Jp article on tang daoism

13
Tokai University NII-Electronic Library Service 東海 大 学 紀 要 文 学 部 N 工工 Eleotronio Library Servioe Tokai University 1 2 3 4 廿 寿

Transcript of Jp article on tang daoism

Tokai University

NII-Electronic Library Service

唐の

玄宗と

道教

東海 大 学 紀 要 文 学 部

N 工工一Eleotronio  Library  Servioe

Tokai  University

 

中鬮史に

道教と

治との

係は

相反する

方向に

えら

る。

侯・

官僚の

統治

反抗する

民衆運動の

に、

それ

統合し

鼓舞する

思想信条

与え

あり、

他は

専制君主の

好尚

投じ

家権力の

中枢に

接近す

る。

後者の

例と

て、

 

  

  

   

  

  

     

  

(1)

すで

宋の

徽宗、

明の

世宗の

場合

考え

きた。

秦皇・

漢武の

神仙崇拝は

も、

北朝や

唐の

諸帝の

道教信仰の

事例に

察すべ

き点が

残っ

る。

取り

げる

唐の

玄宗は

前・

中期、

開元

時代に

は、

故那波利貞博士の

言を

ば、

儒教的克

己主義

後期の

宝時代に

道教的享楽主

もっ

を、

ある

 

  

  

   

  

  

 (2)

引ぎし

め、

ある

弛緩さ

た。

人の

治世の

方針が

後で

相反し、

史家の

褒貶の

的と

点で

は、

梁の

武帝

前期の

天監

代の

年で

貴族国家体制を

更張

治績を、

中・

後期の

普通

等の

年号で

十年間で

くずし

了っ

れる。

武帝は

過度な

奉仏が

災し

たが

玄宗の

場合、

道教は

実際ど

うな

作用

か、

安易な

較に

慎重で

い。

 

儒教国家と

呼ば

中国歴

代王

朝に

時た

ま、

仏教や

教を

支持し

帝王

現わ

が、

単に

彼らの

個人的性向の

問題で

く、

当時の

体制に

儒教以

外の

原理を

ある

程度認容せ

得な

事情が

り、

帝王

好尚

輻湊し

て一

無軌道に

見え

現象

を呈

か。

唐代の

諸帝が

延年薬の

中毒に

     

  

  

     

  

  

   

  

 (3)

例が

多く

挙げら

れ、

英明な

宗も

その

中に

数え

る。

宗の

服用し

道十の

知す

金丹で

く波

羅門胡

勧め

  (

4)

あっ

た。

派の

宗教の

権威に

帝王の

肆意欲

望が

そこ

看取さ

る。

中国の

天子制度の

研究に

当た

権力と

信仰との

絡み

合い

を窺う

と.

き、

外的帝王は

考察の

適当な

対象に

う.

 玄宗

−七

六一

位ヒ…ニ

ー五

六)

李隆某

后の

垂拱.兀

(六

五)

年八

月、

相王で

あっ

睿宗

その

徳妃で

後の

昭成順

竇皇后との

間に

東都洛

生れ

た。

睿宗に

六.士

十一

り、 

隆廿肥

はゴ一郎と

れた。

 圏

同一二

十 、 林疋

丁⊥ 、 

長寿一 (亠ハ

九一二

に「臨巛

郡王

封さ

れ、

聖歴元(六

九八)

年出閤し

洛陽の

積善坊に

宅を

賜っ

た。

長兄

器(

六七九

ー七

四一)

下五

人の

王子は

院を

分ち

同居し、

大足元(

〇})

年、

十七

歳の

き長安に

移り、

興慶坊

住ん

きも

兄弟睦ま

く五

宅で

暮し

た。

成器は

憲と

改名し

が、

容宗に

隆基を

後嗣に

進言

し、

譲皇帝と

玄宗

開元

きた

が、

玄宗は

彼や

他の

兄弟に

書を

与えた

中で

朕は

悪薬を

Tokai University

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Tokai  University

志尚川宮

翼を

たい

思うが

肉の

兄弟こ

そ天

翼で

ない

かL

言い、

頃ひ

時に

倦経を

妙選し

神方を

得た

古老は

験あ

が、

薬を

分け

弟ら

同じ

く長齢を

保と

う」

言っ

る。

実際は

玄宗は

薬服

しい.

    

 

    

 

    

 

    

 

    

 

(5)

書の

内容が

彼の

神仙説へ

熱狂的

態度を

る。

 し

隆棊

取り

巻く環境は

道教色が

濃か

た。

彼の

同母

妹に

仙・

真二

主が

る。

人と

太極元(

七一二)

年、

隆基が

道士

り、

睿宗

め、

同じ

その

名で

呼ば

道観を

長安

輔興

坊に

造っ

た。

れに

民居を

奪い

数百

万の

費用

諸臣

諫め

多か

母后の一

族、

侍中

竇懐貞(

字従})

進ん

賛成

監督し、

公主の

司と

呼ば

た。

建立

背後に

武后の

娘で

当初は

玄宗擁立

功あっ

平公

勢力が

り、

太平公主

取り

    

 

    

 

    

 

 (6)

入っ

方士

史崇玄が

主の

師で

あっ

た。

時、

右補闕

辛替否の

L

疏に

太宗は

寺観を

造ら

福あ

り、

多く

僧尼を

度せ

無し」

が、

高家以

後、

仏・

道競っ

権貴に

り、

木の

妖を

たの

る、

帝権

巻く僧道の

軋轢は

く、

時も沙門は

狂人

使唆し

質な

妨害工

作を

で、

詔し

浮屠・

方士

敕し

る。

 

平公

主は

高宗が

武后に

生ま

で、

似て

権謀あ

り、

政治

的理

由で

女道士

なっ

る。

中宗の

娘安楽

主等と

奢侈と

権勢で一

世を、震わ

せ、

彼女

用し

利用

僧道の

躍は

周期の

宮廷を

乱し

た。

隆基

有様を

苦々

う。

開元の

武・

皐と

それに

続く女

権を排除する

とで

まっ

た。

 そ

玄宗が

物心つ

ろは

則天武后の

政権の

伸長

する

期で

あっ

た.

垂拱四

年、

購天は

初以来の

堂建設を僧旧薛懐輪

委ね、

水か

宝図

天授

聖図)

とい

獲た

作り

言を

し、

神を

耙り

嵩山

神嶽と

称し

神を

巾王

た。

白ら

聖母

神皇とい

尊号

受け

た。

年、

則天の

命で

南を

撫し

狄仁傑が

呉楚の

祖千七

所を

廃し

もあ

る。

中央の

最高権力者

が、

奇怪な

宗教行

為を

し、

中央

背き

地方の

淫杷を

弾圧し

 

 

7)

る。

 

堂が

完成す

と、

懐義は

俯現する

天堂を

造り

夾紵

大仏

像を

置し

た.

宗教の

設が

怪し

げな

僧の

督下に

造営さ

れ、

儒・

道二

教を

凌ぐ

至っ

た。

唐室は

老子

祖先と

し、

宗は

貞観十 (

七)

年、

み、れ

理由に、

道先

仏後を

令で

定め

た。

 

     

     

     

     

  〔8)

高宗も

方針

沿い

老君

太上

玄元農帝と

尊称し

が、

その

皇后で

あっ

は、

道徳経を

百官に

学ば

るこ

議し

に、

唐室の

遵っ

が、

高宗崩後、

実.権を

仏教

復権に

陽力し

た。

 

天は

太宗後宮の

才人で、

太宗崩後、

追福の

感業

寺尼

たこ

ある

とい

事情の

か、

家世は

奉仏の

空気が

強か

た.

