Jewish Thought in Levinas and Buber (in Japanese/abstract in English)

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Jewish Thought in Levinas and Buber Toshihiro Horikawa Both Martin Buber, who grew up in an environment of the Polish Hasidic movement, and Emmanuel Levinas, who in turn had been influenced a great deal by the Jewish Talmud in his home country Lithuania, developed their philosophical positions in Western Europe. While using the methodical and terminological means which they had encountered abroad, they eventually pointed out a dead end in Western philosophy. In their ethics, the self is established as a product of the relation to others, and it is itself but an intermediate step towards the eternal Thou (or the infinite, respectively). This relation to others basically consists of communicative processes (Buber) or the feeling of responsibility for them (Levinas), respectively. Through the research of the Hasidism and Talmud, each of them tried to adapt traditional Jewish teachings to their ethical attitude. They justified this approach with the claim that, by means of its influence to universal ethics, Jewish thought is still alive even today. 75

Transcript of Jewish Thought in Levinas and Buber (in Japanese/abstract in English)

論文レヴィナスとブーバーに見られるユダヤ思想

堀川 敏寛

Jewish Thought in Levinas and Buber

Toshihiro Horikawa

Both Martin Buber, who grew up in an environment of the Polish Hasidic movement, and Emmanuel Levinas, who in turn had been influenced a great deal by the Jewish Talmud in his home country Lithuania, developed

their philosophical positions in Western Europe. While using the methodical and terminological means which they had encountered abroad, they eventually pointed out a dead end in Western philosophy. In their ethics, the

self is established as a product of the relation to others, and it is itself but an intermediate step towards the eternal Thou (or the infinite, respectively). This relation to others basically consists of communicative

processes (Buber) or the feeling of responsibility for them (Levinas), respectively. Through the research of the Hasidism and Talmud, each of them tried to adapt traditional Jewish teachings to their ethical attitude. They

justified this approach with the claim that, by means of its influence to universal ethics, Jewish thought is still alive even today.

75

はじめに レヴィナスとブーバーの思想的交流

 

エル

・レヴ

ィナ

(一九

六―

一九

)

マル

・ブ

バー

(一八

八―

一九

)が直

議論を交わした最初の場は、ブーバーの八〇歳記念論文集

(Martin Buber-Philosophen des 20. Jahrhunderst-, 1963

)に

おけ

るレヴィナスの

『マルティン

・ブーバーと認識の理論』に遡る。ここにおいてレヴ

ィナスは、ブーバーの

「我

‐汝」における

「我」と

「汝」の相互関係性を、自身の倫理思想における他者の至高性、神の彼

性、関係

の非対称

性に対立させる形で批判し、自身

の倫理的関係性を浮き彫りにした。ブーバーはこの批判に対し

て、手紙にてレヴ

イナ

スに返答し、そこでレヴィ

ナスの

「我‐

汝」解釈の誤解を指摘した。レヴィナスとブーバー

の書簡による交流

二往復続けられたが、くしくもそれはブーバーが没する二年前

一九六三年

のことであ

った。最終的に、

レヴィ

スの学術的返答に対しブーバーが感謝の旨を伝えた手紙を送る形で、両者の対話は終結したのである。両者

の思

想的

交流では、互いの思想的独自性が明確に表明された一方で、互いが異な

った

ユダヤ思想を地盤としながらも、

共に倫理的関係性を探求し、似たような問題意識と目標を持

っていた点に

ついて語られることはなか

った。

レヴ

スは学識を積んだラビの伝統を引き継いだタルムード解釈を試み、

一方ブーバーは民衆と神と

の直接関係を強調

する。ただこれら立場の差異にもかかわらず、両者は、普遍的な自己と他者との関係性を、自己

の存立から他者と

の関

わり、そして最終的に神的存在である無限や永遠の汝の要請とい

った過程で論ずる哲学者でもある。そして彼

らは

ユダヤ思想

の立場から構成された思想によ

って、西洋哲学における全体性や

「我‐それ」化

(客体化)の傾向

を打破し、倫理関係性に新たな視座を投げかけた人物である。よ

って、本論考では、彼らの直接的交流で交わされ

76

論 文

ることの無かったこの主題について比較検討してみたい。

一 

レヴ

ィナ

スとブー

バー

の倫

理思想

 M

・フリード

マンは、レヴィナスとブーバーとを比較することが大変魅力的であると言

っている。

フリードマン

の解釈は図式的であり、それは再検討する余地があるものだが、ここで彼の分類を紹介してみた

い、

レヴィナスと

ブー

バーは共に

ユダヤ教に根差した上で、他なるものや他者と徹底的に関わることによ

って、西洋哲学史における

一性哲学

への中心的信頼を破壊した。その代わりとして両者は倫理に対して中心的に取り組み、神との関係と我

々の同志である人間との関係を結び付けた。

一方、両者の差異を挙げるならば、ブーバーがハシデ

ィズムに傾倒し、

神秘主義や多くの

ユダヤ的神話に開かれていた人物であ

ったのに対して、レヴ

ィナスは

ハシディズムに対して伝統

的敵

対者であ

った。という

のも彼は神秘主義を異教的、多神教的として拒否していたためである。彼は、聖書に根

し、その道徳的命令や律法、そしてタルムードに強調を置いていた。

一方、ブーバーは、歴史

の只中における正

と愛の共同体と社会が建設されることを通して、真

の神の王国が作られることを目指し、民と神との契約として

ヘブライ語聖書に根差していたのである。

 

このフリード

マンの細部を省略した解釈については検討の余地があるが、レヴィナスとブーバーをあえて図式化

るならば、確かにこのような分類が為されるであろう。そして我

々は両思想家

の具体的論述に当たる必要がある。

最初に、我

々は両者

の哲学の要点それぞれを、『全体性と無限』『我と汝』を中心に抽出したい。

そこで両者が思索

を通して目指したものを見て行きたい。

レヴィナス、ブーバー両思想家

の哲学を検討するに当た

って争点となるの

77

は、やはり自己と他者との倫理的な関係性であろう。しかも他者を問題とする際、単に

「自己中心な私からでなく、

他者から」や、「我‐それ」から

「我‐

汝」

への転換といった安易な解決法は、問い直す必要がある。・なぜなら両

思想家は、その前提となる

「自己の存立」について、厳密に論じ、その上で関係性を問うからである。

 

一 

レヴィナス――分離された自己から無限、そして顔から倫理ヘ

 

