Jp article on tang daoism
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Tokai University
NII-Electronic Library Service
唐の
玄宗と
道教
東海 大 学 紀 要 文 学 部
N 工工一Eleotronio Library Servioe
宮
川
尚
志
Tokai University
中鬮史に
お
け
る
道教と
政
治との
関
係は
二
の
相反する
方向に
お
い
て
捉
えら
れ
る。
冖
は
王
侯・
官僚の
統治
に
反抗する
民衆運動の
た
め
に、
それ
を
統合し
鼓舞する
思想信条
を
与え
る
こ
と
で
あり、
他は
専制君主の
好尚
に
投じ
国
家権力の
中枢に
接近す
る
こ
と
で
あ
る。
こ
の
後者の
例と
し
て、
(1)
すで
に
宋の
徽宗、
明の
世宗の
場合
を
考え
て
きた。
し
か
し
秦皇・
漢武の
神仙崇拝は
別
と
し
て
も、
北朝や
唐の
諸帝の
道教信仰の
事例に
は
ま
だ
考
察すべ
き点が
残っ
て
い
る。
こ
こ
に
取り
上
げる
唐の
玄宗は
そ
の
治
世
の
前・
中期、
開元
時代に
は、
故那波利貞博士の
言を
借
り
れ
ば、
儒教的克
己主義
、
後期の
天
宝時代に
は
道教的享楽主
義
を
もっ
て
政
治
を、
ある
い
(2)
は
引ぎし
め、
ある
い
は
弛緩さ
せ
た。
一
人の
君
主
に
し
て
治世の
方針が
前
後で
相反し、
史家の
褒貶の
的と
な
る
点で
は、
梁の
武帝
が
前期の
天監
時
代の
十
八
年で
貴族国家体制を
更張
し
た
治績を、
中・
後期の
普通
・
大
同
等の
年号で
よ
ば
れ
る
三
十年間で
な
し
くずし
に
し
て
了っ
た
こ
と
に
比
せ
ら
れる。
武帝は
過度な
奉仏が
災し
たが
、
玄宗の
場合、
道教は
実際ど
の
よ
うな
作用
を
及
ぼ
し
た
の
か、
安易な
比
較に
は
慎重で
な
け
れ
ば
な
ら
な
い。
儒教国家と
呼ば
れ
る
中国歴
代王
朝に
お
い
て
時た
ま、
仏教や
道
教を
強
く
支持し
た
帝王
が
現わ
れ
る
が、
そ
れ
は
単に
彼らの
個人的性向の
問題で
な
く、
当時の
国
家
体制に
儒教以
外の
原理を
ある
程度認容せ
ざ
る
を
得な
い
事情が
あ
り、
そ
れ
が
帝王
の
好尚
と
輻湊し
て一
見
無軌道に
見え
る
現象
を呈
し
た
の
で
は
な
か
ろ
う
か。
唐代の
諸帝が
延年薬の
中毒に
よ
り
病
死
し
(3)
た
例が
多く
挙げら
れ、
英明な
る
太
宗も
その
中に
数え
ら
れ
る。
し
か
し
太
宗の
服用し
た
の
は
道十の
関
知す
る
金丹で
は
な
く波
羅門胡
僧
の
勧め
た
薬
(
4)
で
あっ
た。
一
派の
宗教の
権威に
勝
る
帝王の
肆意欲
望が
そこ
に
看取さ
れ
る。
中国の
天子制度の
研究に
当た
り
権力と
信仰との
絡み
合い
を窺う
と.
き、
こ
れ
ら
例
外的帝王は
考察の
適当な
対象に
な
ろ
う.
玄宗
(
六
八
五
−七
六一
。
在
位ヒ…ニ
ー五
六)
李隆某
は
則
天
武
后の
臨
朝
し
た
垂拱.兀
(六
八
五)
年八
月、
相王で
あっ
た
父
の
睿宗
ほ
と
その
徳妃で
後の
昭成順
聖
竇皇后との
間に
、
東都洛
陽
で
生れ
た。
睿宗に
は
六.士
十一
女
あ
り、
隆廿肥
はゴ一郎と
よ
ば
れた。
圏
同一二
加
十 、 林疋
丁⊥ 、
長寿一 (亠ハ
九一二
)
甜
十
に「臨巛
姻
郡王
に
改
封さ
れ、
聖歴元(六
九八)
年出閤し
て
洛陽の
積善坊に
宅を
賜っ
た。
長兄
の
成
器(
六七九
ー七
四一)
以
下五
人の
王子は
院を
分ち
同居し、
大足元(
七
〇})
年、
玄
宗
が
十七
歳の
と
き長安に
移り、
興慶坊
に
住ん
だ
と
きも
兄弟睦ま
じ
く五
王
宅で
暮し
た。
成器は
の
ち
憲と
改名し
た
が、
父
の
容宗に
隆基を
後嗣に
す
る
こ
と
を
進言
し、
譲皇帝と
し
て
玄宗
の
開元
末
ま
で
生
きた
が、
玄宗は
彼や
他の
兄弟に
書を
与えた
中で
「
朕は
悪薬を
服
Tokai University
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Tokai University
志尚川宮
し
羽
翼を
生
じ
たい
と
思うが
骨
肉の
兄弟こ
そ天
生
の
羽
翼で
は
ない
かL
と
言い、
ま
た
「
近
頃ひ
ま
な
時に
倦経を
妙選し
こ
の
神方を
得た
。
古老は
服
せ
ば
必
ず
験あ
り
と
い
う
が、
こ
の
薬を
分け
て
兄
弟ら
と
同じ
く長齢を
保と
う」
と
も
言っ
て
い
る。
実際は
玄宗は
仙
薬服
用
に
は
至
ら
な
か
っ
た
ら
しい.
(5)
こ
の
書の
内容が
彼の
神仙説へ
の
熱狂的
で
な
い
態度を
示
し
て
い
る。
し
か
し
隆棊
を
取り
巻く環境は
道教色が
濃か
っ
た。
彼の
同母
の
妹に
金
仙・
玉
真二
公
主が
い
る。
二
人と
も
太極元(
七一二)
年、
隆基が
即
位
の
年
に
道士
と
な
り、
睿宗
は
二
人
の
た
め、
同じ
その
名で
呼ば
れ
る
道観を
長安
輔興
坊に
造っ
た。
こ
れに
は
民居を
奪い
数百
万の
費用
が
か
か
る
の
で
諸臣
で
諫め
る
者
多か
っ
た
が
母后の一
族、
侍中
竇懐貞(
字従})
が
進ん
で
賛成
し
監督し、
公主の
邑
司と
呼ば
れ
た。
こ
の
建立
の
背後に
は
武后の
娘で
あ
り
当初は
玄宗擁立
に
功あっ
た
太
平公
主
の
勢力が
あ
り、
太平公主
に
取り
(6)
入っ
た
方士
史崇玄が
二
公
主の
師で
あっ
た。
こ
の
時、
右補闕
辛替否の
L
疏に
「
太宗は
多
く
寺観を
造ら
ず
し
て
福あ
り、
多く
僧尼を
度せ
ず
し
て
災
無し」
と
あ
る
が、
高家以
後、
仏・
道競っ
て
権貴に
阿
り、
土
木の
妖を
尽
し
たの
で
あ
る、
帝権
を
取
り
巻く僧道の
軋轢は
激
し
く、
こ
の
時も沙門は
狂人
を
使唆し
て
悪
質な
妨害工
作を
し
た
の
で、
詔し
て
浮屠・
方士
の
両
競
し
な
い
こ
と
を
敕し
た
ほ
ど
で
あ
る。
太
平公
主は
高宗が
武后に
生ま
せ
た
皇
女
で、
母
に
似て
権謀あ
り、
政治
的理
由で
女道士
に
なっ
た
こ
と
が
あ
る。
中宗の
末
娘安楽
公
主等と
と
も
に
奢侈と
権勢で一
世を、震わ
せ、
彼女
ら
を
利
用し
ま
た
利用
さ
れ
た
僧道の
暗
躍は
武
周期の
宮廷を
乱し
て
い
た。
隆基
は
こ
の
よ
う
な
有様を
苦々
し
く
思
っ
て
い
た
で
あ
ろ
う。
開元の
治
は
武・
皐と
それに
続く女
権を排除する
こ
とで
始
まっ
た。
そ
の
玄宗が
ま
だ
物心つ
か
ぬ
こ
ろは
則天武后の
政権の
伸長
する
時
期で
あっ
た.
垂拱四
年、
購天は
国
初以来の
明
堂建設を僧旧薛懐輪
莪
に
委ね、
浩
水か
ら
宝図
(
天授
聖図)
とい
う
石
を
獲た
と
作り
言を
し、
そ
の
神を
耙り
、
ま
た
嵩山
を
神嶽と
称し
そ
の
神を
天
巾王
と
し
た。
白ら
は
聖母
神皇とい
う
尊号
を
受け
た。
こ
の
年、
則天の
命で
江
南を
巡
撫し
た
狄仁傑が
呉楚の
淫
祖千七
百
所を
廃し
た
の
は
皮
肉
の
よ
う
で
もあ
る。
中央の
最高権力者
が、
奇怪な
宗教行
為を
な
し、
中央
に
背き
か
ね
な
い
地方の
淫杷を
弾圧し
た
わ
(
7)
け
で
あ
る。
明
堂が
完成す
る
と、
懐義は
そ
の
北
に
こ
れ
を
俯現する
天堂を
造り
夾紵
の
大仏
像を
安
置し
た.
国
家
宗教の
施
設が
怪し
げな
僧の
監
督下に
造営さ
れ、
仏
教
が
儒・
道二
教を
凌ぐ
に
至っ
た。
唐室は
老子
を
祖先と
み
な
し、
太
宗は
貞観十 (
六
三
七)
年、
み、れ
を
理由に、
道先
仏後を
詔
令で
定め
た。
〔8)
高宗も
そ
の
方針
に
沿い
老君
を
太上
玄元農帝と
尊称し
た
が、
その
皇后で
あっ
た
則
天
は、
は
じ
め
こ
そ
道徳経を
百官に
学ば
し
め
るこ
と
を
進
ん
で
献
議し
た
よ
う
に、
唐室の
成
規
に
遵っ
た
が、
高宗崩後、
実.権を
握
る
や
仏教
の
復権に
陽力し
た。
則
天は
も
と
太宗後宮の
才人で、
太宗崩後、
追福の
た
め
感業
寺尼
と
な
っ
たこ
と
が
ある
とい
う
事情の
ほ
か、
そ
の
家世は
奉仏の
空気が
強か
っ
た.