則天

権勢欲

合した

仏教一

く、

雲経に

に、

身を

転輪

王の

国土

分の→

統べ

説で

その

仏教的符命を

利用

し、

従来か

く山.国に

知ら

れて

 

     

     

     (9)

勒下生の

仰と

鬨連づ

けた

る。

 

授元(

九〇)

年、

天は

神皇

称し、

年、

釈教革命を

標榜し、

仏先

道後を

た。

長寿二

年、

fを

罷め、

白作の

臣軌』

代え

た。

年、

輪聖

神皇帝

尊号

加え

体的に

金輪宝

どの

作り

会の

殿

庭に

た。

 

則天が

建造さ

堂は

萬歳元(

九五)

年に、

薛懐義の

放火

焼し

た、

中国

有の

思想に

基づ

建造物で

が、

懐義は

簑と

仏教儀礼

持ち

2第−30輯 (ユ978)

N 工工一Eleotronio  Library  

Tokai University

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Tokai  University

唐 の 玄 宗 と道教

だ。

堂の

北の

天堂に

紵大

像を

作り

貯え、

堂に

無遮会を

催し、

仏像を

地下の

阮中か

ら引き出

し、

涌出

との

奇瑞を

説い

た。

則天は

素行修ま

ず、

侍御医

沈南理を

寵愛し

が、

係に

あっ

懐義を

憬ら

せ、

彼が

天堂

放火し

堂に

延焼し

 

 

 〔10)

る。

 

明堂

布く

所で

宗廟で

く、

則天は

火災とい

天譴に

対し

自ら

貶損す

きで

ない

臣下

意見で、

天は

慎義に

命じ

明堂・

天堂

造ら

せ、

同時に

鼎・

十二

神を

銅で

鋳造さ

た。

治下の

全土、

方向を

鎮め

意味で

る。

とに

く則

天の

権力

機構は

中国

朝の

受け

継ぐけ

も、

個人

傾向

り一

種の

流に

投じ

仏教

その

内部に

巣を

造っ

とい

る。

中央の

教界の

偏向は

民間に

もこ

れに

相応す

宗派運動を

生ん

で、

それ

道教

指す宗教的価値と

同じ

た。

 

れよ

き延載元(

四)

年、

則天が

越古金

輪聖神皇

尊号を

受け

ろ、

河内の

神都麟趾

寺の

老尼

浄光如来と

自号し

未来を

予知

きる

称し、

人韋什方は

呉の

赤烏年の

言い、

薛師(

懐義)

と二

百年もの

間知り

合い

老胡らが

妖妄を

衆を

惑わし

た。

天は

彼ら

信用

し、

什方に

武姓を

賜い、

正諌大

夫同平

章事に

任じ、

廣成・

河上

し、

嵩山

還ら

た。

萬歳登

封(

天)

元(六

九六)

年、

臘月、

則天は

神都を発し

神嶽を

封じ

た.

神都と

光宅元(

四)

年、

東都洛陽を

改め

あり、

神嶽は

中嶽嵩山で

ある。

嵩山

西の

峯、

少室に

禅し、

神嶽天

中王

中黄帝と

追尊し

夏后

啓や

母に

も尊号を

贈っ

た。

啓母

石が

在るの

由で

ある

が、

京太后の

号は

道教の

神名で

る。

 

唐初、

泰山

封禅の

儀もあっ

が、

中嶽嵩山

重視さ

たこ

価値が

ある

詳し

くは

後述し

が、

唐の

道教が

北魏の

継承

 

 

    

 

    

 

    

 

    (13)

吉岡

義豊博士の

指摘は

正鴻を獲た

もの

ある。

則天の

無軌道に

見え

宗教

政策も

彼女が

国家の

首長で

との

自覚を

失わ

線に

沿う

言え

る。

 

則天

諌を

称せ

が、

愚劣な

狂態と

見え

薛懐義の

事件も

健全

方向で

終結

た、

内の

老尼は

弟子

余人

し、

淫穢の

為が

り、

什方は

年薬を

合すと

言い、

則天

南で

その

薬の

料を

取さ

た一

明堂火

見舞に

来た

尼に

対し

何故予

なか

か」

問い

因で、 一

党は

罰さ

解散し

た。

火災は

懐義に

衝撃で

り、

倖の

弥勒成道の

時、

天魔が

宮を

焼く

だ」

論じ

対し

直廾 .凵する

臣多く、

萬歳通

天元(

六)

年、

新明

堂の

通天

宮が

完成

た→

年前

すで

懐義は

伏謙し

た,

 

天も七

十歳を

過ぎ長生

希求し

あろ

推察し

易く、

臣、

朱前疑の

く、 「

陛下の

年、

満ち

夢み

た」

陛下の

白髪ま

黒く

歯落ち

更生

夢み

た」

 「

嵩山

行っ

歳の

聞い

た」

栄進し

者も

た。

朱前疑は

調

子に

乗っ

則天の

怒を

買い

追放さ

れた。

中国史

空前絶後の

は一

個の

人と

弱さ

統治者と

識見が

並存し

ある。

封禅の

秘儀の

的が

主の

あっ

山の

神も寿命を

掌る

れて

しい

暦二(

九)

年二

月、

則天

嵩山

率し

縷氏(

南偃師県

南)

過ぎ

仙太子(

晋)

廟に

謁し

た。

天の

家は

太原の

近く

西

文水の

出で

あり、

晋を

祖と

 

     

   ハー4)

するの

原王

る。

行掌後三

日、

則天

病み、

給事中閻朝

隠は

中嶽の

少室山

祷り、

自ら

太后の

命に

代ろ

請う

た。

うし

祭杷に

関与する

祭酒・

博士

官は

武氏

諸王

鮒馬都尉出身

多く正

儒士

た。

久視元(

〇)

年に

則天

嵩山に

幸し、

洪州(

江西

南昌)

僧胡超を

年が

長生

薬を

疾小し

く愈え、

久視と

改元

た。

寵臣の

昌宗は

後身で

東 海 大 学 紀 要 文 学 部3

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志尚川宮

奏に

り、

昌宗に

命じ

衣を

着て

吹き

木鶴に

庭中で

乗ら

た。

安四(

〇四)

年、

昌宗は

罪に

が、

神丹を

合し、

服用

験が

あっ

えに

免罪さ

た、

則天

疾に

褻ね

洛陽の

長生殿に

居り

宰相を

近づ

ず、

宗と

易之の

侍せ

た。

疾甚し

く宮中諸人の

疑懼の

中に、

張柬之らに

武力

行使に

昌宗兄弟は

誅せ

れ、

則天

巾宗に

位を伝えた。

武氏の

勢力は

残存し、

唐の

国号を

復し

後も

年余は

唐室の

女禍は

去らな

た。

則天

譲偉の

後、

個月

則天

大聖皇

后と

して

世を

去っ

た。

十二

歳。

彼女の

長生

薬に

道士

金丹

類が

あっ

思わ

有害な

作用

記さ

ず、

時的に

効が

あっ

る。

丹に

官僚h

人はこ

後も

輩出す

る、

 中宗復辟の

も、

帝権の

周辺

蠢め

沙門・

道士・

雑多な

術士の

もし

妖気

ない

神龍元(

〇五)

年、

老君

低限の

神名

呼ば

子は

依り

玄元皇

帝と

れる

なっ

唐書

本紀七

言う

五、

高宗の

乾封元(

六)