レヴィナスは、我

々ひとりひとりが、

一つの全体の内に部分として組み込まれるような思惟を

、同

一性が支配す

るとして問題視した。この思惟の渦中に留まるならば、自己は他なる者、異質なる者に直面した場合

であ

っても、

それを包摂し、そこに自同性を見出し、自己同

一を保とうとする。

レヴ

ィナスは、自己の同一性が対象

の他性を包

し、対象が内容となるような態度を拒絶する。その自己を敷術するならば、過去で知られる西洋世界による植民

の圧迫や、今日では第

三世界の経済的服従を促すような姿勢でもある。このような自己を問題視したが故にレヴ

ィナスは倫理を考える。そしてそのためには自己を分離させ、

エゴイズム的、無神論的に自己を存立させる過程を

通らねばならない。なぜなら彼にと

って

「自己存立」を経ずして、責任をも

って他者

へと関わる

ことは考えられな

いためである。ただしこの種

の主体は

「他者」との関係をいまだ解き明かしておらず、それゆえ

この関係にあ

って

は、自己

への現前は当初から他なるものによ

って解体される。レヴィナスは、無神論という表現

で、

ユダヤ的

一神

教を

否定しているのではない。むしろ

「融即」によ

って超越的なものと合

一するような神話や実定的宗教を、さら

に未

開社会において見られる全体性を批判する。したが

って無神論とは完全な分離であり、自己が単独に現実存在

を保ち続ける状態である。こうして人が

「私」となることがエゴイズムであるのだが、この融即

からの断絶は、神

的なも

のの肯定にも否定にも先立

つ立場であり、他

へ向かう前提なのである。このように無神論的な存在だけが

78

論 文

「他なる者」に関係し、しかもこの関係においてあらかじめ自己を切り離すことが可能であるためだ。そしてレヴィ

スは

「一神教的な信仰はそれ自体、形而上学的な無神論を前提している」「無神論者として絶対的なものと関係

するとは、……絶対的なも

のを迎え入れることである」と言う。その理由は啓示を迎え入れるためには、対話者

(interlocuteur

)という役割に適した

一個の存在、分離された存在が必要であり、無神論

こそが真な

る神それ自体と

の本

当の関係を条件付けるためである。それも啓示された現前に対する

「渇望」によって、自己は自らに固有の枠

を破

り、他なる存在に心奪われる。それは他

へのある根底的な

「逆転」を表している。この渇望

によ

って、自己は

絶対的な

エゴイズムから免れることが可能である。したが

って分離せられた自己が神的なものと「対面」(face-a-face

)

する

ことが正しい。ただそれは対象認識ではなく、私のうちなる神の観念をあふれ出し、それと同時にあふれ出で

るそ

の実体と関係することである。レヴィナスはこれらを、デカルトの

「無限」理解を基に考えたのである。

 こ

こまでレヴ

ィナスにおける自己の存立から無限との関わりを論じてきたが、彼は

『この無限な

るも

のが

〈他者〉

の顔

であり本源的な表出であ

って、『あなたは殺してはならない』と

いう最初の言葉である」と考

えている。「無限」

は、至高の力をも

って私に否と語りうる

「他者」の

「顔」として、自己に対して倫理的振る舞

いを要請するもので

ある

。「神的なも

のの次元は、人間の顔から開かれる」と言われるように、レヴ

ィナスにおいて、神と

の形而上学

的関係は、人間の社会的関係の中で成就するものである。他者

の顔の顕現が、倫理的なものであり、それが積極的

な形

で条件づけられるのは、デカルトにヒントを得た我々の内にある無限なものの観念によ

って無限と関わりうる

ため

である。ただし

「無限なものが現前するのは、倫理的な抵抗を示す顔として」である。倫理的抵抗は、顔の裸

形、悲惨、飢えにおいて、私の様

々な権能を麻痺させ、自己の理解や包摂を絶対的に断念させるが故に重要である。

レヴ

ィナスは、次のような隠喩的表現で、「顔」の内容とし,て無限を語

っている。「『異邦人』の、寡婦

の、あるい

79

は孤児

の顔において、その悲惨さを

つうじて私たちに訴えかけることのうちに、『他者』の顕現

そのものがある

」。

このように、融即状態から分離した無神論的な自己が、無限

へと開かれ、それが他者

の顔を通し

て、倫理的要請を

受容するのである。

レヴィナスにおける倫理的関係性はこのような過程で論じられる。

 

二 ブーパー――

「我‐それ」から原離隔化、そして汝の語りかけから

「我‐汝」の関わりへ

 

次に、ブーバーにおける

「自己存立」と倫理的関係性に

ついて見て行きたい。ブーバーもレヴ

ィナス同様、当時

の社

会を

「関係を欠いた人間単位

(deziehungslose Mensch-Einheit

)の集括」と呼び、人間が部分として全体に統合

れる社会のあり方を疑問視していた。ブーバーは、あらゆるものを全体性の中で要素還元的に把捉する経験を、

「汝からの遠ざかり」(Du-Ferne

)と名付け、そこに人間の

「我‐

それ」関係を見た、彼が

『我と汝』を執筆した目

は、現代の西洋世界において、個々人が全体

の部分や単位として機能するに過ぎなくな

った原子化

・機械化の傾

向を脱することにあ

った。ブーバーの

「我‐

それ」関係は、そのような社会状況を構成する自己

の態度決定におけ

元的な在り様である。「(我‐

それ

の)経験は確かに

『自身の内部に』あり、自己と世界との間にはない」と言

われ

るように、「我‐

それ」経験において、現象

一般は自己の内部に取り込まれ、自己が外部の世

へと出行する姿

勢は見られない。それはまさにレヴィナスの指摘する、「同」の中

へと

「他」を組み込む態度であ

る。それをブーバ

ーは

「向かい合う者を自己自身

の内部に持

つことは、関わりでも、現臨でも、生き生きとした相

互作用でもなく、

それ

はただ自家撞着

(Seldstwiderspruch

)に過ぎないであろう」と表現する。自家撞着においては、自己と他者

「問」に生きた相互的関係は築かれず、そこではただ自己から他

への

一方的な志向性が見られるのみである。即ち、

「我‐それ」関係は、自己が他を経験し、利用する態度を基として存立するのである。そこにおいて個

々人は全体

80

論 文

部分として物象化され、互いに疎遠化される。ブーバーはこの

「我‐

それ」関係が絶大な主権を持ち、それが蔓延

した社会とそれを指揮する自己を問題視する。そしてこの状況から脱却する関係性として

「我‐

汝」を考える。

 「我‐汝」関係は、晩年の著作

『原離隔と関わり』

(一九五〇年)

