。それに、年々、「今」を大切にしようとする気持ちが強くなって

いるのかな、と思う。だから、後から「あl、行っておけばよかった」と後悔しないよう、「可

能なところで、いけるところはどこまでも、何度でも」と思うのである。ちなみに、先ほどは男

性アーティストの名前ばかりあげてしまったが、八神純子さん、広瀬香美さんのコンサートも元

気をいた、だいたコンサートだった。好きな音楽がたくさんあって、自分なりに幸せと思える実感。

この納得感こそ、私にとってのおっかけの意味

(実存)だと思う。

64

海外ロングステイの泣き笑い

-私と地球暮らし

その昔、「アメリカを見ずし

て結婚できるか」と真剣に思い

詰めていた。別にアメリカと結

婚は無関係だったし、結婚相手

の影も形もなかったというのに、

理屈はこうだ。「結婚したら何

もかもオシマイ。オシマイは嫌

だ。だからアメリカに行かねば。

結婚はそれからだL

。単細胞に

して思考回路が短い私の決断は

早かった。少ない有給休暇に若

-・・.'..'.・@・・・⑨・・・⑩・・.'・@・

福永佳津子(ふくながかっこ)

海外生活カウンセラー,海外邦人安全協会理事l ロングス

テイ財団政策審議委員,ジャムズネット東京理事, 相模女

子大非常勤講師。専業主婦がNY駐妻を経験したことから,

いつしか兼業主婦に。 18歳の春,音大のピアノ科に進むか,

はたまた・で、迷った(? )ことが人生の岐路となる。魁味

は当然ピアノ。かつてはスポーツ万能少女だったが,今は

歩くのがやっとの体たらく 。意外や掃除片付けが大好きの

O型でさそり座。

65

干の嘘を加えて、二週間の米国駆け足旅行に出かけたのは

OL生活三年目のこと。旅の最後は

N

Y。エンパイアも白山の女神もティフアニーさえ制覇した満腹感一杯で、思い残すことなど何も

なかった。後は結婚相手を見つけるだけ・:。のはずが、パンナムビル発の空港行きパスが、その

姿を大きくして私の前にスツと止まろうとしたまさにその瞬間、私は言いようのない後悔の念に

襲われていた。「大都市のキラキラした部分に飛びついただけで、普通の人の当たり前の生活を

見ずじまいじゃないか。半日早くそれに気づけば郊外電車で往復する時間だって作れたのに。そ

れこそが私の知りたいアメリカだった:・。あーあ」。パスは私を急かすように動き出し、車窓に

映る摩天楼はあっという問に一区粒に。戸内訪など望むべくもなく、私のアメリカはおかまいなしに

終わってしまった:・。

ところが人生とはわからないものだ。

ひょっこり現れた人と

その日からたかだか三年の聞に、

結婚し、妻となり母となってあの

NYの郊外に駐在することになったのだから・:c

マンハッタン?行き尽くしていたもの。今さら興味なし。ひたすら郊外のアパートで隣人た

ちと共有する普通の日常の何もかもに、ハシャギまくった。子どもを生み育てる時期と

NY駐在

がパッチリかぶったこともあり、どんどん子どもを産んだ。早く産めばそれだけ

NYを記憶に間

めてくれよう。かくして私は「やたら子を産む」駐妻となり、夫は会社の人事から「お前の奥さ

ん、他にすることないの?」と心配された。出産も子育ても所変われば何とやら。その面白さに

しびれていたら、気づけば同人の母になっていた。

66

帰国してから、誰かに何かを言いたくて仕方がなかった。「あのさ、ニューヨークではね」の

出羽の守

(OOでは・:を連呼するから)というやっ。でもそれをうっかり口にすれば、「だから

どうした」と嫌われるのがオチだ。うざったい帰国妻となって社宅で浮くのは目に見えていた。

ふん

だからぐっと我慢した。しかし糞詰まりは体によくない。知ったかぶりを「ほうほう」と聞いて

くれる場はどこか。それは他でもない。海外赴任前の駐妻予備軍たちに、先輩ヅラをして極意な

るものを披露する場に出向くことだった。私は帰国してすぐに「海外生活セミナー」の講師に手

を挙げた。

海外駐在経験をくったくなく話していたら、新聞社から「連載して下さい」との声が掛かり、

終わってみれば、『ある日海外赴任』という名の出版本となった。この子の本にしてはそこそこ

売れたようで、「ご本読みました。ついては」と簡単に

NHK同際放送のレギュラー出演を言われ、

さらには複数の新聞連載が始まり、講演の数は噌え、あれよあれよという聞に、処方塞が見つか

らなかったあの糞詰まりは解消されていた。この間に大西先生との共著がこの世に出たことも書

き忘れてはならない。怪しいオパサンが突然コンタクトを取ってきたというのに、狼狽えること

なく後日共著のメンバーに入れて下さったご恩は決して忘れない。

67

-ペコリとしたらロングステイに関わることに

68

退職後の自由時間を使って、地球のお気に入りの場所にしばし日常を移す。そんなダイナミッ

クな人生の選択肢を知ったのは、そんな

「稼業」が始まってしばらくしてのことだった。現役時

代には叶わずとも、退職したら太陽が西から昇る国にも行ける。冬場に夏の日照りだって手に入

れられるというの、だから、浮かれないわけがない。いいねえ

10そうこなく

っちゃ。以来ずっと

心の中でスキップして

いたら、たまたま立ち寄った企業の小会議室の入り口に、「会議中(ロ

グステイ財団ご

と書かれた札を見てしまった。「キャ

1。これこれ。これだ」と心臓がビクンと

波打った時には、もうその部屋をノックして

いた。

非礼極まりない暴走だ。「あのお

1」と顔が

割り込めるだけの幅を開け、

「ロングステイ、興味あるんです」とおそるおそる言ったら、「どち

ら様で」と請しがるレスポンス。当たり前だ。「あ、順番を間違えました。福永と申します」と

今度はドアを全開してペコリと頭を下げた。「あら、福永さんなの?お名前、

存じ上げていま

すよ。これも何かのご縁。こちらこそお知恵を拝借できたら有難いです」と今度は向こうがぺコ

リと頭を下げた。私も有名になったもんだ。

言われて悪い気はしない。私はその場でロングステ

イ財団の評議員就任を約束してしまった。ロングステイとの出会いは、このぺコリペコリで唐突

に始まった。

そのロングステイがいいこと尽くめでないことは言うまでもない。情報不足で船出し、失意の

とうりゅう

ままに帰国した人を何人も知るし、出発時にあったはずの「やる気」も、長逗留すれば状況が変

わる。うまい話ばかりを聞いて飛び出し、

「よせばよかった」と悔いることになっては、せ

っか

くの挑戦が台無しだ。海外を舞台に、人生の放課後を自分らしく創造的に演出しようという「

ングステイ」。それが飛び

つきり楽しいものになることを願って止まない。上手な旅立ち作戦を

練る上で知っておきたいことは山ほどある。そのほんのさわりを思いつくままに書いてみたら、

こんな風になった。

-海の向こうに暮らす理由はこんなこと

「春はまだか」とどんよりした鉛色の空を見上げ、コタツを相棒に長く厳しい冬と格闘せざる

を得ない雪国の人たち。それが退職したとなると、こうだ。「雪下ろしは息子夫婦に任せて新潟

から逃げてきちゃいました」。ひょいと横跳びすれば、すぐ隣に

Tシャツと単パンで過ごせる常

夏の国があるのに、避寒滞在と酒落込まない手はない。「春は待つものではなく、自分で手に入

れに行くもの」。

かくして冬場のアジアは寒さ逃れのシニアたちで混みこみとなる。

冬夏逆転の地に転がり込む彼らの一年は春夏秋夏。「最近、冬を経験してない」などと豪語する。

避寒のみならず「花粉症との戦いもいよいよオサラパ

」とその時期、海の向こうで息を吹き返す

69

輩も多い。それぞれの理由で居場所を移す「渡り鳥たち」。あらためて地球が丸くて大きいこと

に感謝でいっぱいになる。

ロングステイはこんな風にさらりと始まる。

70

-ロングステイの目的は何?

渡り鳥派が多勢だが、ロングステイの滞在目的や滞在地選びは百人百様だ。人の噂だけで腰が

浮き、

「あんたがいいというならいいか」の乗りで出かけると思わぬ怪我をする。一

方、思い詰め、

恋に落ちるがごときの旅立ちも危ない。思い込みが激しい分、失望したら厄介だ。「こんなはずじゃ

なかった」となって退散したくとも、旅立ち前の派手な壮行会を思い出して気が退ける。「行きつ

放しのつもり。骨は地中海に撒いてもらうよ」と言い切って友達仲間を捻らせた御仁は、行って

一週間ももたずに「帰りたい」となった。悲壮な覚悟で出かけるのもどうかと思うが、あまりに

お気軽に地球暮らしに飛び込むのも問題だ。

目指す滞在国の退職者ビザを取得し、

家財産を処分。退路を断って船出する人がいるが、

気が

変わることもある。「大好き。、ぞっこん」と思っても、そのうち飽きたりする。他の国にも触手

が動く。これが人間というものだ。となれば、ロングステイの適地探しは、恋愛と

一緒。あの子

以外にないとわめき散らして結婚するも、違う子に心惹かれることはよくある話だ。老いらくの

恋、いや旅立ちには、

自分を縛らない軽めの気負いが大事となる。

-年金暮らしとロングステイ

ロングステイは退職してこそ決行できる地球暮らしだ。ところが退職した途端、

当然収入源が

絶たれる。退職金は雀の涙。

預貯金もはかない。年金受給までの五年間を耐え忍ぶには、物価の

安い国に逃げ出すしかない。こんな年金棄民物語がマスコミで作られ、こぞってアジアの激安を

誼い、そろばん勘定だけの

してしまった。

「理由なきステイ」もあり、

となってロングステイのハードルを低く

数年前のある冬のこと。

マレーシアの空港に降り立

ったら、日本からの「ロングステイをして

みたい族」のご一行様と同便だったとわかった。そのご一行にはテレビクルーが張り付いて、ロ

ングステイ番組のための撮影に映す方も映る方も大わらわだった。行く先々でこのご

一行

+TV

カメラと

一緒になり、放映日を知ることとなったが、後日ボツになったと聞いた。

TV局が期待

したのは、生活苦から物価の安いマレーシアに流れ着いた高齢者たちという設定。ところがいざ

カメラを回してみると、

貧乏とは無縁。出で立ちも華やか。

「ゃったるでぇ、ロングステイ」と

息巻く元気印集団の登場で、当てが外れたそうな。放映されなくて、ホント、良かった。

そんな風に煽るからこんな事例が出てくる。あるご夫妻。「安い」というだけでロングステイ

に飛びついたものの、帰国して不満タラタラ。「確かに妙飯は百円足らず。タクシーの初乗りは

三十円と嘘のような安さ。でも退屈で退屈で。夫婦連れ立っても今さら古女房と話すこともなし。

71

ロングステイっていやはや退屈ですなあ

1」。

退屈は体に悪い。寿命さえ縮めかねない。安さに

釣られて暮らす理由を持たない滞在はかくも簡単に破たんする。

72

-アイツも行くから俺も行く

富士山が世界遺産に登録されて、心配されるのが弾丸登山だ。夜発の朝着。

睡眠不足のまま登

山する暴挙となる。しかも軽装備。侮ってかかればパチがあたる。これを何とか食い止める策に

入山料などが言われ始めた。エベレストの入山料の二万五

000ドル

一人に比して富士山は千円

何の効果も期待できない。かくしてみんな行くから俺も行く。記念、だ記念だと数珠つなぎの

隊列が山頂を目指す。

ロングステイがそうならない保障はない。TVでやっていたから、

何だか今ブlムらしい、つ

てな調子では、何かあった時に踏ん張りが効かない。相手にするのは異国の異文化だ。水が飲め

?

りゃそうだ。水道ひね

って飲める水が出てくる国はそうそうない。危険?貧困でチヤ

ラチャラしたらそりゃ狙われる。宗教的な縛りがあり過ぎ?よそ様の流儀に何の口が挟めると

いうのか。海外に暮らす覚悟も責任もない心得違いのお気軽ステイヤ1が、増えないことを切に

願って止まない。

-ロングステイと介護

ロングステイ適齢期は介護適齢期ともば

っちり重なる。やっと手にした自由時間。しかしその

一方で年老いた両親の介護が重くのしかかる。親を残して海外滞在もないだろう。とはやる気持

ちに水を掛けるも、親を看取ってからでは自分の体がいうことを聞かない。やっぱり行くなら「今

でしょ〉つ!」。

ある姉妹は母親の介護に献身的な日々を送

っていたが、心身共に行き詰って考えた。「親戚の

日など気にせず、介護は交替にして母親のことを忘れる時間を作ろうしとなり、堂々、ロングス

テイに出掛け始めた。その問、

「万が

一のことがあっても連絡しない」と取り決めた兄弟もいる。

心残りのないよう尽くしていたからこその約束ごとだ。

最近では、

気がかりな老親を連れてのロングステイの事例も聞こえだした。飛行機に乗れる健

康状態であることが前提だが、年寄りに優しく、暖かくて過ごしゃすい国でたくさんの人の手を

借り、十分に世話を尽くす。メイドさんに任せれば自分たちは周辺国も含めて束の間の旅行を楽

しむ余裕もできる。タイでたくさんの事例を聞くのは「微笑みの国」だからだろうか。食事や入

浴の世話、散歩の相手、家事の

一切合切をお願いして月額

一万円が相場。バンコクのクルナイタ

ム病院、グループは、看護師助手、介護士助手、マッサージ師の資格を持つ日本語ができるケアス

タッフを派遣するサービスを開始している。月単位

一万六

0001一万八

OOOパlツが目安で、

73

住み込みも可能。日本のお寒い介護事情を思えば、介護目的のロングステイがあっても不思議で

はなかろう。

74

-

一度はおいで、

マレーシア

本気で長期にロングステイをするには、ビザが要る。「わが国は絶対お勧め。自分の国だと思っ

て甘えて下さい。

MM2Hという十年ビザもご用意しました」と圧倒的な厚遇制度を打ち出して

いるのがマレーシアだ。才色兼備の観光大臣が民族衣装で歌い、舞いながら

度はおいで。マ

レーシア」と呼びかける。少し前まで「マレーシアにないものは雪だけです」と誇っていた大臣

が、

3・1以降

「地震もありません」と強調しだした。実際、

3・Uの直後には日本だけに軸足

を置いていては危険、

となってマレーシアの長期滞在ビザ取得者の数をぐんと増やしている。ロ

ングステイ地は、

一時的な疎開先の感ありだ。

五月だったか、タイ国スポーツ観光庁のミーティングの末席に座らせてもらったが、

「マレー

シアに勝つにはどんな秘策があるか」が議論の的だったから、隣国アジア諸国の呼び込みは

一層

過熱しそうだ。

-お金じゃないロングステイ

寒いから、

蒸し暑いから、花粉症だから、生活費が安いから、地震が怖いから、介護費用が安

いから:・。そんな輩がいる中で、イタリアベネチアに出掛けた女性の弾け方に

「いいね」とツィ

1

卜したくなる。「ベネチアに恋い焦がれ、へそくりに励んで十年。やっと来たステイチャンスに、

パlッと思いつきり使いたい」と家賃月額三十五万円の小宿に滞在。イカ墨スパゲティをほお張り、

ビパルディの演奏会に酔いしれ、ゴンドラ男に恋した二か月に、

「もういっ死んでもいい」そうな。

「お金は使うべき時に使わなくていつ使うの?」。

仰る通りだ。

スペインに出かけた女性も自分のしたいロングステイに全力投球した。「スペイン語の猛勉強に明け

暮れて二十年。早期退職して夢の実現に飛んだの」。行く先々で得意のスケッチに鉛筆を走らせ、帰

国して作品展を開いた行動派は、その後もあっちだこっちだと走り回っている。もちろん地球上をだ。

冬の

NZ行きを年中行事にしているご夫妻は、やりたいことが叶う環境にベた惚れだ。「乗馬

もね。馬の世話から始めて、その日のうちに遠出させてくれるのよ。日本なら何年待たされるか。

日々新しいことに挑戦できる環境にあって、自分がまだまだ伸び盛りだと実感している。もっと

も日本にいる時はごろ寝専門だけれどね」とケラケラ笑った。

たっぷりした自由時間を手にした退職者たち。まだまだ現役の知力体力気力を携え、地球のお

気に入りの場所に時々日常を移すロングステイでそれぞれの

「伸び盛り」を楽しめたら最高だ。

75

来庁•

ストレス

日決算主義のすすめ

76

六十歳からの時期を老年期と呼ぶのに

は私自身もまだ抵抗がありますが、ここ

では心理学者であるエリクソンが使用し

ていた(レビンソンは六十五歳以上を老

年期と呼んでいますが)発達段階の最終

段階である

H

老年期H

という呼び方を使

いたいと思います。

一般的には、この時期を人生の

集大成として、さまざまな悩み苦しみか

ら解放されて悠々と過ごしたいと考えて

いる人が多いのではないでしょうか。

しかし、中には、今までできなかった

さて、

ことにチャレンジしたり、今までの価値

....・.・・・..

山本(やまもと

...・@・・-・⑨....⑨・・横浜労災病院勤労者メンタ

ルヘルスセンター長。専門

は心身医学,産業医学,健

康教育学。“運動オンチ (略

してウンチ)"の少年が40歳から “走る心療内科医"

に変身。 フルマラソン 36

回完走。自己ベストは 3時

間55分。100kmウルトラ

マラソンも 131時間余で完走。

仕事の方は 2012年度実績

で,心療内科医として 430人の主治医,メンタルヘル

スセンター長として講演会

230回,メール相談 7,000件。

現在はマラソンを卒業し,女房とのウォ ーキ ングと秘湯巡

りをス トレス解消に。

晴義はるよし)

観とは違う考え方をもって第二の人生を送ろうと模索を始める方もいるでしょう。多種多様な生

き方を選択できるのが、現代の高齢者のありかたであり、実際、平均寿命が延び、それとともに

老年期が長くなってきたため、この時期が人生の中でも大きな部分を占めるようになっているの

も事実です。したがって、この時期をいかに有意義に、そして楽しく過ごしたいと考える人が多

いのも自然なことだと思います。

そのためにも、老年期のメンタルヘルスとして気をつけなければならないことが沢山

あります。まず、老年期のメンタルヘルスとして気をつけるべきは、認知症の問題です

D

八十歳

以上の人口では、かなりの割合が認知症の症状を示すといわれています。また、脳便塞後の麻婦

などに代表されるように、身体の不自由さも加わります。認知症を予防するためのさまざまな薬

剤が研究されていますが、完全に予防することは極めて困難でしょう。むしろ、認知症になった

ら、リハビリなどでできるだけその進行を遅らせることがポイントとなります。デイケアを行い、

周囲の人とのこころの交流を意識的に増やすことが必要です。

老年期はまた、うつ病が多く発生する年代となります。高齢者のうつ病の場合、焦燥感が強く、

先行きを悲観しての自殺の危険も高いといえます。妄想を伴うケ1スも多く、認知症に移行する

ケースもあります。他の年代のうつ病と同じく、薬物療法を取り入れて早期に治療することが最

も大切なことになります。また、他の年代よりも社会的に孤立しやすい立場にあるため、そうし

しかし、

77

た孤立を防いで、治療の意欲を維持していくことがポイントとなります。そのためにも、やはり、

普段から社会との関わりを大事にして、維持していくことがうつ病の予防につながります。

高齢者全般としては、健康を保ち老いに立ち向かう、社会から孤立しない、配偶者と心を通わ

せる、子供世代との距離をうまくとる、といったことが老年期を有意義に過ごすポイントとなる

でしょう。

78

しかし、老年期にはそれまで味わったことがないストレスがつきものです。たとえば、自己像

の変化は大きなストレスになります。まだまだ大丈夫という気持ちに反して鏡を見ると大丈夫に

は見えない自分が映り、かつてと今の身体像の差に白尊感情が脅かされることもあります。さら

に子育てが終わったとき配偶者との関係が変化したり、相手に対する気持ちが定まらず気が落ち

着かないことがストレスとなります。また、配偶者の喪失は、相手と一緒にいたときの自分を失

うという意味で自己の楼小化につながり、自尊感情は脅かされてストレスになるでしょう。

そうした今まで体験したことのないストレスと向き合うためには、ストレスをためないように

日常的に解消しておくことが必要です。

私も、

その日にたまったストレスは、

その日に解消するようにしています。そして、この主義

を「新・ストレス一日決算主義」と名付けて多くの皆さんに広めています。「新」とついているのは、

今までのストレス一日決算主義に改良をかさねているからです。

新・ストレス 1日決算主義

週単位の生活から 1日決算主義の生活ヘ

毎日以下の6要素を実践しているかをチェックしましょう。

競技スポーツではなく、健康スポーツを。

運動 1日 15分でいい、仕事から離れて、いい汗をかく習慣を

毎日もっていますか?

働き甲斐は生きがいの源。

労働 日々の活動に生きがいを感じていますか? 自分の存在意

義を感じていますか?

寝つきがよいこと、目覚めのよいこと。

睡眠 十分な睡眠は日中の活動レベルを上げる。早起き早寝の習

慣を。

休養休養は心の潤滑油。

長時間労働を控えましょう。

食事 朝食は 1日の活動源、食卓を囲む習慣を。

会話・対話 最低でも 30分、人と対面でお話しましょう。

さて、「新・ストレス一日決算主義」の

内容ですが、まずは、日常生活でストレス

がたまりにくくなる生活を送るように心が

けることが基本です。そのためには、占代

ギリシャの医聖ヒポクラテスの生活の基本

五要素にか会話と対話U

を加えた六要素「運

動・労働・睡眠・休養・食事・会話(対話)」

を大切にすることが基本です。この六要素

を毎日の生活にバランスよく取り入れるこ

とによって、ストレスがたまりにくい生活

を送ることが可能になります。

老年期になると仕事をリタイアする場合

が多く、以前より労働の比重が下がるかも

しれませんが、いずれにしても六要素の全

てをバランスよく一円の生活の中に取り入

れていくことがポイントです。

79

特に、このコンピューター時代において

Dr.山本の STRESS解消法

s・.• Sports (スポーツ)

運動は心地よい疲労感を得られる程度でオツケー。記録よりも楽

しみながら。

T' • • Travel (旅行}

豪華な旅や遠出をしなくても身近な自然に触れ合うことが大切。

R' • • Rest & Relaxation 睡眠以外lこ休息をとる。呼吸法などの身近て、手軽な方法でリラッ

クスする。

E. • • Eating (食事}

家族や友人との会食は、こころと身体の元気の素。

S' • • Sleeping (極限)

早寝早起きではなく、早起き早寝を心がける。

S' • • Spring (温泉めぐり) & Smile (いつも笑顔で) & Sake (少

量の酒)。

温泉につかつて心身ともに気分転換を。

毎日の生活の中に笑いを培やす。そして、適量&少量のお酒を楽

しむ。

懸念されるのが、会話

・対話の

不足です。ほか

の世代はもとよ

り、特に老年期においては会話・

対話の不足や減少が著しいため

に、孤独の老後という問題を防

ぐためにも普段から家族や仲間

との会話を増やすように心がけ

中広

よ〉つ。

80

しかし、バランスのよい生活

を心がけていたとしても、スト

レスがたまってしまうことはあ

ります。そのようなときのため

にも、手軽にストレスを解消で

きる方法を数種類もつことが必

要です。私は、

心療内科医とし

て月曜から金曜までは午前中は

病院で診療にあたりますが、患

者の多くはストレスや悩みを抱えた人々であり、そのひとたちに真撃に向き合うことはそれなり

の労力を必要としますし、時には大きなストレスを感じることもあります。しかし、そうしたス

トレスを次の仕事や次の日に持ち越さないためにも、さまざまなストレス解消法を実践していま

す。私のストレス解消法は必斗周回目山デの文字をもじったものですが、まず、

Sはスポーツの

Sを

表しています。以前はランニングを主としていましたが、最近はもっぱらウォ

lキングを行っ

ています。ウォ

lキングは肥満を予防し、血液中の

HDL(善玉)コレステロールを増やします。

心臓や肺の機能が強化されるだけではなく、インスリン抵抗性が改善されて血糖値を下げるのに

も役立つうえ、動脈硬化の予防にもなり、足腰の者化も防ぎます。者年期の高齢者にとってもう

れしいことばかりです。

次の

Tはトラベルの

Tです。私自身は講演で日本全国に赴くことが多く、講演の合聞を縫って

その土地の自然に触れるようにしています。しかし、何も旅にでることだけが大切ではありませ

ん。なかなか長旅にでられないという人は、自然と触れ合うということをポイントにしてみましょ

う。幸いなことに、日本には美しく、恵まれた自然が身近にたくさん存在します。そうした自然

に触れることで気分はリフレッシュします。

Rは河内山田円相昨

FUZMREDのRです。疲れたら適度な休息をとり、呼吸法など簡単で手軽にでき

るリラクセ

lシヨン法を身につけておくと、ストレスがたまったときでも自分の心身をコント

81

ロールしやすくなります。

Eは問。一江口ぬ(食事)の

Eです。食事は、特に老年期の場合、栄養的にいうとバランスのとれ

た低脂肪・高タンパクの食事を心がけましょう。そして、単なるエサにならないように仲間や家

族と一緒に会話を楽しみながら摂ることが大切です。

Sの一つ目は、巴08Em(早起き早寝)です。早寝早起きではなく、早起き早寝を心がけましょ

う。早起きをすれば自然に夜は早寝になるものです。

最後の

Sは、∞℃ユDm(温泉)巡りです。私は講演で日本全国にでかけますが、その際に、数々

の温泉に巡り合うことができます。温泉に行ったことがないという日本人は少ないのではないで

しょうか?温泉は日本人の心と体のリフレッシュに適した場所として、多くの人に愛されてい

ます。多忙な日常を離れて、温泉地の豊かな自然に触れることで、家庭のお風呂では味わえない

安ら、ぎを感じることができます。また、温泉の湯には硫黄や鉄分、二酸化炭素など、地中のさま

ざまな物質が含まれていて、さまざまな効能をもたらします。このように、日常の環境とは異な

る環境がよい気分転換となり、健康を増進させる働きを「転地効果」といい、たまったストレス

を解消するのに役立ちます。

さらに、最後の

Sには、∞自己ぬ(いつも生活に笑顔)と少量の

EZ(酒)を加えておきたいも

のです。∞由討。に関しては「少量の」という点がポイントですので、そこを忘れずにいてください。

このように多種のストレス解消法を持つことで、老年期における新たなストレスという壁を乗

82

り越えやすくなるのではないでしょうか。ストレス解消法はどんなものでも構いません。しかし、

TPOに合わせて使い分けられるように多種多様なものがあるとよいでしょう。

これからの老年期を快適で有意義に過ごし、かつ周囲の人の役に立てるような仕事をするため

にも、ますます「新

・ストレ

ス一日決算主義」を実践して生きていきたいと考えています。

83

重荷を下ろし、

ゆっくりと

-苦悩の学生時代

それまではごく普通の少年だった。中三での学徒

動員のとき、腹痛を何日も我慢していると、高熱と

激痛に襲われた。虫垂炎が悪化し腹膜炎を起こした

のだ。抗生物質などなく、薬はヨ

lチンだけ。手術

は成功したが、退院後も体内の膿がお腹に突き刺し

た管を通し一

月以上出続けた。その後も、次々と不

快な後遺症に苦しめられた。絶望的だった。そして

「むなしさ」が心に住みつくようになった。

「むなしさ」を深化させたのが、翌年の夏の敗戦だ。

開放感、安堵感が、次第に空虚感に変わる。人生が

無意味で、空しい。何が面白いのか、楽しいのか。笑つ

..・毒事.....・-・・@・・@・・-・・・・..航空会社 ・部長,支庖長な

ど歴任。定年後東京家裁

調停委員。教育研修機関講

師。 日本産業カウンセ ラー

協会 ーシニア産業カウンセ

ラー?スーパーバイザー。

変わらぬ趣味は読書。雑食

系でジャン ルを問わず買い

漁る。新しい発見が愉しい。

84

利夫としお)

演口(はまぐち

ている連小がみなパカに見えた。

「伊吹おろしの雪消えて、木曾の流にささやけば:・」高校は名古屋の旧制八高に進んだ。弊衣

破帽にマント、高下駄で、寮歌をがなり、街を閥歩。その「蛮カラ」に当初違和感を覚えたもの

の、だんだん同化していった。

クラスは文丙(仏語)で、デカダン文学に染まり、ボードレール、ベルレ

lヌ、ランボーらに

陶酔する。フランス映画は、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の虜(とりこ)になる。「にんじん」

「望郷」「舞踏会の手帖L

「旅路の果て」「巴里の空の下、セ

1ヌは流れる」。どれも退廃的でアンニュ

イで心地よい。

「むなしさ」は依然心に澱み、死を夢見ることも。「万有の真相は唯一一言:・『不可解』。我この

恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。」辞開の句を残し華厳の滝に身を投げた二品生・藤村

操のような勇気があればと思った。

そして京都帝大・経済学部に進んだが、たちまち落胆する。教授はノ1トを棒読みし、学生は

ただ書き写すだけ。そのうえ休講も多い。休講のときはキャンパスで雑談したり、学食に行った

りしたが、やがて寺院巡りをするようになった。

吉田山の近くでは霊鑑寺、法念院、詩仙堂がいい。桜は勝持寺、藤は平等院、紅葉は祇王寺。

85

時には、洛北、洛南にも足を伸ばす。当時は拝観料などとらないうえに、ぼんやり庭園を眺めて

いると、坊さんがそっとお茶を運んでくれた。

「むなしさ」は相変わらずだ。講義は空しい心を満たしてくれない。こんな生活を三年も我慢

するなんて真っ平だ、少しでも早く終わらせたい。前期は六単位受講したが、後期は十八単位受

講することにしよう。こうして、一一川生のうちに、修了に必要な二十円単位をとってしまった。

さて、これから先どうするか。すでに腹案は決まっていた。それは聴講だ。文学部・吉川幸次

郎教授の「漢詩」はジ

lンとくる名講義だった。法学部・末川博教授の「民法」は「滝川事件」

の真相がよく理解できた。京大内の聴講はいつでもできる。ならば、東大に行って聴講させても

らおう。

上京し、友人らの安下宿に居候し本郷に通った。正式手続きは面倒なので、結局モグリで聴講

した。最初は小さくなっていたが、慣れてくると、ノ

1トや代返まで引き受け、手を挙げ質問も

した。聴講は文学部だけだったが、倫理学の和辻哲郎、哲学の井上哲二郎、美学の大西克礼、仏

文学の辰野隆などすごいビッグネlムが揃っていた。

刺激に満ちた東大生活も、金欠などもあって三月足らずで切り上げざるを得なかった。それか

ら卒業まで、バイトをしたり、英会話スクールに通ったりした。そして気がつくと、「むなしさ」

はいつの間にか消えていた。

86

あの「むなしさ」は何だったのだろう。身体症状も思考力低下もなかったから「うつ病」では

なさそうだ。活動的、行動的だったから

「スチュ

lデント

・アパシ

l」も違う。近頃話題の「新

型うつ」も当てはまらない。

-力走のサラリーマン時代

サラリーマン時代が始まる。関西の大手企業に入社したが、数年後航空会社に転職した。勤務

地は名古屋で、仕事は使用事業の営業だった。使用事業というのは小型機による宣伝、空撮、遊

覧、散布、物資輸送などで、しばしば同乗し、空からの景色を楽しんだ。営業成績もよく、妻子

も持ち、のんびり平穏な歳月を過ごした。

しかし、そんな環境が激変する。航空界の再編成で三社が合併し、東京本社に配転となったの

だ。仕事はマネジメントに加え、裏議の起案、根回し、対外折衝など、初体験のことばかり、毎

日プレッシャーと緊張の連続だった。

配属も、総務、人事、経理、情報・::と短いサイクルで異動し、その都度昇格、昇進した。ど

の職場も忙しく二時間程度の残業はざらだったが、残業後も赤提灯などに繰り出し議論の延長戦

をやった。

五十代の役職では、社外との付き合いが増え、ネオン街を何軒もハシゴし、タクシーで深夜帰

87

宅した。何も付き合いがない夜は、たいてい職場仲間と雀卓を聞み、週末には徹夜マージャンも

した。

88

こうして順風満帆に来て、次は役員と自他共に認めていた。しかし、人生何が起こるかわから

ない。試験に落ちたことも仕事の失敗も失恋もなく、挫折を知らなかった私が、初めて挫折を体

験する事件が起きたの私の上司は筆頭専務で次期社長と目されていたが、彼を糾禅する怪文書が

出回った。しかも、その怪文書を書いたのは私だという噂が流れた。表現や論点が、私以外考え

られないというのだ。結局、ライバル専務が社長昇格し、上司は社外に去った。私が役員になる

芽はなくなった。

その失意の記憶も薄れたころ、役職定年になり、次いで定年が近づいてきた。会社から子会社

の社長と教官職(嘱託)の二つの人事案を提示され、後者を選択したが、そのころから食欲不振、

不眠、倦怠感、動惇など心身の不調が続いた。日標喪失による「燃え尽き症候群」だったと思われる。

幸い、その不調は長くは続かなかった。それは何よりも、以前から継続してきたカウンセリン

グ学習のおかげだ。自分を客観視できたし、セルフカウンセリングもできたからだ。また、仕事

のおかげでもあった。訓練日程をこなしながら元気を取り戻せたからだ。教官業務は、効果的な

作業療法だった。

-ゆとりの定年後

嘱託を数年間務めてから自ら辞表を出し、職業は会社員から自営業に変わった。同時に、生き

方、考え方も、定年を契機として大きく変わった。生き方、考え方がどう変わ

ったのか、その

端を紹介したい。

一1ゆっくりズム

私は実行の早さを強みと思ってきたが、それは自らを追い込むストレス原因でもあることに気

づいていなかった。せっかちで、ゆっくり待つことができない。大学の卒業単位も

一年でとって

しまった。いわゆる

「タイプ

A」で、常にせかせかと時間に追われ、落ち着かず、切迫的、競争

的であった。

妻は対照的に、おっとり、のんびりした「タイプB」で、私とデパートなど行こうとしない。

私がイラっき、せかすからだ。たぶん幼児期に親からの「もっと早くしろ」

「もっと急げ」など

の指示が、自我に組み込まれたのだろう。六十以降はあらゆる場面で「急がず、ゆっくり」を呪

文のように唱え、大分直ってきたと思う。

89

体をいたわる

私は自分の体をいたわってはこなかった。むしろ、自分をいじめ酷使してきた。

夜マージャン。疲れていても、職場の付き合いは絶対断らなかった。こうした過剰適応は中三の

病気に関係している。自虐的な生き方は、あのときからだ。

後年やっと悟った。あのときの手術は、いつ空襲があるかもしれない灯火管制下行われ、しか

も難手術であった。術後も死亡の危険性は高く、いわば九死に

一生を得たのだ。もし両親から強

い生命力を授かつでなければ、もし幸運が味方しなければ、この世を去っていたに違いない。

私はずっと体の不具合をぼやいてきたが、生かされた生命のことは考えなかった。しかもその

後の酷使に耐え、がんばってくれたことに感謝もしなかった。六十以降は、決して体にムリをさ

せないし、「お疲れさま」といたわることも忘れない。

ハシゴ酒、徹

90

いい脇役になる

私は会社人間で、家の事は妻に任せきりだったが、

妻は不満も言わずがんばってくれた。家の

中でも上司意識が強く、家族それぞれの生き方まであれこれ口を出し、コントロールしてきた。が、

たまたま目にしたのが遠藤周作の

『幸せ日記』だ。

ある日の

「人生の主役

・脇役」はこう記している。「どんな人だって、その人の人生という舞

台では主役である。・・:自分の人生では主役の我々も、他人の人生では脇役になって

いる。

::

物語は主役だけでは成り立たない。いい脇役がいれば、それだけ人生という物語も豊かになる

0

.・

・脇役を思いやる主役になれたらと思う。

妻は私の人生でいい脇役を演じ、私の人生物語を豊かにしてくれた。しかし、私はそんな脇役

を思いやる主役ではなか

った。妻が自分自身の人生では主役であることに思い至らず、脇役を演

じるどころか、

主役の座も奪ってきた。『幸せ日記』はそんな私の日を覚ましてくれた。六十以

降は妻のいい脇役になろうとし、できるだけ家事も手伝っている。子どもたちに対しても、同じ

姿勢を心がけている。

ささやかに楽しむ

アルコ

ールは料理に合わせて選ぶが、どちらかといえば清酒党で、純米地酒を冷でやる。清酒

は和洋中何にでも合うし、冷なら夏でもOKだ。昔は酒量を競ったり、通ぶって肴は塩のみとい

う時代もあったが、今はぐい呑数杯にとどめ料理を味わう。ぐい呑は、唐津、備前、織部、黄瀬

戸などの素朴な温もりがよい。

ゴルフは金も時間もかかりすぎるので、

最近はパ

1クゴルフ

一辺倒だ。

ルも普通のゴルフ場と変わらないが、

一クラブだけでプレーし、料金もシニア料金

IR二百円と

安い。ピンの位置が難しく挑戦意欲をかきたてる。

マージャンは読みのゲlムで、頭の体操になる。面子が揃わなくなった今はパソコンゲlムだ。

コースのつくりもル

l

91

好きなとき独りで遊べる。パソコンもなかなか手ごわく、なめていると痛い目にあう。段位戦も

あり、やっと五段を認定された。

92

-終わりに

ユングは人生を太陽のモデルに喰え、四十、ぐらいの中年期を「人生の正午」と呼んだ。人生の

正午が人生前半と後半の境界線であり、危機であるという。私の正午は六十である。午前は「が

んばらねば」という重荷を背負って、走り続けてきたが、午後は重荷をおろし、ゆっくり歩んで

いる。午前には気づかなかった景観や人情の機微も見えて感動する。カウンセリングの研究や後

進指導も続けているが、午前のようにがむしゃらではない。勉強の時間を楽しみ、充実感がある。

これが自己実現だと思う。

高齢者こそパッションを/

-自然からパッションヘ

児童

・思春期に思い描いていた夢と今の自分が

なぜこんなに違うのか、回答を出せぬまま、いつ

の間にか高齢者の世界に迷い込みつつある。現在

の立場は精神科医であり大学の教員である。自分

の周りはクリニックへ行っても大学

へ行っても人

で溢れている。なぜ、人嫌いの自分が、こんなこ

とになってしまったのか?