年、

泰山

昊天上

親杷

封禅の

礼を

行っ

ち、

曲阜に

幸し

孔子

太師

贈し、

月、

毫州の

老君廟に

幸し、

太上

玄元

追号

し、

桐堂を

創造し

記賢に

応ずる。

貢挙の

人々

臣軌』

く旧

依り

老.士』

なっ

た。

則天

排斥さ

妃孕氏

皇后

り、

夫との

誓の

うに

復た

見た

中宗と

韋后

易之

弟の

参画

胡僧慧範を

信任し、

術士

鄭普思・

葉静能は

ぞれ

秘書監・

了祭酒に

任ぜ

た。

門下

経由せ

たの

で、

侍中桓彦範は

貞観の

世に

顔師古・

孔頴達の

儒宗

うい

官を

拝し

比べ

反対し

聴か

かっ

た。

左拾

李畿の

神仙

死や

福利

否定

する

奏も

無益

あっ

た。

道上

史崇

恩も

神龍二

年、

祭酒同

なっ

た。

鄭普思

うな

宗教

係あっ

分ら

ない

が、

彼の

妻、

第五

鬼道を

韋后に

幸せ

れ、

普思

党を

集め、

雍・

岐二

州で

乱を

謀っ

とい

事件も

揉み

消さ

れた。

鬼道と

巫祝の

信仰を

指すと

思わ

る。

景龍.二

七〇九)

年、

関中の

飢饉の

東都に

行幸の

議が

あっ

ぎ、

韋后は

東遷を

ず、

彭君

卿ら

れを

中止

とが

ある

女巫

氏は

禁中に

出入

た。

章后の

周辺に

禁架の

術を

善くす

や、

薬・

調膳で

奉仕す

出身卑し

臣多く、

韋后

天の

娘、

安楽

公主

謀り

中宗を

毒殺し、

自ら

臨朝摂

政し

唐隆と

元、

十六

歳の

蕩帝

重茂

立て

た、

武氏

革命を

再現せ

と、

葉静能ら

画策し、

殤帝を

(15)

た。

氏一

党に

反対す

勢力

郡モ

宗)

太平

主があっ

た。

 

高宗と

則天

との

子で

中宗の

弟、

睿宗は

聖元(六

四)

年、

后に

り一

皇帝に

れ、

周の

朝で

子同

等の

礼遇

享け

が、

兄の

中宗哲

皇太

子を

譲り

相王

れて

た。

時、

年四

十九、

第三

隆基は

ト六

歳。

左右羽

林に

隷す

称さ

驍勇の

武士

統領た

握り、

后一

虐待さ

彼ら

見て

力行使を

諾さ

た。

父の

相王

報せ

ず、

玄武門を

扼し一

挙に

后一

派を

た。

際宝

昌寺僧普濶は

連絡の

役を

道+

馮道力

占兆

隆基

自信

植克つ

けて

た。

 

殤帝ば

当る

相工

位を

讓り、

れが

睿宗

あり、

子、

成器

大功あ

弟、

隆基

に白薫

子を

譲っ

た。

容宗の

治世は

室の

宿弊

除去さ

果が

発揮し

かっ

た.

景雲二

一一)

年四

癸未の

詔に

 

 

釈典

宗、

均跡異、

拯人化

俗、

教別功斉.

自A

毎縁法群集会、

 

 

僧尼

道モ

等、

斉行道集

4身∫30蒋仁 (1978)

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唐 の 玄 宗 と 道教

あり、

寅、

下に

赦し

 

 

濫度

僧尼

道士

依田。

令し

前述の

く金仙・

観の

巨費を

惜ま

造営な

ど、

保護に

廿えた

道の

既成宗教の

表瞬

活況

語る

過ぎな

い.

 

女禍の

種ば

なお

残っ

た。

天の

愛嬢太平公

勢と

富力で

下に

敵な

く、

僧慧範は

公主

寵せ

られ

権力を

振っ

た。

譲り

権謀に

寓む

太平公

睿宗に

位を

太.1.

伝え

うに

向け

太L皇と

日に一・度

太極

殿

朝を

受け

朕と

自称し、...

品以

ヒの

除授、

大き

裁する

し、

即位し

玄宗は

武徳

殿で

毎目

務を

執る

なっ

た。

宰相の

職に

在る

者ヒ

中、

聖の

息が

掛っ

た。

玄宗は

し、

澗もう

ず、

僧慧範を

含む

公t

党与ぱ

玄宗廃立

諜っ

た。

宮中の

成否は

門の

衛兵で

 

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

  

16)

羽林軍を

掌握

する

かい

る。

韋氏

打倒の

験で

宗は

充分

知っ

が、

太平公主

もま

林に

働きか

た。

勝敗は

玄宗が

信頼す

宗室や

武将

や、

高力

宿

官の

力を

獲て

先を

制し

たこ

定ま

た。

皇は

自今軍国政刑、 一

皆皇

帝の

分を

取る」

との

誥を

発し

方に

無為

握志、

素心

遂げ

ん」

霄っ

た。

山寺に

逃入

発見さ

賜わ

り、

与は一

掃さ−肌

た、

 

と西ご

開}兀一兀(

=二

年屯ハ

月。

唐の

気は一

新し

た。

富官の

抬頭と、

予測さ

ない

楊貴妃の一

歴史の

もに

明らか

る。

 

宗は

若き

教・

教が

世俗の

悪に

れ政

治を

す実情をつ

さに

撃し

ずで

ある.、

世の

年に

仏教と

もに

道教を

統制する

置が

取ら

た。

開元

六(

七…

八)

年、

 

 

  

  

  

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 は

河南参軍郷銑・

朱陽(

属県)

郭仙丹が.黝を

投じ

詩を

献じ

たが、

その

文理を

観る

乃ち

道法を

崇め、

時用

事情に

切な

ず」

敕し、

遊家

思想が

治に

益な

認め、

彼ら

官吏は

各々

好む

従う

く官を

罷め

度し

道士

すべ

し」

処澱

た。

開元の

名宰

姚崇は

開元

九(ヒ

ニ【)

年死

去し

家族に

遺令し

て、

仏教

式の

追薦

無用

し、

 「

道十、

僧の

獲る

見て

所為に

う。

尤もこ

家に

くべ

ず」

手厳

い、

年、

勅し

ト相

占候の

家に

出入

得ざ

た。

多くは

道で

あっ

思わ

る。

 

=一一(L二

賀)

年、

洛陽宮の

集仙

殿

名を

集賢殿

たの

も、

虚の

論で

斥け、

済理の

目べ

あ.る

賢者を

用い

旨で

る,

事張

説、

その

副、

徐堅

もと

儒林の

宗で

あ.っ

た。

前後

封禅に

見を

述べ

てい

が、

家宗教の

儀礼で

る.一

年十…

月、

玄宗は

泰由[に

り呈く

杞っ

た。

附近の

小山

社首に

皇地

祖を

祭っ

た。

宗は

時、

礼部侍

 

  

 

(17ノ

賀知章に

対し

前代玉

牒の

文は

何故

密に

たか」

問い、

 「

あるい

密か

神仙を

求むる

故に

見る

欲せ

ん」

答を

ぎ、 「

吾は

蒼生

祈福す

み」

言い、

牒を

出し

群臣に

宣示

た。

群臣ほ

百神を

山下の

壇に

祖っ

た。

唐の

封禅は

高宗の

乾封元

年に

ぎ第二

る.

 

玄宗は

述の

く仏

道二

教の

世俗化の

実情を

知る

に、

宗教

祭と

自己

役割を

自覚し

ずで

ある。

儀礼の

しい

執行

鬮家を

保全

効果を

岱じ

も、

運営に

何か

助言

ナえ

宗教的達人

求め

気持は

強か

う.、

古来儒教は

逸民・

存在理

認め

り、

現実に

府に

任す

大夫官僚が

運用

する

儒学の

説が

きとし

想に

隔り

あ.る

場合

林に

遁れて

名士

儒教の

源に

立っ

察し

て、

彼ら

朝廷に

すこ

賢君の

義務と

る。

唐初の

諸帝は

特に

逸の

招致に

熱心

あっ

た。

しこ

うし

隠逸

儒学の

道を

りつ

東 海大 学 紀要 文 学 部5

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ニヒ」巳 s尚川宮

広い

庭に

出る

儒学の

狭い

枠を

教に

従っ

る。

隠逸こ

儒家と

広義の

道家の

橋渡し

する

り、

治躙の

道た

前者

落婁主

する

家や.