し
か
し
則天
の
権勢欲
に
迎
合した
の
は
仏教一
般
で
は
な
く、
大
雲経に
説
く
よ
う
に、
女
身を
以
て
転輪
王の
国土
の
四
分の→
を
統べ
る
と
い
う
教
説で
、
その
仏教的符命を
利用
し、
さ
ら
に
従来か
ら
広
く山.国に
知ら
れて
い
た
弥
(9)
勒下生の
信
仰と
も
鬨連づ
けた
も
の
で
あ
る。
天
授元(
六
九〇)
年、
則
天は
周
と
国
号
を
改
め
聖
神皇
帯
と
称し、
翌
年、
釈教革命を
標榜し、
仏先
道後を
制
し
た。
長寿二
年、
挙
人
が
老
fを
習
う
の
を
罷め、
白作の
『
臣軌』
を
以
て
代え
た。
同
年、
金
輪聖
神皇帝
と
尊号
を
加え
、
具
体的に
金輪宝
な
どの
七
宝
を
作り
朝
会の
と
き
殿
庭に
陳
ね
た。
則天が
建造さ
せ
た
明
堂は
犬
冊
萬歳元(
六
九五)
年に、
こ
と
も
あ
ろ
う
に
薛懐義の
放火
に
よ
り
全
焼し
た、
明
堂
は
も
と
よ
り
中国
固
有の
政
治
思想に
基づ
く
建造物で
あ
る
が、
僧
懐義は
こ
れ
を
隠
れ
簑と
し
て
仏教儀礼
を
持ち
2第−30輯 (ユ978)
N 工工一Eleotronio Library
Tokai University
NII-Electronic Library Service
Tokai University
唐 の 玄 宗 と道教
こ
ん
だ。
明
堂の
北の
天堂に
夾
紵大
像を
作り
貯え、
明
堂に
無遮会を
催し、
仏像を
地下の
阮中か
ら引き出
し、
地
か
ら
涌出
し
た
との
奇瑞を
説い
た。
則天は
素行修ま
ら
ず、
侍御医
の
沈南理を
寵愛し
た
の
が、
同
じ
ょ
う
な
関
係に
あっ
た
懐義を
憬ら
せ、
彼が
天堂
に
放火し
た
の
が
明
堂に
延焼し
た
と
〔10)
い
わ
れ
る。
明堂
は
政
を
布く
所で
宗廟で
は
な
く、
則天は
火災とい
う
天譴に
対し
て
自ら
貶損す
る
べ
きで
は
ない
と
い
う
臣下
の
意見で、
則
天は
さ
ら
に
慎義に
命じ
明堂・
天堂
を
造ら
せ、
同時に
九
州
鼎・
十二
神を
銅で
鋳造さ
せ
た。
治下の
全土、
全
方向を
鎮め
る
意味で
あ
る。
とに
か
く則
天の
権力
機構は
中国
王
朝の
そ
れ
を
受け
継ぐけ
れ
ど
も、
則
天
個人
の
傾向
に
よ
り一
種の
時
流に
投じ
た
仏教
が
その
内部に
巣を
造っ
た
とい
え
る。
中央の
こ
う
し
た
宗
教界の
偏向は
民間に
もこ
れに
相応す
る
宗派運動を
生ん
で、
それ
は
道教
の
目
指す宗教的価値と
同じ
も
の
を
求
め
た。
こ
れよ
り
さ
き延載元(
六
九
四)
年、
則天が
越古金
輪聖神皇
帝
の
尊号を
受け
た
こ
ろ、
河内の
神都麟趾
寺の
老尼
が
浄光如来と
自号し
未来を
予知
で
きる
と
称し、
嵩
山
の
人韋什方は
三
国
呉の
赤烏年の
生
れ
と
言い、
ま
た
薛師(
懐義)
と二
百年もの
間知り
合い
と
言
う
老胡らが
妖妄を
以
て
衆を
惑わし
た。
則
天は
彼ら
を
信用
し、
什方に
は
武姓を
賜い、
正諌大
夫同平
章事に
任じ、
廣成・
河上
に
比
し、
嵩山
に
還ら
せ
た。
萬歳登
封(
の
ち
通
天)
元(六
九六)
年、
臘月、
則天は
神都を発し
神嶽を
封じ
た.
神都と
は
光宅元(
六
八
四)
年、
東都洛陽を
改め
た
名
で
あり、
神嶽は
中嶽嵩山で
ある。
嵩山
の
西の
峯、
少室に
禅し、
神嶽天
中王
を
天
中黄帝と
追尊し
、
夏后
啓や
そ
の
母に
も尊号を
贈っ
た。
啓母
石が
こ
の
山
に
在るの
が
理
由で
ある
が、
玉
京太后の
号は
道教の
神名で
あ
る。
唐初、
泰山
封禅の
儀もあっ
た
が、
中嶽嵩山
が
重視さ
れ
たこ
と
は
注
意
す
る
価値が
ある
。
詳し
くは
後述し
た
い
が、
唐の
道教が
北魏の
継承
で
あ
(13)
る
と
の
吉岡
義豊博士の
指摘は
正鴻を獲た
もの
で
ある。
則天の
無軌道に
見え
る
宗教
政策も
彼女が
国家の
首長で
あ
る
との
自覚を
失わ
な
か
っ
た
限
り
こ
の
線に
沿う
た
も
の
と
言え
る。
則天
は
よ
く
諌を
容
れ
た
と
称せ
ら
れ
る
が、
愚劣な
狂態と
し
か
見え
な
い
薛懐義の
事件も
健全
な
方向で
終結
し
た、
河
内の
老尼は
弟子
百
余人
を
有
し、
淫穢の
行
為が
あ
り、
武
什方は
能
く
長
年薬を
合すと
言い、
則天
は
嶺
南で
その
薬の
原
料を
採
取さ
せ
た一
明堂火
災
の
見舞に
来た
老
尼に
対し
則
天
は
「
何故予
知
で
ぎ
なか
っ
た
の
か」
と
問い
こ
れ
が
因で、 一
党は
処
罰さ
れ
解散し
た。
明
堂
の
火災は
則
天
に
も
懐義に
も
衝撃で
あ
り、
佞
倖の
臣
が
「
弥勒成道の
時、
天魔が
宮を
焼く
の
だ」
と
論じ
た
の
に
対し
直廾 .凵する
諌
臣多く、
翌
萬歳通
天元(
六
九
六)
年、
新明
堂の
通天
宮が
完成
し
た→
年前
に
は
すで
に
懐義は
伏謙し
て
い
た,
則
天も七
十歳を
過ぎ長生
を
希求し
た
で
あろ
う
こ
と
も
推察し
易く、
佞
臣、
朱前疑の
ご
と
く、 「
陛下の
年、
八
百
に
満ち
た
と
夢み
た」
「
陛下の
白髪ま
た
黒く
歯落ち
て
更生
し
た
と
夢み
た」
「
嵩山
に
行っ
た
ら
万
歳の
声
を
聞い
た」
と
か
上
書
し
て
そ
の
度
に
栄進し
た
者も
い
た。
し
か
し
朱前疑は
調
子に
乗っ
て
則天の
怒を
買い
追放さ
れた。
こ
の
中国史
上
空前絶後の
女
主
に
は一
個の
女
人と
し
て
の
弱さ
と
統治者と
し
て
の
識見が
並存し
て
い
た
よ
う
で
ある。
泰
山
の
封禅の
秘儀の
日
的が
君
主の
不
死
で
あっ
た
よ
う
に
嵩
山の
神も寿命を
掌る
と
信
ぜ
ら
れて
い
た
ら
しい
。
聖
暦二(
六
九
九)
年二
月、
則天
は
嵩山
に
率し
縷氏(
河
南偃師県
南)
を
過ぎ
、
升
仙太子(
王
子
晋)
廟に
謁し
た。
則
天の
家は
太原の
近く
山
西
省
文水の
出で
あり、
王
子
晋を
祖と
ハー4)
するの
に
太
原王
氏
が
あ
る。
こ
の
行掌後三
日、
則天
は
病み、
給事中閻朝
隠は
中嶽の
少室山
に
祷り、
自ら
太后の
命に
代ろ
う
と
請う
た。
こ
うし
た
祭杷に
関与する
祭酒・
博士
の
官は
武氏
諸王
や
鮒馬都尉出身
が
多く正
統
な
儒士
で
は
な
か
っ
た。
久視元(
七
〇
〇)
年に
も
則天
は
嵩山に
幸し、
ま
た
洪州(
江西
の
南昌)
の
僧胡超を
し
て
三
年が
か
り
で
長生
薬を
合
せ
し
め
服
用
し
て
疾小し
く愈え、
久視と
改元
し
た。
寵臣の
張
昌宗は
王
子
晋
の
後身で
東 海 大 学 紀 要 文 学 部3
N 工工一Eleotronio Library
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志尚川宮
あ
る
と
い
う
武
三
思
の
奏に
よ
り、
昌宗に
命じ
羽
衣を
着て
笙
を
吹き
木鶴に
庭中で
乗ら
せ
た。
長
安四(
七
〇四)
年、
昌宗は
罪に
問
わ
れ
た
が、
か
つ
て
則
天
の
た
め
神丹を
合し、
服用
し
て
験が
あっ
た
ゆ
えに
免罪さ
れ
た、
則天
は
疾に
褻ね
洛陽の
長生殿に
居り
宰相を
近づ
け
ず、
昌
宗と
そ
の
兄
易之の
み
を
侍せ
し
め
た。
疾甚し
く宮中諸人の
疑懼の
中に、
つ
い
に
張柬之らに
よ
る
武力
行使に
よ
り
昌宗兄弟は
誅せ
ら
れ、
則天
は
巾宗に
位を伝えた。
し
か
し
武氏の
勢力は
な
お
残存し、
唐の
国号を
復し
た
後も
な
お
八
年余は
唐室の
女禍は
去らな
か
っ
た。
則天
は
譲偉の
後、
十
個月
余
で
則天
大聖皇
后と
して
世を
去っ
た。
八
十二
歳。
彼女の
服
し
た
長生
薬に
は
道士
の
金丹
の
類が
あっ
た
か
と
思わ
れ
る
が
有害な
作用
に
っ
い
て
記さ
れ
ず、
一
時的に
は
効が
あっ
た
と
さ
え
思
わ
れ
る。
そ
し
て
金
丹に
惑
わ
さ
れ
た
天
子
や
官僚h
人はこ
の
後も
輩出す
る、
中宗復辟の
後
も、
帝権の
周辺
に
蠢め
く
沙門・
道士・
雑多な
術士の
類
の
か
もし
だ
す
妖気
は
な
く
な
ら
ない
.