の中で、人間存在のカテゴリ

ーにおける根源と

始まりとしての二重の運動によ

って説明される。その第

一の運動は

「原離隔化」

(Urdistanzierung

)と名付けられる

存在者間

の根源的な距離であり、第

二の運動が「関係

への歩み」(des In-Beziehungtreten

)である。第

一の運動は、関

へと歩み入るための大切な通過点である。

つまり後者に対して場を与えるために、前者は現れ

る。その理由をブ

ーバーは、「我

々はただ離隔化された存在者に対してのみ、詳しく言えば自立的に向かい合うよう

にな

った者に対し

てのみ、関係

への歩みが可能になる」と説明する。私はこれを、著作

『我と汝』においてさほど強調されていなか

った第

一の運動、

つまり他者との異質性を承認する

「原離隔の自覚」を補

ったと理解している。

この自己と他が離

隔した前提を基として関わ

って行く姿勢は、レヴィナスが無神論や

エゴイズムという表現で語

った内容と類比関係

にあ

る。原離隔化は、人格的関わりの場を開くための前提であり、そこから

「我‐汝」

の対話的

生が存立するので

ある。我‐汝は、互いが相手に依存しあう形ではなく、自立した人間が互いに向き合

って成立す

る関係性である。

依存

から離隔し、自立した自己として関わる姿勢は、

レヴィナ

スにおける融即からの脱却を意味

するが、ブーバー

にと

ってそれは

「我‐

それ」からの脱却である。

 ブーバーにおける対話的

「我‐

汝」と独白的

「我‐それ」を対比させた

一文は、次のようなものである。「対話的

現存在は、極度に孤独の中で、ある非常に苦しい相互性

の予感を受け取るが、独白的現存在はいかに親密げな交わ

りの中でも、自己の輪郭の外にあるものに触れることはないであろう」。また親

しげな交わりに

おいて、我

々は対

話的

な関わりを築きにくく、

「人格間の関わりが友情と

いう性格を取ると、我‐

汝関係は終わ

ってしまう

」とも言

81

われ

る。それゆえに

「真の主体性

(=我‐

汝的人格)とは動的にのみ、即ち自己の孤独な真実における我の揺れ動

きに

ってのみ理解され」、「孤独」で原離隔をと

った自己こそ、関わり

へと歩んで行くための出発

点である。そし

てここにおいて、ますます高く無制約的関わりに対する願望や、存在

への完全な関与に対する願望

が生まれ立ち上

って行く。

 

ころが、依存状態から離隔したその我は、他者と関わる過程を通して、実は、我

の出現に先立

って

「我‐汝」

の関係が成立していたことに気づかされる。という

のも、ブーバーによれば、我に対して始原的に語りかけている

しるし

(Zeichen

)がある。けれども我

々は通常

「我‐

それ」関係の中で生を営んでいるのが大半

であり、汝の感覚

(Du-Sinn

)や生得の汝

(das eingeborene Du

)を働かせ、この語りかけに対して自らを開いていないのである。この状

態を、ブーバーは

「我

々は誰もみな、甲冑で身を固めていて、我

々に向か

って生ずるしるしを寄せ

つけることがな

と表現する。だからこそ、我

々は

「我‐それ」状態から脱するために離隔し、汝との関わり

へと参入せねばな

らな

いのであるが、「我‐

汝」の関係性を築いた瞬間、この語りかけられていたしるしに気づかされ

るのである。そ

れは

「あらゆる汝から我々は永遠の汝の息吹を聴きとり、あらゆる汝の中で我々は永遠なるものに語りかける」と

言われる事態である。我々は、個

々の汝との関係性の中で、永遠なるものの

「語りかけ」を聴きと

るのである。こ

れが我‐

汝関係における自己の存立である。「人間は汝に接して、我として生成する」のであり、

ブーバーにおけ

「我‐

汝」関係の我は、汝との関わりの中でしか存立し得ない

「関係内存在」「生成的自己」であ

ることが、これ

らの過程を経ることによ

って初めて判明する。したが

って固定された自己や対象としての他者は存

立し得な

い。「汝

を語るものは何ものかを対象として持たない。汝を語る者は何も

のかを持

つのではなく、ただ関係

の中に立つだけ

である」と言われるように、互いが相手を

「汝」と語る根元的態度を通して、語り、語りかけられ

るその両項の二

82

論 文

者が向かい合

った瞬間、自己は関係の中に立

つ。それ故に、他者も「我と共に自己となること」

(Selbstwerden-mit-

mir)が、「我‐

汝」関係の成立には必要である。それは自己と他者

の相互的な

「我、語りかけ応答する、故に我あ

り」

(Respondeo, ergo sum.

)である。

 以上、著作

『我と汝』におけるブー

バーの思索

の出発点は、冒頭の

「二つの根元語」の議論ではなく、「我」の在

り方

であ

ったと言えるだろう。原離隔化から始まり、「我‐

それ」経験を脱した自己は、関係

へと歩む中で汝の語り

かけに自らを開き、その語りかけに応答すると同時に、自らも汝

へと語りかける。両者が向かい合い、応答関係が

成立

した瞬間に

「我‐

汝」関係は成立し、そこで初めて関係内存在としての自己が存立するのである。

 三 レヴィナスとブーバ」における関係性

 

ここで、レヴィナスとブーバーによる倫理思想を、今

一度整理してみたい。前章において、両者は共に、融即状

態から脱却した自己を基にし、他者

への関わりを通して倫理的関係性を構築し、さらにその中で自己の存立を語

ていた。レヴィナスは、自己が他者に対して無限の責任を負う倫理思想を展開する。異質な存在

つまり無限なる他

者に出会うことによ

って、他者の

「顔」を通して倫理的振る舞いが喚起される。私が他者

への責

務から放免される

こと

は決してな

い。だが責任とは、私の自由を傷

つけるものではなく、私の自由を責任

へと呼びもどし、私の自由

をむ

しろ創設するものである。それは相互性を要求することもなく、他者の身代わりになることである。レヴィナ

スは、人格という概念を

一掃することで、人質としての主体性に場所を与えたのである。このような状況では

「我

‐汝」

の同等性は存在しないであろう。というのも、

レヴィナ

スの関係性は倫理的不等性、他者

への服従であり根

源的

「奉仕」だからである。関係の非対称性は、自己を他人とは比較不能なものにするのである。レヴィナスは、

83

このような視座から、ブーバーの

「我‐

汝」を

「自と他

の対称的関係性」「他なるものの親密さ」

と解釈し、「非対

称的

関係性」

「彼方としての他なるもの、無限」から倫理を考えたのである。

 

だが、ブーバーは、レヴィナスの非対称性は

「我‐

汝」の

一様態に過ぎず、逆に関係の非対称性には問題がある、

と主張する。それは、レヴィナスが彼の倫理学構築に当た

って重視す

る他者の

「高さ」と、他者

から

一方的な

「愛

・命令」では、関係が限定されてしまい、この非相互性は他者のリアリティーを把握し損ねかねないためであ

る。

反対にブーバーは、後述するように、倫理が動物や生命を持たぬものとの関わりにおいても同様に問われるべ

きであり、また他者優位という限定を帯びてしまう関係に問題を感じた。という

のも彼は、

ハシデ

ィズムの立場に

より、日常的生活の営みの中で、身の回りに存するあらゆる他なるも

のと関わる点に倫理を見るた

めである。そし

てブーバーはレヴィナスのように他者と自己を対象化させる倫理的関係性を考えてはいない。ブー

バーの「我‐汝」

関係においては、

ハイフン

「‐」で繋がれた両項の

「我」が、互いに

「汝と言う」ことに義務を負

っており、対象

とな

った他者に負うのではない。「我‐汝」思想における要点は、自己と他者

「間」の領域にお

いて、汝と語りか

け合

うダイナミックな動きが見られることである。よ

ってレヴィナスが批判した対称的関係性は、「間」の領域にお

いて、互いが他者に

「汝を言うこと」の同等性と言いかえることができよう。また厳密には、ブー

バーの

「我‐汝」

関係は相互的であると言うより、むしろ

「与え、受け取る」「語りかけ、応答する」という交互性に

おいて非対称的

である。

つまりレヴィナスは、対象や他者に義務を負う自己という倫理思想からブーバーを解釈

したため、「我‐

汝」

が対称的

・形式的で交換可能であるという批判が生じたのである。

 と

ころがレヴ

ィナスは、ブーバーの死後、「我‐汝」を再解釈し、さらに後述するように、彼の

ユダヤ思想に対す

る貢献を認める。その中でレヴ

ィナスは

「ブーバーが構想していた対話は

『対話の中に参入す

(entrer dans le)