群馬の山村で生まれ育った私の思春期の一番の

興味は、春暖かくなりかけの雨の目、

自分の部屋

から眼前に広がる千メートル弱の山肌が山頂から

どこまで白くなるのかを見ることだった。山は

-・・4事・@・⑥@・e・・@⑮@⑨・・・....電量.

阿部裕(あべゅう)

精神科医,四谷ゆいクリニッ

ク院長 7 明治学院大学心理

学部教授,多文化問精神医

学会理事。本来はシエスタ

生活を送っているはずだっ

たが,未だに二足の草軽の

忙しい生活。今はシエスタ

生活への助走中。人間世界

との縁を断ち切る術を覚え

つつ,旅,山登り の回数を

増やしている。気象予報士

の夢から抜け出て「こころ

の天気予報士」をめざす。

93

一00メートル上がるごとに気温は

0・四度下がる。自分の居る場所から山頂まで八

00メート

ルくらいあったので、約三度の差である。そして地上の気温が二度を境に雪に変わる。だから自

分の家の周りが三度で雨でも、山肌は標高四五

0メートルくらいまで白く覆われる。その降雪の

上がり下がりを見るのがとてつもなく好きだった。

今だによく夢を見る。田舎の田圃でトンボを追いかけ回している自分、誰もいない寂れた山道

を一人で黙々と登っている自分、そして山頂に寝転びながら真っ青な空に浮かぶ雲と戯れている

自分。私の夢は、山頂にある小さな測候所で、たった一人で気象観測をして働くことだった。

父が出舎で開業医をしていたせいなのか、気がついたら順天堂大学医学部にいたが、卒業時に

医学の道を捨て明治大学史学地理学科へ編入し、地理学の道をめざした。だが、経済的支援は断

ち切られ、救急病院のアルバイトで稼、ぎながらの学生生活であり、新米にとっての救急診療時は

いつもストレスの連続であった。二年間で挫折し医学の道に戻る。

編入した翌年の春、ロ

lンを組んで放浪の旅に出た。なぜスペインを選んだのかは定かではない。

しかし、あの時の赤茶けて荒涼としたカスティ

lリャの大地と紺碧のアングルシアの海が、心の

奥底に眠っていて、四十歳近かった私を、マドリ

lド留学へと導いた(「ドン・キホ|テの夢」

星和書倍、一九九六年)。

そこからパッションは、少しずつ花開いて行った。パッションは情熱や激しい恋心と訳される

が、本来の意味は、こころの奥深く流れるどろどろとした生の欲動である。ヨーロッパのフライ

94

パンと呼ばれる、あのアンダルシアの夏の灼熱の太陽に打ち勝つことができるのは、このパッショ

ンでしかない。普段は形もなく流れの方向性も決まっていないが、時と場を得た途端にそこにほ

とばしり出す。フラメンコもマ夕、ド

lルもこのパッションの一つの表れなのであろう。

スペインへ留学してから二十年以上が過ぎ去ったが、この間パッションにずーっと翻弄されて

きた。測候所員になろうとしていた夢は無残にも崩れ去り、よりどろどろした人間世界へと押し

流されてきた。本来、パッションは留学中だけで完結するはずであった。地中海に浮かぶイビサ

島で過ごした一夏、狂ったように通い続けたプラド1美術館、同僚たちと子ども遊びをしながら

通ったマドリ

lド大学の裏山、子牛と戦ったマドリード郊外の闘午場、そして夏の夜のアバン

チュール、パッションはそれだけで充分であった。最終日、マドリ

lドの空港を飛び立つときに、

ドン・キホ

lテに別れを告げた。

ところが、帰国して自治医科大学病院(栃木)の外来を始めると、突然、ペル

l人やブラジル

人のラテン系の人たちが、精神科の外来に押し寄せた。全く想定外であったが、私がスペインに

滞在している聞に入管法が変わり、日系ラテンアメリカ人は自由に日本に入国し、働けるように

なっていた。彼らを診察し、こころの支援をするために、別れを告げたはずのパッションは、ま

たここで息を吹き返すこととなった。

95

-パッ

ション診察

96

クリニックの診察室にスペイン語圏の日系ラテンアメリカ人がドアを聞けて入ってくる。スペ

イン語なのか日本語なのか出たとこ勝負である。「おはようしと戸をかければ寸メホールL

と返っ

てくるし、「ブエノスディアス」とスペイン語で声をかければ、「調子はまあまあです」といった

具合である。要するに、最初の言葉はほとんど意味をなさず、非言語的なパフォ

ーマンスが重要

らしい。

そして会話が始まる。まずはメキシコ人、彼らのスペイン語は、おっとり穏やかで非常に聞き

やすい。ほとんど聞き取れるので、ほほ、自分のスペイン語はなかなかなものじゃと御満悦にな

る。続いて、アルゼンチン人、シヤ行の多く入ったアルゼンチン靴りでまくし立てられる。ほと

んど聞き取れないので、「少しゆっくり喋ってください」と言うと、決してゆっくりにならず声

が大きくなるだけで、結局解らないまま終わる。

最初の頃は、それでも仕方なかっ

たが、、だんだん会話方法を工夫できるようになり、解る単語

が出できたら間髪入れず応答し、場合によっては質問をする。そうすると患者さんも解ってくれ

ているのかなと思うらしく、そこに反応してくれるので、かなり聞き取りゃすくなった。

ところが、先日やって来たキュ

ーバ人にはお手上げであった。そんなに説っているわけではな

ほとんど聞き取れない。よく聴いていても、単語そのものの意味が解らないのである。

いのに、

大学院卒の上流階級の女性らしく、哲学的用語と熟語や古事成句が合わさって話されているよう

な感じで、手の打ちょうがなかった。こんな時こそパッションで応符するしかない。パッション

が通じたのかどうか分からないが、二週後任内診したところをみると、それなりに満足して州つ

たらしい。

スペイン語の中で最もテンポが速く歯切れがいいのはマドリ

lド人と言われている。

ドに住んでいたとはいえ、早口で喋られるとさすがに解らないので、自然と解らないまま彼らの

テンポに合わせる喋り方になってしまう。パッションで通じ合っているなと感じるが、面接が終

わって何を話したのか思い起こそうとするが、まったく思い出せない。でも後味は悪くない。

稀に統合失調症の患者もやってくる。初診の時はもちろん病名が分かっているわけではない。

話を聞いて行くうちに、話の内容が現実なのか妄想なのか判らなくなってきて暗礁に乗り上げる。

統合失調症や操病の患者さんの時には、こちらがどれだけ大きな声で、どれだけきちんとした主

張をできるかにかかっている。時には拙いスペイン語で三、同時間も妄想世界に対峠する。こん

な時にもパッションがないととても続かない。

開業して七年半になるが、一番驚いたのは、すでに通院していた患者であったが、診察室に入

るなり「先生、胸にしこりができました。診てください」と言い、いきなり上半身を脱ぎ始めた

コロンビアの女性だ。「はあ、確かにしこりがあるね、婦人科で診てもらった方がいいよ」と言っ

て、向精神薬を処方して帰した。二週間後にやって来た。診察室に入るなり、また上半身を脱ぎ

マドリ1

97

始め、

「先生、しこりがなくなりました、診てください」と言う。「はあ、確かにないですね」と

そっと胸に触れたが、私のパッションはフル回転だった。

98

-六十歳からのパッ

ション

自然をこよなく愛していた私が、いつの間にかどろどろとした人間世界に取り込まれたまま、

六十歳に突入した。もともと大好きだった芭蕉の「野ざらし紀行」や「奥の細道」の足跡を辿っ

た伊賀や東北の旅から、ラテンの国々への旅へと変わった。アンデスの山奥にはマチュピチュの

遺跡が、チリ側にはナスカの地上絵が、太平洋に浮かぶイースター島には巨人が、ガラパゴス島

にはイグアナが、アマゾンの密林にはピラニアが待っていてくれる。そしてスペインには、夕陽

に光り輝く黄金色のアルハンブラ宮殿がお出迎えをしてくれる。

振り返ってみると、大学時代には旅を人生の縮図と考え、授業には出席せずにいつも日本のど

こかを旅していた。それはそれで日本的なパッションだったのであろう。その日本的パッション

が、スペイン留学を経て、いつの間にかラテン的パッションへと変化していった。

六十歳を過ぎてつくづく考えるのは、私はこれまでパッションを形のあるものにしてこなかっ

た。そうしたなかで、これまでもやろうとしてきたし、これからもやりたいと思っているライフ

ワークが

一つある。地理学の学生だったときの卒論のテ

lマとした「風土」

への取り組みである。

もう三十五年も前になるが、その時は和辻哲郎の『風土|人間学的考察』を超えるものはなかった。

スペイン留学中に、思想家ウナム

lノがスペインの風土について語っていることを知った。彼

はドン・キホ

lテの舞台となった風車の連なる荒涼たるカスティ

1リャの大地に、スペイン人の

アイデンティティーを求め、このカスティ

lリャの大地こそがパッションの源であるという。そ

して私の中では、「和辻|風土|ウナム

lノ|カスティ

lリャ

lパッション」の関係を、ウナム

l

ノを原語で読みながら明らかにしたいと思っている。

やはり、旅は人生、人生は旅である。芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは四五歳のときである

から、今の平均寿命から考えるとおそらく六十歳を超えてからの旅であったろう。われわれも真

の旅に出るのは、六十歳を超えてからなのに違いない。パッションは六十歳を超えたからといっ

て、決して衰えるわけではない。

目を閉じると、右上にはカスティ

lリャの大平原で草を食む羊たちが、右下にはアルハンプラ

宮殿の奥のアルパイシンの丘に住むジプシーの洞窟が見える。目を左に転ずれば、上に巡礼地サ

ンティアゴ・デ・コンポステlラの大教会が、下には地中海の砂浜コスタ・デル・ソルでパカン

スを楽しむ人たちが見える。

またドン・キホ

1テの旅に出ょうと思う。パッション診察も旅の一部かもしれない。でもやは

り非日常がいい。十七年前に別荘を買い求めに行った南ポルトガルのプエルタ・デ・ラ・ルス

の海岸に、もう一度プ

1ル付きの白亜の別荘を探しに行こう。やはりラテン的パッションがいい。

99

朝は比較的遅い。軽い朝食を済ませてから、透き通ったエメラルド

・グリーンに輝く海を見なが

ら、真っ

白な砂浜で

一寝入り。暑くなったら海に飛び込む。昼食は時聞をかけて、赤ワインを片

手に、ステーキとパエlリャをほお張り、

昼寝。暑くな

ったらプ

lルに飛び込む。地中海の夜は

遅い。赤ワインにチ

lズとトルテ

lジャでお休みなさい。

100

日本の原点|田園地帯の魅力とその力

一九四

一年十一月三重県の田舎で生ま

れ育った私にとって、故郷を離れ五十数

年が過ぎた今も懐かしい子供の頃の風景

が頭から離れない。子供時代を過ごした

実家は既になく、当時住んでいた家の裏

側に広が

っていた見渡す限りの田園風景

も今はない。新興住宅がびっしりと軒を

並べ、名古屋や大阪のベッドタウンと化

している。それでも昔が懐かしく、春秋

の墓参の時期には故郷に戻り、小学校時

代からの旧友と思い出話に花を咲かせる。

小学校に進んだのは昭和二十三年。敗

戦ですべてを失った日本はとにかく貧し

....・・・・・..

秦(はた

政まと と)

...・@・・・⑨..............キューブインテグレーショ

ン株式会社取締役。1989年,

情報産業大手の附リクルー

トで同社の障害者雇用促進

のための特例子会社を設立,

専務取締役として経営に当

たる。役員退任後も企業に

おける障害者理解や雇用促

進に向け,年間 80回程度の

講演活動を行っている。

趣味は海外旅行とバレエや

音楽鑑賞。海外旅行先はも っ

Itらのドイツをはじめヨ ー

ロッパが主流。景観の素晴

しさと歴史が生み出した文

化や伝統を守る姿勢が好き

だから。

101

く、どこの家庭も多くの子供を食べさせるだけで子一杯、そんな時代だった。それでも子供たち

は親の苦労を横

Uに地域を跳び川り、夕方日が暮れるまで遊びに熱中したものだ。子供たちの多

くはいつもお胞を空かせてはいたが、それでも子供なりの知恵で、野山に育っている果実や木の

実が空腹を満たしてくれる貴重な食材となっていた。それらの知恵は、高学年のお兄ちゃん達が

後輩達に伝授する形で継承されていった。当時はこうした上下の育成環境があった。例えば、桑

の実。今日本では絹織物が衰退したこともあり養蚕農家は姿を消した。したがって桑畑も見られ

ない。当時家を出ればどこにも桑畑があり、紫色に熟した桑の実は自然の甘みと満腹感を与えて

くれた。食べると唇と舌が紫色に染まってしまうため、親からよく叱られたものだが。また、水

聞には農業川水を引く水路が縦横に走り、そこには間違いなく鮒や出鮒がいた。水路の水を塞き

止め、水を抜くと簡単に鮒が捕れた。子供たちの遊ぶ材料は地域に無限にあったのだ。

伊勢湾から内陸に二同ほど入ったところに町はあったが、子供たちの夏の楽しみは何と言って

も海水浴。

A7の時代、車で行けば二、三分ほどで着く海に向かって三回の道のりを歩いていった

ものだ。誰も文句など言わない。それが当たり前だったから。海に着くと、それこそ白砂青松を

地で行くような見事な松林。海に入れば蛤が刷白いように捕れ、松の木の根っこには見事な爪を

ぺんけいがに

持つ真っ赤で立派な弁慶蟹が必ずいた。

貧しくはあったが豊かな自然の中で、子供は子供なりの生きる知恵と人生の楽しみ方を存分に

身に付けていたのである。

102

-すべてにゆとりを失っ

た現代社会と心の痛み

時は流れ二

O一三年。私は東京品川に住んでいる。

マンションの二十二階から見る景観はただ

ただ高層ビル

・マンション群。交通機関は網の目のように整備され、どこに行くにも不都合はな

い。J

R山手線などはピ

lク時二・五分ごとに電車を走らせる。街中すべて舗装され、田舎で生

活をしていた頃のような泥道はないので靴が汚れる心配はない。テレビ

・インターネット・ソー

シャルネッ

トワークサービス

(SNS)。情報流通に不足はなく、いながらにして世界中の情報

や物品が簡単に取り寄せられる。そんな時代である。豊かな時代とはこのことを言うのであろう

が、それが現代人を本当に幸せにしてくれているのだろうかと思う。仕事柄、障害者の就業のこ

とが頭から離れない。働きたい

・働ける力のある障害者に対し社会は必ずしも優しくない。

働く意欲は十分備えていても適切な職業訓練や社会体験を踏んでいない障害当事者にとって、

企業で働くハ

ードルは依然として高い。

背景にあるものが、産業界の構造変化と求められる能力の高度化

・多様化にある。製造業に従

事して

いた雇用労働者は

一九九二年当時

一六

O三万人いた。それが二十年経過し二

O一二年に

は、九九八万人にまで減少している。この間、

実に六

O五万人もの人が他産業にシフトされてい

る。経済のグロ

ーバル化は日本の製造業の海外移転を余儀なくさせ、そのあおりは大手の下請

103

けとして存在していた数多くの中小・

零細の町工場の仕事を奪ってしまった。働く障害者の数は、

実にこの二

O年で二

O万人近く減少している。このような産業構造の劇的変化によって、働く人

たちの仕事は変わり職場の風土も激変した。終身雇用の時代(今さら言っても始まらないが)に

はゆったりとした時の流れで人が育ち、支えあう風土がどこの企業にもあった。新人は先輩に導

かれ、叱られもしたが、深い愛情の下でプロに育っていった。今日、隣の同僚はライバルでもあ

る。給与の原資が固定されれば

《誰かが多く受け取れば、割を食う人が出る》弱肉強食の時代で

ある。人間関係は希薄になり人は孤立してゆく。本来豊かな情報ネットワークを築くために創ら

れたはずのコミュニケーション手段(携帯

・メ

lル等)が、個人間の会話を奪ってしまった。会

話の減少は他者への関心を薄くしてしまい、それぞれが個として存在する妙な時代になった。

今日、大きな社会問題となってきているメンタル疾患者急増の背景には、こうした人間関係の

希薄さが大きな要因として挙げられる。加えて、長時間労働、求められる高品質と納期短縮。コ

ストをギリギリまで削減されるなかで、働き盛りの労働者が体を酷使し、心のバランスを失って

ゆく。

-自然の中に身を置いてみる

先述のとおり、筆者の仕事は障害者の社会参加促進にある。国は企業に対して従業員の

一定割

104

合で障害者を雇用することを義務付けている。その割合が二

O一コ一年四月に三・

O%(民間企業)

に引き上げられた。十五年ぶりの改定である。背景にあるのは、障害者の求職希望が急増してい

ることに加え、社会保障給付費の急増が挙げられる。

一方、受け入れ側企業の本音は「障害者に任せる仕事は少なく、受け入れる余力もない」とな

ることから、雇用はなかなか進展しない。社会貢献、法遵守は当然意識するとしても、それだけ

で企業の障害者受け入れには繋がらない。とりわけ、精神障害者の受け入れへの抵抗は強い。雇

用経験がないことに加え、自社で発生しているメンタル疾患で休職状態にある社員の存在を考え

ると、新たに精神障害者の受け入れは決断できない。また、企業の人事担当者が口にする「精神

障害者は長時間勤務ができず、体調の変動が多いことから安心して仕事を任せられない」も、精

神障害者の受け入れを拒む理由となっている。体調さえよければ高い職業能力やポテンシャルが、

埋もれてしまっているのだ。勿体ない話でもある。

そのように考えていたとき、ご縁が生まれた浜松の農家が、精神障害者を戦力として活用して

いる話を聞き、その経緯を聞くべく現地を訪れた。確かに農園で、ハウスで精神障害者が元気に

働いている。一般的に一言われる長時間勤務が苦手という話も出てこない。長時間勤務は無理と言

われるのに!

何故かを追求してゆく過程で、「自然の中に身を置き働いていれば、体の疲れはあっても心の

疲れはさほど多くない」ことに気づかされた。都心でストレスを一杯抱えて働く、そんな仕事と

105

自然相手の仕事では、仙人に掛かる負荷は全然違うのだと気づかされた。

そうした折、たまたま厚生労働省が行う障害者保健福祉事業の一環として、「障害者自立支援

調査研究プロジェクト」に筆者が理事長を勤める

NPOが参加する機会を得た。当方NPOが厚

生労働省に提案した研究テ

lマは、

H

農業体験を通じた精神疾患勤労者への社会復帰モデルの検

証μ

であった。幸い審査を通過し、実行することとなった。とはいえ我々は全員農業は素人。

農業体験が倒人の心の健康に良い結巣をもたらす確信はあるものの、何処を舞ム川に研修を行え

ばよいか戸惑った。幸い先述の浜松の農家の知人から、「良い人を知っている、きっと協力が得

られるはず」と紹介いただいたのが、静岡市清水区で長年蜜柑園の経営をされている女性の農業

経営者であった。早速お訪ねし、当方の主旨を伝えたところ、思いのほかあっさりと協力の応諾

が取れた。

農業大学を出てヨーロッパでの市民農園やアグリツ

lリズムの研究をされていた方だったので、

当方の考えに共感いただけたようだ。

協力農園の確保ができたところで、今度は参加者を募る。目的が精神疾患のある人たちのリハ

ビリと社会復帰への試みであれば、当然当事者が中心となる。主治医の参加許可を得て複数名の

統合失調症患者やうつ症状のある方、そのほか様々な障害のある人に加え、大手企業の勤労部勤

務の人、障害者雇川を専門に行う会社の経営トップなど多彩なメンバーの参加となった。研修'l

体はいたってシンプルで、二泊三日の研修を清水市の蜜柑農園近くに宿を確保し、終日蜜柑の収

106

穫作業や周辺業務に費やした。と、ここまで書くと立派に農作業に従事できたように映るが、

際は大違い。そもそも、身体を動かしたことがない都会人が農作業を長時間続けられるわけがな

い。三十分動いては休憩、

二十分働いて水分補給と、およそ作業とはほど速いものであり、

農家

にとって全く戦力外の集団ではあったが、参加者全員はそれでも大満足!

駿河湾を見おろす景

観の素晴らしさ、海から吹き上げる風の心地よさ。空気が美味しい。

加えて休憩時間(こちらの

方が長いが)の罪のない語り合い。すべてが参加者の気持ちを和ませる。参加した統合失調症で

苦しんでいる女性の声が印象的であった。「これまで初対面の方と話すことがとても辛かったのに、

ここに来てからは素直に自分の気持ちが話せるのです!」。

これだと思った。都会の職場ではみ

んなゆとりがなく、ギスギスし声をかけるのも憧るような雰囲気だったのが、ここでは気遣い無

用。気軽に声をかけ、それに返事も返ってくる。農場での作業という非日常が作り出す効果では

あるが、環境も大きな要素であった。

-田舎を知ろう、

田舎に行こう

研修は都合四回行った。

秋から春先まで季節が移り変わるなか、それぞれの季節に蜜柑栽培に

必要な作業をはじめ、さまざまなお手伝いをした。参加メンバーはその都度変更があったが、参

加したすべての人が大満足。最高の思い出を持ってそれぞれの職場に戻っていった。

107

思い出といえば、研修期間中に行った夕食時のバ

ーベキュ

ーパーティ

ーと少しお酒を飲みなが

らの交流会。過去や経験、趣味や今取り組んでいることなどを披涯しあいながらの交流は、日頃

じっくり自分を振り返るゆとりのなかった参加者にとって、自分を知る貴重な機会となった。H

を求めている自分なのかH

H

何に悩んでいる自分なのかμ

そして

μ

本当はどうありたいと願って

いる自分なのかH

職場と家を離れて環境を変えてみることで初めて振り返りができ、明日からどのように行動し

てみょうかとのイメージもおぼろげながら浮かんだようである。東京にいては絶対得られない体

験が、僅か二時間ほどの移動で得られる。そこには間違いなく自然がたっ

ぷり残されている。問

舎でずっと過ごそうということではない。気持ちが滅入ってきたら、

少しの時間を創って出かけ

るだけでよい。海に行くも良し。山に行くも良し。そして我々のように、農家を訪ね農作業を体

験してみるだけでも良い。最高の気分転換と自分発見の時間が持てるのだ。

-農家の経営者の発した言葉の重み

農作業を手伝っていたとき、農場の主でもある女性経営者が発した

一言は、私たちにとっての

大きな衝撃でもあり、大切な気づきを与えてくれた。「私たち農業人は結構諦めがいいんですよ」。

蜜柑の木を守るためのネットを張っていたとき、風が急に強くなりμ

今日の作業はやめようH

108

と決めた時のことであった。「諦めがいいって、どういうことなのでしょう?」との私の聞いに、

女性経営者の言葉は次のように語ってくれた。

「私たちはプロの農業人だから、良い作物を造る絶対の自信はあります。そんなプロでも自然

相手には勝てないこともある。あと一週間で収穫となった時、台風襲来で作物が全滅したことも

あります。今年こそと意気込んでいたら春先の気温が低く、作物が思うほどには生長しなかった。

すべて自然がなしたこと。そんな時私たちは〈ああ、やられちゃったね、残念。来年もう一回頑

張ろう!〉と思うんですよ」。諦めがいい。そんなはずはなく、手塩にかけて育てた作物があと

一週間で収穫となったときに台風でだめになってしまうのは、いろんな意味でダメージは大きく

被害も多いはず。それでも〈また来年頑張るしかない〉と思えるこの姿勢。翻って、私たちにそ

こまでの達観があるだろうか。「簡単に諦めるな!」「他の方法があるだろう!」など、叱略され

最後まで諦め切れない。途中で投げ出すことが許されない。「できないことはできない」このよ

うな割り切りができれば、過重なストレスを抱えなくてもよいのではないか:::。そうした考え

方を教えてくれた経営者の一言であった。

わが国は急速に姿を変えてきている。外部環境の変化と内部の変化が重なり合ってのことであ

る。グローバル経済は否応なしに製造業を海外に追いやることとなり、圏内あちこちに空洞化が

目立つ。地方が融けると表現したマスコミもあった。一方で今わが国には一億二七五

O万人の人

が暮し、その相当数が過疎化しつつある地方に住まう。地方はわが国にとって貴重な自然を守つ

109

てくれる拠点でもある。水資源、

美味しい空気に育まれてこそ安全安心な食材は育つ。TPPの

問題に触れるつもりはなく、あくまでも地方の自然と農業を守りたいと願うばかりである。先述

した農業経営者の重い

一言は、

日本に充満するメンタル疾患という重い空気を

一掃してくれる期

待もある。地方を大切にしたい、自然を守りたい。それが田舎で生まれ育った私の最後の夢でも

あり課題と思っている。明日からも地方行脚が続く。

110

父親学の実践

-父親学つてなに?

芥川賞作家であり大学で教鞭

をとられていた三田誠広先生

の『父親学入門』を拝見すると、

父親についての哲学であるとい

う。先生は、母親が出産すれば

生理的に母親になれるが、父親

にはその種の生理はない。父親

が、自分が父親であるというこ

とを、観念的に、理屈で把握し

なければならならず、だからこ

そ哲学が必要だとおっしゃって

..・4酔・・・⑥・・・⑨・-・・@・@・・・..

修一しゅういち)

桂川(かつらがわ

精神科医。東邦大学医療センター佐倉病院に勤務。外来診

療とコンサルテーシ ョン ・リエゾン活動が主な業務。手が

けている研究領域には勤労者のメンタルヘルスもあって産

業医も長年務めている。以前の職場では精神科救急もして

いたので, 自動当直が連続することは当たり前のワーカホ

リックだった。子どもの誕生を境に長時間労働jを改めて,

最近は朝カツを始めたところ。勤務医の宿命か長期の休日院

がとれないのが目下の悩み。

111

いる。父親とはいったい何なのかという、根源的な分析がなされなければ、父親は父親になるこ

とができないそうである。・:なんだか難しい。しかしこの本を読んでいくと、読者へのメッセー

ジとして次のようにも語られておられる。現実から離れた抽象論はまったく無意味で、父親とは

現に生きている存在であり、子どもとの関係の中で、苦しみ悩んでいる存在である。抽象的な記

号としての「父親」が存在しているわけではないのだと。そうであれば、あまり理想の父親像に

とらわれる必要はなく、日々子どもと過ごしともに笑い、泣き、叱ればよいのではないか。体験

的に得られた自身の父親の部分を語れば、それがすなわち父親学の実践ではないかと思い当たっ

た次第である。

七旧式幼児教育を実践しておられる七旧民先生のご本を拝読すると、子どもは父親と接するこ

とによって人柄や性格をつくるそうだ。父親は子どものモデルであり、しっかり子どもの相手を

してあげることの意味は、子どもに父親の「愛」と「敬」を伝えることにあると書かれている

0

・:すでに子育てを卒業されて、ご内身の第二の人生を一指歌されておられる読者の皆様も多いかと

存じます。釈迦に説法みたいで恐縮ですが、アラフォ

lH代と呼ばれ、仕事も恋も結婚もと常に

若々しく前向きな生き方の女性たちが支持される時代に、男性も負けずに生き生きと過ごせるヒ

ントと思ってお読みください。

112

-高度経済成長期を生きる

自分自身の生い立ちを振り返ると、私は地方公務員で高校教師をしていた父と専業主婦であっ

た母の間に生まれた。兄弟はおらず一人っ子であったが、物心がついた時には、都心から少し離

れた住宅地に住んでいた。父親は次男坊だったが両親が同居する三世代の家族構成であり、さら

に母の妹ゃいとこが東京の高校や大学に通学のために我が家に下宿しており、多いときは七人が

同じ家で暮らし、夕食時は皆が一斉に卓を囲むという典型的な昭和の風景の中で育った。叔母ゃ

いとこは勉強の傍ら幼い私とも遊んでくれて、キャッチボールや釣りを教えてくれるなど弟のよ

うに接してくれたおかげで、兄弟のいない寂しさを感じることはなかった。彼らはみな医学部に

進学したので卒業までともに過ごした時間は相当に長く、私にとって叔母ゃいとこは今でも年長

の姉や兄のように感じている。今は核家族化が進み

三世代同居を都心でみることは少なくなっ

た。まだ地方では近所に親戚が暮らして家族同士の親密な交流が保たれている地域はあり、その

ような人たちのあいだでの子育ての慣習は残っているようだが、マンションやアパートでの二世

代だけの生活ではその機会はなくなってしまった。代わって世話をしてくれる人がいないのだか

ら、当然子育てに費やす時間と負担は両親にかかってくる。特に長い時間接する母親の負担は相

当なもので、これは

一日家内に代わって子育てをしてみるとよくわかる。これが毎日なのだから

育児疲れするわけだ。

113

さて、自分史をもう少し続けると、私は医学部を出た後も母校の医局に残り、

診療九割

・研究

一割

(?)の生活を今でも続けている。二十代の頃がバブル景気に突入した時期であったため、

夏休みは海外旅行、

冬休みはスキ

lにでかけて、夜もよく遊び、週末はアルバイトで当直をこな

すという生活を過ごした。恩師の教えも「よく遊べ、よく学べ

」というものであり、若く体力があっ

たので眠らなくても平気だった。三十歳を超えても結婚は意識せず、仕事と遊びで多忙であった。

要するに将来に備える堅実なアリではなく、今が楽しければそれでよいというキリギリスの生活

を謡歌しており、結婚は後回しにしていた。しかし当時そのような雰囲気がまわりにもあり、女

性の間でも結婚しない症候群などと呼ばれて、

家庭を築くより自分のキャリアを積み上げること

が自立した女性を証明しているともてはやされていた。バブル景気はすでに後退していたが、結

婚した年に象徴的な出来事があった。留学先のニュ

ースで見た映像だが、有名な証券会社が倒産

して、社長さんが涙ながらに会見をしていた。皆さんも覚えておいでかと思うが、この後わが国

の経済事情は大きく変わって、

暮らしを保つことに誰も彼も苦労をしている。日本の繁栄の頂点

はこの時点で終わったが、それを実感するのはもう少し後のことになる。

-新人類、

イクメンになる

結婚してもすぐに子どもを持とうとは夫婦とも考えていなかった。家内も地方の病院に勤務し

114

ており、しばらくは週末、だけ同居のような生活だった。

DINKS言。己EoEgEO口。

E仏国

)