神龍元(
七
〇五)
年、
老君
と
い
う
最
低限の
神名
で
呼ば
れ
た
老
子は
旧
に
依り
玄元皇
帝と
呼
ば
れる
こ
と
と
なっ
た
と
旧
唐書
本紀七
に
言う
の
は
同
五、
高宗の
乾封元(
六
六
六)
年、
泰山
で
昊天上
帝
を
親杷
し
封禅の
礼を
行っ
た
の
ち、
曲阜に
幸し
孔子
に
太師
を
追
贈し、
翌
二
月、
毫州の
老君廟に
幸し、
太上
玄元
皇
帝
と
追号
し、
桐堂を
創造し
た
と
い
う
記賢に
応ずる。
貢挙の
人々
は
『
臣軌』
で
な
く旧
に
依り
『
老.士』
を
習
う
こ
と
に
なっ
た。
則天
に
排斥さ
れ
た
妃孕氏
は
皇后
と
な
り、
か
つ
て
の
夫との
誓の
よ
うに
復た
天
日
を
見た
。
中宗と
韋后
と
は
張
易之
兄
弟の
謙
に
参画
し
た
胡僧慧範を
信任し、
ほ
か
に
術士
鄭普思・
葉静能は
そ
れ
ぞれ
秘書監・
嘱
了祭酒に
任ぜ
ら
れ
た。
こ
れ
は
中
書
門下
を
経由せ
ぬ
墨
勅
に
よ
っ
たの
で、
侍中桓彦範は
貞観の
世に
顔師古・
孔頴達の
よ
う
な
儒宗
が
こ
うい
う
官を
拝し
た
こ
と
に
比べ
反対し
た
が
聴か
れ
な
かっ
た。
左拾
遺
李畿の
神仙
不
死や
仏
の
福利
を
否定
する
上
奏も
無益
で
あっ
た。
道上
史崇
恩も
神龍二
年、
国
子
祭酒同
正
と
なっ
た。
鄭普思
が
ど
の
よ
うな
宗教
と
関
係あっ
た
か
分ら
ない
が、
彼の
妻、
第五
氏
は
鬼道を
以
て
韋后に
幸せ
ら
れ、
そ
の
た
め
普思
が
党を
集め、
雍・
岐二
州で
乱を
謀っ
た
とい
う
事件も
揉み
消さ
れた。
鬼道と
は
巫祝の
信仰を
指すと
思わ
れ
る。
景龍.二
(
七〇九)
年、
関中の
飢饉の
た
め
東都に
行幸の
議が
あっ
た
と
ぎ、
韋后は
東遷を
欲
せ
ず、
巫
覡
の
彭君
卿ら
を
し
て
そ
れを
中止
さ
せ
た
こ
とが
ある
。
ま
た
女巫
趙
氏は
禁中に
出入
し
た。
章后の
周辺に
は
禁架の
術を
善くす
る
葉
静
能
や、
医
薬・
調膳で
奉仕す
る
出身卑し
き
近
臣多く、
韋后
は
則
天の
娘、
安楽
公主
と
謀り
中宗を
毒殺し、
自ら
臨朝摂
政し
唐隆と
改
元、
十六
歳の
蕩帝
重茂
を
立て
た、
武氏
革命を
再現せ
ん
と、
葉静能ら
は
画策し、
殤帝を
弑
せ
ん
(15)
と
し
た。
し
か
し
華
氏一
党に
反対す
る
勢力
に
臨
緇
郡モ
(
玄
宗)
及
び
太平
公
主があっ
た。
高宗と
則天
との
子で
中宗の
弟、
睿宗は
嗣
聖元(六
八
四)
年、
母
武
后に
よ
り一
時
皇帝に
立
て
ら
れ、
武
周の
朝で
は
皇
嗣
と
し
て
皇
太
子同
等の
礼遇
を
享け
た
が、
や
が
て
兄の
中宗哲
に
皇太
子を
譲り
相王
と
呼
ば
れて
い
た。
こ
の
時、
年四
十九、
そ
の
第三
壬
隆基は
ト六
歳。
左右羽
林に
隷す
る
万
騎
と
称さ
れ
る
驍勇の
武士
の
統領た
ち
と
予
め
手
を
握り、
章
后一
派
に
虐待さ
れ
る
彼ら
の
不
満
を
見て
そ
の
武
力行使を
承
諾さ
せ
た。
父の
相王
に
は
報せ
ず、
玄武門を
扼し一
挙に
車
后一
派を
平
ら
げ
た。
こ
の
際宝
昌寺僧普濶は
連絡の
役を
果
し
道+
馮道力
ら
は
か
ね
て
占兆
に
よ
り
隆基
に
自信
を
植克つ
けて
い
た。
殤帝ば
叔
父
に
当る
相工
旦
に
位を
讓り、
こ
れが
睿宗
で
あり、
そ
の
長
子、
ゆ
木
王
成器
は
大功あ
る
弟、
平
モ
隆基
に白薫
太
子を
譲っ
た。
容宗の
治世は
唐
室の
宿弊
が
除去さ
る
べ
く
し
て
ま
だ
効
果が
発揮し
な
かっ
た.
景雲二
(
七
一一)
年四
月
癸未の
詔に
釈典
玄
宗、
理
均跡異、
拯人化
俗、
教別功斉.
自A
、
毎縁法群集会、
僧尼
道モ
ヶ
冠
等、
宜
斉行道集
。
4身∫30蒋仁 (1978)
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唐 の 玄 宗 と 道教
と
あり、
ま
た
同
月
壬
寅、
天
下に
た
赦し
天
下
濫度
僧尼
道士
女
冠
並
依田。
と
令し
、
前述の
ご
と
く金仙・
玉
真
両
観の
巨費を
惜ま
ぬ
造営な
ど、
国
家
の
保護に
廿えた
仏
道の
既成宗教の
表瞬
上
の
活況
を
語る
に
過ぎな
い.
女禍の
種ば
なお
残っ
て
い
た。
則
天の
愛嬢太平公
主
は
権
勢と
富力で
天
下に
敵な
く、
僧慧範は
公主
に
寵せ
られ
権力を
振っ
た。
嶂
譲り
の
権謀に
寓む
太平公
主
は
睿宗に
位を
太.1.
に
伝え
る
よ
うに
仕
向け
、
な
お
太L皇と
し
て
五
日に一・度
太極
殿
に
朝を
受け
朕と
自称し、...
品以
ヒの
除授、
大き
な
刑
政
を
決
裁する
よ
う
に
し、
即位し
た
玄宗は
武徳
殿で
毎目
政
務を
執る
こ
と
に
なっ
た。
宰相の
職に
在る
者ヒ
人
の
中、
四
人
は
公
聖の
息が
掛っ
て
い
た。
玄宗は
孤
立
し、
公
扛
と
の
澗もう
ま
く
行
か
ず、
僧慧範を
含む
公t
の
党与ぱ
玄宗廃立
を
諜っ
た。
宮中の
ク
ー
デ
タ
ー
の
成否は
北
門の
衛兵で
(
16)
あ
る
羽林軍を
掌握
する
かい
な
か
に
あ
る。
韋氏
打倒の
経
験で
玄
宗は
充分
こ
れ
を
知っ
て
い
た
が、
太平公主
もま
た
羽
林に
働きか
け
て
い
た。
勝敗は
た
だ
玄宗が
信頼す
る
宗室や
武将
や、
高力
士
の
よ
う
な
宿
官の
力を
獲て
機
先を
制し
たこ
と
に
よ
っ
て
定ま
っ
た。
上
皇は
「
自今軍国政刑、 一
に
皆皇
帝の
処
分を
取る」
との
誥を
発し
「
朕
は
方に
無為
握志、
以
て
素心
を
遂げ
ん」
と
霄っ
た。
公
主
は
山寺に
逃入
し
た
が
発見さ
れ
死
を
賜わ
り、
そ
の
党
与は一
掃さ−肌
た、
と西ご
に
開}兀一兀(
七
=二
)
年屯ハ
月。
唐の
内
廷
の
空
気は一
新し
た。
た
だ
し
富官の
抬頭と、
ま
だ
予測さ
れ
ない
が
楊貴妃の一
族
の
繁
栄
が
歴史の
進
行
と
と
もに
明らか
に
な
る。
玄
宗は
そ
の
若き
日
に
お
い
て
道
教・
仏
教が
世俗の
悪に
ま
み
れ政
治を
紊
す実情をつ
ぶ
さに
目
撃し
た
は
ずで
ある.、
そ
の
た
め
か
治
世の
初
年に
お
い
て
仏教と
と
もに
道教を
統制する
処
置が
取ら
れ
た。
開元
六(
七…
八)
年、
は
こ
河南参軍郷銑・
朱陽(
洛
州
属県)
丞
郭仙丹が.黝を
投じ
詩を
献じ
たが、
「
その
文理を
観る
に
乃ち
道法を
崇め、
時用
に
至
り
て
は
事情に
切な
ら
ず」
と
敕し、
遊家
の
思想が
政
治に
益な
し
と
認め、
彼ら
官吏は
「
各々
好む
所
に
従う
べ
く官を
罷め
度し
て
道士
と
な
すべ
し」
と
処澱
し
た。
開元の
名宰
相
姚崇は
開元
九(ヒ
ニ【)
年死
去し
た
が
家族に
遺令し
て、
仏教
式の
追薦
を
無用
と
し、
「
道十、
僧の
利
を
獲る
を
見て
そ
の
所為に
効
う。
尤もこ
れ
を
家に
延
くべ
か
ら
ず」
と
手厳
し
い、
十
年、
勅し
て
ト相
占候の
人
が
百
官
の
家に
出入
す
る
を
得ざ
ら
し
め
た。
こ
れ
ら
の
人
の
多くは
僧
道で
あっ
た
と
思わ
れ
る。
開
元
=一一(L二
賀)
年、
洛陽宮の
集仙
殿
の
名を
集賢殿
と
改
め
たの
も、
憑
虚の
論で
あ
る
仙
を
斥け、
済理の
目べ
で
あ.る
賢者を
用い
る
趣
旨で
あ
る,
知
院
事張
説、
その
副、
徐堅
は
もと
よ
り
儒林の
宗で
あ.っ
た。
張
説
は
こ
の
前後
、
封禅に
つ
き
意
見を
述べ
てい
る
が、
こ
れ
は
国
家宗教の
儀礼で
あ
る.一
こ
の
年十…
月、
玄宗は
泰由[に
登
り呈く
天
ヒ
帝
を
山
上
に
杞っ
た。
ま
た
泰
山
附近の
小山
、
社首に
お
い
て
皇地
祖を
祭っ
た。
玄
宗は
こ
の
時、
礼部侍
郎
(17ノ
賀知章に
対し
「
前代玉
牒の
文は
何故
秘
密に
し
たか」
と
問い、
「
あるい
は
密か
に
神仙を
求むる
故に
人
の
見る
を
欲せ
ざ
り
し
な
ら
ん」
と
の
答を
聞
ぎ、 「
吾は
蒼生
の
た
め
祈福す
る
の
み」
と
言い、
玉
牒を
出し
群臣に
宣示
し
た。
群臣ほ
五
帝
百神を
山下の
壇に
祖っ
た。
唐の
封禅は
高宗の
乾封元
年に
つ
ぎ第二
回
で
あ
る.
玄宗は
既
述の
ご
と
く仏
道二
教の
世俗化の
実情を
知る
と
と
も
に、
国
家
宗教
の
司
祭と
し
て
の
自己
の
役割を
も
自覚し
て
い
た
は
ずで
ある。
し
か
し
儀礼の
正
しい
執行
が
鬮家を
保全
せ
し
め
る
効果を
岱じ
て
も、
国
政
運営に
何か
の
助言
を
ナえ
る
宗教的達人
を
求め
た
い
気持は
強か
っ
た
で
あ
ろ
う.、
古来儒教は
逸民・
隠
逸
の
存在理
由
を
認め
て
お
り、
現実に
政
府に
在
任す
る
士
大夫官僚が
運用
する
儒学の
教
説が
と
きとし
て
そ
の
理
想に
隔り
あ.る
場合
、
山
林に
遁れて
い
る
名士
こ
そ
儒教の
本
源に
拠
り
立っ
て
い
る
と
察し
て、
彼ら
を
朝廷に
召
すこ
と
が
賢君の
義務と
な
る。
唐初の
諸帝は
特に
隠
逸の
招致に
熱心
で
あっ
た。
し
か
しこ
うし
た
隠逸
は
儒学の
道を
た
ど
りつ
東 海大 学 紀要 文 学 部5
N 工工一Eleotronio Library
Tokai University
NII-Electronic Library Service
Tokai University
ニヒ」巳 s尚川宮
い
て
広い
庭に
出る
、
っ
ま
り
儒学の
狭い
枠を
越
え
た
道
の
教に
従っ
て
い
る。
隠逸こ
そ
儒家と
広義の
道家の
橋渡し
を
する
も
の
で
あ
り、
治躙の
道た
る
前者
落婁主
と
する
道
家や.