況に

付随

嘉内学.

方術さ

仏教的

要素を

持つ

教説

実修に

接近

する

通路に

る。

 

睿宗の

道教に

措置に

儒臣

非難を

招い

た、.

冖公

主の

観を

造っ

き、

けこ

意昧で

健奈な

もの

ある。

景雲二

二)

年、

天台旧か

馬.俶

禎を

招い

陰陽数

うたこ

ある。

 

時の

禎の

答は

道者損之、

損以

無為、

安肯労心

数乎」

あり、 「

身無為則高矣.

如理

国何」

閲に

対し

て、 

国猶

曳順物自然而

心無所

畷」

喜。

た。

差歎じ

て、

廣成の

言も以

過ぐる

なし」

言っ

た、

 

承禎

 一

名.r微、

字は

道隠。

茅山

派十二

代の

宗師,

師正に

就ぎ、

嵩陽で、

金根上

経・

洞隠

書を

受げ、

東華上

清真

た。

嵩陽、

すな

嵩山

南とい

茅山

道教

重要な

意味が

ある。

江南て

成立

派は

十代王

遠知が

陳の

滅亡

会い

趣ぎ、

中岳で

修斎

し、

煬帝に

長安に

清玄壇を

建て

らっ

た。

も彼は

李淵に

歟を

通じ

革命を

支持し

た.、

彼の

高弟潘師正

彼の

命で

陽を

修真

地と

し、

十余年間、

逍遙谷に

人っ

絶っ

た.

高宗

上.兀

六)

年以後、

度彼を

訪い、

度召

し、

彼に

対し

弟千

称し

た。

彼の

師、

遠知法主に

昇玄先生

謚し

た。

師正

高弟へ

り、

特に

馬承禎は

陶隠居か

世、

正 

相伝し

た。

 

茅山

派と

唐室との

結托は

し、

禎の

後継者李含光(

六、八

−七

九)

清教の

興の

淑、 玄宗に

清経鏃を

授げ、

静先生

号を

賜っ

た。

顔真卿の

が、

清宗師

唐代

大夫の

交結の

禎の

仙学十友で

う。

陳.L昂.

宋之間.

李白・

然・

維ら

詩人、

道上

賀知章の

盧藏用

(20)

ある

彼ば

禎が

睿宗に

請う

き、

かつ

自分が

棲し、

応じ

終南山

指し、 「

此の

中に

佳処あ

り」

 

  

  

 

 

 

  

  

  

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

  へ20)

たが、

禎は

乃ち

仕笊の

捷径の

み」

返答し

逸話が

ある。

 

接触し

道士

多い。

茅山

派即ち

清教に

属する

め、

れは

唐の

家の

要請に

応ず

もに

夫の

好尚

思わ

れる、

際、

前に

少し

触れ

嵩山

崇杷の

意義を

考えて

要が

ある.

 

嵩山

嶽の

中央に

位し、

近くの

陽が

都で

あっ

後漢・

魏、

孝文帝

後の

魏の

時代は

もな

く、

そうで

戦乱の

際に

的に

四戦の

地を

鎮する

岳と

家権力の

象微に

れた

うこ

想像に

余り

る。

宋の

武帝劉裕に

高霊神が

受命の

符を

与え

 

 

 

 

  

  

 

 

 

 

(21)

く諸家に

意さ

が、

れよ

半世紀前

関す

説が

ある

書・

=四

苻堅載記に

附す

彼の

伝に

と、

少く

 

 

 

 

  

  

 う

貧し

く、

陽に

畚を

貨り

行っ

彼に

好い

値で

買上

げ、

深山

導い

話を

載せ

る。

そこ

十余人

左右

髪の

人が

胡床に

坐し

普通の

倍の

値を

与え

送り

た。

振り

返り

見る

そこ

嵩高山

あっ

とい

う.

E猛はの

睾陰山

隠れ

師に

就き出仕

た。

復し

き出

勧め

が、

は[こ

富貴に

る」

師の「.口

辞退し、

命の

臣と

なっ

た。

苻堅

果さ

江北

統一

武帝に

実現さ

が、

彼を

佐け

崔浩と

謙之と

ある。

証拠

兼ね

有し

宗教・

治的役割が

の.一人

分掌さ

れ、

後者

道教の

国教化が

完成

た。

説くま

もな

く寇

天師は

嵩山

し、

嵩岳鎮霊集仙宮主

劉裕の

場合の

嵩高霊神の

道教的神格

曹に

彼の

精専懈ら

ざる

奏し

結果

太上老君

啓示

至っ

た。

中岳が

廣漢平

土方万

里の

統べ

信ぜ

6第 30輯 (1978)

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唐 の 玄 宗 と道 教

も釈老志に

る。

師の

統以

外で

も、

京兆の

韋文秀は

り、

北魏の

世、

屋・

中條な

西

省の

名山

道ま

修行や

金丹

錬る

適地と

れて

り、

状況

唐代に

受けつ

る。

 

封禅は

行わ

れ、

華山

も桐ら

た。

高宗末年よ

武后に

けて

中岳の

崇耙が

立っ

くる。

永隆元(

〇)

年、

高宗は

武后・

太子を

連れて

嵩山の

遊巌の

居に

幸し、

潘師正

うた。

永淳元(

二)

年田

宅側に

奉天

宮を

た。

高宗ば

泰山だ

く遍く五

嶽を封ぜ

し、

奉天

宮は

あっ

が、

勇気の

ある

監察御史裏行李善感が、

十年来の

諌言絶

状態を

破り、

歳つ

ぎ餓死

者あ

り、

突厥

等の

侵入

実情を

意見し

た。

彼は

罰せ

も、

聴か

た。

泰山

以外の

嶽に

国家の

宗教儀礼

封を

及ぼ

する

伝統的杷典に

得るこ

あろ

か。

天がと

中岳を

重ん

垂拱四(

八)

年の

神嶽へ

称や

中岳の

近く

東都を

神都と

称し

措置で

知ら

る。

李唐の

首都

長安に

対抗し

洛陽

位を

高め

長安や

華山

ある

隴の

政.治集団

抑え、

中岳で

象徴さ

山東は

もと

  

  

  

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

  

  

 

 

 

(22)

新興科挙官僚を

求め

する

方針と

関連し

ない

か。

 

道士

武周

政権と→

層強く

結び

付こ

する

機会は、

なが

ら、

道士

権力欲の

盛ん

仏教徒に

よっ

妨害さ

た.

延年薬の

製造

中国

内の

名由

探す

も、

異国の

方術の

新薬の

方が

効験あら

な感を

与え

る。

天の

服し

疾や

軽快

とい

う洪

僧胡

超の

薬は

どん

成分で

あっ

か。

則天を

憐れん

成州(

甘粛

省階州)

仏の

足迹あ

り、

仏は

踏ん

だの

ある。

久視

年は

大足

改元

れた

七〇}。

十月に

安と

改元) 、

玄元

熱帝もこ

うに

現世

出現する

とを

希望さ

た。

 そう

道士

雑多な

方術で

名声を

博す

途に

た。

明崇儼

梁の

明山

賓五

代の

孫で、

父の

小吏で

鬼神を

役使する

者か

ら術

を伝え

れ、

治病を

善くし、

高宗に

知ら

され、

神道に

仮り

じ、

武后の

厭勝の

法を

が、

政局に

深入

た.

唐書一

九一・

方伎伝に

列せ

が、

伝に

種多

様の

専家が

伝せ

れ、

その

道士で

い。

雑占.