という考え方も好景気のときには支持されていた。共稼ぎで裕福な生活を楽しむということで、

それを真似ていたようにも思うが実際私たちは世間でいうDINKSのようなゴージャスな生活

はできなかった。景気の衰退とともに男女いずれも働く環境が厳しくなり、質素に暮らすことが

美徳となり、そのライフスタイルは自然と忘れられた。

家内は高齢出産を意識するようになってから、夫婦で子どもを持ちたいと考えるようになり、

仕事をやめた。しかしなかなか子どもには恵まれず、やっと長男が生まれた時に私は五十歳手前

になっていた。子どもが生まれた瞬間には父親になった実感は得られないという。しかし、家内

が妊娠し、つわりで入院した際には病院へ見舞い洗い物を届け、臨月が近づいて出産を控えた家

族教室にも夫婦で参加するなどまず夫として可能な限りの協力をして、自分では父親になるため

の準備を始めていた。幸い職場でも外勤先は自分で決められるようになっていたため、アルバイ

トに出る時間を削った。若い時であったら医局の人事が優先するため思い通りにはできなかった

だろう。生まれたのは年末の休暇に入ってからで、おかげでずっと出産に立ち会うこともできた。

陣痛とは外の世界に生まれ出ょうとする子どもの意志を母親に伝えるサインであるという。父の

休暇を慮ったようにして誕生した我が子を最初に抱き上げた喜びは今でも覚えている。守るべき

小さな命があると感じた瞬間に、父親としての目覚めはあったように思う。気にしたのは、こん

なに遅れて父親になったので世間の若い父親に混じって育児をしていけるかということであるが、

115

これは後述するように解決できた。

正確にいうと私は新人類ではなく、団塊の世代と新人類のあいだの断層世代というのに属して

いる。しかし、私の両親からみれば遅い結婚、親になりたがらない夫婦という私たちのライフス

タイルは理解不能の新人類にみえただろう。その後しばらくして「イクメン」という言葉が定着

した。子育てや幼児を対象としたテレビ番組をみていると、父親が育児に参加することが大いに

奨励されている。イクメンプロジェクトが固により主導されるようになって子育てにかかわる父

親が増えてきたところである。長く医者をしていると、看護師さんたちが献身的に患者さんの食

事介助や失禁の世話をしている場面を日常的にみかける。少しは手伝いもしたので食事の世話や

下の始末には慣れていたせいか家内を手伝うのも義務感はなかった。これが父親学とは思わない

が、要するに母親的な世話、心理学では道具的役割というそうだが、それも面白がってやってい

たのである。これまでの経験の積み重ねがあるからできたのであって、もっと若いときであれば、

理屈をつけて家内任せにしたかもしれない。やってみるとイクメンというのはカツコいいと素直

に思えた。

-イクメンが育ちにくい理由

今日父親の育児に関する環境が厳しいといわれている。様々な統計をみると日本の年間総労働

116

時間は先進国の国々でトップとなっているし、やや古い統計ではあるが、六歳児未満児のいる

夫の育児

・家事関連時間は、

日本人では

一日あたり家事関連時聞は

一時間でうち育児の時間は

三十三分である。アメリカは、家事関連時間は三時間でうち育児の時間は

一時間、イギリス、ド

イツ、スウェ

ーデン、ノルウェーでもほぼ同じ時間だったと報告されている。長時間労働で職場

から帰れず、育児を手伝う時間が持てないという指摘は最近の

NHKの番組でもあった。子育て

への夫のかかわりが少なく、

妻に任せきりになるのは家庭内の生活満足感が低くなる要因とさ

れており、結果として女性のライフ

・ワlク

・バランスをも歪めてしまうことが懸念されている。

女性に対してはさまざまなかたちで育児支援の必要性が提言されているが、仕事と育児を無理な

く両立させていく社会的な支援が定着するのはもう少し時間がかかりそうである。父親が自分た

ちでできる工夫は無理をせず、可能な限り仕事の時間を減らして家に帰ることだろう。最近は残

業規制を厳しくしている企業も多い。職場において子育ても男性の大事な仕事という認知が高ま

ることを願う。

-ともに暮らす意味

父親の役割が重要になるのは子どもが幼児期を過ぎてからだといわれている。三田先生はお子

さんとともに受験勉強をして難関の学校に入学させたことを書いておられる。今から再び受験勉

117

強をするのは気が重いが、肝心なことは子ども自身に学習する意欲を持たせることだと思う。私

の子どもは現在幼稚園の年長であり、嫌がることもなく毎日通園している。本格的な勉強は小学

校に入ってからだが、挨拶をする、友達と仲良く遊べる、身の回りのことが'日分でできるといっ

た基本的な習慣を身につけることができた。父兄参観日や発表会に幼稚園を訪れてみると、指導

されたことは守っているようにみえる。最小単位の核家族の中では、他人に迷惑をかけないとい

うのが最も大事なモラルと思うが、それもわかっているようである。言葉を覚えるまではヒトで

はなかったが、ようやくヒトになってきたと感じる。当たり前のことだが、子どもの成長を見守

り、日々新たな発見ができることが親の喜びではないかと思う。

男の子は概して自動車や電車が好きで、その類いのおもちゃを与えられ、それでよく遊ぶ。し

かし息子は気がついたらかなりの鉄オタになっていた。テレビも鉄道が登場する番組を好んでみ

ているし、一日じゅう鉄道のことをしゃべっている。これまで関東近郊の鉄道博物館はほとんど

行ったし、今年はリニア・鉄道館にも出かけた。冗談で時刻表をみるようになるときけっていたら、

本当に時刻表を読むようになってしまった。教えてもいない駅名の漢字を次々読み、鉛筆で路線

名や駅名を書くようになって驚いた。この間七夕の短冊に「なんぶせんのうんでんしゅになりた

い」と願いごとが書いであった。新幹線や特急電車ならわかるが、何でローカルな路線を選ぶの

か聞いてみたら、

209系がの。。ごなのだとか:::。オタクの好みは理解不能だが興味の湧く

ことにかけるエネルギーはすごい。いずれ違う分野にも関心が湧くとは思うが、脳の凶路はこう

118

して強化されるのだなとちょっと科学者の視点で眺めたりできるのも子育ての面白さだろう。

-ライフステージを再考する

幼稚園の運動会に参加して気づいたことがある。どこでも恒例の父親参加の競技があり、

二十

代三十代の若い人とはとても勝負にならないだろうと気後れしていた。しかし当日障害物競争で

並んだ父親をみたら、見た目私とあまり違いない人が少なくとも二人はいた。勝てるかもと思っ

たら楽しくなった:・:結果は

一位にはなれませんでしたが。また別の行事でお会いした父親はど

うみても私より年上だった。

エリクソンの発達理論はいまだに精神科の教科書にあり、私は成人

後期から老年期にさしかかっている。同理論によればこの時期の人生の主題は育児を終え、子の

自立と人生の統合のはずだが、現実はもっと多様化している。育児をして親の介護も同時に行う

複合型のライフステージを生きているのは私だけでないと思ったら、年齢は気にならなくなった。

幅広い視野をもつことができたという意味でこれまでの経験は無駄にはなってはいない。

つまり

若い人よりも余裕をも

って子どもにも接していけるのではないかという、今の年齢だからできる

利点を重視してみた。気持ちを若く保ち、苦労は早く忘れて楽しみを見いだすという考え方の柔

らかさが大事ではないかというのが皆さんへのメッセージとして申し上げたい。子どもとともに

親も成長するといわれている。人生の伸びしろを見つけたら、統合と叡智の時期はまだ先のこと

119

に思えてきた。これから父親の役割はさらに重要になるといわれているが、あまり構えずに子ど

もの可能性が育っていけるように夫婦で見守っていきたい。家族でいられる感謝の気持ちを忘れ

120

ずに。

おしゃべりの効用|口は幸福の元

-自分の気持ちを吐き出すと楽にな

るって本当?

カウンセリングの基本は、誰にも秘密が漏れな

いということが保証された環境の中で、なんでも

言いたいことを吐き出してしまうことで、気分が

すっとするということです。自分の気持ちを吐

き出すと本当に楽になるのでしょうか?

よっては、言いすぎて後で後悔したりして:::。

人には、外交的でおしゃべりがとても好きな人

と、内向的で特に人と話す必要を感じないことが

多い人の二種類がいると言われています。もちろ

ん、中間の人とか、時と場合によ

って変わる人も

...・⑨・・-・-・4畢⑨・・・-・....・・・4暑.EAPコンサルタン ト。ピー

スマインド イープ株式会

社取締役副社長。EAPアジ

ア太平洋円卓会議会長。 国

際 EAP協会迎事。日 本と

カ リフォルニ ア州のサイ

コセラピス 卜の資格を持つ。

趣味はジャズダンス。

佳居かおる)ゎ

121

いますが。

内向的な人はあまり親しくない人には話をしようとも思わないし、したことによって逆に疲れ

たりします。ですが、内向的な人ですら、

自分が本当に困った時は親しい友人や信頼のおける人

に相談したりします。特に悩みがなくても、仲の良い人に対してだったら、なんとなくだらだら

と話しながら楽しい時を過ごすことがあります。

外交的な人は、いやなことがあったら、あたりかまわず周囲のいろんな人に話を聞いてもらっ

たり、対処法のアドバイスをもらったりします。

つまり方法は違いますが、どんな人も自分の気持ちを話すことで、ある程度気分が楽になるの

は事実のようです。

-「井戸端会議」

は時間の無駄?

H

井戸端会議d

という言葉がありますが、これは重要です。企業でも地域でも、また趣味のサー

クルでも井戸端会議があります。ゴミ出しとか、レッスンとか目的のアクティビティが終わった

あとも、なんとなくだべっている、アレです。忙しい方は、時間の無駄ととらえて、さっさと切

り上げたりしていると思います。ですが、この井戸端会議は馬鹿にできません。生活に重要な情

報を得ることができ、

場合によっては、この中から大変貴重な友人ができ、無駄だと思っていた

122

人間関係が宝石のように輝くのです。いじめもハラスメントも、井戸端会議からスタートするこ

とが多いです。たいてい

この井戸端会議に参加していない人がターゲットになります。いじめも

ハラスメントも、お互いをよく知らないというところから生じがちです。井戸端会議でどんな人

聞かお互いにわかっていれば、多少の欠点や失言も許せるものです。どうでしょう?

議に参加するメリットは割とあると思われませんか。

井戸端会

-サポートグループのすすめ

アメリカのボルティモ

ア市で大学院に行ったときに、

カウ

ンセラーになるためのインターン生

を週に二

1三日、

二年間ゃったのですが、修士課程

一年目のインターンはシニアホ

lムでした。

私に与えられたプ

ロジェクトは、配偶者を亡くした老人を八名くらい集めて、グリ

lフ

・グルー

プを行うということでした。

H

グリ

lフρ

とは、大事な人やペットなどを亡くしたときの喪失感

のことを指します。白人と黒人の居住者の男女八名が毎週

一時間、八週間、私のグリ

lフ・グルー

プに来て下さいました。亡くなった配偶者の写真や思い出の品を持ってきて語ることから始まり、

なかには小さかった頃の大恐慌のころの思い出を話す方もいました。

グループでは大切な思い出を、今後も自分の心の片隅に置いておけるように形にします。その

コラージュをしたり、亡くなった配偶者へ愛と感謝のこもった手紙

123

方法は人によって違うので、

を書いて言い残したことを伝えたり、記念写真の写真立てを作ったり、様々なことをします。、グ

ループの効用は、セラピストに頼るのではなく、メンバ

ー聞の信頼関係やサポート関係が自然に

できるので、話し相手や相談できる相手ができることです。

卒業後

ロサンゼ

ルスで働き始めて、日系人のシニアホ

lムでもグリlフ・グループを行う機会

がありました。今度は、配偶者のグリ1

フの話のほかに、戦争中の日系人収容所の「楽しい」記

憶の話などで盛り上がり、同じ収容所にいたことがお互いにわかつて盛り上がったりしました。

実は皆さん、ホームのソ

lシヤルワ

lカlが喪失によるうつ病を心配してグループに入ることを

勧めた人たちばかりだ

ったのですが、八週間が終わ

ったころには、とても元気で仲のよいグルー

プにな

っていました。駆け出しのセラピストだった私にと

ってはとても勉強にな

った経験で、い

までも懐かしく思い出します。

-聴き上手になっておく

話すのが苦手な人は、聴き上手になればいいと思います。先日新聞にも「雑談が上手になるコツ」

なるものが掲載されていました。

コツは、相手の話をよく聞いてあげることだそうです。聴き上

手になるとよい人間関係が構築され、いつか自分が聴いてもらいたいことが生じたときや、ヘル

プが必要なとき、情報が必要なときなどに教えてくれる人間関係をつくることができます。また、

124

話すのが好きな人も、ときには聴き上手になっておかないと、聞き疲れた周囲が去っていきます。

聞き上手のコツは、いろいろ本にも書いてありますので是非参考にしていただき、私の個人的経

験からは、二通りの場合に「あなたは本当に聴き上手ですね」と言われます。それは、①外国

語でヒアリングをしているように理解しようと一生懸命聞く(実際英語の説りが強くてわからな

かった場合などはそうでしたて②風邪をひいて頭がボ

lッとしているときのように、ペ

ースを

ゆっくりにして、自分からはトピックを出さない

(これは風邪をひいていると今でも言われます)。

-六十歳からの外国語習得

三十年前はペット犬の寿命は頑張っても十年だったのが、

最近ではリトリ1パーなどの犬でも

十五年生きたなどよく聞きます。小型犬にいたっては人生(犬生?)

二十年の時代になっていま

す。これも食生活、運動、サプリメントなど、飼い主の予防活動によるところだと思います。当

然ながら人間も、マラソンに励んだり、スポーツジムに通ったり、グリーンスム

lジーを毎朝飲

んだり、サプリメントをとったり、生活習慣がいい人が増えています。今後は人生百歳、百二十

歳という時代になるのではないでしょうか。

人生百二十歳だとすると、六十歳は人生の折り返し地点、あと六十年も残っています。しかも、

これからのシニアは以前よりも身体も頭もしっかりしていて、運動やサプリで若い時よりも元気

125

な身体の方も多くなってきます。この六十年を知的に満たすことも必要です。そこで、元気なシ

ニアに外国語の習得をお勧めしたいと思います。頭も活性化され、おしゃべりの相手の幅も広が

るからです。

126

よく、「私は英語はだめなんです。若い時にもう少し頑張ればよかった」と後悔している人が

います。私は東京とロサンゼルスを行ったり来たりの生活をしていますが、ロサンゼルスのコミュ

ニティ

・カレッジには、日本から留学に来ている引退後のご夫婦がよくいらっしゃいます。引退

後にスペインに十カ月留学したエンジニアの人にも会

ったことがありますし、中国に留学する人

も増えています。皆さん人生経験が豊富ですので、

学んだ言語を活かして地域のボランティアを

されたり、外国の企業にシニア人材として雇われて日本の技術を教えたりしています。

言語ができるとおしゃべりをする相手の幅もぐ

っと広がります。身体も元気で、英語、中国語、

スペイン語などができれば、

言葉が通じる国が増えるので、楽しい旅行もできますよね。おしゃ

べりを楽しむには、まず言語ができないと!

っている私も、若いころに中国語を五年間も

勉強しましたが、すっかり忘れてしまい、是非人生百二十年の聞にマスターしたいと思

っています。

-おわりに

井戸端会議などの自然発生の場や、

サポート

・グループなどの専門家が入った場での会話から、

気分が楽になったり、旅行などで出会った方との会話から人生の楽しみを再発見するなど、おしゃ

べりの効用は様々です。ライフスタイルに合った楽しいおしゃべりの方法を再発見するためのヒ

ントになれば幸いです。

127

老化現象は障害か個性かl

多面社会を生き抜く

• 「老い」の再考

日本ではしきりに少子高齢化が叫

ばれています。世界保健機構

(WH

O)では六十五歳以上人口の割合が

七%超で「高齢化社会」、六十五歳以

上人口の割合が

一四%超で「高齢社会」、

六十五歳以上人口の割合が

二一

%超

で「超高齢社会」と定義されています

が、総務省が敬老の日

(二

O二一年

九月

一五日)に合わせてまとめた推

計人口では、六十五歳以上の人口が

二四・一%と発表され、日本はいわゆ

128

e.・@・@・⑩....-・......・・....・・1・4酔.

中田(なかだ

臨床心理士,社会福祉士,

精神保健福祉士介護支援

専門員,産業カウンセラー,

キャリアコンサルタント等の

資格をもち, これまで医療,

保健,福祉,教育産業といっ

た各フィールドで臨床経験を

積む。現在はキューブ、イン

テグレーション株式会社(取

締役/エグゼクテイブ・コラ

ボレーター)に所属し企業

のメンタルヘルス支援や障害

者雇用支援に携わる。実家

がスポーツ用品庖である環境

から。スポーツは幅広くこな

し,種目によりインストラクター経験もある玖学生時代は楽

器演奏家や指揮者になるのが専らの夢で¥音楽は今でも自分

にとって人生に欠かせないサプリメントになっている。

貴晃よしあき)

る超高齢社会に突入しています。これと連動して「介護問題」「少子高齢化問題」という言葉が

クローズアップされ、高齢者になることはお金がかかること、何か周囲に迷惑をかけることといっ

た観念が先行し、現役を引退した団塊の世代の多くの人から「誰にも迷惑をかけずにポツクリ死

にたい」という言葉を異口同音に漏らすのを耳にします。

これは「老い」がそれまでの機能を失ったり、衰えたりといったネガティブな一面にとらわれ

た考えによるものでしょう。しかし、年代物のワインほど価値が高まるように、、ヴァイオリンは

使用している木材が古くなりしっかりと乾燥してくると、洗練された音色を出すように、人間の

「老いL

も同じような性質をもっているといえるのではないでしょうか。「おばあちゃんの知恵袋し

ゃ「老賢人」という言葉があるように、年輸を重ねることで深まっていく精神性というか霊性と

いうか、肉体性とは違う、目に見えないものが熟成されていく世界があるのだと思います。

私が大学時代の頃ですが、社会福祉士の受験資格のカリキュラムで東京都江戸川区で一一週間実

習でお世話になったことがありました。江戸川区は当初より東京二三区の中で福祉が進んでいる

区と定評がありましたが、この実習で最もインパクトがあったのは、江戸川区では「高齢者」で

はなく「熟年者」と呼んでいることでした。学生当時、「高齢者」とか「老人」という言葉を使

うことに何か抵抗を感じていた自分にとって、「熟年者」という言葉は、高齢者に対する尊敬の

気持ちが自然に表現された言葉で、この言葉に出会ったときはまさに「日から鱗」でした。「言

葉よければ全てよし」というわけではありませんが、こうした言葉を通じて「老いる」ことに積

129

極的な意味づけをしていく姿勢はとても大切です。

130

• 「生老病死」

はいのちの命題

私も齢四十を超え、今まで体験することのなかった身体の変化を感じるようになりました。「階

段をのぼると息が切れる」「ちょっと走ると膝に痛みが出る」「物覚えが悪くなる」「物忘れが多

くなる」

「怪我や擦り傷の回復が遅れる」「運動後の筋肉痛が翌々日に発生する」「毛根が弱くな

1つまり毛が薄くなる」などなど、細かく挙げれば枚挙にいとまがありません。最初は「気の

せい、気のせい」と自分にごまかしてきましたが、年を重ねるごとにリアルな自覚を余儀なくさ

れます。

日本は世界屈指の長寿命国であり、最も健康を意識している国民といえるのではないかと思い

ます。「アンチエイジングしと

いう言葉が流行り、いつまでも健康で若々しくあることに対して

とても高い意識と努力をしているように思います。若々しさを保つことは健康寿命を延ばすこと

にもつながるので、とても大切な心がけだと思いますが、「若さ」への執助なこだわりをもつこ

とに対して、どこか違和感をもっところもあります。人間が年相応に老いて

いくのは

μ

いのちH

の自然な営みであり、「老い」をアンチ視するのではなく、素直に受け入れる潔さをもつことも、

人間として必要な態度ではないかと感じるのです。

仏教では、誰もが避けることのできないこの世での四つの苦悩を「四苦」と表現しています。

凹苦というのは、「生まれること」「老いること」「病気をすること」そして「死ぬこと」の四つ

の苦を示しますc

人間は生まれた瞬間から、老い続け、やがては病気をし、最期に臨終を迎えます。

人聞がどうあがいても思い通りにならない事柄を「生老病死しの四苦という言葉で説明しています。

私がこの「生老病死」を間接的に経験したのは、同歳の頃に祖父を亡くした時でした。私が二

歳から三歳の頃ですが、よく母の実家に泊まりにいき、祖父と遊んだ記憶を今でも鮮明に覚えて

います。祖父は私が生まれる前に脳溢血による手術で脳の一部を切除し、身体は杖でかろうじて

移動はできるものの、言葉を発語することがほとんどできませんでした。「あ

1」「う

1」と不自

由ながらに一生懸命自分に語りかける祖父の意図を、子供ながらに何とか理解しようと努めたの

をよく覚えています。身体の自由が利かない祖父は、ベッドに腰掛けて、私とビ

lチボ

lルでよ

くキャッチボールをしてくれました。祖父のとても優しい笑顔から、自分に対する愛情を感じる

と共に、私自身の存在が祖父に喜んでもらえていることが、幼心ながらにどことなく嬉しさを感

じていた記憶があります。そんな大好きだった机父も私が四歳の時に他界し、当時とても大きな

ショックを受けました。これは私の母から聞いた話ですが、祖父の通夜では弔問者一人ひとりに

対して私が丁寧に深々とお辞儀をしていたのを見て、一瞬ふざけてやっているように思ったよう

ですが、私の真剣な表情をのぞき、そっとそのままにしてくれたとのことでした。「自分もいつ

か老いて死んでいく」という厳しい事実を突き付けられて以来、とても嬉しかったり楽しかった

131

りする時も、

それと同時に何とも吾一守えない不安や寂雰感を感じるようになり、この感覚は三十代

まで残っていたように思います。

132

• 「終わり」があるのは実はありがたいこと

への不安も年を重ねるごとに、その受け止め方も少しずつ変わってきたように思

ヨーロッ

パで使われている宗教的用語に

「メメント

・モリ(目。ョ。ロ552一)」という

ラテン語の言葉があります。日本語では「死を想え」「汝死すべきを覚えよ」と訳されています。「人

聞はどうせ死ぬんだから、生きることに執着するな」という解釈と、

「人聞はいつか死ぬんだから、

今を生きることを楽しめ」と、

二つの解釈があるようです。私はこのメメント

・モリという言葉

から、「今、生きていることの実感」を呼び覚まし、

「残りの人生をどう生きていくか?」を自問

自答する言葉として受け止め、特に仕事や人間関係でうまくいかなかったときなどに、折に触れ

て思い出すようにしています。

そんな

「死」

います。

日本人の平均寿命が約八十歳だとすると、私もちょうど人生の折り返し地点を超えたことにな

ります。登山で言えば、頂上から下山していくプロセスに入るわけですが、

「自分はどんな老い方

をして、どんな死を迎えるんだろう・:」とふと想像することも多くなりました。四十を超えてから、

葬式に参列する機会が急に増えたことも影響しているのかもしれません。親しい知り合いや近親

者の死はとても悲しくつらい体験を伴いますが、間接的な死の体験を通じて「自分もいつか終わ

りを迎える」ことを再認識することが、変な言い方かもしれませんが、深い悲しみと同時に何か

安心感を与えられているような不思議な感覚を感じるようにもなってきました。マラソンはゴ

ルがあるから頑張って走れるわけで、ゴールがないマラソンほどきつくつらいものはないように、

「終意」や「喪失」から、逆に寸生きる原動力」を与えてくれているようにも思ったりするのです。

-自己受容が人生の質を変えていく

私は職種柄カウンセリングの仕事に関わることが多くありますが、クライエントが自立してい

くプロセスで最も大きな要因になっているのは、結局のところ「自己受容」ではないかと経験的

に感じています。実はカウンセリングそのもので問題解決がはかれるケlスは意外と少なく、ク

ライエントが自身の抱えている不安や悩みや苦しみに耳を傾けていくことで、「状況は変わらず

とも何とか生きていけそうだ」という気づきに至ったとき、クライエントが世界との新たな付

き合いを始めていることが多くあります。人間の抱える悩みの多くは「自分の思い通りにならな

い」というシンプルな問題に集約されます。環境を変えることで解決できる問題も勿論あります

が、新たな環境でもまた同じような問題に遭遇することも多いのが現実でしょう。自分ができる

問題解決に向けた努力をしつつ、

一方で思い描いた通りの結果にならなくてもその事実をしっか

133

り受け止める力をつけていくことが、

つながっていくように思うのです。

その人の人間性を深め、生命力を高めていくエネルギーに

134

「老いは障害か?個性か?」といえば、答えはきっと両方、だということになるのでしょう。

加齢と共に失われていく機能にどこか寂しさや憂うっさと向き合いつつも、希望を失わず、残さ

れた時間と条件の中で、新たな自分の生き方をデザインしていくことが、その人の人生の色彩を

より豊かにしていくのではないかと思います。

-ある精神障害者から教えられたこと

私は大学卒業後に、ある市区町村が運営する精神障害者を対象にしたデイケアでグループワ

1

カ!として七年ほど携わ

ったことがあります。地域のデイケアは、精神病院を退院した精神障害

者が自立生活を営むための生活のリ

ハビリテーションをしていく場となっています。

一緒に自炊

のための調理の練習をしたり、余暇活動でカラオケに出かけたり、時には銭湯に行ったりと、生

活のリハビリに関わる様々な支援活動をしていました。メンバ

ーの多くは生活保護を受けながら、

地域の作業所や

一般就労を目指しますが、作業所に通所しでも工賃が

一か月に

一万円にも満たな

い中で生活を継続する方がほとんどでした。これはある年度の最後のデイケアの日でしたが、担

当の保健師スタ

ッフの異動に伴い、デイケアのメンバ

ーが

一言、ずつそのスタッフにお別れの言葉

を伝えていく中で、

「いやあ、この障害にな

って本当によかった。自分が精神障害にならなけれ

ば、この出会いはなかっただろうから:・」としみじみとつぶやくように語ったメンバーがいまし

た。精神障害者は身体障害など他の障害者に比べ、

社会的偏見が強く、

制約された生活環境にい

る当事者が沢山います。そんな中で、

自分に障害があることを肯定的に受け止めるのは到底容易

なことではありません。ある意味究極な自己受容とも三守えるこの言葉を聞いた瞬間、寸自分はこ

の言葉に出会うためにこの仕事に携わってきたんだなあ」という思いと共に、自分もこう思える

人生を歩んでいきたいと強く感じました。

-多面社会の中で自分のいのちの役割を考える

近年、

価値の多様化を認める流れが浸透し、企業においてもダイパ

lシティ

(es『巴守一

様性)という言葉が定着し、人種、

ェンダ

l、世代、

障害の有無を超えた多様性のある組織づ

くりを目指す企業が増えています。日本は元々島国という環境による単

一民族として形成されて

きた風土も影響しているのでしょうか、同質を重んじる文化があり、日本語の「違う」という言

葉は、円世間σEE(異なる)の意味と芝

5ロぬ(正しくない)の両方の意味をもっていて、「異なる

H

悪いこと」という価値観が底流にあるように思います。しかしグローバル化の時代の流れも後

押ししているのでしょうか、「違い」を認め、尊重し、味わう価値観が少しずつ定着してきてい

135

るように思います。実際の仕事場面では、生き方や考え方や方針が違うことで人間関係に支障が

生じたり、仕事が進まないなどの困った経験をすることが多くあります。しかし「人聞は違うか

ら面白い」とどこかで思えるパラメーターを自分の中でもっていることで、あきらめずに何とか

うまくやっていこうとする動機づけを維持できている気がします。

「私」という存在は過去にも未来にも存在しないことを考えると、とても当たり前な話ですが、

人聞はそもそも全て「違う存在」であるわけで、これは「人類が生存共栄し、発展していくため

に必要不可欠な仕掛け」なのではないかとも思ったりもします。もっといえば、一人ひとりがそ

の人なりのその人しかできない「いのちの役割」を担っていると考えられるでしょう。

経営学者として世界的に著名な

p・F・ドラッガlは、「貢献に焦点を合わせることが、成果

をあげる鍵である」と言っています。この短いフレーズの中には、「その人が自分自身の役割を

考え、自分以外のもののために何か貢献できることを地道に考え、実行していくことが、その人

が実りある豊かな人生を送る鍵である」というメッセージが包含されているような気がします。

冒頭の方で「ヴァイオリンは使用している木材が古くなりしっかりと乾燥してくると、洗練さ

れた音色を出す」と例え話を書きましたが、友人のバイオリニスト日く、「実際は木材が古くて

乾燥すればよいということではなく、メンテナンスをきちんと行い、ヴァイオリンのボディ自体

を響かせるように弾き込んでいくことが、洗練された音色を出すための大切な条件になる」と私

に伝え添えてくれました。これは人聞に例えれば、ただ単に歳をとれば人生が熟成されるという

136

その時々の人生の岐路や状況に応じた自分の生き方を考え、自分自身の役割を果た

していくことが、その人なりの人間性や持ち味がより洗練され深まっていくことを示唆した話だ

のではなく、

と思います。

分析心理学者として有名な

C・G-ユングは、「人生という時計の針は、後戻りさせることが

できない。若い人聞が外部に見出し、また、見出さざるをえなかったものを、人生の午後にある

人間は、自己の内部に見出さねばならぬのである。L

と述べています。つまり、人生の前半は社

会に自分の可能性をぶつけていく時期であり、人生の後半は内面世界の充実をはかることを課題

とし、「自己実現の可能性は、人生の後半に存在する」ということを物語っていますc

まさに加

齢によって、機が熟していく中で、その人らしさが結実していくのではないでしょうか。

以前、認知症を患った祖母をたずねたときに、「あんたは誰だい?」と言われたことがありま

した。「鳴呼、祖母の記憶に自分はもういないんだあ・:」というショックも大きかったのですが、

その一方で、「自分が一体何者であるか?」という、素朴で根本的なかいのちd

の問いを、記憶

を失った祖母にプレゼントしてもらった気がしました。時間も心身の自由も徐々に失われていく

中で、自分自身がどんな人間であるのか、どんな人間でありたいのかを考え、社会に向けて自分

らしい役割を果たしていくことが、この多様化した社会でより豊かに賢く生きていくためのコツ

ではないかと思います。

137

リスクマネラメント

-第三次世界大戦必発説

「第三次世界大戦は必ず起こる!」「そ

うなったら日本はひとたまりもないぞ」

これが私の父の口癖だった。当時は米ソ

冷戦の真っ

ただ中だ

ったから、無理もな

かったかもしれないが、それにしても、

高度経済成長で日本中が活気づ

いていた

時代に、

今から思えばやや突飛ではある。

しかし、まだ小学校低学年だった私は、

そんな父の言葉を真に受けて、何か得体

の知れない災難が近々降りかかるのだと

恐れていた。

•• ..・骨量・@・⑨ー・..⑨・-・-・・4・・・・

138

倉林るみい(くらばやし るみい)

精神科医。511立行政法人労

働安全衛生総合研究所有害

性評価研究グループ部長。

日本産業精神保健学会常任

理事,多文化問精神医学会

理事。フランス政府給費留

学生 として海外在留邦人

の研究のためにパリに留学。

しかし小;f1戸なノ~ 1)ジェン

ヌにはなりそこねた。旅行

好きて¥仕事がら出張も多

く。訪れた国は 40か国以上。

国内では行った ことのない

都道府県はない。特技 目

覚めた瞬間から何でもおい

しくいただけること。苦手

部屋の片付け。

もし学校に行っているときに、その第三次世界大戦とやらが起きたらどうしよう、どうやって

みようがだに

家まで帰ろうかと、そればかり心配していた。東京・田町駅に近い芝浦の白宅から、万引荷谷にあ

る小学校までは、山手線と地下鉄丸ノ内線を乗り継いで四十分ほどの道のりである。父母は共働

きだったので、いざ肘界大戦勃発のときには、小学校まで迎えに来てくれるのは到底不可能だと

幼心に覚悟していた。しかも、電車は止まってしまうに違いない。なぜなら、戦争といわれて当

時の私が真っ先にイメージできるのは、映画館の大スクリーンでゴジラが奇声を発しながら東京

の街を破壊し尽くす姿だけだったのである。なかでも、日劇のビル越しに山手線をわしづかみに

してへし折るシ

lンは目に焼き付いている。もはや電車での帰宅は無理である。何としても家ま

で臼力で歩いてたどりつかねばならない。

しかし家まで歩き通したことは、これまで一度もなかった。ただ、運動会など、家族ぐるみの

行事の後に一緒に車で帰宅したことが何度かあり、道はおおよそわかっていた。若荷谷から後楽

園遊園地わきを通って気象庁の前に山るまでは、道は一通りしかない。その後、まっすぐ進めば

皇居前を通る内堀通り、一本左側の道を進めば日比谷通りである。日比谷通りのほうが大きな通

りでなじみがあったのだが、戦争のときには、大通りは「フウサ」されてしまうと父が言ってい

たこともあり、内堀通りのほうがよさそうである。なにしろ、ゴジラが皇居を襲うのは見たため

しがなかったから、この選択は迷うまでもない。でもその先が問題だった。内堀通りは、芝公園

タワ!といえばゴジラ映阿の定需であ

139

の前で迂回して、東京タワ

l前に出てしまうのである!

る。東京タワーを根こそぎ引っこ抜いたゴジラ。逃げまどう群衆。タワーの上から「もうこれま

みなさん、さようなら日」と絶叫する中継リポーター。阿鼻叫喚の世界

・::だめだこ

でです!

140

りや

起こるべき第三次世界大戦を前にして、これが我が人生初のリスクマネジメントの試みだった

かもしれない。幸いなことに私の心配はまったくの杷憂に終わり、頓挫したリスクマネジメント

でも、何ら支障なく今日に至っている。しいていえばこ

の経験、東日本大震災直後の帰宅困難騒

動のさなか、多少役立ったといえるだろうか。その日の午後、たまたま講演があって後楽園付近

にいたのだが、

電車が復旧しないなか、道がわか

っていたおかげで、

いち早く友人の経営してい

るクリニッ

クにころがりこむことができた。

-学級会炎上!