84

論 文

dialogue

)』対話である

」と述

べる、この事態は、自己と他者が互いに向き合う以前に、どのよう

にして自己が汝

と転

向するのか、どのようにして対話

へと参入することを促すのか、そのような対話に参入させるための対話であ

り、それはブーバーが自己の存立にあた

って詳述していた過程であ

った。

レヴィナ

スの表現を使

うならば他を自

と包

・同化する自己、ブーバーでは独白的な

「我‐

それ」によ

って、我が汝を理解し、説得す

る自己にと

っての

一番

の障害は、汝の呼びかけに対して自己を開かぬことである。自らを閉ざしていれば、彼にと

って関わるものは

べて、対象として捉えられ、他者の接近に気づくことはない。したがってブーバーが

「真

の倫

理的問題とは、誰

もが衣食住に恵まれるようにな

った時にこそ、初めて完全に見えうるものであろう」、と考えた

ことが彼の倫理思

想の焦点である。この言葉はレヴィナスの最初の批判に対するブーバーの応答において述

べられ

たものであるが、

その意味は、社会が豊かになればなるほど、真の関係が欠如し、知らず知らず

のうちに我

々は

「我‐それ」関係の

みで生きてしまうことを示唆している。

それゆえに、如何にして、対話

へと参入芒

める対話的

関係性を築き、対

話的

な自己を存立させるかが、ブーバーの意図であ

った。

 倫

理的な関係性は、レヴ

ィナスによればそれは

「他

への責任」の内にあり、ブーバーによればそれは

「間」にお

ける互いの

「他

への語りかけ」の内にあると言えよう。以上、これまで両者

の倫理思想を、自己と他者

の関係性を

軸に際立たせることができたが、次にそれが

ユダヤ教とどう関連するかについて論じて行きたい。

二 レヴ

ィナ

スとブー

バー

ユダヤ教

解釈

 

十九世紀

の東欧

ユダヤ人社会では、ラビ

・ユダヤ教正統主義、

ハシディズム、

ハスカラー、そ

してシオ

ニズムな

85

の思想運動が互いに熾烈な闘争状態にあり、二十世紀の

ユダヤ人世代は、人によ

って強調する部分が違えども、

これらに

ユダヤ教

の源泉を見ていた。彼らは、継承す

べき

ユダヤ教

の伝統に関する解釈の相違や、

ユダヤ教改革

仕方と程度はそれぞれ異な

っていたが、

ユダヤ教徒に留まり

つつも、

ユダヤ教全体を近現代に適応す

べく改革して

こうという志向性を持

つ人々であ

った。ではブーバーとレヴィナスはどうであ

ったろうか。彼

らの立場を、その

記的背景

ユダヤ教の伝統解釈から見て行きたい。

 

四 ブーパーと八シディズム

 

ブー

バーは幼少期、ウクライナのレンベルクでミドラシ

ュ学者の祖父ゾ

ロモン

・ブーバーに育

てられ、二十世紀

頭に

ハシディズム研究に没頭し、その後、ウィーン大学で学び、フランクフルト大学

で教鞭を

取り、積極的に西

に溶け込もうと試みた人物である。事実、他者をドイツ語における二人称のDu

(汝)と三人称のEs(それ)と

現した発想は、ブーバーがドイツ語圏で培われた思惟を基にして構成されたものと察しうる。

ハシディズムは十

八世紀に発展した宗教運動で、感情に重きを置き、ラビの貴族的主知主義に反対したという

こと

で知られている。

ヘブライ文学

・イディッシ

ュ文学

(特にペレツ)

の作品は魅力的で、実に民衆的な物語

へと

ハシディズムの新たな

感受性を翻訳しているが、

ハシディズムの理論を示したカバラ文献を脇に置いて、西洋思想の展望の中で

ハシディ

ムを考えようと思い立

ったのはブーバーで

った、とレヴィナスは言

っている。

その理由は、

二つの世界大戦以

前に、既に西洋の危機を、我々人間の

「我‐それ」関係の拡張として垣間見ていたブー

バーは、

ハシディズムの精

性の内に、この危機に対する

一つの解答を探ろうとしたためである。ブーバーの目には、西洋

における危機は世

と神との断絶に起因していると映り、我

々の時代は人間

の世俗的な生活と宗教的生活の双方が揺るがされている

86

論 文

いう問題意識があ

った。

 