況に
付随
嘉内学.
方術さ
ら
に
仏教的
要素を
持つ
教説
や
実修に
接近
する
通路に
な
る。
睿宗の
道教に
関
す
る
措置に
は
儒臣
の
非難を
招い
た、.
冖公
主の
た
め
の
観を
造っ
た
よ
う
な
こ
と
を
除
き、
一
つ
だ
けこ
の
意昧で
健奈な
もの
が
ある。
そ
れ
は
景雲二
(
七
二)
年、
天台旧か
ら
司
馬.俶
禎を
招い
て
陰陽数
術
を
問
うたこ
と
で
ある。
こ
の
時の
承
禎の
答は
「
道者損之、
又
損以
至
于
無為、
安肯労心
以
学
術
数乎」
で
あり、 「
理
身無為則高矣.
如理
国何」
の
閲に
対し
て、
「
国猶
身
曳順物自然而
心無所
私
則
天
下
畷」
喜。
た。
天
差歎じ
て、
「
廣成の
言も以
て
過ぐる
なし」
と
言っ
た、
承禎
、
一
名.r微、
字は
道隠。
茅山
派十二
代の
宗師,
潘
師正に
就ぎ、
嵩陽で、
金根上
経・
三
洞隠
書を
受げ、
東華上
清真
人
と
い
わ
れ
た。
嵩陽、
すな
わ
ち
嵩山
の
南とい
う
の
は
茅山
派
道教
で
重要な
意味が
ある。
江南て
成立
し
た
こ
の
派は
十代王
遠知が
陳の
滅亡
に
会い
北
に
趣ぎ、
中岳で
修斎
し、
煬帝に
よ
り
長安に
玉
清玄壇を
建て
て
も
らっ
た。
し
か
も彼は
李淵に
歟を
通じ
そ
の
革命を
支持し
た.、
彼の
高弟潘師正
は
彼の
命で
嵩
陽を
修真
の
地と
な
し、
十余年間、
逍遙谷に
人っ
て
世
と
絶っ
た.
高宗
は
上.兀
三
(
六
匕
六)
年以後、
二
度彼を
訪い、
一
度召
し、
彼に
対し
弟千
と
称し
た。
ま
た
彼の
師、
王
遠知法主に
昇玄先生
と
謚し
た。
師正
の
高弟へ
人
あ
り、
特に
司
馬承禎は
陶隠居か
ら
四
世、
正
法
を
相伝し
た。
茅山
派と
唐室との
結托は
こ
こ
に
確
立
し、
承
禎の
後継者李含光(
六、八
三
−七
六
九)
ぽ
上
清教の
中
興の
祖
と
い
わ
淑、 玄宗に
ト
清経鏃を
授げ、
玄
静先生
の
号を
賜っ
た。
彼
は
顔真卿の
師
で
も
あ
る
が、
上
清宗師
と
唐代
士
大夫の
交結の
始
ま
り
は
承
禎の
仙学十友で
あ
ろ
う。
陳.L昂.
宋之間.
李白・
孟
浩
然・
王
維ら
の
詩人、
道上
と
な
っ
た
賀知章の
ほ
か
に
盧藏用
が
(20)
ある
。
彼ば
承
禎が
睿宗に
別
れ
を
請う
た
と
き、
かつ
て
自分が
隠
棲し、
の
ち
則
天
の
召
に
応じ
た
終南山
を
指し、 「
此の
中に
大
い
に
佳処あ
り」
と
勧
へ20)
め
たが、
承
禎は
「
こ
れ
乃ち
仕笊の
捷径の
み」
と
返答し
た
逸話が
ある。
玄
宗
と
接触し
た
道士
は
数
多い。
し
か
し
茅山
派即ち
上
清教に
属する
者
が
主
流
を
占
め、
そ
れは
唐の
国
家の
要請に
応ず
る
と
と
もに
士
大
夫の
好尚
に
投
じ
え
た
と
思わ
れる、
こ
の
際、
前に
少し
触れ
た
嵩山
の
崇杷の
意義を
考えて
お
く
必
要が
ある.
嵩山
は
五
嶽の
中央に
位し、
そ
の
近くの
洛
陽が
国
都で
あっ
た
後漢・
魏、
孝文帝
以
後の
北
魏の
時代は
い
う
ま
で
もな
く、
そうで
な
い
戦乱の
際に
は
地
理
的に
四戦の
地を
鎮する
山
岳と
し
て
国
家権力の
象微に
さ
れた
で
あ
ろ
うこ
と
想像に
余り
あ
る。
宋の
武帝劉裕に
嵩
高霊神が
受命の
符を
与え
た
(21)
こ
と
は
早
く諸家に
注
意さ
れ
た
が、
こ
れよ
り
半世紀前
に
王
猛
に
関す
る
伝
説が
ある
。
青
書・
=四
苻堅載記に
附す
る
彼の
伝に
よ
る
と、
少く
し
て
う
貧し
く、
洛
陽に
畚を
貨り
に
行っ
た
彼に
見
知
ら
ぬ
人
が
好い
値で
買上
げ
る
と
告
げ、
深山
に
導い
た
話を
載せ
る。
そこ
に
は
十余人
を
左右
に
白
髪の
老
人が
胡床に
坐し
、
普通の
十
倍の
値を
与え
送り
出
し
た。
振り
返り
見る
と
そこ
は
嵩高山
で
あっ
た
とい
う.
E猛はの
ち
睾陰山
に
隠れ
師に
就き出仕
し
な
か
っ
た。
顧
温
が
関
中
を
回
復し
た
と
き出
仕
を
勧め
た
が、
王
猛
は[こ
こ
に
い
た
ら
富貴に
な
る」
と
の
師の「.口
に
よ
り
辞退し、
や
が
て
苻
堅
に
召
さ
れ
そ
の
佐
命の
臣と
なっ
た。
苻堅
の
果さ
な
か
っ
た
江北
統一
は
太
武帝に
よ
り
実現さ
れ
た
が、
彼を
佐け
た
の
は
崔浩と
寇
謙之と
で
ある。
証拠
は
乏
し
い
が
王
猛
の
兼ね
有し
た
宗教・
政
治的役割が
こ
の.一人
で
分掌さ
れ、
後者
に
よ
る
道教の
国教化が
完成
し
た。
説くま
で
もな
く寇
天師は
嵩山
で
修
行
し、
嵩岳鎮霊集仙宮主
、
す
な
わ
ち
劉裕の
場合の
嵩高霊神の
道教的神格
が
犬
曹に
彼の
精専懈ら
ざる
こ
と
を
ヒ
奏し
た
結果
、
太上老君
の
啓示
を
受
け
る
に
至っ
た。
ま
た
中岳が
廣漢平
土方万
里の
土
を
統べ
る
と
信ぜ
ら
れ
た
6第 30輯 (1978)
N 工工一Eleotronio Library
Tokai University
NII-Electronic Library Service
Tokai University
唐 の 玄 宗 と道 教
こ
と
も釈老志に
あ
る。
寇
天
師の
系
統以
外で
も、
京兆の
韋文秀は
こ
の
昏
に
あ
り、
ま
た
北魏の
世、
王
屋・
中條な
ど
山
西
省の
名山
が
道ま
の
修行や
金丹
を
錬る
適地と
さ
れて
お
り、
こ
の
状況
は
唐代に
受けつ
が
れ
る。
も
と
よ
り
封禅は
泰
山
で
行わ
れ、
華山
も桐ら
れ
た。
た
だ
高宗末年よ
り
武后に
か
けて
中岳の
崇耙が
目
立っ
て
くる。
永隆元(
六
八
〇)
年、
高宗は
武后・
太子を
連れて
嵩山の
処
士
田
遊巌の
所
居に
幸し、
ま
た
潘師正
を
訪
うた。
永淳元(
六
八
二)
年田
の
宅側に
奉天
宮を
立
て
た。
高宗ば
泰山だ
け
で
な
く遍く五
嶽を封ぜ
ん
と
し、
奉天
宮は
そ
の
た
め
で
あっ
た
が、
勇気の
ある
監察御史裏行李善感が、
二
十年来の
諌言絶
無
の
状態を
破り、
当
時
凶
歳つ
づ
ぎ餓死
者あ
り、
突厥
等の
侵入
す
る
実情を
説
き
意見し
た。
彼は
罰せ
ら
れ
も、
聴か
れ
も
し
な
か
っ
た。
泰山
以外の
四
嶽に
国家の
宗教儀礼
で
あ
る
封を
及ぼ
そ
う
と
する
の
は
伝統的杷典に
な
じ
み
得るこ
と
で
あろ
う
か。
則
天がと
く
に
中岳を
重ん
じ
た
の
は
垂拱四(
六
八
八)
年の
神嶽へ
の
改
称や
、
中岳の
近く
の
東都を
神都と
称し
た
措置で
知ら
れ
る。
李唐の
首都
長安に
対抗し
て
洛陽
の
地
位を
高め
た
の
は
長安や
華山
の
所
在
地
で
ある
関
隴の
政.治集団
を
抑え、
中岳で
象徴さ
れ
る
よ
う
に
山東は
もと
よ
り
天
下
か
(22)
ら
新興科挙官僚を
求め
よ
う
と
する
方針と
関連し
ない
だ
ろ
う
か。
道士
が
武周
政権と→
層強く
結び
付こ
う
と
する
機会は、
し
か
し
なが
ら、
道士
に
も
ま
し
て
権力欲の
盛ん
な
仏教徒に
よっ
て
妨害さ
れ
た.
延年薬の
製造
さ
え
中国
内の
名由
を
探す
よ
り
も、
異国の
方術の
教
え
る
新薬の
方が
効験あら
た
か
な感を
与え
る。
則
天の
服し
て
疾や
や
軽快
し
た
とい
う洪
州
僧胡
超の
薬は
どん
な
成分で
あっ
た
の
か。
則天を
憐れん
だ
か
成州(
甘粛
省階州)
に
仏の
足迹あ
り、
仏は
こ
の
土
を
踏ん
だの
で
ある。
か
く
て
久視
二
年は
大足
と
改元
さ
れた
(
七〇}。
十月に
長
安と
改元) 、
玄元
熱帝もこ
の
よ
うに
現世
に
出現する
こ
とを
希望さ
れ
た。
そう
で
な
け
れ
ば
道士
は
雑多な
方術で
名声を
博す
る
途に
出
た。
明崇儼
は
梁の
明山
賓五
代の
孫で、
父の
小吏で
鬼神を
役使する
者か
ら術
を伝え
ら
れ、
治病を
善くし、
高宗に
名
を
知ら
れ
召
され、
神道に
仮り
時
政
を
論
じ、
武后の
た
め
厭勝の
法を
な
し
た
が、
政局に
深入
り
し
暗
殺
さ
れ
た.