リスクマネジメントといえば、こんなこともあ

った。これは、小学校四年ごろの三学期のこと

である。何の因果か学級委員に当選してしま

った私は、学級会の議長役がいやで

いやでたまらな

かっ

た。ただでさえ人前に出るとあがってしまうのに、議事進行をリードするお役目など、私の

能力をはるかに超えている。どだい三学期の学級委員というのは、カスみたいなものである。人

望の厚いクラスメートの面々は、一

1二学期の選挙でもう出尽くしているのだから:・。泣きごと

恨みごとを並べながらも、学級会の日付はすでに迫っている。仮病も考えたが、なんとか「正攻

法」で立ち向かおうとした。そのときは、たしか富山の小学校との手紙による交流の話が持ち上

がっていて、文通のやり方をどうするかというのが議題だった。何日も前から、仮想学級会の議

事進行シナリオを作り上げ、その議長のセリフをがむしゃらに憶えこんだのである。お風呂につ

かりながら、何度も何度も練習を重ねた。

当日、「では学級会を始めます。今日の議題は・:L、これ以上手が震えないよう教壇の両端をしっ

かり握りしめてはいたものの、出だしは我ながらなかなか快調だった。ところが、「文通はグルー

プでやったほ

P

つがいいですか、それとも個人個人でしょうか。多数決をとりましょう」というセ

リフがまずかった。採決をしたあと、「グループでやるか個人でやるかは、それぞれ自由に選べ

ばいいことで、決をとるような問題じゃあないんじゃないですか?」:・実に正論だった。ガ

lン

と頭を殴られたような思い。昨夜の湯舟で、なんでそれに気がつかなかったんだろうかとそれば

かりが悔やまれるも、もう後の祭りである。教室内は騒然として、今でいう「炎上」状態。私は

といえば、頭が真っ白になってしまい、棒立ちになったまま一言も言葉が出ない始末。そばにい

た学級委員の相棒が、呆れ顔で、なんとか尻拭いをしてくれて助かったものの、以降、議事進行

は私のなかですっかりトラウマとなってしまった。

141

-時グスリ

142

こんなにも心配性で強迫的なわりには、実際はその後もドジばかりを重ねている。例えば、ま

な板をシンクの角に不安定に置いたまま、カボチャの代わりに指先を何度切ったことか。それに、

最近はやたら転びやすくなった。過去三年間は、それ以前の三十年間に比べて、明らかに数多く

転びまくり、足首の捻挫はもちろんのこと、あろうことか雨ですべって尻餅をついて、背骨まで

骨折している。悲しいかな、老化のなせる業、ばあさま化の一途をたどっていることは否めない

が、おそらく適切なリスクマネジメントができていないせいであろう。

また、最近では、議事進行をやらされている職場の委員会で、大切な討議内容を忘れてすっと

ばしてしまい、委員から総すかんをくらった。

一か月前に自分から出しているメ1ルには、次回

はこれを討議しますと書いてあるのにもかかわらず、あっさり忘却の彼方である。実は、

この委

員会の騒ぎで、思い出したくもないくだんの学級会のありさまが鮮やかにフラッシュパックされ

てしまったという次第。ただ、このことで、はたと気づいたことがある。裏を返せば、それまで

その悪夢のようなできごとを見事に忘れていたのだ。

の何十年かは、

「それ、

ρ

時グスリH

っていうんですよ。どんなお薬より、

よく効くの」

1

そういえば、臨床の

先輩が、患者さんにそんなふうに説明をしていた。一

生のトラウマかと思っていたのに、

時が経

てば忘れ、ほかのことも次々忘れ、何か新たにショッキングなできごとがあれば、突如として思

い出すのだが、いずれまたさわやかに忘れてしまうだろう。そのうち、忘れたということも忘れ

てしまうに違いない。あとは野となれ山となれ。忘却こそが人生最大のリスクマネジメント。都

合の悪い思い出はどんどん「フウサ」して、こうしておばさんは、つよ

1く生き抜いていく・

143

新田義貞の

「恋」

に夢を追う老作家誕生の夢

144

-東照宮と掛け合っ

た兄の

気負い

兄がなくなって二年になるが、そ

のときに、兄が色々調べた資料を是

非読んで欲しいと義姉から頼まれた。

が、まだその気になれずにいる。話

では、徳川家康は新田の出として征

夷大将軍になったが、それは事実で

はないというのである。

兄弟の序列というものは、成人し

一人前になっても変わらない。兄

は兄御であり、反抗はできない。ま

後閑誠(どかんまこと)

.".・@・160歳ルネッサンス」であれば,

私の場合は 「後期ルネッサン

ス」に当たるのだろう 。60歳

を過ぎてから,もう 18年間も

産業カウンセラ ーの会報編集

長という全く新しい分野を切

り開いたのに, 80にして, ま

た新たな挑戦をしようという

のだから, ドン ・キホーテで

ある。若いころから文学少年で,

高校の とき「文学部」を l級

上の先輩と創った。他の連中

は,近くの東洋英和女学院と

合同で男女共学の署名運動を

しよう と騒いでいた。作文の

教師から短編小説の名手志賀直哉の「小僧の神様」を教えら

れ,改めて文学に興味を持たされた。その心が,今またふつ

ふっと湧き出しているのである。一般社団法人日本産業カウ

ンセラー協会顧問。

-⑩・・@⑨・-・....・・・・ー

して十歳近くも違う兄弟関係では兄のほうが圧倒的に強い。喧嘩などできるはずがないし、向こ

うから読んでみろといわれるまでは、待つだけだった。

それでも、断片的に聞いていた話を私なりに考えてはいた。最大の関心事は、徳川家康の新国

家嫡流説である。すなわち、当時は源氏の嫡流でなければ征夷大将軍にはなれなかった。その点

みなもとの

は、信長も秀吉も失格であった。唯一は武田信玄であったろう。武田信玄の祖は源新羅三郎義

光だという。新羅神社で元服したので、新羅の武士(三郎)ということだという。そのなかで、

家康は自分は新田義員の嫡流だといって、征夷大将軍になったわけである。兄はそこに噛み付い

て、日光の東照宮にまで行って、その非を訴えたという。が、東照宮はもちろん受け付けなかっ

たという話を弟から聞いたことがあった。

な、ぜ、そこまでして・:、という気持ちもするが、当時、

TVでアフリカ系アメリカ人がル

lツ

をたどるのが評判だった。兄も刺激されたのだろう、京都大学の図書館まで行って色々調べたら

しい。そこで、新田の嫡流としての後閑に強い誇りを持ったのであろうことは分かる。

ただ、私は人殺しを生業とする武士の当時の悩みを理解していない歴史の見方に、問題がある

と思った。当時の武士から戦国時代までもそうであるが、人を切り殺す尚売だとはいえ、そんな

ことをして、死後果たして極楽にいけるかという不安はみんなにあって、悩んでいた。そこで、

一門の中から一人を僧として寺に送り込み、生活出来るよう寺に財産(土地・田・畑・金など)

じしゅう

を寄進していた。義貞も信心が篤く、時の時宗とは関係が深かった。だから、群馬の新田の庄に

145

も寺をつくり、

一族の中から新田供養のために僧として送り込んでいたはずである。

明治になっても、私の曽祖父は家の近くにある妙見寺

(日本三大妙見のひとつ

・天台宗)に弟

を出家させ、多額の寄進をしている。不思議なことに、私の本籍は旧国府村字引間(現高崎市)

である。家康の居城であった浜松城は昔引馬(引間)城と言っていたという話を聞いたことがあ

る。これも何か因縁があるのかと考えている。

146

-新田狩りから逃げ出した僧侶

義貞戦死後、足利尊氏の新田狩りは厳しく、危険を感じたその僧も難を逃れた。そこで松平家

を開いた。静岡には駿府城があり、静岡の人は家康を誇りにしている。

協会会員の中に郷土史研究をしている人がいたので、徳川の由来をどう思うか聞いたことがあ

る。彼は新田かどうかは分からないが、上州から僧が来て、こちらの女と所帯を持ったのが松平

だという話をしてくれた。こうしてみると、兄には悪いが、私の推定と合致している。

義貞を祭っている福井県丸山町にある称念寺の縁起には、こう書かれている。

「延元元年十月、新田義貞公は後醍醐天皇の聖旨を享けて、東宮恒良、尊良両親王を奉じて、

越前に下向して、

奮戦した。その問、新田軍の本陣が石丸城(現福井市森田町)にあった時、

義貞公とその将士たちはたびたび称念寺に来て、住持の白道上人から念仏往生の法門を聴聞

した。

同三年(一

三三八)閏七月二日、義貞公が燈明寺畷で戦死されたとの報に接した白道上人

は、直ちに寺僧八人と共に畷に赴き、公のご遺体を白木の棺に納め輿に乗せて帰り、寺内に

懇に埋葬した。」

首は尊氏に検視させるために京都に持ち去られ、胴体だけが称念寺に葬られ、以後手厚く同寺

で法要されてきたが、徳川幕府が成立すると、歴代将軍は称念寺を篤く保護した。しかし、首と

の合体は図られなかった。首は賊軍の大将として京都の川原に曝された。見るに耐え難く、後醍

こうとうのないし

醐天皇の高等女官

・勾当内侍が夜陰に盗ませ、京都の滝口寺に葬った。

-鎌倉を攻め落とした名将新田義貞に惚れる内侍

内侍は頭脳明断の美女で、後醍醐によく仕えた。天皇は直接臣下とは会わず、会話は内侍を通

して話し、義貞も内侍を通じて言上した。こうしていつしか二人の聞に愛が芽生え、それを知っ

た後醍醐は、内侍を義貞に下賜された。この結果、その後、尊氏軍が勢力を盛り返してきたとき

二人の愛が闘いを遅らせ、尊氏を防ぎ切れず、後醍醐は比叡山に登らざるをえなかった、という。

その後、後醍醐は尊氏の甘言に乗り、京都に戻ると言い出し、その代わりに湖北に行って北陸王

朝を樹立せよと義貞をつける。冬の北陸は厳しく、内侍を連れて行くことは出来ず、必ず迎えに

147

来ると泣き別れる。が、義貞は戦死し、内侍は悲嘆にくれる。

思いは深く、義貞を供養せんとして、京の川原に曝された夫の首を取り返し、嵯峨野に隠し、

供養したのち琵琶湖に入水自殺する。琵琶湖の西岸にある堅田には、内侍の墓がある。京の滝口

寺には内侍の供養塔が義貞の墓を見守るように建てられているが、

堅田の野神社の内侍の墓は石

を積んだだけのものである。

「城門じゃ、火事じゃ、火事じゃ」

内侍が湖面に身を投じたとされる旧暦九月九日(現十月九日)

などに行われる神社の祭礼で、土地の人々はこんな奇声を発しながら松明行列をする。「奇祭」

は謎に満ちている。湖岸でくんだ水で内侍の塚を清めた後、泥を塗るのも珍しい風習だ。行列が

神社に到着すると、田んぼに竹の御幣を突き刺す。竹が深く刺されば、

豊作だという。

義貞と内侍の恋、これも

一つの歴史的ロマンであり、いつか書いてみたいと思

ってきた。

-義貞の実弟脇屋義助の奮闘

義貞には脇屋義助という弟がいる。長男相続で次男以下は分家するのが慣わしだったが、義貞

せんめつ

の死後、新田の庄は足利軍により繊滅され、

一人は静岡で松平となり、徳川とな

った。次男の脇

屋義助は、兄義貞よりも智将で優れていたという。義貞亡き後、後醍醐が結局尊氏とうまくいか

ず吉野に入ったので、義助も吉野に入り、時々山を降りては足利軍に攻め込んだりした。しかし、

148

後醍醐が没した後は伊予に行ったという。

いた。新田義純である。

そしていよいよ戦国時代に入ると、再び群馬に城を築

水戸のご老公で有名な徳川光国は寸大日本史しを編纂して、南朝を正統とし、湊川に楠公の碑

を立てて讃えた。そうであれば、足利尊氏が擁立した北朝とその末喬とされる現天皇家は正当性

を有しない

ことになる。戦後の混乱期に、南朝の皇孫を称する「熊沢天皇」が現れて、大騒ぎに

なったことがあった。

-新田の嫡流・後閑の誕生

新田家は、足利家の第

一子として生まれたが、母が早世し後妻が迎えられたため、かわいそう

だというので、母の実家に引き取られ、新田の姓を名乗るようになった。足利と新田の庄は隣り

合わせである。そういう意味で、新田も源八幡太郎義家を祖とする源氏の嫡流なのである。戦場

での新田の家紋はマルに

一であり、足利はマルに二である。

戦国時代になると、新田義純が群馬西部(後閑)に起こり、一城を構えた。しかし、武田信玄

が関東攻めに進出してくると抗しきれず、武田の窓門に下った。同じ源氏の出とはいえ、先祖

に申し訳ないと、姓を新田から後閑に改めた(『日本姓氏大辞典』)。弓矢の名手であったという。

いつか

NHK大河、ドラマ「武田信玄」で、後閑義純が二回出た。立派な武士姿の役者に何か贈っ

149

てやるかと思ったこともあった。

今も小田原城には当時の関東の軍事図があるが、そこに後閑城が載っている。後閑義純は信玄

の配下として、後に今川との戦いの山中で親子で戦死している。(そこに後閑塚があると、名古屈

に行った息子が情報を持ってきた。)これにより、群馬の後閑城は落ち、城が落ちるとき、乳母

が城主の子を抱いて橋下に逃れ、隠れていたところを上から槍を刺されたが、その槍先を扶で拭

き取り難を逃れたという。城の脇を流れる後閑川にその忠臣の碑があると父は酔うと言っていた

が、兄が現地へ行ったがないと言っていた。

城跡も石の幾つかはあるが、もう跡形もないといっていたが、時々、昔の闘いの後を思わせる

人件や武具が山てきたというニュースは何回か見た気がする。

話はこれで終わらない。兄は大の福田起夫(元首相)びいきで、福田以外はみんなパカといっ

ていた。その福田が総聞になったとき、兄は新聞義貞の首と胴体を一つにしようと、称念寺の住

職を福田に会わせている。が、その後兄は脳梗塞で倒れ身体不随となり、彼の夢は消えてしまった。

りんじ

兄の失意はいまひとつあった。それは明治維新のとき、明治天皇から倒幕に立てという論旨が

後関にきたが立たなかったことである。新田の娘が嫁いだ新田の重臣岩松が立ち、維新後男爵に

叙せられた。あのとき立っていればと悔しがるのだが、新田が守ったのは南朝であり、北朝の明

治天皇は敵ではなかったのか。光悶さえ南朝正統論を説いているし、徳川は新田の出ではないか。

どうして倒幕に立てよう。

150

私は協会の仕事で、静岡の養成講座によく行った。そこで、静岡の人たちに、明治維新の薩長

連合を批判し、江戸時代、幕府を作り上げた駿府の高い文化的水準をもっと自覚し元気になれと、

酒を飲みながら撒を飛ばしていた。しかし、お天道様がついて廻っている温暖裕福な土地には、

もう革新の気概はなかった。私の中には、わが母校麻布高校の創立者荏原素六がある。沼津の出

身であり、長じて幕閣の一員としてアメリカにも渡った。徳川慶喜の改革案には、天皇を担いで

王政復古させようという、薩長を超えた近代的国家政策があったのではないか。だからこそ、荏

原は函館陥落後も千葉で最後まで薩長軍と戦い抜いたのであろう。

頼朝が鎌倉に武家の幕府を聞いたからこそ、後醍醐が実権を取り戻そうとした。そのとき、義

貞は歴史をあやまった。私は、明治維新は天皇制でなく共和制の日本を聞く道があったのではな

いか、徳川を新田の出とするなら、そう思うのである。これも、これから書きたい歴史ロマンで

ある。しかし、これは研究を要しよう。

151

猫と暮らせば・・....

-はじめに

送られてきた執筆依頼の書類で、私の

エッセイのタイトルは

「猫と暮らせばし

という仮の題名を頂きました。「ご自由

につけ換えてください」と添え書きはあ

りましたが、私はこの仮タイトルが、

の私になんとなく。ひったりしていて気に

入りました。

つけて下さ

ったのはどなた

有難うございます。それで

日頃の私と猫の関係から、私の過去、現在、

未来をお話したいと思っています。「

ω

歳からのルネッサンス」

に相応しい内容

でしょ〉つ?

152

繁田(しげた

TA心理研究所所長,国際 TA

協会教授会員,臨床心理士。

長らくこの仕事していますので

いろいろと肩書き資格はあります

が, とりあえず上の 3つが今の私

のアイデンティティでしょうか。

頭で分かるより附に落ちる, こと

を目指して仕事を しています。仕

事イコール私の生活という感じで,

仕事も生活も楽しんでいます。早

朝の代々木公園での太極拳とラジ

オイ本採し ジムでのヨガとフラダン

スで¥楽しみながら健康維持を心

がけています。趣味は映画。お1酉1

音楽です。ジ‘ャンルは問いません。

家の窓から,猫たちと夕焼け雲を眺めつつ MJQを聴きマーティニ

を飲むのが至福のときです。

商心一U

...・⑨・ 0・・⑨・・・-⑨・・...・....・・・

になるのか、チヨツと心配しながら書き始めます。

-子どものころ

私と猫の暮らしは、物心ついたときからすでに始まっていました。

小学生の私が縁側で猫を抱

いている写真や、庭で猫と木登りをしている写真が、七十年以上前の生活の証として残っていま

す。私の少女時代は、戦争中の疎開体験をはじめ決して明るいものではありません。東京での空

襲、

両親と別れ遠い親戚を頼って疎開した土地で、いじめられた経験もありました。昭和二十年、

日本は戦争に負けました。終戦の一年後、ょうよう東京に帰りました。父が中野に用意した家に

は家族五人と、猫は太郎、次郎が住んでいました。我が家では猫は太郎、次郎(雌猫でも関係な

くて犬はポチ、ジョンと代々名前が決ま

っていました。

猫たちは台所で鰹節をかけたご飯を食べ、仏壇に供えていた貴重品だったカステラを盗み食い

して、母がとても怒っていたのを覚えています。

-学生時代から社会ヘ

153

思春期、青年期の学生生活、就職して結婚までの間も、同じように黒ブチの太郎や、

三毛猫の

次郎、

三匹いたとき三番目はやはり三郎でした。高校二年のときに父が急死しました。母は自宅、

当時は中野から飯田橋のかなり大きな家に引

っ越してましたので、そこを会社の役員クラブにし

て会議や宴会を仕切る仕事を始めました。食べ物を扱うので、当然猫どころではない生活が始ま

りました。私も学校を卒業してすぐに希望通り、外国に行けて英語を必要とする仕事、日本航空

のスチュワデス、現在の

CAになりました。父が亡くなって母が働き出してから、私が結婚する

まで猫のいない生活がしばらく続きました。

-結婚と夫と猫と

:

職場である飛行機の中で夫と出会い、いろいろと訳ありの数年の後、結婚しました。夫も猫好

きで、結婚してすぐにシャムネコの女の子を飼いました。

マクマクという名前です。タイ語で有

難う?というのだそうです。そのお嬢さんが、時には同じ血筋と、時には素性の怪しい猫と愛

し合って、沢山の子供を生みました。今でも、お宅のマクマクちゃんのひ孫に当たる猫を伺って

ます、という知人が現れたりして楽しいです。その後もいろいろな猫と暮らしました。一

番長く

暮らしたのは、

六本木七丁目の家で飼い始めたテイモ

シ!というギントラの猫です。立川基地で

アメリカ軍の獣医をしていた友人が連れてきたアメリカ国籍?の猫でした。テイモシーは肺の

病気を持ちながらも長寿を全うし、マンションのベランダで亡くなりました。猫は死ぬときは何

154

処かへ身を隠すといわれてますが、マンションでは身を隠すことも出来、ず、ベランダに出てひっ

そりと死んでました。その後続けて二匹を尿道結石で失ってから、夫が亡くなる前の二、三年は

猫のいない生活でした。

-

一人になって

十六年前に夫が急逝しました。胆嚢癌とわかつて二か月で旅立ちました。生来せっかちだった

ので発見が遅れて、もう治療の方法がない、ダメと分かったらさっさと私をおいて自分一人であ

ちらへ旅立ちました。夫が亡くなった当初半年は、まったくカウンセリングができませんでした。

自分の気持ちが不安定なので、クライエントさんの気持ちに敏感になりすぎてしまい、苦しくな

りました。これはいけないと、半年間カウンセラーの仕事を全部休みました。その間もっぱら博

士論文執筆に集中し、何とか心の痛みはゆっくり回復していきました。

-私の仕事とカウンセリング

私は聖心女学院英語専攻科を卒業して、昭和二十九年に日本航空に入社し、スチュワデス

まはキャビンアテンダント、CA)として昭和三十二年まで働きました。当時は

「空飛ぶ乙女?」 しミ

155

として、今の女子アナのような人気職業だったのですが、その頃の気圧が低いプロペラの飛行機

の中での食事サービスはかなりハードな肉体労働でした。そこで夫と出会いました。当時の会社

の規定では、結婚したら地上勤務、三十歳過ぎたら機内での仕事はお仕舞という、今では考えら

れない就労規定が当たり前のようにまかり通る時代でした。女は結婚して夫に仕え、子どもを生

んで育てるのが一番の幸せへの道という文化が、まだ根強く社会を支配していた昭和三十年代で

した。私も結婚して当然のように会社を辞め、夫との暮らしと子育てに自分の生きがいを見つけ

て、それはそれで充実した人生でした。

約十年後、日本における海外渡航の白山化に伴い、日本にもジャンボ機が導入され、客室乗務

員の量産化が始まりました。そこで乗員訓練所の講師として再び日本航空で働いて欲しいとお呼

びが掛かったのです。迷っている私に、夫は「日本航空が莫大なお金をかけて育てた人材を、僕

が途中で頂いたから会社は当然かけた元は取れていない。だから恩返しの意味で働きなさい」と

言いました。「チヨットかっこいいな」と夫のことを改めて見直した感じです。そこで働き出し

てみると、当然教官たちは若い現役のスチュワデスやパーサーですから、自分の悩みや教官とし

て訓練生の問題に対処するため、どんどん私への相談が増えてきました。そこでカウンセリング

の必要性を実感して、教官仲間でカウンセリング勉強会を作り、同分康孝先生の『カウンセリン

グ理論』(誠信書房)を読んで、ディスカッションをするグループを始めました。さらに私自身は、

現在も青山にある

NPOセスク、当時は東京カウンセリングスクールといいましたが、そこでエ

156

ンカウンターやロ

1ルプレイといったカウンセリングに必須な体験学習を始めました。後に、セ

スクの講師、理事、理事長にもなり、いまだに組織には関わり、授業やワークショップも行って

います。このスクールの存在は、私のカウンセリングの原点として大切なものです。

-TA (交涜分析)との出会い

一九七四年、アメリカから日本に帰国されていた故深沢道子先生と再会(中

・高と同窓生でし

た)し、

TAを教えていただきました。TAの哲学、理論に私は虜になりました。日本だけでは

飽き足らずに、アメリカの先生方からも多く学ぶ機会を得るために、しばしばアメリカにも行き

ました。一

九九四年には一年間仕事を休んで、ノ

lスカロライナのサウスイースト研究所という

グループと家族の心理療法研究所に留学して、ロ円

・〈BDE52という素晴らしい先生の下で、

しっかりと

TAを学んできました。帰国してからの私のバックアップ理論は、来談者中心療法と

交流分析の比重が逆転して、

TAは私にとって生きるために必要な理論となりました。それと共に、

私のカウンセリング、私の生き方は変化してきたと思います。私は心理士として、カウンセラー

としてはス

ロー

スタ

lタlです。それまでの学習と経験から、とりあえず仕事はいただけたもの

の、臨床心理士の資格を取るための大学での心理学の単位がありません。そこで大学で昼間はカ

ウンセラー、夜は学生という二部制で、社会学科の夜間部に入学しました。それも私が非常勤の

157

学生相談員だったために、大学の規定には触れずに二束のわらじをはくことができ、ラッキーの

二百です。学部卒業後さらに社会学の修士課程を正規の学生として二年間をすごしましたが、そ

れでも臨床心理士の受験資格の単位がまだ不足していましたο

そこで、筑波退官後に立正大学に

いらして心理学の学部と大学院を創られた松原先生に、新しく出来た心理学科の修士課程に入学

したいとお願いしましたら「修上は社会学でもう充分だからドクターにいらっしゃい」と先生が

誘ってくださったのです。渡りに船と試験を受けて、博士課程後期に在籍しました。ここでさら

に研究論文の書き方、学会での発表に関して、沢山のことを学び、一つ一つが私の血となり肉と

なって今日に至った感じです。二年目に入って、松原先生から私のバックアップ理論である交流

分析について学位論文を書きなさいと勧められました。博士課程に在籍し、学会誌への投稿や学

会発表はしていても、学位論文を書くことは夢にも考えていませんでした。当時の私は六十歳を

過ぎていました。私はカウンセリングの臨床家で、博士論文に私の残り少ないエネルギーと時間

を使うよりは、よりよい臨床家になるために残りの時間を使いたいと先生にお伝えしましたとこ

ろ、なんとしても形にすることが研究でも臨床でも重要だといわれたのです。もちろん、夫は

常に私が新しいことに挑戦するときには最大の理解者でありサボ

lターであったことは言うまで

もありませんが、論文を書き始め、日本での交流分析に関していろいろと調査をしていく過程で、

日本で今まで

TAを研究、指導、実践していらっしゃる沢山の先生にお目にかかることができま

した。そこから、私の日本での

TAの繋がりが始まりました。今はもう故人になられた先生方も

158

多くなりましたが、改めてお

一人お一人の思い出と共に感謝の念を持っております。

論文執筆の途中で、夫が亡くなりました。また私の専門である交流分析の指導者であった

R先

生も夫と前後して亡くなり、私は二人の大事な人を時を同じくして亡くして、途方にくれました。

学生相談もクリニックでのカウンセリングも自分ができる状態ではないことが分かっていたので、

思い切って半年お休みをしました。その聞に、改めて交流分析という心理療法の理論と対峠して、

交流分析が日本で生き続けてきた道筋をたどり、またアメリカでの原点に戻り、行きつ戻りつ対

話を続けて、それを文字にして博士論文の草稿を綴っていきました。この私を支えてくれたのが、

亡き夫、松原先生、研究室の同僚、

TAを通して得た仲間、先輩、そしてカウンセリングで共に

歩いてきたクライエントさんたちです。

-ふたたび猫と暮らす

夫の死後三か月後には、やはり猫を飼って

一緒に暮らそうと決めました。十六年前の平成九年

の夏でした。小さな龍に入って毛玉のような二匹の猫が我が家の住人となったのです。男の子は

モンテイ、女の子はカ

lラと名づけました。仕事から帰ってきて電気はついていないけれど、息

をしてニャと鳴いて待っている家族がいる、この感覚が私に

一人で自分の人生をもう一度前を向

しっかり歩いていこうと思わせてくれました。

159

いて、

その翌年には、若い

二匹はいつの間にか愛し合っていて、お腹が大きくなり、子供が生まれま

した。お母さんのカ

lラは高校生つの感覚で、母親の自覚がほとんどなく子育て放棄の状態

でした。私と息子が交代で注射器からミルクを飲ませ、お腹をさすって排植をさせる毎日でした。

この年になって猫の母親をするとは思っていませんでしたが、その子も今は十五歳、人間で言っ

たら七十歳ぐらいでしょうか。まだ子ども、子どもしていて、銀紙を丸めたボ

lルでサッカーに

夢中です。さらにその翌年に二匹のアメリカンショ

ート

へアの元気な兄弟が家族になり、初めは

五匹の猫と、息子

一人と暮らし、

OO七年にカ

lラ母さんが脳腫療で亡くなり、

二O一三年六

月十七日にモンちゃん父さんが、老衰で亡くなりました。

猫の歴史が私の歴史と重なります。

-これからの私

今残された三匹、コモちゃん、ネオ君、

した。勝手にデス)と暮らしています。

O一三年七月には日本で初めての交流分析の国際大会が聞かれます。沢山の先輩の意思をつ

いで、若い仲間たちと協働して主催者委員会委員長という重責を負いながら準備の真最中です。

この十

一月に八十歳になる私にとって、ほんとうに最後にこのような仕事ができることは、

冥利

エリック

(TAの創始者エリック・パ

lンから頂きま

160

に尽きるの一三円です。「何でそんな大変なことを引き受けたの?」と、沢山の方から言われました。

「なんでやねん?」と突然へンな関西ことばで自問自答しています。

TAの三つの自我状態から

一言うと、アダルトでの符えは「この大会がきっかけで、日本中の

TAと世界の

TAが山会いお互

いに繋がって今後発展していくことが、私の何よりの願い」です。チャイルドの本音は「スゴ

ll

く面白そう、やりたい!」の一言です。親の自我状態からは、敬愛する削匠の一人であるメリ

1・

グlルディング女史が私に下さった言葉、「ロ

22ECER吉田宮ユ何事も始めるのに遅いという

ことはない」が聞こえてきます。

まったく心理と関係ないサービス業から始まり、最後は人が楽しく暮らせる社会を作ることを

目的として造られた交流分析という心理学の中で生きることができ、私は幸せです。

TAとカウ

ンセリングの仲間たち、猫たちが私を支え刺激して、死ぬまで元気で生きる原動力となっている

と確信しています。さて、この次はなにを始めましょうか?

161

加齢とともに幸せち増大l

悩むことは学ぶこと

-立ち止まって悩み、

られること

カウンセリングでたくさんの休

・復職者にお会いするように

なって知

ったことがある。いった

ん立ち止まって、これまでの自分

を振り返ったり今の状況に悩んだ

りすると必ず新しい自分をつか

む、ということだ。そこには、深

く悩んだからこそ得られた力があ

り、未来への確実な光がある。そ f尋

....・⑨・・・⑩・・・⑥・-・@・.・・・-・

隅谷理子(すみたにみちこ)

162

臨床心理士,シニア産業カウンセラー, 家族心理士。匡|

立音楽大学卒業(ピアノ科)。上智大学大学院博士後期

課程単位取得。現在. キューブゃ インテグレーシ ョン株

式会社。統合的心理療法研究所 (IPI)に所属。本業

は職場のメンタルヘルス,家族カウンセリング。興味関

心はコミュニティアプローチとシステムズアブローチの統

合。今でも趣味でピアノを教え,音楽療法を実践している。

そして“和文化愛好家(和食,華道,書道,着物巴tc.).,。

れに触れる瞬間、私自身にも何かしらの発見をもらい、そして心の中にあたたかい希望が芽生え

る。このような仕事に関われることに心から感謝したい。

貴重な執筆の機会である。私も少し自分を振り返ってみたいと思う。

-私の中に流れるArt

(アlト)