ブーバーは、カバラを解釈し、それを大衆的な倫理

へと改変したバール

・シ

ェム

・トヴ

の思想

に準じてハシディ

ズムを理解している。実際に、

ハシデ

ィズムが東欧でこれほどまで大きな宗教運動になりえたのは、彼がカバラの

思想

を倫理的に再解釈し、信徒の日常性に根付き易いものとしたからに他ならない。

ハシディズ

ムにおける倫理性

を、

ブーバーはこのように述べる。

「(我々は)、ある時間で特定の言葉や身振りでも

って神に仕えるのではなく、全生活をも

って、す

べての日に、

すべての世俗世界と共に神に仕えることが重要である。人間の救いは世俗から離れることによ

って成り立

つの

ではなく、むしろ自身

の仕事

・料理

・余暇

・旅

・家族の構築

・社会の建設を清め、神的な意味に捧げるところ

にある」。

ハシディズムでは、直接的感性的なものの中にまで神が現臨する教えを基とし、世界の只中にて行為することを全

人間的な天職とする。それ故礼拝

の最中で自らが高揚するような場合においてではなく、日常生活のありとあらゆ

る営

みにおいて神に仕えねばならない。人間的人格、今

・ここにおける

「我」が聖化のき

っかけとなり、人間的我

が世俗的なものと聖なるものとを結び合わせるのである。ブーバーはこの行為を、「汝のす

べての道で主を知りたま

え」

(箴三・六)の実践と考える。そのため

ハシデ

ィズムにおいて、ど

の行為なのか、また何と関わることが特権的

のか、はそもそも重要ではない。宗教的に生きること、それはブーバーにと

って宗教に即して生きることと

一致

るものではないからである。

ハシディズムが

一般的な神秘主義と異なる点は、彼岸に神的なも

のを見るのでなく、

日常の生活の只中で神を見出すところにあり、ブーバーはそれを

「ハシディズムにおいてのみ、神秘主義は社会倫

(Ethos

)とな

った」と表現する。

87

 ブーバーは

ヘブライ語のテクスト

へと遡行する際・ラビ文献に準拠することがほとんどない。

けれども

ハシディ

ム研究を通じて、「ブーバーは数々の普遍的な問いだけを語

っていた」とレヴィナスは言う。

つまりブーバーは、

ハシデ

ィズムの倫理を解釈しながらも、つねにそこに見られる普遍的倫理性を語

っていた。

ハシデ

ィズムにおいて、

日常

の中で専心し、全存在をかけ、自らを開いて他なるものと接触することを、出会

いであり対話であると捉えた

ブー

バーは、それを

「我‐

汝」思想の基本理解としている。それ故に、『我と汝』では、

「いかな

るものと関わろう

とも、我

々の前に現臨して生じてくるあらゆるものを通して、我々は永遠の汝を垣間見るし、我

々はあらゆる汝の

中から永遠の汝に呼びかける」、という表現で、「我‐

汝」思想が説明されるのである。したが

って

ユダヤ的

ハシデ

ィズ

ムと、

「我‐

汝」思想は、まさに

「日常の中であらゆるものと関わる」ことを、我々が生き

る指針に据えてお

り、

あらゆる

「汝」との関係を介して永遠なる

「汝」との出会う倫理思想なのである。

五 レヴィナスとタルムード

 

一方、レヴ

ィナスと東欧

ユダヤ社会との関係は、ブーバーのそれとは事情が違う。レヴ

ィナスはポーランドやウ

クライナといった

ハシデ

ィズムが盛んであ

った地域ではなく、北方

のリトアニア出身である。リ

トア

ニアでは、ヴ

オロズィンのラビ・ハイー

(一七四九―一八二一

)が、彼の師

の死後、

タルムードの学塾イ

ェシヴ

ァ(ユ

ダヤ教

の高

等教育機関)を設立した。これは十九世紀

の初頭のことで、リトア

ニアではここで少数精鋭

の寄宿教育が為さ

れて

いたのである。イ

ェシヴ

ァはラビ

・ハイームの人望ゆえに評判を呼び、学生が急増し十九世紀後半には、彼の

弟子たちにより次

々と設立されて行

った。

レヴ

ィナスはラビ

・ハイームについて何度も言及しており、彼のラビ的

伝統

からのタルムード理解は、ここに大きく影響を受けたと思われる。このような環境で育

った

レヴィナスは、パ

88

論 文

リに

一九六三年から

一九六七年と

一九六九年から

一九七五年にかけて、フランス語圏のユダヤ

人知識人会議の席

で毎年

「タルムード講話」を講じた。

 レヴィナスはタルムード講話の目的を、「ユダヤの叡智が結び付けられているこのテク

ストに私

たち現代人の抱え

る諸問題に即した問いを向けること」と述

べた。こう述

べる理由を、彼のタルムードに対する姿勢から検討してみ

たい。レヴ

ィナ

スは、「タルムードには信仰心に凝り固ま

った教条主義的アプ

ローチは決して許されない」と言う。

反対

に、彼は

「タルムードのテク

ストは議論と対話を糧に生きるのである」と考え、精神的

・道徳的次元に照らし

てタ

ルムードを読む。彼にと

ってタルムード的

・ラ

ビ的読解とは、文献

(ecriture

)にはらまれた数

々の矛盾から

「教

え」を引き出しつつ、正典の内容を内面化すると同時に、それを永久に維持しようとする試みである。

口伝律法

(タ

ルムード)は書かれた律法から、人間的なるも

のさらには宇宙的なるものについて考え抜いた果てに、最後に理

解し得たこととして倫理的意味を引き出すのである。

つまり

一見すると彼岸に関する情報と思えるものをじ

つと見

据え、その裏に人間の実生活に関わる意味が隠されてはいまいかと思念することが、タルムード解釈の方法上の合

理性

である。それを彼は、「マイモニデ

ス以来、ユダヤ教の中で神について語られたことはことごとく人間的実践を

経由

して初めて意味を持

つことを、我々はわきまえている」と言う。タルムード解釈を通して、神的な事柄が人間

の実生活を通して理解されうるとレヴィナスが考えたことは、「人間が互いに責務を負い、各人が他のすべての人間

たち

の生に責任を負うような、隣人との関わりを

つうじて、まさに神は近づいてくるのです」と

いう言葉からも、

明ら

かである。

ユダヤ教が示すことは、内的生活、つまり精神的生活以上のものと関わることである。それは

「行

うこと」であり、精神化された純粋さは日々の生活の中でのみ現実化するものである。読者がテクストに接近し、

そこにおける

ユダヤの叡智を日々実践することによ

って初めて、テクストに秘められた倫理的意

味が現実化する。

89

の倫理的意味において、タルムードは現代においても尚、生きたものであると言い得るのであ

る。これがレヴィ

スのタルムード解釈と講話の目的であ

った。レヴィナスが

「我

々の望みは、タルムード講話の読者たちが、この

注解の中で、ポストーキ

リスト教期のユダヤ主義の原資料と可能性を見出してくれること」、と言う背景には、現

代的なも

のの考え方には全く欠落している偉大な教えを呼び寄せ、タルムードにおける儀礼的な

問題から哲学的問

へ遡及して行く彼の意図があ

った。市川裕は、

レヴ

ィナ

スにと

ってのタルムード研究とは文献学的歴史研究では

なく、タルムードの知恵

「現代的定式化」であり、それが彼のシオ

ニズム宣言の性格を持

つも

の、と言

っている。

それは現代に生きる

ユダヤ人に、土地の取得とは違う遺産を継承して行こうとする試みである。リトアニアのイ

シヴ

ァは、

ユダヤ的知の生きた伝統の継承に大きく貢献していた。ただ東欧におけるこの伝統は、ショーアー

(ユ

ダヤ

人強制収容)によ

って途絶えた。その役割を戦後イ

ェルサレムの

ヘブライ大学が継承す

べき

である、とレヴ

スは言っているが、現代のタルムード研究は文献学的歴史研究が主流となり、歴史学において現代的定式化を行

い得ないのが実情である。だからこそレヴィナスは、イ

ェシヴ

ァが果たした使命が断絶しないようタルムード研

究と講話を続けたのであり、危機感を持

ってその継承活動に努めたのであ

った。

六 現代におけるユダヤ思想の復興と、哲学とユダヤ教

 ブ

ーバーの死後、レヴィナ

スは、論文や講演

の中で、ブーバーとの書簡において中心的主題であ

った他者関係論

に特化せぬ議論を展開する。そこでレヴ

ィナスは、次のような新たな視点でブーバーのユダヤ教

に対する思想的貢

献を評価している。

 