彼
は
田
唐書一
九一・
方伎伝に
列せ
ら
れ
る
が、
こ
の
列
伝に
は
多
種多
様の
方
術
専家が
伝せ
ら
れ、
その
全
て
が
道士で
は
な
い。
し
か
し
雑占.
天
象
を
候
し
た
薛頤や
音楽に
精し
か
っ
た
劉概。輔…儼(
李嗣
真伝)、
天文
を
善く
し
た
尚献甫ら
は
明らか
に
道十
で
あっ
た。
前述の
葉静能もこ
の
種の
道士で
あ
っ
た
が
韋
氏
の
党と
し
て
伏誅した。
玄
宗の
道
教に
対する
政
策は
そ
れま
で
の
唐の
諸
帝や
則
天武后さ
え
もの
方向
を
完遂
し
た
も
の
で
ある
。
容宗を
辞し
て
天台
山に
還っ
た
司馬承
禎は
旧
唐書一
九二
・
隠
逸伝に
よ
る
と
開元九(
七
二…)
年人
京し
玄宗に
法鐐を
授け、
十年ま
た
山
に
還っ
た。
こ
の
こ
ろ
の
玄宗は
政
治に
励み
神仏を
信
ぜ
ず、
こ
の
受鐐の
記事は
過早の
よ
う
で
ある。
し
か
し
十「
年に
は
扮陰の
后
土
や
南郊を
紀っ
て
お
り、
国政の
粉飾と
し
て
杷典
を
修め
る
こ
と
を
必
要と
考え
た。
こ
の
こ
ろ
か
ら
泰
山
封禅の
議が
張
説に
よ
り
建議さ
れ、
結局玄
宗
は
封禅を
神仙
説か
ら
遠
ざ
け
る
仕方で
執行し
た。
し
か
し
司
馬
承
禎は
こ
の
機をと
ら
え、
国家祭杷の
巾に
道教の
刻印を
残
し
た、
玄
宗は
彼に
五
嶽の
神は
何を
主
と
す
る
か
と
問
うた
が、
彼は
「.今の
神桐で
は
み
な
山
林の
神で
正
真の
神で
な
い。
五
嶽に
は
み
な
洞府が
あり
、
主
清真人
が
天か
ら
降っ
て
その
職に
任じ、
山
川風
雨、
陰陽気序を
治め
て
い
る」
と
答え
、
五
嶽に
真
君
桐ま
た
は
仙官廟を置く
こ
と
と
なっ
た。
その
形象制度は
承
禎が
道経を
按じ
て
創意を
加
え
た
と
い
う。
か
く
て
道教の
洞
犬福地の
説は
国家
宗教の
中に
地
位を
見出
し
た。
洞府の
真仙は
農本主
義
儒教
国家の
た
め
陰陽を
調節する
とい
う
責任を
帯び
る
と
い
う
条件がつ
い
た。
南嶽小
録で
は
司馬天
師が、 「
上
真
の
治め
る
五…獄
は
血
食の
神と
萼杷
(23)
を
同
じ
うすべ
か
ら
ず」
と
上
言
し
た
と
記す。
こ
の
時、
玄宗は
彼に
命じ
三
体(
彼の
善く
し
た
篆.
隷と
独自の
別
体、
金
剪
東 海 大 学 紀 要 文 学 部7
N 工工一Eleotronio Library
Tokai University
NII-Electronic Library Service
Tokai University
志尚川宮
刀書)
で
老子経
を
写さ
せ
文
句を
刊正
し
五
三
八
〇字と
し
た。
ま
た
都に
近
い
と
彼が
選ん
だ
王
屋山の
所居を
陽臺観と
し
た..
さ
ら
に
玉
真公主
と
光禄
卿韋緬を
遣
わ
し
金鐐斎を
修せ
し
め
た。
韋綏は
礼学に
精し
く、
道教の
儀
礼も
中国の
古礼を
範と
し
て
整え
ら
れ、
儒者が
参加し
て
も違和感が
強く
なか
っ
た
の
で
は
ない
か。
開元初、
左散騎常
侍劉
乎
玄(
知
幾)
が
河上公
注を
疑い
王
弼
注に
拠るべ
し
と
論
じ
た
が、
宰相
宋環ば
司馬肖ハの
議に
よ
り
二
家兼行
と
い
う
結果に
なっ
た.
承
禎の
刊正ぬ、玄宗の
御注道徳真経
(
男
(24)
三
五
五)
は
こ
の
議論の
後に
で
ぎた.
司馬
承
禎と
同
門に
呉篇が
い
る.
田
唐書一
九.一
に
よ
る
と
彼は
進
士
に
第
せ
ず、
開.兀
中、
玄宗に
召
さ
れ
道法を
聞わ
れ、 「
道法之精、
無如五
千→ 、” 、
其諸枝詞蔓説
徒費紙札耳」
と
答え、
神仙修
錬の
事
は
「
此
野人
之雰
。
当
以
歳月功行求之
。
非人主之
所宜
適意」
と
も
答え、
朝廷
で
も
名
教
世務に
関す
る
こ
と
し
か
述べ
な
か
っ
た。
歴世真仙
体道通
鑑一.、七
に
拠る
と
彼は
天
宝以
後、
道モ
と
な
り
大暦中ま
で
生
きた
とい
うの
は
疑わ
しい。
彼は
天
宝
中、
綱紀口
に
素れ
る
の
を
見
て、
自
分の
修
行
の
地、
嵩山
に
還
ろ
う
と
し
た
が
許
さ
れ
ず、
の
ち
茅山・
天
台に
人
り、
李白
ら
と
交っ
た.
仏教
を
好
ん
だ
高力
士
と
台
わ
ず、
釈氏
を
非
難し
通
人に
も
譏
ら
れた
とい
う。
彼
に
は
『
玄
綱論』
『
神仙円
学論』
の
著が
ある
が、
金
丹
と
は
関係な
か
っ
た。
彼の
同
門、
劉道合
(
愛道)
は
高宗
の
命で
還丹を
合し
た
が、
威享中(
六
七
〇ーヒ
一、一)
尸
解し
た。
高宗は
「
我が
た
め
に
丹
を
合し
自ら
服
し
仙去し
た
の
か」
と
い
っ
た。
玄宗が
重ん
じ
た
道士
は、 『
坐
忘
論』
『
天
隠子』
の
著者で
あ
る、承
禎は
じ
め、
『
三
玄
精辯論』
や
老
r・
黄
庭内景経
に
注し、
開.兀
十ヒ
年、
京師
に
徴さ
れ
た
白
履忠の
よ
う
な
学
術あ
る
道上
で
あっ
た.
彼ら
は
み
な旧
唐書
一
九..
・
隠逸
に
列伝が
ある
が、
ほ
か
に
も盧鴻.・
王
希夷の
二
人が
挙げ
ら
れ
る、
玄宗は
東宮の
と
ぎ、
九経に
通じ
特に
釈
典を
好み、
母の
病に
股を
割き
飴し
た(同類の
最初の
例か)
と
い
う
王
友貞を
召そ
う
と
し
た
が、
老年で
実
現し
な
か
っ
たの
で、
彼の
死
ん
だ
翌
年盧鴻一
に
下
詔し、 「
窮太一
之
道、
践中庸之徳」
と
称し
た。
太一
と
は
儒道の
源
な
の
か。
彼の
奏言に
老子
を
引き
礼で
な
く忠信に
依
る
と
あ
り、
こ
の
嵩山
の
隠
土
も
道家者流に
属
し
よ
う。
開
元六
年入
京し、
の
ち
還山
を
許
さ
れ、
米絹を
歳々
給し、 「
充其薬
物」
と
ある
が、
服食の
外、
金丹
を
も
志し
た
の
で
あ
ろ
う
か、.
王
希夷も
嵩
山
に
隠れ
た
が
道教との
関係
は
明か
で
ある
。
道士
黄
顧
に
四
十年事
え、
閉気導養の
術
を
伝え、
その
死
後、
尭州徂
徠山(
山
東
省
泰安
県)
で
道士
劉玄博と
友と
な
り、
易老を
好
み、
松柏
婆・
雑花散を
餌し
た。
開.兀
十
三
年、
東
巡
の
時九
十
六
歳で
謁見し
た。
新旧
唐書
は
方伎・
隠
逸の
二
伝
に
既述の
道士
等を
分載し
て
い
る
が、
両
者の
区
別
は
明か
で
な
く、
旧
唐書が
方伎に
列する
孫
思遡・、
直
読は
新唐書
で
は
隠逸
に
入っ
て
い
る。
孟
読は
開元初、
九
卜三
で
死ん
だ
が、 「
養性と
は
善言口
を
離れ
ず
善
薬rを
離る
べ
か
ら
ず」
と
言い、
当時の
人に
成程
と
思
わ
せ
た。
彼の
医薬の
師
で
ある
孫
思遡
も
老荘学
者で
ある
ほ
か
医
方
を
も
っ
て
知ら
れ
る.
同}
人
が
学と
術
と
を
兼修
し、
正
史編者
が
そ
の
時代の
好
尚か
ら
ど
ち
ら
か
へ
属し
た
の
で
ある
。
し
か
し
大
体に
言っ
て
こ
れま
で
述べ
た
隠逸的道士
に
対
し、
方術・
幻術
を
事と
す
る
方伎的道士
も
大い
に
活躍する
。
開元十九年、
真君廟が
五
嶽
に
立
て
ら
れた
の
は
国
政
に
対し
思
想家の
立
場か
ら
干
与す
る
こ
とに
道教の
発展の
方向を
求め
た
司馬承禎と
その
流れの
道士
の
業績で
ある、一
方、
資治通
鑑は
玄宗が
道
教に
傾い
た
の
は
張
果の
力に
よ
る
と
考えて
い
る。
後世八
仙に
数え
ら
れる
張
果の
こ
と
は
両
唐書(
網一
九一・
新二
〇五)
『
仙鑑』
一、皿七
に
見え
る。
彼は
郷里・
家世不
明
で
山西の
中條由
な
ど
に
出
没し、
則天が
召し
たの
に
佯り
死し
応
じ
な
か
っ
た.
『
陰符経玄解』
を
著
し
た
と
旧
伝に眺門
う、
開元一
二
(
L三
三)
年、
恒
州刺史
韋済の
E表に
よ
り、
8第30輯 (1978)
N 工工一Eleotronio Library
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NII-Electronic Library Service
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唐 の 玄 宗 と 道教
玄宗は
中書舎人徐嬌を
し
て
彼を
洛陽の
集賢院に
迎
え
さ
せ
謁
見し
た.