薛頤や

音楽に

精し

劉概。輔…儼(

李嗣

真伝)、

天文

善く

尚献甫ら

明らか

道十

あっ

た。

前述の

葉静能もこ

種の

道士で

党と

伏誅した。

 玄

宗の

教に

対する

策は

れま

唐の

帝や

天武后さ

もの

方向

完遂

ある

容宗を

辞し

天台

山に

還っ

司馬承

禎は

唐書一

九二

逸伝に

開元九(

二…)

年人

京し

玄宗に

法鐐を

授け、

十年ま

還っ

た。

玄宗は

治に

励み

神仏を

ず、

受鐐の

記事は

過早の

ある。

十「

年に

扮陰の

南郊を

紀っ

り、

国政の

粉飾と

杷典

修め

要と

考え

た。

封禅の

議が

説に

建議さ

れ、

結局玄

封禅を

神仙

説か

仕方で

執行し

た。

 し

禎は

機をと

え、

国家祭杷の

巾に

道教の

刻印を

た、

宗は

彼に

嶽の

神は

何を

うた

が、

彼は

「.今の

神桐で

林の

神で

真の

神で

い。

嶽に

洞府が

あり

清真人

天か

降っ

その

職に

任じ、

川風

雨、

陰陽気序を

治め

る」

答え

嶽に

桐ま

仙官廟を置く

なっ

た。

その

形象制度は

禎が

道経を

按じ

創意を

う。

道教の

犬福地の

説は

国家

宗教の

中に

位を

見出

た。

洞府の

真仙は

農本主

儒教

国家の

陰陽を

調節する

とい

責任を

帯び

条件がつ

た。

南嶽小

録で

司馬天

師が、 「

治め

五…獄

食の

神と

萼杷

  

  

  

 

 

 

  

  

 

 

 

(23)

うすべ

ず」

記す。

 こ

時、

玄宗は

彼に

命じ

体(

彼の

善く

篆.

隷と

独自の

体、

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志尚川宮

刀書)

老子経

写さ

句を

刊正

〇字と

た。

都に

彼が

選ん

屋山の

所居を

陽臺観と

た..

真公主

光禄

卿韋緬を

金鐐斎を

修せ

た。

韋綏は

礼学に

精し

く、

道教の

礼も

中国の

古礼を

範と

整え

れ、

儒者が

参加し

も違和感が

強く

なか

ない

か。

開元初、

左散騎常

侍劉

玄(

幾)

河上公

注を

疑い

注に

拠るべ

が、

宰相

宋環ば

司馬肖ハの

議に

家兼行

結果に

なっ

た.

禎の

刊正ぬ、玄宗の

御注道徳真経

 

  

  

 

 

 

 

 

  

 (24)

五)

議論の

後に

ぎた.

 

司馬

禎と

門に

呉篇が

る.

唐書一

九.一

彼は

ず、

開.兀

中、

玄宗に

道法を

聞わ

れ、 「

道法之精、

無如五

千→ 、” 、

其諸枝詞蔓説

徒費紙札耳」

答え、

神仙修

錬の

野人

之雰

歳月功行求之

非人主之

所宜

適意」

答え、

朝廷

世務に

関す

述べ

た。

歴世真仙

体道通

鑑一.、七

拠る

彼は

宝以

後、

道モ

大暦中ま

きた

とい

うの

疑わ

しい。

彼は

中、

綱紀口

素れ

て、

分の

地、

嵩山

ず、

茅山・

台に

り、

李白

交っ

た.

仏教

高力

ず、

釈氏

難し

人に

れた

とい

う。

綱論』

 『

神仙円

学論』

著が

ある

が、

関係な

た。

彼の

門、

劉道合

愛道)

高宗

命で

還丹を

合し

が、

威享中(

〇ーヒ

一、一)

解し

た。

高宗は

我が

合し

自ら

仙去し

か」

た。

 

玄宗が

重ん

道士

は、 『

論』

 『

隠子』

著者で

る、承

禎は

め、

 『

精辯論』

r・

庭内景経

注し、

開.兀

十ヒ

年、

京師

徴さ

履忠の

術あ

道上

あっ

た.

彼ら

な旧

唐書

九..

隠逸

列伝が

ある

が、

も盧鴻.・

希夷の

人が

挙げ

る、

 

玄宗は

東宮の

ぎ、

九経に

通じ

特に

典を

好み、

母の

病に

股を

割き

飴し

た(同類の

最初の

例か)

友貞を

召そ

が、

老年で

現し

たの

で、

彼の

年盧鴻一

詔し、 「

窮太一

道、

践中庸之徳」

称し

た。

太一

儒道の

か。

彼の

奏言に

老子

引き

礼で

く忠信に

り、

嵩山

道家者流に

う。

元六

年入

京し、

還山

れ、

米絹を

歳々

給し、 「

充其薬

物」

ある

が、

服食の

外、

金丹

志し

か、.

 

希夷も

隠れ

道教との

関係

明か

ある

道士

十年事

え、

閉気導養の

伝え、

その

後、

尭州徂

徠山(

泰安

県)

道士

劉玄博と

友と

り、

易老を

み、

松柏

婆・

雑花散を

餌し

た。

開.兀

年、

時九

歳で

謁見し

た。

 

新旧

唐書

方伎・

逸の

既述の

道士

等を

分載し

が、

者の

明か

く、

唐書が

方伎に

列する

思遡・、

読は

新唐書

隠逸

入っ

る。

読は

開元初、

卜三

死ん

が、 「

養性と

善言口

離れ

薬rを

離る

ず」

言い、

当時の

人に

成程

た。

彼の

医薬の

ある

思遡

老荘学

者で

ある

知ら

る.

同}

学と

兼修

し、

史編者

時代の

尚か

属し

ある

 

体に

言っ

れま

述べ

隠逸的道士

し、

方術・

幻術

事と

方伎的道士

大い

活躍する

開元十九年、

真君廟が

れた

対し

想家の

場か

与す

とに

道教の

発展の

方向を

求め

司馬承禎と

その

流れの

道士

業績で

ある、一

方、

資治通

鑑は

玄宗が

教に

傾い

果の

力に

考えて

る。

 後世八

仙に

数え

れる

果の

唐書(

網一

九一・

新二

〇五)

仙鑑』

一、皿七

見え

る。

彼は

郷里・

家世不

山西の

中條由

没し、

則天が

召し

たの

佯り

死し

た.

 『

陰符経玄解』

伝に眺門

う、

開元一

L三

三)

年、

州刺史

韋済の

E表に

り、

8第30輯 (1978)

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Tokai University

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Tokai  University

唐 の 玄 宗 と 道教

玄宗は

中書舎人徐嬌を

彼を

洛陽の

集賢院に

見し

た.