私は音大出身である。小さい時から、ピアノのレッスンを毎回録音し、勉強の時にはパック

ミュ

ージック代わりに繰り返し聴き、練習、お稽古、練習・:。そんな毎日を過ごしていた。中学

受験の前日もピアノの練習は休まなかった。だからといって、ピアノ漬けの日々でもなかった。

書道、水泳はかなり本格的にやっていたし、中高に入学すると、フルート、お琴もやってみた。

決して頭がきれる方ではなかったが、手先を使うことだけは根っから得意だった。例えば家庭科

の浴衣の袖を縫う裁縫のテストで学年トップをとったこと、アルミ板から箱をつくる技術の課題

でスピードと正確さの模範として教材のビデオをとられたことなどは、密かな成功体験である。

おそらく私は

H

心身で感じて

Art感覚を表現するヘそれが面白く、楽しくて、ひたすら夢

中にやっていた。言語ではない形で感性を表現することが非常に心地の良いものだったのだろう。

だから私は、小さい時から生活そのものに

Artにふれる空間、創造する時間をたくさん過ご

した記憶が残っている。ところが社会人になってからは、その体験がどんどん少なくな

っていつ

163

たのである。

164

-Artの世界と現実社会

大学を卒業して社会に出るときに、海外へピアノ留学をするか、新卒で企業に就職するか真剣

に悩んだ。友人たちは悩むまでもなく、留学。ところが、私が最終的に出した結論は、新卒で大

企業に入社できるのは今しかない、ということだった。

私はメーカーに入社した。会社の福利厚生にも恵まれ、営業部隊の華やかな部署だった。毎日

が楽しかったし、とにかく色んな友人、先輩のつながりが出来た。外的な刺激の多い

一日

一日が

怒涛のように過ぎていき、社会という現実世界も私なりに学び始めた。花の

OLという言葉の意

味を味わいながらあっという聞に

一年が過ぎていった。これでいつか結婚をし、家族を作ってい

く。ごくごくふつうの生活が出来ること、それが私の幸せなのだろうなと思っていた。でもその

とき立たされていた現実的な社会には、どこかでしっくりいっていない自分を頭の片隅に感じて

いたのである。

今振り返れば、入社後は大きな変化がある数年であった。言うまでもない。これまでの

Art

と創造の生活が、急激に現実世界になったのだ。自分の感性を表現することよりも、正確に現実

的に対処していく方が望まれる。そういう世界が、実は自分に合っていたのではないか、などと

悩むようになっていった。この悩みは私にとって非常に意味があるものであり、のちの私にと

て大切なものとなる。

頭の片隅に疑問を持ち始めているときに、ある友人たちから起業を手伝ってほしいという声掛

けをされた。私はなぜかあまり悩まず、まあそれも経験のひとつだと思い、組織の立ち上げに参

画したのである。それからが私にとって学びの道であった。金融サービスという業種で、まさに

現実世界である。零細企業を

一から創り、何もない経験をビジネスにしていかなくてはならない

立場である。これまで家族にあたたかく守られて育ち、社会でも守られた環境で仕事をしていた。

その感覚が

一切なくなり、ゼロからシステムをつくることの大変さを目の当たりにする。もちろ

ん、感性の表現云々とは程遠い生活が続いていた。確かにやりがいはあるし、学、びも多い、だか

ら楽しかった。しかし本当に私らしくいれているのか?その聞いに対する答えは当時の私には

分からず、

無意識の悩みの渦中にいた。

-キャリアチェンジの二十代

そんな私が、社会人になってもやめなかったことが二つある。学生時代から続けていた、言葉

でいじめられて不登校になった女の子へのピアノレッスン(音楽療法)と、ベビ

lシッタ1

165

(子

どもの世話と教育、母親の相談相手)である。この二つだけは、なぜか細々と続けていた。私にとっ

て自分の感性が使える時間だったのだろう。これらが、いま心理の仕事につく原点であると思う。

ある日、仕事である家族のライフ。フランを作成して助言をしたところ、その方が人生の夢を語っ

て盛り上がり、問題がスイスイと解決したことがあった。その時ふと思った。人を相手にする仕

事では、私自身の感性が活かされている気がする。今まで漠然としていた無意識のもやが少し明

るみ、霧が晴れていく感じがしたのである。

人を感じ取る、システムを読み解く、共に学び、考え、共に実践する。

これだろうと思い、そ

れからが早かった。私は大学院で臨床心理学を専門的に学び始め、臨床心理士になった。これま

での感性を共にしてきた女の子達との心理的関わり、

Art感覚と現実世界の間での葛藤と迷い、

無意識に悩んでいた自己発見のプロセス。おそらくすべてが瞬間的に、歯車が合って動き出した

のである。

-個人を支援&システムを支援

私が心理士として選んだ現場は

H

生活の場での支援H

が可能なところであった。多くの人は、

大半の時間を職場で過ごす。職場で起こっていること、そのシステムの中で動いている人間模様

がある。その現場に出向き、

直接的に個別支援ができること(コミュニティアプロ

ーチ)が不可

166

欠で、私にとって魅力的だった。日本人は、本来組織人の器質を持っており、輸を重んじたチー

ム力に力を発揮する。職場での支援も、その良さを引き出していく視点も必要なのだ。現に、会

社組織で行う職場復帰支援では、人事や上司(ライン)と共に支援することで、援助が非常に機

能するようになった。医療機関では手の届かなかった職場調整、職場定着への支援が可能になる

のである。

外部の専門家ということで、個別にも専門的にサポートできる余地が残るのである。

私が現在好んでいる心理療法に、家族療法がある。家族療法を対象とする家族とは、

一番身近

で分かりゃすいシステムである。会社組織を支援する臨床技術としては格好のオリエンテーショ

ンで、常に指導と訓練を受け続けている。

私自身のホツとする居場所である

μ

家族H

というシステム。その理解を源に、職場という生活

の場で支援をすることが、私のライフワークとなっていった。

-本来の自分、

新たな自分に出会う三十代

三十代。臨床心理士になってからは、ビジネスと現実社会の感覚で葛藤的になることが少なく

なったように思う。仕事とプライベートのなかに、少しずつ私に流れる

Artが活かされている

実感を持てるようになったからだろう。人との心理的関わりは究極の

Arーであり、哲学である。

だからこそ難しく、ひたすらに夢中になる。臨床は悩みがつきものであるが、その渦中から共に

167

抜けた時の喜びは何にもかえがたい感覚を生む。この感覚を簡単に表すとμ

生きているよろこびH

と呼ぶのかもしれない。ライフワークというより、人生そのものに近い気がする。これまで経験

したことが、何

一つ無駄ではなく、すべてつながり統合していくのである。

三十代後半に差し掛かった今、不思議なことがある。

Artに触れる時聞が増え始めている。

自ら創作するという能動的な

Artの時間である。よく考えると、馴染みのある

Art活動が、今、

新たな形で再開したのかもしれない。

-和。大切なあなたとわたし。そして幸せ

私が今触れている創作活動とは何か。一言でいうと、和の文化である。海外をよく訪問するよ

うになったことと、成長と共に自分の理解が深まったことで、私の中にある和の志向が確固たる

ものになっ

ていった。そこから、書道、華道、着物、和食に改めて触れるようになった。そのきっ

かけは、大学院の指導教官による禅合宿である。指導教官はカトリックの神父であるが、禅をこ

よなく愛し、その思想を私に語ってくれた。無の境地、自他の争いのない世界、ただひたすらシ

ンプルに、というのが最大のセンス。感動の体験であり、そこから和の文化に流れる禅の思想を

感じるようになった。

昔、

書道を本格的にやっていた頃は、夏休みになると千字文と大筆の書を書き、掛け軸にして

168

いた。書の瞬間は、禅でひたすら座る感覚に近い

c

墨をひたすらすり、瞬時の感覚を文字にする

のは何か懐かしい感じがある。私にとっての書は、自分と和の創造世界をつなぐものという感覚

があると思う。そして最近よく着るようになった着物もそうである。まっすぐに機能的に組み合

わされた反物は、同じ着物でも着る人の装いによって、その人自身が現れる。着物には和の絵柄

と生地に日本の四季が表され、被服としての機能すべてに、人のおもてなしの心が統合されている。

それは華道も同じであろう。生きている植物が切られると、それは花、木、草ではなくて、その

瞬間から生ける人のこころになる。花で大切な人へのおもてなしの心を表現するのである。私に

とってその表現はとても心地がいい。華道における線と曲線、静と動の表現の世界。その発想

は、私にとってお料理の盛り付けとつながる感覚がある。お料理は作りあげられる過程が楽しい

し、その過程は大切な人たちにふるまいたいと思える時間なのだ。食材を切る・焼く・煮る・揚

げる過程には、すべて音がありリズムがあり、音楽を楽しむ感覚も得られる。楽しいからそれを

共有したくて、誰かのために作りたいと思うのである。

現代社会が忘れかけているこれらの和ごころ。禅の体験から感じ得た和の思想を、人間関係に

おける真の精神であると捉えている。日本人である私にとって、感性を持って人と関わるための

重要な軸になっているのかもしれない。

169

私は年を重ねて、幸せと思える瞬間が明らかに増えた。ありのままの私・あなたを、ありのま

まに理解して受け入れることを、少しは出来るようになったからだろうか。それもあって、少し

は利他的なことを幸せと思えるようになった。人と人のつながりを、より大切に考えるようになっ

たと思う。

170

そう考えていくと、加齢とともに幸せが年々増大していくことになる。いや、幸せは自ら増や

していけるとすると、もっともっと増えていくに違いない。かしっかり悩みながら生きていくμ

からこそ、幸せは自分が決められるのだから。

心理臨床で、そしてプライベートで、そんな生きたやりとりを少しでも多く出来ることが私の

幸せである。みんなに生かされている自分であること、その感謝を忘れずに。

ヴィラ経曽は天国だ竹富島奮闘記

-魂に

導かれる

:・

竹富島、そして「ヴィラ

たけとみ」

青い海にぽっかりと浮かんだ

周囲九回ほどの小さな島。これ

とい

った名所旧跡があるわけで

はない。でも島の町並みは国の

重要伝統的建造物群保存地区に

指定されており、歴史的建造物

が数多くみられるのが特徴の

つ。

この島には多くの芸能、伝

承、風習などの伝統文化が継承

...・⑨・・・⑨・・・⑥・.....c.・-・・ー-・・人材育成コンサルタント。

一般社団法人日本産業カウ

ンセラー協会副会長。(株)

ビジネスコンサルタン トl

コンピュ ータソフトウエア

会社 (株)OCC設立業務か

ら20年勤務。在職中から「魅

力ある人づくり」に魅せら

れ自ら 40歳を定年と決めて

独立。cocキャリア デベ

ロップエ ントグループを主

宰。産業カウンセ リング分

野に関わる。沖縄県教育委

員長沖縄県振興審議会委員,

沖縄県こ ころの健康づくり

専門委員。)rJl純県及び宜野湾市女性会議委員 琉球大学観光

産業科学部非常勤講師など歴任。現在人材育成コンサルタン

トとして,人事院沖縄事務所,沖縄労働局,内閑府れl'純総合

事務局,)'1'縄県教育委員会など行政, マスコミ ,病院。企業

などへの社員研修に加え,沖縄看護専門学校講師,Iヴイラ

たけとみ」経営と現在は 3足のわらじを履き替えて奮闘中。

島仲ルミ子(しまなかるみこ)

171

「ヴィラたけとみ」憩いの庭

されていることもあって、年間約四十万人にも及ぶ

観光客が内外から訪れる文化遺産の島であり、また

豊かな自然環境に恵まれた長寿の島としても知られ

ている。

172

集落の中央から、竹帯で椅麗に掃き清められた白

砂の道を十分ほど南に歩いて行くと、旅をする人た

ちの前に、静かに庁む旅の宿「ヴィラたけとみ」

が姿を現す。この、民宿でもない、ホテルでもない、

旅館でもない新しい時代の小さな宿が誕生したのは

今から九年ほど前である。

何をするでもない、

ただぼんやりと静かに過ごし

たい||せわしない日々の喧騒から離れてあちらこ

ちら旅をする人々の思いを、豊かな自然環境とス

ローに流れる島時間で彩る小さな宿。日中の風景も

趣があるが、竹富島の本当の良さは夜の訪れととも

に始まる。どこまでも広がる真っ

暗な夜空にキラキ

ラと明滅する無数の星、じっと見上げている人々の

頬を、

そよ風が優しくなでていく。まるで時間が止まったような島時間は、訪れる多くの人々の

心に、忘れることのできない旅の思い出のぺ

lジを加えることだろう。

部屋はすべて純木造のコテ

lジ。屋根の上には怖い顔をしたシ

lサl

(魔除け)が周囲に脱み

を利かして鎮座している。「私をしっかりと守ってくれるようなの」と言

って感激する女性のお

客様。宿に着くとスタッフからの惜しみない笑顔と「お帰りなさい!Lの明るい挨拶。「只今!」

と何のためらいもなくこだまのように返ってくるお客さまの声。「赤ちゃんの時に連れて来た子

供も、もう小学三年生」と楽しそうに語りかけてこられるご夫婦。夕食が終わり、ゆっくりされ

ているお父さんに

「如何でしたか」と声を掛けると、次第に口がはぐれて子供さんのことでかな

り悩んでいることが分かり、ついついお話しをお聴きすることも多い。温かい雰囲気、豊かな自

然環境だからこそ色々こころを聞いてくださるのだろうか。

-「おもてなし」に形はない

竹富への旅はほとんど夏のシーズン。「こんな暑い時にどうして暑い竹富に?」とお尋ねすると、

「暑いからいいんだよ」と返ってくる。でも春に来られるお客さまは「色とりどりの草花に魅せ

られて:・」と答えられ、秋のお客さまは「この島だけにしかない烏の踊や歌に魅せられて・:」と

言う。島に住む人々との触れ合いを求めて来られる方々など旅への想いは人それぞれ。

173

「何もしないでぼんやり爽やかな自

然の風に吹かれること」が最高の賀沢だと言

って過ごされる方が多い。

私は宿のスタッフに

「・:しなければならない」とか

「こうあるべき、こうすべきということに

縛られないで、とにかくお客様の立場に立って考え、何事にも真心を添えて話しそして動くこと」

「言葉も大切だけど、心の伴わない言葉は空しく響いてしまう」と折に触れて話している。「お客

様との聞は、っかず離れずの距離を大切にしていきたい」としているので、ここではあまり畏まっ

た言葉や形式張った動作はない。「初めて来たのに、な、ぜか懐かしい」

「なにか我が家の気分に浸

れるようだ」とアットホームなおもてなしに喜んでくださる方が多いのもこの宿の特徴かもしれ

たけとみ」

:

3

0

十''BBV

-外国からも多くのお客様が!

お客様は実にさまざま。サッカーの元日本代表だった超

一流の選手、テレビで活躍する有名タ

レントや作家および建築研究家など。ドイツ、フランス、スペイン、そして北欧などからバカン

スにやってこられるお客様も結構多い。ある時、ネッ

トで予約のドイツの方に、「ヴィラ

たけ

とみ」をどんなふうにお知りになったかを伺ったら、「前に泊まった方が竹富島での体験につい

て旅行誌に投稿していたので」とご親切にも写しをメールで送って下さった。外国の方は平均七

174

泊程度。なかには十泊から二週間ほどの方も。日本のお客様は滞在も比較的短く、なかには

一週

間くらいの方もいるが、長くても四

1五泊程度。

ここ四

1五年ほど前からお客様の休暇の過ごし方も少しずつ変わってきているようだ。一

北旦刷、

ワ1カホリックという一言葉をよく耳にしたが、

WLB(ワlクライフバランス)が重要視される

時代になったとはいえ、企業開戦争の第一線ではそういうわけにもいかないのだろうか。夜にな

ると、やおらノートパソコンを取り出し、

wIFIでネットの世界へ突入する方々も多いようだ。

-ネットワーク時代の到来

世はまさにネットワークと情報の時代。私たちの暮らしにとってインターネットは不可欠であ

り、この業界でもこれなくして商売はできない。平凡社が外務省の委託を受けて世界に向けて発

行している広報誌

「にっぽにあ」がある。アラビア語、ロシア語、スペイン語からベトナム語

など十四か国語で各国に日本の自然、文化、

伝統や暮らしなどを紹介する美しい写真をちりばめ

た季刊誌で、さきほど沖縄特集が組まれ、

美しい海と沖縄を代表するホテルが四か所紹介された。

一流のリゾートホテル三か所に加えて、何と我が「ヴィラたけとみ」が選ばれ、世界に紹介

されたのだ。実に身にあまる光栄であった。なにしろ二十万部発行、在外公館や商社、多くの国々

の観光関係部局に送られたのだから。きっと外国の方々も、ネットでサーフィンしながら、昔の

175

素朴なけまいたけとみ」を見つけ、静かな環境の中の伝統的な料理とスローに流れる

島時間に魅せられるのではないだろうか。

「ヴィラ

176

-箱庭のようだ

竹富島は日本最南端の

「西表石垣島国立公園」の圏内にあって、

島そのものが箱庭のようだ。

人口三百三十名ほどのこの島は、六十年ほど前に「竹富島憲章」を制定している。

この憲章は「売

らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」に、

美しい自然景観や伝統文化を資源として「生

かす」ことを基本五原則として定めている。「売らない」とは、島の土地や家などを島外者に売っ

たり、無秩序に貸したりしないこと。島人たちはこうした文佑遺産や美しい景観の維持保存に努

力している。「汚さない」では、朝早く自分の家の周りの道路を竹第で掃く姿があちこちで見ら

れることからも、この憲章は単なる目標的なものではなく、島人たちが意識と誇りをもってきち

んと守っている点だろう。島を訪れる人々はこの島の活動のすべてが、島人たちの心の中に流れ

ている「うつぐみの精神(助け合い)」に支えられていること、その精神が美しい島*つくり運動

の原動力であることに気づかれていないが。

-お祭りは神様に捧げる

この島が誇る最大の行事に、六百年の長きにわたって島人たちに継承されてきた国指定の重要

無形文化財

「種取祭(タナドイ)」と呼ばれるお祭りがある。毎年秋のある時期に、旧暦の特別

な日程を勘案して決まる島人たちにとって最も重要な神事祭事である。この種子取祭は、竹富島

をル

lツとする人々が全国各地から帰省し、島の行事に参加したり、親戚や友人たちとの再会を

喜び合う大切な機会であるが、また、その年が生まれ年に当たるすべての世代の郷友たちが全国

各地から帰郷する。もちろん毎年帰る人もいるが、そうでもない島人も基本的には十二年に

一度

回ってくる

「生まれ年」だけは何としてでも島に帰ろうというお互いの暗黙の取り決めが、各世

代を通して習慣として守られるようになった。帰省した人々は、久しぶりに味わう古里の香りと

味、祖先の霊との交流、奉納舞台の鑑賞、そし同窓会などに参加し、歳月によってすっかり変わっ

たお互いの姿と健康を笑い喜ぶ。祭りが終われば次の十二年目もまた必ず元気で:・と誓いながら

島を後にするのだ。

この種子取祭には、夜明けに行われる儀式や夜通し家々を回って祖先の霊に幸せを願うなど

様々な祭事がある。

ハイライトは五穀豊穣を願って二日間にわたって奉納される島人たちの演芸

の舞台であろう。種子取祭が国の重要無形民族文化財に指定されたことを記念し、

三十五年ほど

前、東京の国立劇場で記念公演が行われた。実は何とこの私も踊り子の

一人としてかの有名な国

177

立劇場の舞台に立ち、両親や姉妹たちと

一緒に踊を披露したことは青春の楽しかった想い出の

つである。

178

-島人たちが建築の可否を

!

さて、島などについての紹介はこれまでとして、いよいよ「ヴィラたけとみ」経営大奮闘記

について書いていこう。竹富島は伝統的建造物群保存地区に指定されている関係上、

島の住民に

しか建物は建てられない。さらに建築には構造的にも多くの制限があり、平屋建で屋根には伝統

的赤瓦の使用、外観、高さ、外壁は杉板などと非常に細かい規則があって、申請物件がこの規則

に合致しない限り許可はおりない。審査は島の「町並調整委員会」で厳しく行われ、

OKになれ

ば町の教育委員会に回り、設計者や施主のヒヤリングを含めて更なる審査が行われる。「ヴィラ

たけとみ」は結局認可まで一年半もかかってしまい、宿のオープンは予想外に遅れて、ご披露が

終わったのは平成十六年の夏であった。

-私の思いを形あるものに

私はかねがね、この豊かな自然とすばらしい環境に恵まれた竹富島こそ、こころの癒しに最適

であり、研修やセミナー、またエンカウンターなどに最適な場所だと思っていたが、いつか何と

かやってみょうかと考えるようになった。考えれば考えるほど上手くいきそうな気がして、先輩

や友人に相談したり、意見を聞いたりしていた。そうしたら何と友人たちの方がかえって真剣に

なってしまい、「箱庭のような竹富島だ、そこで是非エンカウンターや色々な研修をしようよ」

と:・。「貴方だったらできるよ!」「私も少しだったらお金出すから」など話は次第に盛り上がり

を見せてきた。本気になってしまった私は、すぐさま可能性について検討しはじめた。資金の準

備がないまま、私の指導先でもあった沖縄開発金融公庫の窓円に相談した。やがて六十歳にもな

ろうという私、三十九歳で会社勤めを辞めて独立。四十歳からCDGなる「人材育成・キャリア・

コンサルティング」の組織を作って活動してきたとはいえ、金融機関から見れば定収入のないフ

リータ的な職業である。一発で断られるだろうと思いきや、「先生、今一寄金利が安いので、や

るなら今ですよ(教育指導先の社員には私は先生と呼ばれているごと励まされ、親切なアドバ

イスを頂いた。たまたま千坪ほどであったが、夫が「君の故郷だから土地があるといいね」と以

前求めてくれた土地があった。ところが、いざ「ヴィラたけとみ」を建てる段になって、施主

は島に住んでいなければとか、いろいろ困難もあり、また資金のこともあって、諦めようかと思っ

たことも何度かあった。もし資金が準備できたとしても、ホテル経営はまったく未知の分野。結

局、独りでチャレンジするしかないと決心し、本を読み、ホテルマンや経常者のお話も伺いながら、

コンセプトだけはきちんと決めて実行に踏み切った。公庫からの借入金に私のこれまでの蓄えの

179

すべてと夫の資金を加えて、とにかく着手することにした。建築設計士との相談、建築会社との

値段の交渉、地鎮祭、棟上式、何から何まですべて初めてのことばかり。本当に厳しく辛かった。

180

-夏の暑さにも、台風にも負けず

分野を問わず今日事業経営は非常にきびしく、零細なわが「ヴイラたけとみ」も決して例外

ではない。景気の波、そのときどきの経済状況が、食材の調達はもとより電気やガスなどの光熱

費など様々な経費にもろに影響を与えるのだから苦しい。お客さまあって幾らという、夏場だけ

の決戦なので大変だ。この原稿を書いている時にも、台風が襲来し満室だった予約もすべてキャ

ンセル。公共交通機関もすべて欠航、完全に三日間は営業できないのだから。台風は大きな被害

を残して台湾

・中国へ飛び去っていった。風速五

01六0メートルの台風の襲来は決してまれで

はない。最盛期の収入で債務を返済し、そして経営しているのだから大変だ。南の島の宿命とい

えばそれまでだけど。

「ヴィラ

たけとみ」に刺激されたのか、最近何軒か中

1小型のホテルが建設されて営業を始

めた。聞いてみると料金や運営については、すべて我が宿に範を求めているようだ。参考にした

よと言えばそれまでだけど。でも、負けるわけにはいかない。私たちには真似することのできな

い多くの「お客様」、そして九年と

いう実績がある。ハ

ードも大切だが、詰まるところはソフト

の勝負だと思い、

その改善向上に

一生懸命頑張って

いる。

-「ヴィラ

たけとみ」

のyレ

この宿には「はるばあちゃん」という看板娘(?)の大きな写真が訪れる人々を優しく迎えている。

「ヴィラたけとみ」の原点の

一つは、民宿もさほどなかった当時、母「島仲はる」が、宿を探

して訪れる若者や学生たちに、気の毒に・:と手をさしのべた、いわばボランティア的精神にある。

私が宿を:・と考えた動機の

一つには、昔、母が若者たちに寄せた思いに多少影響を受けたこと

もあるのだと思う。仕事の関係上私は島に常時いることはまったくできないが、幸い思いを分かっ

てくれる姉と妹が現場を見てくれるし、働き手は全国各地から、

若いフリ1タ1を採用して運営を続けてきた。

ハロ1ワlクやネットで公募の

私が母

「島仲はる」を思う時、それはお客様へご挨拶をしたり、

島のことやお料理について、

また昔の島人たちの暮らしなどについて説明をしている姿が浮かんでくる。オープン当初の猛烈

に忙しい時期であったが・:毎日喜んで手伝ってくれた。その母は九十八歳の天寿を全うして旅

立っていった。ある日、「疲れたからちょっと横になるから:・」と静かに逝

ってしま

った。亡く

なる当日まで元気に動いていた。

PPK(ぴんぴんころり)の人生をまさに地で行ったのだ。こ

181

の母のここ

ろが私の

「ヴィラ

たけとみ」の原点の

つだと今、

しみじみと思っている。

182

劇団員への夢、

成るか

きょうは七月四日、私の七十二歳の誕生日

である。

特別、何かがある誕生日ということではな

いが、この日にこの原稿を書くということは、

少しばかり記念になりそうだと、そんなふう

に感じている。

五十九歳で元の職場をやめ、日本産業カウ

ンセラー協会で十二年間、役員を務めさせて

いただいた。もう

一期、務める予定であったが、

三月はじめ、脳血管に動脈癌と狭窄部分があ

ることがわかったため、申し出て辞退させて

もらった。ふだんから、どちらかというとす

ぐ頭に血が昇る傾向が強いことと、

ストレス

....・@・・-・・..⑨・・@・・-・・・・....

ゑ総駄目 ~

原康長(はらやすなが)

fL

1941年,長野県生まれ。60年安保の年に大学生となっ

たが ノンポリで過ごし,

東京労働j金庫に就職。と こ

ろが。職場と当時の社会の

影響とによって,労働組合

活動に関心をもち,専念す

ること 17年。 したカミって

本来の業務をあ まりやって

いない。労働組合の経験は,

書くこと.話をする ことに

ずいぶん役に立った(と本

人は感じている)。一方.r傾

聴」は身につかず,すぐ,

反論 したくなる。修行が足

りないことを自覚。

183

もそれなりにある仕事であることを自覚し、この際、わがままを言って自重する生活に入る選択

をさせていただいた。協会の河野新会長からは、

「加齢現象ですよ」と慰められたが、そうであ

てほしい。

184

こんな事情で、週二回は協会にお手伝いにいくことにしているが、残りの時聞は全くの自由時

間となった。ようやく自由時間が現実のものになったいま、これまで、時間がないことを理由に

先延ばししていた

u夢H

や計画に、ょうし挑戦するぞ、という気分が最近、高ま

ってきている。

それは三つある。二つは自分の意思で何とかできそうであるが、もう

一つは、運を天に任せるし

かない難題である。

-画像入り朗読DVD

産業カウンセラー協会にくる前の職場は東京労働金庫(現在の中央労働金庫)であったが、

五十五歳の時、定年後の生き方に関するセミナーがあった。このときの講師が青木羊耳さんであっ

たことを、協会に来てご本人と接していて思い出した。不思議なご縁である。

このころの歳になると、定年後の人生設計について当然、考える。私は、いっとき、日本語教

師をめざし、通信教育を修了したあと、週

一回、夜間のベ

トナム語の勉強に通った。定年後はベ

トナムに行って、日本語教師をしたいと思っていたからである。なんでベトナムだったのか、確

たる理由はないが、

ベトナム戦争反対の運動の経験が影響していたと思われる。東南アジアなら

ベトナムだと思っていた。

この計幽は、協会に転職することにより夢物語となるのであるが、同じ頃、朗読の勉強も続け

ていた

OR田谷区砧にある

NHK放送研修センターで、アナウンサーが教えてくれる教室の半

年コ

lスに三回通った。虎ノ門にある「ラジオたんぱ」の研修にも行った。この局は短波放送で、

日経新聞が親会社であり、株式市況と競馬・競輪中継が大部分である。だから一般の視聴者には

なじみはないが、研修が終了すると一人一分くらいの朗読を録音し、実際に番組として放送して

くれるというサービスがあった。

せっかく勉強したのだから、朗読を録音したいと思うのは人情である。何を読むかを千代田区

の図書館で探しているとき、水上勉の私小説風の紀行文に出会った。

水上勉は福井県の小浜線沿線の若狭本郷というところで宮大工の父のもとに五人の子どもの三

男として生まれるのであるが、電気も水もなかったという、筆舌に表しがたい貧しい暮らしを経

験している。十歳のとき、京都の寺に小僧として出されるが、母恋しさもあって、中学を終わる

と寺を脱走している。氏の人生は、ご本人の私小説にも書かれているが、一二十数年ぶりに再会

した実子の窪島誠一郎氏が著した『父水上勉』などを読むと、まさに波乱万丈である。窪島氏は、

戦没画学生が残した絵を集め、信州上旧市の別所温泉の近くに「無言館しを開設している。その

近くにある「信濃デッサン館L

の喫茶室で、氏がインタビューを受けている場面に遭遇したこと

185

があるが、長い白髪をかきあげるしぐさなどは、父親そっくりであった。

私が選んだ水上勉の文章は、氏が小さい女の子を残されて最初の奥さんに去られてしまった後、

育てる経済的余裕もなく、若狭の母親に預けていたが、その娘を、一一番目の奥さんと連れ戻しに

行ったとき、日本海の海辺で義母と子の二人が海に戯れる光景などを描いたものである。そこは

気比(けひ)の松原である。のちに娘は、大学を卒業して間もなく結婚するのであるが、新婚旅

行のコ

lスに気比の松原を入れていることを知った父親は、心を熱くするのである。

水上勉は実に美男子である。著名な作家であり、日本人離れをした高い鼻筋の顔が女性にもて

たのだろうと、窪島氏が書いている。しかし、写真で見ると、その風貌には生きることの苦しみ、

悲しみが浸み込んだ、深い哀しみがあらわれているように見えるのである。作品にも、それが表

れている。

十年ほどまえ、そんな作品の中から、『青葉山』『気比松原』などの短編を朗読して録音し、何

人かの知人・友人に聞いてもらった。それらを、もういちど朗読しなおして、こんどはそれに、

若狭周辺の風景などの幽像をつけた

DVDを自分で作りたいと計画している。

二年ほど前、水上勉の故郷に建設された「若州一滴文庫」を訪れた。そこには竹人形芝居を定

期的に上演する舞台が設けられている。人形芝居は電燈を使わず、ろうそくの灯だけで演じるの

だという。若狭が原発銀座といわれるほど原発が集中していることへの水上氏の憤りの表れで、

息子の窪島氏はこれを「ろうそく一本の抵抗」と称している。また、気比の松原は、陸前高田の

186

松原と並ぶ有数の景勝である。今度は、水上氏が愛した日本海と若狭などの光景をたくさん撮影

し、下手な朗読を絵で引き立たせたいと目論んでいる。十年前の録音は、まだ声に張りはあるが、

作品が醸し出す余韻を伝えるまでには至っていない。歳をかさねた味をだしたいものだと思って

はいるが・:。

最近は、素人でもビデオ画像を編集できるソフトがあり、絵と音声とパックミュージックなど

を自由に編集できる。大人のおもちゃであり、ボケ防止にはうってつけである。

-父への恩返し

||歌集刊行

私は長野県の東部、

山梨県と埼玉県秩父との県境の川上村に生まれた。信濃川に続く千曲川源

流の村である。

私はこの村に中学までいた。五人兄弟の末っ子の私だけを父が大学に行かせてくれるというこ

とになり、高校から上田市で下宿生活を始めた。母は、私だけが大学にいくことにあまり賛意を

しめさなか

った。ほかの兄弟への遠慮があったことと、そのころから家計がかなり厳しくなって

いたからだと思う。だから、私も大学ではアルバイトに明け暮れた。後楽園球場の座布団敷き、

浅草では国際劇場や常盤座での大道具係など、

実入りのいいバイトに精を出した。当時、割のい

いアルバイトを紹介した仲間には、いまも会ったときに話題になり喜ばれている。

187

私が東京で学生生活を始めたのは昭和一二十五(一九六

O)年であるが、住処は、父の妹の嫁ぎ

先の親戚が持っている木造のアパートであった。なんと、三畳の部屈に従兄弟と二人で一年間暮

らした。結婚するまで八年間、この三畳間が私の城であった。当時、父からは二万円程度の仕送

りをしてもらうことになっていたが、一番少ないときは八千円であった。こういうことは、なぜ

188

か鮮明に覚えている。

父はずっと羽眠りが悪かったわけではない。農家の次男坊として生まれたが生活は貧しく、小

学校もきちんと通っていない。むかしの農村は農作業に牛、馬を使っていたから村の中に蹄鉄屋

さんがあった。父はそこに弟子入りしている。しかし、農村も少しずつ機械化されてゆくなかで、

父の生業は全く畑がちがう古物商に代わるのである。私が小学生のころは、古物商というより、

繊維製品なら何でも売る川舎の洋口則自に様変わりし、それなりに商売になっていたようである。

父はどちらかというとお人よしのところがあり、頼まれるといやと一言守えない性格であったc

とはそこが違い、父が何かの役を引き受けると、母から必ずと言っていいほど嫌味を一言われていた。

父は、私の小学校の後半から中学にかけてずっと、

PTAの役員をやっていた。私を大学に行

かせようとしたのも、そんな父を取り巻く環境に影響を受けたのかもしれない。子どものころ貧

しかった父は、水上勉が書いているほどの厳しさではなかったと思えるが、小学校をまともに卒

業していなかったことから、文字を読んだり書いたりすることが苦手であった。しかし、学生時

代の私への仕送りの封筒には、必ず手紙が入っていた。

父は一九

OO年の生まれで八十三歳で他界した。遠くで生活していた私は、ほとんど親孝行ら

しいことをしていなかった。佐久総合病院に入院中、痴呆が進んでいる父に三日間だけ付き添っ

たのが、せめてもの親孝行と言うしかない。

父が亡くなってから二年のちに、川上村の短歌会から歌集が発行された。このなかで、父が生

前、この短歌会に参加していたことを知った。そして、確か三回忌の時だと思うが、田舎の実家

に帰った時に、父が作った短歌が小さな、ダンボール箱に詰まっているのが見つかった。このとき、

私は、定年になって時間ができたら、親父が作った短歌を刷り物にまとめ、親戚縁者に配ろうか

なと思い、ダンボール箱をもらってきた。

にもかかわらず、父が亡くなって三十年になるというのに、まったく手をつけずに放置してき

たことに、このごろ心を痛めていた。

父がこの短歌会に参加したのは、短歌集の記録によれば昭和五十年(一九七五)で、父が

七十五歳のときである。八十歳を過ぎたころから病気がちであったので、短歌会には五年くらい

通っていたと思われる。

この会の指導者が、歌集に寄せた序文のなかでつぎのように書いている。

「全くの初心者の集まりで層の厚い勉強会でした。素朴ながらするどい感性とユニーク

な発想による作品が数多く生まれたということは、千曲川の源流に位置するこの村の自然

風土と、伝統的な文化の高さによるものと思います。」

189

歌集に収められた父の作品につぎのようなものがある。

すり切れんばかりの辞書に布をはりて老いの眼こらし小さき文字読む

学校にも満足に行けなかった父が、同じような境遇にあったであろう田舎の年寄り仲間たちと、

こんな文化的な生活を送っていたことに、あらためて畏敬の思いを抱くのである。満州事変に召

集された父は脚に銃弾が貫通し、若いころから寒いときには痛がって

いた。歌集にはこんな歌も

190

占めλ回。

赤紙の召集令状受けし日の背筋の冷えを老いて夢見る

戦傷の跡がうずくと冷ゆる夜は老いたる妻に脚もみたのむ

まろき背となりしと云いて服の上着着せかけくれる妻も老いたり

父が逝った年齢までに、私もあと十年余りとなった。この宿題だけは完成させないと、悔いが

残りそうだ。

-H夢の舞台

Hはw

コールド・シアター

運を天に任せてみるしかないかな、と思っているのが三つ目の計闘である。

私は崎玉県川口市に住んでいるが、かつて

一時期、

ペダサイタマH

などという、けしからぬこ

とばが飛び交ったことがあった。こんなに文化的なことをやっている県のことを指して何たるこ

とか、と怒っていたのは私だけではないと思っている。

なぜなら、あの著名な演出家の蜂川幸雄氏が二

OO六年に、五十五歳以上と限定した演劇集団

「さいたまゴールド・シアター」を起ち上げ、同員を募集したのである。これは、「彩の固さいた

ま芸術劇場」の監督に就任した氏の最初の仕事として、当時、脚光を浴びた。その活動は今日も

継続されているのである。東京の北区でも、亡くなった、っかこうへい氏が主宰する「北区っか

こうへい劇同」が設立され、いまも公演を続けている。

初年度のゴールド・シアターの募集には、二十人ほどの募集予定に一二

OO人が応募したとい

う。高齢者の意気込みはすごいものである。毎年、公演を続けているが、今年五月現在での凶員

の年齢は、最高齢が八十七歳で、四十人余りの団員の中に八十歳台が九人いるという。

崎川氏が、こうした高齢の団員と接しているなかで語っていることばが何とも感動的である。

(者

E官岳山「劇団に関する睦川幸雄の発言」より)

「老いていくことはいろんな人生の経験を重ねること。年老いてきたことはマイナスじゃない

0

・:それを舞台に反映できる演技術、あるいは演劇が、一過性では終わらないすぐれた演劇だと思っ

ている。老いること、疲弊すること、経験を璽ねることは、必ず作品の解釈や役づくりに反映さ

れる。それがゴールド・シアターをやっている意味だ」

「働いていても、必ずしも若い日の夢が全部、成就されているとは限らない。定年でもう一度、

意味のある何かを抱えようと思っている人、そんな人たちが自己解放の手段として、もう一つの

191

人生を作ろうとしているのかもしれない」

いいですねえ、このことば||。私は数年前から、協会をやめたら、ぜひこの劇団に入りたい

という夢を描いていた。しかし、演出家崎川氏が主宰する劇団なので、基礎訓練が厳しいとのこ

と。週五日間、発声・、ダンス・演技などの訓練を一年間続けることが条件だという。厳しいなあ、

続けられるかなぁという不安を抱きつつも、挑戦したいという思いを捨てられないでいる。

私が労働金庫に就職した時代は、労演・労音などの文化的な運動が盛んで、そうした影響もあっ

て、労働金庫では年一回、文化祭を開催していた。各職場が競っていろいろな出し物を計画し

た。私が勤務していた新橋支応は、二年続けて演劇をやり、二川とも最優秀賞を受賞した。二川

目の時の出し物は「三年寝太郎」。若さだけが取り柄の私であったが、生意気にも演出を担当した。

今の金融機関のように、机にパソコンや機械が間かれているわけではなかったので、営業が終わ

ると机をわきに移動し、営業室が稽古場にかわっていたの裏方で大道具づくりに頑張る仲間もいた。

実になつかしい、五十年前の光景がよみがえる。演劇は、集団でしかできない協働の作品だ。

私白身が舞台で何かを演じる姿を夢見るが、こればかりは、劇同に採用されないことには実現し

ない。メタボの腹を引き締めて、団員募集の案内を待つことにしよう。

192

若者と大人の八|モ

-はじめに

「μ駿と教育でようやく人道は立つH

よ。ヒトは、やかましくうるさく手をや

いて、

ようやく人として相応しくなるの

ですよ・:」。今から、十年前に義母から

頂いた二宮尊徳の言葉です。

その頃、私は右も左も判らぬままに教

育業界に飛び込んだばかりでした。

「こんな私でも人様、世間様のお役に

立ちたい」と、夫に思いのたけを伝えた

ことがきっかけで、自らの意思で飛び込

んだ若人の学び舎。年の頃は、我が息子

菅~…

. . ・ ~. .. ・ - ・ ・ ・ ・・ ..... ・ ー・ - ・・ ・ ・ -

子花

町即

t

大阪生まれ。大分県に移り

住み日本文理大学にて学生

の生活相談等のボランティ

ア活動を行う 。その後,正

式に大学職員として同大学

にて教育改革の職務に従事

する。時代のニーズに合っ

た教育活動の充実のため!