通
鑑は
二
十二
年二
月の
こ
と
と
し、
十一
月、
彼の
請う
ま
ま
恒
山
に
還ら
せ、
銀青光禄大夫と
な
し
通玄先生
と
号し
厚く
賜与し
た。
彼は
堯の
丙
子の
歳
生れた
と
称し
た
が
顔色
は
六
七
十
歳に
見えた、
通鑑に
は
彼がの
ち
死ぬ
と、
異を
好む
者が
尸
解し
た
と
奏し、
「
上
由是頗信神仙」
と
述べ
る。
両
唐書
に
よ
る
と
張
果を
召し
た
と
ぎ、
す
で
に
人の
夭
寿を
知る
こ
と
を
善くす
る
邪
和璞、
視鬼を
善くする
師
夜光が
玄宗の
側近に
い
た。
し
か
し
邪は
張果の
年寿も
判らず、
師は
その
所在を
見ら
れ
な
か
っ
た。
その
ほ
か
張
果は
奇異
な
事を
示
し、
玄
宗ば
玉
真
公
主
を
し
て
降嫁さ
せ
よ
う
と
し
た
とい
うほ
ど
開
(
25)
心
を
持っ
た。
新唐書に
は
張
果の
伝末に
こ
の
類の
方
士
に
言
及
し
て
い
る
が、
彼らの
活
躍
は
天宝
年間に
なっ
て
か
ら
で
あ
る
らし
い。
公
主
が
自身の
志願
と
い
う
よ
り、
親族の
追福と
か
唐室の
意向
で
女道士
に
な
り、
そ
れ
な
り
に
宮廷に
お
げ
る
道教の
滲透に
寄与し
た
例は、
師夜光
が
九仙公
主に
よ
り
入
見した
こ
とが
ある。
有名な
楊貴妃は
寿王
珊(
母
武
恵妃、
新八
二)
の
妃に
開元二一一、
年な
り、
玄
宗
の
眼に
と
ま
り
女
官と
し
て
太
真と
号
し
寿王
と
離婚し
宮中に
入り、
武恵
妃
に
対し
た
と
同
じ
寵愛を
受げ
た。
翌
天宝四(
七
四
五)
載七
月、
寿土の
た
め醜
昭訓の
女
を
新し
く妃と
し、
へ
月、
太
真を
貴妃
と
し、
同
時
に
父
兄・
三
姉に
官位
や
邸
宅
を
賜っ
た、
天
宝
時代の
玄宗の
生
活が
楊貴妃な
し
に
考え
ら
れ
な
か
っ
た
こ
と
説くま
で
も
ない
。
張果伝(
新)
に
附載す
る
孫甑
生
は
伎を
もっ
て
数個の
石を
た
た
か
わ
せ、剰
早
を
人
馬の
よ
う
に
馳走さ
せ
た
が、
楊瀛貝
妃は
こ、れ
を支阿ん
で
何
度も宮中に
召
し
入
れ
た。
こ
れ
は
磁・刀
利用の
盤上の
遊戯で
あろ
う。
ま
た
羅旧心
遠は
能く「
自隠」
し、
玄
宗もこ
の
術
を
学ん
だ
が
不
十
分で
い
つ
も衣
帯が
隠れ
ずに
残っ
た。
ど
う
し
て
も成
功せ
ず怒っ
た
玄宗が
羅を
樸を
もっ
て
崖殺し
た
が、
彼は
無嘱に
蜀に
逃れ、 「
お
上
は
な
ん
と
ひ
どい
戯れ
を
な
さ
る」
と
使者に
言っ
た
と
い
う。
羅思
遠とは
公
遠の一
名で、
後世
ま
で
羅
真
人の
名で
知ら
れ
る、
杜光庭
の
道教霊
験記(
常三
二
五
⊥、
六)
九の
羅真人
示
現験に
よ
れ
ば
主
に
水
旱の
予
知
と
祈請を
行っ
た、
聞元
初年に
は
善無畏・
金
剛
智に
よ
り
密
教が
伝来
し
宮廷に
も接近し、
と
く
に
金
剛智は
武恵妃・
楊
貴妃に
尊信さ
れ
た。
二
人
の
後継者に一
行・
不
空あり、
一
行
は
開
元
十六(
七二
八)
年、
張
説を
通
じ
て
大衍
暦を
上っ
た。
宋
高僧伝巻一
に
不
空が
羅公
遠
と
術
を
競い
勝っ
た
と
あるが、
小林太
市郎博
ヒは
宣
宗朝の
鄭嵎の
津陽門詩并自注
に
よ
り
羅
公
遠が
玄
宗・
楊貴妃の
前で
金
剛智の
袈
裟を
符の
力で
絲に
し
て
散
ら
し
た
と
ある
の
に
拠り、
終局と
し
て
道士
が
勝っ
た
の
だ
と
結論
し、
また
密
教が
中国で
勢力
を
伸長
し
なか
っ
た
の
は
そ
れ
に
類する
術を
行
う
道教の
た
め
で
(26)
あ
る
と
論ず
る..
顧
り
み
る
と
唐初、
高祖・
太宗は
仏・
道一一
教を
保護しつ
つ
も
国
家
の
要
請を
先に
し、
六
朝以
来の
礼敬問題や
寺観創立
な
ど
で
強い
態度
を
示
し
た.
…
武武・の
禍」
の
時期に
、
馳
貝
族や
佞
倖、
野
心
的な
僧貼追
の
無司軌
道な
仏
道愛
好の
風が
さ
か
ん
で、
政治を
紫し
民
力を
疲
らせ
た
が、
その
後を
受け
た
玄
宗は
国初の
宗教政
策に
復帰し
よ
う
と
考え
た
と
思
わ
れ
る。
玄宗の
道
教に
対す
る
施策は、
唐朝の
聖祖とし
て
の
老君の
追尊、
崇玄
学
の
設置と
道挙
の
実施、
官道観の
建築
、
道徳経を
尚び、
自ら
註し
天下
に
頒ち、
ま
た
道
書の
蒐集と
三
洞瓊綱経日の
野述、
道教の
先達へ
の
賜号
な
ど、
道教
を
国
(27)
家規模
に
お
い
て
整備する
こ
と
を
目
的と
し
な
か
っ
た
もの
は
な
い.
開
元、一十一
年正
月、
モ
庶を
し
て
老子一
本を
家ご
と
に
蔵
せ
し
め、
貢挙
の
人
の
策に
尚書・
論語を
減じ
老.rを
加
え
た。
二
卜
五
年、
道十・
女
冠を
宗正
寺に
隷し、
僧尼
は
桐部
で
検校さ
せた。.一卜九
塾、
両
京諸州に
各玄
元皇
帝廟を
践き、
井び
に
崇玄学に
生徒を
澱
き
老
矛・
荘
子・
列.r・
文
〔
中〕
.rを
習
わ
し
め、
毎年、
明経の
例に
准
じ
考試せ
しめ
た。
天宝
元
(
七
四
二)
年に
は
荘子に
南華、
文rに
通
玄、
列
子に
淋虚、
庚桑子に
洞
虚と
真人の
号を
加
え、
そ
の
薯書
を
真経とし
た。
崇玄学に
博土・
助教各一
員、
東 海 大 学 紀 要 文 学 部9
N 工工一Eleotronio Library
Tokai University
NII-Electronic Library Service
Tokai University
士」じ.t尚川宮
学生
百人
を
置き、
桃林県(
洞南省)
を
改
め
霊宝県と
Lた
以
⊥は
出
唐書
本紀に
記すが
新唐
書に
は
二
九
年五
月、
道徳経及び
荘・
列.
文rを
求め
し
め
た
と
ある.
老
子は
別
と
し
て
そ
れ
以
外の
道家の
巨匠を
挙
げ
る
の
に
荘・
列は
よ
い
が
文
子・
庚桑子
の
よ
う
な
知ら
れるこ
と
少ない
思想家の
地
位を
高め
た
理
由
は
不
明で
ある。
唐会
要五
〇。
雑記
に
よ
る
と、
大
宝
元
年
、一月の
勅文で
は
真人・
真経に
つ
き巾
書門下
が
さ
ら
に
討論せ
ト“と
あ
り、
同
三
月の
李林甫ら
の
奏に
よ
る
と
南華真人の
号は
早
くか
ら
定
ま
っ
て
い
た
ら
し
い。
同四
載、
書籍中の
玄元皇帝以
ドの
旧
号
を
改
正
し、
道徳経
を
諸
経の
首と
し、
南
華・経柚寺
を
子毒日
に
編列
すべ
か
ら
ずと
詔し
た.、
老fに
対す
る
尊号に
つ
い
て
は
既述の
よ
う
に
高宗の
乾封元年の
尊号
が
武周
期
に
停止
さ
れて
い
た
の
を
中宗神竜元
年に
太ヒ
玄元白巳
帝
に
復し
た.
史料に
は
玄元皇帝と
略称さ
れるこ
とが
多い
。
た
だ一つ
、
通鑑、
開元
卜
九
年π
月壬
戌、 「
初立
五
嶽真君桐」
と
あ
る
が
田
紀に
四
(
・・)
月
壬
戌、
五
嶽各置老君
廟と
あ
り、
一
般に
親し
ま
れ
た
老君の
名を
用い
る。
玄
元
皇帝の
写と
あ
わ
せ
考え
る
べ
きは
玄宗
自身の
生時の
尊琴で
あ
る。
旧
紀に
よ
る
と
先
天元
年十一ロ月、
玄宗は
開元
神武
皇帝と
号
し、
翌
月鬮
元
と
改元
し
た、
十八
年に
至り、
百官及び
華州
の
父
老
は
累り
に
表し
て
聖
文
の
両
字を尊号に
加
え
る
よ
う
に
請う
た
が
允さ
な
か
っ
た.
彼ら
の
請に
ば
西
嶽を
封ずる
こ
とが
含ま
れて
い
た。
な
お
十七
年八
月
五
凵、
玄宗は
生
日ゆ
え
百
官を
宴し、
百官の
請に
よ
り
毎年こ
の
日
を
千
秋節と
し
て
天下
に
宴楽
せ
し
め
た。
の
ち
に
天長節と
改め
る
が
皇
帝生
日
祝賀の
濫
觴
で
あ
る。
開元二
七(七
三
九)
年、
つ
い
に
玄
宗は
開
元
聖文神武皇
帝
と
尊巨、7を
加
え
た。
天宝二
(
七
四三)
年、
玄
元皇
帝に
大
聖
祖の
三
字を
冠
し、
その
父
を
先
大
太上
皇、
母
益
寿
氏を
先天太后
と
号
し
た。
ま
た
両
京の
玄元
廟は
す
で
に
、兀
年に
太上
玄
元
皇
帝宮と
改名し
た
が、
西
京の
を
太
清宮、
東
京の
を
太
微
宮、
諸郡の
そ
れ
を
紫極
宮と
改称し
た。
天
宝七林概の
鮮馳
臣
の鮎
耐
に
よ
り、
八臨戦
に
玄{
小
は
開元
天出
正
聖宀文神武広 道
と
尊号
を
加
え、
レ一.
載(
七五
三)
に
最終的
に
開元天地大宝
聖文神武孝徳証
道巣
帝と
称し
た.