鑑は

十二

年二

月の

し、

十一

月、

彼の

請う

還ら

せ、

銀青光禄大夫と

通玄先生

号し

厚く

賜与し

た。

彼は

堯の

子の

生れた

称し

顔色

歳に

見えた、

通鑑に

彼がの

死ぬ

と、

異を

好む

者が

解し

奏し、

 「

由是頗信神仙」

述べ

る。

唐書

果を

召し

ぎ、

人の

寿を

知る

善くす

和璞、

視鬼を

善くする

夜光が

玄宗の

側近に

た。

邪は

張果の

年寿も

判らず、

師は

その

所在を

見ら

た。

その

果は

奇異

事を

し、

宗ば

降嫁さ

とい

うほ

 

 

 

25)

持っ

た。

 

新唐書に

果の

伝末に

類の

が、

彼らの

天宝

年間に

なっ

らし

い。

自身の

志願

り、

親族の

追福と

唐室の

意向

女道士

り、

宮廷に

道教の

滲透に

寄与し

例は、

師夜光

九仙公

主に

見した

とが

ある。

有名な

楊貴妃は

寿王

珊(

恵妃、

新八

二)

妃に

開元二一一、

年な

り、

眼に

官と

真と

寿王

離婚し

宮中に

入り、

武恵

対し

寵愛を

受げ

た。

天宝四(

五)

載七

月、

寿土の

め醜

昭訓の

新し

く妃と

し、

月、

真を

貴妃

し、

兄・

姉に

官位

賜っ

た、

 

時代の

玄宗の

活が

楊貴妃な

考え

説くま

ない

張果伝(

新)

附載す

孫甑

伎を

もっ

数個の

石を

せ、剰

馬の

馳走さ

が、

楊瀛貝

妃は

こ、れ

を支阿ん

度も宮中に

た。

磁・刀

利用の

盤上の

遊戯で

あろ

う。

羅旧心

遠は

能く「

自隠」

し、

宗もこ

学ん

分で

も衣

帯が

隠れ

ずに

残っ

た。

も成

功せ

ず怒っ

玄宗が

羅を

樸を

もっ

崖殺し

が、

彼は

無嘱に

蜀に

逃れ、 「

どい

戯れ

る」

使者に

言っ

う。

 

羅思

遠とは

遠の一

名で、

後世

人の

名で

知ら

る、

杜光庭

道教霊

験記(

常三

⊥、

六)

九の

羅真人

現験に

旱の

祈請を

行っ

た、

聞元

初年に

善無畏・

智に

教が

伝来

宮廷に

も接近し、

剛智は

武恵妃・

貴妃に

尊信さ

た。

後継者に一

行・

空あり、

十六(

七二

八)

年、

説を

大衍

暦を

上っ

た。

高僧伝巻一

空が

羅公

競い

勝っ

あるが、

小林太

市郎博

ヒは

宗朝の

鄭嵎の

津陽門詩并自注

遠が

宗・

楊貴妃の

前で

剛智の

裟を

符の

力で

絲に

ある

拠り、

終局と

道士

勝っ

結論

し、

また

教が

中国で

勢力

伸長

なか

類する

術を

道教の

 

 

 

 

(26)

論ず

る..

 

唐初、

高祖・

太宗は

仏・

道一一

教を

保護しつ

請を

先に

し、

朝以

来の

礼敬問題や

寺観創立

強い

態度

た.

武武・の

禍」

時期に

族や

倖、

的な

僧貼追

無司軌

道な

道愛

好の

風が

で、

政治を

紫し

力を

らせ

が、

その

後を

受け

宗は

国初の

宗教政

策に

復帰し

考え

る。

玄宗の

教に

対す

施策は、

唐朝の

聖祖とし

老君の

追尊、

崇玄

設置と

道挙

実施、

官道観の

建築

道徳経を

尚び、

自ら

註し

天下

頒ち、

書の

蒐集と

洞瓊綱経日の

野述、

道教の

先達へ

賜号

ど、

道教

 

 

 

 

 

 

  

  

 

 

 

  

  

  

 

 

 

  

 (27)

家規模

整備する

的と

もの

い.

 

元、一十一

年正

月、

庶を

老子一

本を

家ご

め、

貢挙

策に

尚書・

論語を

減じ

老.rを

た。

年、

道十・

冠を

宗正

寺に

隷し、

僧尼

桐部

検校さ

せた。.一卜九

塾、

京諸州に

各玄

元皇

帝廟を

践き、

井び

崇玄学に

生徒を

矛・

子・

列.r・

中〕

.rを

め、

毎年、

明経の

例に

考試せ

しめ

た。

天宝

二)

年に

荘子に

南華、

文rに

玄、

子に

淋虚、

庚桑子に

虚と

真人の

号を

え、

薯書

真経とし

た。

崇玄学に

博土・

助教各一

員、

東 海 大 学 紀 要 文 学 部9

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士」じ.t尚川宮

学生

百人

置き、

桃林県(

洞南省)

霊宝県と

Lた

 以

⊥は

唐書

本紀に

記すが

新唐

書に

年五

月、

道徳経及び

荘・

列.

文rを

求め

ある.

子は

外の

道家の

巨匠を

荘・

列は

子・

庚桑子

知ら

れるこ

少ない

思想家の

位を

高め

明で

ある。

唐会

要五

〇。

雑記

と、

、一月の

勅文で

真人・

真経に

き巾

書門下

討論せ

ト“と

り、

月の

李林甫ら

奏に

南華真人の

号は

くか

い。

同四

載、

書籍中の

玄元皇帝以

ドの

し、

道徳経

経の

首と

し、

華・経柚寺

子毒日

編列

すべ

ずと

詔し

た.、

 

老fに

対す

尊号に

既述の

高宗の

乾封元年の

尊号

武周

停止

れて

中宗神竜元

年に

太ヒ

玄元白巳

復し

た.

史料に

玄元皇帝と

略称さ

れるこ

とが

多い

だ一つ

通鑑、

開元

年π

月壬

戌、 「

初立

嶽真君桐」

紀に

・・)

戌、

嶽各置老君

廟と

り、

般に

親し

老君の

名を

用い

る。

 

皇帝の

写と

考え

きは

玄宗

自身の

生時の

尊琴で

る。

紀に

天元

年十一ロ月、

玄宗は

開元

神武

皇帝と

し、

月鬮

改元

た、

十八

年に

至り、

百官及び

華州

累り

表し

字を尊号に

請う

允さ

た.

彼ら

請に

西

嶽を

封ずる

とが

含ま

れて

た。

十七

年八

凵、

玄宗は

日ゆ

官を

宴し、

百官の

請に

毎年こ

秋節と

天下

宴楽

た。

天長節と

改め

帝生

祝賀の

る。

 

開元二

七(七

九)

年、

宗は

聖文神武皇

尊巨、7を

た。

天宝二

四三)

年、

元皇

帝に

祖の

字を

し、

その

太上

皇、

寿

氏を

先天太后

た。

京の

玄元

廟は

、兀

年に

太上

帝宮と

改名し

が、

西

京の

清宮、

京の

宮、

諸郡の

紫極

宮と

改称し

た。

 

宝七林概の

鮮馳

の鮎

り、

 八臨戦

玄{

開元

天出

聖宀文神武広 道

尊号

え、

レ一.

載(

七五

三)

最終的

開元天地大宝

聖文神武孝徳証

道巣

帝と

称し

た.

相応ず

天宝八

載に

玄元皇帝に

冠す

従来の

祖の

代り

祖大道の

四字を

た。

高祖か

睿宗に

帝に

聖皇帝の

字を

加え

た。

最終

的に

老君

尊号

十三

載に、

祖高上大

道金闕

玄.兀

太皇大

帝と

高祖以

下五

帝の

徽号も

重を

た、

玄宗

粛…宀

内禅冖し

ち、

 

七)

載、 太

道聖

皇大帝、

応元(

六.一)

月、

崩御し

て、

聖大明孝皇

れ、

玄宗と

廟号

定め

た、

生前玄

宗に

敵する

尊号を

有して

粛宗は

父の

疾篤く

なり

子(代宗)

監国

せ、

崩御し

た.

 

老君

と天

尊号

述べ

は、

老君

結局、

唐室の

祖と

て、

高櫪以

ドの

帝と

く現天rに

尊称さ

もの

で、

事自体

唐が

儒教国家で

道教国

家で

あっ

主張する

助け

い.

玄元血h

帝の

尊称が

開.兀

宝の

は、

老君

稲仰が

時期で

注意ぜ

ない

 

儒教

国家の

体制再

建に

尽力し

玄宗が

私生

活に

おい

撃を

けた

期の

事件は

后王

氏(

旧五一)

道嫌疑

あろ

う。

臨蕕

郡王で

あっ

隆基の

韋氏

倒の

計画に

預っ

ある

が、

子が

無い

実兄

守一

彼女の

位を危ぶ

み、

明悟を

符厭の

事を

た..