人間力育成センターの設置

等の組織改革を行うと 同時

に,授業以外での学生活動

の活性化のため正課外活動

の充実にも力を入れる。

日本文理大学学生 1部 (人

間力育成センター ・進路開

発センター ・入試広報サー

ビス)部長。

193

と変わらぬほどの学生に十人十色という言葉を痛感させられながら、自問'H答を繰り返し、日々

葛藤していました。多様な学生と接するなかで、一辺倒の答えだけでは伝えきれない現実と、自

身の言葉の少なさに落胆しながらも、心の拠り所として義母のところに足繁く通い、気持ちを引

き締め意気込んでいたのです。

義母は元々教育者で、現役時代は家庭科の教鞭をとった人で、その頃の私にとって唯一の人生

の指導者だったのです。

私がこの二宮尊徳の言葉を頂いたときも、学生とのやり取りのなかでのある言葉がきっかけで

思い悩み、義母に助言を求めたのです。そのきっかけは、良かれと思って指導していた私に対し

ての学生の言葉、「大人は

KY(空気が読めない、気持ちが読めない)なんだよ!ほおってお

いてよ!Lというもの。若者たちが次々と生み出す遠からず近からずの新しい言葉に翻弄されな

がらも、「学生のための学生支援を・:、しかし、学生にも白巾がある:・、でも教育

t:・、教育と

は何?:・」と、暗い大きな海の真ん中にいるような気持ちのときに、一筋の光を照らす灯台のよ

うな一言葉に思えました。

義母の大胆さと気丈な姿に叱時激励を受けながら、一人の女性として「強く生きなければ、

強い母にならなければ、自分の教育観をもっと強く、もっと太い幹にしなければ!」と言い聞か

せ、気持ちを奮い立たせる、そんな日々を送っていたのが今から約卜年前でした。

194

-懐かしい母の面影との出会い

教育という、人聞が人間として生き続けるための永遠の諜題の最前線の現場に、ようやくライ

フワークを見出して数年が経過した頃、日増しに大きくなっていく心のモヤモヤがありました。

それは、

一辺倒の対応では教育は達成できないと頭で理解しつつも、現場では柔軟な指導が実行

できていない現実。懸命に自分なりに栄養分を摂取して太らせてきたつもりの私自身の教育観の

幹が、太れば太るほど

一辺倒になりはじめてきたと感じはじめた頃のことでした。この二律背反

的な状況に拍車をかけるように、私の世代では理解に苦しむ多様なキャラクターを持つ学生たち

の増加に伴う学内の変化に、追いつけずに迷走しはじめる教職員。もちろん、私もその迷走して

いる教職員の中の

一人。強い母を信条に、若者とが

っぷり組み合うことで、共に泣き、笑い、学

び、成長してきましたが、若者が教職員とがっ

ぷり組み合ってくれなくなってきたのです。

今まで学内では少数派だった引っ込み思案な学生が多数派となり、大人と組み合うことでアイ

デンティティを学ぶ多数派だった学生が少数派になり、私自身の経験不足が露呈しつつあったの

です。毎年入学してくる新入生は十八歳、私は毎年当たり前に年齢を重ね、年齢差は限りなく聞

いてくるのです。その内、体力と気力でジェネレーションギャップを乗り切ろうとすることに限

界すら感じはじめました。いわゆる、若者の言おうとするところの

「保守的な大人」に、学生た

ちが感じはじめていたと思います。

195

そんな時にお会いすることが出来たのが安藤

一重先生でした。キャメルのお帽子にパ

lプルの

スlツが若々しく、「お上品なお母さん」というのが第

一印象でした。

安藤先生に

一目お会いした時から、すぐに現在の状況と自身の悩みを相談したと記憶していま

す。安藤先生の持っておられる優しさのオ

lラがそうさせたと、今、冷静になれば理解が出来

るのですが、初対面にもかかわらず馴れ馴れしく自分をさらけ出してしまい、さぞかし困惑され、

ご迷惑をおかけしたと撮省しています。安藤先生にお会いできて、停滞期ともいえる不完全燃焼

を起こしていた時期から脱出できたことも事実です。本当に心より感謝しています。

安藤先生の穏やかな笑顔と柔らかな声で、「そうね、そうね、それは大変だったね。頑張った

んだものね」と、時々首を傾け肩を上げるキュ

lトな仕草は、幼い頃に母に頭を撫でて褒めても

らっているような心地よさと、どこか懐かしい気持ちにもなれて、不安定に揺れ動いていた私の

気持ちが、

どこかへ吹き飛んでしまうような感覚を覚えたのも

一度や二度ではありません。

-卑屈にさせない不思議な力

思い起こすと、安藤先生にお会いするまでの私の若者へのアプロ

ーチは、良くも悪くも「表向

きに強い母」だけでしかなかったように思えてなりません。その教育手法は、

以前の多数派でワ

イルドな、大人に自ら取っ組み合いをしかけ、がっぷり組み合ってくれるような若者にしか通用

196

しないことでした。その多数派は、今やマイノリティになりつつあるのです。

今を生きる多くの若者たち、シャイで繊細で、でも

一生懸命大人になろうとしている若者たち、

シャイであるが故に自ら大人に飛び込んでこられない若者たちにしてあげられることを、安藤先

生は身をもって教えて下さったのです。

それは、傾聴に重きを置いたすべてを包み込むような包容力です。最初に安藤先生にお目にか

かった時に、私自身が包み込まれ不安を取り除い

てくれた不思議な力。知らぬ聞に落ち着きと

安らぎを与えるような女性にしか持てない母親の温かさともいうべき不思議な力。理想の母親像

と理想の教育者としての両面を満たしている不思議な力への憧れを抱き、追いかけ始めたのです。

不安な気持ちゃ後ろ向きでデリケートな気持ちを決して卑屈にさせずに、まるで風に乗ったヨッ

トのように前向きに安定させて走らせてしまうのです。教育機関に勤める者の端くれとして、未

熟ながら母親として憧れないわけがないですよね。私自身がその偉大で素敵な力に救われた者と

して思うのは、その力に

一歩でも近づき、

一人でも多くの若者の人生に役立ちたいという想いが

一層高まり、

一生かけて努力するに値する目標になっています。

-世代を超えるハーモニー

197

安藤先生には個人的な悩みを解決へ

と導いていただいたことに留まらず、私の勤める若人の学

び舎の組織として抱える悩みにもご尽力いただきました。教育機関の一員として生きるように

なって、自分の実力と経験値を痛感した者の共通する悩みがあります。それは世代聞の問題です。

具体的には、入学する学生と年齢が毎年一歳、ずつ黍離する現実です。

もうひとつは、教育機関には決して珍しくない現象ですが、教職員の年齢層にエアポケットの

ような場所が山来てしまうこと。絶対数が少ない世代が存

ιしてしまい、ジェネレーションを網

羅する組織にならない川題が起きてしまうのです。

いずれにしても、悦代間を超えた意思の疎通とでも時代の壁とでもいうのでしょうか、そんな

課題が見え隠れしていたのです。太占の人類の誕生から、人が人であるために悩み航けたといっ

ても過言ではない壮大なテ1マですが、地域社会から将来を担う若者をお預かりし育成している

教育機関としては、常に直視し、より丁寧に考えて取り組まなければなりません。ご想像の通り、

容易に解決できる課題ではなく、悪戦苦闘している昨今です。しかしながら、幸運にもお会い出

来た安藤先生をはじめとする諸先生方のご助言で、古き風習が色濃く残る教育機関の改革への一

歩に踏み切れたのです。

それは、私達にとって大きな一歩でした。一番強く思い知らされたのは、時代に生きる若者に

常に接する者として教育的職業観からなる自己変革を学び、力強く後押ししていただいたこと

です。自

己変革の最たる例として教えていただいたのは、「異世代へのアプローチ」とでも言うか、

198

自身の年齢に合わせたアプローチではなくて、相手の年齢や立場に合わせたアプローチの方法

です。私

自身が諸先生方との出会いを通じてこんな考えを持てるようになれたのです。

初めてお会いして、どこかしら幼い頃から慕っていた母親のような面影を追いかけ、尊敬し、

憧れも抱きながらお付き合いさせていただいた安藤先生が、現在の学生たちにどのように映って

いるのかと考えました。私の子供より十歳くらい年下の学生に、質問を投げかけてみたのです。「今

日、来て下さった先生にどんな感覚を覚えましたか?」と。すると学生たちは口をそろえて、「お

ばあちゃんを思い出した」とか「なんでいうか、お母さんよりもお母さんな女性っていうのかな」

など、感じるままの言葉で答えてくれました。「そう、貴重な意見をありがとう」と学生に伝え

ながら気づいたのです。

今まで私自身が学生の母たるべきとこだわり、人間味溢れるアットホームな大学をつくるべく

生きてきました。しかし、この十年間という期間に、学生はすでに我が子と比べて十歳もの年の

差ができ、保護者会に参加するお母様方も大半が私より十歳くらいは年下です。私の年齢で学生

の母親として振舞うのは多少無理があると薄々は感づきつつ、足掻いてきたのです。

学生の目線から向き合った時、それに相応する年齢の大人像があるはずです。多少の無理を押

し通して、親がわりの愛情を注いだとしても、当事者の学生たちはどこか違和感を覚えるもので

すよね。最近は母親よりも少し年上の親戚のおばさん、近所のおばさんの立ち位置で話したほう

199

が、学生にとっても違和感なく受け入れ理解してもらえるような気がして、頭を切り替えてアプ

ローチしています。

200

全ての年代に対して、それに相応した役割が担える年齢を重ねて向き合うことを実践してこら

れた先生方の姿を拝見しますと、世代を超えるハーモニーとでも言うか、本当に感動します。ま

さしく、良い年の取り方で、若者の目線から考えても、大人として意味深い年齢の重ね方なので

ーレLiF

》「ノ。

この考え方をもってすれば、入学する学生と年齢が毎年一歳ずつ革離するという現実も違和感

なく、若者とハーモニーを美しく奏でることが出来ます。ジェネレーションを網羅した組織にな

らないという問題にも、ジェネレーションの尺度の幅が広がり、縦糸で補い合う事も出来るのです。

そんな世代を超えたハーモニーを奏でる一員になれる、世の中に少しでもお役に立てたと感じ

られる瞬間があることを、義母や安藤先生をはじめ諸先生方から教わったのです。まさに強さや

安らぎなど多様な魅力を備えた「日本の母親学、世代を超えたハーモニー」なのです。

人生の先輩方に教わったもう一つは、六十歳を超えてからの人生がどれだけ素敵かということ。

これは、私が持っていた年齢に対する価値観の大逆転です。私も、これから社会に出る若者に希

望を与え、年齢に対する価値観を大逆転させられるくらい上手に年齢を積み重ねる努力をしなけ

ればと思っています。

うまく言葉では言い表せませんが、そんな素敵で若者やミドルに影響力のある先輩に強いあこ

がれを抱きつつ、楽しく生き、そして謙虚に学びたいと思うのです。そして、大学の様々な活動

を通じて「若者と大人のハ

ーモニ

ー」を発信していくことを近い将来の目標にしています。

-むすびにかえてお礼

安藤先生のご退任記念企画として「執筆してみないか」とお声かけ頂き、「私でお役に立てる

のなら、是非」と二つ返事でお引き受けしたものの、果たして何を記してよいのかさっぱりわか

らず、

一向にぺンが進まないでいました。過去を掘り返っても、そそっかしい私が周囲に迷惑を

かけたドタパタの話ばかり。

そこで、安藤先生とご

一緒させていただいた時聞を振り返り、学ばせていただいた沢山の事柄

一つひとつ振り返り、お礼の意味を込めて記してみることにしてみました。恥かしながら、脈

ZL」

絡のなさと纏まりに欠ける点が多々目に付くものになってしまいましたが、どうかご容赦くださ

hゎV

私なりに書き進めてみますと、反省させられる点が多く見え、自分を見つめ直す機会になった

と思います。改めて執筆にお声がけいただいたことに心から感謝申し上げます。

本書テ

lマである

w

ルネサンス

1再び、誕生するH

の意味するところを執筆させていただき、

改めて、先生方の世の中に与える影響力と牽引力に脱帽している次第です。

201

安藤先生ご退任おめでとうございます。今後も私たちの進むべき道を照らしてくださる太陽の

ような存在として、ご指導を仰、ぎつつお慕い申し上げます。

202

私の健康法

誰からともなく「お若いですね」とよ

く言われる。相手は褒めたつもりらしい。

言われた本人は「またか」と気分が好く

ない。「年相応に老けて当然なのに、あ

なたは老けてないのは異常だ」と言われ

ている気がするからだ。自分も若い時は

このことに気づかなかった。

続けて「何か健康法でも?Lと訊かれ

ると、

「若いころ山に登っていました」

と答える。「今も登っているのですか?」

と無神経に訊く人がいる。内心「もう登

れる歳じゃないでしょ」と抗いながらも、

「いいえしとほほ笑んで答える。「若さの

....・⑥・@・骨骨$..電静電車}........惨事。 ・0・・ゅ場事.

羊耳ょうじ〕

65歳から本舞台1

青木(あおき

1931年生れ。1955年東京大

学卒業。農林中央金庫に 31

年間勤務の後, 1986年 55歳

から講師業。「定年後のキャ

リア開発Jについて大手企業ー

官公庁などに出講し今日に

いたる。1996年中級産業 カ

ウンセラー資格を取得し後進

の育成指導に当たる。 1997

~20∞ 年 日本産業カウンセ

ラ一1Zh会常務理事。『定年か

ら始める産業カウンセリング

学習l r産業カウンセラーが

逐語を楽しむ本1, r産業カウ

ンセラーに逐語を教える本1.

『自選羊論耳評j(kindl巴版), r後期現役

など著書多数。

203

秘訣は?」なんて月並みの質間もなくはない。相手の表情に注意しながら、

「DNAかな」とは

ぐらかす。

204

健康こそが生きがいという人がいる。私は自分なりに健康には気を使っているが、健康こそが

生きがいとは思

っていない。正岡子規じゃないけれど、健康より大切なものがあるはずだ。

それにしても、健康法なんて、女性の化粧と同様で、

人前でこれ見よがしに話すものでもやる

ものではなく、人知れずやるものだというのが私の考え方である。言わば企業秘密のようなもの

である。気心の知れた友人にならまだしも、あからさまに他人に明かしたくない気持がある。で

も本冊の主旨は心ならずもそれをパラすことらしい。賛同して文集に名を連ねた以上、種明かし

せざるを得ないようである。

-嬰鎌とした年上の向性と交流する

上を見れば限りがない。八十歳代後半、九十歳代で、なお嬰繰として活躍されている人がいらっ

しゃる。その姿を目前にするだけで、このお歳でこれだけお元気なのだから、私自身もっと頑張

らなければと自戒の気持が湧いてくる。

その最たるものは渡進五郎三郎先生。安岡正篤先生の人生哲学の継承者である。鎌倉女子大学

の図書館で毎月行われる夜間講座では、階段教室の演壇から謀とした声で日本の行く末を憂え、

難関を超克せよと後進を鼓舞する熱血溢れんばかり。先生が九十三歳の高齢であることさえ忘れ

させる迫力である。

こういう人たちが敗戦後の苦難の日本を復興させたのである。その偉業を私たちはどう受け継

ぎ、どう伝えればよいか。毎川考えさせられるご講義である。

産業カウンセラーの領域にも嬰錬とした先達は多い。「先生」とお呼びすると、「先生はやめで

たしな

下さいしと即座に害められる謙虚な横山哲夫さんは私より何歳か年上であるが、今なお後進のた

めにと、エドガ

1・H・シャインやサニ

l・

s・ハンセンの分厚い著作の翻訳に打ち込んでいらっ

しゃる。この気概、信条、エネルギーを直に吸収しない手はない。ときおりお声をかけ、お時間

をいただいてサシでお話しを伺うことにしている。

皆さんご承知の山田豊さんは、つい先年まで現役の実技指導者をこなしていらっしゃった。博

学多才でありながら著らず街わす、私が敬愛する名僧知識の良寛さんの風貌を感じさせる細々と

した飾り気のないお人柄で、お話ししていても「そんなこともあるかもしれんなあ」と、決して

あげつら

相手の非を論わない。

地元にも横浜市中区元町商居街の

S氏がいる。マメで面倒見が好い。昭和三年のお生まれであ

るから私より三歳年長である。街の顔役として多忙のなかを、環境問題のコンサルタントとして、

乞われては

H本中を走り阿っていらっしゃる。

「年上の聾操とした向性」と見出しに謡ったが、向性には限らない。緒方貞子さんがいらっしゃ

205

る。これらの先輩の精進の姿を目の当たりにすること自体が、私の心の健康法である。

五木寛之は『下山の思想』を書き、山は登りより下りが大切と含蓄ある筆致で説いた。先達の

巧みな下山ぶりから学ぶところ絶大である。

206

-溌刺とした若者と交流する

産業カウンセラーの領域は、若い人のエネルギーに触れるチャンスに恵まれている。実技指導

者然り、シニア講座講師然り、自主勉強会然りである。何処に行っても九十九%私より年下であ

る。この年齢になっても多くの若い人が近寄

ってきてくれる。

山頂という目標を目ざして精励刻苦する青壮年の姿は羨ましいし微笑ましい。頑張るほどに標

いそ

高が稼げて見晴しが楽しめる年代である。若さの特権を活かして

一途に勤しむ姿は見る者の心を

打つ。見ている自分までが血わき肉おどる。若い人から戴ける若さの

エネルギーは感動的であり、

かつての自分を思い出すことによって若さゆえのエネルギーを戴ける。若い人とお付き合いする

ことは大いなる健康法である。

若い異性の場合は、これに加えて異文化交流の要素が加わり、さらに刺激的である。女同士で

当たり前の話でも、男がきけば目から鱗だったりする。異性との交流はその意味でおおいに好奇

心を満足させてくれる。恐らくその逆もそうだろう。三歳児五歳児の旺盛な知的好奇心を見習っ

て努力することも若さの秘訣だと思っている。

-規則正しい睡眠・食事を心がける

三度の食事は予定時間内に摂る。よる八時以降は食べない。これが私の原別である。夜十二時

までには就床しパタンキユウ式にすぐ眠りにつく。床に就いてからラジオの深夜放送を聴くこと

はご法度というより、もともと「ながら」が出来ない

一点集中型のタイプであり、それが結果と

して健康にも好いと信じている。

朝は七時に起床する。近ごろは夜中の一一時から三時ごろに

一回トイレに起きるようになったが、

再びパタンキュウだから目覚ましをかけておかないと寝坊してしまう。

六時に起きて洗面など済ませ、コ

ーヒーを海れて食卓に就くのが八時すぎごろ。食器を洗い九

時までには朝の家事仕事が終わる。

土日は近所の会場で十時から自前講座を聞いているから、支度をして出掛けるには丁度いい時

刻である。スケジュ

ールがない日は、そのまま九時までには机の前に座って執筆を始める。

お昼は、出先では皆さんと

一緒に摂るが、自宅ではお昼の混雑を避け、時間をずらして近所の

レストランなどに妻と出掛けることが最近増えた。

207

-週四日以上の天引き時聞を実行する

208

積極的に脳を働かせないとボケるそうだ。だから受身的な脳の使い方ばかりだと、認知症に向

かってまっしぐらだと聞いたことがある。

天引き貯金の考え方をヒントに、

一日二十四時間のうち二時間を「天引き時間」として差し引

いて、脳の働きを積極化させる時間に充てようと考え、私のバイオリズムを勘案して夜八時から

十時までと決めている。協会の委員会があったり、

、グループの懇親会があったり、遠距離出張が

あったりで、確実に三六五日すべては天引けない。ゆったり目に目標設定して年間二OO日以上、

週四日以上と考えた。この習慣は十数年来ずっと続いている。

夕飯を終え洗い物をすませて、

二十時までには机の前に座る。そこから二時間は集中する時間

である。集中力は記憶力とほぼイコールであることを実感している。高齢だから記憶できないと

いうのは言い訳であって、ただ集中していないだけであると信じている。

「天引き時間」のあいだはテレビの聞こえない部屋にこもる。その聞はもちろんメールを開け

ない。ツイッタ

l、フェイスブックをやらない。電話に出ない。ひたすら集中する。二二時になっ

たら「天引き時間」をピタリと終えて、居間で妻とお茶の語らいをする。

現役時代、「横浜朝飯会」に所属し、毎週

一回、曜日を決めて出勤前の二時間足らず、横浜駅

げんさん

西日のホテルで朝食のサンドウイッチを摘まみながら話しを聞き研鏑を深めた。他の曜日の朝の

時間は自宅で本を読んだり調べ物をしたりしてから出勤した。「天引き時間」という発想は、

の辺りがヒントになったかも知れない。

-誰かに見られている意識を忘れない

高峰秀子主演の

「女が階段を上るとき」という映画があったが、年齢は後ろ姿に表れると言う。

鏡をみながら懸命に化粧をしても、背が丸い、歩くと横に揺れる、足が上がらずつまづくなど、

歩く後姿で老化現象がパレパレである。

女に限らない。平均余命からしでも歳をとるのは男のほうが先かも知れない。真っ黒に染めた

髪は不自然で却って痛々しいし、不相応な若づくりは見事に哀れである。

肉体の衰えは、いくらお手入れしてみても、劣化のスピードを和らげることはできても後戻り

はできない。アンチエイジングという考え方は、落城寸前の砦のようなもの。わずかな年月の引

き延ばしであり、所詮悪あがきに過、ぎない。

いつか三浦朱門著『老人よ花と散れ』という本を読んだ。肉体の衰えに気を取られ引きずられ

るあまり、心の在り様まで衰えさせては元も子もない、と書いであった。要はいかに潔く落城す

るかである。いかに心の熟成に努めるかである。

つねに誰かに(とくに若者に)見られている意識を持つことが大切だと思う。モノ欲しそうな

209

顔をしてシルバ

ーシ1トの前に立たないようにしよう。それでも席を譲られたら、譲ってくれた

人の思いやりに応えて、快く素直に座ったうえで、この席を必要としている人に譲る権利を与え

てくれたことに礼を述べよう。

210

nソhソ

願わくば「あのような歳のとり方をしたいものだ」と周囲から認められるように、漂々しく毅

ぜん然

としたスマートエイジングを心がけたい。人のお世話にならぬよう、人のお世話ができるよう。

これが心の健康を保つ秘訣である。

-講義は立ち姿勢で腹から声を出す

キャリア選択に直面してからでなく、数年

・十数年先を予測して、キャリア

・ビジョンを事前

に描き、できるだけ早期にライフプランを始動して定年後に備える必要性

・重要性を、企業等に

赴いて説くのが私のミッ

ションである。

五十五歳で独立し講師の道に入った。講義は立ち姿勢で行う。たとえばベルカント唱法でオオ

ソレミヨを唄いあげるとき、座っていては声が前に出ないし届かな

い。講義も同じことである。

グループワ

lクが多いから、会場内を歩き回る。受講者の目をみて語りかけ、顔色を読んでマ

イクを差し出し、受講者の応答に耳を傾け、相互交流しながらすすめる。立っていることと、動

きまわることと、語りかけることが講師の最低条件である。

講義は演技である。講義内容の良し悪しよりも、語りかけ訴えかける仕草

・表情

・態度、すな

わち講師の非言語の部分がモノを圭一日ノ。その意味で、部屋を暗くして受講者の表情から目をそら

し、ひたすらパソ

コンを操作し続けるパワ1ポイ

ントを、私は使わない。

講義会場での主役は受講者である。講師が

一か所に立ち尽くし、

座り込んで

いては

CSに反す

る。講師はつねに援助者であることを自戒しながら講義をすすめる。立ち姿勢で腹式呼吸に心が

け、歩き回りながら講義をすすめることは、私にとって健康法でもある。

-昔できて今できないことを受け容れる

年齢相応に出来なくなることが増えた。十年ほど前までは、

庭木のてっぺんに登って男定をし

ていた。芝生にしゃがんで雑草を取っていた。膝を痛めてからしゃがめなくなった。直角以上に

膝が曲がらない、胡坐が組めない、正座なんて出来なくなった。

近ごろは、高いところに登って上を向くとふらつく。天井の蛍光灯が切れても、脚立に登るだ

けでやっとである。その姿勢で上を向き両手で蛍光灯のカバ

ーを外すことは、危なっかしくて出

来なくなった。休日まで待って近くに住む娘に頼む始末である。

しゃがめなければ、好きなガ1デニングがつらくて

できない。靴の紐が結びにくくなれば、ス

リップオンばかり履くようになる。入浴してもしゃがめないから、膝をついた姿勢で身体を洗う。

211

湯船に浸かるにも自力で膝が折れないから手すりに頼る。

要はこの現状をどう受けとめるかである。このピンチをどう受けとめるかである。もう歳だと

がっくり力を落とすかどうかで、心の健康の度合いが決まる。

せっかく足腰が弱ったのだから、せっかく膝が痛くなったのだから、今までのように外に向かっ

て跳んだり椴ねたりするエネルギーの使い方はセーブして、もう少し静かに心の声に耳を傾ける

ことにその分の人生時間とエネルギーを振り向けてみてはどうか。

そのような天の啓示であると前向きの解釈ができれば、まさにピンチはチャンス。それでは五

木寛之の『大河の一滴』でも読んでみょうか、という気にもなる。その流れで、いま『老子』に

はまっている。

健康の秘訣と言っても肉体的な健康ばかりでない。

WHOの定義じゃないけれど、肉体的な健

康の劣化を精神的な健康(フラス志向)と社会的な健康(助け合い)でカバーする。こういう考

え方があって好いのではないかと思っている。

212

高齢者は金の卵

金の卵というと何を想像するでしょうか。

かつての金の卵とは、映画

「三丁目の夕

日」で描かれたように昭和の高度成長期に

日本の労働力を支えた中学を卒業したばか

りの十五歳の労働力でした。しかし、少子

高齢化のスピードが増し労働力人口が減り

続ける現代においての金の卵は、唯

一人口

が増え続けている六十五歳以上の高齢者で

す。平成二十五年には、六十五歳以上の高

齢者人口がついに=二

OO万人を超えまし

た。労動力人口の減少が見込まれる今日の

日本において、高齢者の労働力こそが日本

の経済社会システムを支える「金の卵」な

.'.・@・・・⑨・・・⑨・・@ー・-・・・・.'.

節子せっこ)

田中(たなか

産業カウンセラー&ラジオ

パーソナリティ&管理栄養士。

一般社団法人日本産業カウン

セラー協会執行理事。長年,

南海放送のテレビ・ラジオパー

ソナリテイとして番組制作 ・

出演してきましたが,現在は

産業カウンセラーとして企業,

団4本でカウンセリングやメン

タルヘルス ・コミュニケーショ

ンの講師活動を通して産業カ

ウンセリングの普及に努めて

います。でも本当は。韓国ド

ラマと麻雀と映画&ショッピ

ング三味の毎日を送りたいと

画策する日今なのです。

213

のです。

高齢者が

いつまでも元気で働き続けなければならなくなりました。高齢者の強みは、知識に様々

な経験を加えて、使いやすく実践的にした知恵袋を持っていることです。私は、日頃シルバ

ー人

材センターとのかかわりの中で、その知恵とコツが内包された高齢者の労働力こそが、これから

の日本を救う金の卵であると強く感じており、ここで少しご紹介させていただくことにしました。

214

-私とシルバー人材センターとの出会い

私は現在、松山市シルバ

ー人材センターで高齢者の就業支援技能講習会の講師をさせていただ

いています。日本産業カウンセラー協会四国支部の事業です。

私とシルバ

ー人材センターとの出会いは、七年前。ある日、産業カウンセラーでシルバー人材

センターに勤務していた友人から「節子さん、傾聴の個人教授してくれん?し

と連絡があり、紹

介されたのが

Y氏でした。

Y氏は高齢者の就職支援担当者で七十歳を超えてからキャリアコンサ

ルタントの資格取得にチャレンジされていました。学科は

一発合格!

しかし残念ながら実技試

験がなかなか受からない。元社長であった

Y氏は、情に厚く人生経験豊かな人物でありますから、

教え、指導し支援されてこられた人生。解決策がすぐ頭に浮かびます。その上、弁舌さわやかで

あるから教え諭す。その

Y氏が傾聴力を獲得され、資格を取得しました。

高齢者の再就職は決して容易ではありません。その現場でY氏は、高齢者の労働力の最大の強

みは「人間力」だという強い信念を持っており、その人間力の定義を「能力の優劣を間わず、人

の心や痛みを無条件で理解し共感できる人」とされたのです。

そして私は、人生経験豊かな高齢者が今一度、自分の人生を振り返り、見直し再出発するため

の基礎能力である人間力開発のための講座をプログラムさせていただきました。まあ、本来その

方が持っている能力に気付いて発揮してもらうお手伝いです。ご自分のやさしさ、相手を大切に

する心、思いやり、困難を乗り越えてこられたコツ、頑張ってこられた勇気、主体的に生き抜く

てきめん

適応力など持っている資源を再確認し、表現する方法を学び体現してみる、すると効果捌而、あ

んなに変えたかった相手の態度が変わったのです。自分の態度が変わると周りが変わる経験はう

れしい驚きですから、どんどん実践していかれるわけです。ご本人にとって自分が変わったと実

感できるのは、大きな喜びであり感動です。

また、私にとっても人が変わっていく感動をもらえるのですから、嬉しくてやめられません。

それに事例の宝庫です。さまざまな分野のキャリアや時代に触れることができ、紙に書かれた仕

事内容でなく実感されたその仕事の難しさややりがいを教えてもらえます。戦後の働き方、奉公

の時代、女性の仕事の変遷など、まさにキャリアと時代の生きた資料館なのです。

常々、この貴重な宝物は、若年者就職支援における仕事開解や学校のキャリア教育の現場に役

立つ生きた教材だと思っていました。核家族化が進み、家庭に時代や仕事を語る人がいなくなっ

215

た、第一次産業の衰退で仕事の現場が子供たちに見えにくくなってきた時代だからこそ、仕事の

語り聞かせが必要になっているのです。キャリア教育の立派な先生方の講演会も意味ありますが、

子供たちにはも

っと身近で日々仕事に誇りをも

って頑張ってきた人の話をたくさん聞かせてほし

216

いのです。

今、シルバ

ー人材センターには団塊世代の会員登録が増えています。知識を経験で練り上げた

昭和の知恵袋を、平成の人材育成に活かすことが、

子供たちにとっても、高齢者にとっても、若

年者の離職率が高くなっている現代日本にとっても

「三方よし」なのです。これからの教育界と

シルバ

ー人材センターの協働こそが、世界で頑張れる強いニッポンを作ることにつながると私は

信じています。

-そして私も還暦にな

った

じぇじえじえ還暦!

です。来るのか!

来たか!

と昨年から還暦、還暦と心が騒がしいと

思っていたら、どうも自分自身に

「時間ないよ」と納得させたいようです。

還暦は、赤ちゃんに還るので、生まれたばかり(?)のはずですが、このステージは、これま

で過ごしてきた時間よりも確実に短い。時間が有限であることを確認、

実感できた途端に、

「今

でしょ!(この言葉が流行っていてよかったごって感じで、欲望を実行に移すモチベ

1ション

がアップしてきました。やりたいことを、やらなければならないことよりも優先させてもいいと

いう許しを得た感じでしょうか。孔子は、それは七十歳になってからだよと言っていますが、まあ

六十歳からでも傾聴を忘れなければ

OKだと思うのですが、知何なものでしょう。やりたいこと

を我慢してきたというよりも、怠惰にいつかやりたいなぁと先延ばししてきたことがダム状態に

なっていることに気づいた感じです。まだ、大丈夫、いつか、いつか:・と。

そんな自分にサヨナラせねば!と少し前、英語ができないコンプレックスからイギリスに

ホlムステイしてみました。それでわかったことは、そんなことで英語ができるようにはならな

いということと、私は異国でも楽しんで生活できるんだとの二つでした。今度はひそかにビッグ

アップルを引ってしまおう110

自由な感覚がバージョンアップしているように感じるのは、元来の我儲なせい(?)かしらと

思っていましたが、実は脳は年齢を重ねるほど自由になるそうです。脳科学者の茂木健一郎氏に

よれば、人聞はある状況に置かれた時聞が長くなればなるほど、その状況に慣れて自由を感じる

度合いが増える、年齢を重ねるほど、世の中に慣れて余裕ができて自由になるのだそうです。だ

から忘れるという能力開発が進んでも、余裕ができるので判断力はむしろ上がってくるというわ

けですね。人は発達し成熟するほど自由を手に入れることができるのだと思うと、ちょっとうれ

しい感じで、ジヨハリの未知の窓に詰まっている私の可能性にさらに期待してしまいそう(!)

です。

217

-はなさかばあさんになりたい!

218

せっかく生まれ変わったのですから、第二の人生は笑顔で幸せの押し売りをし続けていこうと

思っています。なんや穆陶しい限りですが、

言い続け、やり続けているうちに本物になるに違い

ありません。

私は、高齢者としての使命は幸せになることだと思って

います。なぜなら、

高齢者の幸せな姿

は若い人のお手本に、

生きる希望になるからです。生きて行きさえすればいつか必ず幸せになれ

るんだというモデルが必要です。そうすることが、自殺予防対策にもなるはずです。松山市自殺

予防対策推進委員としても言いたい

「高齢者の皆さん、だからみんなで幸せになりましょう」。

今後さらに日本の平均寿命は延び、

O六O年には男性八十四歳、女性九十歳を超えると予測

されています。あと何年、何十年どのような時間を過ごすかが重要になります。これはまさにリ

スク管理ともいえるわけです。幸せになるためには、まず還暦を迎えたら

一日でも長く健康寿命

(介護を受けたり病気で寝たきりにならず、自立して健康に生活できる年齢)を延ばす努力をし

なければなりません。

心身

一知です。心と身体はく

っつい

ています。、だから心を幸せに保っと身体も

健康のはずです。この予防法にはお金がかかりません。メンタルヘルスが身体の健康をつくる、

逆もまた真なり。脳内分泌系やホルモン系はメンタルの影響を受けやすいことがわか

って

います。

どうや

って

?