こ
れ
に
相応ず
る
よ
う
に
天宝八
載に
は
玄元皇帝に
冠す
る
の
に
従来の
大
聖
祖の
代り
に
聖
祖大道の
四字を
以
て
し
た。
ま
た
高祖か
ら
睿宗に
至
る
五
帝に
み
な
大
聖皇帝の
字を
加え
た。
最終
的に
老君
の
尊号
は
大
宝
十三
載に、
大
聖
祖高上大
道金闕
玄.兀
太皇大
帝と
な
り
高祖以
下五
帝の
徽号も
荘
重を
加
え
た、
玄宗
が
粛…宀
示
に
内禅冖し
た
の
ち、
至
徳
二
(
七
五
七)
載、 太
上
至
道聖
皇大帝、
宝
応元(
ヒ
六.一)
四
月、
崩御し
て、
至
道
友
聖大明孝皇
帝
と
諡
さ
れ、
玄宗と
廟号
を
定め
た、
生前玄
宗に
匹
敵する
尊号を
有して
い
た
粛宗は
父の
死
に
よ
り
疾篤く
なり
太
子(代宗)
を
し
て
監国
さ
せ、
同
刀
崩御し
た.
老君
と天
子
の
尊号
を
述べ
た
の
は、
老君
は
結局、
唐室の
始
祖と
し
て、
高櫪以
ドの
諸
帝と
同
じ
く現天rに
よ
り
尊称さ
れ
た
もの
で、
こ
の
事自体
は
唐が
儒教国家で
な
く
道教国
家で
あっ
た
と
主張する
助け
に
は
な
ら
な
い.
し
か
し
玄元血h
帝の
尊称が
追
加
さ
れ
る
開.兀
天
宝の
交
は、
老君
稲仰が
加
熱
し
た
時期で
あ
る
こ
と
に
注意ぜ
ね
ば
な
ら
ない
。
儒教
国家の
体制再
建に
尽力し
た
玄宗が
そ
の
私生
活に
おい
て
打
撃を
受
けた
早
期の
事件は
廃
后王
氏(
旧五一)
の
左
道嫌疑
で
あろ
う。
玉
氏
は
臨蕕
郡王で
あっ
た
隆基の
韋氏
打
倒の
計画に
預っ
た
人
で
ある
が、
子が
無い
た
め
実兄
工
守一
が
彼女の
地
位を危ぶ
み、
僧
明悟を
し
て
符厭の
事を
行
わ
せ
た..
彼は
南
北
斗を
祭り
霹靂木を
刻
し
天
地の
字と
玄宗の
名
を
書し、
合せ
て
こ
れ
を
三
氏
に
佩
び
し
め
「
こ
れ
を
佩し
て
予
有ら
ば
ま
さ
に
則
天皇
后
と
比
と
な
るべ
し」
と
言っ
た。
皇后は
他
意な
く
し
て
権力を
欲
す
る
兄と、
権力
に
媚
び
る
僧の
野
心
に
くみ
し
た
結果に
な
り、
開元
卜.一年庶人
の
身
に
貶さ
れの
ち
仏寺に
葬ら
れた
が
粛宗末年雪寃さ
れた。
こ
の
事
件は
玄宗を
し
て
宗教冢の
暗黒面
に
警戒
さ
せ
たで
あろ
う
が、
その
彼自身、
方七
張
果引見
の
後、
神鬼を
好
む
に
至っ
た、
10第30車耳 (1978)
N 工工一Eleotronio Library
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唐 の 玄宗 と 道教
開元二
五
年、
太常博十
王
嶼は
告帝壇を
立
て
迎
春せ
よ
と
請い
(
旧
=二
〇) 、
その
後、
桐祭使を
領し、
巫覡に
類し
たこ
と
を
行い、
礼を
習
う
者
ばこ
れ
を
恥
と
し
た.
彼は
粛宗以
後も祭祖に
奉職し、
その
儀礼は
紙錢を
用い
る
な
ど
俚俗を
採用
し
た
が、
玄宗が
老r道
を
推崇し、
神仙の
事を
好
ん
だ
(
新.
〇九)
の
が
彼に
活
動の
場
を
与え
た
こ
と
に
なっ
た。
天宝三
載、
術土
蘇嘉卿が
L亠.肖
し、
遁甲術に
九宮貴神あ
り
水旱を
典司
する
か
ら
杷る
(28)
べ
し
と
勧
め、
実施さ
れ
た。
九宮神の
こ
と
は
王
瑛も説い
てい
る。
玄元
皇帝も祀血ハに
位
す
る
だ
け
で
な
く、
霊跡
を
衆庶
に
示
さ
ね
ば
な
ら
な
ち
う
しつ
かっ
た。
開
元二
九
年、
玄宗は
玄元皇帝の
夢告を
受け
て、
整
屋楼観山
問
に
玄元の
像を
求め
得、
興慶宮に
迎え
置き
その
真容を
画か
し
め、
諸州の
開元
観に
分置し
た。
皇帝の
夢だ
けで
な
く真正
か
作為
か、
臣庶の
幻
覚に
玄元は
出
現し
た。
天宝
元年、
玄宗の
皐子
陳
王
珪の
府
の
参軍の
田
同秀は
狂
言
し
た。
「.玄
元皇帝を
丹鳳
門の
空
中に
見た、
玄
元
は、
霊符を
函谷
関
の
労
喜の
故宅に
蔵して
い
る
と
告げた」
と。
玄宗は
使を
し
て
その
符を
求
め
得た。
群臣は
慶賀しが
丶
玄
宗に
天
宝の
尊号を
加
え
た、
ま
た
大
寧坊の
新し
い
玄.兀
廟で
玄元を
享し、
田
同秀を
朝散大
夫と
し
た。
時人
は
宝符は
同秀の
所
為と
疑っ
た。
こ
れに
ま
ね
て一
年ほ
ど
し
て
崔以
清な
る
者、
ま
た
玄元
が
天
津橋北に
現れ、 「
武
城(山
東
省)
紫微山
に
符を
蔵し
て
い
る」
と
す
ゐ
告げ
た
とい
い、
果し
て
発見さ
れ
た。
東都留守王
錘が
彼の
詐り
を
知り
按
問
し
自白
さ
せ
た
が、
玄宗は
深くも罪せ
ず流
罪に
し
た
だ
けで
あ
る.
か
つ
ての
明
主
も
詐を
知
りつ
つ
己が
宗教的陶酔の
材料
と
し
た
の
で
あ
る、
唯一
の
救い
は
玄宗が
金丹の
中毒を
免れ
た
こ
とで
あ
る,
敬宗が
李徳裕
に
命じ
浙西
の
隠
圭
周息元
を
招か
せ
た
と
き、
彼は
上
言
し
て
臣又
聞
前代帝王
雖好方士、
未有服其薬者。
故
漢書称。
黄金可
成以
為飲食器則
益寿、.
又高宗
朝劉道合、
玄宗朝孫甑生、
皆成黄
金。
二
祖竟不
敢服
,
豈不
以
宗廟社稷之重不
叮
軽易
。
此事炳然載於国史。
さ
らに
直
隠を
致して
も
保和の
術
を
聞い
餌葵の
功を
求め
ず、
黄
金が
成
(
30〕
る
と
もた
だ
玩好に
充て
よ
と
述べ
て
い
る。
ま
た
通鑑の
天
宝
四
載
正
月の
条
に、
玄宗が
宰相に
対す
る
言
を
載せ
る.
朕
比
以
子
目、
於
宮中為壇、
為百
姓祈福
。
朕臼草黄素置
案上。
俄飛
升天
。
聞空
中語云、
聖
寿延長。
又朕於嵩山
錬
薬成。
亦置壇上。
及
夜左
右欲収
之。
又
聞
空
中語云
。
薬未須収、
此自守護。
達曙乃
収之。
そ
し
て
太
f諸王
宰相
が
み
な
上
表し
て
賀し
た
とい
う。
胡三
省は
君は
誕妄、
臣は
謡
諛と
評
する
が、
結局玄宗は
服薬し
な
か
っ
た。
こ
れ
に
比較す
べ
き
は
葉法善(旧一
九一・新.一〇四薛
顋什)
と
高
宗の
場
合
で
あ
る。
彼の
伝と
し
て
『
唐葉真人
伝』
(
孝五
五
七)
が
あ
る。
開元
八
年死し
玄宗とは
閃係
な
い
が、
高宗が
方士
を
召
し、
「、化黄金治丹法」
を
問う
た
と
き、
彼は
「
丹
は
急に
は
成
ら
ず
徒ら
に
費用をか
け
る
か
ら、
真偽を
検べ
よ」
と
言い
百余
人の
方士
を
罷め
さ
せ
た。
『
葉真人伝』
に
よ
る
と
彼は
儒,
道.
図
緯.
占
候・
役使鬼神を
学
び、
豫章の
萬法師か
ら錬丹辟穀導引胎息の
法
を
学ん
だ。
十
五
歳で
丹に
中毒し
た
が
句
曲仙
人
茅君
に
命を
救わ
れ、
仙道に
志し、
正一
の
法
を
究め
貧乏に
恵施し
代天行
理、
陰徳を
先に
す
るこ
と
を
教え
た
とい
う。
萬法師と
は
萬廻の
こ
と
で、
鄭檠の
『
開天傳信記』
に
は}
行
等
の
沙門と
と
もに
挙げら
れる、
つ
ま
り
葉法善は
方伎に
類し
な
が
ら
正一
の
教
学を
も
重ん
じ
た。
玄
宗自ら
道家の
学に
精通し
つ
つ
道教の
幻奇を
も
愛
好
し
た。
臣下に
も君
主の
ひ
そ
み
に
倣う
者が
で
た。
崇玄館Lへ
学士
陳
希烈
は
老涯を
講ずる
こ
とで
進用
さ
れ
た
が、
神仙符瑞を
用い
媚
び
る
よ
うに
な
〔31)
り、
李林甫は
こ
の
点を
見抜き同平
章事に
推挙し
た。
玄宗の
輝か
し
い
統治
に
は
裏も
あ
り
谷も
あっ
た。
申元
之(
『
仙鑑』
三
九
∀
羅公
遠・
奨法善等に
託
せ
ら
れる
有名な
伝説、
玄宗の
た
め
月宮に
遊び、
霓裳羽衣の
曲を
伝え
た
道ヒ
の
話は
こ
の
華麗な
治
世を
飾る
に
ふ
さ
わ
し
い。
その
治世に
は
顔真卿の
よ
う
な
健全な
識見を
有し
つ
つ
道教に
親し
ん
だ
官
(32)
僚も
多い。
天.rと
道教と
の
関係は
上
友
夫・
宦官の
道教信仰と
合せ一
層
東 海 大 学 紀要 文学部11
N 工工一Eleotronio Library
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Tokai University
’匹;ド1.監 丿II 尚 志
包
括的な書
ぜ
要する
,
突禄由
叛寸
と
聞
ぎ、
老−
ゆ
か
り
の
点
源県令恢
W過
は山幺一兀 、ー
円に卩罪、し
忠我の’ヒ、ぜ
静げ・に
(
納.
瓦..