「現代的な生ならびに思想としてユダヤ教が実在していることを西洋世界に示したのはブー

バーでした。

のみ

90

論 文

ならず、

ユダヤ教が改めて外部

へと掲示されたこと、それも同化し脱

ユダヤ教化した

ユダヤ系知識人たちが西

洋の精神的営みに参画しているのとは別の仕方で、

ユダヤ教が実在していること、この点を当のユダヤ教に対

して教えたのもブーバーでした」。

さら

にレヴィナスは、ブーバーは、そのほとんどす

べての作品がユダヤ教を主題としているにもかかわらず、驚嘆

べき自然さと自発性とをも

って、普遍的学識に帰属することのできたたぐ

い稀な

ユダヤ人思想

・著述家

人である、と言う。その理由は、「数

々のユダヤ教の源流、特に

ハシデ

ィズムについての省察から出発した思想が、

現代

のありとあらゆる問題を論ずるに至った」ためである。またレヴィナスは、

二十世紀の黎明

にあ

って、キリス

ト教

以後のユダヤ教を成熟

した生きた文明とみなし、それと接し、西洋の饗宴の正式な同伴者と

して

ユダヤ教を位

置づけた人物がブーバーだ

ったと考える。この主張

の背景

には、当時の

ユダヤ教が、西洋思想史

の中で、キリ

スト

の前段階に位置し、キリスト教に同化されたものとして捉えられ、それはアナク

ロニズムもしくは化石であ

って、

大学

での歴史的、考古学的な研究対象とみなされていたことがある。レヴィナ

スは、

ユダヤ教を

このように捉える

当時

の西洋世界に対して、真

っ向から反論する。

 

「ユダヤ教はイ

スラ

エルの民の救済だけを目指す特殊恩寵説をとると

一般には思われているが、実は人間

一般

に妥当する普遍的な見識を備えたものであることを示すこと、それが私たちの聖書釈義の主たる目的である」。

この

ユダヤ教における普遍性を抽出する姿勢が、まさに彼らの立場に他ならな

い。レヴィナスは

「翻訳」

(meler=

交ぜ合わせる)と

いう表現によ

って、タルムードのテクストが暗示する意義を、現代人や現代思

想にも妥当し得る

メッセージとして解釈した。

ユダヤ教と西洋哲学との関係というこの問題は、レヴィナスの全著

作の中で中心的な

位置を占めているが、彼は

「ギリシャ語」すなわち哲学的言語を語ることで、

ユダヤ的叡智をギ

リシャ語に翻訳し

91

ようと努めた人物である。

 

「レヴィナス哲学における鍵概念はす

べて

ユダヤ教関連の書物のなかに見出される。だが彼

[=レヴ

ィナス]の

哲学的著述がどの程度彼のユダヤ教関連の著述に

『影響を受けた』か、逆に、

ユダヤ教関連

の書物がどの程度

哲学的著作に

『影響を受けた』かを問うことは、おそらく誤った問いであろう。哲学的著述

ユダヤ教関連の

著述は、

一方から他方

への

『翻訳』であり、あるいはまた――

デリダから借用することが可能な用語で――

『二重

の読会』

(double reading

)である」。

ハンデルマンがこう述べたように、レヴィナス同様ブーバーにおいても、彼らの哲学が

ユダヤ教

から影響を受けて

いるのは確かであろう。ただそれは哲学と

ユダヤ教

のどちらが根源的かを問えるような影響関係

ではない。タルム

ード、聖書、そして現代

のユダヤ教が抱える諸問題に接近するに際して、両者は自らを哲学者と

みなすであろう。

それと同時に、彼らにおいて著しく倫理的な哲学や考え方はきわめてユダヤ的でもある。両者に

おいて、哲学と

ダヤ教は互いに密接に関連している。彼ら

の立場はユダヤ教の書物や諸問題を哲学的に解釈すると同時に、倫理的

な命

題を

ユダヤ的思考によ

って解釈するも

のである。

 当時

の欧州において、

ユダヤ人は大きく分け

て二つのアイデンティティーの基で存在した。それは第

一に、積極

的に西欧社会

へと同化を目指し泥同化

ユダヤ人である。彼らは進んでユダヤ的アイデ

ンティティーを棄て、キリス

ト教

に改宗したり、共産主義や労働運動などの政治的イデオロギーに身を投じたり、それぞれが生まれ育

った社会

の様

々な分野で文明の進歩に貢献しようと試みた。第二に、

ユダヤ教徒の特異性に留まりつつも

ユダヤ教を西洋

近代に適応す

べく、西欧

ヘレニズムの潮流に対して、

ヘブライズムのどの側面をどの程度保持して行くかを考えた

ユダヤ人がいた。彼らは正統な

ユダヤ教的学問から解放され、彼らの過去を客観的学問的に把握

しようと試みたの

92

論 文

である。この立場が十九世紀においてユダヤ学を構築したのであるが、ブーバーとレヴィナスの両者は、共に第

の立場に立

っていたと言うことができよう。彼らは、互いに出発点とな

った

ユダヤ思想に強く根差しながらも、そ

の範疇に留まり続けることはなか

った。両者は共に、

ユダヤ的な独自性を大切にし、それを西洋哲学

へと

「翻訳」

した。それと同時に、西洋哲学的言説や方法論を用いて、

ユダヤ教を現代において生きた思想と

して

「翻訳」した

のである。

終わりに

 本論考では、まず、ブーバーとレヴ

ィナスの直接的な交流を出発点として、両者の争点であ

った倫理的思想に

いて論じた。そこでは関係性の解釈で大きな差異があ

ったにもかかわらず、自己の存立と、他者

に対する真摯な責

・語りかけという点で、両者の問題意識は同じであ

ったことが分か

った。次に、両者

のハシデ

ィズムとタルムー

ド解

釈から、二人は共に

ユダヤ思想を現代に妥当する倫理的意味を持つものとして捉えていたことが分か

った。本

来な

らば、レヴィナスとブーバーにおける倫理思想と

ユダヤ教解釈をそれぞれ厳密に比較し、そ

の上でこのように

比較することが最終的に現代における

ユダヤ思想の可能性

へと広がり得るのか論ずるべきであ

った。しかし筆者

力量

不足により本論考で論じ得なか

ったため、これは今後の課題としたい。特に、両者

の倫理思想における無限と

永遠

の汝という神的なも

のの位置づけを明白にし、それと

ユダヤ思想との関連に

ついて思索を深めて行きたい。

93

註(1) Herausgegeben von Paul Arthur Schilpp und Maurice Friedman, W.Kohlhammer Verlag

.

(2) 

これ

レヴ

ィナ

スとブ

バーを

比較分

析す

る諸

々の研究

にお

て、

頻繁

に取

り上

られ

る論文

であ

る。

(3) Levinas & Buber: Dialog and Difference, edited by P. Atterton et all. (ed.), Duquesne University Press Pittsburgh,

Pennsylvania, 2004.

・Neve Gordon, Ethics and the Place of the Other, 1999

.

・Maurice Friedman, Martin Buber and Emmanuel Levinas: An Ethical Query, 2001.

・Ephraim Meir, Buber's and Levinas' Attitude toward Judaism.

・Michael Fagenblat and Nathan Wolski, Revelation Here and Beyond: Buber and Levinas on the Bible.

・Andrew Kelly “Reciprocity and the Height of God: A Defense of Buber against Levinas”, 1995

.