彼は

斗を

祭り

霹靂木を

地の

字と

玄宗の

書し、

合せ

佩し

有ら

天皇

るべ

し」

言っ

た。

皇后は

意な

権力を

兄と、

権力

僧の

くみ

結果に

り、

開元

卜.一年庶人

貶さ

れの

仏寺に

葬ら

れた

粛宗末年雪寃さ

れた。

件は

玄宗を

宗教冢の

暗黒面

警戒

たで

あろ

が、

その

彼自身、

方七

果引見

後、

神鬼を

至っ

た、

10第30車耳 (1978)

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唐 の 玄宗 と 道教

 開元二

年、 

太常博十

嶼は

告帝壇を

春せ

請い

=二

〇) 、

その

後、

桐祭使を

領し、

巫覡に

類し

たこ

行い、

礼を

ばこ

た.

彼は

粛宗以

後も祭祖に

奉職し、

その

儀礼は

紙錢を

用い

俚俗を

採用

が、

玄宗が

老r道

推崇し、

神仙の

事を

新.

〇九)

彼に

動の

与え

なっ

た。

天宝三

載、

術土

蘇嘉卿が

L亠.肖

し、

遁甲術に

九宮貴神あ

水旱を

典司

する

杷る

    

     

     

     

     

(28)

め、

実施さ

た。

九宮神の

瑛も説い

てい

る。

 玄元

皇帝も祀血ハに

く、

霊跡

衆庶

    

     

     

     

     ち

しつ

かっ

た。

元二

年、

玄宗は

玄元皇帝の

夢告を

受け

て、

屋楼観山

玄元の

像を

求め

得、

興慶宮に

迎え

置き

その

真容を

画か

め、

諸州の

開元

観に

分置し

た。

皇帝の

夢だ

けで

く真正

作為

か、

臣庶の

覚に

玄元は

現し

た。

天宝

元年、

玄宗の

皐子

珪の

参軍の

同秀は

た。

 「.玄

元皇帝を

丹鳳

門の

中に

見た、

は、

霊符を

函谷

喜の

故宅に

蔵して

告げた」

と。

玄宗は

使を

その

符を

得た。

群臣は

慶賀しが

宗に

宝の

尊号を

た、

寧坊の

新し

玄.兀

廟で

玄元を

享し、

同秀を

朝散大

夫と

た。

時人

宝符は

同秀の

為と

疑っ

た。

れに

て一

年ほ

崔以

清な

者、

玄元

津橋北に

現れ、 「

城(山

省)

紫微山

符を

蔵し

る」

    

     

     

     

 す

告げ

とい

い、

果し

発見さ

た。

東都留守王

錘が

彼の

詐り

知り

自白

が、

玄宗は

深くも罪せ

ず流

罪に

けで

る.

ての

詐を

りつ

己が

宗教的陶酔の

材料

る、

 唯一

救い

玄宗が

金丹の

中毒を

免れ

とで

る,

敬宗が

李徳裕

命じ

浙西

周息元

招か

き、

彼は

  臣又

前代帝王

雖好方士、

未有服其薬者。

漢書称。

黄金可

成以

  為飲食器則

益寿、.

又高宗

朝劉道合、

玄宗朝孫甑生、

皆成黄

金。

  祖竟不

敢服

豈不

宗廟社稷之重不

軽易

此事炳然載於国史。

 さ

らに

隠を

致して

保和の

聞い

餌葵の

功を

求め

ず、

金が

   

 

    

 

    

 

 (

30〕

もた

玩好に

充て

述べ

る。

通鑑の

月の

に、

玄宗が

宰相に

対す

載せ

る.

  朕

目、

宮中為壇、

為百

姓祈福

朕臼草黄素置

案上。

俄飛

  升天

聞空

中語云、

寿延長。

又朕於嵩山

薬成。

亦置壇上。

  夜左

右欲収

之。

中語云

薬未須収、

此自守護。

達曙乃

収之。

f諸王

宰相

表し

賀し

とい

う。

胡三

省は

君は

誕妄、

臣は

諛と

する

が、

結局玄宗は

服薬し

た。

比較す

葉法善(旧一

九一・新.一〇四薛

顋什)

宗の

る。

彼の

伝と

唐葉真人

伝』

 (

孝五

七)

る。

開元

年死し

玄宗とは

閃係

が、

高宗が

方士

し、

「、化黄金治丹法」

問う

き、

彼は

急に

徒ら

費用をか

ら、

真偽を

検べ

よ」

言い

百余

人の

方士

罷め

た。

 『

葉真人伝』

彼は

儒,

道.

緯.

候・

役使鬼神を

び、

豫章の

萬法師か

ら錬丹辟穀導引胎息の

学ん

だ。

歳で

丹に

中毒し

曲仙

茅君

命を

救わ

れ、

仙道に

志し、

正一

究め

貧乏に

恵施し

代天行

理、

陰徳を

先に

るこ

教え

とい

う。

萬法師と

萬廻の

で、

鄭檠の

開天傳信記』

は}

沙門と

もに

挙げら

れる、

葉法善は

方伎に

類し

正一

学を

重ん

た。

宗自ら

道家の

学に

精通し

道教の

幻奇を

た。

臣下に

も君

主の

倣う

者が

た。

崇玄館Lへ

学士

希烈

老涯を

講ずる

とで

進用

が、

神仙符瑞を

用い

うに

   

 

    

 

    

 

    

 

 〔31)

り、

李林甫は

点を

見抜き同平

章事に

推挙し

た。

 玄宗の

輝か

統治

裏も

谷も

あっ

た。

申元

之(

仙鑑』

羅公

遠・

奨法善等に

れる

有名な

伝説、

玄宗の

月宮に

遊び、

霓裳羽衣の

曲を

伝え

道ヒ

話は

華麗な

世を

飾る

い。

その

治世に

顔真卿の

健全な

識見を

有し

道教に

親し

  (32)

僚も

多い。

天.rと

道教と

関係は

夫・

宦官の

道教信仰と

合せ一

東 海 大 学 紀要 文学部11

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’匹;ド1.監 丿II  尚   志

括的な書

 ぜ

要する

突禄由

叛寸

ぎ、

老−

源県令恢

W過

は山幺一兀  、ー

円に卩罪、し

忠我の’ヒ、ぜ

静げ・に

納.

瓦..

) 。 」乍.貝h

妃’〆

洗  

とい

弱事

間で

なが

ら、

凶醸陣の

焼か

ず、

」民

求さ

ない

う.糧

それ

供す

を咎め

2、一(

鑑)

孜との

関係は

利…と

兼ね

備えて

 い

る.

 

 

  

 

 

  

 

  

 

 

  

 

 

  

 

  

 

 

  

 (

史〜

“妝

ー)

 

1)

 宮川「

徽宗と竹.教ー

 厂仁

紀女

 

 、

甲¥

r)

厨一

林’

朱の

  冰」

 (

四、

同) 、

明の

靖馬

代の

H】教」

占岡

博七

t

念r

  研究、躙

覚、

昭五一.

) .

 那波利

貞『

唐代ギ

 文

完』

 (東京、

四九」.

頁、

戸の

陛几

  末・天宝

初期

交が

の、

変臥期.」

るの

調

ぼ。

3)

店代の

金丹服用

は、

趙聖

广[

帝多

餌丹阜( ー.

剳記…

九)

  あ

り、

 こ

拠り

つ、

μ−甲

壮r

戸への一刋.耶

問巨.一

版田・宋初間の

  仰と

術の

国係』

勢南、

 .、….