) 。 」乍.貝h
妃’〆
晒
洗
ト
フ
る
とい
−
弱事
人
間で
あ
り
なが
ら、
な
お
凶醸陣の
宝
を
焼か
ず、
さ
ら
」民
が
誌
求さ
れ
ない
よ
う.糧
それ
を
賊
」
供す
る
こ
と
を咎め
な
か
2、一(
通
鑑)
陸
巳
の
逗
孜との
関係は
利…と
月
陥
と
を
兼ね
備えて
い
た
と
い
〕
る.
(
史〜
“妝
ー)
註
(
1)
宮川「
ボ
の
徽宗と竹.教ー
厂仁
紀女
、
甲¥
r)
厨一
林’
殆
と
朱の
徽
冰」
(
同
二
四、
同) 、
回
「
明の
尸
靖馬
代の
H】教」
(
占岡
博七
t
甲
山
念r
教
研究、躙
覚、
昭五一.
) .
(
ソ
ニ
那波利
貞『
唐代ギ
文
に
釧
完』
(東京、
昭
四九」.
七
七
頁、
戸の
陛几
末・天宝
初期
の
交が
時
匿
の、
変臥期.」
るの
調
ぼ。
、
3)
店代の
金丹服用
に
つ
い
て
は、
趙聖
广[
帝多
餌丹阜( ー.
史
剳記…
九)
あ
り、
こ
れ
に
拠り
つ
つ、
μ−甲
壮r
戸への一刋.耶
問巨.一
(
版田・宋初間の
信
仰と
技
術の
国係』
伊
勢南、
昭
五
〇
.、….
4員以
下)
ジ
目
ゼ
フ
・二
ー
ダム
中世中
囚の
オ
「」吟
(
出
田
慶
い
,縛と
西の
学呂
と
工
匠」
下、
劇.廿,
昭圧
、
原L
口
.
九
LO
)
が
あ
る、
(
4)
旧唐pH
三・太
小
札、
貞観一
ト、
繁冶通尹
.∩
「
・.尚...顕厦.
年の
朿・
以
下本袖
に
お
い
て
通
鑑
を
利川し
た.ー
が
多い
が、
一・
dし
く
辻記し
ない、
(
54
旧戸∴八・
九、
新唐ー
九、
玄ウ
夲
山、
以
ド、
両唐占の
引用の
方
ぽ
旧・新との
み
記す、
(
6)
所唐歴
八
三、
諸公
主
列
仁、
旧ゆ
占 二、.一
、
外滅.
官
配
明・太
ー公
」、
新唐占、
〇九、
鬢懐
貞。
(
7) 旧
唐暑
六・期天
皇
屠
新庫占四・川天順41
ー
、
嗣
L
旧
如伝h)
川天武
皇屏.
狄仁
傑
仏
(旧
八
九・新}一
11) 。
(
8) 全唐文】一∵
而
宗
「
上
老君
玄、兀
皇帝摩〃7
悶
」
。
〔
9)
夛周
革命に
つ
い
て
は
哨o嵩P
>
三〇
三ロ
o、
、丸
ミヘ
ミ
、
話、
鳶ミ気島
§ミ
弑ミ轟ヒ゜鴨鳶
O奪ミ
ミ蛛隷
肉
ミ
ミ
蕚的
・
ミ}
ら・ミ
ミk
きミ
蔓
凡
嵩
暑
芽
蕁、ミ♪
』
ミ
ぎ毳
ミ、蹴
、ミ
ミ
§。
丶
§同
ざ、》
袋
§αqb
ミ
§国§肺侮
霧9
喬§罎
ミ
ξ
§山嵩
§言、ミQ
ゴこ
ミミ
§8H
磊p一εδ
¢
巳くω
童富臥09
門
三ロ
♂
Z音o=
お
蕊・
が
新見
解をス
タ
イン
文
占に
μ
つ
ぎ
示すが
未見、
外に
諸乘
の
研究が
多い
が
矢吹慶輝「
大ー.謹
と
武周
革命」
(
『
三
甲
教之研
究h
東京
、
昭二)
の
み
を
挙げて
お
く。
(
10)
“
懐義伝は
新一
八
三、
外
戚附、
武承
嗣
伝。
(
11)
明堂につ
い
て
は
旧.、..・
礼
儀
志二
。
唐大
詔布集七一一.。
(
12)
封禅につ
い
て
は
旧一二
・礼儀
芯一
唐大
詔令集六
六・♪
唐同元
礼六三
・亠ハ…四レ
ま宀」孔徳成「、山’ゾ
广爪
及−オ
墨
小
禅冂地
祈r[
冊臨敗1
(
文史折臼
凸
F最、.
一
馴期、
民国皿ハ
.)
。
(
13)
同臨践
.冖水
牛へ
の
願い、
前7教』
ρ以
都、
昭
四.
)
、、一四
頁。
(
M)
新广臼
」一.、
ド相匿
系表...
中。
(
15)
巣憾
能は
ま・
浄能とL
カ
れろ、
こ
の
人
物は
同
時
代の
降
法孟と
は
別
人
で、
魁文学ヤ
説
譜に
脚係深い、
小
川
陽一
「
葉
浄能
詩の
成
立
に
つ
い
て」
(
『
束方
.小
教一⊥ハ
・昭=一五)十ハ塚査亠尚
−
弔山生
煮血騨
説盾の
門
片廊口考」
(『
寝方学』
}九
{ハ
、叨岶甲五【二
)
を
糸照…。
(弼)
陳寅恪‘戸
代政治史
述論稿』
(巨
慶、.
九
四
四) 。
こ
れ
は
『
隋唐
制
度
副
源略考,
と
と
もに
、
陳
寅忤尤
輔
集
(台北、
民
国
六
〇)
に
域せ
ら
れ
る,
な
お
木文の
」の
前後の
厄
述は
旧
七・中
宗、
祈…四・中出爪
、
五・r
。
旧
青
冖・中,小
硅匠、人(
后妃)
、
新七
六・
韋阜
旧、
新八
三・
諸帝公
主(
太平
公
」−
曽)
を参照。
(17)
閃係…人物の
伝は
姚…尿(
旧九六・新一二
四)・張
説(旧
九ヒ・新一.、
五)
・
、只
刈点早
(
旧一
九〇文
苑・新一
九亠ハ
鬥
逸) 。
(18)
根オ威『
専
制社
プ
に
お
け
る
抵抗
粘
神』
(東
京、
昭二
七)
(19)
司馬承禎の
伝
記。
旧.
九
二・新一
九
六
師免一。
続仙
伝
下。
歴
世直万仙休冖置
通
鑑(
以下『
仙鑑』
と略
記) ←五、
茅
山
志一一、
共他。
な
お
廣成子の
仙
伝は
神仙伝一の
ほ
か
害の
{
罐『
厚.、λ
帝
本
行一し
(海一
三
七。
駈明年間の
作か)
に
昆え
る。
(
20)
旧
九
四・新、
一、
三。
(
21)
阪野
長八
「
劉
裕受命の
仏教的
瑞祥」
〔謬ト
果
方
学
輙』
尹京一一の一、
昭一
一)
、
塚t
,
ぼ
隆「
北魏太武
帝の
廃仏禾
択」
〔、
又
那
仏教史研’馳、
北魏
篇』
事京、
昭一
ヒ、
原作
昭一.
一)
。
1230串耳 (1978)
N 工工一Eleotronio Library
Tokai University
NII-Electronic Library Service
Tokai University
唐 の 玄 宗 と 道 教
(
22)
陳…宙〔枚旧
の山嗣
引〔註16〕
二虫肯
。
(
23) 道教に
お
け
る
山岳の
宗教的意義は
小さ
く
ない。
概説で
こ
の
事を
多く取
上
げた
の
は
傅
勤家『
道教
史慨論』
(
人人文庫所
収)
で
ある。「
三
洞」
の
語
は
戦
乱を
避け
道
書を
分散し
て
所蔵し
た
山
(
洞天)
と
関係ある
と
臆測
する.
(
24)
「
唐玄宗
注
老
子道徳
経二
巻」
(
『
武
内義雄全
集第五
巻老子
篇隔
、
東
京、
昭
五
三)
二
三
二
頁.、
関
係人物の
列伝、
韋緡(
新…二
二
附車安石)、
劉
子
玄
(
旧一
〇、一・新一一二
二) 、小木
環(
旧田九亠ハ
・新【二
四)
。
(
25)
鄭処誨
明
皇
雑
録
(守山
閣叢書)
、
鄭檗
醐.兀
傳信
記(
百
川
学海)、
李
徳裕
明
皇十七
事(
稗乗)
等参照
。
へ
26) 『
小
林太市郎著
作集
第ヒ
巻、
仏教芸
術の
研究』
(
京都
、
一
九七
四)
「
唐
廷に
於ける
密教と
道
教
と
の
角逐」
(
四…一
頁)
。
(
27)
唐玄宗朝乃
至
唐代道
教
に
つ
い
て
は
早く
、
道
端良
秀「
唐朝に
於け
る
道
教
対策」
(
『
支那
仏教火
学』
四
巻.…号・
昭一
五)
が
ある。
(
28)
王
瑛の
伝は
旧一一.一〇。新一
〇九。
九宮貴神につ
い
て
は、
顧舶
剛・楊向
金合著「
三
皇考」
(『
燕京学報』
専号、一
九三
六)
二
五}
頁以
下。
(
29)
老子の
地上に
出現し
た
先
例と
し
て
南史十・陳
後主
禎明二
(
五
八
八)
年
の
条、 「
有神
自称老子
、
游於都
下。
与人対語
而不
見形
。
言古
凶多験」
(
下略)
とあり、
唐の
許
嵩 建
康実録二
十に
も
見え
る。
同十
九
に
永定三
(
五
五
九)
年、
羅浮山
に
仙人
出
現の
事が
ある。
(
30)
唐の
諸帝で
丹
薬を
服用
し
た
の
は
太・憲・武。
宣と
穆・敬宗で
ある。
し
か
し
太
宗の
服し
た
の
は
波
羅門僧の
薬で
あり道士
と
関係ない。
穆。敬二
宗
は
服薬tた
結果の
症状の
記
載が
な
い。
高宗も玄宗も
長生薬の
こ
と
を
知り
、
誘
惑さ
れ
る
危険は
あっ
た
が
終に
服用し
な
か
っ
た。
窪徳忠『
道教
史』
(
山
川出版社
世界宗教
史叢識九
、
昭
五
二)
二
三
煮
頁に
「
…
道士の
す
すめ
た
金
丹を服用
し
て
早死
し
た
皇
帝とし
て
は
太
宗、
高宗
、
〔
憲宗を脱し
て〕
穆宗
…」
とい
う
の
は
誤り
で
あ
る。
ま
た
こ
の
種の
金丹服用を
金丹道と
呼ん
で
い
る
の
は
妥
当で
ば
ない。
一
般教
養
的
概説
書の
こ
うし
た
無
準借川は蹴
退
憾}と
い
う
ほ
か
ない.、
(
31)
陳希烈(
旧
九
匕附張
説・新一.、
一三
上・姦臣)
李林甫
(
旧
〇六。
新二
、…三
上) 。
(
32)
巾天師の
こ
と
は
竜城録〔柳
宗元
に
托す) .
顔頁卿(
旧一一.
八・新→五
三) 。
東 海大 学 紀要文 学 部13
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