(4) 

エマ

ュエル

・レヴ

ィナ

「ブ

バー

の対話

『固有名

』合

田正人

訳、

みすず

書房

一九九

四。

(5) 

片柳

「現代

世界

の多

性と

対話

の可能

性」

『グ

ロー

ル化時

の人

文学

 対

と寛容

の地

を求

(下)

共生

への問

い』、京都

大学

学術

出版会

二〇

〇七、

一頁

(6) 

融即

(participation

)――

レヴ

ィナ

スが影響

を受

レヴ

・ブリ

ュー

『未開社

の思

考』

にお

「融即

の法

則」

が含

され

いる。

レヴ

ィナ

スにお

て、融即

は自

が他

へと

埋没

し、全

一体

して

いる状

態を

味す

る。

「融

して

の超

は、

それ

が向か

う存在

のう

に沈み

こむ」

(エマ

ュエル

・レヴ

ィナ

『全体

性と

限』

(上)

野純

訳、岩

波文

庫、

二〇

五、七

四頁)。

(7) 

「実

的宗教

は融

即と

のき

ずな

を完全

は脱

して

おらず

、知

らな

いう

ちに神

に引き

こま

いるじ

ぶん

を受

入れ

しま

って

いる」

(レヴ

ィナ

ス、上

二〇

五、

一四

三頁)。

実定

的宗

の信者

R

・オ

ット

が言う

よう

な戦慄

ン的

なも

のに神

見出す

が、無

限なも

のの観念

、叡

知的

、自体

的な

ヌーメ

ンと形

而上学

的な

関係

を結

こと

94

論 文

レヴ

ィナ

スは

って

いる。

(8) Emmanuel Levinas, Totalite et infini: Essai sur l'exteriorite, Martinus Nijhoff, 1980 (premiere edition 1961

), p. 50.

(9) 

レヴ

ィナ

ス、

上、

二〇

五、

一四

二頁。

(10) 

デカ

ルト

によ

れば

コギト

が内包

できず

、自

がそ

こか

ら分離

れて

いる

「無

限な

の」と

関わ

りう

る。

の関係

「無

限な

のに

ついて

の観

念」

呼ばれ

る。

限と

は超越

な存在

固有

のも

であり

、無

限な

のは絶

対的

に他

る者

であ

る。

て超

越的

のは、観

だけ

が我

々のう

にあ

り、

しかも

それ

自体

観念

から

限に遠

かる

なた

ひと

つの観

念さ

たも

のであ

る。

の観念

が我

々に内在

ると

同時

に、

の実体

は他

るも

のと

て、無

の隔た

りを

って彼

に存す

る。

の観念

は絶

対的

に分

した個

別的

「私」

のも

の内

にあ

る、

いわ

ば外部

への

通路

も言

(レヴ

ィナ

ス、

上、

二〇

〇五

、七

五―

七六

頁参

照)。

(11) 

レヴ

ィナ

ス、

下、

二〇

五、

一頁。

(12) 

片柳榮

一は、

々が絶

対受

動的

に蒙

しかな

「無

限」

を、

「死

の到来

に見

る。

「レヴ

ィナ

スは、

の形而

上学的

のう

に根

源的

関係

性、

社会

を見

よう

とす

る。

こに彼

の特

異な

他者

の視点

があ

こと

を見

過ご

てはな

い。

レヴ

ィナ

スにと

って死

こそ、

の観

がわ

れわ

のうち

にあ

りな

ら、わ

れわ

れを

絶対

に超

いる

『無限

の』

のであ

る」

(片

柳、

二〇

〇七

三八

二―

三八

四頁)。

(13) 

レヴ

ィナ

スの哲学

いて、主

は他者

の他

によ

って捕ら

われ

、問

いたださ

のであ

るが

このよ

うな

主体

の構造

は、

それ

自体

、聖

に登

場す

る預

言者

たち

が、意

に反

して捕

えら

、遂

には殉

に到

るそ

の仕

方と

類似

る。

スーザ

・A

・ハンデ

マン

『救

の解

釈学――

ベンヤ

ン、

ョー

レム、

レヴ

ィナ

ス』合

田正人

・田中

亜美

訳、

書ウ

ニベ

ルシタ

ス812、

法政

大学

出版

二〇〇

五、

二―

八三頁

参照

(14) 

レヴ

ィナ

ス、

上、

二〇

五、

一四四頁

(15) 

上掲

書、

下、

二〇

五、

三頁。

95

(16

) 

一四

(17

) Martin Buber, WERKE Erster Band: Schriften zur Philosophie, Munchen: Kosel-Verlag, Heidelberg: Verlag Lambert

Schneider, 1962, S. 150f.

(Ich und Du, 1923. Zwiesprache, 1930. Urdistanz und Beziehung, 1950.

)

(18) Buber, 1923, S. 81.

(19) Buber, 1923, S. 125.

(20) 

「それ」自体

悪しき

状態

では

い。人間

「そ

れ」と

「汝

」の関係

が交

代す

る最

で生き

いる

のであ

り、

「それ」

の生活

を為す

ことは

不可能

であ

ろう

(21) Buber 1950, S. 411

.

(22) ibid. S. 415.

(23) Buber, 1930, S. 193.

(24) 

「我‐

汝」

関係

は、親

密さ

(Familiaritat

)

ではな

く、

畏敬

に満ち

た信

(Vertrauen

)

であ

るとも

われ

る。

(25) op. cit., ibid., S. 167.

二者間

の距離

近すぎ

と、相

の空間

を侵食

ことも

あり得

る。

つまり離

化は

マアラ

マの回避を意

ている。

(26) op. cit., ibid., S. 121

.

(27) 

「汝

の感

覚」

「生得

の汝」――これら

は人

の内

に秘

られ

「汝を

希求

る源」

(Buber, 1923, S. 95

)

であり

人間を

の汝と結

合す

よう促

すも

のであ

る。

(28) Buber, 1930, S. 183

.

(29) Buber, 1923, S. 147

.

(30) op. cit., S. 97.

(31) op. cit., S.80

96

論 文

(32) Fritz Heinemann, Existerzphilosophie lebendig oder tot?, 1971, S.192ff.

ハイネ

マンはcogito, ergo sum.

が近

代哲

以降

哲学

思想

の立

場を

決定

いる

のに対

して、Respondeo, ergo sum

実存

哲学

の新

い道

を開

くも

のと

考え

(稲村

『ブー

バー

の人

間学

』教

文館

一九

八七、

六頁)。

(33) Emmanuel Levinas, Hors Sujet, fata morgana, 1987, pp.64f.