一日のうち不機嫌でいる時聞が多かったり、不平不満不安感でいっぱいな毎日は、当然身体の不

調につながります。健康に上機嫌にフロ

l(余裕があり、集中力もあって冷静)に生きるという

ことは、生まれついてのその人の特性というわけでなく、個々人の意識の持ちょうが大きく関係

しています。

幸福になれる人はどんな環境下でも幸福になれますが、不幸を感じやすい人は、どのような環

境でも不幸になる種を探します。私が尊敬する南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ第八代大

統領は、アバルトへイトの政策が厳しかった南アフリカでの初めての黒人大統領です。反アバル

トヘイト運動により反逆罪として逮捕され、二十七年間に渡り刑務所に収容されました。しかし、

クサルことなく希望を持ち続けることができたのは、「自分の魂は誰も縛れない」、と獄中でも常

に精神が自由であった人だからです。そして自分を獄につないだ憎むべき白人のスポーツであっ

たラグビーを積極的に学び、ついにワールドカップを南アフリカで開催した人ですc

「わが運命

を決めるのは我なり」、「わが魂を征するのは我なり」。

私たちは誰の支配も受けず自由なのです。人はどんな状況でも幸福感を持つことができます。

幸福はその人が内に感じるものである限り、自分でどのようにでもなります。その状況を自分が

どのように考えるか、受け取るかで幸せにも憂欝にもなれるのが人間です。まずは幸せ感が持て

るように行動してみませんか。

219

-私の実践その①

私たちの記憶は、私たちが覚えていたいことを覚えていたいように記憶しています。長生きす

れば、あなたの世界で感じたり考えたりしたことがこの国の歴史になる、そうは思いませんか?

大還暦には、私が語ることが歴史になると考えただけでわくわくして幸せな気分になれます。

長生きは三文の得|生きるが勝ち|

220

-私の実践その②

愛ことばは

「いつでも夢をl

吉永小百合と橋幸夫でしたね。夢は無限のモチベ

lションです。生きる力です。「もう、この

年で夢なんか:・」、「もう少し若かったら夢もいいけどね」、

1なんか、私なんか、

1たら、ああだっ

たら、こうだったらは、夢と希望を奪う言葉。精神的な若さは新しいことに関心を持てるか、夢

にエネルギーや時間を注ぐ勇気があるかです。

またその夢の実現過程でたくさんの幸福感を味わえます。前はできなかったことができるよう

になった、これまでの自分のレベルよりちょっとでも上に上がった時、人は大きな喜びを感じま

す。夢に向かって努力している過程、

のです。

一生懸命に頑張っているプ

ロセスが幸福感にあふれでいる

ωOHωEAOのにこにこサンタボランティア

サンタクロ

ースは幸せを運んでくるイメージがあって、昔から私はサンタク

ロースが大好きで

-私の実践その③

した。それで、

サンタクロースになることにしました。十二月はサンタ月!

衣装に身を包みグループホ

lムを訪問しています。赤は元気色!あったかくふんわり優しく気

持ちを包んでくれます。ハグすると淋しさがうれしさに変わります。グループホ

1ムの皆さんは

サンタさんが大好きです。

衣装はこの頃は一

OO円ショップでそろいます。プレゼントを入れてもらうために枕元に置く

靴下も履いてしまいます。左右同じ形だけどかわいいので

OK。ミニの衣装によく合います。大

きなクリスマスバージョンの袋に、和菓子屋さんでクリスマス用に包装してもらったプレゼント

を人数分詰めて出かけます。

私は、社会福祉協議会さんにお願いしてグループホ

lムを紹介してもらっています。日本中、

十二月にサンタさんがグループホ

1ムを訪ねてプレゼントを渡してくれるのが私の夢!(いずれ

往く道だから、なるべく居心地をよくしておきたい防衛本能かもしれませんて家族から離れて

暮らしているお年寄りは、子供に還っています。お母さんやお父さんと離れて暮らしているさみ

しさがあります。ありがとう、感謝の気持ちでそっと手を握り、抱き寄せてありがとう!日常

に変化をつける、刺激を与えることは認知症が進むのを抑えます。表情がなかったお年寄りの顔

に表情が出てきます。あなたの笑顔が、お年寄りを笑顔にします。是非グループホ

lムに行って、

にこにこサンタになってください。マザ

lテレサ効果で免疫機能が高まって長生きします。

愛や幸せ・感謝をなんのてらいもなく書ける、これが還暦なのかな。

サンタクロースの

221

-金の卵

222

さて、最後に無理やり金の卵をまとめてみました。私にとって六十歳からの金の卵は、光源を

内に持った、自らが輝く存在になることです。これまでは、諸先輩方に光を当ててもらい、照ら

してもらってやっと人聞社会で仕事や活動ができてきました。自分一人でなんでもやってきたと

思っていたが実は、人さまのおかげだということに気づいて感謝することができたときに、はじ

みみしたが

めて耳順えるのではないかと思うのです。還暦は出発の時、これまでの活動が統合された灯りが

その人の内にぽっとともります。シルバ

ー、ゴ

ールド、プラチナ、ダイヤ、オーロラ、輝きは変

化し続け、その人の求める輝色になっていきます。それぞれが違う色に輝いてみんな美しい。

台湾のお寺に行ったときに目にした光景なのですが、お寺で厄除けをすると、その人の灯りを

つけてもらえます。その光が毎日増えていき、お参りに訪れる人々を照らしているのです。私に

は、人々が光の中で手を合わせ安ら、ぎと安心を得、光たちは自らの光を愛おしみ、周りを照らす

ことができる喜びに満ちている場のように思えました。

外から内への光の転換、これが、わたしにとっての印歳からのルネッサンスです。

人生の午後はアサlティブに

「四十歳からの出発」に刺激されて、

産業カウンセラーとして独立

われわれの生涯は太陽の動きのよう

なものだ。(中略)

人生の午後は、人生の午前に劣らず

意味深い。

ただ人生の午後の意味と意図とは、

人生の午前のそれとは全く異なるもの

なのである。

C・

G-ユング

『無意識の心理』より

私は五十九歳で産業カウンセラーとし

て独立した。カウンセリングの学習歴は

五十九歳で

...・毒事・@・⑨・・e骨量:・......⑥....・・・

岩船(いわふね

産業精神保健専門職,

産業カウンセラ ー(シニ

ア), キャリアコンサルタ

ント。旅行会社 2社を経

て 1998年産業カウンセ

ラーとして独立。東京産

業保健推進センター相談

員,女性と仕事の未来館

のキャリアカウンセラー

歴任。現職は企業のカウ

ンセラーとスーノfーノくイ

ザー。「ザ・アサーテイブ」

主宰。 書道作家 (白書展

教育部審査員・毎日畜道

展会友)。趣味は,オペ

ラやクラシックコンサー ト鑑賞と観劇。小津征爾と坂東

玉三郎の大ファン。

展子のぶこ)

223

一九六四年にさかのぼるが、結婚後はも

っぱら夫の扶養家族という環境下で、育児の傍らコツ

ツ勉強させていただいてきた。

まさかつ

224

あの健康な人が・・・?

の後半はこうして始まった。

働き始めた事務職は、十八年の、、フランクがあるからまさに浦島太郎。

判らない

ことだらけ。

生懸命に聞きメモをしても、そのメモを見ても思い出せない。ついには、指導してくれる二十

歳の女性から「岩船さん、悪い冗談は言わないで下さい」とまで言われた。良くも悪くも判らな

いのだから、ひたすら低姿勢で教えを乞うた。今となっては懐かしいが、当時は必死で、こうい

う時には疲れさえも感じないものだ。感じている隙すらない。今、少しでも人に優しくできると

すれば、この経験の賜物と思う。十年間働き、家族への経済責任も終わったので、「これからは

したいことをしよう」と心に決め、独立に踏み切った。

癌は容赦なく家族から夫を奪い、

四十八歳で未亡人に。人生

-私流の終わりの美学

「そろそろお引き取り下さい」と言われて辞めるのはイヤで、自分から退社の申し出をした。

何事も自分の意思を貫きたい性格は、持って生まれた性格か学習によるものかはわからない。

-したいこととは

したいことはいろいろあった。私のライフワークは「女性の能力開発研究」の分野で、退職し

てすぐ「働く女性のキャリア開発」を共同執筆できたことは誠に幸運であった。「女性と仕事の

未来館」からもお誘いいただき、か仕分けμ

で閉館するまでキャリアカウンセラーを務めたこと

もかしたいことH

であった。

『働く女性のキャリア開発』は思いがけない方向に発展していった。若い女性の編集者の目に

とまり、この中の一章(アサ

Iティプ・コミュニケーション)を一冊にしませんか?と思いが

けない幸運が舞い込み、初版『アサ

lティブ』が誕生した。『アサ

lティブ』発売直後、朝日カ

ルチャーセンター横浜から電話をいただき、かなり長い期間講座が続いた。大御所

S教授のご推

薦と後からわかった。ありがたいことで、大変嬉しく思った。旧友、故岡野嘉宏氏からも

「すご

いよ!平積みになっているよ」と電話をいただいた。色々な方から応援されてのすがすがしい

出発だった。朝日カルチャーセンターの経験から、日本で

ρ

アサ

1ティブ・コミュニケーション

が必要なのはサラリーマンだd

と実感した。これが中間管理職向けの『部下にしっかり伝わる話

し方』になった。道は開けていった。

225

-夫の

二一一日が人生を変える結果に

226

三十代半ば過ぎのある日、突然夫はこう言った。「定年までは働くけど、定年後はあなた食べ

させてよしどのような場面で、どのような脈絡でこの言葉が言われたのか、今となっては全く思

い出せないのだが、私は即こう答えた。

「いいわよ。、だけど六十歳になって、『夫に代って働きます』なんて言ったって、皿洗いすら

できないでしょう?何か身につけたいから、あなたが終わったら私も大学に行かせてよ」。夫

は大学時代に二学科修めていたが、法律に関心を持ち東京都立大学

(当時)の夜間に通っていた。

その頃、広中和歌子さん訳の『四

O歳からの出発』がベストセラーになっていて、これを読んで

感銘を受け、漠然とではあるが四

O歳ぐらいから何かしたいなぁと思っていた矢先であった。

この夫の

一言は、私の人生の午後に向けての暗示に思える。約束どおり、

二年間立教大学社会

学部で「カウンセリング」と「パ

ーソナリティ論」を聴講した。カウンセリングの講義があっ

のはここだけだったようだ。先生の講義のすごさは、聞いてそのまま書くときちんとした文章に

なることだ。決してノ

lトを読み上げてはいない。無駄のない話し方をなんとか見習いたいと、

最前列でしっかり聴き入り書き留めたノ

lトは、今でも時々見直す。私も何時かこういう講義を

したい!

-主婦からの出発|主婦を最大限に生かす

子供が幼稚園に入ると午前中は自由になる。この時間を家庭の外に眼を向け、神奈川県の県政

モニターに応募した。自由テlマの小論文は

「神奈川における食料の自給自足」。珍しいテ

lマ

のせいかもしれないが、二

・五倍ぐらいの競争率で当選。お金にはならないが、知事と年四回懇

談できるチャンスだった。県政モニターは

一生に一回しかできない。

主婦は何もできないと思う人が多いらしく(あくまで当時のこと)、手を挙げて発言すると、「オ

!」と眼を見張られる。主婦代表にされて、財政懇談会にも出席した。一

OO人の各界代表出

席者は、銀行頭取であったり、新聞社の支局長であったりした。主婦代表ででもなければお呼び

でないそうそうたる面々で、主婦で得をした。県の広報誌の主婦レポーターにも声がかかり、後

日ものを書くことにつながった。

-人間万事塞翁が馬

|ピンチヒッタlの連続でステータス確立

ふり返っ

てみると、独立以来順風満帆でこられたのは、私を押してくださる方がいたこと、時

代の波に乗れたからだと思う。

オペラ歌手の中には、

主役の急病で代役をつとめ、それからスタ

l街道が開けた人が多い。最

227

近観たアイ1、ダ役もそうであった。オペラ歌手のピンチヒッタ

lは、初日の二1三目前にしかこ

ない。それでもすぐに勤まる人は結構いるのだそうだから、層が深い。

228

-私もピンチヒ

ッタlでポストを得てきた

平成十年六月に開設した

「東京産業保健推進センター」の初代カウンセリング担当「相談員」

がそれ。六月初旬開設のところ、四月になって予定者が断ってきたため、担当者の困惑は大変で

あったらしい。刷り物も数万部印刷済み、曜日も決まっているということで、私としては、狭い

条件下、しかも不慣れなメンタルヘルス担当にはじめは時賭した。また、退職後一番やりたかっ

た家庭裁判所の家事調停委員の応募もしたい。が、「キュ

ーピーさんは振り向いたら髪の毛ながいし。

チャンスは掴め!自分にゴ

|サインを出し、お引き受けした。ここでの経験、出会った方々が

今私の財産である。指名してくださった行政担当(当時)の

F氏に感謝している。

平成十

一年五月超大物が亡くなり、三週間後に控えた管理職研修の代役に声をかけてくださっ

たのは安藤

一重女史であった。この研修機関からは以後毎年オファーがあり、今では総勢三十人

ぐらいのチ1ムで研修を担当している。

-いつかは自分の風が吹くーそのとき思いつきり舞い上がるのだ

ヒマラヤの山脈を越える渡り鳥がいる。鳥は麓で上昇気流を待っていて、いっせいに飛び立つ。

気流にのり、気流に任せて飛んでいく。必要な場所で気流から離れるのだろう。私には、

ρ

メン

タルヘルスの風H

が吹いてきて、その風に乗って舞い上がった。この経験から、いつかは自分の

風が吹く。そのときに舞い上がれるように十分に力を蓄えておくことだと思う。

-そして今、

これから

オペラや歌舞伎がわかる歳になってきた。せりふやしぐさで表現される心の奥深い襲を感じら

れるには、やはり亀の甲より年の功だろう。歳を重ねることで判る何かがある。アリアに込めら

れる切々たる思いが、客席の私に瞬間に伝わり涙がこぼれる。隣席の外人サンもハンカチを眼に

当てている。言葉はわからなくても、伝わるものがあるのだ。

昨年から

「シニアのためのエンカウンター」を飛騨高山で始めた。定員八名、ファシリテlタl

二名、研修生

一名の構成で、お寺の本堂で語り合う。

「これよりはまさに

一人の下り坂少しきままに花

一枝もち」(斉藤史)のしゃれた気分

と、身体が思うようにゆかなくなっていく不安は隣り合わせと思う。若い人にはわからない気持

229

ちを、同世代で分かち合いませんか?の呼びかけに、昨年は沖縄県をはじめ、遠方から十

一名

が参加された。できるかぎり続けていきたいから健康でいなくちゃ!

230

グあるがままu

しなやかに生きる

チャレンジは楽しい!

-病魔に取りつかれて

これまで元気だけがとりえだと思ってきた私

が、六年前の二

OO七年七月末に突然病魔に襲

われた。その頃、足のむくみが酷いと感じる日

が多くなっていたが、そのつど「今日は講師と

して長い時間立ち仕事したせいだL

とか

「長い

時間歩いたせいだ」と放っていた。その内だん

だんとむくみが酷くなり、階段の昇降時に足が

重くなってきたことに気づき、初めて病院の扉

をくぐった。結果は甲状腺の機能低下だと診断

され投薬だけ受けた。その時、医師から「何か、

..・@.......・毒事....争⑨・e・・・・4書・-・

瑞江みずえ)

遠藤(えんどう

日本産業カ ウンセラー協会

シニア産業カウンセラー!

協会認定スーパーヴァイ

ザー,企業 (5社)カウン

セラー。児童,幼児教育歴

21年,カウンセラ 歴 30年。

出身は大分県,夫の転勤に

より大阪在住 40数年。趣味

(好きでやったこと)和洋裁,

編み物1 生花,スポーツは

とりあえず何でも(卓球は

除<l,現在も継続している

のはマラソンと水泳。性格

はいた ってのんびり(フ)

で明るい。

231

症状があったでしょう」と訊かれたが、それまで全く自覚症状がなかった鈍感な私の身体だった。

医師日く「甲状腺の病気には他の病気が潜んでいることもある。

H

歳も歳だからu

この際、健康

診断を受けてはどうか」と奨められたc

この医師からのか歳も歳だから。という言葉に納得しな

がらも、現実には脅されているとも思った。

医師の提言(脅し)に従い、いろいろな検査を受けた。結果は、素人が見てもはっきり異常だ

とわかるレントゲン写真を突き付けられた。右の肝臓が左の四倍ほどの大きさにまでなっていて、

その四分の三が真黒に写っているレントゲン写真でした。「鼎ですね」私は、医師のこの言葉に

驚きはしなかったが、やっぱりというショックは隠せなかった。

私は家族から、腎臓を悪くする食事をしていると言われていたからだ。常日頃から、味付けが

濃く、甘いものと脂っこい物を好んで会していたからである。その時、頭に浮かんだことは、生

命に対する不安などよりも

H

困ったな

1uだった。

毎日どこかの企業ヘカウンセラーとして出向いていることから、侍っているクライエントへの

思いや、当時数件の研修依頼を受けていることが頭をよぎり、予定表のカレンダーをめくる事の

方が先だったのだ。

232

-なんとかなるさ|まな板の鯉

「癌になった。どうしよう」とか「死ぬかも知れない」なんて頭にはなかった。どうやって病

魔をやっつけようかということしか考えなかった。

食事療法で?いやいや霊芝?にんにくだ!

アロエだ!などなど、これまで他人ごとと

して耳にしてきた癌治療対策のことばかり考えた。H

絶対に自力で治してやるH

という思いだけ

だった。

それから数日後、あの忌わしいレントゲン写真と紹介状を持って大学病院を受診し、入院や手

術についての説明を受けた。医師から「八月のお盆休みを利用して手術を受けたらどうか」と促

されたが、私のスケジュ

ール帳では十月の末まで空いている日がなかった。即座に私は、

二か月

先の十月末に入院すると告げた。

当然、家族は猛反対でした。「癌」だと宣告されているのに、

一日でも早く手術を受けるよう

にと心配をさせたが、カウンセラーとしての相談業務と研修講師としてスケジュールを変更する

ことは全く考えなかった。

それから二か月後、予定通り二週間の予定で入院した。すぐに家族と共に担当医師から手術に

ついて説明を受けた。その時、全く不安を感じていなかったかというと、正直そうではなかった

かも知れないが、この際ゆっくり休むことができるとも思った。

233

そして運命の十月三十日、

恐怖と不安の中で右腎臓摘出の手術を受けた。手術当日のことは憶

えていないが、牒鵬とした意識の中で激しい痛みに耐えていたことは、微かに残っている。その

翌日も翌々日も耐えがたい痛みが続き苦しかった。三日目からは、痛みも少し和らいできたので

パソコンをベッドに持ち込み、一日中研修資料作りなどをして退屈な時間を費やした。身体を休

めるようにと再々注意をされたが、それでもしつこく続ける私に、巡診の医師や看護師から呆れ

られる患者でした。

順調な回復で、手術から六日目には抜糸の処置を受け即日退院した。予定より早く退院するため、

私は主治医に訊ねた「明日東京に行きたい。行っても大丈夫ですか」。すると、主治医は「またか・:」

と苦笑しながらも、「胴周り三分の

一の手術傷は治っていない。無茶しないで、飛行機には乗るな」

とだけ言われて退院した。

その翌日、私は常務理事会出席のため新幹線で東京へ向かった。私の癌手術による休養は十日

間で終わり、通常の生活に戻った。この時から病気に対する私流の荒療治が始まった。

-病弱だった幼児期

幼児期は身体的にとても弱かったらしい。親も周りからも「明日がない」とまで言われるよう

な、病弱で手のかかる子どもだったらしい。母親が助産師で仕事に追われていたため、

一歳半下

234

の弟の方に手がかかることから、病弱である私は三歳から小学校生になるまで近くの親戚に預け

られた。この親戚には子どもがいなかったので、とても可愛がって貰った記憶はある。病弱であ

りながら、小

・中学校は休まず通学し毎学年皆勤賞を貰った。当時は、皆勤賞の賞状に鉛筆や筆

箱、ノートなどの賞品がついていた。その賞品欲しさに頑張れたのかも知れない。幼な心にも家

計を助けようとする意識と欲が私を健康にした。

子どもの頃の遊びは、女の子がするグままごと遊びH

などの記憶はなく、魚釣りや川遊び、木

登りが得意で、いつも男の子と同じ遊びをしていた。増水した川に魚取りに行って川下に流され

たこと。大きな高い木の上から落ちて気を失ったこともある。自然を相手とした遊びをするよう

になってからは、どんどん元気になっていった。そんな子どもの時の遊びの楽しさが身に付いて

いるのか、私は家庭を持ってからも家族で魚釣りにはよく出かけていた。今でも暇があったら、

山や川に行きたいとしばしば思うことがある。

-

もしかして転移・・・?

右腎臓摘出手術から五か月後、今度は肺

への転移が疑われると診断されてしまった。さすがに

今回は肺への転移ということで、大きなショックを受けた。

今回は入院までの時間をあまり空けずに、入院期間二週間の予定で肺癌専門病院へ転院、癌の

235

摘出手術を受けた。結果は幸い癌とは言いがたい腫虜の切除手術で終わり、胸をなでおろした。

しかし肋骨二本切断と右の乳房から脇の下にかけて痛ましい大きな傷跡を残してしまったことは

衝撃だった。今回の入院でも、

手術から六日目に抜糸の処置をお願いして、即日退院した。そし

て翌日から三日間九州に動いた。

今から思えば、何が私を突き動かしたのか解らない。その時は、やっておきたいことが

一杯あっ

たのだと思う。今やらないとやれなくなるのではの不安が、心のどこかにあ

ったように思う。

当時、私は協会本部の常務理事の役職にいた。ちょうど

一年前まで関西支部の支部長と協会の

理事の要職にあったことから、周りの人からはストレスによる病気だと晴やかれていることは耳

にしていた。

-苦しか

った再発予防との戦い

経過通院するなかで、主治医から「腎臓の癌はリンパ近くだったので、今後転移の不安もある。

予防措置治療もある。

効果が

νあるH

とも

υないH

とも言えないが、どうしますか」と訊かれた。

私は、転移を防ぐことができるのであればと

一績の望みと、心の暗示を求めて、その治療を受け

たいと医師にお願いした。

癌摘出後の予防治療とは、インターフエロンの注射であった。しかし、その治療を受けるには、

236

毎日通院して注射を受ける時聞をつくらなければならない。現状ではその時間を到底つくれない。

幸い家族に看護師がいたことから、家庭での注射を認めてもらい、通院のたびに一

1二週間分の

インターフエロン注射一式を貰って来た。

最初の一、二週間は、我が家の看護師にインターフエロンを打ってもらった。この注射を打っ

とすぐ高熱が出る。そして激しい悪寒に襲われ眠れなくなる。だから、自分の仕事の整理がつい

た二四時頃に注射を依頼した。それ以後は、自分自身で自分の身体に接種していくことを習い覚

え、真夜中二時、三時に注射を打ち、解熱剤と睡眠導入剤を服用してベッドに滑り込む苦しい戦

いの毎日が一年間続いた。

主治医から、「もう注射は必要ない」と言われるまでのこの一年間は、本当に辛く、長い長い

一年だった。副作用で食事はとれず、見る見るうちに十旬以上も体重は減ったが、仕事畳は減ら

すことはできなかった。周りの方々からは「大丈夫か、無閉山するな」と声をかけていただき、心

配もかけてしまったが、私自身の日常生活は、術後だからと休養するということもなくカウンセ

リング業務を続けることができた。

考えれば本当に鈍感な私の体質であったからこそ、

H

休むμ

とかか怠けるμ

ことをしなくてすんだ。

回復していくにつれて、残念(笑)ながら私の体重は、病気前にもどり三年経過した。

237

-走れることの喜び|マラソンにのめり込む

238

フルマラソンに初めてトライしたのが二九年前のホノルルマラソンである。初めてのフルマラ

ソンチャレンジを決意した後の三か月間は、毎日仕事を終えてからの走り込みで、無謀な練習と

疲れから膝を痛めてしまった。その結果、ホノルルマラソン出場にはドクターストップがかかっ

てしまった。しかし、既にエントリーをすましていることから、

「走らないで歩けるところまで

歩きたい」と、私は医師や家族に伝えホノルルに向かった。

大会当日早朝五時、スタート地点に立った私は、スタートの号砲と同時に知らず知らずのうち

に大勢のランナーと共に走り出していた。スタート前、入念に両膝にテ1ピングを施し、痛み止

めの薬を飲み、腰のポシエツトには痛み止めとバナナや梅干し、紳創膏やグリセリンなども入れ

付いれん

て走った。途中、痘崩事で脚を止めることも多く、そのたびにゼッケンを止めている安全ピンを取

り外して、産筆してい

る脚に突き刺しながら遠いゴ

lル目指した。無事ゃコールした時には両脚は

血まみれであ

ったが、

初めてのフルマラソンを完走できた喜びと痛みは忘れられない思い出と

なった。

ドクターストップを無視して走った報いとして、ホノルルマラソン完走から

一か月後、やはり

左膝の手術が待っていた。左膝手術を終えて再びレlスに出場できるようになるまでには六か月

を要した。

四十歳半ばから始めたジョギングから、その後は毎年、フルマラソンに

フマラソンや

一OMマラソンには、毎週のようにどこかのレースに出場するほど走ることにのめ

り込んでいった。しかし、身体は正直であった。古傷の膝の痛みは酷くなるばかりで、六十歳を

目前にして、遂には両膝を手術するという結果まで作ってしまった。

ー二回出場し、

ノ¥

-生きていることの証|再びマラソンチャレンジ

二O一一

年正月五日、久しぶりに六回のウォ

lキングを試みた。やはり古傷の膝が痛む。その

古傷を庇いながらウォ

!キングをまた始めたのは、新たな目的ができたからだ。

それは、第

一回の大阪マラソン大会が、十月に実施されることが決定したという報道である。

この大阪マラソンにチャレンジしたい。最後の走り収めをしたい。そして、自分の身体の健康度

を確認してみたいとの思いがふつふつと湧き起こってきたのだ。

腎臓癌摘出手術から四年、

肺腫手術から三年六か月経過したことで、私自身が心身共に健康を

回復しているのか、確認と再発への不安を取り除くために、

二O一一

年十月の第

一回大阪マラソ

ン大会へのチャレンジを決意した。

両膝手術で、マラソンから離れて十三年も経過している。はたして私の身体がついてくるのか、

両膝はフルマラソンを走るのに耐えられるのか不安は大きか

った。自信もない。それでも健康の

239

回復度確認のチャレンジをしたかった。

大会出場希望者十七万人の中から抽選により、

二万八千人が出場権を獲得できた。幸運にも私

もその中の

一人として出場権を得ることができたのが五月半ばであった。

本番の大会まで五か月しかない。不安と焦りの中で、先ずは週に三回だけ歩くことから始めた

が、両膝の痛みは消えていなかった。それからは毎日のように整骨院で治療を受け、両膝には入

念にテ

lピングを施し、そのうえ医療用サボ1タlでしっかり保護をして、歩く距離を延ばして

いき、徐々にジョギングから走りへと進めていった。思っていたより、気持ちと身体は過酷な練

習についてきた。速く走ることより、

長時間の走りに耐えられるように、距離走ではなく時間走

の練習を積んでいった。

-ゴlル目指して

O一一

年十月三十日、待ちわびた第

一回大阪マラソン大会当日がきた。スタート前の準備と

しては万全を期した。両脚にテ

lピングと医療用サボ

lターを装着して痛み止め薬の服用、腰の

ポシェッ

トには予備の薬、バナナ、チョコレート、携帯電話も入れた。十三年ぶりの

レlスに気

持ちも高まり、ワクワクしながらスタート合図の号砲を待った。周りを見渡したが知っている顔

は誰もいない。

240

一斉にランナーが流れ出した。私の耳にはスタート合図の号砲は全く届かなかった。

人の波に流されながら、後から追ってくる速いランナーに道を聞けて走路の端を一人で黙々と

走った。コ

1スには、時間制限の関門が何か所もある。一つでも多くこの関門を通過したい一念

で足を止めることはなかった。

思いもよらぬ調子の良さで、早くも折り返し地点まで来ていた。そこに来ていた応援隊の家族

からは「頑張って

1!しではなく「もうやめて

1!」だった。

私は、「大丈夫だから、もう少し走らせて」と言葉を交わして走り去った。

ゴールまであと五畑、ここからが長くて辛かった。ここまで来たらもう止めたくない、。あと

一歩U

M

あと一歩d

と365歩のマーチを歌いながらゴールした。予定していた時間より一時間

早い、五時間四七分。完走できた

l!

ゃった

1!

である。

十月三十日、この日はちょうど四年前の腎臓癌摘出の記念日であり、生きている証としてのチャ

レンジと、七十一歳で走り収めのマラソンでもありました。

その時、

グ人生山あり谷ありw

の言葉のごとく、私の人生も少なからず、価値ある刺激の多い人生であった

と思う。これからも更にかあるがまましなやかに、時にはしたたかにu

山谷を歩んでいきたいと思う。

これまで、多くの先輩や同輩、家族に助けられた。

特に安藤一重会長には多くの教訓を頂き、人間としての活かし方を学ばせていただいた。あら

ためて感謝申し上げます。。

241

グ更年期を過ぎたらちうひと花咲くH

-ルネッサンスの準備

は中年から始ま

った

「印歳からのルネッサンス」

というタイトルを聞いた時、白

分が四十代の頃に六十代以後を

生き生きと活躍している女性の

方々から影響を受けていること

を思い出した。

名女優の杉村春子

・水谷八重

・山田五十鈴など華やかな顔

ぶれの観劇を楽しんでいたが、

この方々は対談などで年ととも

....・・・・・...e..・*...・・⑨i......⑥・.