4員以

下)

・二

ダム

  

 中世中

囚の

 オ

「」吟

 (

 い

,縛と

西の

学呂

匠」

下、

劇.廿,

  昭圧

 、

原L

LO

る、

4)

 旧唐pH

三・太

札、

貞観一 

ト、

繁冶通尹

.∩

・.尚...顕厦.

年の

朿・

  以

下本袖

利川し

た.ー

多い

が、

一・

dし

辻記し

ない、

54

 旧戸∴八・

九、

新唐ー

九、

玄ウ

山、

ド、

両唐占の

引用の

 ぽ

  旧・新との

記す、

6)

 所唐歴

三、

諸公

仁、

旧ゆ

占 二、.一

外滅.

明・太

ー公

」、

  新唐占、

〇九、

鬢懐

貞。

7) 旧

唐暑

六・期天

 新庫占四・川天順41

L 

 旧

如伝h)

  川天武

皇屏.

狄仁

(旧

九・新}一

11) 。

8) 全唐文】一∵

老君

玄、兀

皇帝摩〃7

9)

夛周

革命に

 哨o嵩P

三〇

三ロ

o、

、丸

ミヘ

話、

鳶ミ気島

§ミ

  

弑ミ轟ヒ゜鴨鳶

O奪ミ

ミ蛛隷

蕚的

ミ}

ら・ミ

ミk

 きミ

  

蕁、ミ♪

ぎ毳

ミ、蹴

、ミ

§。

§同

ざ、》

§αqb

§国§肺侮

霧9

 

 喬§罎

ξ

§山嵩

§言、ミQ

ゴこ

ミミ

§8H

磊p一εδ

¢

巳くω

童富臥09

門 

三ロ

 

 Z音o=

蕊・

新見

解をス

イン

占に

μ

示すが

未見、

外に

諸乘

 

 の

研究が

多い

矢吹慶輝「

大ー.謹

武周

革命」

教之研

究h

東京

 

 昭二)

挙げて

く。

10)

 “

懐義伝は

新一

三、

戚附、

武承

伝。

11)

 明堂につ

旧.、..・

志二

唐大

詔布集七一一.。

12)

 封禅につ

旧一二

・礼儀

芯一 

唐大

詔令集六

六・♪

唐同元

礼六三

 

 ・亠ハ…四レ

ま宀」孔徳成「、山’ゾ

广爪

及−オ

禅冂地

祈r[

冊臨敗1

 (

文史折臼

F最、.

 

 馴期、

民国皿ハ

.)

13)

 

同臨践

.冖水

牛へ

願い、

前7教』

 ρ以

都、

四.

、、一四

頁。

M)

 新广臼

」一.、

ド相匿

系表...

中。

15)

 巣憾

能は

ま・

浄能とL

れろ、

物は

代の

法孟と

で、

 

 魁文学ヤ

譜に

脚係深い、

陽一

浄能

詩の

て」

束方

 

 .小

教一⊥ハ

・昭=一五)十ハ塚査亠尚

弔山生

煮血騨

説盾の

片廊口考」

(『

寝方学』

}九

 

 {ハ

、叨岶甲五【二

 

糸照…。

(弼)

 陳寅恪‘戸

代政治史

述論稿』

 (巨

慶、.

四) 。

隋唐

 

 副

源略考,

もに

寅忤尤

 輔

(台北、

〇)

域せ

る,

 

 な

木文の

」の

前後の

述は

七・中

宗、

祈…四・中出爪

五・r

 。

 

 冖・中,小

硅匠、人(

后妃)

 

新七

六・

韋阜

旧、

新八

三・

諸帝公

主(

太平

 

 」−

曽)

を参照。

(17)

 

閃係…人物の

伝は

姚…尿(

旧九六・新一二

四)・張

説(旧

九ヒ・新一.、

五)

 

 、只

刈点早

旧一

九〇文

苑・新一

九亠ハ

逸) 。

(18)

根オ威『

制社

抵抗

神』

 (東

京、

昭二

七)

(19) 

司馬承禎の

記。

旧.

二・新一

師免一。

続仙

下。

世直万仙休冖置

 

 通

鑑(

以下『

仙鑑』

と略

記) ←五、

志一一、

共他。

廣成子の

 

 伝は

神仙伝一の

害の

罐『

厚.、λ

行一し

 (海一

七。

駈明年間の

 

 作か)

昆え

る。

20)

 旧

四・新、

一、

三。

21) 

阪野

長八

裕受命の

仏教的

瑞祥」

〔謬ト

輙』

尹京一一の一、

昭一

 

 一)

塚t

隆「

北魏太武

帝の

廃仏禾

択」

 〔、

仏教史研’馳、

北魏

篇』

 

 事京、

昭一

ヒ、

原作

昭一.

一)

1230串耳 (1978)

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Tokai University

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唐 の 玄 宗 と 道 教

22)

 陳…宙〔枚旧

の山嗣

引〔註16〕

二虫肯

23) 道教に

山岳の

宗教的意義は

小さ

ない。

概説で

事を

多く取

  

げた

勤家『

道教

史慨論』

人人文庫所

収)

ある。「

洞」

  

乱を

避け

書を

分散し

所蔵し

洞天)

関係ある

臆測

する.

24)

 「

唐玄宗

子道徳

経二

巻」

内義雄全

集第五

巻老子

篇隔

京、

  

三)

頁.、

係人物の

列伝、

韋緡(

新…二

附車安石)、

  

旧一

〇、一・新一一二

二) 、小木

環(

旧田九亠ハ

・新【二

四)

25)

 鄭処誨

 明

(守山

閣叢書)

鄭檗

 醐.兀

傳信

記(

学海)、

  

徳裕

 明

皇十七

事(

稗乗)

等参照

26) 『

林太市郎著

作集

第ヒ

巻、

仏教芸

術の

研究』

京都

 一

九七

四)

 「

  

廷に

於ける

密教と

角逐」

 (

四…一

頁)

27)

唐玄宗朝乃

唐代道

早く

端良

秀「

唐朝に

於け

  

対策」

支那

仏教火

学』

巻.…号・

昭一

五)

ある。

28)

 王

瑛の

伝は

旧一一.一〇。新一

〇九。

九宮貴神につ

は、

顧舶

剛・楊向

  

金合著「

皇考」

(『

燕京学報』

専号、一

九三

六)

五}

頁以

下。

29)

 老子の

地上に

出現し

例と

南史十・陳

後主

禎明二

八)

  

条、 「

有神

自称老子

游於都

下。

与人対語

而不

見形

言古

凶多験」

  

下略)

とあり、

唐の

嵩 建

康実録二

十に

見え

る。

同十

永定三

  

九)

年、

羅浮山

仙人

現の

事が

ある。

30)

 唐の

諸帝で

薬を

服用

太・憲・武。

宣と

穆・敬宗で

ある。

  

宗の

服し

羅門僧の

薬で

あり道士

関係ない。

穆。敬二

  

服薬tた

結果の

症状の

載が

い。

高宗も玄宗も

長生薬の

知り

  

惑さ

危険は

あっ

終に

服用し

た。

窪徳忠『

道教

史』

 (

  

川出版社

世界宗教

史叢識九

二)

頁に

道士の

すめ

  

丹を服用

早死

帝とし

宗、

高宗

 〔

憲宗を脱し

て〕

穆宗

  

…」

とい

誤り

る。

種の

金丹服用を

金丹道と

呼ん

  

当で

ない。

 一

般教

概説

書の

うし

準借川は蹴

退

憾}と

  

ない.、

31)

陳希烈(

匕附張

説・新一.、

一三

上・姦臣)

李林甫

旧 

〇六。

新二

  、…三

上) 。

32)

 

巾天師の

竜城録〔柳

宗元

托す) . 

顔頁卿(

旧一一.

八・新→五

三) 。

東 海大 学 紀要文 学 部13

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