(34) こ

の点

ついて

アタ

ート

(P.Atterton)、

カラ

(M. Calarco

)、

フリ

ード

マンは、

ントや

J

・S

・ミル

の読

らば

レヴ

ィナ

スの倫

理学

が相

互的

でな

いこと

ついて違和

感を

える

であ

ろう

と言う

(2004, p.12

)。

ぜな

ら関

が非相

互的

であ

るのな

らば

、そ

は倫

理学

が普遍

に成り

たず、

己が他

に指

示や命

令す

こと

不可能

にな

る。

レヴ

ィナ

スは、

理性

や自

によ

って倫

理学

を構

成す

ことを

徹底

に批判

し、

の持

っ恣

性と

暴力

性を

指摘

る。

(35) レヴ

ィナ

スが

、ブ

バー

「我‐

」関

係を

、対

称的

で形

式的

な特

だと考

た点

は実際

のと

ころ奇

であ

る。

り我

と汝

は、交

可能

では

い。

それ

は包

つ排

他的

と語

られ

いる神や

永遠

の汝と

人間

の非対

称的

関係

を考

えれ

明白

であ

(Buber, 1923, S.145

)。

てそれ

は、真

の教育者

の生徒

に対

る関係

、臨床

心理

の患

に対

る関係

、霊

的指

導者

の会

への関係

いても非

対称

的性

見ら

れ、

これ

らに

いても

同様

「我‐

汝」

関係

は成

立す

る。

(36) Gordon, 1999, p.103-104.

(37) それ

レヴ

ィナ

スが

一九

二年

「ブー

バー

の土

地を

んだ者

みな、例え自

がど

こに

いる

のか分

から

なく

ても

バー

に恩義

があ

る。

知ら

い間

に国境

を越

てしま

って

いて、自

が踏

み込

んだ

国に忠

尽くさ

なけ

ばな

る」

(Emmanuel Levinas, Entre nous. Essais sur le penser-a-l'autre, Paris, Grasset et Fassquelle, 1991,

p.137.

)

と、

べて

いる

こと

からも

しう

る。

(38) Levinas, 1987, p.29.

97

(39) レヴ

ィナ

ス、

一九

四、五

五頁。

(40) 甲冑

を着

み、他

の語り掛

に気

づか

ぬ自

己こ

そ、現

代に

おけ

る危機

的状

であ

り、

ブー

バー

『我

汝』

を執

た意義

であ

った

(41) ハスカ

ラー――

八世紀

ユダヤ

啓蒙

主義

運動

で、

後期

ハスカラ

ー運動

の代

人物

モー

・メ

ンデ

ルスゾ

(一七

二九―

一七八六

)

であ

る。

(42) 市

川裕

「レヴ

ィナ

スに

おけ

るタ

ルムー

ド研究

の意

義」『レヴ

ィナ

ス――

ヘブ

ライ

ムと

ヘレ

ニズム』哲学会

、有

二〇〇

六、

九頁。

(43) Isaac Lejb Peretz

(1952-1915

),

いポ

ーラ

ンド

のイデ

ッシ

ュ語作家

(44) Levinas, 1987, p.18.

(45) Martin Buber, WERKE Dritter Band: Schriften zum Chassidismus, 1963, S.962.

(46) こ

のような

バー

ハシデ

ィズ

ム解釈

は、

理論的

文献を

に置

いて、

ハシデ

ィズ

のラ

ビたち

の生活

や行

為を

った民衆

文学

から着想

を得

いる。

ってゲ

ョム

・シ

ョー

レム

はブー

バー

的方

で得ら

ハシデ

ィズ

のイ

メージ

を、

聖人

伝を

に描

かれ

たカ

トリ

ック

のイメ

ージ

比し

いる。

らに

ョー

ムは、

『我

と汝

』を

起点

とす

るブ

バー自ら

の思

に合

て使用

文献

が選

別され

ており、

の文体

は悲壮

で心を

かす

が、詩

的言

の力を

借り

て論

証さ

れたも

のであ

ると批判

いる。

平石善

「ブー

バー

ユダ

ヤ精

神」『マルチ

・ブ

バー――

と思

想』、

創文社

一九

一、

一二

四―

一五頁参

照。

(47) Buber, 1963, S. 860.

(48) 神

は人

の行

為を

通し

て自

らを顕

現す

のであ

り、

世界

を再

び神

一致

せる

こと

が人間

の課

であ

る。

一致

(イ

フー

ド)

は、神

人間

の魂

の合一

ったも

のではな

く、

神的

原と

世界

に内

る神

の栄

一致

、神

ェキナ

一つにな

こと

であ

る。

って神

の国

は変

化生成

いく

人間

の国

の中

で、

人間

の意志

に働き

両者

98

論 文

の出会

いから

生ず

る予

見的

共同体

であ

る。

これ

は世

俗離脱

の経

験主

とは根

的に

異な

る世

俗内経

主義

の立場

をと

ハシデ

ィズ

ム的

神秘

主義

の思想

であ

る。齋

『ブー

バー教

育思

の研

究』風間書

一九九

三、

一二六

五頁参

照。

(49) ブ

バー

の聖書

解釈

は、

語源

や最

も古

い要

素を

出し

、近代

以降

ハシデ

ィズ

ム経

を引

き合

いに出

して

いる

が、

こにお

てタ

ムー

の成果

見過

ごし

いる、

レヴ

ィナ

スは述

べてい

(Levinas, 1987, p.27

)。

(50) Levinas, 1987, p.17.

(51) ブ

バー

『我

と汝

にお

ける

対話思

と、特

な人格

神秘

主義

ハシデ

ィズ

ムと

の密接

な影

関係

いては、

の拙

を参

照。

川敏寛

「M

・ブー

バー

におけ

ハシデ

ィズ

ム的

秘主義

我‐

汝思

想」、

『基

督教

研究

』京

都大

基督

学会

、第

二七

号、

二〇〇

七年。

(52) Buber, 1923, S.147

.

(53) ヴ

ルナ

のガ

ンと

ばれ

たラ

・エリ

(一七

二〇―

一七九

七)。

(54) Emmanuel Levinas, Nouvelles lectures talmudiques, Du sacre au saint, Paris, Editions de Minuit, 2005, Du Sacre au Saint―

Cinq nouvelles Lectures Talmudiques, 1977, p.9.

レヴ

ィナ

スは、

伝統

的研

は、

ルムー

ドに

通じ

いな

い者

には

理解

にく

い言

葉使

いや

文脈

で語る

きら

いが

るが、

のよう

な研

究と

は違

う方

で語

ろう

と努

めた

(55) エマ

ュエル

・レヴ

ィナ

『タ

ムード

四講

話』

田樹訳

、ポ

ロゴ

ス叢書

国文社

一九

八七

一頁

(56) 上

掲書

三九

頁。

(57) レヴ

ィナ

ス、

一九

八七

三七頁

(58) エマ

ュエル

・レヴ

ィナ

『諸

国民

の時

に』

田正

人訳、

叢書

ニベル

シタ

ス398、法

大学

出版

局、

一九

三、

五―

二八

六頁。

(59) レヴ

ィナ

ス、

一九

八七

二四頁

(60) 一九

八年

「マルテ

・ブ

バー

の思想

現代

ユダ

ヤ教

」、

一九七

八年

「マル

・ブ

バー

ガブ

99

・マルセ

ルと哲学

」、

一九

二年

「ブー

バー

ついて

の覚

」ら

の諸

論文

、講

演に

る。

(61) Levinas, 1987, p.16

.

(62) ibid.

(63) op.cit., p.15

.

(64) ハンデ

マン、

二〇

五、

四八

二頁。

100