武子たけこ)

渋谷(しぶや

を信じて

242

臨床心理士 t シニア産業カウンセラー。千駄ヶ谷カウンセ

リングルーム主宰。社労士業開業時代に産業カウンセラー

協会と出会っ た。カウンセリンク、への興味が強くなって社

労土業は閉業。ライフワークのテーマは「女性の幸せに関

すること」。ま た辰年なので龍に関心がある。大きなテー

マを決めたので何も しないで、満足している感じ。旅行が好

き。数独(ナンプレ)やパソコンのゲームに,はまりがち。

に輝きを増すようにしたいというようなことを、時折週間られていた。すごいなぁとその言葉にも

感激した。

また、女優の山口淑子が政治で活躍していた頃には、名前を思い出せないが女性の政治家や社

会評論家たちががんばっている感じであった。そういう活躍している有名な女性たちが、テレビ

で「更年期を過ぎてから、女性はまた花を咲かせる。もうひと花咲いて生き生きと楽しい時」と

いうようなテ

lマで話し合われているのを見た。聞いていて、浮き浮きした記憶がある。このテー

マを取り上げた理由は、更年期を過ぎると女性でなくなるような風潮があるが、とんでもないと

いうメッセージでもあった。この風潮があるというのに、私はびっくりした。女の子に生まれた

ら一生女性と思う私には、その風潮に縁がないというか、花を咲かせられることに関心がいって

嬉しくなり、単純に信じた。

楽しく、元気に、前向きにというのは、自分の気持ちの持ち方の傾向ではあるけれど、京都大

学名誉教授の欣森毅先生がその頃は放送で「人生二十年ごとに区切る生き方」を話していた時期

でもあり、それにひどく納得というか六十歳以後を、つまり更年期以後を楽しみにしていた。年

をとることに抵抗の少ない四十代だったと胤う。その頃から六十歳以後の準備が始まっていたの

だろう。

243

-専業主婦から再就職へのステップ

244

一九八

O年頃(昭和五十年代)はカウンセラーを仕事に出来るとは思えない時代だった。

転勤族の夫について回る専業主婦だった私が、東京に戻って子どもの成長後の自分は何をしよ

うかと模索していた。興味のあったカウンセリングの勉強をするにはお金がかかる。そのためにも、

外で働けるものを考えて社労土の資格を取った。このもっともらしい理由は表向きだ。もし主婦

業の中に自分の得意なものがあったら、それを仕事にしただろうが、料理掃除片付け洗濯いろい

ろある家事があまり上手でなかった。家事を最低限こなしはするが、見切りが付いていた。洋服

を買うと上手にたたむ居員の手つきに感心し、包装紙の包み方を見事だと思い、そういうことが

できる人をすごいと思う側なのだ。こういう職業能力の見方が、

今キャリアコンサルタントの仕

事に活きている。

社労土として細々ながら開業していたので、カウンセリングの研修に行けた。社労士の方は、

法律の大改正もあり覚えきれずに落ちこぼれていくのを感じながら、カウンセリングの学びが面

白くてのめりこみ、職業選択の岐路に立っていた。要は、経済優先かやりがい重視か、踏み切る

までに数年悩んだ。カウンセリングの仕事をすることに決めたので、教育分析を受けようと思った。

河合隼雄先生の講演をよく聞きにいった頃で、どの先生に教育分析をお願いするかを決めるた

めにいろいろな先生の研修を受けた。女性では東京に当時ユング派に秋山さと子先生と三木アヤ

先生がいらした。秋山先生は

H

女っぽかったμ

ので、おばさん風な人生の分かる人に見えた三木

先生にお願いをした。三木先生の相談室には箱庭療法のパ

lツが置かれていた。ある銀行のカウ

ンセラーをしていらした。

この延長で今、臨床心理士

・シニア産業カウンセラーとして仕事をしている。昭和六十年に

A

区立教育センターで相談員になったが、家庭の都合で退職した。少し落ち着いた頃、教育センター

で先輩から公立病院の臨床心理室

(当時は臨床心理士という資格はまだ出来ていない)に週二固

なら出来るかと誘われ、以後十五年勤めた。担当は並行面接の親面接が主であった。また、若い

頃に家庭裁判所の調査官として公務にいた経験があったので、

中年になったのだから家庭裁判所

調停委員になりたいと思って申し込んだ。昭和六十三年から七十歳の定年まで、関わらせていた

、だいた。当時は、時々調停の仕事があるだけなので、時間的には助かった。

-Hライフワーク

Hを見つける作業

Jフイフ

・ワーク

H

という言葉を、生き方として話してくださったのが柘植明子先生。先生は

日本女子大学の教授で、シカゴ大学に留学された際(一九五六)、カ

lル

・ロジャ

lズのシカゴ

大学での最後のクラスでカウンセリングを学ばれ、帰国後、日本女子大学の教授、また卒業生の

会館に

「桜楓会カウンセリング研修会」を開設された方である。その研修会が、卒業生でなくて

245

も外部に門戸を聞けていたので、産業カウンセラーの先輩の梅同正子先生に勧められて通った。

四十歳頃のことだが、柘植先生は七十歳近かった。お元気で、第一印象はなんと活き活きしてい

ること、カウンセリングは年をとっても出来る仕事なのだとインプットされた瞬間だった。柘植

先生からは、ロジャ

lズの論文を読みながらスキルではない哲学的なものを教わった。ロジャー

ズの大事にしているものを伝えてくれた授業だった。いろいろな人から、引分の人生のモデルに

なる生き方をいただくとよいといわれたのも先生だった。

M

小さなことにも再びを見つけることが、

幸せにつながるヘこの話は「パーソナリティ理論」の中で語られた。私はこの考えを取り入れた。

また、ライフワークを持つことは人生を豊かにするといわれ、吉野裕子著『ダルマの民俗学』(岩

波新室口、一九九五)が出る前だったが、主婦であった吉野裕子さんがダルマをライフワークにさ

れて博士になられた話をされた。テーマは大きい枠にするといいと言われ、いろいろ発展できる

ものがいいとも言われ、私は「女性の幸せ」をライフワークのテ

lマにすると決めた。先生は、テー

マを決めたらどうするかは何も言われなかった。ただ、アンテナが張られると、不思議なことに

本屋の書棚を見ていても目に飛び込んでくると言われた。私はテ

lマを決めたので安心しきって、

以後特に何もしていないが、時々振り返るとテ

lマに沿った仕事をしているような気がする。不

思議である。

暇になった時に、とりあえずテ1マを持っているのは、何をやろうかとか、やることがないと

悩むことからは開放される。先生の発想からは、学者だから研究テ

lマなのかもしれないが、私

246

流には、

よりどころがありさえすれば幸せの方向なのである。

-旅行のパンフレットを見る趣味

カウンセラーの仕事をしてみると、就労形態が日替わりパ

lトだと気づいた。日替わりパ

lト

になったから、

産業カウンセラー協会の役員などが出来たと思う。

私が外で働き始めた頃に、仕事をずっと続けていた女友達らは、そろそろ退職する時期の話を

していた。仕事と家事の両立は大変疲れたから、職場づとめを五十歳過ぎたら卒業して自分の時

間が欲しい、介護に入る前の大事な時間を作ろうとしていた。私はやっと社会に出て行く時期だっ

たから、疲れてはいなかった。動き出してから、自分は案外タフの方なのかもしれないと発見した。

仕事が忙しくなると旅行に行きたくなる。スケジュールは厳しく詰まり忙しくなるのに、体調

管理という視点はなかった。五十代の中ごろから、海外旅行に行きたい、行こうと思うようになっ

た。円高の環境も味方した。とはいえ、私の趣味は海外旅行のパンフレットを眺めることだ。冊

子になっていたら、

全ぺlジをめく

って、

漠然とここもあそこも行きたいと夢見る夢子ちゃん状

態で何時間も過ごせる。

転勤であちこちの生活を味わって、こんなよいロングステイはありがたい経験と受け取って生

活していた。そのためか、海外のロングステイは夢の

一つだったので、パンフレットを見るのも

247

好きだった。ただ、この夢は私の老後の過ごし方には合わないので卒業した。

計画して実行するタイプの人には、海外旅行に行く計画のために見るパンフレットかも知れな

いが、私は

「いつか行きたい」

「ここは行きたくないな」と思いながら楽しむパンフレットになっ

ている。

248

-還暦のお祝いは自分でプレゼント

叔父が還暦のお祝いを盛大に催し、そこに家族で招かれた時、この区切りの祝いは大事だと

思った。ささやかに夫の還暦を祝ったが、その年に他界した。私の還暦は自分で祝おうと決めた。

000年に還暦を迎えるのは、めでたくかっこよい気がして嬉しかった。そこで、還暦祝い

一度は行って見たいと思っていたハワイでしたい、自分へのプレゼントにしようと思っていた。

すると、

息子がハ

ワイで結婚式を挙げることになり、現実となった。私にとってのめでたく不思

議なことだった。

-好きなことを考える楽しみ

ライフワークだと決めたもう

一つが、辰年だから「龍」である。日本で自にする龍は「昇り龍」

が多く、空を駆け巡っている感じがしていた。地下の龍穴に棲むにしても、国土を守る力があっ

たりする。風雨を呼び起こす力を持った存在である龍神様が祭られている神社もある。「中国の

皇帝はその龍の力をシンボリックに生かして、自らを権威付けた」(黒田日出男著『龍の棲む日本』

岩波新書)というわけで、中国に旅行したときは龍の写真を掘ってきた。

ところが、ドイツの龍は下の方にいるというυ

神話の扱いも異なるかもしれないと思ったら、

興味がわいてきた。ドイツに旅行した時、アイゼアナにある世界遺産ヴアルトブルグ城内(十字

軍時代の古城だが、ルターを受け入れ晩年過ごしていたことでも有名)の壁画をみていたら、一

番下にドラゴンが描かれていた。「やっぱりそうだつたL

と確認できて、なんだか嬉しくなった。

それだけのことなのだが。

今は、もっと活動範囲が狭くなった時のために老後の楽しみを準備するのが、趣味かもしれな

い。古事記を読みたくて、女優だった中山千夏著のを音読する目的で前に購入してある。カウン

セリング・心理療法系の本も読み直したい。老後の楽しみである。

249

勉強、

また勉強

-「勉強、また勉強」とは

「人・コト・

モノとの出会いのパスポート」

私は、「勉強とはH人・コト

・モノとの出会い

のパスポートH夢の実現パスポート」だと考えて

います。勉強するとは、「夢実現のパスポートを

持って、自分に正直に感じて動くこと」だと捉え

ています。勉強するとは、

「感じて動く自分を信じ、

自分と日々の暮しのなかで出会う人

・コト

・モノ

と折り合いをつけながら、なりたい自分になって

いくことL

だと思います。

このように「勉強、また勉強」ということを私

流に意味づけ、このように受け止められたのは

250

..・@・・・・⑥・・・⑨・・...・-・・・・..

江幻

μ

舛野(ますの

一般社団法人日本産業カウ

ンセ ラー 協会会貝。実父

九卜六歳の世話で早期退職

し,夫と実家の奈良に戻る。

「還暦から の新たな生 き方

をみつけよ うjと夫婦でぶ

らり旅と寺社巡りと地域デ

ビューを始める。暮 しゃ介

護の悩みと葛藤のなか. I人生に無駄な こと なんか何ひ

とつもない」をモットーに

「人コト モノ 」との出会

いを楽しみたい私です。

五卜代後半からで、「勉強また勉強でなりたい私になっていくのかなあ」「勉強また勉強で私は正

直に生きやすくなったなあ」と感じたのは還暦になってからのことです。

O二一年の六月と八月に六十歳の還暦を共に迎えた夫と私は、歩んできた自分たちの子育て

や仕事をあれこれと振り返る機会と一一人で過ごす時間が憎えました。

かつての子育て時代には、経済的にも精神的にも余暇時間や生活のゆとりもなく、「家族の健

康第ごを祈りながら、無事一日を終えて布団に入り爆睡する日々でした。そのなかで、夫婦の

夢だけはあきらめずに語り続けていたのが、「還暦になったら、二人でスイスのマッタ

lフオル

ンやアイガーを見ながらコーヒーを飲もう。そんな時間をもてたらいいねえ」と夢みながら、「家

族の暮し」を乗り越えてきました。

この夢がようやく今年の六月に叶いました。スイスの厳しくも美しい大自然の中、そそり立つ

雪の残る山肌、深いいくつもの異なる谷間や川沿いに聞けた草原や丘、美しい環境を維持して自

然の町村で暮らすスイスの人々の生活に少しは触れました。スイスの大自然での暮しU

人・コト・

モノと出会って、地続きで隣国と接しながら世界のなかで唯一の中立国家であり、自然と歴史か

ら学び続けているスイスが更に好きになりました。大自然の険しい山肌のなかで、人も家畜も一

緒に自然と生きています。歴史遺産の街に立ち、有事に備えて何かあれば地下室のある街づくり

と暮し方を見ると、隣国と接している中でも自律した療とした賢明な生き方をしていることを感

じました。一人一人が厳しい自然のなかで、共存して生活を守る賢さと強さと協働の知恵。異

251

なる意見を認め合い、対話を大事にしながら、自分と他者の暮しを守り生きてきた歴史の深さと、

自然を大切にする精神、

生きるエネルギーを感じました。自然の風土と歴史から学び直すことが

自分の夢の実現に近づくかもしれない:・と。スイスの自然と共存の暮しと歴史から、これからの

生き方に多くのヒントを感じました。スイスが今も中立であり続けているのは、いつの時代にも

何が大切なのかを問い直しつつ、自然や歴史から学んだ当たり前の暮しを大事にしてきたからだ

と感じました。私も奈良の自然と歴史と日々の暮しを大事に、「出会いのパスポートの中に、人・

コト

・モノとの出会いを発見する好奇心と感動の心」を持ち続けていたいと思います。そして、

還暦の今私は、どんな「人とコトとモノ」とに出会い、自分が自分になってきたのかを振り返り

ながら、これからなりたい自分になっていく新たな旅をして生きたいなぁと思います。

-二人の母の言葉の贈りもの1

勉強のパスポート

part-

亡き母が還暦にな

ったとき、私は二十三歳。「還暦ってね、今までの人生から新たに生まれ変

わるといわれ、持姿をぬぎ捨て生まれ変われる時。その人が今までしてきたことやしてもらって

きたことに感謝して、これからはお返ししながらその人らしさを大事にして人生をいきていく時

なんよ。昔から、人は生きたように死んでいくという言葉もあるよ。六十歳からはおかげさんと

感謝して一期

一会を大切に生きていきたいなあ」と語ってくれた言葉が心に生き続けています。

252

当時その話を聞いたときは、「還暦ってそうなんだ・:」と、ぐらいしか頭に残りませんでしたが、

「人は生きたように死んでいく」の言葉だけは妙に私の記憶に残りました。

亡き母より一回り若い夫の母が還暦を迎えたときに、この時の話をしました。還暦を迎えた夫

の母は、「必ず誰もが死を迎えるのだから:・菊江さん(亡母)が話してくれた一期一会は大切だね。

その人らしく真手に(までに一丁寧に誠実に対応するという意味で、東北地方の方一言)生きてい

きたいね。人が生きていく中で問題がない人生なんでありえないと思う。いろんなことがあるけ

れど、希望をもって生きていきたいね。あきらめないでいたら何とかなるから。ただ、しょうが

ないときはしょうがないのよ。そんな時はあきらめることも大事よ」と話してくれました。

恩師からの言葉も思い出します。「人生を交響曲にたとえると、人生二十歳までは一楽章。

四十歳と六十歳で第二と第三楽章、六十歳からは第四楽章になる。僕も還暦過ぎて退官。第一楽

章から脹り返りながら、四楽章という最終楽章をつくっていけたらと思っている。生准勉強とい

う言葉を贈るよ」。

言葉は人を支え、人を元気にし、生きていく知恵になります。還暦の私は、大切な人からの言

葉を静かに味わいつつ、第四楽章を楽しみたいと思っています。二人の母と恩師から、「結果でなく、

プロセスが大事」「小事が大事、今日の積み重ねが明日につながる」「毎日の相変わらずの暮しが

大事」「一期一会を大切に真手に暮らそう」「できることをできる時に丁寧にしよう」とのこれら

の言葉は、第四楽章づくりの物差しです。亡母のこの例えも忘れられません。「パンツのゴムは、

253

きついとずれないけれど痛くなる。ゆるすぎるとずり落ちないか不安で落ち着かない。パンツも

ふんどし

人生もちょうどよい加減がいい。人間も生き物やけど、人は礼儀と感謝と揮を忘れたらあかんと

浅次郎じいちゃん(祖父)に教わった」

と。時を経ても「記憶に残る言葉は応援団」だと思いま

す。母の言葉は私のなかで生き続けています。

254

-気持ちを語り分かち合える人が居る|勉強のパスポート

part2

私が還暦まで暮らせたのは、心身健康でいられたからです。家族

・友人

・知人が大事に支えて

くれたおかげです。小学生のとき、母に「なんで

OOちゃんは広い社宅に住んでいるのに、うち

は狭いの」と言ったとき、、「ほんまゃねえ

1。

00ちゃんの家は広いね

10うちの家は掃除がす

ぐに終わるから、お母ちゃんは助かります」との答え。私はその当時、素直に狭い家もいいもの

だと納得してしまいましたが、母は「背伸びすると少し高くなって向こうが見えるけど、ずっと

背仲びはできない。ずっと背伸びはしんどくなるわ」など母流の例え方で、「身の丈で暮らす大

切さ」と「できることを変わらず続ける大事さ」を語ってくれたのだと思います。また、私の話

や気持ちを母はよく聴いてくれました。母なりの例えと理屈で話をしては、「善江は、どう思うし

と私に問いかけてくれました。また、母は乗り物酔いをしがちなため歩いて移動することが多い

のですが、おかげで私は歩くことが得意になり、歩きながら話すことが自然と楽しくて当たり前

になりました。歩く健康のおかげで、子育てのなかで自主育児、グループ、社会人大学院生や産業カ

ウンセリングでも語りながら歩くなかで、本音で語り合えるかけがえのない友人に恵まれました。

特に産業カウンセリングを学ぶなかで、年齢や性別に関係なく、互いに各自の人生哲学と価値

観を語れる先輩との出会いは、これからの第四楽章のなかで大きな存在であり、物差しです。「な

んで?」「どうして?」「私はそれは

OOと思う」など、率直に本音で気持ちゃ考えを語り合える

人ができました。信頼する人と本音で誠実に互いを語り合えるとき、対等に対話するとき、互い

の違いを認め合えたとき、気持ちが分かち合えたと互いに実感できたとき、私は私になっていき、

ありのままでいいのだと実感できます。

人は誰でも、「信頼関係のなかで受容され共感し、認められた」と実感できたとき、本当に生

きていくエネルギーが涌いてきます。気持ちを分かり合えて語り合える「人とコトとモノL

と出

会う時、わくわくドキドキの好奇心とありのままの自分を実感できたとき、出会いのパスポート

にたくさんのスタンプが増えていきます。山会いのパスポートは誰もが持っています。このこと

に、子育てのなかと産業カウンセリングの学びのなかで私は気づきました。出会いのパスポート

を持って出かけるために行動できるようになるには、過去、現在、今のありのままの自分を知り、

ありのままの自分を認めることです。

子育てのある時、「私はいったい毎日なぜイライラしてしまうのだろうか」「何をしていたら一

番楽しいのだろうか」「家事と育児をしている私でええのやろか」と悶々としていました。私は

255

不満やイライラを「今はしょうがないんや」と本当は納得していないのに、夫や子どものせいに

する日々でした。はっとしました。毎日の家族との暮しを真手に丁寧にしてきただろうかと。喧々

諸々家族や先輩に持論を主張するなかでも、家族はあきらめずに繰り返し私の気持ちを聴いてく

れました。「どうして」「どうしたいの」と対話をしてくれました。

私は第一楽章から振り返り、また以前から続けていた産業カウンセリングH

自分気づきのカウ

ンセリングの学びを振り返り、思い出したいことから思い出し、思い出したくないことは後回し

してノ1トに書き綴りました。懲りずに聴いてくれた夫や先輩・友人のおかげです。対話しなが

ら怒りを処理すると、どんどんと点が線になり、つながりはじめて、「人には誰にも川つの心が

あるH

人・コト・モノを学ぶのが生涯勉強だ」と。以下をカウンセリングの研修会、読書会から

学びました。

-「人・コト・モノ」に出会い続けるためには、正直でいることと身の丈で生さること

.人は誰もが自己実現の心理・心を持っていることを自覚すること

「自己実現を求める心(今よりもっと成長したい、よりよい人生を生きたい心)」

「無条件を求める心(今のその人で居ていいと認め愛されたい心)」

「表現を求める心(感じたことを伝えたい心)」

「変わりたくない・傷つきたくない心L

(『人聞の完成』上田吉一著、誠信書房より)

256

-自分の今のありのままの気持ちを語り合える信頼できる人、安心で安全な時間と場を持つこと

・疲れたら必ず休息

・休憩・休養すること。基地を作ろう、

基地を持とう

・偏よらず、こだわりすぎず、ありのままで生きよう

一度きりの人生だから

(『人間の完成』上回吉

一著、昭和六十三年版、誠信書房/『ライフサイクル、その完

結』

E・Hエリクソン、

J

・Mエリクソン著、村瀬孝雄、近藤邦夫訳、みすず書房)

私は自分を元気にする言葉と物差しを見つけました。二十歳から六十歳までの私の第二楽章と

第三楽章で、私は多くの女性の働き方

・生き方

HM型を選びました。

-勉強・また勉強とは:・生きる土壌を耕す|勉強のパスポート

part3

私の「人とコトとモノに出会う生涯勉強

HM型の活動」は、正直に気持ちを話し合って折り合

いを付けながら実現した」と言いたいのですが、家族日く「お願いでもなく相談でもなく報告だ

た」と。ただ、

真剣に学びたいという気持ちはよく伝わったと言いました。

M型の仕事H発達療育相談の臨床現場で、「援助するということ」とはどういうことなのか家

族支援を学びたいと思いました。生きていてだれもが満足し、納得して暮らせるために何が大事

なのか、何ができるのかと、純粋に知りたいと思いました。そして、フィールドワークで療育現

場に出向き、

実際の場で人H

子ども

・保護者

・教職員や地域の方と出会い。

コトH

実際の療育プ

257

ログラムとシステムの現状把握と実際の様子、モノH

施設の設備や環境、地域資源などを調べま

した。現場で、何が大事なのか、何ならできるのか、してほしいことは何なのか、どのような療

育現場になればいいのか、実際に療育の仕事を担当しながら考えました。

フィールドワークで大事なのは、実際の療育活動と先生の指導や活動がいつもと変わらず生活

できるよう邪魔をしないことでした。今いる人や場を「肯定し認めること」でした。「観察しな

がら関与する」というカウンセリングの学びです。目の前で起きているコトとその人の気持ちを

受け止め、心を聞き一つも漏れないように観察して感じること。そのなかで、その人と場面にふ

さわしい良いかかわり共にいる。立ち会い、寄り添いつつかかわってみること。かかわりが不適

切であれば、また観察し、その人と場面にふさわしい寄り添い方をすることを大切に、子どもの

療育現場に立ち会いました。丁寧に一人一人の様子を観察、そばにいて楽しい、安心の人になり

仲良しになることができましたc

このフィールドワークの実践は、私の生き方の大事な物差しと

なりました。現場を知り、事実や実態を的確に把握し語り伝える大切さ。現場を知っている人が

支援の仕組みゃ制度をつくり、支援体験のない人は現場を体験してから制度をつくるなど、理論

と実践がともに大事。当事者の今とこれからが生きやすくなる支援と療育とは何かを考えて行動

し、当事者意識を持ち続けることが大切です。現場から仕組みをつくる側に戻り、仕組みをつくっ

た人は現場に戻り、互いに当事者意識をもって、仕組みと支援を共に作り出す互換性・縦続性・

協働が大事です。

258

還暦を迎えた私は、人が毎日あたりまえに暮らすためには、「心身の健康第一」「生涯勉強と謙

虚と感謝を忘れないこと」「人生の日々のなか、繰り返し自分という上を耕しなりたい自分になっ

ていく」「土にはその土に適した肥料がある。人と自然の知恵と教えと過去の歴史から学ぶこと」

が大事。自分を耕す作業日人・コト・モノに出会うパスポートを持ち、自分らしい土を耕し続け

たいと思います。人生に魔法の薬はありません。「できる事を、できる時に、できる範囲で、こ

れから出会う人とコトとモノと真子(まで)に出会い語りあい生きていきたい」と思います。「勉

強また勉強」に乾杯日

259

単身赴任は人生再発見

タイトルは、編者からいただいたものである。

編者には、日頃お世話になっている。また、確

かに私は単身赴任者である。しかも、もう七年

目に入っている。単身赴任のベテランというと

一部の方からお叱りを受けるかも知れないが、

中堅くらいには位置するであろう。したがって、

お断りするわけにはいかないし、勝手にタイト

ルを変えるのも気が引ける。

「人生再発見」あるいはそれに似たフレーズ

は、これまで何度か耳にしたことがある。J

R

か何かの

CMで出てきそうでもある。人生再発

見と旅は、結びつきゃすいような気がする。単

身赴任を旅に近いものと考えれば、人生再発見

...・⑥0・・・⑥・・・⑨・・@・・・4・・・・..

260

尚典ひさのり)

鹿〔ひろ

産業医科大学産業生態科学

研究所精神保健学教授。

高遁な(つ) }~\いを!掬に,

大学教員へ転職してはや 7

年。癖を通り越して趣味の

ようになっている独 り言は p

!'['{痴やらぼやきやらが加わ

か 一層の磨きがかかって

いる。妻の反応は, Iうるさ

い」から「気持ちが悪い」

に変わりつつある。部屋を

散らかしている長男に注意

をすると電気の消し忘れ

を指摘し返されるという週

末を満喫している。

とはそこそこ親柑性があるのかもしれない。旅と言えば、

K文庫の帯に記された惹句で「漂泊の

思いやまず」というのがあった。「おくのほそ道」からの引用だろう。もう三十年以上前のことだ。

ただ、「漂泊」と「人生再発見」とは少し違う。「漂泊」は有意義なことなど拒絶しているようで

ある。関係があるとすれば、「再発見」の結果として「漂泊」に至るという流れか。「詰まるとこ

ろ、人生なんて・:」という倍りのような開き直りのようなところから「漂泊」への思いが高まる

のである。けれど漂泊は、尾崎放哉や種目山頭火などが連想され、破滅的な匂いがする。心身の

健康維持には、どちらかと言えばよろしくないであろう。本書の指向とは異なる。少し魅力的で

あるが、そちらのほうに行つてはいけない。

それはともかく、「再発見」と言われでも、考えてみれば、私はまだ人生に関して一度の「発

見」もしていないように思う。「発見」という実感を覚えた記憶がない。齢五十を数えれば、一

度や二度は「発見」をしていないとおかしいのであろうか。平均的なところでは、初回「発見」

は何歳頃なのだろう。二十代というのは早すぎるにしても、まっとうな日々を重ねて四十歳くら

いになれば、通常その機会に遭遇するものなのだろうか。だとすると私は、これまでの浮ついた

生き方を猛省せねばならないのかもしれない。「どうしていつもそんなにだらだらしているの!」

という妻の声を、もっときちんと受け止めねばならなかったか。でも、いまさら遅い。原稿の締

め切りも迫っている。編者には日頃お世話になっているので、一回目はどこかですでに済ませた

ことにして、先に進まねばならない。少々無用をしてでも「人生再発見」をしてみせる。そして、

261

おこがましくはあるが、「伺歳からのルネッサンス」に対して、

ればならない。

わずかばかりでも寄与をしなけ

262

平日は職場のある北九州市で過ごし、週末に横浜の自宅に戻る生活を続けている。博多は単身

赴任先として、札幌と並ぶ人気の場所だと聞いたことがあるが、北九州市はそこから特急で三十

I四卜分東に向かう。魚の美味しさは博多に負けないが、華やかさには欠けると言わざるをえな

い。個人的には住みやすいと感じているが、車がないと少し不便である。

風呂に入って寝るだけだからと思って入居した八畳ほどのワンル

1ムマンションは、書物や書

類の山で足の踏み場がない状態になっている。鴨肘には部出干しの洗濯物が常時かかっている。

たとえ位入者があったとしても、瞬時に入ったところが悪かったと則解して引き返してしまうだ

ろう。テレビなどでたまに話題になる、片づけができない若者と何ら変わりがない。自宅の部屋

が片づけられない私に、妻は「どうせ、向こうの部屋も汚くしているんでしょ」と厳しいが、お

察しの通りという他ない。

朝はトーストと野菜ジュースですませ、夕食には車で二十分圏内にある数件の定食屋を代わる

代わる利用している。最寄りの一か所ですませた方が楽なのだろうが、常連のようになるのも何

だし(何が「何だし」なのか、よくわからないが・:)という感じがして、そんなことをしている。

夕食を終えてマンションに戻ると、既に夜のニュース番組が始まっている。全くの下戸なの

で、飲み屋にもいかない。地域のサークルのようなものに参加する気も起きない。定期的に出向

いている企業と、たまに呼んでいただく調演会の類を除けば、人との交流はほとんど職場だけだ。

二十年ぶりに母校に戻ったので、旧知の人達との再会は多かったが、新たな出会いはごく限られ

ている。横浜に帰らない週末には、一日くらい時聞を取って、別府やら長崎ゃらに出かけられな

くもないのだが、だらだらしていると、半日以上が過ぎている。

この生活で、「人生再発見」は、やはり縁遠いのではないか。

苦し紛れに、「再発見」という語を調べてみる。「(よく知られた事柄の)従来気付かなかった

側面を、改めて見いだすこと」(広辞苑第六版)とある。なんだ。どうやら、これまで意識的な「発

見」をしておらずとも、「再発見」はできるようである。少し気が楽になる。

長年、産業医という仕事を生業としてきたため、健康診断や健康相談などで、単身赴任の経験

者とは数多く接してきた。卜年以上にもわたって海外のプラント建設現場を渡り歩いた挙旬、離

婚をしてしまった人がいた。都内の大所帯の部署から地方の小さな営業所に赴任して、五年目に

うつ病を発症してしまった人もいた。そうかと思うと、やはり首都圏から山陰地方に赴任した人

で、毎年年賀状に現地の名勝巡りをしている写真を付けてきてくれた例もある。赴任前よりも、

血色がよさそうで、笑顔にも力強さが感じられた。

単身赴任とそれが招く事象との関係には、様々な交絡閃子が介布している。

一日に単'身赴任と

263

言っても、老親の同居や子供の有無、年齢、本人と配偶者の年代、それまでの家族関係、赴任地、

赴任予定期間、本人の性格傾向などによって、本人、家族などにもたらされる影響が大きく異な

るのは明らかである。ひと括りに論じるのは乱暴にす、ぎるだろう。ただやはり、赴任が長期にな

ると、家族との関係に変化が生じ、健康も脅かされがちになる例は少なくないようだ。四半世紀

前に出版された『企業の担当者が書いたメンタルヘルス職場事例集』(精神衛生普及会)に、夫

の単身赴任中に、妻が子供の受験のことを悩み、抑うつ状態になった事例が紹介されている。会

社の配慮により単身赴任が解かれ、妻の状態もほどなく川復して円満解決となっていたが、実際

にそんなにうまくいく例は多くないはずだο

また、健康診断の結果が年々基準値から外れていき、

赴任を終えたときには、いくつもの生活習慣病を抱えてしまっている例も枚挙に暇がない。

単身赴任で最も大きい環境の変化は、家族と離れることである。

身した私のように、仕事内容が大幅に変わってもそうである。

赴任を始めたとき中学生だった息子は、二人とも受験を経験し大学生になった。多感な年頃の

f供を二人すっかり任せてしまった妻と、それを受け入れてくれた息子たちへの負い

Hは大きい。

私の場合は、ほとんど

'H分で望んだ選択である。家族に止められたらどうしようかと迷いながら、

半分くらいは止めようかとも思いながら話を切り出してみると、妻は「ふうーん」という反応で

あった。長男も「ふうーん」、次男は「へ

lえ」。歓迎はされないまでも、強い引き止めも受けず、

一企業の産業医から教員に転

264

したがって泣きすがる家族を振り切ってという状況にはならず、なんとなく決まってしまった。

今から思えば、三人ともこれ以上は望めない反応をしてくれたのだと思う。愚妻や豚児といった

身内の謙称があるが、とてもそうは記せない。ばちが当たるというものだ。赴任先でアクティブ

な行動を起こす気になれないのは、そもそもの不精な性格だけのせいではない。週末家族の顔を

見ると、これから自分にできることは何かなどと、柄にもなく考えてしまう。

先に三年ほど単身赴任を続けていた

T君は、「単身赴任もなかなかいいものだよ」と言ってい

たのに、私の赴任が正式に決まったと告げたら、「これで家族の有難味がわかるよ、むふふ」と

気持ちの悪い笑い方をした。いつもは気の利いたことを話すT君が、ありきたりの物言いをした

のに少し意外な印象を受けたが、それは揺るぎのない真理だったのだ。

体調の管理にも直面せざるを伴なくなる。赴任を始めた途端、ガタガタと健康を崩していくの

では情けない。私も医療職の端くれである。健康の自己管理が平均以下であってはならないだろう。

四十歳を過ぎてのひとり暮らしは、それだけで老いを実感させる。そんな余裕がないほど仕事に

追い立てられる赴任もなくはないだろうが、きっとふとしたことで思い知らされるはずである。

私の場合、この七年間で白髪とシミが増えた。体力、気力とも持久性が落ちた。元々頼りなかっ

た記憶力が、さらに衰えを噌した。変に涙もろくもなってきた。老眼も少し進んできた。十五年

ほど前某学会で座長を務めたお礼にいただいたル

1ぺを、引き出しの奥から出して使ってみる。

265

わずかな文章を読むのにも時聞がかかるものの、よく見えるのに驚かされる。そのうち、手放せ

なくなるかもしれない。肉よりも魚を好んで食するようになった。魚の味の深さに目覚めたとい

うより、胃が肉を受け付けにくくなったからだろう。航空機や新幹線での移動時間を利用して山

ほど本が読めると思っていたが、つい惰眠をむさぼってしまい、その結果夜間の睡眠の質まで落

ちている。週末に家の周りの草取りをすると、佳信と塀の間に子を仲ばすのにかなり無即な姿勢

を強いられるせいか、半日後には体のあちこちが痛くなる。

単身赴任を始めて四年日くらいから、実家の親の体調を確かめるため、数か月に一度は伊勢に

も山向くことになった。北九州から新幹線で大阪に山て、近鉄で伊勢に川り、名古屋経由で横浜

に戻るル

lトである。後頭部や腰背部の凝りがさらにひどくなった。たまに出張先のホテルで

マッサージを受けると、「お客さん、腰硬いですね」などと言われる。「十人中、何番目くらいで

すか?」と附いてみる。「八、九岳

Hくらい」と答えられると、ちょっとなさけない気になる。私

の凝りは序の口でありもっとひどい人が大勢いて、みんな平気で毎日を送っているということか。

かと言って、「一、二番を争いますよ」などと言われるのも怖い。とすっかり弱気になって、就労

できなくなりそうだ。五、六番目くらいがいいところか。相手の望む回答を上手に探り当てる技

術は、マッサージ師にも求められるのだ

0

・:話が逸れてしまった。

実際に老け込みに加速度がついているのかもしれないし、意識過剰になっているのかもしれな

い。けれど、いずれにしても、老いを迎えることを今まで以上に考えさせられるようになった。

266

これは悪くない。

元々、アンチエイジングには違和感を覚えている。

かつて、井上靖は「美しく老いていきたい」

と、小林秀雄は「いつまでも若々しいんじゃ、年とった甲斐がないじゃないか」と語った。忘れ

られつつあるが、赤瀬川原平に『老人力』というベストセラーもあった。私はこれらのほうをよ

しとする。あちこちにボロを出しながら、若さを取り繕うのは好まない。いい感じで老いていき

たい。「いい感じしがどのような感じなのかまでは、まだうまく説明できないが。「老い」を満喫

する。そのように心持ちを変えると、風景も違って見えるのは確かである。

家族と老い。確かに、この二つについては、単身赴任によって、おそらくはそれを経なかった

場合よりも切実なものとして、向き合うことを迫られた。これは、健康保持に限っても、決して

忠くない。

単身赴任は、定年後の生活の予行演習となりえる。まだ若い読者には、そのように考えてみる

ことをお勧めしたい。ただし、数年の短期という条件付きで:・。

267

あとがき

若輩の私が言うのは、大変おこがましいことか

もしれませんが、安藤

一重さんはなかなかのクセ

者です。残念ながら、明確な時期は覚えていませ

んが、おそらく二十年以上前から日本産業カウン

セラー協会の仕事のお手伝いをしてきました。い

つも私の携帯電話に安藤さんから連絡があり、

「ご

無理は重々承知ですが・:」と頼まれると、いつも

色々な仕事を引き受けてしまいました。もちろん、

多くの産業カウンセラー諸氏に接する機会を与え

ていただいたわけですが、昔は正直

「面倒くさい

なあL

という気持ちもありました。

しかしながら、安藤さんとの交際、協会関係者

との交流が深まるにつれて、いかに自分自身に

って多くの見方や新たな視点をもたらしてくれ

268

/I1";'MC)

るかを強く感じるようになりました。ある意味、私自身が安藤さんに協会の仕事をとおして育て

られたのかもしれません。

そんな安藤さんが協会会長を退任することになり、ある日、編集者たちは酒席で大いに盛り上

がりました。というよりも、集まったみんなが編集者になり、本書の企画が実現したのです。酔っ

た勢いは恐いものです。協会外部の人聞からすると、これだけ功績のあった会長のために、協会

で本の

一冊でも企画すればとも思いましたが、超真面目な組織体質ではなかなか難しか

ったかも

しれません。

とはいえ、

実際に協会関係者を含め多くの方々に執筆をお願いしたところ、皆さん快諾されて、

本書の実現をみたわけです。予想以上のものが完成できたと自画自賛しないではいられません。

とりわけ、自己開示的な内容も多く、驚いたり感心したり、興味深く読み進むことができました。

また、編集

・製作に関しては学芸社の岡田勝巳社長に儲け度外視で頑張っていただきました。

改めて御礼申しあげます。

当初は、

安藤一重さんにエ

lルを送る趣旨の本書でしたが、なんのことはない、我々自身が励

まされる

一冊となったのです。老若男女を問わず広くご

一読いただき、新しい未来に向けてルネッ

サンスしていただければ望外の喜びです。

269

O一三年

一O月

大西

ω歳からのルネッサンス

より輝きを求めて

O一三年一一月五日

編集者

発行者

発行所

発売所

発イ丁

安藤一重/井上孝代/大西守/平野良子

岡田勝巳

有限会社学芸社

干一七六

000二東京都練馬区桜台六の九の三

電話

Oコア五九四六l

三九三八/FAXOコア五九八四l

二O二四

株式会社星雲社

一T一二了

00二一東京都文京区大塚三の二一の一

O

電話

O三三九州七一

O二一

/FAXO三三九問七l

一六一七

カバ

l・表紙絵/本文挿絵大凶守

カバ

1デザイン末永一弘二(オフィス

PANTO)

組版白限会社学芸付

印刷・製本福博印刷株式会社

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9784434185601

1920095012001

ISBN978-4-434・18560-1C0095¥1200E

定価(本体 12∞円+説)

発行学蚕社/発売星雲社